靴(シューズ)を選ぶことの難易度について書いておこうかとおもったのは、四半世紀も履き続けているドイツ製革靴のソールが剥がれてしまって、販売店へ修理を依頼に行ってきたからである。
しかし残念ながら全体の劣化が激しく、もう修理不能という結論であった。
そもそも、どうして四半世紀も前にドイツ製の靴を購入したかといえば、もっと前のまだ二十代の頃に、日本製の高級靴を痛くてもガマンして履いていたら靴が裂けたばかりか、外反母趾になってしまったからである。
以来、足に合う靴を探す試行錯誤がはじまって、行き着いたのが「ドイツ製」だったのである。
なお、ドイツの靴職人は、日本の社会主義を象徴する「保険点数表」による支配ではなく、基本的に「整形外科医」がやっているので、骨格の研究成果がそのまま「靴」になっている。
むかしのサラリーマンの制服はスーツだったから、靴もビジネス・シューズに決まっていた。
いまは、これがスニーカーになっても気にしない「変」がある。
「クールビズ」以来、こうした、ドレスコード違反が常態化して、外交儀礼(「プロトコール」という)をしらない総理が国際会議の場で恥をかくようになったのだから、政治家個人の問題だけではなく、ふだんの国民性が出ただけだとかんがえた方がよいだろう。
こうした、「フォーマルな場」がなくなったことが、「敬語」をむちゃくちゃにした。
EUになる前のギリシャで、かっこいいデザインばかりか本国とおなじ値段からイタリア製の靴を買ったことがあったが、こちらは「甲高幅広」のわたしの足には合わず、やっぱり裂けたのだが、革の質がよかったのか?薄いだけだったのか?外反母趾にはならずに済んだ。
しかし当時は、こうしたことが外反母趾の原因になることも意識してはいなかった。
どうして「甲高幅広」になったのか?といえば、わたしの育った家の構造が、典型的な日本家屋だったので、幼少時は「正座」の生活をしていたために、「座りタコ」が足の甲にできて、これが「甲高」になるし、足の裏がお尻の体重で押されて「幅広」になるのだとおもっている。
子供時分から股関節がかたいために、いまだにあぐらがうまくなく、正座の方が快適に感じることがあるけれど、さすがに膝がきつくなったのは加齢のためなのだろう。
それでも、むかしのひとは高齢になっても日本家屋に住むしかないから、ずっと正座の生活をふつうにしていたのだとおもうと「すごい」としかいえない。
時代劇が製作されなくなった理由に、正座の姿が自然できれいな若い俳優が絶えたこともあるのかもしれない。
この意味で、日本の俳優には、茶道と武道の心得は必須だとおもわれる。
それゆえにか、樹木希林晩年の話題作、『日日是好日』での茶道教授の演技は見事だった。
それにしても、日本人はずっと「靴」とは無縁だった。
鼻緒がある、「草履」がメインで、歩き方はいまとはちがう、というよりも真逆の「ナンバ」だった。
むしろ、「ナンバ歩き」だから、靴ではなくて草履が重宝されたのだろう。
だから、「靴下」ではなく「足袋」なのだ。
ことごとく、独特で、少なくとも西洋人の発想とはちがう。
だから、「靴選び」の難易度は、日本人「ならでは」なのである。
なぜかといえば、全面的に西洋に屈して選んでいるわけではなく、無意識にほんのちょっと、むかしはもっぱら草履だった日本人の「記憶」があるからだ。
これが、「いい靴」の定義を揺らしている。
第一に、歩き方が、ほんとうに西洋的なのか?がある。
いわゆる、かかとから着地して、つま先で蹴り上げるという「ウォーキング」でいう正しい歩き方をしているのか?があって、指導の専門家がいるほどにじっさいは「できていない」という事実がある。
おそらく、「草履」に適した歩き方になっているのである。
これは、ビーチサンダル=ゴム草履を愛用していた子供時分の歩き方ではないかと勝手に想像している。
子供の柔らかい足と薄い皮膚でも、鼻緒が痛くなかったのは、ウォーキングでいう正しい歩き方ではないことの証拠だ。
つまり、無意識に「ナンバ歩き風」にでもしないと、蹴り出しのときに鼻緒に体重がかかって痛くなるのがふつうだからである。
だから、外国人がビーチサンダルを履いているのをみると、ちょっと笑えるのは、彼らも「ナンバ歩き」をしないと、鼻緒がくい込んで皮がむけるとおもうからである。
第二に、「中敷き」の機能が、圧倒的に軽視されていることである。
靴は見た目ではわからないから、試しに履いて選ぶものだ。
なので、愛用している靴をリピするならわかるが、はじめての靴を通販で購入するのはいただけない。
しかも、足裏に密着する「中敷き」こそが、履き心地を決定づけるアイテムなのである。
長時間や悪路を走破するばあいに、疲労感まで決定づけるのである。
よって、中敷きを交換できる靴ならば、交換するだけで履き心地が一変する。
そこで、中敷きの履き心地も確認できる販売方法=試し履きができるものでないと、選べない、が正解なのである。
パッケージに入って、ぶら下がって販売されているものには手がでない。
見えにくい、という意味では、靴の内側の材質もなにか?が問われる。
長持ちするのは、内側も「革製」であることが条件だ。
布製ではせいぜい数年の寿命となる。
もちろん、ソール交換などができることが前提であることは当然だ。
そんなわけで、四半世紀も愛用していた靴は、何度か修理に出しながら、おおむね以上の条件を満たしているから、おなじメーカーの靴をやっぱり新規で購入した。
これでおそらくあと20年以上は大丈夫そうだから、またしても人生最後の買い物のひとつになったのである。
今回壊れた初代靴は、たしか当時48000円で購入したと店員さんにいったら、「正解です」といわれた。
いまの値段は、56000円なので、インフレ率を考慮したらむしろ安くなっていないか?
これが、年末だからか「ブラックフライデー」に引っぱられたかなんのか?期間限定10%引きのセール中であったので、すごいタイミングで壊れたものだ。
聞けば、ドイツメーカーも安い人件費を求めてしまって、ドイツ人の職人が減り、こうした頑固な品質がいつまで保持できるかわからないという。
これからの老化による筋力低下が予想される自分にとって、はたしてよい靴とはなにか?といえば、適度な「重さ」という指摘もいただいた。
まさに、『柔道一直線』でいう、「鉄下駄」と同様に、ふだんから「脚部の筋力を保つ」ことをしないと、衰退するばかりとなるので、高齢者ほど軽い靴は推奨されないとのことだった。
もちろん、「鉄下駄」も、ナンバ歩きでないと鼻緒がくい込んで歩けやしない。
そういえば、ドイツやらの老婆が妙にかわいい靴を履いているのは、若い頃の物品を大切にしているだけでなく、脚力を衰えさせないためかと感心したのである。
軽い靴だから転びにくい、ではなくて、筋力がないから転ぶのである。
いま伝統的なものが入手困難になるのは、なにも日本だけでなく、グローバル化のもとでは、「靴」も、なのだと知った。