12歳で妻を迎えた時代

寿命が40歳ほどであったのが1000年単位の長さで続いたほとんどの民族は、本人だけでなく集団としての「生存」のために、結婚が早かったことはしられている。

日本でも、男子の「元服」は、12〜13歳だった。

今なら小学校6年生か中学1年生ぐらいで、「成人」したのである。
女子なら、『赤とんぼ』の歌詞(作詞は1921年:大正10年、曲は1927年:昭和2年)にあるように、「姐やは15で嫁に」行くのはふつうだった。

この「姐や」とは、子守りの奉公人のことで、『おしん』(1901年:明治34年生まれの設定)もやっていたことになっている。

姐やに背負われている自分が見た「赤とんぼ」の記憶だと作詞者である三木露風(1889年:明治22年生まれ)が書いているが、これを、自分(露風)が15歳のときに姐やが嫁いだという説があるものの、作曲者の山田耕作がそれを否定していて、やっぱり素直に、姐やが15で嫁いだのである。

もし、自分が15歳のときなら、姐やは当時からしたら20歳をはるかに超えた相当な「年増」になっている。

なお、背負られた自分がずっと見ていた「うなじ」について、信じがたい記憶力で書いたのが中勘助の『銀の匙』である。
この作品の場合は、「姐や」ではなく、「伯母さん」ではあるが。

寿命が今の半分ほどだったので、今の年齢感と対比してもせんないことなのだ。

さて、1800年代たる19世紀の中央アジアでの生活を描いた『乙嫁(おとよめ)語り』の、最初の設定は、20歳になった「乙嫁」が12歳の少年に嫁ぐ場面からはじまる。

ちなみに、「乙」とは、幼い、美しい、を示す接頭語であるから、七夕の「乙姫」とは、美しい姫とか、妹の姫、若い姫、を意味するし、男子にも「乙彦」なる名前がある。

それで、作中、周辺あるいは縁戚のおとなたちが、「嫁は若ければ若い方がいい」というのも、幼児死亡率が高かった時代における「多産」を期待してのことであったし、若くともちょっとした風邪などから重篤化して「もしや」もふつうだったのである。

まさに、風邪は万病のもと、であった。

アメリカではRFK.Jr厚生長官の下、あのワクチンはすでに「接種禁止」の措置がとられ、その成分の分析から「毒」として正式に扱われだしていることを、今国会で参政党の議員が政府に質問したが、けんもほろろの対応の不誠実極まりないことを、「議事録」として後世に残すことに成功して抗議の足跡となっている。

本作では、主人公の婿が発熱したときの乙嫁の慌てふためく姿が表現されている。
これは、健気さの表現というよりも、もっと深刻な当時のリアルなのであろう。
なぜなら、もしも未亡人ともなれば一体どうなるのか?自分の運命を自分でコントロールすることができない程に部族間の力学で翻弄される恐怖があったからだと推測できるのである。

つまり、自己防衛本能的行動でもあるし、夫婦が文字どおりの社会的運命共同体であったことを示している。
本人同士が「好き」とか「嫌い」の問題をいったん横に置いていられたのは、生活社会がそうしないと生きていけないことを経験していたからだろう。

この意味で、現代の「お気軽」は、19世紀の常識と比較することもできない異次元であろう。
はたして現代は、「人権擁護の勝利の時代」といって手放しに喜べるのか?議論があっていいことでもある。

むしろ、窮屈そうにみえる19世紀中央アジア人たちよりも、ずっと現代社会は個人に冷たく、ドライである。
それで、かえって息抜きができないストレス社会になっていて、拠り所を失った若者世代が記録的自死を選択している「精神病理社会」になっているのではないか?

巧妙な作者は、遊牧民部族から定住者部族への「嫁入り」という設定をしていて、おなじ境遇の「義理の祖母」の存在を光らせている。

わが国における19世紀とは、江戸幕府の安定期から幕末・明治維新を経て日清戦争が終結した、じつは「激動」の世紀をさす。
そうかんがえると、続く20世紀だけが「激動」なのではない。

ずっと「激動」が続いていまに至っているのである。

それで本作の舞台、中央アジアの19世紀とは、帝政ロシアによる侵略の歴史と重なる。
これには、ロシア国内の事情と外国勢力(やっぱり邪悪な英国のアフガニスタン進出)への対応という二面がある。

1881年に中央アジア全域はロシアの支配下になって、それからソ連となり、1991年までの110年間に及ぶ非支配地としての憂き目にあうのである。
そして、英国の貪欲(中東をわざと不安定化させた)の恐ろしさは、「おそろしや」といってロシアを偏見するのとは比べるべくもない、習性としての野蛮がある。

こうしてかんがえると、わが国の立地の幸運がいかに貴重だったかとわかるというものだ。

だが、上で触れたように子供が年間に500人以上も自死を選択し、40代までの若い世代の死因が、かつての平均寿命を縮めた「夭折の病死」ではなく自殺であることの不幸は、30年以上前、1994年の『人間を幸福にしない日本というシステム』の指摘のとおりで、まったく「改善」どころか悪化していることがわかるのである。

それもこれも、高度な大衆社会の、大衆は反省しない、法則における、ポピュリズムの極致である自民党に政治を丸投げした国民の愚による結果なのである。

それにしても、ほぼ政府というものがなかった19世紀中央アジアの「自立」した生活は、今からしたら「過酷」といえるのか?とおもうほど、人間的な生活なのである。

それは、わが国のずっと以前から政府がある歴史ではあり得ないほど、自由と対極の責任と失敗のリスクが同時にあったものなので、かんがえることができないと生きていけないことも意味する。

ここでいう「かんがえることができる」とは、「受験で合格を目指す」ような小さなことではなく、はるかにダイナミックな判断を要したことをいう。

つまり、かんがえたくない現代生活から「過酷」にみえるのは、現代生活の「お気軽」が逆に政府による管理社会の完成となって、ついには自由を失うという最大のリスクをかかえることとなることもかんがえない、19世紀中央アジア人からしたら「破滅」を求める愚挙としかみえないであろう。

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