横浜開港記念日の2日、横浜市議会の常任委員会で市が報告という記事があったので、これをデジタル・タトゥーとして保存しておきたい。
内容は、
運営主体の国際園芸博覧会協会が「輸送実施計画」の初版をまとめた。
1日の来場者を最大10万5千人と想定し、会場周辺の4駅から最大計820便のシャトルバスを走らせるとした、とある。
じつは、会場(旧「米軍上瀨谷通信隊」跡地)から最寄りの駅は、相鉄線の瀨谷駅で、当初はここから新交通システムを敷設して運送するという計画であった。
これは、万博後の用地を、相鉄と三菱地所とがテーマパークにするという構想にもつながるものだったが、ここから相鉄が撤退したことがおおきいのだろう。
また、広大な敷地内に駐車場計画がない、ことから、県立高校が廃校となって駐車場にあてられることになっており、付近の農地を駐車場にすべく地主との交渉をしているが協力が得られていないという噂も耳にしていることは前に書いた。
つまり、「シャトルバス」しか交通手段がない、というのは結果論ではなくて、当初からの「計画」なのである。
大阪万博について、あえてここでは話題にしないが、どうして「横浜」といっても、この辺境が万博会場に選ばれたのか?ということがやくわからない。
ずっと、返還運動があったのに、本当に返還(日米合意は2004年で、返還は2015年)されたら利用方法が決まらないという事態になったのである。
わたしは、市と地主との間における「地代」の調製がつかなかったのではないかと疑っているが、詳しいことはわからない。
そもそもこの土地は、日本海軍が倉庫施設として用いており、「海軍道路」という軍専用の道路が瀨谷駅から約3Kmの直線上にあった。
終戦直後に米軍に接収されるモ、47年に接収解除となり、その後、1951年に再接収されて、「海軍道路」も一時は米軍専用道路だったのである。
なお、瀨谷駅からは「引き込み線」も敷設されていた。
個人的には、わたしの父が海軍のレーダー兵であったことに関係して、戦後、この上瀨谷通信隊に勤務していて、幼稚園生の頃、7月4日の独立記念日には基地内での豪華なイベントに2年続けて行ったのを覚えている。
みたこともないステーキやソーセージをバーベキューで楽しんで、たっぷり炭酸飲料だか珍しかったジュースを好きなだけ口にできた。
広場ではアメリカ人の子供と一緒に遊んだが、翌年は、それが誰だったかもう互いに記憶がなかったし、どうやってコミュニケーションをとったのかも覚えていない。
戦後の日本人は、徹底的に軍事から目を逸らされて、「忌諱すること」だけを擦り込まれた。
それで、「国防」というと、すぐに「軍事衝突」をイメージする単純脳にさせられた。
「情報戦」とかという、平時おける危険な活動について、驚くほどの無頓着になったのである。
上瀨谷通信隊が世界規模でどんな存在であったのか?を詳しく説明するものもいないなかで、歴史の消し込み作業が行われることの意味は、あんがいと罪深いのではないか?
ウィキペディアによれば、本通信隊は「アメリカ国家安全保障局」の隷下にあったというから、「軍」よりも上位だといえる。
そんななかで、一日あたり10万人程度という万博の入場者予測は、ショボい、のひとことなのである。
かつて横浜中華街は、平日10万人、週末なら一日あたり40万人という人出であった。
この時期の平日は、それでも閑散としてみえたものだった。
会場面積でかんがえたら、ひとがいないようにみえるだろう。
なんにせよ、シャトルバスに乗り込んでまでして行く価値があるのか?
もう35年も前になる、1990年の「大阪花博」は、総来場者数は2312万6934名であったことも念のため書いておく。