MET36年ぶりの新演出『アイーダ』

2月28日から1週間の公開予定である、メトロポリタンオペラのライブビューイング『アイーダ』を観てきた。タイトルにあるとおり、なんと36年ぶりの新演出=新作、なのだ。

スエズ運河の開通を記念して作られた、という俗説があるものの、とにかく巨匠ベルディのオペラの中でも、筆頭格にあたる豪華絢爛なのは、古代エジプト王朝絵巻の要素がふんだんに取り込まれていて、祝祭的バレエ部分の長さも特徴になっているからだ。

それが、METでの公演なのだから、アメリカ的な物量のこれでもかがこれ以上ない派手派手になるのは当然だ。

初演は、1871年。

原案は、フランスの考古学者で、『インディ・ジョーンズ』の仇役イメージにもなった、オギュスト・マリエットで、実際に「カイロ考古学博物館」の所蔵品のおおくは、このひとが発見した収集物なのである。

遺跡でみつけた男女の遺骨から、マリエットは本作の構想を思いついたという。

なんだか、「王の体をしる女医がいた」という一文の記録だけに着想を得た『チャングムの誓い』のような気もするが、それをオペラにするという発想はさすがなのである。

前作は、キャストちがいで2回観た。

それからの乾燥を率直に言えば、前作の「改善版」であったらいいのに、と感じた。
今回の演出は、マリエットの業績をリスペクトしているのはいいのだが、絢爛豪華さを強調するためのバレエと凱旋の模様が前作より劣るからである。

探検家たちという「現世」と、物語の登場人物たちの「当時」とが、同じ空間で霊的に描かれているのはいいアイデアである。
しかし、上に書いたように、有名な「凱旋行進曲」の最中、敵から掠奪した宝物を王や大衆に披露する前に、現世の探検家たちが遺跡より持ち出す演出は、なかなかに皮肉が効いている。

いま、「METライブビューイング」として、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された作品を撮影した映画は、全世界の映画館に配給され上映しているものだ。
日本では、撮影日より日本語字幕などの用意のために約1ヶ月遅れて上映される。

初期の、2018-2019シーズンにおいては、世界の70ヵ国、2200館以上と謳っていたが、いまでは倍ほどの国々への配信となっている。

エジプトの映画館で鑑賞できるのか?についての記事がみつからないが、おそらく可能でなのではないか?

1981年公開の『007/ユア・アイズ・オンリー』を、わたしは83年か84年にカイロの映画館で観たのを覚えている。
当時、1等席で200円ほどだったが、映画館から戻ったら必ず衣服を日光消毒することがふつうだった。

この手の娯楽映画などを外国で観ると、その国民性がよくわかるものである。

本編がはじまって早々、007と逢瀬をしているシーンでは、とつぜん「画面のピント」がズレて、よくわからない状態になった途端、劇場内は一斉に「Focus!」の大合唱になったのである。

『ALWAYS 三丁目の夕日』では、『嵐を呼ぶ男』を当時の若者たちが熱狂しながら鑑賞するシーンがある。
これと同じ光景が、カイロの劇場にあったのである。

しかし、どういうわけかいまの日本における劇場内の反応は冷たく、とにかくひたすら黙って観ているのである。

なんにせよ、演出家はエジプトやらの観衆も意識しているはずで、カイロ博物館の収蔵になったマリエットは横にしても、遺跡から持ち出した「お宝」を本国に持ち帰り、一切返還請求にこたえていない。

もちろん、その典型は、「大英博物館」と呼ばれている、「国家的掠奪物保存館」の収蔵品であるし、それは、全ヨーロッパに共通のことなのである。

「ホワイトハウスでの大げんか」の後、即座にゼレンスキー氏とNATO首脳がロンドンに集合できたのは、そうした日程があらかじめ組まれていたからだし、ゼレンスキー氏一行がトランプ大統領と合う前に、民主党上院議員団と会合して、「合意しない」ことに「合意」していたことも判明したから、あのケンカもウクライナ側の演出なのである。

しかし、傲慢さによってにじみ出た愚かな結論で、アメリカは態度を硬化させて、とうとうウクライナへの武器供与を停止する決定となって、いよいよNATO=EU解体のはじまりの幕が開いた。

アフリカ大陸の地図をみれば、エジプトの西と南は直線で分けられているけれども、アフリカ大陸の多くの国境も直線で引かれている。

1884年からはじまる、「アフリカ分割会議」(ビスマルクが音頭をとってベルリンで開催)の結果が、いまの地図に残っている。

『アイーダ』の登場人物たちが知る由もない、掠奪が、モノでなくて地図にあるのだということを想起させる演出は、かなり政治的だ。

そうはいっても、かつてのスーパースター、プラシド・ドミンゴがやったテノールの主役を、サラリーマン経験者が抜擢されるオーディション(実力)主義は健在で、つねに新陳代謝を行う劇場としてのマネジメントの凄みが、芸術も学歴主義にする日本にはないダイナミックさの源泉なのだと納得したのである。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.