まえに「SONY高級イヤホンの残念」というタイトルで書いたが、電池の劣化で使い物にならなくなった。
ネットをみると、同機種の電池に初期不良があって、無償で新品に交換してくれた、という記事をみつけた。
症状から、わたしのものとソックリなのである。
ただし、投稿している時期がいまではなくて、やや古いことが気になった。
一抹の不安をかかえながら購入した量販店の修理コーナーを訪ねたら、案の定、「あくまでも修理対応」であると宣言された。
なぜなら、すでに同機種は「終売」=「製造中止」になっていて、後継機種はさらに高価になるというのである。
なんだか、SONYに『やりにげ』された気分なのである。
念のため、ネットでも記載があった修理費を聞いてみたら、案の定「25000円」と答が一致した。
左・右で充電池2個の交換にかかる費用としては、驚きのぼったくりにおもえる。
弱みにつけ込んで、高価なアクセサリーを売るやり方は、往年の「SONY」そのものではないか?
このビジネス・モデルを真似たメーカーのなんとたくさんあったことかと、妙に不快な思い出が湧き上がってきた。
もうSONY製品を買うのはやめにしようと、こころに火がつきながら、それでどうするのか?という代替製品を買わねばならぬ状況に追い詰められた自分がいた。
かくも消費者とは弱い存在なのである。
それで、売り場のフロアーに久し振りに行ってみたら、例によって製品の進化が著しいことを確認した。
修理費と似た金額に、「BOSE」の廉価版があった。
通っている図書館などの静粛な空間では、逆位相のノイズキャンセリングのさらに逆である、「音漏れしない」オープン型の製品をつかっている。
自分ではわからないが、隣席の家内に耳を澄ましてもらったら、ぜんぜん音漏れしていないことを確認した。
しかし、これが電車などの環境になると、通常のノイズキャンセリング機能がほしくなる。
売り場の騒擾の中、視聴させてもらって驚いたのが、ほとんど外部音が聞こえないことであった。
電池交換が必要になったくだんのイヤホンも、発売当時は「最強」を謳っていたのに、あきらかに別物なのである。
販売員は、「日本製とは明らかに別物ですね」という。
それで、SONY以外のお薦め日本製も視聴したが、やはりキャンセル度が「甘い」のである。
だが、これはこれで、日本人的な「安全」を機能に加えたからではないか?
相反するけれど、歩きながら完全に外部音をキャンセルしたら、それは危険だろう。
こうした「配慮」が、結果的に中途半端になるのだけれども、外国製は容赦しない。
あくまでも「自己責任」だという主張が明確なのである。
わが国では、昨年11月から道交法が改正されて、自転車にも厳しいことになっているし、来年には、イヤホン装着についても「規制強化の意味での見直し」が予定されている。
まぁ、歩行者への適用はないが。
つまるところ、法規制、がないと日本人は危険を認識しないのかもしれない。
これは、どんなにクルマが見当たらない交差点でも、歩行者用信号を遵守して横断歩道を渡るモノがいないのを「美徳」とする訓練を受けていることの裏返しで、「自己判断力喪失」と観れば、奴隷化された民族、ともいえなくもない。
それゆえに、奴隷への仕込み訓練がまだ途上にあった、80年代に漫才コンビ「ツービート」が「毒のあるギャグ」として流行らせて、『三省堂国語辞典第8版』(2021年)には「ことわざ」として収録されるに至った。
「赤信号みんなでわたればこわくない」が、集団心理の肝をいいあてたとはいえ、笑いがとれた状態から、ことわざに変化したことで、その奴隷度の深化がわかるのである。
歩行中にでも音楽を聴ける、という「ながら」を、文化にまでしたのが、SONYの「ウォークマン+ヘッドホン」の普及だった。
しかし、ここでいう「文化」とは、あくまでも「大衆文化」なのである。
そこで、「大衆」とはなにものなのか?ということになって、基本的に産業革命で誕生した「労働者層」だといえる。
日本では、明治からの近代工業化によって生まれた「階層」である。
しかして、ここには、「雇われ経営者」も含まれるのである。
つまり、労働者から社内昇格した「管理職」や「経営者」も、あろうことか「大衆」なのだ。
その悲喜劇を最初にギャグ化したのが、GHQによる公職追放で社内昇格した「大衆」のエリートとしての社長が繰り出すエピソード集としての、源氏鶏太『三等重役』だった。
その映画化にあたっては、森繁久彌の「初シリーズ作品」となる人気だった。
大衆は大衆からの離脱を「裏切り」と観る。
これをガルブレイスは、『新しい産業国家』(1968年)で、日本企業研究の成果として「発見」したのが、「テクノストラクチャー」と名付けた、社内官僚たちを指す。
では、大衆ではないひとたちはなにものか?といえば、企業オーナー(所有者)である。
日本的には、「商家の旦那衆」だ。
彼らは、「使用人」を社長にしてもかまわない存在であった。
むかしの、財閥家がこれだ。
圧倒的に多数の「大衆」は、「大衆文化」を形成するが、圧倒的に少数の特権階級は、その大衆文化から利益を吸い取っている。
ヤクザに薬中がいないこととおなじなのである。
とはいえ、わたしも大衆のひとりだ。
だが、強力なノイズキャンセリング機能を用いようが、外部音を聞こえる設定にしようが、歩きながら音楽を聴くことはしない。
たまにしか使わないために、かえって充電池の劣化が激しかったとすれば、それは、メーカーの「想定外」なのかもしれないし、自己責任なのであろう。
そうやって、逸失原価=埋没費用(サンクコスト)としてあきらめることとした。