数あるプログラミング言語のなかで、いま一番人気なのが「Python(パイソン)」だという。
なになに、これこれしかじかをやりたいから、このプログラミング言語でしょ、という当然の選択をせずに、なんだかわからないが入門ビデオをPC操作をしながら観てみた。
わたしが最初に教科書をみながら操作を覚えたのは「Lotus123」だった。
この当時、まだ「Excel」は世にでていなかったし、OSもまだ「MS-DOS」の時代で、「Windows」もなく、Macintosh用にとExcelが開発されたのが、仕事でMACを使う最大の理由だったのである。
しかし、会社のパソコンはNEC製だった。
なので、本が動画にかわったものの、当時に感慨を馳せながらいじっていた。
ずいぶんまえに、「VSCode(Visual Studio Code)」をつかったのは、プログラミングのコードを書きたいのではなくて、出稿原稿の日本語エディタとして使えないか?というお試しだった。
書けないことはないが、やっぱり腑に落ちないのは、目的合理性が希薄だからにちがいない。
それから、『La Tex』と『R』もイジってみたことも書いた。
いまでは「Excel」の「数式」に、このPythonは組み込まれているので、二世代は前になったわたしのExcelの知識では、なんで?という感覚があるけれど、Excelをもっと楽に使いたい向きには必須だというから世の中の進化ははげしい。
ころが、一方で、手書きで「表計算専用紙」に、消えないように顔料インクの鉄ペンでキレイに手書きしていた時代の経済成長力はいまどきの数倍はあったのだから、表計算ソフトが世に広まって、PythonがExcelに組み込まれるトレンドと、わが国の経済成長自体は完全に「逆相関」になっている不思議がある。
ようは、Pythonをビジネスシーンで使うのは、業務の自動化にメリットがあるということからではあろうけど、作られた資料を正しくみて判断する人間の能力が劣化しているのではないか?というもっとヤバイはなしにつながるのである。
そして、その分析・判断のシーンに近づくほど、こんどはA.I.が登場するというのだから、いったいいつ生身の人間の脳がつかわれるのか?という皮肉な批判になっている。
もっとも、これらの「自動化の便利さ」には、基礎データがある、という大前提が鎮座している。
世の中のどこかに「ある」ではなくて、社内だろうが社外(=社会)だろうが、ネット上のどこかに「ある」ということが、なんにせよの条件なのだ。
むかしは、世の中のどこかに「ある」にせよ、それがほとんど拾えないがゆえに、「ない」を前提として、じっさいに「ある」ものだけで資料としていた。
だから、みて判断する者たちは、この不完全さを承知でかんがえていたのである。
いい悪いはいったん棄てて、「昭和研究会」の戦争遂行研究の精度は高かったのを思い出す。
70年代から徐々に、オフィスオートメーションという時代がきて、だんだんと手書きからきれいに印刷した紙をつかうようになったのだが、肝心の基礎データを整備するには相当の投資と人手を要したのである。
なにせ、初期の頃の汎用コンピュータにデータ入力する、キーパンチャー、という職業が、先端のOLたちの業務だった。
つまり、こうした社内整備とかに、将来読み手となる人材が消費されて、それなりに信頼できるデータが揃った頃には、読む訓練をたっぷり施された肝心の人材がいなくなっていたというお粗末な顛末がある。
さて、なんでもデジタル化の功罪の「罪」には、だれがやってもおなじ、という問題が横たわっている。
ところが、その前段階にあたる「プログラミング」での、才能発揮は、かなりの個性がでてくるはずなのである。
よって、アウトプットとしての信頼度が増す、という意味には、微妙な人間の能力問題が内包していながら、見た目ではみなおなじ、ということになって、自社の独自判断という最終目的に対しての業界ならおなじ「横並びの正解」になる可能性が高まるという矛盾も内包しているのである。
これに、株主構成というアナログが影響すれば、なんだかなぁ、という結論が、あたかももっとも効果を発揮することになるために、いまの日本企業の株主実態である外資の割合の高さだけで、おのずと衰退は免れないことがわかるのである。
これをこのブログでは、90年代のアメリカのグランドストラテジーの書換による日・独からの「刈り取り」だと原因づけている。
コンピュータの利用はたしかに便利なものなのだが、その使い方の困難度は、株主構成もはっきりしていた手書き時代よりはるかに高いのであるとあらためて認識したのである。