公正であるべき医大の入試に不正があったと騒ぎになっている.
しかし,そんなに大きな「事件」なのだろうか?
医大というところは,法科大学院と同様で,卒業時に「国家試験」がある.
つまり,医大卒業という学歴「だけ」では,社会的にも意味がない.
国家試験に合格しなければ医師になれないからだ.
これが,医大を他の一般大学と区別する重要な要素になっている.
さらに,問題が指摘されて「調査」対象としているのは「私立」ばかりである.
「私立」とはすなわち「私塾」であって,それが経営上,卒業生の関係者を優先して入学させるのはある意味当然ではないか?
むしろ,国公立に不正がないかを調べるべきで,調査対象の選択からしておかしくないかとおもう.
つまり,文部科学省という役所の,権力維持のためが第一優先事項としておこなわれているのではないか?
これに正義をふりかざして,一方的に「不正」だとまくしたてるのは,「私塾」を無視した事大主義である.
現役と一浪には加点があって,それ以外にはなかったことに,大学当局は問題意識がうすかったという.
その理由は,これまでの経験から,入学後の「伸びがちがう」ということがあって,教師の認識として合意があったのだろう.
ここで関係者がいいたい「伸び」とは,一般大学でいう成績ではなく,国家試験合格の水準に近づく,という意味でなければ辻褄があわないのだが,報道側はちゃんとここが理解できているのか不明だ.
あくまでも,国家試験合格の実績が大学側の「格付け」になるはずだ.
経験値から,「伸びがちがう」のであれば,問題意識がないこともうなづける.
すると,どこかで聞いたはなしをおもいだす.
自動車メーカーの「検査不正」のことだ.
たしかに,「不正」をそのまま擁護するつもりはないが,国内出荷分が完成検査対象で,輸出対象は完成検査を要しない,という二重のルールの存在が気になるのだ.
そして,糾弾されたメーカーは,30数年間も(ほとんど「不正」と気がつかず)「不正」をしていたのだから,ふつうにかんがえると,なんのことかわからない.
くわえて,こうした「不正」による事故も報告されていないとすると,国内には手厚く安全が保護されているが,外国分には手薄でよいという意味にもとれるから,一種の人種差別ではないか?
さらに,安全が手薄な輸出対象の国からこの件でのクレームがない.
大騒ぎして,メーカーを叱りつけているのは,その30数年間も「不正」に気づかなかった,国交省(旧運輸省)であるけれど,国民目線からすれば,第一に国交省の仕事がずさんであることが糾弾されねばならず,第二に,そんな「検査」がほんとうに必要なのか?ということだ.
外国政府がもとめない検査はやっぱり不要なのに,国内でその不要な手間が強制されつづければ,当然それはコストになって,結局は消費者が負担させられる.
私大医学部の入試「不正」と,自動車の完成検査「不正」の構図が,たいへんよく似ている.
私大を叱りつけようとする文科省の高級官僚が,自分の子息を無理クリ入学させたことから,国民目線をそらせようと躍起になっていることも,そっくりなのだ.
むしろ,これらの「不正」問題でわたしが興味あるのは,中身なのだ.
医大の「伸びがちがう」ということの中身である.
自動車会社なら,工程上の作り込みについての,前工程から後工程に引き渡すときの「検査」の中身である.
まえに書いた「TWI研修」の思想である,「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」に注目すれば,日本における医大の教師陣がこの思想をどうとらえているかを知りたい.
また,問題発覚すらなかった「TWI研修」の世界的権化である,トヨタ自動車と,問題が発覚した自動車会社のちがいを知りたい.
「TWI研修」は,アメリカ軍が日本の産業界に教えてくれたものだったが,そのアメリカに日本から逆輸入され,現在はとくに,医療分野での応用がめざましいという.
これを,日本の医療関係者がどのくらい知っているのか?ということなのだ.
実力がない者が,「不正」で入学したとしても,授業についていけなければ卒業できない.
だから,外国の「私立大学」は,人間関係と寄付金の多寡で入学が許可されるのは,むしろ「ふつう」のことではないか?
それで,本人がちゃんとがんばって勉強して単位をとれば,正々堂々と卒業できる.
くわえて,もしその学校に「TWI研修の精神」があれば,どうやったらわかるのか?を教師陣も研究するから,より,本人は卒業に近づける可能性がたかまる.
ましてや,国家試験を合格しなければならない医大なら,入学のことでいまやっている議論と,大学側の謝罪がほんとうに必要なのか,おおいに疑問なのである.
若者の減少もふくめた平時における強烈な人口減少という,人類史上経験のない事態にすでに突入しているわが国にあって,重要なのは病的に潔癖な「公正さ」をもとめることよりも,成果をだす仕組みを追求することだろう.