「依存」は教育される

教育史という分野がある.
さいきん,「日本国民をつくった教育」(沖田行司,ミネルヴァ書房,2017)という本をみつけた.
げにおそろしきは「教育」である.
子どもを人につくりあげるのだがら,時がたてば時代を築くことになる.

二部構成の本書は,第一部が江戸期を中心としていて,第二部の明治から現代への壮大なる伏線を描いている.
とかく,封建時代で厳しい身分制であったのだからと意識せずにいるが,たんに識字率が当時の世界最高だっことよりも,重大な思想的背景がある.

幕末から明治,明治と第一次大戦後の大正,そして,昭和の戦争と戦後といった時代区分ごとに,教育も変容していく.バブルの絶頂と崩壊からはじまる,平成時代も「ゆとり教育」という歴史がある.

しかして,明治の教育令による学校の誕生と,GHQの指令による今日の学校の姿には,とてつもない継続性と断絶が入り交じっている.しかし,そこにうっすらと江戸の思想がよこたわっているのだ.

本書は当然に子どもを対象にした教育の歴史なのだが,その当時の「社会」との関連がくわしい.それもあたりまえではあるが,社会の要請としての教育だからである.

この本にたどりついたのは,昨今の「まじめなはずの日本人」が連続しておかしているさまざまな不祥事の原因追及をしようとしたのが理由だ.
たとえば,自動車会社による検査不正.
社長が交代してもなお続けていた,ということの「重大さ」の原因である.

わたしは,思想,だという仮説をもっている.
ひとはかんがえる葦であるから,思想から行動がうまれる.
生まれてから経験がない子どもは,思想ではなく行動が先になるが,その結果の善し悪しを体験したり,周辺からの教育によって,徐々に思想が形成されるようになっている.

だから,社会人といわれるおとなは,思想からの行動ができるひとを指す.
年齢はじゅうぶん達しているが,行動がさきになるひとを,ふつう一人前のおとなとはみなさい.それで,たまに年齢に達していないのに思想から立派な行動するひとが出現すると,「天才」というのである.

江戸期には,そんな天才が出てくるからふしぎだった.
幕末でいえば,たとえば,年齢とは逆に亡くなった順で,橋本左内や横井小楠だ.
横井小楠は熊本藩士だったが追われて越前福井の松平春嶽にその才を買われた.
橋本左内は,その福井藩の天才的大秀才だから,この二人は松平春嶽という共通の上司がいた.それで,幕政改革のスタッフにまでなる.

共通点といえば,たいへん興味深い点で,当時の授業風景がある.
伊藤仁斎の古義堂,中江藤樹の藤樹書院,緒方洪庵の適塾,吉田松陰の松下村塾も,個々の机はあるが,黒板に向かっての一斉授業をしてはいない.
むしろ,学生が自主的に学ぶ「ゼミ」形式であって,教師はテーマをあたえてそれを学生自ら議論させる方法をとった.つまり,考えさせて学ぶ,というやりかただ.

他人から教わったことだけでは,けっして本人の血肉にはならない,という教育方針が一貫しており,それがそれぞれの年代がことなる「塾」で,共通のあたりまえだった.
これは,いま,企業の内部研修でもさかんな,ロジカル・シンキングそのものである.

しかし,彼らがもとめた学問の意味がいまとちがう.
それは,人としての正しい生き方の追求だったのだ.
職業に直接役に立つ,専門知識とは別の分野こそが「学問」だった.

明治の教育は,これを富国強兵実現のためという「国家目的」に改造した.
これが,形を変え品を変えて,いまにいたっている.
その本質が「立身出世」のための教育なのだ.

いかに生きるか?から,いかに上手に生きるかになったとき,だれもが国家が用意した教育制度=学制の支配下にはいる.
そして,その制度を支えたのが,学校だった.
だから,どの学校をでたか?によって,人間が評価されることになった.
なにを誰から学んだか?は,意味を失ってしまった.

こうして,人間がつくった「体制」という「制度」に依存することが教育になったのだ.

明治の爆発的経済拡大も,江戸時代の教育があってこそ,という皮肉のうえになりたっている.
企業内研修のありかたも,今後は,江戸を参考にするようになるだろう.

買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.

名前で呼ばれるとうれしい

接客を業としていればすぐに気がつくが,名前でお客様を呼ぶとよろこばれる.
個人情報保護が過剰になって,卒業後のクラス会もできないという個の分断を促進するのはいただけないが,パーソナル・サービスとして十分に機能しているのも事実である.

だから,事業者はお客様の名前という情報を得るのに苦労している.
誰だかわからない人を,名前でお呼びすることはできないから当然だ.
それで,各種アンケートをしてみたり,顧客カードを発行したりと,手段の開発と採用にいそがしい.

客側は,財布がふくらむ顧客カードをこれ以上増やしたくない.
それでいて,各種利用ポイントはほしいから,携帯端末に集中させているひともいる.
支払方法を世界水準のキャッシュレス化にしたい政府は,たんに「世界水準の普及率」にこだわっているだけだから,ぜんぜん普及しないことにイラついている.

昭和の時代に経営危機になった東芝は,当時世界最高水準の「真空管技術」をもっていた.しかし,その当時に,トランジスタの量産がはじまって,真空管技術にこだわった会社が倒産の危機を迎えたのだ.
気がつけば,わが国は世界最高水準の紙幣印刷技術をもっている.
しかも,製紙工程で紙に漉き込ませる極小チップをいれれば,電子的な方法で真札であることが証明できる.それなのに,電子決済とは,トホホである.

わが国とならぶ現金流通がぜったいの国は,世界を見渡していまやロシアだけだ.
わが国の印刷技術で,ルーブルを印刷してあげるというのも経済協力になる.
国立印刷局の仕事もふえていいだろう.
「メイドインジャパン」の紙幣を輸出するというビジネスだ.

銀行口座の制度と与信制度が便利さをつくる欧米での電子決済の普及と,不動産担保での与信しかできないわが国では,普及率の比較自体がナンセンスだ.
どうしても,外国人観光客からバカにされたくないから,電子決済をやりたいなら,与信システムを変えなければならないだろう.

ついでにいえば,外国人労働者の本国への仕送り送金をどうするつもりなのか?
まさか,銀行からの送金を義務化したら,バカ高い手数料で暴動になるかもしれない.
彼らの送金需要から,ビットコインの普及が促進するかもしれないが,高級官僚にはわからないだろう.

これらのはなしは,お名前を呼ばれてうれしい,というはなしとはちがってみえるが,利用者目線の重要性という点で一致する.
日本政府と国民代表であるはずの政治家の目線が狂っている,ということだ.
つねに上から目線,これで民主主義だというのだからこまったものだ.

ところが,民間企業でもこまったことが蔓延している.
上司と部下の関係が壊れだしているのだ.
この場合の上司とは,経営者であることもある.
ならば部下とは,管理者になる.

部下をもつ,経営者や管理者は,自分の部下の氏名と年齢を正確に書けるだろうか?

むかし,生徒数千人をこえるマンモス小学校で,そこの校長先生が全生徒の名前を覚えていたというエピソードがあった.
いま,とやかくいわれる学校で,校長は全生徒の名前をまちがえずにいえるのだろうか?
もちろん,全生徒の名前をいえるこの学校では,休み時間に校長も校庭に出て,会う生徒にかならず名前をフルで呼んで声かけをしていて,呼ばれた生徒はうれしそうに挨拶をかえしていた.

小学生にしてこれである.名前で呼ばれることは特別なのだ.
部下のいるあなたは,そのひとたちの氏名と年齢を正確に書けなければならない.
もし,書けないなら,あなたの部下は,自分の名前を知らない人が上司であるということになる.
これで,組織としてビジネスが成立するのか?

人間という高度に社会性をもった動物は,その本質に自己の存在を確認したがる性質がある.
他人から自分を認識させるものが唯一,名前,なのである.
「ねえ,きみ」と声をかけられて,それが番号だったらどうだろう?
いきなり「囚人」になってしまう.裏返せば,囚人を番号で呼ぶ理由がわかる.

だから,部下の氏名と年齢は正確に書けなければならないのだ.
これが,組織行動を円滑にする最小限のルールである.

上述の校長先生は,生徒の氏名だけでなく,保護者も覚えていた.
苗字だけでなくフルネームで「◯◯◯◯君のお母さん」と呼ばれて,嫌なおもいをするひとはいない.
だから,マンモス校だからといって学校運営のトラブルは皆無だったのだ.時代背景がちがう,というよりも,こうした先生がいなくなったことが時代なのだろう.

第一次世界大戦終結100年の夜

昨日,11月11日は,中国ではひとりっ子の日だが,世界の話題はタイトルのとおりである.
それで,70カ国以上の首脳がパリにあつまって,記念式典がおこなわれた.
敗戦国のドイツからはメルケル首相も参加した.
戦勝国の日本は,麻生副総理・財務相が参加した.

日本人にとって,第一次大戦は船でしか行けない欧州での戦争だから,いまよりはるかとおい戦地でのできごとだったからか,いまはどこか他人事の感がある.
しかし,この戦争で,莫大な利益をえたのが我が国だったから,当時は他人事なぞという日本人はいなかったと前に書いた.

ドイツが租借したから製造がはじまった「青島ビール」で有名な青島を,日本軍が攻略してドイツ軍を降伏させたから,我が国は「戦勝国」になって,戦後処理のベルサイユ講話会議に「大国」として参加している.
その「青島ビール」は,大日本ビールという会社が引き取って,第二次大戦終結まで製造をつづけていた.

「大日本ビール」は,現在の大ビールメーカーが分割解体される前の母体だ.
なんと,アサヒ,キリン,サッポロ,エビスは,ぜんぶ大日本ビールのブランドである.
そのアサヒが1999年に青島ビールの株式を購入して,歴史的な統合化なるかとおもわれたが,昨年に中国の一大企業グループに売却した.

ところで,ドイツ人は青島ビールで二銘柄を製造していた.
われわれがよくしるふつうの「ビール」で,下面発酵のピルスナー系のものと,黒ビールである.
いまの「青島ビール」も,ピルスナーを指すのが一般的だろう.

しかし,エジプトのツタンカーメンの遺品にもあったビール瓶のビールは,上面発酵のエールである.
そういう意味で,青島ビールの黒ビールはその後どうなったのか気になるところでもある.

さてパリでは,フランス大統領がEU軍の創設を提唱したりするなか,米国大統領がそのまえにNATOをちゃんとしろ,と指摘したらしい.
これをロシアの大統領はどういうふうに聞いていたのか,わが国では報道されない不思議がある.

歴史の専門家は,日露戦争を「第ゼロ次世界大戦」と位置づけるのがふつうになってきている.
それは,「消耗戦」のいきつく先である「総力戦」のはじまり,と観るからである.
戦争は戦闘集団をひきいる武将たちがおこなうもの,という常識から,国民国家が総力をあげて取り組むモノに変化した最初の戦争が日露戦争だとかんがえるからだ.

ロシアの新鋭兵器である機関銃に,バタバタと死んでいく日本兵.
にもかかわらず,つぎからつぎに繰り出される日本兵の突撃に,恐怖を感じたのはロシアだけではなかった.それで,欧州各国の戦闘方法が,なんと兵隊かくあるべしと,日本式になる.
これが,第一次大戦の損害を悲劇的に大きくしたのだ.

ところが,バタバタと殺された日本軍は,新鋭兵器による物量戦にあこがれた.
じつは,青島攻略日本軍は,わが国ではじめて,新鋭兵器の物量戦を実施したのだ.
巨大な大砲を海上輸送し,陸揚げして線路で移動させ固定設置する.歩兵よりも土木工事の専門集団である工兵が足りない.
この間,戦闘はできないので,「青島攻略はまだか?」と新聞は軍を責め立てていた.

しかし,いったん火を噴いたこれら新鋭兵器の照準の正確さによる破壊の威力はすさまじく,青島駐留ドイツ軍を文字どおり吹き飛ばして完璧に撃破した.
それで,勝った日本軍が,破壊つくしてだれもいなくなった敵陣地をみて逆に恐怖を感じたのだ.
「敵でなくてよかった」.
この戦闘に,銃を手にした歩兵の出番はなかったから,日本軍の損害はほとんどなかった.

しかし,さらなる日本側が感じた「恐怖」は,物量戦のおそろしく高いコストだった.
青島という局地戦にして,この高コスト.
これを欧米先進国の仮想敵国に全面的にやられたらたまらないから,秘匿しようとした.
わが国民が,青島駐留ドイツ軍はめちゃ弱かった,と信じたのは,ほんとうは軍の宣伝だったのだ.

ヒトラーと手を組むとき,国民も政治家もドイツを侮ったのは,この宣伝が生きていた.
なんともいえないブーメランである.
その弱いはずのドイツ軍が連戦連勝でスターリンを敵だといったから,コロッと信じた.
第一次大戦で,めちゃくちゃに破壊されたことで生まれた欧州の厭戦気分が,第二次大戦のもとになったのは歴史がしめす教訓のひとつである.

そんな日の夜,たまたま日曜日のゴールデン.
東京の民放が,地上波テレビ初という「自衛隊特番」を放送していた.
NHKじゃなくてよかったのか?
とうてい,いまのNHKに,この手の番組は放送できないだろうとかんがえるのがよいのか?

島嶼奪還作戦のための特殊部隊の存在に,
「なんでこんなことが必要なの?」
「いま,どこがそんな状態にさらされているの?」
なかなかの「コメント」が,ゲスト・タレントの口からでた.

奪還する前にそもそも獲られるなよ,というコメントがないのが専守防衛の主旨に合致する.
これも,自衛隊広報が頼んだセリフだったのか?
それとも「忖度」したのか?
いや,たんなる「おバカ」なのか?

100年のおもみを感じる日であった.

後か?先か?順番が問題だ

ものごとの順番がちがうと,結果もちがう.
よく「数学は論理的」といわれるが,もっとも基礎的な算数でも,計算の順番がちがえば答えもちがうから,論理的であることはまちがってはいない.
2+3×4=14 が正解で,20はまちがいである.もし,20を正解とするなら,式は,(2+3)×4 と書かなければならないのがルールである.

子どもにできることが,どうしておとなになるとできなくなるのかわからないが,かんがえる順番がちがうひとはあんがいおおい.つまり,ルールのまちがいがわからなくなったおとなを指す.
そういうひとが企業組織の上層に数人でも複数いると,とたんにこの組織は判断力をうしなうから恐ろしい.

むかし,鈴木健二アナウンサーが司会をしていたNHKの討論番組で,学校の安全がテーマだったことがある.
主婦のAさんとBさんが,当時としてははげしい議論をくりひろげていたので覚えている.

Aさんは,過去の事故事例分析があまく,的確な安全策がとられていないことを批判したが,Bさんは,対策には完璧は期待できないからそれに拘泥してもしかたがないと主張していた.

Aさんの反撃はするどく,的確な安全策の実施がそれぞれの学校任せで,統一的な施策がないため,事故があった学校に「だけ」,とりあえず予算が配分されることを心配していたのだ.しかも,その「とりあえず」が他校への波及がなく忘れられて,事後対策でしかないことを憂いたのだ.

すると,Bさんは,「保険に加入しているから安心」だと発言して,この議論はAさんの圧勝で終わった.
事故の内容によっては,一生の不覚にもなるし,最悪は死亡事故だってありうるから,親が保険金を手にしてハッピーエンドにはならないと,さしもの司会も黙ってはいられなかった.

外国ではこの手のテレビ討論番組がいまだに人気だというが,それには,討論参加者の論理が明確だから,みごたえがあるのだろう.
日本では,討論番組じたいがすくなくて,しかも論理的というよりも感情むきだしの情緒番組になるから,みごたえがない.

それでも,たまに「放送事故級」に遭遇することがある.

厚生行政の局長,医師会副会長をゲストにして,全国都道府県の医療行政担当課長級が集まった討論番組があった.
そこで,都道府県単位で発表する医療計画が,奈良県だけ発表されていないと,国の局長が名指しして批判した.おそらく,発表のまえに国への「提出」義務があるのに,だしていないことを叱ったのだ.

ところが,奈良県の弁明は,「調査中」のため計画自体の策定が間に合わなかった,ということだったから,この局長は薄ら笑いさえ浮かべて「毎年提出義務があるのに,いまさら何を『調査』しているのか?」と罵ったのだ.

すると,その調査のVTRが流されたから,放送局側の準備は周到だ.
内容は,県の担当者がなんと全県の医療機関を直接訪問して,どんな病気のひとがどこにどのくらい住んでいるのか?という調査だった.カルテの分析まで要するから,これを拒否する医療機関もあったが,とうとう病気ごとの分布と対応する医療機関の分布が一枚の地図になったのだ.

この調査でえられた実態から,患者にとっての不便と,医療機関にとっての経営効率が明確になった.そしてこれが医療費の削減を図ろうとする意図の計画策定の基礎だった.
おどろいたことに,こうした「実態調査」をしたのは,このときの奈良県が全国初のことであったから,その他の都道府県がなにを根拠に「計画策定」しているのかが宙に浮いた.

実態に基づかない「作文」だけを提出させていた,国の局長は大恥をかいて,医師会副会長の目は宙を舞った.
もちろん,奈良県の課長を冷たく見下ろしていた同僚のはずの都道府県の担当課長級たちも,まぬけな口が開くとはこのことだ.期限内に内容無視の適当な作文をだせば事足りる,公務員の無能を全国放送でさらけ出してしまった.

これぞ,公共放送とおもうが,いまはしらない.
それぞれがそれぞれの「タコツボ」に帰れば,放送局にはめられた,と息まいたのだろうが,世の中になんのためにもならないことは,子どもでもわかる.

その奈良県で,県下一番の名門,県立奈良高校の校舎が耐震基準未達どころではない状態で十年も放置されているというニュースがあった.
教育委員会→奈良県→文科省 という,いやな予感しかしないブラック構図がみえる.

順番をまちがえると,ちがうこたえになる.
奈良県のひとはしっているはずだから,この顛末はウオッチしていきたい.

METライブビューイング

世界四大オペラのひとつで,巨大な舞台装置で識られるのは,なんといってもニューヨークにある「メトロポリタン歌劇場」だろう.
あとの三つは,ウィーン国立歌劇場、パリオペラ座、ミラノ・スカラ座、をいうが,じつはブエノスアイレスのコロン劇場をわすれてはならないから,「世界五大オペラ」といったほうがよいだろう.

メトロポリタン(Metropolitan)から略して「MET」といっている.
130年以上の歴史を誇る,アメリカ合衆国最大のオペラ劇場だが,もちろん「国立」ではない.
そこで2006年から,劇場で上演中の作品を世界の映画館に配信して鑑賞できるようにしたのだ.

これは,「上演」にかんする歴史的なイノベーションであった.
いまでは,歌舞伎も映画館で上映されるようになった.

日本では,日本語字幕をつける作業もあって,ほぼ一ヶ月遅れでの「同時上映」だが,世界におくれることなく2006年にスタートしたのは「民間」のなせるワザだろう.
イタリア語やドイツ語が主流のオペラでは,日本語字幕はたいへんありがたい.

はじめの頃は観客もまばらで,素人ながら「大丈夫なのだろうか?」と心配するほどだったが,その圧倒的内容の満足感と「混雑しない」というダブルの満足感があったものだ.

しかし,やはり気がつくひとはいるもので,映画館へいくたびに観客数が増えているのが実感できた.

「オペラ」作品をそのまま上映するのだから,ふつうの映画とちがってやたら長い.だから,チケットもほぼ倍額なのだが,撮影技術,音響録音技術と,それらを再生して上映する技術の進歩,さらに,さいきんの映画館のシートの快適さもあって,臨場感はたっぷりだし,歌手たちのどアップは,残念だが「生」ではオペラグラスがあっても観ることはむずかしいだろう.

さらに,幕間にはふたつの工夫がある.
ひとつは,幕が下りてからの舞台上の様子が撮影されていることで,大道具のセッティングが観られること.
もうひとつは,その横で,前回や次回に主演するスター歌手が司会役になって,今回の出演者や舞台スタッフへのインタビューがあることだ.

これらは,劇場に実際にあしを運んでも観ることはかなわないから,映画館だけのお楽しみだ.
また,映画の入場時にわたされる紙には,このインタビューでプロが使った用語の解説まで書いてあるから,初心者にたいへんやさしい気遣いがある.

最初この試みは,映画にして舞台を世界に発信などしたら,劇場にくるひとが減って,結局は収入をうしなうと,たいへん懸念されたのとは裏腹に,世界中でオペラファンの発掘が行われて,「いつかはメトロポリタンオペラの本物を観たい」になった.「いつかはクラウン」のあれである.
じっさい,シーズンを皆勤して応募すると,撮影日の講演に抽選で招待されるようにもなっている.

さて,12シーズン目になったことしの幕開けは,わたしの想い出があるエジプトを舞台にした「アイーダ」である.
昨日が,最終日だった.

クラシックのジャンルだから,さまざまなひとたちが公演しているのだが,METのばあい今回とおなじ舞台演出で過去二枚のDVDと一枚のブルーレイが発売されている.
DVDのジャケットが同じなのは,右が左のアンコール・プレスだからで,ブルーレイはちがう出演者だが演出がおなじだからジャケットもおなじようにみえる.なお,今シーズンもおなじだ.
なので,演奏だけでなく演者の比較鑑賞ができるという,ならではの楽しみもある.

上段のDVDの元は1989年の公演で,オリジナルDVD(左)はエミー賞を受賞している.

下段のブルーレイもジャケットが同じにみえるが,DVDと演者がちがう.こちらは,2009年版で,王女アムネリス役のドローラ・ザジックが唯一の共通だ.
今シーズンのアムネリス役は,アニータ・ラチヴェリシュヴィリだから,こちらも比較できた.

 

今回のインタビューで,MET史におけるアムネリス役の最高出演回数は90回超えがトップだが,現役のドローラ・ザジックが70回超えで追っていることをしった.彼女は,イル・トロヴァトーレのアズチューナ役で,主役を飲み込むような凄みの演技を魅せたが,元は医学生である.

そして,今回のアイーダ役は,当代随一のソプラノとされたルネ・フレミングが昨年の17年に引退して,その後継になったアンナ・ネトレプコだ.
その彼女へのインタービューで,3幕の有名な独唱について,「テクニックではなく無心でアイーダになりきること,そして最後は『度胸』だ」といった.

インタビューアーは,前に書いたとおり,今シーズンの別の作品で主役を演じるソプラノ歌手である.この返答を聞いた,その彼女が,大きくうなずいた姿には説得力があった.
「度胸,ですね」と.

また,アイーダは奴隷でもあるから,懇願するセリフの歌詞で「ピエタ(Pietà)」が30回以上あるが,これらをひとつづつ歌い分けるといっていたのが印象的だった.
それを,幕が開いてからの場面で確認できたのは,観客として十分に満足感がえられる「予告」だった.
「やれ!」といわれてすぐにできるようなものではないから,若い歌手の凄まじいまでのプロ根性に脱帽である.「一流」とはかくなるものだと教えられた.

今作出演の二人の新人のインタビューもあって,劇場の「養成所」で,たっぷり「育成プログラム」を受けたという.すでに世界で活躍しているファラオ役も養成所出身というから,はんぱない.
世界のメトロポリタンオペラは,新人の養成事業もおこなっている!

しかし,新人の発掘はなにも養成所にかぎらず,各地で活躍している無名人の登用もしているのだ.
今回のばあい,アイーダの父アモナズロ役は,そうやって実力を発掘されたひとりだった.彼は今シーズンの「椿姫」にも出演がきまっている.

そういえば,ルネ・フレミングも,1988年にMETのオーディション合格があっての「当代随一」だ.

人材を育てることと,発掘することができる組織がある.
それが,一流を維持するのに不可欠なのだ.
これを怠れば,どんな組織もほころんで,トップが世間に「ピエタ」をするはめになるのは,大企業も官僚組織もおなじなのである.

連立方程式の企業経営

3年前の2015年9月に改正された,労働者派遣法で,派遣労働者の訓練が義務化された.
外国では一般的な,仕事にもとめられる能力の特定,がようやくはじまったともいえる.
派遣会社は,自社で教育訓練をして,本人を派遣先におくる,あるいは,派遣先に依頼してOJTを受けさせることになる.

このとき,教育訓練を受ける労働者には,所定の賃金が支払われることになるから,派遣会社はこの費用を負担しなければならない.
結果的に,受益者である派遣先が派遣料のかたちで負担することになるはずだ.

しかし,派遣社員という働き方をえらんだひとには,キャリア・アップのための手段になって,自分を高く売ることに役立つことになる.
もちろん,単価の高い派遣社員を派遣する会社は,相手企業から単価の高い報酬を得られるから,お互い様の関係である.

これは,派遣労働を単純労働に固定するということではないですよ,という意志表示だろう.
また,正社員への登用,ということも視野にあるから,単純労働しかできない,のでは本人の絶望だけでなく雇用主もこまる.
トータルすれば,派遣社員の労働の質がたかまって,雇用主の支払う費用が上昇することを意味する.

これはかならず直雇いの場合とリンクするから,雇用主には対応の選択肢が二通りある.
よりいっそう安価な労働力をもとめるか,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げるかである.

おそらくは,外国人労働者が前者にふくまれるだろうから,一歩まちがうと道をはずすことになる.すでに奴隷労働的だとして批判を浴びる企業がでてきている.
この批判を避けるには,国籍はとわず正規の賃金や労働条件を提示するしかないから,じつは,よりいっそうの安価な労働力をもとめることは,たとえ移民を受け入れてもすでに困難になってきている.移民は,頭かずでしかないのだ.

すなわち,人件費上昇分を別の費用で相殺しながらも売価を上げる,という方法に日本企業のすべてが追いつめられているのが実情だ.
だから,こちらの意味でも従来の戦略の見直しは必須である.
単純に人件費を価格に上乗せしました,で消費者の支持が得られることはないだろう.

業務委託・受託の契約関係でも,労働環境はおなじだ.
すなわち,自社における内製よりも,専門の業務受託先に外部委託したほうが安価にみえた業務も,急速に状況が変化してきている.
人手が確保できずに,受託先が突然に業務を停止してしまって,委託先の営業ができなくなるリスクが拡大している.

それは,情報ギャップが原因であるから,委託先がたえず受託先の人員状況を確認しなくてはいけなくなった.
ところが,それで人員状況が悪いとわかっても,すぐに代わりの受託先をみつけることができないし,みつけたところで引き受けてくれる可能性もひくい.

つまり,八方ふさがりの状況がうまれている.

なんのための業務委託だったのか?という根本の問題になっている.

それで,ぜんぶの業務を自社の内製にかえる人的サービス業の企業があらわれている.
つまり,全員を正社員として採用するから,パートもアルバイトもいない.
結局,終身雇用にもどったのだ.
しかし,こんどの終身雇用は,ほんとうに終身で,定年がない.公的年金問題が,事実上そうさせるからだ.しかし,いつまでも,現役時代の半分以下になる年収に甘受できないはずだ.

キーとなるのは,社員の人生設計とのマッチングにある.
しかし,派遣社員で導入された,仕事にもとめられる能力の特定,が正社員にも適用されてセットになるだろうから,徐々に従来の「生活給」というかんがえ方から離脱するのではないか?
定年後再雇用の年収半減も,生活給を前提に屋上屋を架した結果にすぎない.

ハワイで起きた,ホテル労働者の長期ストライキの要求は,「この仕事『だけ』で生活できるようにしろ」である.
日本における戦後の「生活給」というかんがえ方は,ある意味,若年層には能力以下の賃金だが,家族持ちにはその逆をあたえることで「生活」ができるようにした方便だった.

しかし,もはや企業にたとえ方便でも配分する根幹の余裕がなくなった.
だから,仕事にもとめられる能力の特定,と,人生設計がマッチしなければならなくなった.
けれども,むかしとちがって本人の人生設計すら一律ではない時代でもある.
すなわち,キャリア・プラン,の存在が俄然おもみを増すようになった.

どんな階段を登ると,どんなゴールがみえてくるのか?
企業は,そのゴールをみせなくてはならなくなったのだ.使い捨てはもうできない.
ゴール・イメージがマッチしなければ,募集してもひとは来なくなる.
これに,賃金その他の条件がセットになるはずだ.

すでに,日本のメガバンクが学生の就職人気を失ったのは,賃金よりもゴールが暗いからである.

つまり,終身雇用でも,こんごは年功序列ではない.
キャリア・プランをいかにクリアするか?になる.
そして,終身雇用だが転職も前提になる.
よりよい条件が提示されれば,別の企業に移っても,おなじく終身雇用は条件になるはずだ.

企業経営は,お客様相手の方程式を解く時代から,従業員をくわえた連立方程式を解かなければならない時代になったのである.

すると,これはかならず就職前の「学校教育制度」の不具合というに問題に波及することになる.

人間は正確に同じ動作ができない

簡単な動作にみえるから,まねれば簡単にできる,かというとそうはいかないのが人間という動物である.
それで,長年の「研鑽」とか「修行」をこなして,なんとかできるようになるものだ.
こうしてできるようになったひとを,マイスターとか職人と呼んで尊敬のまとになる.

芸能の世界もまったくおなじで,それはなにも伝統芸能の分野だけではない.
しかし,わかりやすいのは伝統芸能における「芸」である.
子どものときから訓練されるが,不向きな子にとっての稽古は地獄の時間にちがいない.
「能」の狐役をこなせるようになるには,20年以上の歳月を要するというから,気が遠くなる.

もちろんスポーツの世界も「芸」のほかなにものでもないから,職人,は一夜にして誕生はしない.
かつて,名選手の長嶋茂雄に,バッティングを習おうとしたら,カーッときた球をカーッと打つ,と説明されてあきらめたという逸話があるが,職人の域に達したひとには,そう表現するしかないのだろう.

それは,長年の自分の努力を惜しんで教えないということでも,長嶋氏独特のとっぽさということでもなく,たんに自分がかつて練習で掴んだときの理屈の記憶をわすれて,感覚の記憶に昇華してしまったのではないか?
だから,ことばにならないのである.

日本が誇る,すばる望遠鏡のレンズを手作業で磨いて仕上げた伝説の職人も,自分の手のひらの神経がつたえる感覚がすべてであって,その感覚をことばでは説明できなかった.
このデジタル時代に,なぜ手作業で仕上げをするのか?
それは,現代のセンサー技術をこえる精度で研磨することができるのが唯一,訓練を積んだ人間だけだからある.

だから,ものすごく繊細な分野では,人間の職人技がぜったいに必要なのだが,IC(中央演算処理装置)をつくるときの精密かつ高速なハンダ付けにはマシンが活躍しているから,はなしは単純ではないようにもみえる.
しかし,キーはセンサー技術にある.

センサー技術の範疇におさまるのであれば,マシンが人間よりもすぐれる.
しかし,これをこえると,マシンはまったく歯がたたない.
ここに,人間の技の優位分野がある.
ここでいう「センサー技術」とは,センサーで見つけて修正すること,だ.

つまり,どんなに細かな「異常」を発見できても,それを修正・修復できなければ製品にならない.
すばる望遠鏡の例では,レンズの歪みを発見するのはセンサーで,それをひとが手作業で仕上げたのだ.
巨大なレンズにおいて,センサーがみつけた歪みを感じながら修正する,という動作が,マシンには不可能だったからである.

さて,以上のことを前提にすると,組織をうごかすのはやはり人間しかできないことだとわかる.
組織のなかのさまざまな状況を,マシンが把握するためのセンサー技術すらない.だから,修正も修復もマシンにはできない.
現在のAIの限界だ.つまり,いま話題の「AI」は,おもちゃみたいな段階でしかないから,過剰な依存は禁物である.

ところが,組織のうごかしかた,を肝心の人間がどこまでしっているか?となると,とたんに苦しくなる.
訓練を受けていないからだ.
これは、前回のブログで触れたとおりだ.

もう一方の,現場,という場面でも,おなじ状況がある.
人的サービス業のばあいは,とくにこれを強調したい.

カリスマ的な人材のみごとな動き.
簡単にまねできそうでぜんぜんできないことを,現場のひとほどしっている.
これを,あの人を見習え,というだけでいいのか?
どうやって見習えばいいのか?の追求がなくていいのか?

そこには,前提として,人間は正確に同じ動作ができない,ということをしらなければならない.

もっといえば,そのカリスマのかんがえ方,からまねる用意をしなければならない.
人間はかんがえる動物なので,思想が行動の原点になるからである.
それで,有名なカリスマの本には,そのひとのかんがえ方がくわしく書いてあるのだ.
具体的な方法は,じつは二の次なのである.

にもかかわらず,「この本はつかえない」といって投げ出すひとがたくさんいるのは残念だ.
もっとも重要なことを無視する態度は,うわべを追った浅はかな態度である.
だから,単なる方法が羅列してあっても,こうした読者には不満だろう.
「なにもあたらしいことが書いていない」と.

カリスマのおおくは,なにもあたらしいことなどしていない.
こころをこめて,最善の方法をつねに行動にしていたら,それが体に焼き付いてしまったのだ.
だから,その場その場について,適確な説明などできない.

それならばと,映像に記録して,本人の動作を瞬間瞬間でまねる訓練までしている会社がある.
本人が健在なうちに,これらの映像の「瞬間芸」を切り取って,本人に「コツ」を解説させる試みまで実行している.
その「解説」に,かならず「思想」の説明があるから,わかりやすい.

だから,こうした会社の訓練は,はじめ座学から,そして実技になるのである.

ぞろぞろの不祥事の共通点

おわらないどころか,どんどん出てくる,といった感があるのはどうしたことか?
台湾の鉄道事故のように死者までが発生すると,設計ミスがただちに事故とは関係ない,といっても「信用」に傷がつくことはいなめない.

ちょっとまえ,社会インフラを輸出しよう!が政府のキャンペーンにもなって,各国に鉄道車両が輸出されたが,国ごとにことなる安全基準にあわせてつくるノウハウが,ながく日本国内「だけ」でやってきたノウハウとマッチせず,納期のおくれから生じる違約金負担で,とうとう老舗の川崎重工が赤字に転落し,鉄道車両製造事業の継続すら社内議論されているという.

なんのことはない,「ガラパゴス化現象」のはなしであった.
わが国のあらゆる分野で,この「ガラパゴス化現象」が起きている.
アマゾンの書籍検索で「ガラパゴス化」を入力すれば,多岐にわたる,ではすまされない状況がわかるだろう.

民間だけでなく,「公」の分野においても,しっかり「ガラパゴス化現象」は起きている.
霞ヶ関でも,県庁所在地でも,村役場でも.さらに,「学校」にもまん延しているだろうから,他人事ではぜんぜんない.
わたしたちの生活をおおっているからだ.

たとえば,上記の本は,世界的ベストセラーになった,学校教育のあたらしい方向性,についての教科書である.
世界はすでに,むかしの工場労働者の大量供給に対応するための画一化された教育方式をみなおして,「学習」に重心をシフトさせている.

それは,本人の「学習」でもあり,組織の「学習」でもある.
だから,以前このブログでも書いた,発見的教授法も,その流れのなかにある.
そして,ここで重要なのが,ゴール設定と設定したゴールからの演繹思考という論理である.

残念だが,われわれ日本人に,ここでいう「論理的思考」が,かなり欠如しているとかんがえている.すなわち,「目的合理性の欠如」だ.

「ちいさなことからコツコツ,コツコツ」は,いまでも美徳とされている.
しかし,この方法は,けっして目的合理性があるやりかたではない.
正しくは,「目的達成のために,ちいさなことからコツコツ,コツコツ」でなければならない.
「目的達成のために」を省略してはならないのだ.

すると,ガラパゴス化現象がみられる分野での問題点は,以下のとおりになる.
・「目的」を明確化せずに自己目的化して,ただ従来どおりのやり方を漫然と踏襲している.
・設定している「目的」が,そもそも的外れである.

これは,「マネジメント」の問題である.
ここで,マネジメントを「経営」と訳してはいけない.
マネジメントとは,「組織の目標を設定し、その目標を達成するために組織の経営資源を効率的に活用したり、リスク管理などを実施する事」だ。

「経営資源」とは,「ヒト」,「モノ」,「カネ」,「情報」,それに「時間」をさす.
もっとも重要なのは,「ヒト」である.主語になるのはかならず「ヒト」だからだ.
「ヒトがモノを」,「ヒトがカネを」,「ヒトが情報を」,「ヒトが時間を」コントロールする.
いま問題の,「ハラスメント」も,ヒトの存在が組織には必須な「ヒトがヒトを」で発生するものだ.だから,ヒューマン・リレーションズをどうすればいいかが,誰にでも問われるのだ.

また,「リスク管理」を,「リスクは回避するもの」と理解してはいけない.
「リスク管理」とは,「リスクはコントロールするもの」という意味で「管理」なのだとかんがえなければならない.
「リスク」は,「利益の源泉」でもあるから,「回避」ばかりする日本企業の儲けがなくなった.

さて,ここまでは頭で理解できる.
しかしおおくの分野で,この「問題」が解決できないのに理由があることまで踏み込まないから,いつまでも,どこまでも同じ過ちを繰り返すのだ.
すなわち,「学習しない組織」がまん延状態になってしまっているのがいまの日本だ.

つまり,このような「学習しない」状態から抜け出すには,なんらかの行動を起こすひつようがある.
そのためには,組織構成員を「学習するひと」に変えなければならない.
しかしそれは,「本を読め」という命令では達成できないものなのだ.

「頭」だけではなく,「体」もつかう.
これをふつう「訓練」という.

わたしたちは,きちんとプログラム化されたメソッドとしての「マネジメントの訓練」を,ほとんど受けた経験がないままに,組織を運営させられている.
それは,大企業のトップも,高級官僚も,政治家も,まったくおなじである.

人生のなかで,社会への準備段階としての「学校(小中高大)」における段階的訓練.
入社後の社内訓練や職業訓練.
これらを見渡して,一度もないか希薄である.

ただし,一部企業では熱心にマネジメントの訓練を実施していて,こうした企業では不祥事が発生しにくいのは当然である.
かつて,日本の製造大企業は,こぞってこれを実施していたが,バブル期をピークに減少した.
一世代,30年の時をかけて,企業内部のマネジメント力が衰亡したのだろう.

どうやらこのことが,さいきんの不祥事の原因ではないかとうたがうのである.

岩盤規制のよい解説だけど

「歴史は発展する」というのは,社会主義や共産主義がいいふらした幻想にすぎないが,なんとなく聞き流したひとほど,洗脳されているから注意が必要だ.
「退化する」こともあるからだ.

それで,いいふらしたひとたちは,「退化」もヒトの尾てい骨のように「進化」だといいはるのだ.
これは、とんでもない人権侵害を正当化する.
政治犯を収容する場所で,どんな「教育」がおこなわれているのか?をかんがえればよいだろう.

日本という国の「特殊性」については,内外から指摘されつづけてきたから,「日本論」は山ほどの著作がのこされていて,そのほとんどが,やっぱり「特殊性」を摘出している.
それが日本「人」の特殊性に転換されるのは,国家の構成員なのだから道理である.

「革命」を経験した欧米諸国では,英国の「名誉革命」とフランスの「フランス革命」が,およそ正反対の立ち位置で対峙している.
そういう意味では,おおむね世界はこの二つの革命を源流とした二本の大河のどちらかにある.

英国の流れは,その後の「ピューリタン革命」になって,アメリカ合衆国の源流にあることはまちがいない.
一方,フランス革命は,ロシア革命や中国共産党に流れ,かつてもいまも社会主義の源流になっている.

さて,それではわが日本国はというと,他国より若干複雑ではないかとかんがえるから,「特殊性」のはなしに与する.
それは,二重構造で,表面を流れるものは英国からであるが,もうひとつ地下水脈があって,これはフランス革命というより強くロシア革命を源流としたものだ.

日本を「鵺(ぬえ)的」だというひとがいるのは,この二本の流れをさしたのではなかろうか?
「鵺」とは,頭は猿,胴は狸,尾は蛇,手足は虎,声はトラツグミという伝説上の怪物で,そこから「正体不明」をさすことになった.

だから,二つの革命の流れが日本のすがたであると特定すれば,それこそが「正体」であるから,「鵺」ではなく,「結合双生児」のような状態とかんがえる.
本物の結合双生児は,ベトちゃんドクちゃんでしられたが,産まれてきた彼らに罪はない.
しかし,国家のばあい,これは国民にたいして「罪」であるから,彼らのこととは別にしてかんがえるひつようがある.

日本という国は,表面上は自由主義・資本主義体制だが,地下での実態は社会主義・統制経済体制である.
戦時中の近衛文麿内閣が目指したのも,社会主義・統制経済体制であったが,大政翼賛会をつくってあびた批判から腰砕けになった.それでも,統制経済体制は実行された.

日本本土より,強力に計画経済・統制経済体制であったのは満州国だった.
スターリンが成功させた(というがほんとうはウソだった)「五ヵ年計画」を,ロシア人が逆立ちしてもできない完璧な事務能力で真似たのが,岸信介次官率いる満州国官僚群だ.
バリバリの自由主義者,阪急創業者の小林一三商工大臣と統制経済を主張して対立したのも岸だった.

戦後の混乱は,自由主義がはびこって,各地に「闇市」ができた.
「闇」なのだから,政府の統制にない,という意味だが,それならなぜ「自由市」と呼ばないのか?
政府の統制が正統で,これに従わないのは犯罪的,という価値感があったからである.

時間の経過という「歴史が進捗」して,役所も丸焼けになってしまった混乱から,役人の体制がととのいだすと,経済警察がこの「闇市」を取り締まった.
そして,闇市の側も,「歴史が進捗」して,駅前の雑居ビルに入居した.これらの建物は,いまだに残っているが,店舗の狭い区画とそのコピーという構造的特徴をみれば判断できる.

こうした時間の経過をみれば,「自由市」の弾圧からスタートしたのが戦後日本経済の特徴なのだ.
それが,どんどんと,あらゆる方面に「統制」が浸透するが,その主体は国民ではなく,役人と政治家たちだった.

自由と民主主義など,じつは一顧だにされていない.
それをまとめた本がでた.

筆者の上念司氏は,経済評論家として活躍中の有名人だが,はなしのところどころに冗談ではすまされないような冗談をはさんでくる.

この本も,最後のすかしっぺなのか,「おわりに」がいただけない.
「新自由主義の定義」にたいそうな混乱があるからだ.
日本の岩盤規制が,新自由主義の権化だ,という主張は,完全におかしい.

また,岸信介の孫である安倍総理が官房長官とふたりだけで,まるで岩盤規制と対峙しているという主張も,いいすぎだ.
上念氏には誇大妄想があるのではないかと疑いたくなる記述があるから,鵜呑みは禁物の本ではある.

彼のアベノミクス支持も,いいだしっぺの浜田宏一教授に師事したからだと著者略歴にあって納得したが,わたしは「戦後レジーム『回帰』」のアベノミクスを支持しているわではない.
そういう意味で,たいへんな矛盾にみちた本である.

多忙をきわめる上念氏は,新自由主義の本家,ミーゼスの著作や,その弟子にして同僚だったハイエクを読む暇がないのだろう.ましてや,ミルトン・フリードマンをや.
わが国の「流れ」の構造上,新自由主義がサッチャーの英国からの流れではなく,ロシア革命の流れからの批判という歪みを修整できていないことなのだろう.

本書本文における上念氏の主張は,新自由主義そのものであるからだ.
しかし,彼はその新自由主義を無視するアベノミクスを支持するという.

よいこは「おわりに」だけは読んじゃいけないよ.