買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.

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