自社の経営戦略を構築するうえで必須の現状分析の手法のなかに、「外部経営環境」と「内部経営資源」の分析がある。
このうちの「外部経営環境」は、自社の一存ではどうにもならないけれど、自社の経営に影響があるとかんがえられる社会事象を抽出して、それにどう対応するのかをかんがえるための題材にするものだ。
残念だがこれが、巨大化している.
交通や通信がいまのように発達していない時代でも、その時代ごとに「最先端」があった。
江戸時代なら飛脚制度がそれだし、特別料金で「早飛躍」という特急便もあった。
当時は、政治の江戸と経済の大阪という二極があったから、どれほどの飛脚需要があったかは、かんたんに想像できる。
ましてや、経済の中心価値は年貢から得る「米」という物資の価値に依存していた。
幕府も大名も、非力といわれた公家も、さらに寺社も、領地からの年貢収入がなけれな生存できない。
その価格は「米相場」できまったから、相場の情報は東西どころか全国を飛び交ったはずである。
それが、明治になってわずか5年で、郵便と電信ができる。
わずかな金額で全国どこにでも配達される郵便は、いまならインターネットの出現のようだったろう。
電信にいたっては、仕組みが理解できなくても、時空を飛び越えた驚異の通信だったにちがいない。
しかし、これらはおもに国内のことだったから、国内の事情が経営に影響した。
それが、だんだんグローバル化すると、ヨーロッパやアメリカの事情が影響するようになる。
けれども、ずいぶん時間差があったから、考慮のための時間もあった。
いまは、とてつもないスピードで変化をキャッチできる。
これらは、もっと早くなることはあっても、遅くなることはない。
それで、地球上の異変が自社の経営におもわぬ影響をおよぼすことになってきた。
だから、「外部経営環境」が自社に影響するとかんがえることは、「想定」すること、と言い換えられる。
つまり、「想定外」とは、かんがえていなかった、という意味になるので、ときと場合によっては、第三者に恥をさらすことになる。
組織運営上、最悪のシナリオ、をつくる意味はここにある。
ところが,あんがいどちらさまも「本当の」最悪のシナリオをつくっていない。
企業における最悪とは、倒産だ。
どうしたら自社が「倒産するのか?」を研究していない。
おおくの経営者は、倒産したら意味がないから研究の価値もない、とかんがえている。
そうではないだろう。
「倒産」といっても、きれいな倒産だってある。
きれいな倒産とは、事業資産をちゃんと配分できて、他人に迷惑をかけずにおわることだ。
これぞ、究極の経営責任である。
もうひとつ、倒産シナリオの研究には、取引先の研究が不可欠になる。
これが役に立つのだ。
「産業連関」的な目線である。
それは、一種の「回路図」のようなイメージである。
巨大な事象が発生して、日本経済全体が不調におちいったなら、自社だけが生きのこることはできないから、しょうがないじゃないか。
しかし、察知する能力をたかめておけば、ちがう状況になる可能性がある。
そして、そうした察知能力が、各社にあれば、天変地異以外の人間がおこなう行為から発生する各種危機を、回避することすら可能ではないか?
たとえば、海洋航行の自由が特定の国の軍事力によって妨げられるとどうなるのか?
東南アジアの海域でおきたら、中東からの石油が止まる可能性がたかまる。
それは、太平洋側の三角波が危険だから、それを避けるための台湾海峡のばあいも同然である。
こうしたわかりきった想定でさえ、民間企業がこぞって政府にはたらきかけることがないのは、どういう意味なのか?
力のある外国が、阻止せんと行動することを、評価せずに批判するのもどういう意味なのか?
こうした事象が、「外部経営環境」になっている。
これは、ネット用語でいえば日本経済の「巨大な脆弱性」である。
ふつう、こうした「脆弱性」がみつかれば、ソフトウェアの手当をする。
あるいは、別の新規ソフトを提供して、古くなって危険なソフトの使用を中止する。
それがだれにでもわかるかたちで放置されているのだが、だれも声をおおきくしない。
すなわち、「放置」=「無責任」という「巨大な外部経営環境」が存在している。
しかし、これはほんとうに自社の一存ではどうにもならない社会事象なのだろうか?
責任ある経営者なら、声をあげなくてどうするのだろう。
なにもしなくても、日本経済は発展をつづける、というかんがえこそ、思考停止だ。
自社最大の危機の想定から、自社の生きのこり戦略がみえてくる。