もらって困るビール券

むかしは町内に一軒以上の酒屋があったが、個人営業の酒屋をほとんどみなくなったから、もらった「ビール券」がどこでつかえるのかをかんがえだすと、けっこう面倒くさいことになっている。

安売りのチェーン店が出てくる前は、チケットショップで購入したビール券をつかえば、なにがしかの「お得」があったのだが、この方法はビール券がつかえない安売り店では効力をうしなった。

いまでは、大型スーパーでもビール券をつかえる系統とそうでない系統があって、コンビニでも同様な系統があるから、ちょっとやそっとでおぼえられない。

しかたがないから、つかうまえに「このお店ではビール券はつかえますか?」と確認してから商品選びをするのだが、「つかえますよ」といった店で、ビールに「しか」つかえない、といわれることもある。

発泡酒やスピリッツ類も対象外だとレジでいわれれば、「???」がつきまくって、ぜんぶの購入をやめたくなるし、こんな店で二度と買い物をするものかと八つ当たりもしたくなる。

はたして、ビール券とはなにものなのか?
全国酒販協同組合連合会が発行する商品券である。
それで、この連合会のHPでは、「券面表記の商品とお引き換えいただける商品券です」と説明されている。

なるほど、券面表記されているのは「ビール」なのだから、ビールに「しか」つかえません、ということはただしいのだろう。

けれども、おなじHPに、小売店向けの案内もあって、「全国の酒類を扱う小売店様でのご利用を特約しておりますので、お客様が交換に来られましたら当該商品との交換をお願いいたします」とある。

つまり、「ビール」と表記せずに「当該商品」という曖昧な表現になっている。
さらに、小売店での利用を特約している、ということだから、そのお店の商品とも交換できそうな雰囲気がある。

発行者の免許として、登録番号 関東財務局長 第00090号/社団法人 日本資金決済業協会、と明記されている。
まずは、岡っ引きである一般社団法人のHPをみると、「前払式支払手段」についての説明がある。

これによると、「ビール券」は、資金決済法の「第三者型前払式支払手段」に該当し、発行者である「全国酒販協同組合連合会」は、第三者型前払式支払手段発行者として、管轄する財務局長あて登録申請をして、発行者としての登録をしなければならない。
それが、上述の登録番号の意味である。

ちなみに、ホテルや旅館、あるいはレストランなどが、じぶんの店舗や資本関係のある店に「かぎって」つかえる前払式支払手段(宿泊券や食事券)を発行するばあいで、基準日という、毎年3月末と9月末に発行残高が1,000万円を超えると「自家型発行者」として法の適用をうけることになる。

これの適用対象になると、基準日における発行残高の半分以上の額を、供託金として最寄りの法務局に供託しなければならない。
供託方法はいろいろあるが、手数料をなるべく安くするなら、日銀本店(各道府県にある支店でもよい)に行って、直接国債を購入して、その国債を法務局に持ちこむ方法がある。

これなら、基本的に交通費だけですむが、係の従業員がそのまま逃走するリスクはかんがえておいた方がいい。
日銀には、現金をもっていかないといけないし、購入した国債だって、かんたんに現金化できるからだ。

政府は「電子決済」を推進するといって、例によって民間に負担を強要しているが、日銀と財務局というおおもとでは「現金主義」を貫いているのだから、なにをかいわんと笑えるはなしである。

だから、経営が弱小なのに宿泊券や食事券を、安易に発行すると、供託金という経営にとって重要なキャッシュの一部を国に有無を言わせず預けなければならないから、慎重な検討がひつようだ。
ホテルやレストラン企業の決算書で、資産の部に「国債等」とあれば、この供託金のことだとおもえばよいし、二倍にすれば発行残高がわかる。

もっとも、こうした制度をつくっているのは、発行者が倒産したときの購入者や、もっているひとが困らないようにするための「保険」になっていることだ。
ならば、ほんとうの保険でいいではないかとおもうが、政府は保険業界も信用していないという「無間地獄」にはまりこんでいるのが日本である。

さて、それで、ビール券はどこでどうやってつかうのか?
消費者としては、ビール以外の酒類も、おつまみも、その他その店舗で売っている商品にも適用してくれたらうれしいものだ。

これが鷹揚にできていたのは、お店のレジがたんなるレジスター(金銭登録機)だったからで、酒屋のおじさんやおばさんが、ある意味厳密な売上・在庫管理をしていたのではなく、組合に持ちこめば現金になるということだけだったからだろう。

ふるきよき時代の適当さが、あんがいサービス面でのまとを得ていて、家にちいさい冷蔵庫しかなくても、人寄せでこまらなかったのは、電話一本で配達してくれる近所の酒屋が冷蔵庫代わりだったからだ。

これがややこしくなったのは、レジスターがPOSレジに進化して、さらにそのシステムのなかでの決済機能と金種管理機能が、ビール券との相性の一致・不一致という設計のバラツキを生んで、結果としてサービス内容を決定するようになったのだともかんがえられる。

すると、レジ係のひとに八つ当たりしてもしかたなく、そんな機能しかないPOSレジの機種を選んだ経営者が、ぜんぜん客サービスに徹していないということになるから、やっぱりそんな店で買い物なんかするものかと、こんどは確信にかわるのである。

平成17年9月から、ビール券には有効期限がついている。
期限内につかわないと「紙切れ」になるから、なるべくはやくつかわないといけないし、どの店でつかえるのかまで「Google先生」にきかないとわからない。

やれやれである。

大学の式典用標準服制定という発想

ながかったゴールデンウィークがやっと終わって、ほっと一息ついているひともいるかもしれない。
「連休疲れ」は、仕事での疲れかたとちがって、遊び疲れだから始末が悪い。

この連休前の4月25日に、名門、東京女子医科大学でユニクロのウェアが同校の式典用標準服に推奨されたというニュースがあった。
この「ニュース」の主眼は、ユニクロというカジュアル・ウェアを得意とし、品質の高さと価格の安さがなによりの特徴である企業の服がえらばれたことにある。

ようは、ユニクロの服が大学当局によって指定された、ということだ。
それで、記事ではファーストリテイリングの広報が、質問にこたえている。

ただ眺めれば、なんということもない「記事」なのだが、決めた側への取材がない。
それで、アパレル側の説明に、式典や実習教育の場など、学生がスーツを着る機会がおおいので大学側から相談があったのだという。

記事に添付された写真では、ことしの入学式に、おなじ服を着た新入生がずらりと並んでいる光景が紹介されている。

日本人がみれば、この写真もとくだん目にとまることはないだろう。
街で「リクルートスーツ姿」をみかけるだけで、就活の学生だとわかるくらい、だれもが似たような色とデザインの服、それに鞄と靴をはいている。

大手求人企業が主宰する、学生のための就職セミナーで、企業側の目線からの講演を依頼されたことがあった。
約500人ほどが熱心に聴講してくれた。

壇上からの景色は、ほぼ真っ黒の服で埋まっていたから、じぶんを採用して欲しい面接官に、おなじ服でアピールはできないのではないか?とはなしたことをおもいだす。
もちろん、奇抜な服を着ろといいたいのではない。

すなわち、プロトコールやエチケットにかんする知識が貧弱なために、どんな服装ならよいのかを決めるのに、じぶんではわからないから、洋服屋の「標準服」を買えば済むということだろう。
そんな服を買い与える親も、同様に知識がないし、いちいち選ぶのが面倒だからよしとしているはずである。

しかし、ここには、周囲のひととおなじである、という主張をして、それが「安心」なのだというかくされた心理がある。
「同化」こそが、じぶんは異端ではない証拠だと、じつは積極的に主張しているということだ。

かつて、スターリンも毛沢東も、人民服を着ていた。
映像が粗く、いまのように4K、8Kどころかハイビジョンだってなかったから、おなじ色合いでおなじデザインなら、すばらしい絹の服であっても、人民とおなじなのだといえば、よほど近くにいなければわからない。

そんなわけで、旧社会主義国だった東欧では、スポーツ以外でおなじ服を着るということが、忌み嫌われている。
冠婚葬祭だって、プロトコールやエチケットの範囲をこころえて、各自がそれなりの衣装をまとうことになっている。

それが、自由、というものだ。

日本では、入学式はあたりまえだし、学期末にも、学期のはじまりまりにも「式」があるし、社会に出ても入社式という「式」がある。
これは、文化だから文句はないが、欧米にはこうした「式」がほとんどないことはしっていていい。

東欧の有名大学で日本語を教えている日本人の先生から直接きいた話で、あるときふと授業中に、街でおこなう日本祭りへの学生たちの参加にあたって、日本語学科でTシャツをつくってそれを着たらどうかと話したら、正式に学生から抗議があったという。
それで、学部長と学長にも相談して、正式に謝罪したということだった。

冒頭の記事を先生におしえたら、そんなことをしたら当地ではどんなことになるか、想像するだけでおそろしい、という返事をいただいた。

これは、あんがい笑えないはなしだ。
つまり、じぶんが何を着るのかすらじぶんでかんがえなくてよい。
うえ(当局)からの指示にしたがえば、まちがいはない。(身の危険もない)

慣れれば、たいへん楽ができる。
些細なことに気をつかわなくていいし、余計なおカネもつかわなくていい。
ましてや、同化することの安心感も与えられる。
すなわち、愚民化である。

しかし、これこそが、人民服着用義務の主旨ではないか。

日本の名門大学で、しかも、医学や看護を主とする人材育成の場で、まさかの個人の自由に対する侵害と愚民化が、堂々とおこなわれていることが、「ニュース」なのではないか?

公共放送もふくめ、ニュース番組の気象情報のコーナーでは、とくに季節の変わり目に、明日はどんな服を着たらよいかといって、こんな服、を画像とともに紹介している。
これに、アンカーの女子アナが「いいこと聴きました、明日はそれを着ます」と笑顔で伝える放送がある。

いまどきの東欧圏なら、放送局への大規模抗議デモにもなりかねない、個人の自由への侵害と映るはずだ。
何を着るかは自分でかんがえる。放送では、天気に気温と湿度、風向きと風速の情報「だけ」でいいと。

大げさでも、笑い事でもなく、日本人はそれを「優しさ」だとおもい、お節介だともおもわない。

かつて、自由をうばわれていたひとたちは、あこがれの自由を手にいれただけに、自由に対しての攻撃に敏感である。
国家権力によって、かんたんに、あっさりと奪われる自由とは、じつに繊細なものだと苦しい経験からしっているのである。

あぶない発想をしているのは、じつはわれわれの方なのである。

数学という「言語」

「韓国発の英語教育革命」が、受けているのは、官僚主義的無責任の教師たちによる犯罪的時間のムダづかいだけでなく、現実的に「英語嫌い」という被害者(「英語戦死者」の山)を量産しつづけていることのアンチテーゼだからである。

いってみれば、安かろう悪かろうの極地である。
公立学校の授業料は、義務教育なら無料だし、高等学校でさえ劇的な負担を強いられるものではない。
私立は別だったが、もはや「高かろう悪かろう」にさえなりかけているのは、文科省さまのおかげである。

わが国の就職制度は、新卒だろうが中途だろうが、基本的に世界標準の「ジョブディスクリプション」がない。
それだから、「就『職』」ではなくて、必然的に「就『社』」になる。

会社や役所に採用がきまってから、しごとがきまるし、どんな職場に配属になるのか基本的に本人はしらない。
接客を主とするサービス業でも、おおきな組織になれば、入社したひとの配属先に社長がみずから口をはさむことはなく、人事担当者の裁量にまかせられていることだろう。

これが、生涯つづくから、本人がしらない「ジョブ・ローテーション」が人事部によってかってに組まれて、その育成方針さえも本人には伝えられない。場あたり人事でも、ローテーションだといわれるものだ。

だから、一生懸命と一所懸命が、まざりあって、専門なのか総合なのかわからないのに「総合職」とよばれて、だれも不思議におもわない。
日本企業には「経営(マネジメント)職」がない。

経営は経営陣になってから、という思い込みと身分制で、若いときからの訓練プログラムもないから、素人が経営者に社内昇格して、役員という安全地帯に身をゆだねれば、社長にならずとも優雅なくらしが社内・社外ともにできるようになっている。

なにも、コンサルタントのしごとをふやしたいのではなくて、この状況がわが国の生産性を向上させない、かなり根本にちかい原因だとかんがえている。

それは、ジョブディスクリプションがないことで、社会がどんなしごとを求めているのかがはっきりしないから、専門教育の場も「ぬるま湯」になってしまうからだ。
それが、わが国をむしばむ大学のリゾート化であるし、計画なき人事の正体でもある。

なんとか、下の高等学校がもちこたえているように見えるのは、「受験制度」というダムがあるからだったが、少子化という総需要減少でこのダムの機能がうしなわれそうになっている。
もはや、高校も大学も全入時代、になったからだ。

むかしを単純になつかしむものではないが、高校や大学に行けない、行かないひとたちは、その分の時間で職業人としての訓練をうけていたから、リゾート大学での時間は、社会の生産性を低下させていることも意味する。

日本の高等教育は、もじどおり「高等学校」からはじまる。
中学校と高等学校のレベルのギャップはあんがい大きいし、高等学校の教師たちは、中学校のように手取り足取りといった面倒をみてはくれない。

「高等」なのだから、「自己責任」だといって突っぱねる。
しかし、あとからわかるのは、突っぱねた理由が、ほんとうは質問されても答えられないという現実が、教師の立場をあやうくするからではなかったか?

生半可な勉強で、リゾート大学をでたくらいでは、およそ生徒の質問に即答できるはずがない。
唯一の自慢は、受験制度による上位校に生徒とおなじ年齢のころに合格した、という一点しかない。

日本の高等学校の科目で、最高難易度なのは、「数学」だろう。
「数Ⅲ」まできっちり受講させると、だれも単位がとれなくて卒業できないから、途中で「文系」という逃げ道をつくった。

この「優しさ」は、生徒のためでなく教師のためであることに気づくだろう。
数学嫌いで一生を過ごせたアナログの時代はおわってしまった。

いやがおうにも、サイエンスの基礎的センスがないと、従来の文系分野さえもついていけなくなることを、子どもである生徒がまだ気づかなくても、おとなである教師がしらないはずがないのだが、これがあやしい。

「学校」という狭い世界は、かなり世間から分離されている。
民間企業に勤めた経験が教師には「ない」から、商業高校の簿記の先生すら、企業の経理実務をしらないのだから、普通科高校とて推して知るべし。

そんなことよりも、三年間もかけて簿記検定で生徒たちを最低で二級、数人に一級を取得させれば「おんのじ」なのである。
市中の経理学校は、二級なら三ヶ月コースになっているのはどうしたことか?
生徒をバカにしているか、よほどおしえ方にリアリティがなくて下手なのだ。

ほんとうは、おしえ方がわからない、じつは素人の教師たちをすくうため、採用した教育委員会と文科省が、採用責任を問われる前にさっさと逃げ道をつくったのである。
英語戦死者も、当然に被害者だが、数学戦死者も成長が前提の社会でなくなったとたんに、職探しもままならない状態におとしめられてしまった。

だから、とくに「英・数」の二科目における、怠慢は犯罪的なのである。

中学校からならうことになっていた英語が小学校からになって、その小学校でプログラミングをならうことにもなった。
しかし、一般人に「大丈夫なのか?」と不安がたえないのは、例によってかんがえ方をおしえないで、方法ばかりをおしえないか?ということだ。

最高難易度の数学とは、じっさいには「微分・積分」をいう。
日本における伝統的な数学教育も、計算方法に重心をおくから、生徒にはなにを学んでいるのかがわからなくなって、無味乾燥な授業の強制にふつうは耐えられない。それで「普通科」というのか?

数学をむずかしくさせているのは、表記として簡潔さを追求したはずの「記号」が悪役になっている。
しかし、よくよくかんがえれば、数学における数式は世界共通の表現方法だから、じつは英語よりも強力な世界「言語」なのである。

「微分・積分」は、おどろくほどの応用がされていて、「予測」にもひつようだから、「統計学」とならんで、マーケティングなど、文系ビジネスマンにこそ、しらないではすまされないことになっている。
もちろん、計算はいまどき数千円の関数電卓やパソコンがやってくれるから、なにがって、かんがえ方の理解がいちばん重要なのだ。

ここでも、元予備校講師の著作がやくにたつ。
左側は半日もかからないで読みおわるけど、イメージがわかれば最初の一歩としては十分だ。
あくまで、「言語」における「文法解説」だとして読まれたい。

なお、右側はまだ出版されていないから、「予約」あつかいである。
ユーチューブに「ヨビノリ」(予備校のノリ)で動画をあげている博士課程東大院生によるわかりやすい授業は、15万人がチャンネル登録している。

大学で理系の学生のおおくがついていけなくなる数学・物理・化学は、やはり「おしえ方の問題」だとズバリ指摘している。かれの主張が、ただしいのは、かれの授業がわかりやすいからである。

大学教授にして、おしえ方のプロはすくないのだ。つまり、ほんとうは理解できていないひとが、「研究が主体」だといいわけして教授職におおぜいいるという意味でもある。

 

「十七条の憲法」だって?

さいきんは「聖徳太子」といってはいけなくて、「厩戸皇子」といわないと歴史のテストで減点される。
亡くなってからおくられる「諱(いみな)」が「聖徳太子」だから、生きているときの業績をいうなら「厩戸皇子」でないといけないということらしい。

日本の歴史学会というのは、なにかあやしい。
では、なんのために「諱」をおくるのか?
後世の人びとに、その人物の功績をつたえるためではないか?
ならば、諱をつかってなにがいけないのか?

明治天皇も、大正天皇も昭和天皇も、諱である。
昭和時代の昭和天皇をふりかえって、裕仁天皇と呼べとでもいうのだろうか?

今月4日、元号「令和」を考案した国文学者の中西進氏が講演で、令和の「和」が、十七条の憲法における「和を以て貴しとなす」の「和」だとして、この憲法の趣旨を現在の宰相にも求める、と発言したことが新聞記事になっていた。

国文学者の自由な発言をさまたげるものではないが、このひとはたいへんな勘違いをしていないか?
そうおもうと、まことに残念である。
ゴールデンウィークの「憲法記念日」にちなんで、書いておこうとおもう。

日本語の表記として「憲法」とあるから、よくよく混同されているが、飛鳥時代の「憲法」と、近代国家の「憲法」は、まったくの別物である。

わが国の歴史では、11世紀末の白河上皇の院政までをもって「古代」とするから、聖徳太子=厩戸皇子のいきた飛鳥時代は、まちがいなく「古代」になる。

ちなみに、大化の改新は、太子死後のできごとで、中央政府に権力を集中させるための「改新」であるし、その後の壬申の乱は、天智系と天武系の系統争いとなる古代最大の内乱だった。

一般に、「十七条の憲法」は、じゅうななじょうのけんぽう、とか、じゅうしちじょうのけんぽう、と読まれているが、当時の大和言葉では「じゅうしちじょうの『いつくしきのり』」という。
つまりそもそもが、けんぽう、とは読まない。

こんなことを、国文学者の中西進氏がしらないはずはないから、彼の発言は、そうおうに政治的である。
つまり、「わざと」だろう。

いうまでもないが、近代民主国家の憲法とは、国民主権という概念が中心にある。「民主」だから国「民主」権なのだ。
古代の「いつくしきのり」にある、十七の条文に、国民主権の概念などあろうはずがない。

つまり、穿った見方をすれば、中西氏は国民主権よりも、「和」という概念を優先させろという主張にもきこえるから、じつはたいへん危険なことをいっているのだ。
すなわち、「和」を優先させるなら、独裁者でもいいと。

ここに、この記事をのせた新聞社の「偽善」もみてとれる。
ほんとうに、日本を代表すると自認している新聞社が、この程度の「政権批判」でも、政権批判ならなんでも掲載するというだけでいいのか?
昨今の部数激減の意味が、よくわかるというものだ。

いわゆる「護憲派」というひとたちの、絶望的な薄っぺらさがみえてくるのである。
それは、利敵行為そのものだからだ。
誤解がないようにいえば、わたしは安倍政権を支持してはいないけれど、だ。

永世中立がゆらいだからか、スイスの仕組みが日本でいわれなくなった。
56年前の1963年に、スイス連邦法で、個人宅に核シェルターの設置が義務づけられたので、スイスにおける核シェルターの人口あたり普及率はすでに100%を達成している。

世界ではもう一カ国、イスラエルが100%を達成している。
ちなみに、わが国は0.02%だという。

この法律ができたとき、キューバ危機という大問題があったのだが、スイスを取り囲む周辺国のひとびとは、眉をひそめたものだった。
自分たちだけが生きのこればいい、というかんがえはいかがかと。

そんなわけで、いがいにもスイスはヨーロッパの「嫌われ者」なのである。
「合理的すぎる」、「すべてに計算をしている」ということが、人生は楽しむべきで人間らしくない、というのは隣国イタリア人の弁である。

一国だけでも生きのこる、このスイスの覚悟の真逆がわが国である。

それは、憲法前文にある、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」にあるとおり、他人まかせを決めたからだ。

だから、日米安全保障条約は、この前文を書いた時点で憲法の趣旨どおりになっている。
むしろ、アメリカによる「片務的」な日本防衛こそが、憲法のねらいなのであって、それが「属国」といわれようが「決意」したことだ、とかいてある。

トランプ大統領が、ならばカネを出せ、というのは、「片務的」だからこそだと主張しなければならないのがわが国の立場であるから、「相互的」になってはいけない。
これが、野党のいう「集団的自衛権」の問題だろう。

ならば、護憲派はアメリカではない国に「片務的」に防衛をお願いしたいとかんがえるひとたちだと定義すれば、素直だろう。
「九条」ではなく、「前文」をまもっているからで、だったら、もっと素直に「親中国追従」「親北追従」と自称したほうがいさぎよい。

拉致問題を独立国として解決できないのも、この他人まかせの決意によるからだ。
すると、わが国はほんとうに「独立国」なのか?
おそらく、リヒテンシュタインのような「独立国」なのだろう。

けれども、世界第三位の経済大国で、歴史上アメリカと宣戦布告をともなうサシの戦争をした唯一の外国であるわが国が、かってに「他人依存」を決めたのだといっても、世界の常識からかけはなれてしまった概念だからだれも信じない。

それにしても、よく読めば、この前文は、「和を以て貴しとなす」そのものではないか?
すると、日本人は、外国人にも「和を以て貴しとなす」を強要しているのだとわかる。

この「独善」は、ある種、傲慢でもある。

なるほど、スイスとは真逆に周辺国から尊敬もされず嫌われる理由だろう。

怒りの「フォニックス」

英語ができない。

ところが,この「できない」ということの意味には、あんがい幅がある。
学校の試験が「できない」のも、会話で「話せない」のも、読んで「訳せない」のも、手紙やメールが「書けない」のも、みんな「できない」というからだ。

おおくの日本人のばあい、英語とであうのは中学校にはいってからだったので、さいしょにくる「できない」は、試験ができない、である。
それから、高校にいけば、もっと「できない」になって、大学受験という試練まで、「できない」がつづく。

ちゃんとした大学にいけば、「できない」をなんとかするひともいるが、リゾート化した環境にながされれば、「できない」ままで就職する。
そんなわけで、試験が「できない」からはじまる悲劇は、とうとう一生にわたるようになっている。

「無惨」である。

この無惨は、本人がいけないからなのだろうか?
いや、このブログでなんども書いたが、なんといってもまずは「教授法」がなっていないのである。

だから、教授法の無惨、とちゃんと書いて表現しなければならない。

しかし、一方で、教授法が無惨になったおおきな理由もある。
それが、「試験」だ。
つまり、生徒の理解度の順位をきめて、最後は受験の進路指導をしなければならないから、英語ができなくても「試験」ができればいいのだという「倒錯」が生まれたことが原因だ。

しかも、その設問は、日本語思考をしたときに混乱するであろうことに集中するので、ネイティブが解けない、設問の意味がわからないという笑えないはなしになっている。

明治政府が採用した「高等文官試験」という制度は、わが国の歴史上はじめて採用された「中国式」の「科挙」であった。
わが朝廷の公家文化でも、武士社会でも「科挙」はいちども採用されたことがなかった。

国家優先の開発独裁を実行し、「富国強兵」を実現するには、明治政府に賛同する武士階級だけではたりないから、科挙を実施したのだ。

もうそんな時代はとっくにおわったのだから、政権に貢献したひとを「猟官制」で高官として採用すればよい。
どんなに役所の実務経験がなくても、だれにでもできる、のが行政の本質であるし、だれにでもできなければおかしい。

決めるのは、選挙でえらばれた「首長」と、「議員」であって、行政の役人とは、その決まったことを粛々と実行するひとだからだ。
こんなことをしたらどうだ?という「企画」を、役人にやらせるからおかしくなるのであって、それは「首長」と「議員」の怠慢にほかならない。

だから、そんなことをしたら、役所の機能がうしなわれて、国も地方もたいへんなことに、はならない。
そもそも、どーでもいいことを難しそうにやっているふりをしているのが役人だからだ。

むしろ、国民や住民の「依存ではない」こまったが、AIを応用した役所に変換させるエネルギーになれば、みんなハッピーになるのである。
勉強ができて優秀な人材は、なるべく民間企業に就職させるように仕向けるのが、働きかた改革の本筋である。

もう十年以上前に、とある地方の「市」で、ちいさな事件があった。
この市では、中学校の英語の補助教員として、外国人を採用していた。
事件とは、その外国人の排除運動のことである。
ようは、辞めさせろ、というはなしだ。

要求したのは生徒の親であった。
その理由は、この外国人の英語の発音が「変だ」と、生徒であるじぶんの子どもがうったえたということだった。
この親は、じぶんの子どもを駅前の大手英語教室にかよわせていて、その教室の先生とぜんぜん発音がちがう、ということだったのだ。

役所である当地の教育委員会は、けっきょくこの親子の意見をとりいれて、当該の外国人補助教員を解雇した。
もちろん、親がうまく周辺の親たちをとりこんで、署名活動までして多勢になったことが、役人の責任逃れに火をつけただけだ。

解雇要求は、日本ではまず「辞職勧告」となる。
それで、この人物は、本来の日本留学先であった地元にあるわが国を代表する難関有名大学の教授に相談したのだ。

おどろいたのは相談を受けた教授で、本人のオックスフォード大学における「英語学」での学位についてやその他の研究成果を記述した書簡を、市の教育委員会におくったが、役人たちは無視したという。

このひとの英語は、完璧な「キングズ・イングリッシュ」で、駅前の英語教室の講師は豪州人だったという。
ここで、問題のおおもとが「発音」だったことに注目してほしい。
なお、豪州人の発音について、欧米人のイメージがわかるのは下の人気映画だった。

 

じぶんの英語がダメだと生まれてはじめて日本人に指摘されたこの人物は、辞任後に「日本でいい体験をした」と述べて英国に帰国したという。
それは、「英語無知」という体験が、まさか先進国の日本で確認できるとは夢にもおもわなかったからだと。

松香洋子『フォニックスってなんですか?』(mpi、2008年)の冒頭に、著者が体験した「怒り」の物語がある。
著者は、日本におけるフォニックス普及と教育の第一人者だ。

「公共の学校」と、彼女が主宰する「民間の学校」の役割を明確に区別しているから、立派なひとにちがいない。
それでも、一部の公共の小学校や中学校の授業に、彼女のメソッドが導入されているらしいから、ご同慶に堪えない。

わたしのような英語被害者が、少しでも減ることは、将来の日本人が幸せになるための条件でもある。

しかし、彼女のメソッドのインストラクターを、公共の教師がちゃんと受講しているかわからないから、やっぱり公共の学校だけに任せると、英語被害者が量産されつづけるにちがいない。
なんにせよ、親の「英語無知」が心配だ。

学研の『ジュニア・アンカー英和辞典』にも、フォニックスの解説はあるし、英語教育学会の異端児だった、若林俊輔編『ヴィスタ英和辞典』(三省堂、1998年)には、フォニックスとは明記せずに解説が載っているものの、編者の他界で初版にて絶版になっている。

 

試験でなくて、英語ができるようになりたいなら、上記の辞書だけでなく、CD付の第一人者の本は手にして損はないはずである。
別途、専用の音が出るペン(イヤホンもつかえる)もあるから、おとなだってひそかに練習できる。
発音と綴り方の「法則」がわかって、目から鱗が落ちること、確実である。

風呂で泳ぐ子どもたち

過去最長のゴールデンウィークである。
わが国の「祝日」が、世界でもっともたくさんあるのは、自慢できることなのかどうなのか?

「生産性をあげるため」のはずの「働きかた改革」が、単なる残業削減に陥って、「森」と「木」が逆転したのは、企業経営者がかんがえなければならないことを、政府が命令したからだったが、「休日」も政府が「祝日」を指定して休めと命令しないと休めないのが日本人になった。

有給休暇も「強制取得」の時代になった。
これは、政府もあきれたうえのでのことかもしれない。
もちろん、全員ではないが、日本の経営者に「有給をとるのは悪」という発想がある。

「担当者がいないからわかりません」
この一言が、どれほど人間をバカにしていることなのか、その本人だって気づいていない。
お決まりの「お役所ことば」だったはずが、しっかり民間に伝染して、いまではどちらさまでも聞くことができる。

とうとう、「責任者」不在の無責任が、「担当者」にまで拡大した。
そのうち、それは当社の業務ではありません、というようになるだろう。
どちらの会社も、みんなでそういえば、いわれた側は対処の方法をうしなって、あきらめるしかない。

まさに、「赤信号みんなでわたればこわくない」が現実となった怖い社会の到来を予想させる。

これに、いつだれがどのように「キレル」のか、予想がつかないことになったから、「触らぬ神に祟りなし」という古来の伝統が現代に生きる社会にもなっている。

サリン事件という化学テロが世界ではじめて発生してから、もうすぐ四半世紀にならんとしているけれども、公共の場から撤去されたゴミ箱が復活しない。
さいきんでは、一部コンビニからもゴミ箱がきえて、売りっぱなしの無責任がはじまった。

ほったらかしでいいのだ。
というのが「自由」でかつ「平等」だということを信じて、生まれたばかりのじぶんの子どもを真冬の外気にさらして死なせたのは、ジャン・ジャック・ルソーだった。

教科書裁判で有名になった家永三郎は、戦中の体制派だったころに「ルソーは重度の分裂病」だと記述している。
精神を病んで、偉大な哲学者といわれるひとはおおいから、なにもルソーだけを特別視してはいけないのだろうが、事実上の子殺しまで(しかも繰返し)しているのだから、わたしにはまったくの狂人にみえる。

そんな人物の「教育論」を、欧米でまともなひとに読まれることはないというが、なぜか戦後の日本では、教職課程なら必読とされつづけているのが『エミール』である。

ついでに、『人間不平等起源論』では、むこうから歩いてきた女性がじぶんの好みなら、その場で犯してもよいという「説」まであって、読むに堪えない。
これが、「啓蒙主義」のかくされた本性である。

  

じつは、「自由」と「平等」が「権利」になって、一歩まちがうととんでもないことになるのである。
そのとんでもいないことのひとつが、さいきんでは「あおり運転」や、その結末としての悲惨な事故だった。

そんなわけで、もはやドライブレコーダーは、自動車の「必要装備」になった。
これまでとちがうのは、カーステレオやカーエアコンのように、利用者の利便性向上のための「必要装備」なのではなく、いつ被害者になるかわからないことへの準備となっていることだ。

公共の場所として、もっとも無防備なのは温浴施設である。
「裸のつき合い」とは、マスコミ用語であって、べつに知らないひとと「裸のつき合い」なんてしていない。

こういうひとたちにかぎって、自宅の浴室にたっぷりおカネをかけて、それは優雅な入浴タイムをたのしんでいて、公共浴場など行ったこともないから、平気でそんなことをいえるのである。

それで、大浴槽で泳いだり潜水したりしている子どもをみたこともないから、「他人の子どもを注意してくれるおとな」がいて「教育にもいい」などというたわごとがいえるのだ。

「注意」すべきは、「親」自身であって、他人はかんけいない。
じぶんの子どもの行為について、いいかわるいかも、他人のおとなにいってもらわないといけないなら、まさにルソーのような状態になっている。

他人のおとなは、たんに迷惑をこうむっているだけで、浴槽でじっとガマンをしているのである。
そして、「早くでろ、このバカ親子」と念じている。

そのうち、浴場で「裸同士」の事件がおきて、それを「裸のつきあいのもつれ」などと報道するのだろうか?

そして、監視がだいすきなひとたちが、とうとう浴場内に監視カメラを設置して、その映像がネットにアップされる事件もおきるのだろう。

たとえルソーを読んでも、その気になってはいけない。
「いけないこと」が書いてあるのだ。
であるからこそ、すくなくても、教育者たちは、『エミール』を棄てるべきである。

そうしないと、いつかじぶんが被害者になる。

「こどもの日」のこどもがおとなになってしまった国である。

十連休の意味とは?

経済をささえるインフラのなかで、もっとも重要なのは金融で、企業家が資金を得るための手段で、借入や株式市場がなければはなしにならない。
わが国では、はじめて紙幣を発行しておカネを貸してくれる銀行をつくったのが渋沢栄一で、そのあとに株式市場をつくったのも渋沢栄一だった。

銀行 → 株式市場、という順番になっている。
それでかしらないが、資金調達の手段のもっとも「主」要な方法が、銀行からの借入で、株式発行による直接金融のほうが「従」の時代がながかった。

銀行をひとくくりにまとめて、護送船団方式で管理するやり方が、官僚にとってやりやすかったからである。

それで、ゴールデンウィークの「十連休」を、金融機関にも命じたのが「祝日」指定だから、一般人といっしょに金融機関のひとたちも休むことになったのは、金融が特別なものではなくて「ふつうの産業」だと、役人がみなしたからである。

じぶんの預金をおろすのに、手数料を取られる。
金利がちゃんとつく時代ならまだしも、当座預金同然になっている。

ホンモノの当座預金なら銀行から「小切手帳」をわたされて、現金でなく小切手を切れば、安全に決済ができるという発明があった。
ちいさな国がひしめくヨーロッパでは、国がちがえば通貨もちがうので、陸続きの大陸で、小切手は安全かつ確実な「通貨」同様の役目をはたし、これを支えたのがユダヤ人のネットワークだった。

日本では、もっとちいさな国である「藩」がひしめいていたが、幕府という中央政府があったから、通貨単位は基本的に全国で共通だった。
金貨の流通と銀貨の流通という地域でのちがいが、両替商という商売をつくって、かれらのなかで通用する「為替」を発明したのだった。

この「小切手文化」と「為替文化」のちがいは、クレジットカードの意味のちがいになっていると以前に書いた。

いわば、これは、金融の「基盤がちがう」ことを意味している。
外国の「BANK」を「銀行」と訳すのはただしいが、外国の「BANK」と日本の「銀行」は、じつは似て非なるものである。

これと同様なのが、証券会社で、外国の「stock company」や「securities」を「証券会社」と訳すのはただしいが、外国のこれらと日本の「証券会社」は、似て非なるものである。

なにがちがうのか?
「法律」がちがう。
しかし、「法」とは最低限の取り決め・ルールのことである、という原則にたちかえれば、「精神」がちがう、というところにまでたどりつく。

外国の金融機関は、顧客への「サービス(顧客利便性)」を優先させるが、日本の金融機関は、「政府(の命令)」が優先するのである。

その証拠が、十連休中に現金をどうやって引き出すのか?という問いでわかる。
現金を引き出したいとかんがえ行動するひととは、金融機関から観れば「顧客」のことを指す。

だから、外国の金融機関なら、顧客に不便が生じないような方法をかんがえだすものだが、その前に、かれらに「十連休」という「概念がない」ことが重要なのだ。

基本的に、政府指定の「祝日」が日本ほどない。
銀行も証券会社も、あるいは証券市場すら、数日の連休はあっても、五日を超えて二桁になる連休などない。

顧客の「決済」をとめる、「換金」をとめる、という発想がないからだ。
つまり、金融とは、社会に特別なものだというかんがえかたが根底に存在する。

ところが、日本ではそもそも「顧客」とはいわず「利用客」という。
おなじ「客」という字があるけれど、「利用させてやっている」感がある。
これは、政府の目線なのだが、それが「現場」に伝染してしまうのだ。

連休前の平日になるべく引き出しなさい、という意味の案内は、「顧客優先」の発想からはでてこない。
ならば、店を開ければいいのである。

しかし、事業者からすればこんなことではすまないだろう。
月のうちの三分の一の日数が、決済も換金もできないのだ。
「仕事にならない」ではないか。
10連休倒産は起きないのか?

「奉祝」気分と、金融実務は別である。
これでまわる日本経済とは、鎖国をしているのではないかとうたがう。

世界経済から取り残されてしまったら、たしかに何連休しようが影響はない。
ただし、金融とは相手がいることを忘れてはならない。

日本株や円といった、出島のような世界との接点において、外国からの投げ売りやアジア通貨危機のような円への攻撃があるばあい、どうやって防戦するのか?

まったくもって、手段をうしなっているのが10連休である。

何事もなかったら、それはそれで、サーカスの綱渡りに成功したとよろこぶのか?

金融マンのホンネがしりたい。

黄昏のEU

日本では忘れられた経済学者になっているハイエクであるが、ハイエクによる「予言」を昨年に書いている。

ようは、EEC → EC → EU とつづくヨーロッパの行方を疑問視し、はては亡くなる前にEUの終わりかたまで書き残したひとである。
そして、その終わりかたどおり、終わろうとしているようにみえてきた。

イギリスのブレグジットはなんなのか?も、前に書いた。
重複するが、友人の英国人が「国会が北京にあって、最高裁判所がソウルにあったら日本人としてどうか?」といっていた。

それに、「EU官僚」というひとたちがきめる「超国家指令」が、一般人にも国家とはなにか?を再考させるにあたいするほど腹立たしいと。

それは、移民の割り当て数を決められたりして、これを国家として拒否できないとか、外国人の犯罪者を強制送還できないとかにまでおよぶ。
日常生活における慣習も無視した指令もあって、「???」がつくことばかりだと。

すなわち、究極の超国家官僚主義体制がEUで実現しているのだ。

こまったことに、日本の報道は地に落ちて、ブレグジットでたいへんなことになる、ということばかりがいわれているが、主語が「英国」なのか「EU」なのかが不明なはなしもある。

たしかに、英国からホンダが撤退をきめたりといったニュースはあるが、英国経済をホンダ一社がささえているのではない。

「合意なきブレグジット」と「合意」のちがいがなんで、英国議会がどうして何回も否決するのかも、くわしい報道があるとはいえないのに、世界経済がたいへんなことになるということばかりがいわれるのはどういうことなのか?

もし、日本の国会でこんなにも否決されたら、内閣がその都度総辞職させられそうだが、メイ首相はよほどの強者なのか、与党保守党にかわりがいないのか?

そもそも、メイ首相がEU側ときめた「案」は、離脱するのかしないのか、それともEUという蜘蛛の巣にからめとられてしまったのかがわからない案なのだ。

英国は離脱をするが、数年間はこのままで、その間は、EUいがいの他国と独自協定は結べない。
それで、保守党の離脱強硬派である元外相は、われわれはEUの植民地になる、と発言している。

ようは、EUは英国の離脱をゆるさない、という態度で一貫しているのだ。
もし、英国が前例となれば、次々と離脱希望国がでてEUが崩壊するという危機感からだろう。

この魂胆がみえてきたから、離脱派が維持派をずいぶんうわまってしまった。

ただし、EUという枠組は、いったん加盟国の国境をなくしたから、英国には、北アイルランドとアイルランドの国境もきえた。
それが復活することになるから、どうするのか?がややこしい。
「特例」というものができるのか?

EUから離脱したら、英国はTPPに参加するといったけど、それは「合意なき」ばあいである。
すると、英国にとって「合意」が絶対条件で必須のものなのか?という疑問がある。

むしろ、「合意なき」という選択が、じつは合理的なのかもしれない。

ブレグジットよりも、EU問題の柱に、統一通貨「ユーロ」がある。
「経済共同体」としての「ユーロ」だ。
英国はとうとうユーロを採用しなかったのは、政治家がちゃんとハイエクを熟読していたからだろう。

早い時期からハイエクは統一通貨の不都合を論じていて、統一通貨としての帰結を「ヨーロッパ中央銀行の設立」だとした。
そして、あまりにも事情がちがう国々の経済を、おなじ通貨のために「統制」することが必要になるから、かならず域内で経済の強い国と弱い国の間で、通貨問題が発生して収拾がつかなくなると予想した。

ギリシャ危機やラテン各国の危機がこれだ。
そのために、ヨーロッパ中央銀行の権限が「強化」されたのは、歴史的事実である。
もちろん、「統制」が強化されたのだから、各国の経済政策の自主性はうばわれた。

そんなこんなで、EUをささえる大国は、もはやドイツ一国だ。
もし、ユーロがなくてマルクのままだったら、ギリシャに例えれば、マルク高ドラクマ安で調整できたものを、ドイツの信用でギリシャ人もユーロで決済できてしまったのである。
つまり、通貨間の為替調整機能がユーロによって妨げられたのだ。

そのドイツが、ドイツ銀行の経営危機で息も絶え絶えになってきた。
日本のメガバンクのような銀行だが、むかしの長期信用銀行のように、自行で債権も発行できる銀行だ。

それに、ドイツ銀行とはいっても最大時で10%の大株主は中国企業だった。
メルケルのドイツと中国の蜜月の遺産である。

もはやこれまでなのか、中国企業は全株を手放すとアナウンスしているけれど、この銀行がやっちまったのは、リーマン・ショックとおなじ債権の保険商品による巨額損失(260兆円)である。
英国にはわるいが、ブレグジットどころのはなしではない。

ドイツ政府も必死になって支えようとしているが、この銀行の破綻はそのままユーロの破たんになって、EUがすっ飛ぶこと必定だ。

英国人は、ドーバー海峡のむこうから、この風景をながめているにちがいない。

処方箋は、ハイエクの『貨幣発行自由化論』にある。
わが国も、いまどき「新紙幣」なんてものではなくて、ふつうの銀行に貨幣を自由に発行させればよいのである。

ただし、われわれはドイツをわらえない。
もっとひどいのが日銀だからである。
ほんとうに10連休もして大丈夫なのか?

「昭和」は遠くなりにけりとはいかない

とうとう「令和」がはじまった。
これでわたしも、昭和・平成・令和の三時代を生きたことになる。
記念なので、当ブログでも「時代」について書いておく。

タイトルはもちろん、「明治は遠くなりにけり」のいいかえである。
オリジナルは、昭和6年(1931年)に中村草田男が詠んだ句「降る雪や明治は遠くなりにけり」で、下の「明治は遠くなりにけり」が、ひとり歩きして有名になった。

中村草田男というひとの生まれは、明治34年(1901年)のアモイ(厦門:福建省)である。父は清国領事の外交官であった。
日清戦争が明治27年(1894年)、日露戦争が明治37年(1904年)だから、時代のスローガン「臥薪嘗胆」の最中のことである。

三歳になった日露戦争の年に、母方の祖父が松山藩重臣でもあった愛媛県に帰国しているから、厦門での記憶はあまりなかったことだろう。
しかし、30歳になったときに、母校での雪景色にて詠んだという句ができた。

時代は明治・大正・昭和とうつっているから、明治のころの学校生活の記憶とかさなると解説されているが、むしろ、記憶のうすい日露戦争前の厦門時代もふくまれているのではないかとわたしにはおもえる。

それにしても、30歳の作とおもうと、じつに「しぶい」。
いまの30歳とはいわない、じぶんが30歳のときに、こんな心境になりえたかとかんがえると、おそらくではなく確実にちがう。

「寿命」がムダに伸びているのかもしれない。

東京の谷中霊園にいくと、往時の価値感がわかる墓石が豊富にあるから興味深い。
「叙位叙勲」にくわえ「軍人」の誉れがよくわかる。

素直に「名誉」を「名誉」として遺族が石に彫り込んだのは、わるいことだと決めつけるわけにはいかない。
むしろ、誤解をおそれずにいえば、軍人の誉れがちゃんとしているのは、健全な社会である。

不思議とだれだかわからないひとの墓石の前に、背筋が伸びるのである。
そこに、凛とした「責任」を感じるからだ。

ましてや、たまにある事務的な看板に、管理費を滞納しないようにという注意書きをみるから、ここに残る立派な墓石は、「家」の子孫である関係者が、ちゃんとつづいていて管理費を納めている証拠でもある。

お墓参りのたびに、ご先祖のといってもたった数世代前の価値感にふれて、やはり背筋が伸びているはずである。

ただ、じぶんの家の苗字しか彫れない現代人の社会的名誉のなさが、あんがいうらまれる。
じぶんが生きた証拠を後世に残すというのが、墓石なら、谷中のひとたちのような彫りかたが、素直に目的合理性に合致している。

昭和時代はながかったから、戦後だけをもって「昭和」とはいえない。
むしろ、価値感がひっくり返ったのだから、すくなくても「前期」と「後期」にわけられるだろうが、戦争準備期間と戦争の時期もわければ、これを「中期」とすることもできるだろう。

「中期」は、国家総動員体制がととのう昭和15年あたりから終戦までをいうのがよいとおもう。
ただし、国家総動員体制じたいは、現在もつづいていいるから、令和になってもまだ「昭和中期のまま」でいるのだろう。

だから、「昭和」は遠くなりにけり、とはいかないのである。

むしろ、「昭和」がだいすきで、しがみついてでも放したくない。
けれども、その「昭和」とは、前期・中期・後期のどこなのかをわざわざいうひとはいない。

あえていえば、『三丁目の夕日』の時期か?
いやちがう。
テーマによって変化するから、あんがいご都合主義である。

むかしの「名誉」が大っぴらにいえなくなって、偉人が偉人としてあつかってもらえない。
そういう意味で、ヒーローがいない時代になった。
だから、ヒロインもいない。

これも「規範」の欠如のあらわれか?

ながい連休に時間をもてあそばせるなら、せっかくの時代の変わり目の記念に、名著『日本教の社会学』の復刻版でも読んでみてはいかがだろうか?
オリジナル版は、古書で一万円をかるく超えて、しかも市場に出ず入手困難だったから、図書館で借りた思い出がある。

ここに、令和となっても現代がかかえる根本問題が解説されている。
その「深さ」を味わってもらいたい。
しかして、その問題をとくのは、もう私たちから若い世代になっている。
せめて、問題の解きかたぐらいはアドバイスしておきたいものだ。

この本も、碩学二人の著者はどちらも平成にて物故している。
けれども、まったく「昭和」は遠くになりにけり、とはいかないのである。