怒りの「フォニックス」

英語ができない。

ところが,この「できない」ということの意味には、あんがい幅がある。
学校の試験が「できない」のも、会話で「話せない」のも、読んで「訳せない」のも、手紙やメールが「書けない」のも、みんな「できない」というからだ。

おおくの日本人のばあい、英語とであうのは中学校にはいってからだったので、さいしょにくる「できない」は、試験ができない、である。
それから、高校にいけば、もっと「できない」になって、大学受験という試練まで、「できない」がつづく。

ちゃんとした大学にいけば、「できない」をなんとかするひともいるが、リゾート化した環境にながされれば、「できない」ままで就職する。
そんなわけで、試験が「できない」からはじまる悲劇は、とうとう一生にわたるようになっている。

「無惨」である。

この無惨は、本人がいけないからなのだろうか?
いや、このブログでなんども書いたが、なんといってもまずは「教授法」がなっていないのである。

だから、教授法の無惨、とちゃんと書いて表現しなければならない。

しかし、一方で、教授法が無惨になったおおきな理由もある。
それが、「試験」だ。
つまり、生徒の理解度の順位をきめて、最後は受験の進路指導をしなければならないから、英語ができなくても「試験」ができればいいのだという「倒錯」が生まれたことが原因だ。

しかも、その設問は、日本語思考をしたときに混乱するであろうことに集中するので、ネイティブが解けない、設問の意味がわからないという笑えないはなしになっている。

明治政府が採用した「高等文官試験」という制度は、わが国の歴史上はじめて採用された「中国式」の「科挙」であった。
わが朝廷の公家文化でも、武士社会でも「科挙」はいちども採用されたことがなかった。

国家優先の開発独裁を実行し、「富国強兵」を実現するには、明治政府に賛同する武士階級だけではたりないから、科挙を実施したのだ。

もうそんな時代はとっくにおわったのだから、政権に貢献したひとを「猟官制」で高官として採用すればよい。
どんなに役所の実務経験がなくても、だれにでもできる、のが行政の本質であるし、だれにでもできなければおかしい。

決めるのは、選挙でえらばれた「首長」と、「議員」であって、行政の役人とは、その決まったことを粛々と実行するひとだからだ。
こんなことをしたらどうだ?という「企画」を、役人にやらせるからおかしくなるのであって、それは「首長」と「議員」の怠慢にほかならない。

だから、そんなことをしたら、役所の機能がうしなわれて、国も地方もたいへんなことに、はならない。
そもそも、どーでもいいことを難しそうにやっているふりをしているのが役人だからだ。

むしろ、国民や住民の「依存ではない」こまったが、AIを応用した役所に変換させるエネルギーになれば、みんなハッピーになるのである。
勉強ができて優秀な人材は、なるべく民間企業に就職させるように仕向けるのが、働きかた改革の本筋である。

もう十年以上前に、とある地方の「市」で、ちいさな事件があった。
この市では、中学校の英語の補助教員として、外国人を採用していた。
事件とは、その外国人の排除運動のことである。
ようは、辞めさせろ、というはなしだ。

要求したのは生徒の親であった。
その理由は、この外国人の英語の発音が「変だ」と、生徒であるじぶんの子どもがうったえたということだった。
この親は、じぶんの子どもを駅前の大手英語教室にかよわせていて、その教室の先生とぜんぜん発音がちがう、ということだったのだ。

役所である当地の教育委員会は、けっきょくこの親子の意見をとりいれて、当該の外国人補助教員を解雇した。
もちろん、親がうまく周辺の親たちをとりこんで、署名活動までして多勢になったことが、役人の責任逃れに火をつけただけだ。

解雇要求は、日本ではまず「辞職勧告」となる。
それで、この人物は、本来の日本留学先であった地元にあるわが国を代表する難関有名大学の教授に相談したのだ。

おどろいたのは相談を受けた教授で、本人のオックスフォード大学における「英語学」での学位についてやその他の研究成果を記述した書簡を、市の教育委員会におくったが、役人たちは無視したという。

このひとの英語は、完璧な「キングズ・イングリッシュ」で、駅前の英語教室の講師は豪州人だったという。
ここで、問題のおおもとが「発音」だったことに注目してほしい。
なお、豪州人の発音について、欧米人のイメージがわかるのは下の人気映画だった。

 

じぶんの英語がダメだと生まれてはじめて日本人に指摘されたこの人物は、辞任後に「日本でいい体験をした」と述べて英国に帰国したという。
それは、「英語無知」という体験が、まさか先進国の日本で確認できるとは夢にもおもわなかったからだと。

松香洋子『フォニックスってなんですか?』(mpi、2008年)の冒頭に、著者が体験した「怒り」の物語がある。
著者は、日本におけるフォニックス普及と教育の第一人者だ。

「公共の学校」と、彼女が主宰する「民間の学校」の役割を明確に区別しているから、立派なひとにちがいない。
それでも、一部の公共の小学校や中学校の授業に、彼女のメソッドが導入されているらしいから、ご同慶に堪えない。

わたしのような英語被害者が、少しでも減ることは、将来の日本人が幸せになるための条件でもある。

しかし、彼女のメソッドのインストラクターを、公共の教師がちゃんと受講しているかわからないから、やっぱり公共の学校だけに任せると、英語被害者が量産されつづけるにちがいない。
なんにせよ、親の「英語無知」が心配だ。

学研の『ジュニア・アンカー英和辞典』にも、フォニックスの解説はあるし、英語教育学会の異端児だった、若林俊輔編『ヴィスタ英和辞典』(三省堂、1998年)には、フォニックスとは明記せずに解説が載っているものの、編者の他界で初版にて絶版になっている。

 

試験でなくて、英語ができるようになりたいなら、上記の辞書だけでなく、CD付の第一人者の本は手にして損はないはずである。
別途、専用の音が出るペン(イヤホンもつかえる)もあるから、おとなだってひそかに練習できる。
発音と綴り方の「法則」がわかって、目から鱗が落ちること、確実である。

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