戦闘において退却をはかるとき、本隊を温存するため最後尾になってこれを防御する部隊を「しんがり(「殿」と書く)」という。
日本史だろうが世界史だろうが、自軍大将から「しんがり」を命ぜられたら、ふつうは生きて帰れないことを意味した。
敗走する自軍にあって、自らも逃げながら敵軍からの追撃を受けとめ、自軍本隊が逃げるための時間稼ぎをするのが役割だ。
したがって、おのずと「援軍」はいっさい期待できないから、全滅を覚悟する。
信長の敗戦として知られる「金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)」は、越前の朝倉義景攻略のはずであったが、義弟で盟友の浅井長政の裏切りで戦況は一変する。
このときの「しんがり」で大活躍し、その後の織田家中で一目おかれる存在になったのが秀吉だったと伝わっている。
アメリカで「サービス革命」を引き起こしたという伝説の図書は『逆さまのピラミッド』(1990年)である。
この年は、サービス業界むけにもう一冊の伝説的著作『真実の瞬間』も出版されているから、めずらしい「当たり年」だった。
『逆さまのピラミッド』は、よくある企業の組織構造で、社長をトップにおいたピラミッド型を、そのままひっくり返したのだから「革命的」だったのだ。
すなわち、なぜかサービス提供企業は、顧客接線(現場の最前線)に若いスタッフが配置されていて、ベテランになるにしたがって後方に移り、直接お客様との「接線」どころか「接点」もうしなうようにできている。
経験のうすい若いひとたちが、常に最前線にいるのである。
そして、肩書きがつけば、だんだんと後方に移動するが、なぜか顧客からみえないところで「指示・命令」をくだしている。
その意味で、経営トップである、例えば「社長」は、もっとも顧客から遠いところに座っていることになる。
ところで、サービス提供企業の収入は、すべて利用客から得るという構造だから、もっとも若いスタッフが「もっとも稼いでいる」のにもっとも賃金が安く、もっとも顧客から遠いひとがもっとも高い賃金を得ている、ともいえる。
これはいったいどういうことか?
サービス提供企業は、その組織のすべてのエネルギーを、もっとも若い最前線のひとたちが、もっともうまいやり方で行動できるように使わなければならない、という結論が導かれるのだ。
この意味で、社長はビジネスモデルとして「しんがり」なのである。
ところが、自分が「しんがり」だと自覚している経営者はかなり少数派だ。
おおくのばあい、現場長が「しんがり」になっている。
そして、こういうばあいほど、利益がすくない事業だといえる。
なぜなら、このようなばあい、つまり、ふつうのピラミッド型の組織をそのまま疑念なく信じるひとが社長のばあい、その社長は「お飾り」にすぎないから、とうぜんに組織のパフォーマンスは低下してしまうからだ。
しかし、こうしたパフォーマンスが低い状態が「ふつう」になるので、その組織はいつまでたっても「低い」ことを自覚できない。
これが、わが国サービス業が、先進国でほぼ「ビリ」という低生産性のほんとうの理由である。
そして、このようなばあい、生産性が低い理由を、現場の最前線に問題があると決めつけるのも、とうぜんの帰結である。
トップみずからの生産性がほぼ「ゼロ」あるいは「マイナス」なのに、じぶんからじぶんの生産性が「ゼロ」だと気づくこともできないのである。
現場での問題を解決するためにどんな戦略をめぐらすのか?
これは、そのときその場での戦術しかできない現場にあって、とうぜんだが、ふだんかんがえることではない。
もし、現場に戦略もかんがえろ、と命じるならそれはそれでトップの意志だが、それではやっぱりトップの存在意義がない。
トップみずからの役割は、仕組みをかんがえることであって、そのためには現場最前線での状況をくわしく把握するひつようがある。
だから、社長室に引きこもっているようなトップでは、トップとしての「しんがり」の役割を果たしようがないのである。
そんなわけで、トラブル発生となって、トップ自らが動かなければならなくなったとき、どこか他人ごとになるのは、ふだんから「しんがり」だとおもっていないからである。
そして、このようなトップほど「犯人探し」がだいすきなのだ。
自分の顔に泥を塗ったやつは許せん!
というわけである。
これを第三者の他人は、その無責任さに呆れながら現場の苦悩を想像するのである。
そして、自分の子どもに、こんな会社にはいっちゃダメだよ、と諭せれば、将来その親に感謝することにもなるだろう。
こうして、わが国サービス業界は今日も人手不足にあえいでいるのである。
募集しても募集しても、だれも応募者がいないのは、そんな会社で働きたくないからで、どうしてそう思われてしまうかをかんがえない。
トップこそ「しんがり」なのだとかんがえる癖をつけよう。