ヘンテコなZEH住宅

終の棲家をどうするか?

若くもないから20年ほどで売却できる家がいい。
それで、ひとさまにお世話になる「ホーム」という「家」にうつれば、いよいよ人生のしめくくりとなる。

そんなわけで、家をさがしはじめた。

住宅ローンをかかえていた家は、妹にくれてやってしまい、賃貸住宅に四半世紀も住んでいたが、定年すれば賃料が払いつづけられるのか?という「不安」がある。

しかし、東京オリンピックというイベントへの変な期待から、不動産価格が上昇しているし、そもそも新築物件の数が世帯数をうわまってしまったから、そのうち値崩れして安くなるとも期待している。

これを、「日本経済の崩壊」だというひとがいるけれど、平成バブルが崩壊してこのかた30年、ずっと崩壊したままだから、いまさら感がたっぷりある。

持ち家を買って所有することが、はたして有利かといえば、もうわからない。
賃貸に四半世紀も住んでいたら、所有の魅力はたったひとつ、好みの機能を実現するかガマンするかだけである。

ずいぶん前に骨董屋で購入した、「囲炉裏」をリビングに設置して、できれば自在鉤も天井からつるしてみたい。
そのための「排気」ができる家がほしい、という「希望」がある。
もちろん、囲炉裏端での「一杯」をやりたいのだ。

世界をみわたせば、円であろうがドルであろうが、その都度、相場は変動しているけれど、不変の価値をもつという「金(ゴールド)」を基準にすれば、この20年で金の価格は5倍にも6倍にもなった。
つまりは、世界の「貨幣価値」が、その逆数の、五分の一、六分の一になったわけである。

これを「株価」でみれば、アメリカのGAFAのような前世紀にはなかった新興企業だと、創業時から数十倍という価値がついているのに、日本企業の株価はバブル時の半分ほどをウロウロしている。しかも、価格維持を日銀がやっていてのことだから、とっくに末期症状を呈しているのだ。

これが、貨幣価値の減少を呑み込んでなおゆとりあるアメリカを示して、ひたすら貧乏になっているわが国をあらわしている。

つまり、円を円という貨幣で持っていると、それ「だけ」で貧乏になるのである。
だったら、物質に換えてしまったほうがいい、ともいえる。
そうはいっても、いまさら「金」を買おうにも高すぎるから、日本国内にいるかぎり、住宅でも買っておこうかということにもなる。

20代で自宅を建てた経験が一回だけなので、どんなことになっているかをあらためてしらべてみた。
前回は、祖父からの家の建て替えだったが、今回は終の棲家だから、土地からさがすことになる。

「通勤」をあまり意識しなくてもいいけれど、やっぱり「バス」は不便なので、年寄りになっても最寄り駅から徒歩圏がいい。
なんといっても、最後は「売れること」が購入の条件になるから、若いときとはぜんぜんちがう。

街の中心部人気に引きずられて、郊外の土地もなかなかの価格である。
ふと気がついたが、「都市ガス」がふつうではなかった。

むしろ、プロパンガスのほうが、カバー面積でいうとふつうなのだ。
「機動性」からしてあたりまえだが、都市ガスエリアから出たことがなかったので、なんだか「新鮮な発見」である。
家をかんがえるとは、こういうことかとしみじみおもう。

都市ガスエリアに照準をあわせるとすると、たちまち「郊外」の意味が限定される。
神奈川県の西部および三浦半島の一部が、供給エリアではないことをしった。

エネルギー供給という点からすると、見逃せない。
高額なプロパンガスのランニングコストを見限って、「オール電化」を選択する手もあるが、損得勘定の計算はややこしい。

この「計算」で、可笑しいものをみつけた。
それが、いつものとおり、「国が推奨する」という住宅で、なんと「計画」では、2020年までに新築住宅の半数以上を「ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)住宅」にすると、2018年の閣議決定「第4次エネルギー基本計画」でさだめている。

その前、2016年閣議決定の「地球温暖化対策計画」でも、2020までに「ZEH住宅」を半数以上にするとしているし、2017年閣議決定の「未来投資戦略2017」でもおなじだから、さすがは官僚によるすりあわせも完璧だ。

これらの「計画」こそが、国家による「統制」であって、スターリンの「五ヵ年計画」をいまだに追求する日本国という社会主義国の姿をあらわすものだ。
すなわち、わが国経済が停滞しつづけている「元凶」である。

「計画経済国家」の面目躍如だが、なぜにかくも「地球環境」というものに取り憑かれてしまったのか?
まさに「貧乏神」ではないか。この「神」にかしずく「神官」たちこそが、わが国の高級官僚なのである。

そして、普及のための手段が、やっぱり「補助金」なのだ。
つまり、「補助金」がもらえないと、ぜんぜん「割に合わない」ということになるから、「ぜんぜん、エコじゃない、ハウス(ZEH)」の意味でもある。あゝ情けない。

一級建築士の本橋哲幸氏によると、補助金認定のための基準をクリアする計算では、リビングを「せまく」すると「有利」になるというから、「ちんけ」な家をつくれと国が命令しているようなものだし、なんといっても詐欺犯罪的な太陽光発電をベースとしていることで、まったく反省のかけらもない。

じぶんのすきなように家も建てることもできないのだ。

ああ、海外移住したい。

国家資格のキャリアコンサルタント

コンサルタントいう商売には、いろんな分野がある。
その分野の専門家なのだから、さぞや「国家資格」という権威づけが必要だとかんがえがちだが、その「発想」自体が異常なこともある。

たとえば、アメリカの「税理士(EA:Enrolled Agent)」は、日本のそれとはおおきくことなる。
なぜなら、アメリカにおいての税務申告は個人がおこなう原則があり、なおかつ、誰でもが有料で税務申告作成をすることができるからである。

つまり、税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっていない。
必要性があるのは、アメリカ国内というよりも国際取引における「税務」なのだが、頻繁に変更になる税法にたいする資格保持のための継続教育の困難さから、資格自体がマイナーになっている。
そんなわけで、全世界でEA資格をもって活動しているひとは、48千人ほどである。

税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっているわが国の税理士は78千人強だ。
昭和の戦前、国家総動員法施行前までのわが国も、いまのアメリカのように「確定申告」が一般的だった。

勤め人の「源泉徴収制度」とは、戦費を効率よくあつめる制度としてうまれ、戦後も政府に都合がよいのでそのまま継続し、いまにいたっている。
これを「発明」したのは、ナチス・ドイツであった。
いつでも「戦時体制」の国がわが国なのである。

ある業務分野を、特定のひとに「独占」させることを国家がきめる。
これが、「国家資格」というものであるから、ほんとうは最小分野にとどめるべきである。

その意味でいえば、資格試験よりも「学位」で代用することがのぞましい。さらに、分野によっては、学位もいらない自由でいい。

自由競争をさまたげないことが、けっきょくのところ、価値の高い専門家を育成する。
利用者が自由に選べれば、専門家は専門分野を同業者より磨くしかないからである。これが、ほんらいの「サービス競争」である。

ネットという媒体ができて、「情報の対称性」が実現しだした。
需要者が最適の供給者をみつけることができる可能性が、ネットがない時代よりも格段にたかまったのである。
だから、供給者はじぶんが「検索」によってでてこないと、世の中に存在していることすら認知されない。

だから、どちらさまも「こぞって」HPをたちあげて、自己PRにつとめている。
しかし、こうした方法が普及すれば、やっぱり「口コミ」に回帰して、それがさらなる「信用」となっている。

「口コミサイト」がほんとうに「口コミ」なのか?がうたがわれたら、だれも観に行かなくなった。
本物の「口コミ」に回帰していることの裏返しである。

これは、たんなる「噂」が「ひろく深く」なる、危険な社会になったことでもある。
それで、権威がひつようになって「国家資格」の意味がたかまるとすれば、社会が「権威主義」におちていくというスパイラルではないかとおもえる。

平成28年という、さいきんできた国家資格に、「キャリアコンサルタント」がある。
どうして、こんなものが「国家資格」なのかわからないし、どうして「資格試験」を受験しなければならないのかもわからない。

いつものとおり、管轄する役所(このばあいは厚生労働省)から、天下り先の「協会」を「育成」するためではないのか?

不可思議なのは、キャリアコンサルタントの業務に「キャリアカウンセリング」があることである。
「コンサルタント」と「カウンセラー」の概念が、混じっている。

カウンセラーの方面なら、「公認心理師」という国家資格が、平成28年にできているから、厚生労働省さんは、おなじ年に大活躍している。
すると、「キャリアコンサルタント」のなかにある「カウンセリング」と、「公認心理師」の「カウンセリング」のどちらが優先されるのだろうか?

一般国民には知る由も、理解もできない。

協会HPによれば、

「カウンセラーは、個人の興味、能力、価値観、その他の特性をもとに、個人にとって望ましいキャリアの選択・開発を支援するキャリア形成の専門家です。
「就職」「転職」「再就職」「キャリア」などの課題を抱えているクライエント(相談者)の方に対して、キャリアカウンセリングを通じてその方が自分らしく生きいきとする仕事を見つけ、働けるように総合的にサポートします。」

とある。さらに、

「企業内
企業の中では、従業員のキャリア形成支援者として、従業員のキャリアプランを明確にし、そのために必要な知識・資格の習得や仕事の選択を行うことを支援する機会が増えています。

大学・行政機関・人材紹介・人材派遣・再就職支援業界
大学のキャリアセンターには就職活動中の学生、ハローワーク・人材紹介・人材派遣・再就職支援には一般の求職者が訪れます。これらの方の就職、再就職のために効果的な自己分析の方法、エントリーシートの作成支援、面接の指導等のキャリアコンサルティングサービスへのニーズが高まっています。」

社会に出て働いた経験がうすい大学生と、どっぷり仕事にまみれる企業内、それに人材派遣などの「水と油」をやっぱり「混ぜ」ている。

無責任社会の結果が、このような資格をつくって、とうとう「人生」までが他人の「アドバイス」ならぬ「カウンセリング」で決められてしまう。

おそろしい社会になったものである。

マスクでなく科学で感染をふせぐ

三回目の検討で、やっとこさWHOも緊急事態だと発表したニュースの意味は、「緊急事態」だということではなくて、「どうして決められなかったのか?」ということの「理由」のほうになっている。
圧力をかけたのは、発生源の国なのか?それともIOCなのか?いまは、だれにもわからないけど。
WHOとて、やたら「政治的」なのである。

戦勝国の「連合」である「国際連合」とか、その専門部会の「国際」や「世界」がつく、たくさんの組織を、敗戦国ゆえか、やたらとありがたがるのはやめたほうがいいというメッセージでもある。
人類の「保健衛生」のためにあるはずの「世界保健機関」にして、このざまである。

しかし、そんなことにお構いなしなのはウィルスのほうで、こちらは「宿主がいれば増殖する」という法則だけに支配されている。
生物である「細菌」とちがって、ウィルスは「生物とはいえない」から、化学反応という原理だけがよりどころなのである。

これに、安逸の誉れがたかいわがマスコミは、「専門家」というひとを連れ出してきて、感染予防のコメントを吐かせるが、はたして科学の知見に基づいているか?とか、予防実績はあるか?というはなしを無視して情報をたれ流すことがある。

やっぱり油断できないのは、この国には「ジャーナリズム」がないので「ジャーナリスト」がいないからである。
わが国でいうジャーナリストとは、「活動家」のことを指す。

そんなわけで、ジャーナリストが「いる」アメリカに目をむけると、世界最高峰の「賞」といわれる「ピューリッツァー賞」の受賞者でもある女性科学ジャーナリスト、ローリー・ギャレット氏の記事がある。

彼女は、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で生物学を、バークレー校大学院で細菌免疫学を、そしてスタンフォード大学大学院に学ぶが、博士号の学位は取得していない。それは、在学中、ラジオでの科学ニュース番組のレポーターがおもしろくなって、ジャーナリズムへの道に向かわせたからだった。

1996年、「解説報道部門」においてピューリッツァー賞を受賞し、SARS、新型インフルエンザ、結核、マラリア、エイズなどに取り組み、いまは、アメリカ外交評議会で「グローバル・ヘルス・プログラム・シニア・フェロー」として活躍中である。

さて、このような経歴から、感染症における「現場取材」での、みずからの感染防止策を知らしめる記事を書いているのである。
かんたんにいえば、彼女のながい取材経験で、一度も感染したことがない「理由と方法」である。

それは、徹底した科学知見による予防策の実施なのだ。
今回の新型ウィルスにたいする予防策として、きわめて重要な方法でもあろう。

感染防御のための危険箇所の認識として、第一に「目」、第二は「口」だから、ひろく「顔」を汚染させないことだ。
その原因は、圧倒的に「手」によってなでることにある。
つまり、汚染されたじぶんの「手」で、目をこすったり口のまわりを触ることが、もっとも「危険」だと指摘している。

それで、手を汚染させないために、「手袋の使用」と「手の消毒」が、もっとも「効果的」だという。
手指消毒剤と石鹸による「手洗い」の徹底。
使用したハンカチやタオルのこまめな交換と洗濯。

日本人が大好きな「マスク」は、ほとんど役に立たないばかりか、長時間の着用はかえって「危険」だから、どうしてもマスクをしたいなら、短時間での廃棄と交換が肝要である。
マスクの効果は、「口」を触りにくくする程度でしかない。

ただし、他人との距離は50㎝以上をたもつことが重要であるから、満員電車などを利用して他人と近接するなら、そのとき「だけ」マスクをつかうのは推奨される。けれども、マスクをはずすときの「手」にウィルスが付着しているとかえって危険だから、手洗い後にマスクをはずすことで、その後もう一度手洗いが必要である。

公衆の場における危険は、不特定多数の手が「触った場所」になる。
・階段やエスカレーターの「てすり」
・エレベーターの「ボタン」
・電車やバスの「つり革」や「てすり」
・おカネやレシートの授受
・トイレのドアや水道のコック、あるいは個室

つまるところ、なにかに触ったら、消毒剤をつかう、あるいは石鹸で手を洗うことが、なによりも重要なのだ。
手洗いには、かならず石鹸をつかう。
特別な石鹸ではなく、ごく普通の石鹸でよいのは、石鹸の界面活性効果で蛋白質でできているウィルスの外殻を破壊するからである。
生物でないウィルスは、これで「死ぬ」のではなく、増殖のための方法を完全にうしなうのである。

すると、宿泊施設などでの取り組みは、
エコだからタオルを交換しない、のではなくて、どんどん交換して洗濯することをアピールしたり、ロビー階だけでなく、各階のエレベーター・ホールに手指消毒剤を設置して、ボタンに触れた手の消毒をさせるように仕向けることである。

従業員にも手洗いを「強制」させることが重要で、「励行」という通常モードではいけない。もちろん、マスク着用は意味がない。
たとえば、お客様のカバンを持ったら、かならず手洗いをするように強制しなければならない。

残念だが、洗面所にある「エアー・タオル」は、ウィルスを風でまき散らす効果があるから、ペーパー・タオルを使わせることが安全になる。

「エコ」では、ウィルス対策にならないことを、利用客に知らしめることも、じつは重要な啓蒙活動なのである。

巷間、ドラッグストアからマスクの欠品があいついでいるが、科学を信じない原始人があんがいおおいことを示している。
接客業でマスク着用を義務づける企業があるというのも、経営者が原始人だと表明するにひとしいから、外国人知識人がおおく利用する高級施設ほど注意したい。