自粛しているのに減らないの?

初めて緊急事態宣言が出たのは、今月7日で、大都市を含めた7都府県だった。10日が経っても感染者が増えているのはどうしてなのか?

このウィルスによる発症の潜伏期間は、グラフをイメージすれば、長くて2週間程度とはいうけれど、もっとも多いのは5日ほどだったはずだから、とっくに「自粛」の「効果」がありそうなのに、なぜなのか?の説明がない。
それで、こんどは緊急事態宣言を全国に拡大するというのは、どういった因果関係があるのだろうか?

10万円を国民に配るはなしが、まるで連立与党の片方のおかげで成立しそうになっているのを、自民党の一部議員が「主張を無視された」と憤慨しているのは、中小企業には「融資」というだけでなにもしない冷たさが、説明なく繰り返されるのと大変にている。

つまるところ、行き詰まったのである。

わが国は、政治家や政党による「統治」が、完全に行き詰まってしまった。
それは、役人の代弁しかできないひとたちが、寄ってたかって大臣をやっているだけになったからである。
しかも、野党の存在価値がほとんどない。

代議士の「代」は、役人の「代」だった。

昨日は、ネット配信されている『虎ノ門ニュース』に出演した、武田邦彦先生が、科学者のデータの見方を講義していた。
それも、これまでのインフルエンザについてのデータをつかっているので、気がつかない事実も説明していた。

ウィルスは、強いものとそうでないものが勢力争いをする。

そもそも「コロナウィルス」というのは、あまたの種類があるもので、いまでも「風邪」の原因であることがしられている。
人類が、延々とつき合ってきているウィルスの一種である。
これに対抗するのが、インフルエンザウィルスで、100年前には、やっぱり「風邪」だとおもわれていた。

有名な「スペイン風邪(H1N1亜型インフルエンザ)」は、1918年~20年にはやって、全世界の死者数は、少なく見積もって1700万人、多くて1億人といわれている。
こうしてみると、いまはやっているのは、驚くことに「たいしたことない」のだ。

さらに驚くことに、重要なデータは、今回のウィルスが「頑張っている」ので、通常ならはやるはずの、インフルエンザがぜんぜんはやらないことが起きている。
昨年の秋から年末は、いつも通りのインフルエンザ発症があったのに、だ。

これは、「のどの奥の狭い面積」における「陣取り合戦」で、ことしはやるはずのインフルエンザウィルスが、新型コロナウイルスに負けたことが原因だと指摘する学者がいるのだ。
シャーレにおける細菌やカビの培養実験で、特定のものが他を圧倒する現象とおなじだ。

いつもなら、1万人以上がインフルエンザで亡くなるのだけれど、今年はその5分の1ほどで収束してしまった。
たとえば、愛知県は3月20日の報道で、昨年12月に発令した「インフルエンザ警報」を解除している。

かわって、「新型」で亡くなってしまうのは気の毒だけど、全体数では、いつもよりぜんぜん少ないのだから、「風邪」というおおきなくくりでみると、被害の実態は意外にも「軽い」ということになる。

さてそれで、自粛しているのに患者数が減らないのはなぜか?
先日も書いたが、感染者は検査自体の件数と確度によるから、これで一喜一憂しても意味がない。
ただしく、「診断」された、「患者数」でみるべきだろう。

10日間かけても「新規患者数」が減らない?
すると、「自粛」という方法の「効果」をうたがうのが「科学」の発想になる。

憶測をふくめてさまざまな感染原因がいわれているが、改めて確認したいのが、「飛沫感染」と「接触感染」だということなのである。

おおくのひとがマスクを着用していて、咳やクシャミを素でするひとがみられないなか、いちばん疑うべきは、「接触感染」である。

これは、ウィルスが付着しているなにかに、「手」で触ることが第一の原因で、その汚染された手で、自分の「目」や「口」などの「粘膜」に触ることで感染するのである。

公共の場における不特定多数が触るものを触って、その手で自分の「目」や「口」を触ってはいけないのである。

では、公共の場における不特定多数が触るもので、もっとも危険なのはなにか?
武田邦彦先生は、「トイレ」をあげた。
せっかく石けんで手洗いしても、蛇口の水栓にまた触らないといけないし、ドアも開けないと出られない。

しかも、トイレは「飛沫感染」の可能性もあるという。
大便後の排水で、飛沫が9メートルも飛ぶというから深刻である。前に使った感染者が、便器に蓋をしてから排水するとよいのだが、蓋がないのが公共のトイレにたくさんある。

もしや、これまで感染したひとは、公共の、あるいは店舗内のトイレで飛沫感染と接触感染のダブルで感染していた可能性がある。
なるほど、自粛の効果は、公共のトイレを使わないことにあるかもしれない。

個人でもわかりやすいのが、「東京都感染症週報」がある。この中の「患者および死亡後診断」の数に注目すればよい。
あおるだけあおる、マスコミ報道に惑わされないための「予防」になるので、チェックするとよいだろう。

宗教の復活はあるか?

とうとう「大恐慌」に匹敵する経済的打撃だと、IMFがいいだした。
「リーマン級」を口にしていた日本政府は、どちらが甚大か判別できる能力があるのか?とりあえず、全国に緊急事態だと発布はしたが。

世界銀行とIMFについては前にも書いた。
両者は「つるんでいる」ので、米と欧とでトップを独占分担しているのだが、出資金がでかいわが国からも「副」がつくタイトルで、もっぱら財務官僚の出世コースになっている。

IMFのトップである「専務理事」は、かならず欧州から選ばれるルールで、いまはブルガリア人だ。
このひとは、世界銀行からやってきた。物心がつくまで社会主義国だったので、世界銀行もIMFも、お里がしれる。

なので、「世界恐慌」をいうのは、「副」がついた日本人のお役人様と、さぞや財務省幹部が事前だか事後にやりとりをしていることだろう。
なにせ、まさかの事態出現で、このひとたちが「死守すべき」消費税が危うくなってきているからである。

自民党内でも、消費税を当面の間ゼロにする案を提案しているグループがでてきて、先月3月11日に西村康稔経済再生担当相に要望書を手渡している。
どうして「経済再生担当相」が相手なのかしらないが、財務大臣ではない理由をしりたい。

NHKが1997年1月から3月に放送した、『人間大学』は、「新しい科学の見方」というタイトルで、講師は村上陽一郎国際基督教大学教授(当時)だった。
テキストはアマゾンでいまも古書が手にはいる。

肩書きは重くても、「本物の学者」というひとは、あんがい少なくて、むしろ、学内とか学会とかの「政治が本業」のひとが学者を「名乗っている」ことがおおい。
この意味で、村上陽一郎氏は、数少ない「本物」であろう。

難しいことをやさしく解説してくれることができるのは、本物のあかしである。
教える側本人の実力がなければ、教えられる側が納得する説明はできない。

さて、この講義のなかで、「科学の誕生」というはなしがある。
ヨーロッパの歴史には、中東・アラビアの知見もふくまれているが、「魔術」から「科学」への変遷には、キリスト教との決別という事件が必須であった。

つまり、宗教による「真理」から、宗教を排除した「真理」の追求へ転じることが「近代」には必要だったのである。

そこで、「学問」とはなにか?という問題が起きる。
これを、三タイプにわけて説明されているが、便宜的に国名を用いるのは、説明を強化するための手法だとあらかじめ説明している。
・ドイツ型:学問のための学問
・イギリス型:紳士の教養
・フランス型:有用性

フランス型はフランス革命という、これまたキリスト教・教会人の処刑・排斥をともなう「支配者の排除」をやったことから、革命政府のメンバーは従来からの被支配者のみであった。
気がついたらそれでは、国家運営がままならない。

こうして、いまにつづく、「官僚養成校」がつくられたのは、科学の有用性を行政に利用したい側面が強かったからだ。
すると、わが国は「フランス型」だということが示唆されている。
列強からの侵略をふせぐ急速な近代化を促進するために、武士だけでは間に合わない事情が、フランス型にさせた背景であろう。

しかし、近代化=資本主義化のためには、ヨーロッパの歴史をさかのぼって、資本主義の「精神」を導入しなければならない。この精神がない状態を「武士の商法」だとお笑いぐさにして習っている。
そこで、明治の賢人たちが発明・開発したのが、「日本教」という天皇を「神」とする「宗教思想」であった。

もちろん、「日本教」は、GHQによって否定・棄教の対象になったから、わが国でいうほんらいの「保守」は、日本教の復活を目指すことになるはずで、結党当初の自民党がそれだった。
左からの「政教分離」というスローガンによる攻撃に、あえなく撃沈されたのが、この政党の能のなさである。

日本教も人為であったが、これをつぶした「天皇の人間宣言」も人為による「フランス革命」的な、処刑を伴わない「処刑」であった。

GHQは自分で棄教命令を出したのに、あんがい緩くなったのは、昭和天皇が偉大すぎたからでもある。
反日の権化のはずだった米軍の将官たちが、こぞって天皇に帰依したのは、「無私」という「普遍価値」を現世で実行している唯一の人間(家系)だったことに気がついたからである。

しかし、ゆっくりと確実に、かれらが撒いた日本教を破壊する「毒」が日本人にまわって、その重大さに気づくものが小数派になっている。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)」と嘆いた三島由紀夫が、ことの本質に身もだえて抵抗した唯一の日本人だった。

そこに、新型コロナウイルス禍が襲ったのだ。
これはもはや、医学的でも物理的・科学的事象でもなく、社会的事象に転換された。
それは、「死」に対する宗教的哲学という免疫の「なさ」が主因である。

生まれたからには必ず死ぬ。

この厳正な事実に、世界中の人間社会が向き合えていないのだ。
それが、パニックを発生させ、差別をも生んでいる。

自分の人生を、取るに足らない人生だとおもえない。
「個」がなにより重要だというのは、ある意味ただしいが、ある意味まちがっている。
支配者だとおもっていても、しょせん「蟻の一匹」にすぎないのである。

自分の「個」が大事なら、他人の「個」も認めなければならない。
この「寛容さ」こそが、宗教的哲学への回帰をうながすのである。

21世紀のいまも、あいかわらず、「科学は哲学の配下にある」のだ。
科学も人間の営みであるからである。

緊急事態だからわかる価値

緊急事態だから、アルコール消毒液がなくなった。
それで、緊急事態だから酒造メーカーが高アルコール度数のスピリッツを製造して、消毒液の代用品にと提供している。
アメリカなどの外国では、緊急事態だから、政府が酒税を免除するばかりか製造を支援するけど、わが国はしっかり課税していて製造の支援もなにもしない。

どこが、緊急事態なのか?

買い物で使い回しをする「エコバッグ」などでは、ウィルスが付着しているかもしれない。それで、緊急事態だから、衛生的なレジ袋を積極的に配付することにしたのはアメリカのスーパーマーケットだ。
わが国では、緊急事態なのにレジ袋の有料化の普及が着々とすすんでいる。

どこが、緊急事態なのか?

横浜市の役人は、保育園の保育士に症状が出て、検査をしたら感染していたことを「隠蔽」しようとしたという。
保育士は、症状がでた時点から園を休んでいるが、これを発表しようとしたら「やめるように強く指導された」として、市内保育園園長会が書面で市に対して抗議したことがニュースになって、ネットでは大炎上している。

さて、この「事件」は、なにが問題なのだろう?
登場するのは、横浜市の担当者。厚生労働省の「ガイドライン」と、本件発覚後の厚労省の対応。それに、横浜市長が行政側。
保育園側は、当該保育園の園長と園長会である。

そもそもの発端は、園から連絡した横浜市の担当者が、厚労省の「ガイドライン」にしたがって、保護者に連絡する必要なしとしたのは、症状があってからの欠勤と検査で陽性がでるまでの間が10日間あるための判断だとかんがえられる。
それと、もう一つは、保健所の確認が必要だということがある。

アメリカでも、ウィルス検査にあたって当初、保健所でのチェックが義務づけられていたが、「遅い」という問題と、検査キットの新旧問題がかさなって、結局は民間病院でも検査が認められ、一気に検査をうけるひとが増えた。
実際には、このことが「感染者」が「ふえた」大きな理由でもある。

そんなわけで、わが国は、保健所という役所で「確認」しないと、認められない、ということが、今日でも起きていたということである。ただし、この場合の「確認」とは、感染者の行動経路などのことをいう。
だから、保護者に説明する内容について、丁寧な指導が必要だったものが、横柄ゆえに「隠蔽指示」にとられたのである。

しかし、報道各社が一斉に報じるということから、肝心の厚生労働省が、はしごをはずした。
それで、横浜市長も、対応のまずさを認めた、ということである。

さて、本稿冒頭の事例から、横浜市の「事件」まで、どれもこれも「はぁ?」というものなのだけれど、もっとも重要な問題が隠れていて、ぜんぜん表に出てきていないことにお気づきか?

「政治家の不在」である。
もっといえば、「議員」と「議会」に、ぜんぜん「存在感がない」のである。

「酒税」とは、字にあるとおり「税」のことだから、酒税法で決められた徴収しか役人にはできない。
ならば、議員が議会で、大急ぎ酒税法の改正を仕上げなければならないのになにもしないのは、議員が法案を書けないからできないのだ。

わが国における、「レジ袋の有料化」の強制は、前にも書いたとおり、「法がない」状態で実施を決めた。
誰が?役人たちが、である。
つまり、「税」に匹敵する負担を国民に押しつけるものを、「省令等の改正だけ」でやる、のである。

これを、止める合理的な方法が、ない、という国にわれわれは住んでいる。

横浜市の「事件」は、前述の通りだが、ここにも議員や議会の陰もない。
これはいったいどうしたことか?

議員や議会が、なにもできないようになっているからである。
だから、なにもしない、のではない。
あくまでも、蚊帳の外、なのである。
それで、定数は86人いる。

さてそれならそれで、どこから手を着ければいいのか?
残念ながら、横浜市の条例なんて関係ない。
中央政府の「省令」から「通達」までの、命令の仕組みを変えるしかない。
どうやって?

じつは、国会も、国会議員も、おなじ構図のなかにいる。

これが、わが国の「仕組み」なのである。
おもに、自民党と社会党がつくってきた仕組みである。
だが、ほんとうは、歴代の役人たちが、連綿として緻密につくりあげた「迷宮」である。

三十年前の、ほとんどバブル期に東欧で起きていた「他人事」が、ようやくにしてわが国を蝕んでいることに気づくのだが、どうやっていまの東欧諸国のようになれるのか?

「秩序の崩壊」をただ待つのか?
それとも?

ようやくにしてわが国の、追求すべき「価値」がみえてきたような気がする。

ただし、今回の保育園の園長さんたち(約700施設)には、今後、当該役人からの嫌がらせがずっと続く懸念がある。
ここに「エネルギー」がたまるのも、覚悟して「よし」とすれば、よい世の中になるきっかけになる。

民主主義だからである。

焼津でバリ勝男クンを買う

ででんででんでんバリ勝男♪
ででんででんでんバリ勝男♪
バーリ勝男、でんでんでん♪♪

一度聴いたら耳につく音楽がコマーシャルソングになっている。
男の子がひとりで歌っている。
東海地方のひとだけがしる、有名な曲かもしれない。

不思議なもので、ウクライナにも似たような曲を、女の子がうたっている。
こちらは、
ディリンリンリンディンディディン♪
ディリンリンリンディンディディン♪
で、キツネの鳴き声だという。

どちらがオリジナルなのか?と問いたくなるほどの類似性がある。
たぶん、どちらもオリジナルなのだろう。
それに、もしかしたら曲ができたときの時期もおなじかもしれない。

バリ勝男クンは2010年発売。
ウクライナの女の子も、もうとっくにおとなになっている。
だから、だいたいおなじ時期なのだ。

ひとの発明やら作曲で、似たようなものがおなじ時期に出てくるのは、なんらかの繋がりがあるかもしれない。
そういえば、ニホンザルの研究が、それを裏打ちしている。
まったく離れて棲息することなる「群れ」なのに、突如おんなじ「行動」がみられるというものだ。

これとはちがう「空耳」的でおどろいたことがあるのは、山口百恵の『ひと夏の経験』の出だし、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」のメロディーが、バッハのトリオソナタ第二番の三楽章のはじまりと似ている。

バッハは結構おなじ曲を、べつの楽器用に編曲して「使い回し」をしている。
オルガン曲にも、「あなたに女の子の♪」があるのだ。

べつに作曲家の都倉俊一先生がどうのという気がしないのは、相手が大バッハだから、ドイツ語的にどんな「詩」がくるのか?をかんがえると、おもしろいからである。

ちなみに、ウクライナの女の子が有名になったのは、アメリカNBCの公開オーディション番組のウクライナ版に出演して、ヨーデルで『スイスの娘』を歌って話題になったからだ。
さいきんでは、日本の演歌を歌っている動画があるが、「こぶし」がヨーデルになっている。

オーディション番組のときの衣装は、ステージママが作ったときいたが、足元の「靴」がフェルト製なのか?とても気になる。オランダの木靴のような形だが軽そうで、軽快な歌とマッチしていた。

さて、「バリ勝男クン」という鰹チップスのスナック菓子だが、がぜんお酒のつまになる。
バリバリとした食感と、鰹節のうまみが、どんなお酒にも合うからである。

「静岡県限定の土産物」として販売されているので、高速道路や鉄道駅の売店でみつけることができる。
22g入りと、18g入りのちがいが値段のちがいになっている。
ぱっと見で、グラム数のちがいに気がつかない。

ものが「鰹節」だから、なんだという容量の「軽さ」であっても、原料のカツオにすれば、かなりの量になっているはずだ。
これに、ピーナッツが食感のアクセントになっている。

通販で購入するという手もあるが、暇なので車で焼津にまで買いにいった。
目指すは、「お魚センター」である。

冷たい雨が降る中、そして時節柄、平日のお魚センターは閑散としていた。
しかし、今回は生の魚には目もくれない。
広い駐車場にいても、どこからか「あの歌」が聞こえてきた。

目的の売り場は簡単にみつかった。
それにしても、たくさんの種類があるものだ。
気がつけば、「サバいばる」というパッケージを手にしていた。
こちらは「鯖節」を原料にしている。

やっぱり来てよかった。
この「わざわざ感」こそが、観光の醍醐味なのだ。
そして、「せっかく来たのだから」と、大量買いに走る。
とりあえず、姉妹品の「ふりかけ」には手を出さず、全種類制覇をこころみた。

ああ、なんという一万円札のはかなさか。

しかしながら、この「達成感」が重要なのだ。
オマケをくれたら最高だったが、文句はない。
それでも、レジのおばちゃんは、バリ勝男クンのデザイン画がある、レジ袋をたくさんくれた。

焼津といえば、「パウミー」もある。
こちらは、老舗の鰹節屋さんが戦後に開発した「だしの素」だ。
漁港より一本内側の道路沿いに直売店があるのだ。
だから、車がないと不便なのである。

そして、近所のスーパーマーケットで、おでんにかける粉を買わねばならない。
魚粉と青のりが混じった粉で、あんがい横浜では売っていない逸品なのだ。
そして、やっぱり「黒はんぺん」はぜったいに欠かせない。

「特売」で、シラスの釜揚げをパックで売っていた。
まさに、ご当地の用宗漁港であがったと書いてある。
駿河湾のシラスだ。江ノ島名物でもあるけど、一パックではとうてい足りない。

焼津の銘酒といえば「磯自慢」だが、今回はパス。
そのかわり、「蒸し鶏」の看板がまぶしい、小さな商店に寄る。
鶏をロールしたグリルを購入し、お買い物ツアーの終了である。

気がつけば、「つまみ」ばかりだ。

地魚のお寿司もいいが、マグロカツ定食をいただいて帰路につく。
黒はんぺんのカツもついていた。

まんぞく、まんぞく。

わが国初の近代政党結党に期待する

どうなっているのか?とききたい事態が、刻々と発生している。

東日本大震災のときには、官僚OBが「霞ヶ関はお祭り騒ぎ」と書いていた。
なんでもかんでも「予算がつく」ということをいった。
おかげで、個人所得税が復興増税として25年もの期間契約を結ばされた。終了は2037年12月31日となっている。

もちろん、有効なつかいかたならいいのだが、その後わかったのは、「何だこれ?」であったのは、驚くに値しない。
しょせん政府とはそんなものだからだ。
いま、それがコピーされて、新型コロナウイルスでお祭り騒ぎになっている。

復興増税を決めた「菅内閣」のあと、消費増税もやって民主党政権から「政権交代」したのは欧米並みのことだったけど、その後の自民党政権も「増税路線一本」なので、ぜんぜん「政権交代」していない。
広い意味で、民主党も新進党も自民党の党外派閥にすぎなかった。

昨年から、有名なYouTuberがあつまって『政党DIY』という動画が毎週金曜日夜8時という、ゴールデンアワーに配信されている。
このメンバーは、「保守」を表明しているけれど、ほんらいは「自由主義」だといってほしい。

社会主義政党の自民党には、「保守主義」では対抗できない。
むしろ、「保守政党だった」はずの自民党が、なぜにかくも「左傾化」したのか?が重要なのだ。
「保守」という概念の限界がここにある。

ハイエクは、自らを「保守主義者ではない」というばかりか、「保守主義批判」をしていたのは、その「限界」を示したかったからである。

しかし、わが国には、政府の役割を高める社会主義こそが自由主義にまさると信奉するひとたちがたくさんいて、政府が国民に富を分配することこそが「理想」だとかたく信じている。
そのひとりが、経産官僚の中野剛志氏である。

はたして、中野氏はハイエクを読んだことがあるのか?と疑うのだが、そのロジックの無理さ加減が、お役人さまらしい。
つまり、自分に都合のよい話にとにかくしてしまう能力に長けているから、いまは課長だがきっとえらくなるのだろう。

しかし、こういうひとが、役人をやっているのが残念なのだ。
日本の政党に独自のシンク・タンクがあれば、そちらで活躍してほしい人材である。
もっとも向いているのは、共産党であろうがだ。

さて、「政党DIY」だ。つくった政党は「参政党」。
当初三人ではじまったが、理論的支柱はそのなかのひとり、渡瀬裕哉氏だ。
このひとは、アメリカ合衆国政治研究の専門家ではあるが、ほとんど思想的立場は「共和党」である。

しかも、共和党内の二大勢力「主流派」と「保守派」についての解説が鋭い。
近年では、パパ・ブッシュが「主流派」、現職のトランプが「保守派」であると教えてくれる。

それで、彼自身は、共和党「保守派」のシンパだ。
すなわち、反民主党=反社会主義=自由主義にして、反グローバリズムという意味の「保守派」を支持している。
じっさいに、「Tokyo Tea Party 事務局長」なのだが、茶業のものではないので念のため。

よって、「政党DIY」は、わが国初の、「本格的近代政党」を目指しつつ、その主張も、わが国初の「共和党」的立場にある。

これは、「画期」である。
支持するひとにも、支持しないばかりか反対の立場にあるひとも、「本格的近代政党」の誕生は、それ自体がよろこばしいことなのだ。

もちろん、「政党」なのだから、支持者がふえなければ政策実行にならないけれど、こうした「仕組み」の組織デザインが、既存政党にも「伝播する」ことをいっそう期待したいのである。

今月11日に、結党大会なる「パーティ」が予定されていたが、残念ながら「知事からの要請」という「諸般の事情」によって延期されたようである。

その「知事からの要請」によって、多数のひとが「通勤」をやめている。
これであたらしい「気づき」も生まれたのは、自宅待機となったひとたちが、どんな「暇つぶし」をしているのか?で、とうとうおおくがネット動画を観ているということになった。

ふだんは観られない、勤務時間中にあたる時間の地上波放送を、ほとんどのひとたちが観ていないという事実。
それで、とうとう、ネット配信の動画画像が粗くなったのは、回線維持の苦肉の策である。

ついでに、図書も売れていて、読書をもって「暇つぶし」にするとは、なかなかの自己研鑽である。

その意味で、お暇なら「政党DIY」の動画を、初回からじっくりご覧になるのもよいのではとおもう。
いろんな「気づき」があるはずだ。

世の中は、この新型コロナウイルス禍の前後でガラッとかわるにちがいない。
これは、目先の景気悪化だけではない。

ますます、どう生きるのか?が問われる時代になるのである。
政治の重要性が、かつてなく高まっている。

どんな主張であれ、「近代政党」が2020年に誕生したことは、歴史的なことなのである。

ほんとうに感染しているのか?

連日、新たな「感染者数」が報道されている。
なんだか「ふえている」ようになっているのだけれども、ほんとうなのか?と、ついうっかり疑いたくなるのは、以下の二点からの説明が報道されないからである。

第一に、検査数がふえていることと、陽性のふえかたの相関がわからない。
検査が3月4日付け「健感発0304第5号」として、厚生労働省健康局結核感染症課長から、各都道府県などの衛生主管部(局)長宛通達がでて、3月6日から「健康保険が適用される」ことになった。
つまり、検査件数の分母が大きくなるのだから、分子である陽性のひともふえるはずだ。

「国民全員に検査を実施せよ」といいだした「医師」がいたが、仲間である医師会がこれを否定した。
人間の数としての医療機関の要員を、全部投入しても1億2千万人分の検査なんて「できっこない」からである。

それに、既存の患者を放置しての計算でもある。
つまり、医療機関の活動が停止してしまうし、ほんとうに「陽性」のひとを本人がしらずに病院に呼び寄せることにもなって、待合における濃厚接触を促すことになってしまう。

だから、単純に「ふえている」というのは、どういう意味かをいわないのは、無責任ではないか?

第二に、この「通達文書」にも、「PCR検査でなければ、感染が疑われる者が新型コロナウイルスを保有しているか確認できない」と明記されているように、PCR検査自体の重要度はあるものの、確度の問題が正確に報道されていないのではないか?という疑問である。

ほんらい、たとえば、エイズなどの場合、PCR検査の確度は高いという。
しかし、今回の新型コロナウイルスは、そうはいかない。
インフルエンザの検査のように、鼻孔やのどの奥をこすってサンプルを採取しても、咳があるならまだしも、症状がないと反応しない。

肺の奥にいるからである。

かんたんにいえば、「一回の検査で診断できる精度でわかるのか?」という問題だ。「診断」という「判断」のことである。
一回目の検査でたとえ「陽性」であっても、どのくらいの「確度」なのか?
逆に、一回目の検査で「陰性」だから、「もう大丈夫、安心してください」といえるのか?ということである。

むしろ、「疑わしきは疑え」を適用すると、「陽性」ならそのまま隔離されて経過観察され、症状が出ないまま二度目の検査で「陰性」になることもあるけど、「陰性」だからといって「大丈夫」にはならない。
「陰性」なのに、症状があるひとはどうするのか?となると、やっぱり「経過観察」して、つぎの検査で「陽性」となることもある。

つまり、残念ながら、唯一の検査方法である「PCR検査」には、「確度が低い」という決定的な欠点がある。

これを、数学的に説明している動画があるから、自宅待機で暇なかたは、検索してご覧になるといいだろう。

ちなみに、発生源の国で「英雄」となった医師は、何回かは「陰性」で、最後に「陽性」となって死亡した。
世界各国の報告では、最大で6回陰性であったひとがいるというから、全部で7回検査して「診断」された。

すると、世の中で「感染者」といわれているひとたちは、いったいほんとうに「感染」しているのか?
報道機関は、「感染」と「診断」されたひとの数を、毎日集計して発表しているのか?一回だけの検査で、「陽性」のひとの数字か?

以上のように、なんだかあやしくなるのである。
これを、「ついうっかり疑いたくなる」程度でよいものか?
はなはだ、自分で不安になる。

それもこれも、報道機関や政府の説明が、曖昧だからである。
このようなときには、「正確さ」こそが最重要だと誰もがいうくせに、ぜんぜん正確であるとはおもえない。

むしろ、不正確であっても、国民が家に閉じこもるようになれば、そのうち収まる、という感じがしてならない。

やっぱり、責任をとらなくてよいからである。

 

「無責任男」といえば「植木等」の大ヒット二本である。
どちらも1962年の製作で、『時代』が7月、『野郎』が12月の公開だった。
なお、併映されたのは、こちらも伝説となった、『駅前シリーズ』だから、いまからすればなんとも贅沢な「お笑い」をみんなで観ていたものだ。

しかしながら、よくよく観れば、『無責任男』は破天荒だがあんがい常識人なのである。
「こんなやついない」と父親はいっていたが、この映画を笑ってみていたから、真実があったろう。

ただ、高度成長のエネルギーだけでは語れない。
むしろ、まじめに働いているとおもわれるひとたちの、本音における不真面目さが面白いのである。
主人公の周辺にいる「ふつうのひとたち」に注目すれば、その無責任さは主人公の比ではない。

まさか都知事になるとは、人間の未来とはわからない。
「青島幸男」は、『意地悪ばあさん』よりも、「作詞」に凄みがあった。
公約を貫いて、臨海副都心での「世界都市博」を中止にした「真面目さ」で、B面の『ハイそれまでョ』をそのままやった。

都民は、まさか公約をまっとうするとは思わなかったかもしれない。
その意味で、公約をまっとうした、ただひとりの都知事だった。

そんなわけで、わたしは幻の都市博の、当時は珍しかった磁気カード型入場券を購入していまだに棄てずに持っている。
ほんとうに「中止」になるとは、おもわなかったからである。
相手が正しく、わたしの期待が裏切られた証拠になっている。

はたして、青島知事なら、いまの状況をどうしたものか?
まじめにかんがえると、気分が滅入るから、クレージー映画を観ようとおもう。

それとも、理科の学習ならば、フィンランドの中学生の教科書でも読んで、科学リテラシーを高めようか?
「コロナに効く」という商品をムダに買わなくてすむかもしれない。

医師養成にMTP必修を

前にも書いた、MTPとは、Management Training Program の略で、わが国には、戦後すぐに米空軍立川基地の日本人従業員への管理職養成に導入された手法である。

改めていえば、組織をあずかるひとなら誰にでも有効なメソッドである。
じっさいに、企業ならわが国を代表する自動車会社や、その系列、あるいは世界的化学メーカーなどだけでなく、おおくの中小企業にも導入されている。

MTPと共に立川基地から伝わった手法に、TWIもあると何度か書いた。
こちらは、現場作業の「教え方を訓練」する方法である。

TWIのモットーは、「相手ができないのは自分が教えていないからだ」にある。「相手」とは部下や教えられるひとのことで、「自分」とは上司や教える立場のひとを指す。

だから、部下ができないのは上司である自分が教えていないからだ、という思想は、まったくそのとおりのことをそのとおりに書いているのである。
なんだか、わが国伝統の、「背中を見て覚えろ」とか「師匠の技を見て盗め」という思想では、「緩い」のである。

こうしてみると、わが国の伝統的な教え方は、「パッシブ」で、米軍のやり方は、「アクティブ」である。
もちろん、時間はかかるが「パッシブ」なやり方がまったくダメだということではない。

「その道」を徹底的にきわめるという「覚悟」までに追いこむことで、教える側と一体になることを理想とするからである。
そこにひそむ「精神性」までもが引き継がれる、という意味での「凄み」さえある。

しかし、一方で、そこまで付き合えない、というのも現代感覚である。
西洋の合理性が輸入された結果ではあるけれど、それはそれで一理ある。

それが、当時の、「少品種大量生産」にマッチした。
「効率的なやり方」を追求するのは、開発した「軍」はもちろん、納品する製造業にも有用だったからである。
それで、軍需品の物量戦における「大量生産」に応用された。

しかし、戦勝国のアメリカで戦後は廃れ、敗戦国のわが国に導入されたのは、わが国のやり方が、「合理的」とはかけ離れているように米軍将校の目に写ったからである。

それで、わが国を代表する電器メーカーの人事部に配属されたアメリカ人によって、この手法が逆輸入され、いまではアメリカの産業界におおきく貢献しているという皮肉がある。

さて、昨今の「間抜けな事件」の代表が、医師たちの夜遊びによる「集団感染」だ。
大学名や病院名が出るので、その入学や勤務のための難易度をかんがえると、世間のイメージと、しでかしたことのギャップが大きすぎるので、なんとも締まりがわるい話題になっている。

慶應義塾大学は、このところ「下ネタ」事件がいろいろ続いていて、なんだかなぁ、なのだが、むろんほんの一部の暴走が校名を背負って発信されるだけである。
それは、ふだんから「校名」で「ブランド化」をはかっていることの裏返しにすぎないので、経営陣にも責任がある。

今回の、慶應義塾大学病院における研修医たちの「打ち上げ飲み会」は、慶應病院という大病院ひとつの問題ではなくて、「ケイレツ」が100もある「白い巨塔」における、医局の崩壊になってしまった。
濃厚接触した医師や看護師などが、続々と「二週間の隔離」対象になるからである。

これを、院長たち幹部が、いつものように「頭をさげる」ことでの「謝罪会見」をするが、わるいのは「やっちまった本人たち」であるとして、「教える側」の責任を放棄するのである。
「医師としてあるまじき」と。

草葉の陰で福沢諭吉が泣いている。

企業において、「試用期間」にあたるのが、「研修医」だとすれば、「あるまじき」ことをやったら、「解雇」だってありうるから、「医師免許」が「無効」になっても文句はいえない。
こうした、「罰則」がないなら、どんな「制度」なのか?の疑問がのこるが、これを決めるのは「誰なのか?」。

そんなわけで、上司にあたる院長たち幹部には、「TWIの精神」をたたき込む必要がある。
わが国で、TWIを積極的に導入しているのは、「筑波大病院」であるから、慶應義塾大学病院の幹部は筑波大病院に「見習い」にいくとよい。このとき、白衣には「見習中」と書いた名札をつけよ。

それに、医師は全員、MTPを「必修」とすべきである。

開業しようが、勤務医になろうが、「医師」ひとりだけでは業務は困難である。医療事務担当者だって必要なのだ。
すると、医師は、新米だろうが、かならず「職場リーダー」になる。

組織は、おなじ目的・目標をもった、二人以上の人間からなる。
「医師免許」の重みは、医療という分野では、周辺の専門家を束ねる職務も含んでいるのだ。
まさに、マネジメントができなくて、どうして「医療」ができるものか。

医師国家試験の「受験資格」に、MTP受講修了証の提示を義務づけるべきである。
その前に、期間をもうけて、既存の医師全員にも修了証の取得を義務づける必要がある。

MTPの威力をしらないひとが、先輩や上司として存在すると、悪影響を及ぼすからである。

「先ず隗より始めよ」を率先垂範すべきは、いつでも、「えらいひと」からなのである。

医師会は、このくらいの責任感を国民に見せるときは、いま、なのであるということをしるべきである。

霞ヶ関を封鎖せよ

都知事の意向に、目立ちたがり屋の神奈川県や千葉県がしたがわず、閉店の業界指定までしようとした野望は打ち砕かれたのか?
国が日和るへんな構造になっている。

それでも、都心にオフィスがある企業のうち、大規模な会社ほど「出社しない」ことで凌ぐことにしただろう。
「リモート」やら「テレワーク」とおなじことをべつのいい方にしているが、はたして、どのくらいの成果になっているのか疑問があるが、それでも会社が「まわる」なら、これまでの「ムダ」にかえって気がつくチャンスにもなっていることだろう。

これに気づいた経営者は、当然にスリム化をはかるので、「失業問題」はより深刻化するということになる。
しかし、これも経済における「みえざる調整」なのだとかんがえれば、あんがい悪いことばかりではない。

欧米とわが国の感覚のちがいは、かつての「経験」がさせることが原因となっていることがある。
第二次大戦の戦勝国は「大恐慌」での「失業」が、敗戦国は「インフレ」が怖いとかんがえる。

それが、いま起きている新型コロナウイルス禍でも顕著なのは、一種の「羹に懲りて膾を吹く」ようなものになったりする。
各国政府が発表している、「緊急経済対策」は、そんな意味で、「国状」よりも「国情」がにじみ出るものだ。

しかしながら、わが国政府がぶち上げている「経済政策」の貧困は、既存枠をぜったい超えることができない官僚の作文そのもので、どこにも政治が存在しない。
政治こそが資源配分を決める機能なのに、である。

「100兆円を超える過去にない最大規模」だと、首相は胸を張るが、このひとは何年国会議員をやってきたのか?これは、首相個人の問題ではなくて、与野党ほとんどの議員に共通している。
一部異端がいるのは、財務省出身者がいるからだ。でも、枠を超えることができないから、しょせんは同じ穴のムジナなのである。

議員が政治として「自分で予算編成したことがない」。
これが、わが国を蝕むシステムの正体なのである。

官僚という他人がつくった「数表」の説明を、どんなに詳しく聞いたところで、それが何年も、どんなに繰り返されたとて、実感がわくわけがない。
土台となる数字の意味をしるべくもないし、通したい側が教えるべくもないからである。

それで、せめて「修正」だけさせて「原案」とする。

これは企業でもおなじである。
企業内官僚も、こうやって数字をしらない役員をまるめこむのだ。
適度な「穴」をつくって、そこを「発見・修正」させるよう仕向けることで、役員が参加したことにしてあげれば、難なく通過するからである。

だから、歴代の社長でも、若いときに予算編成にかかわった経験があるかないかは、とてつもなく大きな実力差になるのだ。
ふるい話だが、山一証券破たんのときの社長は、入社以来「営業畑一筋」のひとだった。これはある意味、気の毒なことだった。

すると、いま起きている「緊急事態」とは、政府自身のことであって、国民のことではない。
「三密」がいけないとアナウンスするのなら、「先ず隗より始めよ」のとおり、政府から閉鎖せよ。

これで、どのくらい国民生活がこまるものかを確かめるのが、今後の国民生活にもっとも重要なことをおしえてくれるだろう。
中央政府だけでなく、地方政府も警察と消防、それに水道局以外は閉鎖していい。

わたしの住む横浜市立図書館は、館内閲覧を中止してネット申込の貸出・返却だけをしていたが、とうとう全面閉鎖が決まった。
わたしにとって、税金を支払う意味を感じる唯一のサービスがなくなるのだ。けれども、固定資産税の請求はきっちりやってきた。

そのうち財政難で閉鎖が余儀なくされたときの訓練にもなる。
アメリカ合衆国は、連邦政府予算がなくなって、何回か閉鎖されたことがあるけど、政府依存度が軽いから、なんとかなることを国民がしっている。

だから、大きな政府を嫌うことは、なにも歴史的背景だけがそうさせているだけでない。

わが国の政治家は、中央であれ地方であれ、行政側にまわると、とたんに「行政だけ」の立場に豹変する。
なんのための「選挙」だったのか?

不思議なのは、マスコミ報道も、新人で役人ではなかったひとが当選すると「行政手腕が問われる」とかと書きたてる。
有権者が期待しているのは、「行政当局と一体になる手腕」ではなく、「行政当局を抑制する手腕」なのだ。

どうしてこうなるのか?

行政が肥大して、企画まで自分たちでやることになったからである。
どんなことしようかな?
いくらぐらい使おうかな?
足りなかったら、どうしようかな?

このときの「こと」のことを、「事業」という官庁用語で表現する。
すると、「超大型」という首相のはなしの半分以上が、「事業」になっていて、なんだかわからない。

もっとすごいのは、このなかに「民間銀行からも無利子・無担保融資をさせる」がはいっているのだ。
気は確かか?
どうして民間銀行が、無利子・無担保融資ができるものか?

第一に、金融庁が許していない。
第二に、金融庁に許すように命じるなら、民間銀行に命じる前に、金融庁を廃止する命令をだすべきだ。
順番がハチャメチャである。

ついでに、金融庁を廃止するとき「緊急なので特別に」民間金融機関に「しか」再就職させないとすればもっといい。
いつものように、別の役所に配置換えしてはいけない。
民間金融機関は、強力な助っ人をえて、政府と戦える。

いや、役に立たないから民間では採用できないとなれば、はじめてこれまでの「金融行政」が余計なお世話だったかも国民はしることができる。
どちらにころんでも、マスコミ以上に、国民を啓発する施策となるのだ。政治とはこういうことをするものだ。

そんなわけで、霞ヶ関が閉鎖されても、国民に悪いことはあんまりない。
むしろ、政府機能はシンプルがいいことに皆が気づくのである。

よって、三密であろうがなにがあっても、霞ヶ関は閉鎖しない。
閉鎖してもなにも困らないことに国民が気がつくことが、困るからである。

桃が満開の山梨に疎開した

桜と桃が満開の山梨とは、例年のことなのか?
先月の3月26日が、旧暦の3月3日の「桃の節句」であった。

さいきんの遠出は、もっぱら「自動車」になった。
時間に追われていないから、あんまり高速道路をつかわなくなったのは、昨年の島根県足立美術館への旅で覚えた「地元の情緒」も味わえるからである。

「タイムマシン」をテーマにしたSF小説はあまたあるけど、現代社会のホンモノのタイムマシンは、第一に飛行機、第二に高速鉄道、そして第三に高速道路での移動だろう。
たかが三世代や二世代ほどの時間経過で、その時代ならありえない距離をありえない速さで移動してしまう。しかも、安全に、安価で。

距離あたりのコストで、遠距離ほど安いのは飛行機だ。
つぎに、高速道路。
あんがい、高速鉄道は高くつく。
総エネルギー・コストと比例しているのである。

鉄道が安全に走れるのは、線路があるからで、その線路の敷設や保線に必要な総エネルギーが他の手段にくらべて、膨大だからである。
走っているとき「だけ」でみてはいけないのは、電気自動車も水素自動車もおなじである。

そんなわけで、高速道路すら利用しないで、一般国道や生活道路をつかうと、自動車の移動はあんがい安くかんじる。
走っているとき「だけ」でみると、ガソリン代しかかからないからである。

「経済」をかんがえるとき、やっぱりすこし前なら単純な「効率」しか考慮しなかった。
だから、高速道路をつかうコストと時間コストを比較して、そのひとの「時給」をあてれば、目的地まで高速代を負担しても「合理的」であるという「解答」がえられた。

しかし、じっさいに事故が発生したり、自然渋滞があったら、高速道路の意味がなくなることもある。
一般道と「どっちが得か」をかんがえるのは、けっこうな難題だった。

これに、「ゆっくり旅」でその土地の雰囲気を味わいたいという価値観がくわわると、「経済」として答えもぜんぜんちがってしまう。
そんなわけで、経済のかんがえ方は、いまでも数式が重視されてはいるものの、じつは「人間行動」を「心理」からみないとわからなくなったのである。

わが国の、経済学部への入学試験にやっとこさ「数学」をくわえる学校が出てきたが、現実は数式から「人文学」の世界に重心がうつっている。
もちろん、数学的な考察を全否定したいのではないけれど、だ。

人混みにわざわざ行くのはいけないのは、自分のためなので、疎開といっても集団ではなく、家内と二人でである。
他人と濃厚接触しないためには、やっぱり自動車での移動がのぞましい。

ふだんから山梨のお気に入りの温泉に行くものの、この温泉には宿泊施設がない。
それで、いわゆる「温泉旅館」に、久しぶりに夫婦で泊まることになったのである。

「疎開」といっても三・四泊しかしない短期だが、これまではおなじ宿に連泊するのはたいがいが二泊までだったから、今回は「長め」である。
それで、「素泊まり」というプランにした。

場所は、石和温泉である。
いつもは温泉街を避けていたから、よくかんがえると、石和温泉の旅館に泊まるのも温泉に入るのもはじめてであった。

昭和36年に一面田んぼのこの地に温泉が出た。
高度成長期にあいまって、一大発展したのが「石和」である。
バブル期には、東京の奥座敷ともいわれたし、そのお色気路線で、社内旅行で石和といえば、留守にする奥方がいぶかったものである。

いまはすっかり住宅街に囲まれて、駅前には全国的大型ショッピングセンターが横たわっているから、東京の郊外にやってきた感じがする。
温泉ホテルは、マンションや住宅地域のなかにあるという感じだ。

石和温泉は、丹沢島が500万年前に本州と衝突してできた、丹沢山地と、これにつらなる「シワ」にあたる秩父の裏側に流れる笛吹川の地下にある熱水帯の最南端だ。
よって、表丹沢の神奈川県厚木市にある飯山温泉と七沢温泉とは、本州最深部でつながっている。

それが証拠に、どちらも、わが国では希少な「アルカリ性単純泉」が湧出しているのである。
わが国で大多数の火山を熱源とする温泉なら、「酸性」を示すことになるからである。

気の毒なことに、宿はガラガラで、閑散としているのは駐車場をみればわかる。
日が落ちる前に温泉に浸かり、颯爽と街に出たものの、こちらも閑散としていて、ようやく一軒の居酒屋をみつけた。

戸を開けるなり、「お食事ですか?」というので「呑みです」とこたえたが、店内に客はいなかった。
主人は「もう閉めようかとおもった」というが、せっかく遠くから来なさったならと、あんがい気さくなのである。

はなせば、ご親戚はみな横浜で、しかもわが実家の近所であった。
奇遇とはこのことで、桃の花の見所は今週まで、それから花の間引き作業がはじまると説明をうけた。
桃の実がほしい人間の生活がある。

なんだ、石和温泉、いいじゃないか。
そうこうしていたら、家内が会社から出勤の要請をうけた。
ただの一泊での帰宅になった。
宿は気持ちよく残りのキャンセルに応じてくれた。

これで、次回の山梨も、石和になること確実なのである。

一発屋ではない「一曲屋」

西田敏行の『もしもピアノが弾けたなら』は、1981年、作詞は阿久悠、作曲・編曲は坂田晃一のコンビがなした、ドラマ『池中玄大80キロ』のテーマソングであった。

しかし、わたしにはとある思い出があって、先輩にむりやり連れて行かれたスナックで、人生初めてのカラオケで歌った曲である。
スナックも、カラオケもどちらも「初めて」だったけど、人前で歌を歌わせられたのは、小学校の合唱コンクール以来であった。

発声のための腹筋や発音の滑舌を鍛えているのが「俳優」という職業だから、これに音程がくわわれば歌手になる。
ただし、「美空ひばり」は別格で、いまだに感心するのは天才ゆえだと納得するしかない。

すでに発表されて何年も経過しているから、しっているひとには有名人なのだろうが、突如またユーチューブにあらわれたのが、海苔養殖を専業とする漁師のおじさんが奏でる『ラ・カンパネッラ』であった。

『のだめカンタービレ』の主人公も、佐賀県の海苔養殖の家の長女という設定だったから、まさに「外伝」としてなりたつドラマになるとおもえた。

 

海苔漁が暇になる夏場、趣味のパチンコで70万円もの負けがでて、奥様の財布からこっそり紙を抜きとったら、そこに「とるな」と書いてあったという。
「これはいかん」とおもって、パチンコをやめたというから、ここに本人の資質の一端がみえてくる。

時間つぶしに観ていたテレビに、フジ子・ヘミングが演奏する『ラ・カンパネッラ』が放送されて、「これを弾けるようになりたい」と決心したというから驚きである。

それに、奥様は、音大出のピアノ教師であった。

そこで、まずは相談すると、血相変えて「できっこない」と断言されるのだ。
「わたしにだって弾けない曲を、ピアノに触ったこともないひとができっこない」と。

このとき、本人52歳。

しかし、物怖じしないひとはいるもので、自宅にあるピアノに向き合うこと、1日8時間。
けれども、ピアノが弾けない前に、楽譜が読めない。
そこで、かんがえついたのが、ネットにある鍵盤が光る動画をつかうことだった。

そして、動画を一コマずつうごかしては止め、いちいち指の位置を確認するという方法だった。
どうかんがえても「無謀」ではあるが、からだが覚える、という回数をこなしたのである。

それから、8年。
とうとう、フジ子・ヘミング本人の前で演奏を披露したいという「夢」を、明石家さんまの番組で実現する。
その驚きの演奏は、感動的である。

フジ子・ヘミング自身、NHKの教育テレビに出なかったら、いまはない。わが家でも、たまたま、スイッチをつけたら出てきて驚いたのだ。
「なんだこのひと?」

 

「異例」というのは、再放送の回数で、教育テレビ史上初だったのではないか?しかも、続編までもできた。
「超絶技巧」を要求されるリストの難曲を難なく弾くというよりも、その「鐘の音」に、人生の意味がこめられている。

CD『奇跡のカンパネラ』は、国内で200万枚をこえるセールスを記録している。

彼女のリサイタルには二度行った。
周辺から、すすり泣きが聞こえてくるのが特徴である。
ひとつ「不満」をいえば、拍手が早いことである。
残音が味わえないのだ。

夢をかなえる企画で招待された福岡のリサイタル後、本人は、フジ子・ヘミングのマネジャーに会えると聞いて入室する。しかし、そこには独特のファッションをまとった老婆しかいない。その後、感激のあまり無骨な男が涙ぐむのを、じっとみつめるフジ子がいた。

漁師の手は節々がごついが、フジ子の手もごつい。
フジ子は、このひとの手をみて、「ピアニストの手だ」という。
こういう「手」でないと、いい音楽は奏でられないと。

しかして、本人も感心する演奏ではあったが、ちゃんとフジ子はフジ子らしいことをいう。
「奇跡だ」といった後の「雑音がある」。
それで、手本をみせるのだ。

改善の可能性のある証拠である。

フジ子・ヘミングは、無名時代、ヨーロッパ各地でピアノ教師をして生きてきたひとである。

さて、もっとも身近なピアノ教師である奥様はどうなのか?
もちろん、もはや「バカにする」はずもなく、その努力の成果を見あげているのである。
「よく続いた、それだけでもすごいのに」

たしかに、やったことがあるひとならだれでも思うことだろう。
そういえば、つまらない理由に「バイエル」があった。
延々と続く、つまらない練習。
最近は、バイエルの否定もあると聞く。

子どもの才能をうんぬんするなら、功罪はいろいろありそうだが、このひとのように、中高年になって、いきなり「難曲に挑む」という方法は、なかなか思いつかない。
一種の発明だ。

指揮の世界には、ギルバート・キャプランという「名手」がいた。
世界ホテルランキングで有名な、アメリカの経済誌「インスティテューショナル・インベスター」の創刊者である。
彼は、グスタフ・マーラーの交響曲二番『復活』だけを指揮する。というか、大好きなこの曲しかできない。

少年のころからの夢であった『復活』の「指揮」。
40代なかばで自費による最初で最後のはずのコンサートを行ったが絶賛を浴びて、その後世界的なオーケストラから客演依頼が殺到した。

1988年に発売したロンドン交響楽団との演奏は、マーラー作品のCDとしては史上最高の売り上げを記録したし、2002年には、発見されたマーラー自筆楽譜を私財をはたいて買い取って、なんとウィーン・フィルとの録音もしている。これは「キャプラン版」という。しかも、CDは、ドイツ・グラモフォンからでた。

やればできる、をやるひとがいる。
一発屋ならぬ「一曲屋」とは、初夏の風のごとく爽快である。