昨夜のほんとうのニュース

2020年4月8日は、歴史的な「日」になった。
それを決めた7日夜、首相記者会見において、ほんとうのニュースになる発言があったので、忘れないように書いておく。

その首相の発言とは、
治療効果が期待される「アビガン」を、本人の希望や病院の倫理委員会の了承があれば使用できるようにする、とのかんがえを示したことだ。

本ブログでも書いたこれまでの経緯をおさらいすれば、発生源の国の政府が、「アビガンが効く」と発表したのは、3月18日のことであった。
また、同月25日には、アビガン開発者のひとり、白木公康氏(千里金蘭大学副学長,富山大学名誉教授(医学部))が、Web版『医事新報』に「アビガンをつかうべきだ」と緊急寄稿した記事がでている。

しかし、これを「無視して」、26日、都知事が「感染爆発の重大局面にある」といったりしていたし、首相も28日になって、「アビガン」の「治験」開始を指示するという他人事状態だった。

もちろん、首相の意向を受けて、製薬会社は4月1日に、「治験開始」を発表し、かつ製造ラインを立ち上げている。

こうしたときの「首相の意向」は許される。

むしろ、水面下という事務レベルで、どのくらいの「調整」が関係者たちと行われていたのかがまったくわからないのが問題だ。
関係者たちには、医療関係者や製薬会社も含まれるのは当然だ。
もっといえば、「業界人たち」との「調整」である。

そうした、協議や調整の結果、もしや昨夜の「発言」になったのか?ともうたがいたくなる。
つまり、ぜんぜん「政治家」としての意向でも、「首相」としての意向でもない、事務屋がつくった「状況」が「発言させた」ともとれるからである。

ならば、首相など、だれでもいい。

ああ、なるほど、わが国はとっくにそうなっていた。

新型コロナウイルス禍というのが、大騒ぎになっている原因は、「治療法がない」という一点に尽きる。
そのために、感染したら最後、もうこの世にいれなくなる、という恐怖が、社会を根底から揺らしているのである。

つまり、大地震が、物理現象ではなく心理現象となって発生しているのだ。

震源地は、「治療法の喪失」であって、まるで「全電源喪失」を彷彿とさせる。
「あのとき」、政府はパニックをあおって、「計画停電」という「義挙」を実行した。

あとになってみれば、心配された「電力供給と需要ギャップ」に問題はぜんぜんなく、まったくの「ムダな迷惑」を押しつけられたのであった。

ただし、緊急時に最優先される重要な「エリア」があぶり出されて、夜にはそれがはっきりみえた。
官庁街だけでなく、変電所周辺の区域は、計画停電の「範囲外」となることがわかったのだった。

今回の「緊急事態宣言」も、まるで「計画停電」の愚挙のようにみえて仕方がない。
政府は、おのれの失政をごまかすために、国民に負担を強いることでこれをおこなう、というパターンそのものだ。

今回の「失政」とは、「アビガン」という薬の存在に「いつ気がついたのか?」という問題のこたえにある。
薬学の専門家や医師がしっていても、法学の専門家である高級官僚がしらなかったのではないか?という疑問から発する。

すると、この国の統治システムが、他の自由主義国とちがうことの「欠陥」があらわになるのである。

すなわち、わが国の政党が近代政党ではないために、政党内部に「シンク・タンク」を持っていない。ゆえに、政党に情報が集まらず、役所の窓口、あるいは担当者に情報が集まるのだ。
よって、政党人たる政治家には、役人からしか情報が入手できない。

こうして、「アビガン」という薬の存在が、わからなかったのではないか?
ましてや、とっくに200万人分もの「備蓄」までされていたとは。

行政をつかさどる「役人」は、かんがえてはいけない存在なのだ。
だから、民主主義を標榜する国なら、「国家公務員」に優秀なひとはなりたがらない。
決められた、行政事務を、ただひたすらおこなう、ことしか仕事がないからである。

誰が決めるのか?
それは「議会」である。
だから、議会にさまざまな提案や新製品が持ちこまれる。
これをさばくのが、議員たち本人だから、忙しいのである。

これを、わが国では、あろうことかお役所に効率を求めるのだ。

できっこないことをやらされるので、お役人たちは開き直るのだ。
それでも役所がシンク・タンクを兼ねるから、開き直って仕切れば、無意味なものでも意味をもつ。
どういう経緯と人選なのかは報道もされないからしらないし、これらがネットにもないなかで、ようやく「名簿」だけはある「諮問委員会」が、「妥当」だといったから「非常事態宣言」がでる国である。

わが国の「非常事態宣言」は、そんな程度のおちゃらけで、これからが、緊急対策予算という名目の「お祭り騒ぎ」がはじまるのである。
復興には復興増税もされたが、さてこんどは、どんな手をあみ出すものか?

「押し売り」を役所がする

「なんでもあり」のようなふりをして、じつは肝心の「特効薬」を使わせず「備蓄」したり、外国に無償でくばるという「愚挙」ばかりをかさねる日本政府という「ならず者集団」が、こんどはありあまる予算をつかって、「押し売り」をはじめる。

いま、「観光需要の喚起」とはなにか?
この新型コロナウイルス禍という「事態」が、収束したら観光需要の喚起を盛り込んだ1兆円の補正予算を組むという。

ということは?

年度内に「収束する」と、「決めた」のだ。
誰が?
官僚たちである。
その根拠は?
「治験」がおわるからである。

すなわち、「治験」なぞ、どうでもいいのだ。
いわば、「安全」なふりができれば、あとは「解禁」するだけだ。
その間に、不運にも亡くなってしまう国民がいるのは「仕方がない」ことにする。
どうせ、自分たちのことではない。

それで、製薬会社に命令して、製造を開始させ、できたら「在庫」を全国の医療機関にくばれるように準備させておけば、だれからも文句はいわれない。

アメリカだったら、死亡したひとの遺族や、感染者から訴えられるところだが、日本人はそんなことをしないように教育しているから大丈夫だし、もしもの訴訟があっても裁判所だっておさえてあるから、めったに政府敗訴の判決などでやしない。

一審でとち狂った判決がでたところで、最高裁までやればいい。
それで、損をするのは原告だということがわかればそれでいい。
この間、役所の担当者は異動で替わって、だれもが他人事になるように人事する。

そんなわけで、収束「したら」半年間、「国内」旅行の代金を半額政府が面倒をみるという。
これに、土産物とかのクーポンもつけるというから、念がはいっている。

これぞ「観光立国」というのだろう。

これが、「政策」か?

前提になるのは「収束」であるから、だれかが「収束宣言」をださないといけない。
「緊急事態宣言」がでることを前提としているのである。
これで急いでインフルエンザ対策法を改正した意味がある。

つまり、総理は、こんな補正予算通過のために「宣言」をださないといけない立場に追いこまれたのだ。
「雪隠詰め」である。
行政権が立法権を支配する。自民党が阿呆の集団にみえる。

こんな状況下だから、観光関連の各企業は暇である。
それで、政府に頼むと給料を保障してくれるから、従業員を強制的に休ませることにした。

通常なら、このときばかりの「研修」など、ふだんの忙しさでできない教育を実施するチャンスなのだが、なにしろひとが集まってはいけない。

ふえる感染者を、宿泊産業に振ることを厚生労働省が都道府県にお達しした。
宿泊産業には、事業免許が二種類ある。
ひとつは、「旅館業法」により、ひとつは、「風営法」による。

いまは、風営法の宿泊事業は、新規に免許をださないから、もっぱら旅館業法の宿泊事業者が大多数となっている。
旅館業法の管轄は、厚生労働省で、窓口は地元の保健所だ。
風営法の管轄は、公安委員会で、窓口は地元の警察署である。

その旅館業法には、宿泊事業者がお客を拒否できる少ない例に「伝染病の感染者」がある。
宿のフロントで、宿泊者名簿に住所と名前を書かされるのは、もしもの「感染源追跡」の意味がある。

この規定はそのままだから、はたして通達の意味は何か?

宿泊事業者に、法を管轄する役所が、暗に命じているのである。
「拒否するなよ」と。

クラクラする事態である。

そして、研修といえば、復活のための準備期間として、激減している外国人旅行者を再び呼び込めるよう、宿泊施設などに「通訳案内士」を講師として派遣して、外国人旅行者の接客方法などをアドバイスするのだと。

いわくつきの「通訳案内士」資格だと前に書いた。
国家資格でありながら、無資格であろうがだれでも料金をとれるようにしたからだ。

ここで、資格保持者にわびを入れるのかなんなのか?
借りを返すような施策をやる。
どんな「需要」が宿泊産業にあるのか?ではないことが重要なのだ。
役人の都合が先だからだ。

こういうのをふつう、「押し売り」といった。
「需要」があろうがなかろうが関係ない。
それでも「予算」がつけばそれでいい。
「ただ」なんだから、講師を受け入れろといえば、なんだか「拒否」できない。

感染者は拒否できても、役所の意向は拒否できない。
それで、どちらも受け入れるしかないとかんがえる「常識」がある。

むしろ、一回見捨てられた、「通訳案内士」が、これを「拒否」したらどうなのか?
また、宿泊産業の経営者たちも、こんなアドバイスではなくて、経営にまつわるアドバイスがほしいといわないのか?

もしや、経営にまつわるアドバイスはどんなものか?をしらないかもしれない、という「まさか」まで、コロナウィルスがあぶり出している。

ただいま「革命」進行中

もっともしられている国語辞書である『広辞苑』をしらべると、漢字でかいた「革命」にはいくつかの意味がある。
そこで、英語の「revolution」を訳して「革命」としたときの意味にしぼると、これも二つに分岐する。

被支配者が支配階級から国家権力をうばう「フランス革命」と、ある状態から急激に変動することを意味する「産業革命」や「技術革命」がそれだ。

では、いま、わが国でおきている社会現象をなんといおうか?
わたしは、素直に「革命」といいたい。
その理由を書いておく。

まず、政府の中核をなす「内閣制」が事実上の機能不全に陥ったことである。
内閣はあっても、なきがごとし。
すなわち、わが国の「行政府」は、完全に「官僚に開放され」た。

決めるのは官僚であって、国会議員たる政治家による「議院内閣制」が死んだ。
議院内閣制は、別名「議会主義」ともいうから、並行して、議会も死んだのである。

これは驚くべきことであって、つまり、わが国は「近代国家」ではない、という状態に陥ったのである。

まるで「清朝末期」、西太后の時代のようだ。
王家内のゴタゴタを仕切るのに、東太后を塩辛にしてしまったとはいえ、政治実務は官僚に丸投げしていたからである。

支配者のはずの政治家が、被支配者である官僚に取って代われるのだから「革命」である。
ところが、「民主主義」をいうなら、ほんとうの支配者は国民であるが、両者からまったく無視されていることも「革命」である。

近代国家の要件には、「政党政治」があるけれど、わが国の政党で「近代政党」とようやくいえるのは、公明党と共産党のふたつしかない。
しかし、これらふたつとも、政党内の人事が不透明なままなので、「ようやくいえる」程度なのである。

じつは、全滅状態なのは、政党内に「シンク・タンク」が存在しないことである。
巨大な第一党の自民党は、歴代、自前のシンク・タンクをつくらずに、役所とその官僚をもってあてていた。

つまり、永久与党としてのおそるべき怠慢があるのである。
それで、すべての政策が、官僚からのご進講を経ないと決まらないことになったので、官僚はじぶんの役所に都合がいいことしか「進言」しなくなった。

ほんらいの議院内閣制ならば、与野党ともに内部にシンク・タンクを抱えているから、官僚に意見を聞くことすらひつようない。
しかし、わが国は、役所の官僚体制そのものが、すべての政党のシンク・タンクなのだから、官僚にとっての都合のよい進言を、だれも見抜けないばかりか、従うことの便利さが先になってしまった。

こうして、社会がめったにない「非常事態」になってみて、ぜんぜん政治がうごかないことで、とうとう「官僚」がすきなことをしている姿だけが見えるようになってきたのである。

なにもこれは、厚生労働省だけでなく、学校を休みにした文部科学省もおなじだし、金融庁は「減損会計」についての「ルール弾力化」という名目のちゃぶ台返しを決め、政策投資銀行は民間銀行を尻目に、1000億円もの「出資」を大企業にするという。

「融資」ではなく「出資」である。
つまり、オーナーになる。
すでに日銀が株式をつうじて大企業の25%を保有することになっているが、こちらのやり方は「裏口」っぽかったけど、こんどは「正面」からやってくる。

こんなことを、だれが決めているのか?
役人である。

なんだか、「基準」が崩れているのである。

そういえば、福島のときの「線量基準」も、ずいぶんと「緩和」されてしまった。

規制緩和はすべてが「よいこと」とはかぎらない。
わが国の規制には、緩和すべきものと強化すべきものが混在しているが、役人は「都合よく」緩め、かつ縛り上げる。
「合理的基準」ではなく、「人為的基準」なのだ。

そんななか、新型コロナウイルスにも「効く」という、本ブログで話題にした、「アビガン」の記事がふえてきた。
最新では、4月1日の製薬会社による「治験開始」だ。
首相は、その前、3月28日に「正式承認」のための「治験」を表明したが、政府は200万人分の「備蓄」もあるとこっそり書いている。

「首相がうごいた」ような記事だが、どこか冷めているのは、重篤者に使える、あるいは現場の判断でつかえるようにする、もっといえば、患者の承諾があればつかえるという、特別な「意思」がどこにもないからである。

RNA阻害薬なので、胎児にはよろしくないから、女性への投与は妊娠中はもちろん、厳密に「妊娠しない」ことも重要なのだ。
それで、「インフルエンザ薬」ではあるが、めったにつかえないとして「備蓄」されている。
しかも、インフルエンザ薬として承認されたのは2014年だ。

はたして、緊急時にはどうするのか?についての対応が、ぜんぜんできない「内閣」どころか「与野党の政治家たち」を見せつけられるのは、国民からの「革命」動悸ともなる事態なのではないか?
にもかかわらず、国民はいまだ「マスク」に頼るままなのである。

すなわち、わが国でいまおきている「革命」とは、官僚による国家権力の簒奪が最終段階にあって、成功しつつあること。
そして、これが、社会変革も起こすから、完璧なる「無血革命」がおきているのだ。

もはや、既存政党では、この革命を止めることはできない。

わが国は、「日本社会主義人民共和国」になる。
ただし、労働者も一般国民の期待も成就するはずのない、役人のための国になるのである。

「官庁産業」による「官庁立国」が、世界史上ではじめて成立する。

正義の密告サイト

新型コロナウイルスの感染で世間が意気消沈するなか、4月1日に施行された「改正健康増進法」もその怪しさを「ひそめて」いる。

「公益社団法人」という姿で活動している、「禁煙ファシズム団体」がある。
かつてわたしは、喫煙者であったことは何度か表明している。
いまはすっかり「愛煙家」から卒業したが、なんであれ「ファシズム」はいただけない。

そんなわけで、「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」という組織の存在が、気持ち悪くて仕方がない。
これは、「正義」をかんがえさせる問題なので、別の意見があるのを承知で書いておこうかとおもう。

そもそも、公益社団法人という法人格をもった団体である。
「公益」というのは、不特定かつ多数者(=一般人)の利益をさす。
「社団」というのは、非営利団体という意味で、もし活動から利益が出たばあいには、活動の継続資金か内部留保にしかできないので、ふつうの会社のように、給料とは別に利益を従業員に分配してもいけないというしばりがある。

設立には、二段階あって、まずは「一般社団法人」をつくり、その後に「公益認定」を申請し、これが通らないとなれない。
申請先は二つあって、内閣総理大臣または都道府県である。

このあたり、不動産業や建設業の許可申請に似ている。
つまり、複数の都道府県にまたがって事務所があったり活動をするばあいや、国の事務などに関係して政令で定めるならば、大臣への申請となり、それ以外は都道府県という構造になっているからだ。

法的な根拠としては、2008年施行の「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」である。
なので、この法律施行前までは、「一般」と「公益」の区別はなかった。

ならばなぜ区別するようにしたのか?
それは、役人の「天下り問題」として、「公益法人制度改革」という「改革」がおこなわれて、「主務官庁」とか、「許可主義」が廃止されて、「設立」と「認定」をわけることにしたという名分があるからである。

なんだか「姑息」な「改革」なのである。

それでも認定をうけて「公益」になりたいのは、税務上優遇されるからである。

だれかれにでも税務上の優遇をしたくない官庁である財務省がなにかいったのかはしらないが、上の「認定等の法律」には、対象となる事業を23分野として定めている。(「別表」第二条関係を参照)
つまり、わが国における「公益の定義」が「法律」できまっているということだ。

ということで、懸案の「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」は、きっとこの中の、22にある「一般消費者の利益の擁護又は増進を目的とする事業」にあたるのだろう。

そこで、この機構のHPをみてみると、理事長は税理士だった。
やっぱり、優遇を受けるから、税務会計が面倒くさくなるような設計をしていじめる財務省のいやがらせには、優秀な税理士でないと数字がわからなくなるのだろう。

ふたりいる理事には、元神奈川県知事にして当時全国初の受動喫煙防止条例を任期中につくって辞めた、松沢成文参議院議員がいる。
もうひとりは、一日100本を吸っていたというヘビースモーカーだったひとが、環境保護運動家として活動するのに「禁煙」し、すっかり禁煙ファシストに変身したとおもわれる渡辺文学氏である。

HP上では、「事業内容・計画」のトップが、「事業活動方針」となっている。
なかなか「過激」なので、下に冒頭から一部を抜粋する。

『受動喫煙は、誰かが「禁煙」と定めた場所以外は「喫煙は自由」という社会的共通認識を踏まえ、人にタバコを拒否する権利を与えない場の中で日々営まれている。
本社団はこうした現実を直視し、敢えて一切の受動喫煙を撲滅するという強い決意で活動を進める。(以下略)』

「敢えて一切の、、、、、を撲滅する」とは、なかなか勇ましい表現だ。
しかし、気になるのは、前提としての現状認識から「意図的」であることだ。

いまは、「喫煙所」と定めた場所以外は「禁煙」なのである。

中学校の数学でならう「集合」における、「部分集合」のいいかたがまちがっている。
優秀な税理士のはずの理事長が、これをしらないはずがないから「意図的」だといえる。

このHPのユニークな点は、「ニュース・コラム」というタグがたっていて、これをみると、さまざまな記事が紹介されている。
そこで、たとえば東京都なら、「飲食店ステッカー」を表示していない店舗をみつけたら、「通報しましょう」という。

そして、「コメント欄」には、電話による通報ではなくSNSによる通報を求める意見が書き込まれている。

つまり、みんなで「密告」しよう、というのだ。

いったい、どんな社会にしたいのか?
このひとたちは、「受動喫煙」をいいながら、たんに強制的な「禁煙」を要求しているのだ。

なんども紹介するが、下記の『健康帝国ナチス』すら、一部でナチスを肯定している記述がある。それが「禁煙」だ。
はたしてそうか?

「全体主義」は、かならず社会主義者がおこなう。
自由主義者は、これを拒否するのが当然だからだ。

「たかがタバコ」ではないのである。蟻の一穴になりかねない。

改正法ができたから、嫌煙者は喫煙所に近づかなければよい。
それが「潔癖症」を発症すると、全体主義に変換されて、おそろしい社会になってしまうのは、100年前のドイツで経験済みだ。

いま、新型コロナウイルスで、その「潔癖症」を発症していないか?と、冷静な自己チェックがひつようだ。
「社会的『同調圧力』」というのが、全体主義のおそろしさの原動力だからだ。

それがいま、「マスク着用」になって社会現象化していないか?
「敢えて一切の、マスクを着用しない者を撲滅する」と。
ウィルスになんの役にも立たない材質のものはかえって危険だと承知でも、着用しないと会議に出席すらできない。

さては、かくも「危険」な団体が「公益」とは笑止である。
表層の安逸な「制度改革」がなす、失敗のひとつである。
改正法が施行されたので、もうこの組織の存在理由はなくなった。
しかし、「解散」させる仕組みがない。

一直線に「肥大化」するようになっている。

スマホがモバイルPCになる

さまざまなデジタル機器が世の中にでてきているが、「日本製」が珍しくなって久しい。
そもそも、日本の会社名すら、「ブランド化」して売買の対象になっているから、それが「日本製」を示すものではなくなった。

このブログでなんども書いた、「要素価格均等化定理」がはたらいている。
職人技が光ったアナログ時代の生産方法が、デジタル方式に転換したら、「資本」、「土地」、「労働」の「価格」が、世界中で「同じになる(均等化)」という物理法則のような「定理」のことだ。

これに、「内外価格差」という、目に見えない「鎖国的」な業界保護策が、世界価格よりも十分に高い価格体系を「ダム」のように維持していたけれど、「グローバル化」もやってきて、ダブルの攻撃を受けたら、とうとう価格体系という「ダム」にヒビがはいって漏れ出した。

そんなわけで、わが国が、世界で唯一、デフレがダラダラつづく国になっている。
政府の経済政策のトンチンカンは、「鎖国的」な業界保護をやめないで、おカネを供給することだけに集中している。

その「保護」の対象に、デジタル機器まで加えてしまい、「日の丸なんとかを守れ」という、意味不明の大義名分のために、税金までつぎ込むが、自分たちが一生懸命に教えて、相手も一生懸命学んだ国々に、すっかり生産拠点が移ってしまった。

守るべきは「作り方(ノウハウ)」だったのに、政府は外国への技術移転を奨励もしていた。それで、気がついたら「工場」を守れということになったのだ。それは、工場労働者の職場にもなってしまった。
空洞化を率先してやらせておいて、こんどはこれを阻止する。

これをふつうに、「政府の失敗」というのである。
しかし、政府のおカネをもらう研究者は、「政府の失敗」をいったら研究費がけずられると「忖度して」、だれもいわなくなってしまった。

そんなわけで、デジタル機器が、ほとんど外国製になった。

わが国はなにで儲けて食べていくのか?を政府に依存した結果である。
なにで儲けて食べていくのか?は、それぞれの経営者がかんがえることで、法学部出の役人ではない。

経済政策のなかで、ミクロな政策は、政府がやってはいけないのである。
だから、政府の成長戦略だって、それ自体があやしいものだ。
なのに、財界が期待して要求するという「倒錯」がある。

まことに、わが国経済を疲弊させているのは、財界人たちの無能が原因である。

さてそれで、末端ながら、モバイルで仕事をする環境作りである。
「モバイル」ということでいけば、まずは、「モバイル・パソコン」は必須だと思っていたが、あんがい優秀なライバイが存在していた。
それが、「スマホ」である。

これに気づいたのは、モバイル・モニターを購入したことによる。
モバイル・パソコンにモバイル・モニターを接続して、外出先でも「二画面」にしようとたくらんだのである。
自宅では、とっくに二画面化していて、この便利さが「効率」に直結するからである。

注文した翌日に届くという、外国ではありえない流通網があるのは、さすがに日本である、と自慢できる。
それで、さっそく開封し、念のため「説明書」をみてみた。
すると、スマホと接続する図が描いてある。

ただ、スマホの画面が大きくなるだけならべつに驚きもしないが、なんだか「パソコンの画面のよう」になっている。
しらべたら、韓国サムソン製のスマホと、いろいろ話題の中国HUAWEI製のスマホの「機能」であった。

つまり、このほかのスマホは、スマホの画面が大きくなる「だけ」なのである。
じぶんのスマホのすごい機能に、はじめて気がついた。
機種選びのときは、日本製に期待していたがしっくりこずにサムソン製を選んだのだが、どうやら「正解」だった。

電源はモニター側に接続すると、モニターだけでなくスマホにも供給されるから、充電もできる。
タッチパネル式ではないモニターだけど、スマホにブルートゥース・マウスを接続すれば、ほとんどパソコンになる。

アプリはダウンロードがいるとはいえ、ほとんどの有名アプリが対応している。
もちろん、スマホ側は、モニターと別表示になるので、小さいながら「二画面化」するのである。

ところで、接続のための「ケーブル」がややこしい。
モニター付属のケーブルがちゃんとしていたからよかったが、さいきんはやりの「USB-C」タイプには、さまざまな規格が同じ形状にのっかっている。

つまり、端子の形が「USB-C」だからといって、どれもおなじではない。
給電のための対応ワット数、データ転送のための規格が、それぞれ分かれている。

なんでもあり規格のケーブルだと、50センチでも2千円以上する。
これらも、ほとんど外国製で、日本製ではない。
急速充電器だって、電気容量で価格差があるが、こちらも日本製ではない。

外国製造ではあるが、愛用のブルートゥース・マウスがやっと、日本メーカーが「企画」した製品である。
スマホのドックになる、日本企画の折りたたみ式リーダーを申し込んだのは、ちょっとだけ愛国心の発揚ではある。

マッチ・ポンプの日本政府

2020年度のはじまりである。

2019年度の「棚卸」のために、昨日はどちらさまも総力戦で在庫のチェックをしたことだろう。
「だろう」というのは、中央政府ははっきりいわないが、地方政府の親玉である東京都の知事が、なるべく会社にも行くなといったからである。

「不要不急」のことはするな、というけれど、棚卸をしないと決算ができない。
はっきりいわない中央政府は、税金の猶予をいいだしたけど、免除ではないから年度末の棚卸は、「必要」で、年度末の日にしないといけない。

マスコミにおける「報道各社」という会社には、物品の「棚卸」という概念がないからか、ぜんぜんこれを報道しない。
「棚」を映すのは、商品がなくなってスカスカの棚ばかりである。
そんな映像をみせながら、音声では「商品はあります」というのは、まったくの「欺瞞」である。

これを、70年代の石油ショック時のトイレットペーパー・パニックの記憶から、はっきり批判したのは、元NHKの木村太郎氏ばかりである。
「やってはいけない」としっていてやっている。

つまり、半世紀前の主婦たちの行動が、現代も再現されているのだ。
たきつけるマスコミと、これに乗じるひとたち。
今回も乗じたのは高齢者が中心だったというから、年齢から50を引けば、「なるほど」ということにもなる。

つまり、やっぱりぜんぜん「反省」などしていないのだ。
扇動する側と扇動される側の、両者の精神構造に変化がないのは、学習していないという意味でもある。
これを、「貧困なる精神」という。

けだし、貧困なる精神の持主である、本多勝一氏の著作シリーズに『貧困なる精神』(朝日新聞)がある。
「毒」なので、推奨はしないけど、「毒にあたらない」自信がある方が、「毒」としてみるのを否定しない。

「毒」も少量だと、「薬」になるからである。
ただし、ミイラ取りがミイラにならないように注意が必要で、自己免疫システムが破壊されそうになったら、すぐに中止したほうがよい。
「中毒」になりかねない。

さて、東京都の知事は、どこそこへいくなと、あんがいと細かい指示をだしている。
もちろん、法的拘束力がない「要請」にすぎないが、そこになぜか「パチンコ」がない。

これは、官房長官記者会見に呼応しているから、国と都は、しっかり「連携」しているとかんがえられる。
今夏の都知事選に、与党自民党が対立候補を「ださない」のだから、おどろくにあたらないけど、なぜそう決めたのか?はわからない。

ここに、わが国の民主主義が民主主義「ごっこ」にすぎない証拠がある。
都知事選の候補者選びの「予備選挙」という概念がぜんぜんない。
アメリカの「良い点」が、コピーされていない。

さてそれで、「パチンコ」が対象でないのはなぜか?という、記者からの質問に、官房長官は、警察庁が安全な指示をだしているからと返答した。

まことに、「珍奇」なることである。
これから、各方面からの「批判」が詳細にかたられることだろう。

人間がつくっているのが人間社会だから、人為的なのは当然だ。
けれども、長い歴史のなかでできてきた社会ルールさえも、今回の新型コロナウイルス禍は破壊しだしている。

その原因をつきつめれば、ウィルスの科学特性ではなくて、社会を構成する人間たちがもつ、「恐怖と不安」なのである。
だから、なにも相手が、ウィルスでなくてもよい。

こうした、人間の精神状態や心理を活用すれば、「恐怖と不安」による、「統治」が可能になることを示している。

すると、思いだされるのは、ジャン・ジャック・ルソーである。
この、強度な統合失調症だったひとの「思想」の「毒」は、ウィルスより怖い政治状況をうみだした。
それが、「フランス革命」であり、「ロシア革命」だった。

ところが、わが国の大学は、ルソーがだいすきで、たいていは「教養課程」で学ばされるが、はたしてそれは、「否定」が前提ではない。
かんたんにいえば、思想「注入」されるのである。
助成金で大学経営を縛り上げている、文科省という役所もこれを「放置」しているから、国家が奨励しているようなものだ。

ルソーとこの系統に続くマルクスを学べば、むくな人間はちゃんとそっち方向に向かうことになっている。
マルクスを否定できても、なかなかルソーにまでいかせない。
だから、これら思想の根絶やしができないのである。

ではどんな「解毒剤」があるのか?
まずは、こうした思想に触れないことが、社会の健全性維持のためにはよほど重要だから、まったく「ウィルス」のごとくなのである。
これを、実行しているのが、アメリカになる。

ただし、「無菌室」で育つことは、たいへん危険だ。
世界は、「ばい菌」であふれている。
『サタデー・ナイト・フィーバー』の前年に製作された、ジョン・トラボルタ主演『プラスチックの中の青春』がおしえてくれる。

そんなわけで、アメリカ人は、ソ連崩壊にともなうロシアや東欧の自由化にほとんど貢献できなかった。
自由社会をしらないひとたちに、自由があたりまえのひとたちは、なにを教えればよいかさえわからなかったのだ。

つまり、アメリカ人が「無菌室」にいたのである。

さて、わが国は、その意味でとっくに「汚染」されている。
これを「除菌」することが、じつは今回の新型コロナウイルス禍による社会再生になるのである。

政府のマッチ・ポンプ政策が、汚染具合を示しているのだ。