元は「ルター派」のひとびとである。
ヨーロッパにおけるキリスト教は、ローマ帝国の東西分裂で、西ローマ帝国にはローマ教会が、東ローマ帝国には東方教会と、教会も分裂した。
分裂後まもなく、西ローマ帝国は滅亡し、ローマ教会は生き残りをかけた戦略を発動する。
それが、宗教的権威(ローマ教会)と、世俗的権力(王権)の分離だった。
一方で、その後も存続した東ローマ帝国では、国家による教会保護がおこなわれて、皮肉にもそれが教会内の分裂を促したため、東方教会は、ローマ教会のような圧倒的中心(教皇)を失っていまに至っている。
しかし、16世紀になって、ドイツにはじまるルターの宗教改革で、新教(プロテスタント)がはじまる。
あの大バッハやメンデルスゾーンなど、ドイツの著名な音楽家はプロテスタントではあるけども、皆このルター派(ルーテル)なのである。
ルターの宗教改革は、その後激烈なカルヴァン派に発展し、複雑な各派の軋轢から逃れたひとたちが新大陸のアメリカに移住した。
そして、敬虔なる信仰生活という生活様式を頑なに守ることでしられるのが、アーミッシュなのである。
このひとたちは、オハイオ州やペンシルベニア州などの中西部に、20万人ほどが暮らしているといわれている。
大統領選挙でいう、激戦州にいるのだ。
しかし、あまりにもその宗教生活が厳格なので、「変わり者」というイメージもある。
いまだに、電気やエンジンをつかった生活をしておらず、自給自足の生活に甘んじている。
宗教的敬虔さを保つために、高等教育は邪魔になるということから、かれらのコミュニティでは、伝統的なペンシルベニア・ドイツ語、英語、算数の3科に限った教育が8年間だけ行われている。
わが国の一律で自由を認めない教育行政ではかんがえられないけど、連邦最高裁において、「独自学校」として認められている。
そんなわけで、アメリカ国内においても特別な存在である彼らは、かつて政治に関与する伝統は一切ない、「隠遁生活」を宗としていたのである。
ここで忘れてならないのは、アメリカ合衆国という国は、そもそもが「宗教国家」だということだ。
プロテスタントの一派である、イギリス清教徒(カルヴァン派)がメイフラワー号でマサチューセッツに移民したのを建国の嚆矢としている。
大統領就任式における、宣誓が、聖書に手を置いて行われるゆえんはここにある。
日本における、「政教分離」とは意味がちがうけど、日本の「政教分離」の意味がちがうのだろう。
現在、アメリカの人口の3分の1は、プロテスタント「福音派」が占めているのだ。
このことを侮ってはいけない。
トランプ氏の選挙集会で定番の、ヴィレッジ・ピープル『Y.M.C.A.』は、ヴィレッジ・ピープルから「かけるな」というクレームを無視しても「かけている」のは、トランプ氏自身も支持母体の共和党保守派も福音派だからである。
つまり、題名通り、キリスト教青年会(Young Men’s Christian Association)の「歌」としているのだ。
ただし、この「歌」の本音は、「ゲイの賛歌」だから、そっち方面からすると「かけるな」という意味が理解できる。
いわゆる、民主党目線から、厳格なキリスト教原理主義を揶揄した歌詞の曲を、あたかも現代的布教に利用するな、ということである。
すると、トランプ氏の選挙集会とは、じつは「ミサ」なのである。
彼は、やんちゃな「牧師」なのだ。
いや、あたらしい宗教的指導者でもある。
新約聖書「コリントの信徒への手紙」15章52節、「テサロニケの信徒への手紙」4章16節に、日本語訳では「ラッパ」と表現されている箇所がある。
これが、英語版では「trump」なのである。
どうやら、「trumpet」(トランペット)のことらしい。
そういえば、日本人が思いつくカードゲームの「トランプ」を、どうして「トランプ」というのか不明なのである。
ふつう、「cards」(カード)という。
さてそれで、アーミッシュが、上述の聖書の記述からトランプ氏を「救世主」であると認定した。
彼らは、移民してこのかた300年、政治への不参加を貫いてきたのに、とうとうその「禁を破った」のである。
ネット大手が「検閲」の疑いで、それぞれの責任者が上院に呼び出されたけれど、ユーチューブにはこのことが削除されずにしっかりでているのは「幸い」の、まさに「福音」である。
トランプ支持の旗を掲げて馬車や牛にまたがっての大行進を、地元民がバイクで護衛している。
これは、建国以来の大事件なのである。
日本では文化の日の今日、わが国伝統文化の喪失を偲ぶしかない。
昨夜のテレ東、『YOUは何しに日本へ?』では、漢字に魅せられた外国人が、「方言漢字」という特定地域に生まれてその地域だけで使われている「字を探す」話題があった。
「間に合ってよかった」とは、古い公図で発見した役場職員のことばである。
その価値は、失ってからではわからなくなる。
しかし、日常の価値も、わかっていない。
だから、保存もできない。
果たしていま、われわれは、文化的な生活をしているのだろうか?