今年は節分の翌日が立春で、関東にはこの日「春一番」が吹いてしまった。
冬と夏のせめぎあいから、だんだんと暖かくなるのが春。
そして、田園風景には、春の芽生えがあちこちにみられるようになってきた。
子ども時分には、よもぎを摘みながらちょっと遠目の散歩に出かけたものだった。
袋一杯に摘んだよもぎをさっと洗ってから茹でて、細かく刻む。
このとき、包丁を2本使うこともあった。
それで、上新粉とこねて、よもぎ餅をつくって食べた。
ずいぶん前から和菓子屋で買うものになったけど、あの緑の「濃さ」と「苦み」のあるものはどこにも売っていない。
手作りならではの、よもぎを奮発した味だった。
いまでは年中売っている不思議があるけど、香りが薄いのは想定内だ。
べつに、よもぎ餅なんてなくてもいいような食べものだけど、一度も手作りしたことがなくて、買って食べるものになったら、なんだか人生の損をするようにおもう。
そうかんがえたら、おとなよりも子どもに食べさせて、舌の記憶に残してあげたい。
さすがに都心では無理だけど、すこし郊外なら、道端にふつうに自生しているものだ。
野菊との見分け方は、葉を裏返して「白」ならよもぎ、表とおなじ「緑」なら野菊である。
菊といえば、食用菊がある。
花を食べるのは、ブロッコリーだっておなじだから、べつに珍しくもないのに、菊は菊の花のままだから、慣れていないと違和感がある。
むかしは漢方で、昨今は、その栄養価が再評価されている。
しかし、菊はやっぱり秋の味覚のイメージだ。
愛知ではかなり一般的で、関東を飛び越えて山形や青森でもさかんに栽培されている。
菊の花を茶として淹れると、目にいいとされるのも漢方からだが、効果は証明済みである。
さて、春の味といえば、ふきのとうやたらの芽に代表される、「苦み」だ。
新鮮なタケノコも、ほんのり苦い。
もちろん、よもぎだっておなじである。
芽や葉を食べれば、それは苦いにきまっている。
五味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)のうちで、苦みはかなり高度な「味」である。
なぜなら、一歩まちがうと「毒」を意味するからである。
「えぐみ」ともいえばわかるだろう。
ならば、わざわざ食べるのはなぜか?
これがあんがい、「人生経験」なのである。
最初は好みでないけれど、だんだんと経験を積むと馴染むのが「苦み」なのだ。
だから、「おとなの味」である。
経験の薄い子どもにはわからない。
変わっているのは、「うま味」だ。
日本人には「ふつう」だけれど、それは「鰹節」や「昆布の出汁」がふつうだからである。
ヨーロッパのスーパーにできた、「UMAMI」というコーナーの店内看板は、和食の広がりでそのまま現地語になっている。
日本人には痛快なのが、彼らは最近になってようやく、「うま味」をしったということだ。
すると、「五味」ならぬ「四味」で数千年から数万年を過ごしてきた、という意味になる。
苦みについても彼らは消極的なので、「三.五味」ぐらいかもしれない。
水の温みが気温の温みになって、春になる。
その象徴が、雪解けだ。
ふきのとうが雪の間から顔を出す。
そうはいっても、そのままではあんまり「苦い」ので天ぷらにする。
あぶらが膜となって、味覚の「苦み」を緩和させるのだ。
これが、「定番」となったのである。
20時までという、根拠不明の「規制」を「強制」して、東京では警察官が繁華街を「見回り」している。
根拠不明の「職質」もやっていて、まったくの「不法地帯」と化したのだ。
これをむかしは、「職権濫用」といったのだ。
だから善良なる市民は、ちゃんとした料理屋で、春の味覚をゆっくりと堪能する自由を奪われた。
この意味で、戦後初の「苦い春」となっている。