「決断と実行」されたら困る

街を歩けば、いたるところに「政治ポスター」があるのは、日本的な風景の一部をつくっている。

おおくのひとは、これを、「無意識」に観ているけれども、記憶の深いところにインプット(Input:押し込まれるイメージ)されるので、これをしっている政治家や政党は、ポスター製作に余念がない。

セブンイレブンを成功させた、鈴木敏文氏は、「心理学」をよく研究したひとだった。

これが彼を、カリスマ経営者としたけれど、従業員や加盟店オーナーの心理を読むのに失敗してしまったのが、まさに晩節を穢した話になっている。

残念ながら、江戸期や戦前までの、「商魂」が、なんだか古めかしいものになってしまって、なんでもアメリカ製をありがたることになったので、マーケティングにおける高度な「心理学の応用」についても、アメリカ人のやり方をコピーすることになった。

困ったことに、経済学も、じっさいは「アメリカ経済」の研究・分析のことになって、日本経済には役立たない。
これがまた、日本における資本主義きらいという素地と反応して、アンチ資本主義が跋扈するので、アメリカ型の経済学が通用しないのである。

日本人なら義務教育でぜったいに習う、明治初期の失敗事例、「武士の商法」は、当時だれもがしっていた、「あきんど:商人」の常識を、武士という上から目線で客に接して真逆をやって失敗したという話になっている。

これも一種の、「革命賛歌」で、時代に対応しようにも対応できない、「石頭」を嗤って、政商であろうがなんであろうが、身分の低い商人を持ち上げたのである。

仕えた幕府も藩もなくなったので、禄が得られなくなった武士には、公務員になるか帰農して農民になるか、あるいは商人になるしか選択はない。
それで、急遽、刀を算盤に持ち替えた、という話になっているけれど、『武士の家計簿』(2010年)のごとく、武士たちはとっくに刀を算盤に持ち替えていた。

 

わたしは、むしろ、武士の商法とは、「武士に二言はない」ことで、あまりにも「律儀」だったことが、禍してしまったとかんがえている。
いってみれば、詐欺師同然の一部商人たちから、食い物にされてしまったのではないのか?

なんだか、いまの「コラボ問題」のような。
もちろん、都とかの役人が騙されているというよりも、「共犯」の様相はあるけれど。

その武士たちは、名誉(たとえば、「家名」)を最大級に重んじていたから、あえてヨーロッパ文化のことばでいえば、「ノブレス・オブリージュ」という常識があった。

それがまた、「決闘」になったのである。
別に、「果たし合い」とか、不良少年用語では、「タイマン」という。

1889年(明治22年)に制定された、「決闘罪ニ関スル件」で、わが国では禁止されて現在に至っている。

つまり、この法律が改正も廃止もされていない。
法律(条文)とは、社会における最低限のルールにすぎないので、あんがいとふつうに守らないから、法律が残っている、ともいえる。

子供という動物は、この意味で「原始的」だから、子供社会の方では、決闘はふつうにあった。

そこでは、「正々堂々と勝負する」という武士道に起因するDNAが発揮されて、親の出番も否定されていた。
「子供の喧嘩に親が出る」ことは、子供社会のタブーだったのである。

大のおとながやった決闘で、有名なのは、宮本武蔵と佐々木小次郎の、「巌流島の決闘」とか、『忠臣蔵』のサブストーリーにある、「高田馬場の決闘」がすぐに思い出される。

これを、「野蛮」という一言でかたづけると、「名誉」が霞む。
そのくせ、「名誉欲」は衰えることをしらない、厄介なことになった。

それが、「理性主義」なのである。
しかしながら、その理性が、ウクライナをダシに使った「戦争」を招くのだから、いまは、歴史上でもっとも野蛮な時代に生きている。

岸田政権がこの戦争に加担するのも、この野蛮のなせる技なのである。

その岸田総裁を全面に出した、自民党のポスターには、「決断と実行」と大書してある。
わたしとしては、こんなキャッチコピーをよくも思いついたものだと、その厚顔無恥ぶりに驚くばかりなのである。

けれども、キャッチフレーズが先に決まっていて、誰だかの写真が後だったのかもしれない。
要は、党組織として、トップは誰でもおなじだという意味だ。

そんな状態だから、もはや、決断と実行されたら、国民は困るのである。

お願いだから、なにもしないで欲しい。
経済政策も、福祉政策も、政策と名がつくものは、とにかくなにもしないで欲しいのである。

日本国を、内部から、あるいは、根底から腐らせている、腐敗菌が自民党と公明党なのではなく、これらの「タネ」はとっくに溶けて、すでに周辺に「心理的」大繁殖してしているのだ。

もちろん、すでに腐った部分は、大胆に切除して廃棄しないといけない。

ならば、廃棄と消毒を同時にしないといけないのだけれども、それが国内にないから、アメリカ共和党トランプ派頼みとなっている。

日銀の限界でインフレは?

えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!
日銀がとうとう金利を上げた。
0.25%上げたのだ。
で、昨年末、「0.5%」になったのである。

正確にいうと、10年もの国債の利回りのことだ。

国債といっても、償還期間にいろんな種類がある。
そのなかで、「10年もの」というのは、世界各国の国債と比較するのに便利なので、指標になるのである。

1年以内の「短期」だと、各国の作為的思惑が影響してしまうし、30年ものの「超長期」だと、生命保険会社のような機関投資家だけしか購入しないから相対で販売して、個人は参入できない。
保険を掛けたお客さんがふつうはすぐに死なないので、支払までの長い期間で運用をしないといけないのは生命保険会社ぐらいだからである。

このことをかんがえたら、生命保険に加入するより、個人が超長期30年もの国債を買った方が、手数料を生命保険会社に払わないで済むので効率がいいけど、国債市場は個人に開放していないから、これができないのは上述の通りだ。

まことに、個人に不利な制度になっている。

日銀に、無理やり「異次元の金融緩和」という看板を掲げさせたのは、安倍晋三氏だった。
彼は、「新日銀法」の改正をほのめかして、さらに抵抗する白川総裁を降ろす人事をやって、いうとおりにする黒田財務省財務官を起用した。

ちなみに、「諸悪の権化」と評されて事実上解任された、白川前総裁は2021年4月20日に、英国議会貴族院に参考人招致され、主に「量的緩和」についての問題を鋭く質問された。
貴族院は、選挙で選ばれない「貴族」からなるが、「専門家」で構成されている。
この公聴会では、元イングランド銀行総裁マーヴィン・キング卿も質問に立った。

白川氏の説明で印象的なのは、サマーズ元米国財務長官が述べた、「日銀の失敗」を引用して、金融政策でインフレを引き起こすことの限界を述べたことである。
そして、最大の問題は、「生産性の低下」だと。

じっさい、わが国の生産性は、アベノミクスによって、著しく低下して「先進国ではない」状態になってきている。

なお念のため、日銀総裁人事には変な慣例があって、日銀プロパー、財務省、学者の3カテゴリーから輪番で就任することになっている。
だから、合併した銀行が、頭取人事を交互にやるのを妨げられない。

ただし民間銀行だと、それぞれの銀行に最後に入行した新人世代が全員定年退職すれば、必然的に「融和」するけど、日銀は永遠にこれをやるだろうから、たちがわるい。

「適材適所」がかなわないのは、国民にとっての悲惨を呼ぶ。
ただ、「適材」がどこにいるのかわからない、という問題が、深みにあるのだ。
しかも、英国議会がしたような公聴会を、わが国では参議院さえも実施していないのは、公選による議員に専門家がいないからだともいえる。

ガーシー議員への懲罰委員会が、これを象徴しているのである。

新日銀法ができたのは、バブル崩壊の反省からだったけど、旧日銀法は戦前からのものだった。
なにを反省したかといえば、政府のいいなりの子会社、という位置づけをやめて、明治に設立して以来、初めて、政府から独立したのだった。

使命は、「物価の番人」である。

これを、安倍氏は「政府による支配に戻すぞ!」と脅迫したのだ。
それで、財務省の財務官だった黒田氏を指名して、法律は元に戻さないけど、政府による支配を実現させた。

これはこれで、政治家の意思を通したのが安倍氏だった。
その功罪は所説あるので、ここでは触れない。
ただし、緊縮財政派と金融緩和派との争い、という二元論が大半だから、白川氏のいう「生産性」の議論は日本の金融政策にない。

バブルが崩壊して30年以上になるけど、ひと世代まるまる時間をかけて「デフレからの脱却」ができなかったのは何故か?
これだけ金融緩和してもできなかったのは何故か?

という議論が、できないことの不思議は、為政者や御用学者が、脳軟化か脳梗塞かのどちらかに罹患していることが原因ではないか?と疑うのがふつうではないのか?

そもそも、「バブル」を人為で崩壊させるひつようがどこにあったのか?ということも、あんまり議論されないできた。
日本の「平成バブル」とは、昭和の終わりからはじまったけど、その「経済の巨大化」を、「日本開国」目線から確認すべきなのである。

つまり、世界での位置付け、である。
なにしろ、この30年以上、とにかく、世界でわが国「だけ」がずうっとデフレだからだ。

デフレとは、おカネの価値が上がって、モノの価値が下がる現象をいう。

日本は「円」を発行して流通させている。
コインの硬貨は、政府が発行していて、紙幣は「日本銀行券」と印刷の通り、日銀が発行している。

どちらも、政府が決めた「法定通貨」だから、日本人は円貨以外の通貨を使うことができない。

しかしながら、「通貨発行益」というものが発行者には与えられる。
たとえば、1万円札の原価は、ぜったいに1万円しない。
この差額が、発行者の利益になる。
これが権利化するから、究極の利権である。

政府は1円玉では損をしているけれど、500円玉では利益がでる。
ただし、発行額は年3000億円程度なので、たいした額ではない。
なので、やっぱり興味は日銀に移る。

そこで、日銀が引き受けた国債を担保に、政府による紙幣発行のアイデアがある。

政府が発行した国債を日銀が引き受けるということは、日銀から政府口座へ振り込まれる円を、日銀券としてではなくて、政府紙幣にするという話である。
このとき、政府紙幣をデジタル通貨とすれば、これはこれで究極のバラマキになるというのだけれど、それなら国債を無限に発行できるのか?

あるいは、日銀とはなにか?という問題に拡がる。

じつは、中央銀行という制度は、よくわからない制度なのである。

ここに、問題の本質がある。
我々は、よくわからない制度の上で生活しているのだ。

日本開国とアメリカの世界戦略

カナダに移住した渡辺惣樹氏といえば、第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバー(任期1929~33)の渾身の回顧録を邦訳した、大著『裏切られた自由』(草思社、2017年)でしられるが、当時は職業歴史家でも大学教授でもなく、ビジネスマンの「趣味」仕事だったことが新鮮だった。

フーバーそのひとは、その任期のはじめに大恐慌に遭遇し、当時の新古典派経済学に従ったらコントロールできなくなったとして、「無能のひと」レッテルが一般的になったのも、プロパガンダだった。

けっして親日家ではないが、一般人としての成功は尋常な人物ではない「偉人」なのだ。
その人物の「公正さ」が、人類史に残る、「工業規格」を創設した功績でわかる。

 

この大著の解説本として、さらに、『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社、2017年)があって、日本との関係をコンパクトに、かつ、あくまでフーバー前大統領目線で書かれているから、いわゆる「戦後史観」とは一線を画すばかりか、いまにつながるアメリカ共和党目線(=トランプ派:プロテスタント福音派)という意外がある。

視線というのは重要で、よく、「複眼的」に観よ、とむかしの上司からうるさくいわれたものである。

これは、旅館の女将がいう、「お客様の立場にたって」ということとおなじで、自分からの「見えるものだけ」を追いかけると、たいがい間違えることの教訓にもなっている。

このことをしる好例に、アート・バックウォルド著、『だれがコロンブスを発見したか』(文藝春秋、1980年)がある。
なお、バックウォルド氏は、1982年のピューリッツァー賞受賞者だ。

バックウォルド氏の余談として、1988年にパラマウント映画が製作した、エディ・マーフィ主演の映画『星の王子 ニューヨークへ行く』が、彼の脚本を盗作したとして訴訟を起こし、勝訴している。

我々は、ついぞうっかり、新大陸を発見したのはコロンブスだと思いこんでいる。

しかし、その大陸の陸地から、コロンブス一行を発見したひとたちがいたことに注意をはらわない方が、よほどのうっかりなのである。
しかも、このひとたちにとっては、それが人類史における、「1492年10月12日」だということさえも、意味がないことだった。

とはいえ、わたしは、いまアメリカで盛んらしい、極左民主党がいう、「批判的人種理論(Critical Race Theory:CRT)」には与しない。

これは、あんがいとGHQが仕掛けて成功したものを、大宅壮一が皮肉を込めてうまく表現した、「一億総懺悔」とよく似ていて、日本での成功に味をしめた民主党はとうとう、自国での「破壊活動」に邁進しているようにみえるからである。

そんなわけで、渡辺惣樹氏の『日本開国-アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』(草思社、2009年)を読んだ。

「黒船来航」は、我々日本人が、あたかもコロンブスを発見した側になって「常識」としているものを、本書はしっかりと日本・アメリカ双方から、しかも奥深く解説している「複眼」になっている。

細かなエピソードが、どんどん連結していくさまは、むかしテレビで観た、『フリーウェイ・クラッシュ!(THE GREAT AMERICAN TRAFFIC JAM)』を思い出させてくれた。
たしか、1980年頃の作品だとおもう。

ドラマは、高速道路での100台もの「玉突き事故」になるのだけれど、それぞれのクルマにはそれぞれの人生を乗せていて、とあるきっかけで、全員が巻きこまれる物語は、社会現象そのものだった。
このそれぞれの人生を、それぞれ表現してから、クライマックスの「事故」に至る見せ方に、納得したものだ。

「黒船来航」も、日米双方だけでなく、長崎の出島の利権をできるだけ長く維持したいオランダや、世界を完全征服したい英国の弱点となる、太平洋の覇権を、新興国アメリカが出しぬくといったダイナミックな話に、わが国はコップの中の争いをやっていた。

カナダに住まう渡辺氏が、いまの日本を観察したら、当時とおなじパターンにみえるのだろう。

さて、この時代の英国は、大西洋とインド洋を支配して、アヘン戦争で東シナ海までやって来ている。

これには、ナポレオンのフランスがオランダを征服した(1810年)ので、亡命オランダ政府はその植民地を英国に管理委託し、ナポレオン没落後に独立を回復(ウィーン議定書:1815年)すると、英国は「管理手数料」として、シンガポールやセイロン(現スリランカ)などを得ていたことも、その後の英国艦隊による、「日本開国」(薩英戦争と馬関戦争)への大きな伏線になっているのだ。

また一方、長崎の出島は、世界で唯一、オランダ国旗が降ろされない特別な場所となっていた。
幕府はオランダが独立を失ったことを知らなかった、ということになっているけど、ちょっと怪しい。
知らんぷりしていたのではないか?日本人もあんがいと狡猾なのだ。

ちなみに、オランダ政府は2020年1月1日より、公式国号としての「オランダ:Holland」を使用せず、すべて、「the Netherlands」として各国に通達したが、日本語表記において「オランダ王国」を正式とした異例を許したのは、「出島」の特別功績なのだった。

アメリカは「西部開拓」で太平洋に目が向いて、英国が先にちょっかいを出したハワイ王国を攻略し、「太平洋ハイウェイ構想」で、上海に目が向いて、その中継地に日本があった。

大陸横断鉄道と、その後の電信が、太平洋をはさんだニューヨーク=上海の連絡を、インド洋経由の、ロンドン=上海よりも「圧倒的に高速」だったからである。

この意味するところは、アメリカ産業界のロビー活動も含め、強力に推進したのがやっぱり民主党なのである。
ペリーも、民主党支持を表明する海軍軍人だった。

英国は香港を、アメリカは日本を、中国(当時は清国)進出の、橋頭堡にしたかった。

それで、日清・日露は、日本を彼らが利用した、彼らにとってはいつもの、「代理戦争」であったのに、第一次大戦で「出る杭」となった日本が、第二次大戦で「叩かれた」のである。

これを、日本人はいまだに、「国内問題」として「単眼」で観ているから、英米やらからコケにされるのである。

アメリカのこの視点は、いまだに変わっていない。
納得の歴史(ヒストリー)は、人間たちが織りなす、それぞれの思惑で作られるのである。

個人情報は国家のもの

法律でいう、『個人情報の保護に関する法律』は、平成15年5月に公布され、平成17年(2005年)4月に全面施行された。

『個人電話帳』(のちに『ハローページ』)は、2021年をもって基本的に終了し、130年の歴史に幕を降ろしていた。
もっとも、電話帳に記載されないように「申請」するのは、とっくに「当然」となっていたので、分厚い本の代名詞だった電話帳もずいぶんと薄くなっていた。

わたしが子供時分に、アメリカではプライバシーが割れて強盗がきたりとか物騒だから、電話帳に個人宅は記載しないことがふつうだと話題になって、「不便だなぁ」とおとなたちが嗤っていた。
むしろ、電話帳に自分の名前と住所が印刷されるのは、なんだか一人前のお墨付きのようで嬉しかったのである。

この意味で電話帳が分厚かったのは、自分の名前と電話番号、それに住所が「掲載される」という基本があったからで、郵便番号は別だった。

小学生がクラスメイトに年賀状を出すにも、わざわざ電話帳を調べたりした。
学校の緊急連絡簿とおなじなのはわかっていても、住所が緊急連絡簿にないことがあったからだ。
だから、本人の名前ではなくて、お父さんの名前で調べるひつようがあって、なんだか家族的な手紙のイメージにもなったのだった。

珍しい苗字の場合、横浜市内でも数名しかいないと、その家族の家系までがわかった気がして、本人に聞くとその通りだった。

悪い意味でアメリカナイズされて、電話帳に記載拒否するのが日本でも当たり前になったのは、やっぱり住みにくさの象徴で、それが「自由」ゆえのことだと思えたものだ。

国家が統制できないからである。

しかし、その自由が暴走しだして、人々が自分の自由で勝手に振る舞うから、世の中が不自由になったのである。
たまたま、そこに携帯電話が普及して、必要な電話番号だけでなく、住所も登録できたから、電話帳の必要性がなくなっただけだった。

つまり、まったく別の事象が、たまたま絡み合ったことで、本来起きるべき問題を乗り越えただけなのだ。

それだから、「個人情報保護法」については、順序が逆の誤解が、こんどは世の中をもっと不便にした。

従来からの生活における個人情報の保護の習慣を基礎として、これを成文の法律にしたものを、そもそも「個人情報」といういい方が新しかったから、すっかり「進歩的な法律」だと誤解したのである。
その顕著な例が、卒業名簿を作れなくなったとか、町内会や自治会の会員名簿が作れないまでになったのである。

これらは、たまたま別の事象が絡み合ったのだけれども、それが、「責任回避」の裏にある「無責任」だった。
つまり、卒業名簿から個人が割れて、なにかしらの迷惑事案や犯罪となったとき、どうして名簿を作ったのか?という指摘をされたら「嫌だ」というだけの問題だった。

もっといえば、卒業名簿をどうして作っていたのか?を問えば、同窓会やらクラス会の便宜をとるためでもあった。
だから、これらの目的以外に、他人にみせることは、昔からも想定していない。

すると、作らないと決めた理由にある、「懸念」とは、相互不信にほかならない。
だれか、このクラスや住民のなかに、名簿を売り渡す輩がいるのではないか?と。

こんな失礼な話はないのに、こんな失礼な話を前提とするようにしたから、「誤解」という。
当初目的以外に用いてはならない、と法にあるのは特別なことではなく、違反すれば罰せられることが、加わっただけなのだ。

むかしは、町内会の名簿印刷に費用がかかるのを、町内の商店の何軒かに広告出稿してもらって賄ったものだ。
そんな商店主も町内の住民だから、だれも非難するひとはいないし、名簿情報が漏れる心配もなく、かえって商店主に感謝したのだった。

ただで町内会のきれいな名簿が印刷できるとは、だれも思っていなかった。

それが、役所からの補助金の対象になったら一変したのである。
「自治」に、他人からのおカネが降ってくるのは、よいことばかりではないのだ。

いまや横浜や関東からなら、ほぼ飛行機で移動するはずの鹿児島市で、18歳になった市民の個人情報を本人の承諾なしに自衛隊員募集のために、引き渡すことが話題になっている。
これが大炎上したので、今月から、鹿児島市は「提供拒否の申請の受付」をはじめるそうな。

「拒否の申請」ではなくて、最初から「違法」だという話に当局はなっていない。
市議会でも一切報告・審議されないで決まった、というので、もう「独裁」状態なのである。

地方自治法にも抵触していないか?

すると、鹿児島市だけでなく、うちの市も、という書き込みがある。
全国規模で、「絶賛実施中」なのか?
ならば、これは、個人情報は国家のもの、ということに相違ない。

自治体は、むしろ、国からの住民基本台帳の情報提供を強要されていて、これを拒否できないので、仕方なく強引でもやります、となっているのではないか?

そんな岸田政権は、河野太郎デジタル大臣が、SNSへの利用登録に、マイナンバーの提出を義務づけるといいだした。
例えば「危険」とされる、「TikTok」にアメリカ議会でのやり方をみないで、ここだけ「日本の独自性」を追求するのは変だ。

しかも河野氏とあらば、「言論統制」という目的ではなく、「媚中」だけがみえてくるのはわたしだけか?

ついでに、首相は、「サラリーマンが転職しやすくするために、退職金への課税を重くする」と表明した。

理由はもう、なんでもいいのである。

囮ニュースの裏

報道しない技術として、「囮ニュース」という目くらましの利用がある。

有名な手品師あるいはマジシャン、いまではパフォーマーというのか、とにかく、そういったひとたちが見せるマジックやイリュージョンの「タネ」を、暴いてみせる動画が再生回数を稼いでいる。
これらを観ると、「目くらまし」や「錯覚」を利用して、ひとつの演技が構築されていることがわかる。

タネ明かしをみれば、なんということはないけれど、考案して難なく演じるのはたいへんだろう。
さいきんでは、映像で魅せる、手法があるから、「さくら」が周囲を囲っていれば、それだけでマジックは成立する。

これを暴いて、動画視聴者からの予定通りの反応(コメント書き込み)が、一種の「やる気の素」になっているにちがいない。
とはいえ、著作権やらの諸権利の侵害にならないかとおもうけど。

社会の木鐸として存在するはずの、自称報道機関が、その使命を放棄してしまった昨今では、悪質な社会誘導手法としての、「目くらまし」を用いるから、視聴者としても安穏と観ているだけでは簡単に騙されるようになった。

マジック・ショーとちがって、社会的に誤誘導されることの損失は、果てしない悪影響となる。
まさかと思うが、場合によっては命に関わる重大事にもなるのだ。

そんなわけだから、こんな低俗な話題に大袈裟にも時間を割かなくともいいのに?と思うような「大ニュース」には、そのニュース自体ではなくて、別になにか隠したい本当の「大ニュース」があるのではないか?と疑うと、あんがいと、悪名高きテレビのワイドショーが信号として役に立つものだ。

つまり、ワイドショーが連日放送している、「一連のニュース」とは、まずほとんどが、「目くらまし」なのだと割り切れば、急に視界が開けるおもいがする。
こんな話題に何時間も公共の電波を使う価値はない、とは短絡に過ぎる。

ほんとうは自称報道機関として、なにを隠しているのか?は、残念ながら、自分で調べないといけない、面倒な世の中になったのである。

至近の例をあげれば、「ルフィー」なる人物やらグループが犯した犯罪が、外国からの遠隔操作による重犯罪だとして、大騒ぎになっている。

しかし、一方で、自民党の厚生労働部会が決定した、年に2回の予防接種を国民に「課す」(義務化=強制)ということの重大さを、ぜんぜん伝えていない。

もちろん、「法制化を目指す」意味なので、絶対安定多数を握る与党の決定は、ほとんど国会を通過する話だから、国会審議や議決など、単なる手続きにすぎないのが実情だから、ニュース価値はない。

これを、「いつ」やるのか?というスケジュールも、ぜんぜん報道されない。

「薬害エイズ」のときの被害者で、いまは参議院議員の川田龍平氏は、「子どもへのワクチン接種とワクチン後遺症を考える超党派議員連盟」の現役会長だ。
この議連の活動状況さえ、大手メディアはほとんど伝えていない。

おそらく、議連として「注射反対」の方向で今後も議論を進めるにちがいない。
川田氏は、とっくに世界的な史上最大規模の「薬害事件」になるのでは?と懸念を表明していた。
いま、欧米でも、「識者」による曝露がはじまって、製薬会社に対するさまざまな訴訟が起きているのだ。

そんななかでの、この与党「部会」の決定は「重大」なのだ。

なお、自分で調べるのが比較的容易な、「人口動態統計」をみれば、「超過死亡」の実態がみえてくる。
例年や、前年と比較した、死亡数のことである。

最新の数値では、約10万人が一昨年より多く亡くなっている。
年間130~140万人が亡くなるのが日本国のふつうだけど、その1割近くが「増えた」理由が、天変地異でもないのに何故か?となっている。

水増し統計をとっているから、明確に統計法違反を政府が犯しているけれど、それでもコロナ死亡者数は「わずか」しかないから、「おかしい」のである。

党が政府を支配する。
この構造は、ソ連を代表とする、共産党一党独裁のやり方そのままだ。
いまでは、中国共産党がこれを忠実に実施している。

自民党がこの方式を採用したのは、自民党一党独裁だからである。
よって、国会はただの承認機関に過ぎなくなるのは、人民代表大会をみればすぐにわかる。
いわゆる、「シャンシャン大会」に、わが国の国会もなって久しい。

何回選挙をやろうがおなじなのは、この構造が盤石だからだ。

そして、ソ連共産党とおなじく、産業界も「(自民)党」が支配している。
企業経営者が他党候補をあからさまに支援できないのは、業界内でも圧力がかかるからだ。

しかも、「党」を支援する業界と企業には、ちゃんと利益誘導をする。

これを、とうとう役人もあからさまにはじめた。
誰だか詳しくしらないが、「赤い羽根」の関連から、さまざまな「ヤミ」を暴いている、暇空茜なるひとが、左翼の黒い実態を暴いたから、そっち方面からの攻撃を受けている。

これぞ田中角栄が発明した、「金権政治」の本質で、総裁人事における田中派(現茂木派・二階派)支配を通じて、ぜんぶの派閥が、田中派の金権構造を採用するに至った。

その根源に、政治(=選挙)にはカネがかかる実態があるからだ。

さらに、岸田氏の周辺による不祥事などが相次ぐ中、5月に岸田氏の地元広島でのサミットを花道に、「退陣」か「総選挙」が噂されている。
もちろん、アメリカ・バイデン政権が持つのか?ということと連動するとは、前に書いた。

そうやって見回すと、「囮ニュース」ばかりなのである。

バイデンと岸田政権の崩壊競争

どっちの政権が先に崩壊するのか?

8日、パーソナルメディア『substack(サブスタック)』に驚愕の記事が載って、世界のネット界隈は大騒ぎになっている。
出したのは、1970年のピューリッツァー賞(国際報道部門:ベトナム戦争における「ソンミ村虐殺事件の暴露」)受賞の、シーモア・ハーシュ氏(86歳)である。

8日付けの記事は、12日現在で、807万回のアクセスがカウントされていて、さまざまなひとたちが、関連記事を発して大拡散している。

中身は、ロシアとドイツを結ぶ天然ガスパイプライン、「ノルドストリーム」(2本全部)と、「ノルドストリーム2」(2本のうち1本)を、昨年9月に「爆破」したのが、バイデンの命令による米海軍だという曝露である。
さらに協力者はノルウェーだ、と。

しかも、計画に9ヶ月かけていて、実行もバルト海での例年に実施する軍事演習の時期としていたものを、それでは犯行が米軍だとすぐさましれることを畏れ、起爆剤を遠隔操作できるように再設定して、3ヶ月後の9月に起爆したという手順も曝露している。

この記事の信憑性が議論になるのは当然として、あるいは、各国政府が否定に躍起になろうが、ことの責任(犯人追及)が放置されてきたことが問題になるのはまちがいなく、もはや「ロシアの仕業」で逃げることもできない。

当初より、ロシアの犯行とする説があったものの、ガス輸出による収入減少とヨーロッパへのコミットメントの喪失を、なぜにロシアが自ら好んでするのか?という話の辻褄が、これでようやくあうようになるからだ。

この自虐的な行いこそ、ロシアが犯人だというのも、余りにも高い建設コスト(数兆円規模)を犠牲にするほどの「狂言」といえるのか?
少なくとも、ロシアにとっては、採算がとれないのだ。

昨年1月に政権発足後初訪米した、ドイツのシュルツ首相は、これら一連の「攻撃計画」についてどこまで知っていたのか?ということも、疑惑の対象になっている。
もしも、バイデンとの協議で同意していようものなら、ドイツ国民への明確な裏切り行為となる。
自国のエネルギー危機を自分で招いたことになるからだ。

しかし、バイデンが首脳会談後の共同記者会見でほのめかした(「もしもロシアがウクライナに侵攻したら、ノルドストリームを失うことになる」、と記者から質問もないのに突如発言した)のが、予定外、であったなら、アメリカは同盟国ドイツのみならず、全ヨーロッパ(EU)にエネルギー危機を起こす、「戦争行為」をやったことになって、その責任をロシアになすりつけたことになるのだ。

つまり、史上最大の裏切りはアメリカ・バイデン・民主党政権だと、世界に知れ渡ったことになる。

ドイツのシュルツ首相が初訪米したとき、わが岸田首相も初訪米の希望を示し、ドイツに先を越されたことが、国内問題になっていた。
日米同盟の重要性に鑑み、戦後の常識として、日本の新首相がまず訪米して、まっ先に大統領と懇親するのが常だった慣例が、ドイツに破られたのである。

しかし、バイデン政権の興味はとっくに落ち目の日本にはなく、ウクライナを利用した、ドイツの封じ込め(アメリカのヨーロッパ支配の安定的継続)と、あわよくばロシアを解体して、その資源を強奪するという意味での「二正面作戦」の正念場だったのである。

じつは、この戦略目的と構造は、二度の世界大戦で、あたかもドイツを敵に回したのと、ぜんぜん変わっていない。
日本はGHQの「ヘタレ戦略」が大成功したけど、ドイツ魂はぜんぜんヘタレないから、主犯のアメリカ民主党にとっては、常に敵、なのである。

しかしそんな事情は置いて、これに嫉妬した岸田氏は、台湾有事にことかいて、バイデン(背後の軍産複合体)に媚びを売るため、アメリカ製高単価兵器の購入をしに出かけるという、芸者をやって、その費用を「増税」で賄うと表明した。

日本国を防衛したいのではなくて、自身を保身したいの一心からの行動だとわかれば、これはこれで「哀れ」ではあるけれど、国民にとっては「泣きっ面に蜂」なのだ。

そんなわけで、議会共和党からの攻勢、自らの機密文書と子息のスキャンダルにまみれたバイデン政権は、今回の記事で撃沈されるのではないか?

すでに民主党は、年初より「バイデン降ろし」をはじめたきらいもあった。
なんだか、民主党によるバイデン降ろしの「決定打」にもみえるのだ。

それが、70年以降も何度かピューリッツァー賞候補になりながら、これを逃し続けたシーモア・ハーシュ氏の「起用」であって、「この時期」、「このタイミング」なのではないか?と疑う。

すると、この「政変」はかならず日本に飛び火する。
支持率が浮上しない岸田氏は、5月に地元広島で開催のサミットを花道に辞任する説は以前からあった。

いきなり辞任するのか?それとも総選挙を打つのか?

いまの野党の体たらくなら、岸田氏のもとでの総選挙だって、自民党が負ける要素がない。
ならば、辞任ではなく選挙に打って出る方が得なのだ。

ただ、アメリカがどうなるのか?
岸田では共和党と折り合いがつかないから、頸のすげ替えでなんとかしてきたのが、「派閥政治」の本質だけど、いまやどの派閥にも、トランプ派が牛耳る共和党と折り合いをつけることができる人物がいない。

安倍氏暗殺の「狙い」は、ここにあるとみる。

だが、ほんとうは、安倍氏だってトランプと馬が合ったわけではなく、むしろ大統領選挙中に「当選確実」なヒラリー・クリントンと会談する、米国選挙法違反をしでかして、まさかの当選をしたトランプにどう媚びるのか?が本音だったはずである。

この裏をかかれて、トランプに「一目惚れ」されたことになっている。
このストーリーを書いた、トランプ政権のスタッフとは、どれほどの日本通なのか?

虎視眈々と、台湾を狙う、国家存亡の危機に、共和党トランプ派しか頼りはないのに。
もちろん、ヨーロッパは大混乱になる。

今回バレたアメリカの敵対行為で、ウクライナは終息するしかないけど、それだけ?ではすまない。
EUの結束が維持できないからだ。

どちらにしても、バイデン政権の終わりが見えてきた。

問題は、その次、になったのである。

口火を切ったアメリカ下院

アメリカで「政府の武器化」という、日本人には馴染みのない言葉が使われたのは、昨年の中間選挙で当選した議員でなる新議会が1月3日に召集されたことからはじまる。

下院を制したのは、民主党大統領からみて野党・共和党であったけど、共和党内に残存するRINO(Republican In Name Only:名ばかり共和党:軍産複合体)が疑われるのに、ずっと「小数派院内総務:議会少数派リーダー」だった、ケビン・マッカーシー議員を、議長に据えるための、共和党内における条件闘争があったのだった。

「議長が決まらない」ことについては、トランプ派が多数になった共和党内での内部対立を嗤う記事が、民主党を応援するメインストリーム(主要マスコミ)が連発したけど、一般のアメリカ人はあんがいと冷静だった。

なぜなら、すでに何度か別々に実施された、有権者アンケート調査で、アメリカ人の半数以上が、メインストリーム・メディアの報道を「信じない」と回答しているからである。
また、この中の多数が、「DS:ディープステート:闇の政府」の存在を、「信じている」のだ。

もちろん、ついこの間までだったら、「DS」といったり書いたりしたら、「陰謀論」だとしてまともなひとにまともに相手にされないことになる、「常識」があったけど、過ぎたれば及ばざるが如しで、やり過ぎたメインストリーム・メディアの方が、いまや「陰謀論の発信源」となってしまった。

アメリカの極左メディアを、「中立の位置」に設定している、わが国メディアは、アメリカでは「過激極左」扱いとなるはずの、自民党や公明党を、「保守」としていまだに定義している。
ゆえに、自民党や公明党を「右」とする、「超極左」の新聞社やらの経営が成り立たなくなったのは、国民にとっては「慶事」なのである。

アメリカ国会の議長権限は、凄まじく、各委員会の委員長から、委員までを指名する。
昨年までの議長だった、民主党のペロシ女史は、2021年1月6日に起きた、連邦議会議事堂襲撃事件を調査するための、「1月6日委員会」を設置した。

この「政治:トランプ氏の有罪ありき」に、共和党側が選出した委員を、議長権限で拒否した「歴史初」が起きたから、これも将来、いまの議会で責任が追及されるのは必定だ。
ただし、この委員会がまとめた「報告書」は、おどろくほどの欺瞞に満ちていて、まったくの失敗に終わったのは幸いであった。

そんなわけで、書面にサインをさせられる屈辱があっても、議長に選ばれることに執念を燃やしたのが、マッカーシー氏という人物だ。
もうがんじがらめで、党内「契約」を破れないから、特に連邦捜査局(FBI)の武器化に関する議会公聴会(証人は宣誓するから、偽証したら即有罪:懲役となる)が、さっそく、8日に開催された。

呼ばれたのは、「検閲」をしていた、Twitter社で実行した元役員たちだ。

これを、世界ニュース系ユーチューバーでしられる、及川幸久氏が解説しているので、詳細は動画をご覧いただきたい。

ここで注目されるのは、共和党若手議員たちの、おそるべき追及なのである。
シラを切る証人が追いつめられて、とうとう、検閲の事実を「認める」さまは、下手な法廷ドラマよりも緊迫した迫力がある。
しかも、それは、2020年の大統領選挙中、民主党からの要請がはじまりだったのだ!

これで、バイデン政権の正当性までが、崩れだした。

まるで、ドラマと実写記録映像を組み合わせた、『ハンナ・アーレント』(2012年)での、「アイヒマン裁判」における、記録映像のようだ。
ユダヤ人大虐殺を取り仕切った、ナチス親衛隊中佐の実像は、小心で(ドイツ人らしい)律儀に命令に忠実な小役人としての、「ただのおっさん」だった。

これを、アーレントは、「悪の凡庸さ」として、誰でも状況によってアイヒマンになってしまうことの、「人間の性:保身」という恐ろしさを説いたのだった。

さらに、昨年初当選した、新人議員(アンナ・パウリナ・ルナ:フロリダ州選出:初のメキシコ系女性)の厳しい追及は、いったいどんな訓練を受けたらできるものなのか?
元空軍の女性兵士にして、33歳。
このひとが受けた教育訓練は、その良し悪しにかかわらず、決して日本的な教育にはない。

だから、このような議員が誕生することも、日本では期待できない。

しかしながら、すっかりグローバリズム全体主義に染まってしまったわが国の政官界を、今後どうするのか?といった場合、このような人物がでてこないと、国民は確実に不幸になるとおもわれる。

そのルナ議員は、Twitter社などの民間企業と、FBIや国家安全保障省などの政府機関が、「JIRA」という、サーバー・システムによって「連携」していることを曝露した。

なんだか、話がドンドン、社会派ドラマ、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998年)のようになっているけど、現代の「事実」は、こんなもんじゃない。

さては、この政府が国民に対して牙をむく「武器化」の実態は、今後どこまで暴かれて、責任者の追及となるのか?
そしてこれが、どのようにわが国に飛び火するのか?

アメリカ議会の動きに、目が離せない。

紀元節と建国記念の日の区別

昭和41年(1966年)の国内政治のエポックにあたる大仕事とは、「建国記念の日」を国民の祝日に定めたこと、だといえる。

もちろん、「紀元節」を定めたのは明治政府による明治6年(1873年)だったのが、GHQによって廃止されてからの、「復活」という意味でのことだ。
ならば、どうして「紀元節」にせず、「建国記念の日」としたのか?という、「配慮」だか「遠慮」についても議論があってしかるべきだけれども、相手にされる話でもなくなった。

おそらくだけれども、高度経済成長での上り調子を背景に、さらに、昭和39年の東京オリンピックの成功体験も踏まえて、明治生まれのひとたちが「生きているうちに」、形の上での「独立」をしておかないと、チャンスは二度と来ない、という焦りもあったのではないか?

しかしながら、戦後のわが国は、もちろんいまでもおなじだが、アメリカの意向を無視はできない。
当時は「経済」でもちゃんと、「アメリカがクシャミをしたら、日本は風邪をひく」とは、子供でもしっていたことだ。

それなのに、妙な上から目線があって、在日米軍(事実上の占領軍・征服軍)の駐留経費の日本側拠出を、「思いやり予算」と呼ぶ、論理の「倒錯」があった。
自分が支配される武力の経費を、負担させられることに、「思いやり」というのはどうかしている。

それでもって、いまだに、アメリカ軍への駐留費負担の方が、ぜんぶ自国で防衛するより、「安くつく」という「倒錯」にも変化はない。
独立国の自衛が、万国共通の価値観なのは、「独立」だからで、これを放棄することの「損得勘定」とは、最初から意味不明なのだ。

そんなわけでこの時代、焦っていたのは、アメリカの方だった。

ケネディが世界初の宇宙「生」中継放送で、暗殺されて、日本の茶の間は大騒ぎになり、リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に昇格した時期という、「間隙」をついてできたのが、「建国記念の日」なのである。

ケネディの「アポロ計画」だって、そもそもは、宇宙開発でソ連の後塵を拝したことが原因だった。
これはまた、ナチス・ドイツで、ロンドン空襲に使われた「V2ロケット」の開発技術者たちを、ベルリン占領と同時にいち早く確保して、モスクワに連れ帰った成果でもあった。

この意味で、ソ連共産党の「計画性」は、アメリカをも凌いだ。

ナチスと組んだわが国の「無計画=その場の対応=臨機応変」は、およそ「人類への罪」を問われるほどのものではなかった。

ただし、日本人が驚くべき点は、昭和16年11月の日本政府・軍の合同決定としてあった、「対英戦争」が、その翌月の真珠湾攻撃で、「対米戦争」になった不思議があることだ。
「対英戦争」の決定の意味は、「アメリカとは戦わない」という意味だからだ。

暴走したのは、陸軍ではなくて海軍だった。

権威主義的でダメな陸軍という戦後の常識に対してある、優秀な海軍という刷りこみも、プロパガンダなのである。
これを、海上自衛隊はいまでも「利用」している。

ただし、国家から与えられた超高額な艦船とか、航空自衛隊の戦闘機パイロットが意識する、国家からの「借り物」を操艦したり、操縦することの歓びは、いまどきの企業経営者よりも、まともだ。

社内昇格する企業経営者たちの意識に、会社の全資産(従業員も)は、株主からの「借り物」という意識がないことでわかる。
元従業員の経営者たちが、役員という「安全地帯」から、従業員を支配する身分になったことを「歓ぶ」ので、これがまた、社内で「遺伝」する。

つまり、「所有」と「占有」の区別がつかない、という日本人の民族的特徴が生きている。
もちろん、民間ばかりか、その「手本」にある、国家機構たる高級官僚には、新政府成立の最初からこの区別がない。

それは、「長州藩」の「撫育資金」なる、「裏金」を、きっちり伊藤博文が新政府にも導入して、高級官僚たちの好きにできるようにしたものが、どういうわけかGHQも放置して現在に至っていることが証拠なのだ。

これは、一般人にも伝染していて、たとえば、図書館で借りた書籍に、平気で書き込みをする輩が絶えないことでもわかる。
自分のものと他人のものとの、区別がつかないのである。

昨今、スーパーで精算前に子供が勝手に袋菓子を開けてしまうのとおなじだ。

さてそれで、「建国記念の日」を祝うことの否定が、いまや消極的否定にまで進化して、何の日だかも意識しないで、ただの「祝日=休日」になっている。

自分が何者なのか?がわからなくなったことを意味するから、自分のものと他人のものとの区別ができないことよりも、はるかに深刻な精神状態といえる。
「自分探し」とは、この完全なる喪失感が基板にある、精神病理なのだ。

ずっと前から、「歴史論争」というカモフラージュで、「事実」と「神話」の区別がつかないのである。

人工的に建国されたアメリカ人や、フランスからやってきたウィリアム征服王(William the Conqueror)によって、いまだに征服されたままの英国人からしたら、「神話」に建国の物語があるとは、地団駄踏んで悔しがっても、どうにもならないほどに「羨ましい」ことだと、日本人にしらさないのである。

もっとも、「建国記念の日」とは、いまだ征服者アメリカへの「政治テロ」だったのだけれども。

溶け行く国家をみながらに。

文春砲・新『疑惑の銃弾』

9日発売の週刊文春が、とうとう表のメディアとして、「初」となる、安倍元首相暗殺に関する疑惑を「特集」した。

新年から、新聞の購読をやめたけど、雑誌類の購読は何年かぶりで、しかも「週刊誌」となったら、駅の売店でも買った記憶がまずない。
いま、税込み460円もすることに違和感すらあるけれど、せっかくなので買ってみることにした。

わたしの世代だと、「疑惑の銃弾」といえば、三浦和義氏による「ロス疑惑」事件を思い出す。
このときも、メインは週刊文春だった。

三浦氏は、13年間も拘置所にいて、それから収監されたのは3年で、通算して16年間も身柄を拘束されていた。

それで、最高裁では、2003年3月に「無罪」が確定した。

事件発生の1981年8月31日からすると、21年以上も経過した後のことだ。
しかも、日本では無罪になったけど、アメリカで逮捕されて、留置所で自殺した。

なんとも、人生としてどうなのか?を思うと、世にいう、「推定無罪の原則」はないことがわかる。
一般人にも重大な「刑事事件」なのは、いつ自分もこうなるか?があるからだ。

そしてこの事件は、犯行の科学的捜査なりを根拠にしたのではなくて、三浦氏の素性とか態度や言動とかに、まったくもって興味本位で伝えられるという、「今様」の最初ともいえる。

いつでも興味本位という薄くて軽いことが、週刊誌なのだけど、少しは反省したのか?を含めて、今度はどうなのか?と、興味深いのだ。

それで、記事の内容は?というと、特段の「新味」はなかった。

けれども、この「新味」とは、例によってテレビ脳のひとには「新鮮すぎるほど新鮮」かもしれない。
冒頭の通り、大手メディアが伝える疑惑の「初」だからである。

それも、警察庁やら奈良県警やら、あるいは、奈良県議会での証言やらと、根拠にしているのが、ぜんぶ「政府」や「議会」の、「公式見解」ばかりで、その「矛盾」を突いていることが重要なのである。

一体、これら「公式」での発言は、辻褄があわなくてまったく何のことだかわからなくなるから、山上容疑者が自白したということも、事件直後に、「犯行を認めた」ことも含めて、混乱の極みになるのである。

とにかく、安倍氏に「致命傷」を与えた「銃創」が、安倍氏本人からすると、「左右から」飛翔した銃弾によることになってしまうのだ。

つまり、たとえ山上容疑者が撃った弾が命中していたとしても、万人が納得できる物理現象ではない。

もちろん、山上容疑者は「殺意があった」と供述しているらしいが、だからといって犯罪が成立する、ということにはならない。
なのに起訴されて、容疑者から刑事被告人になった。

本人の希望とは別に、手製の銃が、ただの空砲だった可能性まであると前に書いた通りになるからだ。

ここからは、記事から離れるけど、文春砲の何回目かできっと話題になるにちがいない、と期待する。

なにせ、彼の銃は、「先ごめ式」という、およそ火縄銃と同じ構造だけれども、火縄銃が1個の弾を撃つために作られた「玉」を用いるのに、彼の銃は「数個同時に発射する散弾」だったのだ。

しかも、市販の猟銃(もちろん「所持許可免許」がないと購入できない)には、口径の「規格」があって、これに合わせた「規格の装弾」を用いる。
この「規格」は、世界共通だから、オリンピックの「クレー射撃」という競技が成立している。

銃器のメーカーも、散弾のメーカーも、「規格」のなかでの「精度」を追及して、選手たちに自社の製品を使わせるのは、陸上競技のシューズ提供に似ている。
ただし、装弾には、事前に「公式認定」を競技主催者から受けないと、試合で使用できないのも「規格」のうちなのだ。

いまの装弾は、プラスチック・ケースの中のプラスチック・カップに散弾(複数の玉)を収めているから、一回の激発で全弾がカップごと銃口から飛び出す仕組みになっている。
だから、現場には、弾だけでなく「カップ」も落下して、証拠となるはずなのに、これがないのは、山上容疑者が使用した「弾も手製」だからだ。

彼の銃の銃身は、市販の鉄パイプを利用したというけど、そんな口径に適合する「散弾規格」はない。
もちろん、市販の鉄パイプの強度で、殺傷力がある弾を射手にも安全に撃てるのか?という疑問もある。

戦国時代の火縄銃だって、日本刀をつくる刀鍛冶の技術がないと製造できないのだ。
それが、市販の鉄パイプで作れるなら、警察は鉄パイプの販売も許可制にしないといけなくなる。

さらに山上容疑者は、6個の散弾をどうやって1発にまとめたのか?という疑問になって、考えられる方法は、口径にあわせた「蝋」とかによる「塊」としないといけない。

しかし、火薬の激発のショックに耐えてなお、火薬の爆発エネルギーとなる燃焼ガスの圧力が銃身内で維持されないで、蝋が溶けたり弾がバラけてしまったら、たちまち銃身内がスカスカになって散弾が発射される圧力が得られるはずがないということになる。

ましてや、彼の銃は「2連銃」だったために、二発目は、一発目の衝撃と熱に耐えられたのか?という問題になる。

これが、火縄銃で2連がなかった原因なのである。

鉄砲隊は、一発撃ったら次の射手に交代して、その間に次の装填をしないといけない。
それでも、弾数をたくさん撃つと、銃身が熱くなって、焼けてくるものだ。

それで、バケツを用意して、これに漬けて冷まさないと、熱くて銃を持っていられないばかりか、熱で柔らかくなった銃身が発射の衝撃で銃身がラッパのように裂けてしまうこともある。

この時、射手の命も危険になるのだ。

そんなわけで、殺意があっても殺傷能力がはじめから期待できない銃を用いたのなら、山上容疑者の容疑は、明らかにぜんぜん別の「軽い」容疑になって、「真犯人」(おそらくライフル銃を用いた)が別に存在しないといけなくなるのは、議論の余地すらない。

あたかも、本人による自白と、おかしな公式見解だけで、マスコミはろくな検証もせずに、まったくもって三浦正義氏と同じ状態を作り出し、これに国民も踊らされる「愚」になっている。

まだまだ、文春砲は続くのだろう。

パッヘルベルのカノン専門

一発屋ではないはずなのに、一発屋扱いされてしまっているのが、生涯で一曲だけ書いた『カノン(形式の曲)』が大当たりしたパッヘルベルである。
このひとの他の作品を聴きたくても、なかなか見つけられない商業主義がある。

大バッハには、生涯で一曲だけの『パッサカリア』があるけど、その他の有名作品で、この曲は無名ではないけどその他大勢に入ってしまう。
そのバッハに、「大」がつくのは、「フーガ(形式の曲)」の大家であったことも、作品の多くが傑作であったことと併せてのことだ。

いわゆる主題が「繰り返す」ことでは、「カノン」と「フーガ」は似たようなものだけど、カノンが「連続して繰り返す」のに対して、フーガは「変幻自在の変奏」をする違いがある。
このことが、圧倒的にフーガの作曲難易度を高めて、その構造は、ひとつのバロック建築物のような複雑さで構築される。

なので、聞き手にも、音で構造が「見える」ような荘厳さとなる。

バッハ以降で、フーガの大家といえば、ヴェートーベンの『第九』が思い出される。
有名な第4楽章の合唱の合間にある、器楽フーガの完成度は素晴らしいに尽きる。
これを、映像と合わせたのが、『不滅の恋 ヴェートーベン』(1994年)だ。

残念ながら、この映画における「設定」は、いまでは学術的に否定されている。
ついでに書くと、ヴェートーベンの交響曲の頂点は、無題の「7番」だとおもっている。
とくに、第1楽章の終わりが、9番にも引用されている手法だからだ。

パーソナルな生活になったからだか、どうだか、気づけばステレオ・コンポがないのがわが家である。
サウンドバーを設置したけど、すっかりレンタルビデオも観なくなったので、音響設備があってない状態になっている。

ブルートゥース・イヤホンをつかって、スマホやipadにダウンロードした曲を聴くことさえも、「たまに」になっている。
歩きながら両耳をふさいでいられる鈍感さはないし、やっぱり危ない。
せいぜい電車の中だけのことになっているけど、その電車にまとまった時間をかけて乗らなくなった。

ただ、ノイズキャンセリング機能があるイヤホンだと、無演奏・無音状態でも耳栓の効果は期待できるから、公共の場所で読書などをするときには重宝する。

子供の時分から、「ながら勉強」とかという、「ながら聞き」が流行って、なんだか社会問題になっていた。
受験生が、深夜のラジオ放送を聞きながら勉強している、というのが、わたしはぜんぜん理解できなくて、同級生が「ふつうだよ」といっていたのを、すごい能力だとおもっていた。

プチ・聖徳太子のような気がしたのである。

教科書を見ながら、ラジオの話や音楽を聞くというのは、漢字で書けば「聴く」ではない「聞く」の方なのだろうけど、どういう技を駆使したらできるのか?いまだにわからない。
当然だが、テレビを観ながら本を読むこともできない。

なので、喫茶店とかのBGMならまだしも、同時に両立させることをどうしているのか?とおもうのである。
その意味で、「イージーリスニング」だって、集中して聴くことはあっても、「ながら」は困難だ。

一世を風靡した、ポール・モーリアとかも、ちゃんとした大ホールでの来日公演に、観客は行儀よく聴き入っていたものだ。
ラフな格好のひとはわずかで、せめてスーツを着て会場に足を運んだものだった。

「夜会服」(タキシードやイブニングドレス)を着る機会は、すっかり消滅した。

どんなに高級といわれるホテルにだって、もうドレスコードがない国になって久しい。

「平等」が行き着いた先なのである。

だから、ドレスコードがある国やらのホテルで、夕食をとろうものなら入店を断られるふつうがあるのだけど、これに立腹する日本人観光客がいるから、現地の日本人にも嫌われる。
ふだんから着用しないので、いざというとき着こなしもできずに、却って貧相になる。

そんな世相のなかで、パッヘルベルのカノン専門サイト見つけた。

たいてい「長尺」で、1時間以上、延々と「カノン」が演奏されている。
器楽のオーソドックスから、ハードロックまで、さまざまな「カノン」が、選べるのだ。

おそらく、「聴き入る」のではなく、「ながら」のためにあるのか?
歩きながら、電車に乗りながら、も含まれる。

それはそれで、脳波が「安らぎモード」になれば、御の字である。
すると、これは一種の「聴く薬」という意味になる。

論文として、『音楽刺激による生体反応に関する生理・心理学的研究』をみつけた。

この論文では、さまざまな曲での研究にも言及している。
すると、「雅楽」や「民謡」ではどうなのか?
あるいは、どうして「カノン」なのか?といったことも気になる。

さらにいえば、日本人はどうしてバイオリンや二胡のような、弓でこすって音を出す楽器を発明しないで、連続音が出せない琴や三味線に留まったのか?

そういえば、むかし『キンカン素人民謡名人戦』(フジテレビ、1961年~93年)があって、祖父が必ず観ていたので一緒に観ていた。
おかげで、あのCM、「キンカン塗ってまた塗って」の歌の方がかえって耳について離れないし、必ず収録会場にいた、民謡好きのキンカン堂創業者の嬉しそうな姿が忘れられない。

もう民謡を耳にする機会も減った。
もしや、民族に心地よい音を消すための、「カノン」ということもあるやもしれぬ。