「長州」は存在しない

先月、ほぼ30年ぶりに訪問した「萩」のことが、なんだか引っかかるので、改めて「明治維新」の不思議を整理しているところである。
それに、昨日のCOP26で書いた、通貨発行権を持った特別なひとたちと、維新の志士(特に萩藩出身で後の元勲たち)は、つながるのだ。

地元の皆さんの「熱烈なる郷土愛」は、いまどきにしたら「貴重」だから、まったくの「他意はない」のだけれども、自慢ばかりでは厚みがないとも思えるのである。
それで、「あえて」批判的な立場から書いてみようと思う。

俗にいう「薩長閥」の「長」を、「長州」と呼んでいるけれど、この呼び方は「後世」からのもので、幕末から維新の時期以前は、「長藩」とも言っていたが、それでも「萩藩」という方がふつうであった。

歴代藩主の毛利家は、もともと鎌倉幕府の初代将軍頼朝の側近、大江広元の4男を粗とする。
このひとから、「越後」や「安芸」に領地を得て、戦国時代には安芸を拠点に各地の勢力を統合した。

秀吉の時代になると、当主だった輝元は、中国地方10国を支配して、実質200万石という最大の大名になっていた。
ところが、関ヶ原で西軍が破れたら、家康から「減封処分」され、周防・長門の2か国だけの約30万石と最盛期の7分の1に落とされたのだった。

ちなみに、大名の「石高」とは、武士団を養う米の量を指すので、「兵力」を示す全国統一指標である。

さて、藩庁をどこに置くかも幕府の意向で決められて、当初の候補地(山口や防府)とはちがう「萩」が指定された。
これで、「萩藩」になったのである。

なお、当初の「萩」は、隣藩である津和野藩の出丸(砦の跡地)が放置されているような土地で、山間を抜けてポツンとあるわずかな平地である。

実際に、新幹線の「新山口駅(2003年までは「小郡:おごうり」)」から、高速バスに乗ると、すぐさま山間部となる地形である。
中国山地の終点は、とてつもなく「山」ばかりなのである。
ほんとうに田んぼで米を作っていたのか?

萩の殿様は、どうやって参勤交代していたのか?を地元のひとに聞いてみたら、いまの高速バスと同じで、陸路の山間部を通って瀬戸内海に出たのではないかという。
にわかには信じられないのは、目のまえの海から回った方がはるかに楽に思えたからである。

実際に、幕府の嫌がらせで藩庁の場所が決まったとはいえ、「人間万事塞翁が馬」のごとく、実は日本海と九州(馬関海峡)、それに瀬戸内海につながる、海上交通の要衝の地を指定されたことは、驚くほどの「富」を、その後の萩藩にもたらしたのであった。

陸地の地図を頭に描いた幕府が、その250年以上後の、「長州征伐」で敗北する遠因がここに見ることができる。
萩藩では、とっくに海路による地図を描いていたことだろう。
なにせ、戦国時代は「毛利水軍」が瀬戸内海を暴れ回っていたのだ。

すさまじき「減封」の憂き目は、お取り潰しよりはましだったとはいえ、似たような例には、上杉家がある。
室町幕府で、関東管領を務め、戦国時代には上杉謙信を出した名門が、8分の1にさせられた。120万石から15万石になったのだ。

減封で、萩藩はどうしていたのか?といえば、「検地」をやって、無理やり「石数を上げた」。
つまるところ、大増税である。
しかし、幕府への「届出の石数」を、大胆にもごまかした。

その方法がいわゆる、「特別会計制度」で「極秘」に編み出したものだ。
「撫育資金」として、城内では藩主以下一部の数しか知らないものだ。
この資金の運用をした、特別な部署が「撫育局」で、北前船のための「倉庫業」や、なんとご禁制の密貿易もやっていた。

そして、明治の元勲になる(後に言う)「長州人=長州閥」とは、「全員」がこの撫育局の局員だったのである。
一般会計を扱う主計局ではなくて、なにをやっているのかわからない、内閣府のような部署である。

また、これら全員がどうして「松下村塾」に集まっていたのか?だ。
もしや、吉田松陰とは、撫育局直属の専任講師だったのか?ということになる。
すると、「表」の上士たちが幕府指定の朱子学を学ぶのが、萩藩では「擬装」だったことがわかる。

藩内で「表」のひとたちが、いぶかって吉田松陰を「変人」と嫌っていたことの意味がわかる。撫育局員をいぶかったからにちがいない。
「下級武士」というのも、後世の「書き換え」だろう。

表の身分はあくまでも擬装で、特別会計をほしいままにしながら、藩財政の圧倒的黒字(今なら「裏金」)を捻出(実はビジネス)していた、超エリートが撫育局員だ。

英国留学前に、藩の「表」から受けとった「留学資金」を、伊藤博文らは出国前に豪遊して使い果たして悪びれないのは、撫育局からその10倍の資金を受けとる立場にあったから、「はした金」に思えたのだ。

さらにいえば、新政府の大蔵省とは、撫育局の延長だった。
それで、いまでも誰にもわからない「特別会計」があるのだ。
つまり、今現在の日本政府も本質は、長州閥がつくった「明治政府」そのものなのである。

さて、「藩財政」はそれでいい。
それに、維新のための武器やら軍艦の調達に、一般会計だと大赤字に見えた長州藩が「即金」で支払えた理由もわかった。

では、藩の住民はどうだったのか?
「検地」による大増税もあって、逃散が絶えず、とうとう江戸時代を通じて最大級の「長藩天保一揆」が起きた。
蜂起したのは13万人という。

なんだか、歴史は今を語る、の典型のような気がしてくる。

藩がよければそれでよく、その他はどうでもいい、という「思想」こそが延々と続く、日本政府の「本質」なのである。

そうやってみたら、新内閣の最初の仕事が、選挙公約で「一言もいわなかった18才以下への給付金支給」であることの意味がわかるというものだ。
これがどういう効果が期待される「経済政策」なのか?

政府の人気とりのためだけだから、「効果」なんてもう、誰にもわからないし、どうでもいい。
あるとすれば、もっとよこせ、という国民が増えて、さらに政府の奴隷にさせることができることしかないのであった。

そんなわけで、1876年(明治9)年(西南戦争の前年)に、「元勲」たちのお膝元で「萩の乱」が起きた。
これを、不平士族たちの反乱として一括処理していいものか?

萩のひとに聞いてみたかったけど、意地悪な質問だろう。
いま、その「代表」は、こないだなったばかりの外務大臣なのである。

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