文春砲・新『疑惑の銃弾』

9日発売の週刊文春が、とうとう表のメディアとして、「初」となる、安倍元首相暗殺に関する疑惑を「特集」した。

新年から、新聞の購読をやめたけど、雑誌類の購読は何年かぶりで、しかも「週刊誌」となったら、駅の売店でも買った記憶がまずない。
いま、税込み460円もすることに違和感すらあるけれど、せっかくなので買ってみることにした。

わたしの世代だと、「疑惑の銃弾」といえば、三浦和義氏による「ロス疑惑」事件を思い出す。
このときも、メインは週刊文春だった。

三浦氏は、13年間も拘置所にいて、それから収監されたのは3年で、通算して16年間も身柄を拘束されていた。

それで、最高裁では、2003年3月に「無罪」が確定した。

事件発生の1981年8月31日からすると、21年以上も経過した後のことだ。
しかも、日本では無罪になったけど、アメリカで逮捕されて、留置所で自殺した。

なんとも、人生としてどうなのか?を思うと、世にいう、「推定無罪の原則」はないことがわかる。
一般人にも重大な「刑事事件」なのは、いつ自分もこうなるか?があるからだ。

そしてこの事件は、犯行の科学的捜査なりを根拠にしたのではなくて、三浦氏の素性とか態度や言動とかに、まったくもって興味本位で伝えられるという、「今様」の最初ともいえる。

いつでも興味本位という薄くて軽いことが、週刊誌なのだけど、少しは反省したのか?を含めて、今度はどうなのか?と、興味深いのだ。

それで、記事の内容は?というと、特段の「新味」はなかった。

けれども、この「新味」とは、例によってテレビ脳のひとには「新鮮すぎるほど新鮮」かもしれない。
冒頭の通り、大手メディアが伝える疑惑の「初」だからである。

それも、警察庁やら奈良県警やら、あるいは、奈良県議会での証言やらと、根拠にしているのが、ぜんぶ「政府」や「議会」の、「公式見解」ばかりで、その「矛盾」を突いていることが重要なのである。

一体、これら「公式」での発言は、辻褄があわなくてまったく何のことだかわからなくなるから、山上容疑者が自白したということも、事件直後に、「犯行を認めた」ことも含めて、混乱の極みになるのである。

とにかく、安倍氏に「致命傷」を与えた「銃創」が、安倍氏本人からすると、「左右から」飛翔した銃弾によることになってしまうのだ。

つまり、たとえ山上容疑者が撃った弾が命中していたとしても、万人が納得できる物理現象ではない。

もちろん、山上容疑者は「殺意があった」と供述しているらしいが、だからといって犯罪が成立する、ということにはならない。
なのに起訴されて、容疑者から刑事被告人になった。

本人の希望とは別に、手製の銃が、ただの空砲だった可能性まであると前に書いた通りになるからだ。

ここからは、記事から離れるけど、文春砲の何回目かできっと話題になるにちがいない、と期待する。

なにせ、彼の銃は、「先ごめ式」という、およそ火縄銃と同じ構造だけれども、火縄銃が1個の弾を撃つために作られた「玉」を用いるのに、彼の銃は「数個同時に発射する散弾」だったのだ。

しかも、市販の猟銃(もちろん「所持許可免許」がないと購入できない)には、口径の「規格」があって、これに合わせた「規格の装弾」を用いる。
この「規格」は、世界共通だから、オリンピックの「クレー射撃」という競技が成立している。

銃器のメーカーも、散弾のメーカーも、「規格」のなかでの「精度」を追及して、選手たちに自社の製品を使わせるのは、陸上競技のシューズ提供に似ている。
ただし、装弾には、事前に「公式認定」を競技主催者から受けないと、試合で使用できないのも「規格」のうちなのだ。

いまの装弾は、プラスチック・ケースの中のプラスチック・カップに散弾(複数の玉)を収めているから、一回の激発で全弾がカップごと銃口から飛び出す仕組みになっている。
だから、現場には、弾だけでなく「カップ」も落下して、証拠となるはずなのに、これがないのは、山上容疑者が使用した「弾も手製」だからだ。

彼の銃の銃身は、市販の鉄パイプを利用したというけど、そんな口径に適合する「散弾規格」はない。
もちろん、市販の鉄パイプの強度で、殺傷力がある弾を射手にも安全に撃てるのか?という疑問もある。

戦国時代の火縄銃だって、日本刀をつくる刀鍛冶の技術がないと製造できないのだ。
それが、市販の鉄パイプで作れるなら、警察は鉄パイプの販売も許可制にしないといけなくなる。

さらに山上容疑者は、6個の散弾をどうやって1発にまとめたのか?という疑問になって、考えられる方法は、口径にあわせた「蝋」とかによる「塊」としないといけない。

しかし、火薬の激発のショックに耐えてなお、火薬の爆発エネルギーとなる燃焼ガスの圧力が銃身内で維持されないで、蝋が溶けたり弾がバラけてしまったら、たちまち銃身内がスカスカになって散弾が発射される圧力が得られるはずがないということになる。

ましてや、彼の銃は「2連銃」だったために、二発目は、一発目の衝撃と熱に耐えられたのか?という問題になる。

これが、火縄銃で2連がなかった原因なのである。

鉄砲隊は、一発撃ったら次の射手に交代して、その間に次の装填をしないといけない。
それでも、弾数をたくさん撃つと、銃身が熱くなって、焼けてくるものだ。

それで、バケツを用意して、これに漬けて冷まさないと、熱くて銃を持っていられないばかりか、熱で柔らかくなった銃身が発射の衝撃で銃身がラッパのように裂けてしまうこともある。

この時、射手の命も危険になるのだ。

そんなわけで、殺意があっても殺傷能力がはじめから期待できない銃を用いたのなら、山上容疑者の容疑は、明らかにぜんぜん別の「軽い」容疑になって、「真犯人」(おそらくライフル銃を用いた)が別に存在しないといけなくなるのは、議論の余地すらない。

あたかも、本人による自白と、おかしな公式見解だけで、マスコミはろくな検証もせずに、まったくもって三浦正義氏と同じ状態を作り出し、これに国民も踊らされる「愚」になっている。

まだまだ、文春砲は続くのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください