『煩悩☆西遊記』の顛末

『チ。』本作について関連づけて書いたが、いよいよ本作の最終話(第13巻)をみたので書いておく。

読後感想としてはじめにあるのは、日本仏教とは、ほんとうに仏教なのか?なる疑問である。

昨年の正月に観たのは、1961年公開の大映が総力を挙げたスペクタクル映画『釈迦』であった。

ややこしくなるのは、「釈迦」と「釈迦如来」のちがい、である。

「釈迦」は実在した仏教の開祖(いまのネパール南西部ゴータマ・シッダールタ)、をさし、「釈迦如来」は、悟りを開いた後の「仏陀」になったお姿を仏像にしたもの、である。
それで、「仏陀」とは、悟りを得ることをさすので、特定の個人をさすのとはちがっている概念なのである。

ここに、入れ子構造があるし、一神教的「神」とはちがうのに、なんだか「神々」といった扱いと混同してしまうのは、西方のギリシア神話との交わりが関係しているのだろう。

だから、仏教をしるには、キリスト教など他宗教の知識がじゃまになるのである。

むろん、キリスト教も、ギリシア神話だけでなく、たとえば、キリスト教が普及するよりも古くから北欧に伝わる「妖精の森」といった伝説が混じって、さらに「天使」との関係とか、「精霊」とのちがいとかと、これもけっこうややこしいのである。

この意味で、あらゆる宗教が「宗教になる」には、超自然的な現象や奇跡を信じることが前提となっている。

オリジナルの『西遊記』自体は、仏教、儒教、道教やらをパロディとして扱っているために、存外に「無神教」的な文学作品なのであると前に書いた。
破天荒で、なんでもあり、なために、芥川龍之介が幼少時から愛してやまなかったことの重要性がここにある。

その芥川の後輩にあたる天才が三島由紀夫で、三島をして『家畜人ヤプー』を戦後日本文学の金字塔とまで絶賛せしめたのはなにか?を問うと、芥川龍之介の『西遊記』絶賛につうじるものさえ感じるのである。

想像力の爆発。

しかして、本作がどのような青少年・少女を対象としているのか?は、掲載が「少年サンデーGXコミックス」なので、10代後半からの男性層であるとかんがえられる。
すると、これは一種の「恋愛・性愛マニュアル」だけでなく、一種の「女性理想像」を埋め込む機能も想定されていないか?と勘ぐるのである。

つまるところ、「少子化対策」の根底を刺激する意図があるかもしれない、と想像を膨らませる。

作者の、クリスタルな洋介氏にきいてみたい。

いやいや全部がパロディーです、との返答があるやもしれぬが、それはそれで想定内である。

ところがまた、『乙嫁語り』との併読で、あんがいと強力な相乗効果があるのではないか?
こちらは、おとな向けではあろうけれど、意外にも集合論的に被っていないか?と期待したくなるのである。

英国の自滅とグリーンランド

結局のところ、トランプ政権2.0は、ヨーロッパの「再編」をやっている。

21日、ダボス会議2026年の年次総会にトランプ政権チームは300人という「団体参加」し、グローバル全体主義者たちを前に「徹底破壊的」な言動を押し進める痛快がある。
これに大批判展開する、23日付け日本経済新聞は、山上信吾元オーストラリア大使がいうように「読むに値しない」と自ら証明した。

ダボスの22日にトランプ大統領は、さらに第二国連と目される「平和評議会」を発足させたので、7日に発表した「国連脱退」の次のステップに入るスピード感である。

当然ながら、グローバル全体主義のプロパガンダ機関である日経新聞は23日付け別の記事で、「国連第一主義」を主張する「古さ」を披露しているようではあるが、このスピードについて行けないのがよほど悔しいのであろう。

これら一連の「反ダボス・セッション」を許可する、主催者たる世界経済フォーラムの側に何があったのか?

おそらく、彼らが散々ばら言っていた「多様性の要求」を順手にとって、拒否できない「合気道」で倒されたのだろう。

ずさんな屁理屈に、精密な理屈(=常識)で対抗する。

これも、ひとつのトランプ政権2.0による、得意の「いけず」なのである。

さて、東を意味する「アジア(古代アッシリア語の「asu」から)」に対して、西(日が沈む方向)を意味する「ereb」がヨーロッパの語源との説がある。

なんにせよ、狭い地域にさまざまな部族や民族がひしめいていたために、戦争が絶えないのもこの地域の特徴であったので、徐々に戦争のルール化がはじまって、それが「国際法」へと進化した。

なので、未来を描いた『1984年』における戦争は、計算からはじき出された「数」でもって、三つ巴の戦争被害を互いに「データ消去」することでの「実戦」からの進化をはかる思考になったとかんがえついたことに、恐ろしい合理性があるのである。

むろん、ここでいう「データ」とは、個々の国民の「生」そのものが数値になった世界をいう。

それで、国家がその「データ消去」をやりあうことの意味とは、互いの国民生存の監視システムの稼働による「平和」だというのである。

ところが現実は、「(国家)主権」という概念ができると、国際法はとたんに主権との争いになって、主権の上に国際法がある、という小説のようなわけにはいかなくなった。

その(国家)主権の源泉が、選挙による「民意」であるからである。

だが例外があって、徹底的なる敗戦の社会破壊で、連合国に占領された日本とドイツは、連合国の決定=国際法との認識に強制・訓練されたので、(国家)主権よりも、選挙結果よりも、上、に国際法があるように条件付けられたから、国益そのものが何か?すら曖昧になったのである。

その勉強エリートが集合しているので、日経新聞のような主張がまかり通る異常が起きても、おなじく教育訓練された国民が気づかない。

『1984年』を書いたジョージ・オーウェルのごとく「先進的な発想」をしたのは、みな、英国人(『ユートピア』のトマス・モア、『タイムマシン』のH・G・ウェルズ、『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリー)であることにあらためて気づくと、かんがえたことは実行される法則との連関から、とっくのむかしに英国のヤバさが予告されていた、ともいえる。

それが、保守党と労働党のグダグダで、大英帝国の末期には「福祉競争」による、「ゆりかごから墓場まで」を、両党が争って政権選択のテーマにしたのであった。
こうして、サッチャー政権の誕生までに、英国はとっくに社会主義国として破たんしたのであるが、サッチャーをしても「岩盤社会主義」を解体することはできなかった。

高福祉の甘い蜜に溺れた国民が、「民意」を発揮して、国家破たんの元凶たる高福祉をやめることができなかったからである。

それで登場した怪物極左のスターマー政権が、いまどきどんなに支持率が低かろうがたじろがないのは、英国をマルクス=エンゲルスが大英図書館で描いたとおりの理想的共産国家にするためである。

それが、トランプ政権2.0のアメリカと決別する覚悟でいることの、彼らなりの合理的帰結なのだ。

それだから、ロンドンの一等地、旧王立造幣局の広大な敷地に、アヘン戦争で痛めつけた国の末裔にあたる大使館建設許可となったのも、「英・中同盟」の時代になったことの目に見える現実である。

ところが皮肉なことに、「アメリア」という、英国内務省が製作した「思想教育用ゲーム:PATHWAYS」に登場する「悪役キャラ=反移民極右活動家」が、ネット上で大バズりして「われらがヒロイン」になってしまったのである。

政府の計画は失敗(裏目に出る)する、伝統的な自由主義の教科書的事例になった。

トランプ政権2.0は、英国の切り捨ては当然に、(西)ヨーロッパの切り捨ても意図しているから、双方での溝が加速度的に広がっている。

この現象が地図にあらわれて、グリーンランド領有問題になったのである。

だが、以上のことを念頭に、あらためて時系列をたどれば、ヨーロッパ(英国とEU)が先にアメリカに仕掛けていたことだとわかる。

ここにきてアメリカが内向きの「ドンロー主義」をいいだしたのは、そんなヨーロッパから追い出されたのがアメリカで、国家安全保障戦略にあるように引きこもることにしたために、東西の「経度」を棄てて、南北(アメリカ大陸)の「緯度」にこだわれば、自然とグリーンランドが地図にあるのだった。

「本国」のデンマークは、いまさらながらに「正統な領土」だとして、あたかも被害者づらをしているけれど、そもそもが、デンマークという国は「ヴァイキング」と切り離せない歴史があって、バルト海の入口にあることの戦略的位置づけは、やっぱり地図をみれば一目瞭然なのである。

内海たるバルト海の「外」にでては、イングランドやノルマンディー公国(フランス北部)にも軍事遠征し、征服者となったこともある、まさにヨーロッパの暴れん坊がデンマークだったのだ。

この歴史を、英国やヨーロッパのひとたちはしっている。

トランプ政権2.0のやり方は、いったん横暴な態度に出て、周りの反応を確かめると、徐々に現実適用する変化をみせるのが「パターン」になっている。
この点で、わが国周辺とは比較ならない「複雑さ」が、ヨーロッパにはあるので、北方領土問題とおなじ土俵でグリーンランドをみてはならない。

しかも、グリーンランドの先住民に対する、奴隷化、をデンマークはたかだか半世紀前まで、公然と行っていた闇もあるし、ナチス・ドイツに本国が占領されたときには、アメリカにドイツの手が及ばぬグリーンランド防衛と支配を、米国駐在大使の判断で「委託」していたのは、本国政府が消滅していた事情からである。

そんなわけで、6万人もいないグリーンランドの住民は、この「領有問題」をどうかんがえているのか?という、「民意」がとわれる当然があるけれど、だれも調べないのは何故か?ということが今後クローズアップされるのは必至だ。

はたして、「民意」はどこまでが有効なのか?という問題提起をしているのがトランプ政権2.0なのだといえ、それがまた、クリミア領有やウクライナ戦争のロシア側の主張と重なるので、おいそれと調べもしないし報道しないのがマスコミの悪知恵なのである。

ために、2026年のダボス会議に、トランプ政権2.0の重鎮たちが300人もこぞって参加し、グローバル全体主義に染まった聴衆を唖然とさせる発言を繰り返し、ナショナリズムの時代に振り子が振れているとアッピールしているのである。

こんな状況なのに、解散を決めたわが国の高市政権は、以上の動きに対応した言動をまったく発していないばかりか、選挙の争点すら提案がない。

まるで他人事なのは、トランプ政権2.0による、わが国政界再編の「あぶりだし」も、同時にはじまっているからなのである。

なぜなら、アメリカが「経度」ではないと宣言したことは、わが国の国家安全保障戦略の無理やり大転換をも意味するからである。

この意味で、公明党に吸収された立憲民主党の幹部たちの「安全保障上の発言」がコロコロ変わって定まらないのも当然なのである。

結局、「自主防衛」をするしか、選択肢がなくなったのである。

森薫『乙嫁』を読む

コミック音痴のおじさんが、このところ感心しているのは、世界評価の高さを裏付けるものがあると、いいかげんに今さらながら認識を新たにしたからである。

19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台としてアニメ化もされた『英國戀物語エマ』は、原作もまだ観ていないけれど、その表現のこだわりに関する評判の高さは、やっぱり気になるところである。

どうやら、英国人ばかりではない外国人ファンからの感嘆の声に、なぜ地球の反対側にいる日本人がかくも時代考証が完璧な、BBCでさえも制作できないような作品が描けるのか?があることも、十分に本作に挑みたい動機ではある。

しかし、そんな興味を超えたのが、中央アジアを舞台とした本作『乙(おと)嫁語り』であった。

いわゆる「スタン国」が並び、日本人に似たモンゴロイド系の民族(おおくはトルコ系)が住む地域ではあるが、サウジアラビアから東の広大なロシア大陸の縁に横たわるこれら地域は、残念ながら現代日本人にははるかに遠いエリアとなっている。

あの知の巨人、梅棹忠夫にして「中洋」と呼ばしめたのは、西洋と東洋の中に挟まれているからという「単純さ」が理由であって、だからといって何か濃い特徴を見出せないために、「アジアはない」という主張での文脈における地図上だけの記号としての表現であった。

たとえば、料理にしても、アラブの伝統料理と中国深部の料理は、ほとんどおなじ味がする。

コロナよりもずいぶん前に横浜中華街にあった、「大陸料理」の専門店は、ほとんどの客が日本人ではなかったから、まったく日本人向けのアレンジをしない、「本場」そのものの料理ばかりであったのだが、どうしたことか閉業してしまったのがいまだに残念である。

美味いか不味いかではなくて、わたしには20代前半に暮らした、エジプトを偲ばせるに十分納得のいく、「懐かしい味」が確認できたのである。

これを、シルクロードで繋がっている、といえば、ずいぶんと情緒的にはなるが、梅棹がいうように、真ん中が空洞同然なので、1000キロm単位での地点移動となる気分になったのが、十分に不思議が気がしてならない。

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」と万葉集にあるのは、アジアの「辺境」を歌ったのではなくて、中央アジアの香りが文字通りプンプンしていたのだとおもっている。

しかし、彼らは気候と地理条件によって、農耕ではなく遊牧の民だった。

いまでは、縄文時代が狩猟採取生活だったとはいえず、かなり早い時期から農耕=定住生活に移行していたことがわかっている。
遺跡のコメをDNA解析したら、もしや米作をはじめたばかりか普及したのは、縄文人ではなかったかと疑われだしている。

さてそれで、ディテールにやたらこだわることが『エマ』でわかっている森薫女史の本作も、中央アジアの女性と結婚のディテールにはまりこんでいて、民俗学的教養マンガになっているのである。

これは驚きとしかいいようがない。

日本人作家が、結婚や家族を中とした自分たちの生活文化を詳細に描いてくれて、はじめて自分たちの文化価値をしった、という評価は、公式見解だけでなく現地人たち多数の納得をえているのである。

それがまた、日本語学習熱につながって、若者世代の7割が簡単な日本語会話ができるようになって、とある国の教育省次官は、「時間の問題(20から30年後)には、わが国の第二公用語が日本語になる可能性が高い」と発言している。

政治的・歴史的につながるロシア語ではなく、政治的・歴史的につながりが浅い日本語の方が、「色がない」ことでの安心感があるというのである。

しかして、第1巻に登場する「乙嫁」は、スーパー・レディーである。

こんな嫁が欲しい、という感情が、「こんな」をはぶいて、「嫁が欲しい」になるだけでも、少子化対策になる。
将来の夢を少女にきいて、ほとんどが「お嫁さん」とこたえていた時代は、ついこの前のことであった。

家族の破壊が、政治によって急速に実行された「成果」が裏側に見えてくる、そんな作品なのである。

横浜市長へのパワハラ告発

11日配信の『週刊文春電子版』で、横浜市人事部長が告発した、「市長のパワハラ」(犬飼淳氏の会見全容)が話題になっている。

これに、一期目に立候補した山中竹春候補の「落選運動」をやっていた、あの郷原信郎弁護士(元検事)が解説している。
このなかで、キーとなる人物は、横浜市旭区選出の自民党市議(元市議会議長、自民党市議会議員団長)である佐藤茂氏が山中氏擁立の「応援団長」だと名指ししている。

旭区以外の他区からすると、山中氏擁立は立憲民主党の側にあったように記憶している。

「カジノ選挙」であったし、これに反対する立場からと、自民系の分裂(現職の林文子氏と菅政権で現職の国家公安委員長だった小此木八郎氏)が立っていたことをチャンスとみたのが、江田憲司衆議院議員(神奈川8区:緑区、青葉区)であった。

ちなみに、菅義偉氏は小此木八郎氏の父、小此木彦三郎衆議院議員の元秘書であったので、故中川一郎の秘書から「裏切って」国会議員になった鈴木宗男氏と、どうもイメージが重なってしまうのである。

それで、落選した小此木八郎氏は、そのまま政界を引退した。

そんなこんなで、初当選した山中竹春市長については、このタイミングで書いているけれど、まったく「パワハラ体質」について変わっていないところがまた、山中氏の「顔」にあらわれている。

むろん、今回の件で、江田憲司氏も佐藤茂氏もまだコメントしていないようだ。
製造物責任をきいてみたい。

今後も、マスコミは面白おかしく書きたてて「リンチ状態」にしていくのだろうが、告発した人事部長の言い分に引っかかりがあったので書いておく。
むろん、わたしは山中氏応援団ではない。

第一の引っかかりは、「市議会」や「市会議員」にも言及していることである。

上で郷原弁護士もハッキリと指摘しているように、市長のバックに市議会のドン的な人物がいるために、自民党議員たちが沈黙するのは想像内だが、立憲民主党(労組)の推薦があるためか、その他の政党からの声も聞こえてこないのである。

けれども、それ以上に引っかかるのは、人事部長の「越権」だとかんがえるからである。

ここに、わが国の地方制度設計上の大問題がある。
本来の「二元制」が、「行政一元制」に変容していて、だれも不思議とおもわないからだ。
「市議会」は、法に準ずる「条例」をつくることができる「立法機関」なのであって、行政監視の役割は「その一部」にすぎない。

そこで、「特別市」を目指すなど、とんでもないことなのである。

だが、エリート役人も市議会議員も、市議会の役割は「監視だけ」だとおもいこんでいるらしい。
この「議会軽視」こそが、大問題なのである。

残念ながら、わが国の体制が欧米基準を全面輸入したために、150年経っていま、制度疲労がはじまっている。
しかし、「全面輸入した」はずだけど、明治の賢人たちが後発の強みから、美味しいどころ取りをやったがために、英国式、フランス式、ドイツ式、そして戦後はアメリカ式が混在した。

いわば、昭和の保守論客が正しく指摘した「ぬえ(鵺)=妖怪」のような制度になっている。

この典型は、国会の構造が良くも悪くも「二院制」をなんとか保持したが、地方はぜんぶ「一院制」となって、国の議院内閣制となじまない地方の二元制が、国の役人に都合のよい「行政一元制」になったとかんがえられる。

つまり、明治とはことなる天皇抜きの強力な中央(官僚)集権制となっている。

この点で、アメリカの「二院制」を基礎におくのとぜんぜんちがう。
アメリカでは、市議会でも「一院制」が珍しいのである。
しかも、行政に予算編成も政策提案も要求しない。

行政は、議会権限で決まったことの「執行機関」にすぎないからである。

だから、民主主義なのである。

わが国は、市長を選ぼうが、議員を選ぼうが、発案するのは役人なのである。
それで、山中氏は、その役人の発想が市民目線かどうかをチェックするのが自分の立場だと主張しているのだが、このこと自体が「正しくない」ことに問題がある。

市長は一神教の神ではないから、職員個々人の発想までコントロールできっこない。

つまり、それがパワハラ体質そのものとなるのである。

しかし、この人事部長も、以上の問題意識の欠如で、会見では「市長の人格を問わない」とはいいつつも、人格がちゃんとしたひとなら、だれでもいいと役人発想むき出しに考えていないか?

とにもかくにも、肥大化する一方の行政に対抗できないのは、議会軽視の思想が蔓延する国民体質の中にあるので、山中氏なる怪物があらわれるのはその具現に他ならないし、市民の無関心(投票率の低さ)の結果ブーメランなのである。

一周年のトランプ政権が仕掛る一網打尽

アメリカ国内だけでなく、かつての「世界=ヨーロッパ」も巻きこむ、みたこともない「大捕物」がはじまっている。

それも、「追い込み猟(漁)」なのである。

獲物は、グローバル全体主義者たちである。

まずは、クリントン夫妻だ。
連邦下院政府監督委員会が召還した、元大統領とその夫人にして元国務長官は、これまでさまざまな理由を付けて延期をはかってきたが、元大統領の13日、元国務長官の14日と、続けてとうとう「無断欠席」してしまったのである。

このために、今週すなわち19日の週、同委員会は「議会侮辱罪」を決議・訴追する予定となった。
今後、もしも(かなり高い確率で)、「有罪」が決まれば、数ヶ月間の禁固刑となるが、その社会的ショックは限りなくおおきい。

そもそも今回の両者に対する召喚状の送付は、昨年8月に行われたもので、共和・民主の委員会メンバー「全員一致」での決議に基づくものだ。
つまり、民主党も、とかげのしっぽ切りのごとく、クリントン家の切り捨てを図っているのである。

その護るべき本丸は、むろん、バラク・オバマであろうし、クリントン夫妻切り捨て決定もこの人物の指図だと推察する。
あの、民主党内予備選挙におけるヒラリーの絶叫「オバマ、恥を知れ!」がいまさらながらに聞こえてくるし、じっさいに怒鳴っているとおもわれる。

なので、おそらく、その間の「司法取引」で、トランプ政権2.0は、両者にオバマを売るように仕掛けるのであろう。
いや、むしろ、ベネズエラのマドゥーロ夫婦を選挙不正の証人として保護したように、すでにオバマ追討シナリオに同意している可能性もある。

ヒラリーとは、そういう攻撃的な発想をする人物だし、それが「病的」だとしられているのもオバマ側が情報をリークしているからである。

この状況をうけてから、トランプ政権2.0は、オバマが国内諜報機関や自前の司法省をつかって、2016年選挙に勝利したトランプ政権1.0への「叛乱」を指示した機密文書の全面公開を、いまの司法省に命じている。

いまのところのクリントン夫妻の強気は、「韓国のようなこと」にはならないと、信じているようにもみえるのだけれど、「真実を白状しろ」から逃れられない運命となったのは、アメリカファーストをいうトランプ政権2.0にしても、アメリカを韓国のようなことにしたくない、つまり「国家の名誉」を守りたい当然があるためであろう。

だがここからみえるのは、やることの順番が決まっている=猟の罠が手順通りに準備されている、ということだ。

次の場面である、ウクライナでの猟は、ウクライナ側の支配地域における発電・変電所への容赦なき100%攻撃で、すでに氷点下20℃の冬を安泰に越すことが困難なことになっているし、ロシア海軍の黒海からの攻撃で、オデッサ港の機能低下すなわち事実上の封鎖もはじまっている。

ウクライナの小麦は、ほぼ例年通りの収穫量ではあったが、輸出量が激減しているのはこのためだ。
世界の小麦価格に影響するだろうが、中国が約束を反故にして買い渋るなか、共和党支持基盤のアメリカ中部穀倉地帯が動揺しないのは、日本など他国がしっかり買い入れているからである。

ゼレンスキー政権を崩壊させて、次の政権へ移行させる準備があるはずだが、野党指導者でかつて首相をつとめたユーリア・ティモシェンコも、常時、国会議員を買収していた汚職がバレて政治生命が絶たれようとしている。

汚職大国ウクライナの面目躍如なのである。

むろん、バラしているのはトランプ政権2.0の資金による「ウクライナ検察」である。

それでもって、EUのタガが緩んでいるなか、「グリーンランド問題」が登場して、あわてたヨーロッパ8カ国が「派兵」をいいだし、これにトランプ政権2.0が「追加10%関税」で応じたら、はやくもドイツが逃げ出して、同胞にして同じ穴のムジナたるフォン・デア・ライエンの顔に泥を塗っている。

我々がNATOを必要とする以上に、NATOが我々を必要としている、というトランプ大統領の名言がこれで生まれた。

AfDへの支持が拡大する努力をやっているおバカ政権ではあるけれど、悪い友人たちとつきあうとロクなことにならない典型になっている。

しかし、いまや世界一の愚か者で有名な、カナダのマーク・カーニー首相が、「もしもアメリカがグリーンランドを攻撃したらカナダ軍がアメリカと交戦する」旨の発言をして、国内アルバータ州の独立=連邦離脱=51番目の州としてアメリカ併合を求める住民投票の火に油をそそいでいるのである。

そんなわけで、世界は旗幟を鮮明化するように仕向けられているばかりか、国民投票で国境線が変わるかもしれないところまでになっている。

ようは、民主主義がグローバル化したのである。

その一環が、わが国の解散総選挙であるし、公明党と立憲民主党の吸収合併も、ひとつの追い込み猟の網にかかった、といえるのである。
AfDと提携関係にある参政党しか躍進しない状況がつくられているのも、まったくドイツと似ているけれど、これとても偶然ではない。

むろん、こんな時期に反EUのイタリア首相が来日したのも、高市氏をグリップするためのトランプ政権2.0からの工作であるとかんがえれば、両国関係を「戦略的パートナーシップ」へと昇格させると一方的ラブコールをメローニ氏がいう意味もわかる。

つまり、メローニに「砂かけ婆」ではなくて、「子泣き爺」の役をさせて、高市の自由裁量を制御しているのである。

この意味で、高市政権(自民党主流派)は、おそらく不本意であろうが、トランプ来日とおなじ手口ですっかりからめ捕られてしまったわけである。
高市や茂木、あるいは外務省の無能がしれるのだが、岸田・石破の無能よりはまだマシなので内閣支持率「だけ」が高止まりしている妙な現象になっている。

つまり、日本人は「政党政治」の歴史で、政党という組織体の行動原理を信じていないというよりも、政治家と政党の概念が「利権構造」によって分裂しているのである。
これを、はじめて本格政党なる参政党が手本を見せるのだが、そんな参政党からの離党者が絶えないのも、離党者がもつ政党の概念が分裂しているからであろう。

そんななか、親米保守よりも安倍晋三政権で「拝米保守」を支えた張本人たる極左活動家、菅義偉元官房長官&首相が引退を表名したのも、本人の体調不良ばかりが理由ではあるまい。

当然に、トランプ政権2.0のスケジュール管理は、今年の11月中間選挙に照準がある。

そこまでにやる、のであろうけれど、「最高のタイミング」を図っているのは確実だ。

なにせ、本日1月20日が、トランプ政権2.0誕生からたった1年なのであって、だれが1年前にこの状況を予想できたか?

厳密なスケジュール管理をしているのに、政権外には気づくものがいないのである。

投票要員の「議員」たち情報がほしい

アメリカ大統領選挙では、州ごとに決められた「選挙人票」の総取りルールがあるので、国民を平準化した総得票「数」で決着する方法を採用していない。

その「選挙人票」は、50州あるなかでの連邦上院議員が各州2名と決まっていることと、連邦下院議員数は435と決めているために、10年毎の国勢調査結果をそのまま算術的に計算して、各州の議員数を決めているので、自動的に上下両院の議員数をもって「選挙人票」として定めている。

それで、各州での選挙戦では「総取り」だから、共和・民主両党があらかじめ選んでいる「選挙人」が、大統領選挙における一般投票の結果を各州議会と知事の「結果承認」を経て、勝者側の選挙人たちが一斉に投票することになっている。

そうやって投じられた票の開票日が、選挙投票翌年の1月6日で、連邦上下両院合同議会の場で、現職の副大統領=連邦上院議長が、開票してその数を確認し、最終的な勝者を決めるのである。

なので、選挙人のなかで、「裏切って」対立候補側に投じることもある、という前提になっていることが、興味深いのである。

だから、選挙人が全員、ロボットのように機械的な票を入れる、という設計ではない。

しかしながら、わが国の議員のなかには、ロボットのような「投票要員」が多数いるから、その存在は有権者の責任にも転嫁される問題なのである。

これは、国・地方を問わない。

なかんずく、「国」=国会議員なら、そんな人物を選んでしまうことのツケは、きっちり国民が払わないといけない仕組みになっている。

国会議員は「法律」の作成者で、地方議員は「条例」の作成者なのである。

このため、国会議員で、「議員立法」の提案をしたことがない、とか、「質問趣意書」を一度も提出(議長を通じて内閣に出され、内閣は閣議決定して議長に返答する)したことがないともなると、その議員は「投票要員」であると断定できる。

そんなわけで、選挙公報の「現職」と「元職」には、にはこの事実をまっ先に掲載すべきなのであるし、「新人」ならば、もしも地方議員からの立候補であれば、その議会における同様の情報を掲載すべきである。

あんがいと、「大臣」級なのに、投票要員がいるのである。

当然ながら、落選リストに掲載しなければならない。

アメリカ反乱法適用と日本政界

トランプ大統領は15日、自身のSNSで、ミネソタ州における州知事及びミネアポリス市長のそれぞれの組織的な「連邦移民捜査官(ICE)」への公務執行妨害に関して、「反乱法の発動」予告を発した。

この法律は、アメリカ軍がアメリカ市民に対して銃口を向けることを唯一容認するもので、成立は1792年だから、1776年の建国からわずか16年後に成立しており、1992年のブッシュ父政権がカリフォルニア州知事からの要請で発動して以来の事態である。

数え方によって発動回数は異なるが、ざっと30回も発動しているから、過去250年間で、アメリカでは10年に1回以上の「反乱」が起きていることになる。

それで、トランプ大統領は、「これは私以前にも多くの大統領が行ってきた」と書いたのである。

果たして、「脅し」なのか?本当に発動するのか?は今後の推移次第だが、ミネソタ州知事は、カマラ・ハリスと組んだ副大統領候補者だったことをおもいだすと、およそわが国の「中央集権」がいかに完璧かがわかるというものだし、完敗したとはいえ、こんな者共を正・副大統領候補に据えた民主党のヤバさが今さらながら浮き彫りになっている。

むろん、こんなやからを全面的に支持していたのも、アメリカの翻訳コピーしかできないわが国マスコミであった。

公明党と立憲民主党の合併に、その日本のマスコミがえらくトンチンカンな記事を出している。
なんでも、合併した新党が「圧勝」するという。

たんなる願望を記事にするのは、公器としての報道機関の私物化にほかならない。

まことに、一般人の皮膚感覚と乖離した内容であるが、これもまた、「デジタル・タトゥー」となって残ることに、当事者は気にもとめないのはなぜなのか?
トインビーの名言「歴史を忘れた国民は滅ぶ」を、しらないはずはないけれど、リアルさを忘れたのはなんらかの強力な(金銭的か政治的、あるいは両方の)事情があるからとしかおもえない。

世の中には、みえない水脈の流れがある。

これを一般的には、「闇世界」といってきたが、ケネディ暗殺以降のCIAは、「Conspiracy theory:陰謀論」と宣伝することで誤魔化してきた歴史がある。

しかしながら、世界は腹黒いのである。

そのために、どんな政府でも「諜報機関」をもっていて、そこにはさまざまなリクルート方法で集めた人材がうずめいているものだ。
わが国にはかつて、「陸軍中野学校」なるプロ養成所があった。

映画の公開は1966年(昭和41年)であるために、戦後から21年後にできた映画ではあるが、本物世代が健在であったろうから、あながち「娯楽映画」としても嘘八百ではヒットしない。

「007」が荒唐無稽でも世界で許されたのは、世界は「本物」の存在が常識だからであることと日本人の受け止めが方が真逆なのである。
それでいて、『アンネの日記』には涙して、アウシュビッツでの出来事を非難する常識があるけれど、イスラエルとパレスチナへの評価が定まらないのは、ステレオタイプだからだ。

わが国にロシアのラブロフのような老獪な外務大臣は、おそらく奇跡でも起きなければ現れることはないだろう。
ましてや、プーチンをや。

そんなわけで、アメリカは国内戦時体制を構築しているが、それは「巨悪」のオバマ、クリントン家、バイデン家をはじめとする民主党系への一網打尽の前触れではないか?
その余波として、絶対不要な政治勢力の一掃を、本人たちにやらせる自爆をもって「政界再編」というならば、結構なことである。

ベネズエラやイランでのできごとの、えらく小さい版的「政変」が、「中道改革連合」なのだとおもわれるのである。

15日、そんな喧騒をよそに、在日アメリカ大使館は、代理大使がオランダ大使と一緒に、1861年のこの日に刺客によって亡くなった通訳、「ヒュースケン(享年28歳)」の追悼をアメリカ建国250年記念の一環として、南麻布光林寺の墓前で行ったと発表している。

彼らは、「歴史」を忘れてはいないのである。

行き先不明の公明党と立憲の新党

戦後の昭和から、わが国では珍しかった「近代政党」の一角をなしたはずの公明党が、大迷走をしているようにみえるので、組織論からの勝手な解釈を書いておく。

なお、近代政党の定義は以下の3点が同時にぜんぶ満たされていることが条件だとあらかじめしっていないといけない。

・「綱領」があること
・「議員」がいること
・「党員組織」で活動していること

近代政党ではない、自民党には、三つ目の「組織がない」点で欠格する。
自民党の組織とは、議員や候補者が独自に運営している「後援会」をさすので、党員による組織とはほど遠いのである。

よって、自民党を別称で「自分党」と呼ぶ根拠となっている。

また、「議員」には、政策スタッフがつくことが必要であるが、それはまた党員であることが望ましく、さらに、党には政策シンクタンクがあって、そこの研究員からスタッフになることが重要である。

ここまで完璧な政党は、大正デモクラシーからこのかた、わが国にいまだ存在しないが、近いところに公明党と共産党があったし、ここ数年で参政党が唯一の「完全型」を目指すと公言・標榜している。

高市政権による、通常国会冒頭解散が確実になるにつけ、15日、公明党と立憲民主党が合併して新党をつくることがニュースになった。
この前に、立憲民主党の原口一博元総務大臣が、「分党宣言」をSNSで発表して、事実上の党分裂がはじまったのである。

ときに、公明党は、なぜに自民党との連立を離脱したのか?

ことの真相は不明だが、支持母体たる宗教団体・創価学会の衰退とこの組織の求心力の弱まりが遠因であることはまちがいなかろう。
カリスマ指導者だった池田大作氏の死去で、中心を失ったことの回復がそう簡単にできないのは、この手の個人崇拝をする組織の「あるある」だからだ。

驚異的な経済成長率達成していても、まだまだ日本が貧しかった昭和30年代から創価学会は成長をとげる。

このときから、池田大作氏が組織の中心を形成するが、その教義は「現世利益」なのだ。

つまり、社会としても現世利益を実現していた時代の大波に「乗った」ともいえて、宗教だけにどんなに現実社会が不況になっても、曲げることができないから「教義」なのである。
その教義=戦略のために、信者のエリートを役所に送り込みながら、野党から与党になることでの「現世利益」追及をやめなかったのは、信心だけでない合理的な行動であった。

ところが、教団組織と政党議員の乖離がはじまったとおもわれる。

これは、連合が支持するのに、民主党が、立憲民主党と国民民主党に分裂し、さらに、それぞれの政党が連合の希望通りにはならないのと似ている。

あたかも、「法皇」にある白河院政で、「ままならぬ」といったこととソックリなのである。

鴨川の水の流れ、すごろくのさいの目、比叡山の山法師。
ことに、法皇に従わない山法師と、連合と政党の関係のことである。

しかして、創価学会と公明党も、おなじ事態になっていないか?

すると、これを組織論で考察すると、組織マネジメントが壊れだしている、と観るしかない。
だとすれば、トップの問題だけではなくて、もっと深刻なのは組織内の「中間層」がバラけてどうかしだしたとかんがえるのが妥当なのである。

おそらく、トップが目指すなにかと、中間層の目指すなにかの齟齬が亀裂となって顕在化しているのだろう。

これを、かつてのカリスマのやり方をそのままに、上から目線で強権的に解決を図れば、亀裂の溝はより深くより広がって、収拾がつかなくなるのも、よくある愚策の例に山ほどある。
つまるところ、この当事者たちは、こうした人類の歴史をしらないし、人間のもつ心理に対する知恵もないことを国民に見せていることにも気づかない。

まことに、安易な時代の、今様、の出現なのである。

「ベーム」が次々とやってくる

YouTubeのアルゴリズムが突如として動きだして、意外な動画が登場するのはいつものことではあるけれど、新年初の三連休にあって、あの往年の巨匠カール・ベーム(1894年〜1981年)の指揮ぶりが連続で現れた。

わたしの記憶では、ベームとウィーンフィルハーモニー管弦楽団のコンビは、当時、世界最高との評価があったけれども、カラヤンとベルリンフィルの人気がすさまじかった。

レコードが高かったので、まだ中学生のわたしの小遣いで好きに買えるようなものではなく、モノクロテレビのモノラルスピーカーからの音声でもテープレコーダーに録音して、NHK教育テレビの演奏を観て満足していたのである。

ベームとカラヤンを比べると、カラヤンは「サウンド」をつくっていたし、それがまた芸大出のソニー大賀社長とのtie-upで大々的に宣伝されていた。
ベルリンフィルの透明な弦楽器の響きもまた、西ドイツのポスト・モダンとマッチしていたようにおもう。

だから、ベームの方は「地味」で、どちらかというと特徴がないという特徴があって、さらに、テンポの遅さがぜんぜんモダンでなく、しかも、ウィーンフィルの弦楽器の響きは、田舎っぽい匂いようにくすんでいる。
しかし、何度も聞くうちに「滋味」があることに気づいたのである。

後年になって、デジタルの時代になると、フルトヴェングラーとベルリンフィル(ナチス時代は「帝国オーケストラ」といった)の録音がデジタルリマスター版として復刻し、伝説の演奏をはじめて耳にして、「これぞ!」とおもったものである。

もしや、ベートーベンもこんなふうな音色をイメージしていたのではないか?

ベームの演奏における、とくにテンポについては、「むかし」ならこんな速度でもじゅうぶんに「速かった」かもしれないとおもった。
たとえば、日本でなら、『ドンパン節』を、明治生まれの祖父が好んで口ずさんでいたのが耳についているが、やたら遅いテンポなのである。

生活のリズムがいまよりもずっと遅かったむかしを偲ぶと、特別に遅いのではなくて、いまが速すぎるのではないか?

70年代のスピード感からしたら、カラヤンの「速さ」がうけたのもわかるが、「古典」ファンとしては、ドイツ伝統の継承者ベームの方に軍配が上がったのは理解できる。

そのカラヤンにウィーン国立歌劇場の芸術監督の地位を奪われたのがベームであった、ともいわれているし、後年、ベームもこれを認めるような発言もしている。
だが、「やった」のは、すでに「帝王」化していたカラヤン本人ではなく、取り巻きの忖度による活動があったのではないか?と疑う。

こうしたばあい、本人は自分のせいだとは気づかずに悪びれないものだし、カラヤンのプライドはそんな姑息を許さなかったろうから、あくまでも「実力」だと信じたはずである。
それに、カラヤンは、けっしてベームを邪険にしたわけもなく、「あなたのような指揮者になりたい」とまでいったのも、本心からだとかんがえたい。

この意味でも、指揮者という職業は組織的ではない、ひとり個人事業主、である。

この後、ベームは特段の劇場やオーケストラとの専属契約はせずに、「フリー」の指揮者として、世界的巨匠の名声を獲得する。
それで、カラヤンが支配したベルリンフィルにも度々客演して、歴史的な録音の数々を残したのだが、よくぞカラヤンがベームの客演を許したものだというのも、上の理由からだろうと想像する。

カラヤンすらベームにはかなわないと認めていた、という。

バーンスタインや、カルロス・クライバーなどの伝説の指揮者が、ベルリンフィルに客演しているのも、カラヤンが背後にいてのことで、カラヤンが君臨していた時期に、その他の指揮者がベルリンフィルを振ることはなかったというのも、「仕切り」があったためだろう。

ときに、ベームは「法学博士」の学位を得たのに、父の後を継いで弁護士にならず、音楽の道に入った。
あのどこか学者風の姿は、「教授」にふさわしいのであるが、ピアニストから指揮者に転向するのに自分で向き不向きに気づいたからだという。

おそらく、ベームが受けた教育は、ドイツ伝統の「スパルタ式」であったとおもわれる。

それがまた当時のドイツ上流の、あたり前の教育方法であった。
家庭教師による強制をともなう厳しい教育法のことである。
しかし、戦後、つまり「ドイツ第三帝国」が滅亡してから、アメリカ式の自由教育が主流となって、かつてのドイツ式が廃れたのである。

これは日本における明治からの「学制」と似ていることであるが、わが国では150年前の大変化に、ドイツではまだ80年という違いがある。
しかし、昨年のショパンコンクールが象徴するように、上位入賞者がアジア系ばかりとなってドイツ系はひとりもいなかったことが注目された。

これも、ドイツ式教育法が廃れたことの残念な一面だと、上流階級のドイツ人がみとめるところのようであるがどんなものなのか?
はなから庶民のドイツ人には興味のない話題なのである。

また、ベームが指揮した当時のウィーンフィルのメンバーに、女性がひとりもいないことがいまさらに目立つのである。

ヨーロッパの由緒あるオーケストラに、女性メンバーが入るのは、ここ半世紀の出来事なのである。

いまや、クラッシック音楽界にも「巨匠不在の時代」といわれて久しいが、それはいい意味でも悪い意味でも、クラッシックな方法が廃れたことの反動なのであろう。

それがまた、ベームのような人物が不世出だといわれる理由だとすれば、日本映画の『国宝』がヨーロッパで絶賛される理由もまた、ヨーロッパが「失ったもの」が、現代日本にあることの憧憬になる理由だとおもわれる。

そうやって、次々とでてくるベームの動画を観ていたら、次はカルロス・クライバーへとつながってきたばかりか、これまたなぜか?優れた時代考証でしられる森薫女史の『エマ』とアニメ版『英國戀物語エマ』が登場した。

これもまた、アルゴリズムのおかげであろう。

キューバの運命はいかに

西半球=南・北アメリカ大陸の支配に徹する。

これが、2025年12月発表「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」の核心である。

それゆえの「ベネズエラ」であったし、ブケレのエルサルバドル、ミレイのアルゼンチンから、あたかもオセロゲームのごとく、南米大陸では左翼政権が壊れて、トランプ政権2.0との親和性の高い反グローバリズム政権へと転換がつぎつぎとすすんでいる。

のこる「大物」は、南にあるメキシコとブラジルと、北のカナダとなっていて、その先に、グリーンランドがある。
そのグリーンランド自治政府首相は、新年早々に、本国デンマークの首相との会談で、「現時点では、NATOとセットのデンマークを選ぶ」と発言し、それなりの物議となった。

アメリカがNATOから抜けるかもしれない、「含み」があるいい方だからである。

ようは、アメリカと「領有権」で対峙するデンマーク首相を目の前にして、自治政府の当事者が、アメリカの加入なしに存在できないNATOなのに、アメリカが軍事力で領有しようと圧力をかけていることとの完全矛盾を言い放ったのである。

つまり、この時点でNATOは終わっている。

メキシコの大統領は、アメリカによる麻薬カルテルへの地上攻撃を阻止するのに、あたかも、麻薬カルテルの側にある、と発言して、これまた失笑を買ったのは、政権そのものが麻薬カルテルの支配下にあるという、従来からの「うわさ」を肯定的に確認してしまったからだ。

ところで、ブラジルの極左ルーラ大統領を、わが国は昨年3月に「国賓」として招いた前科がある。
「石破政権下」だから、高市政権とは関係ない、とはいえないのは、「自・公・立憲」政権における暴挙だった。

名目上は日本とブラジルの130年にわたる友好、だったろうが、仕込んだのは岸田政権だ。

おなじ政党内における「政権交代」を、一般的には政権交代とはいわない。
近代における「政党政治」とは、組織で意志決定し、組織で動くものだからである。
なので、もしも国際的な言い訳をするなら、わが国の政権党は、近代政党ではないと、自分から釈明しないといけない。

さてそれで、キューバである。

この国のエネルギー源は、ベネズエラからの石油供給であった。
二番手がロシア産の石油だったが、はなから量が少ない。

ようは、キューバは急激なエネルギー危機にある。

領土面積の規模は違うが、戦前の日本におけるエネルギー危機と似て、どうにもこうにもならない状態になっている。

そこにまた、トランプ大統領は、「トンデモ」発言をして、キューバからの亡命移民であるマルコ・ルビオ国務長官を、キューバ大統領に任命する、といったのだ。

さて、経営戦略のいまでは古典的な教科書となっているのが、アルフレッド・D・チャンドラーJR.ハーバード・ビジネス・スクール教授の名著『組織は戦略に従う』のとおりをやっている。

つまり、「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」にトランプ大統領もそ政権組織も愚直に「従う」という教科書通りの実践を世界は見せつけられているところなのである。

すると、アジアやわが国にも、この戦略が及ぶことを意味するばかりか、「いつ」実践されるのか?という時間の問題になっているとしらないといけない。

良くも悪くも、支持しようがしまいが、この戦略が、覇権国家アメリカ政府の「バイブル」となっている。