利上げしちゃったFRBと日銀

いまのアメリカと日本は別の方向をみている。

だが、むかしからこの両国はこんなものだった。

アメリカは自国の国債利回りが高まって、暴落の危機にあるのをどうにか抑えたい。
日本は、円がこれ以上安くなるのをどうにかしたい。
円安で日本の「輸出企業」(観光業を含む)は笑いが止まらないだろうが、内部に巣くう経営問題の解決が優先順位から落ちてしまう。

アメリカの国債は、ずっと前から発行しすぎたことのツケがとうとうまわって、ドルの価値がさがる「インフレ」との闘いになった。
日本の円は、ずっと1ドル=100円程度の円高だったのに、それが160円近辺での攻防になっている。

ほんとうなら、インフレのドルに対して、円が高くなっておかしくないのに、そうはならないのはなぜか?
むろん、石油を含めた輸入品物価の上昇、という「悪いインフレ=コストプッシュ型」が、国民生活を圧迫しているのではあるが。

単純化すれば、政府が国民に勧める「NISA」が原因ではないか?

国民が投資したカネが、証券会社を通じてアメリカで運用されれば、それは「円安」になる当然がある。
「高利回り」を追及したら、外国投資の方がぜんぜん有利だからである。

これをいえない日銀は、「日米の金利差解消」という名目を理由に、あるいは、ベッセント財務長官の命ずるままに、金利を上げた、ので、これからわが国はその引き締め策により景気は悪化する。

ようは、住宅ローン返済負担が深刻化=ローン地獄がやってくるのが「痛い」のである。

しかして、肝心のアメリカFRBが、トランプ政権2.0の肝いり(利上げしない)で就任した新議長だったのに、先に「利上げ」してしまったので、日銀が利上げしても「日米の金利差」は変わらないこととなったのである。

つまり、当初とは話しがちがう、日米の金利差拡大を防止するための日銀の利上げ、である。

ときに、高市政権がはじめて自政権が打ち出した「骨太の方針」を受けての「来年度予算編成」に入った。
今年度予算は、石破前政権の「予算編成」を高市政権が国会を通過させたものである。

それが、蓋を開ければ、石破時代と大差ないのである。

つまり、額だけ増えたが実態は「緊縮予算」である。
要するに、わが国政府は肥大化をやめず、どんどん社会主義の国家管理に向かっているのである。

ために、円は価値を失う方向(円安)で変わらないどころか、加速度的に減価するよう、政府が仕向けている。
これを、日銀だけに責任転嫁するのは、方策がアベノミクスとは真逆だが構造はまったくおなじなのである。

金融政策には限界がある、これこそが失われた30年以上の悪政から学んだことではなかったか?

そんなわけで、17日のニューヨーク市場では、原油価格の下落と、とっくに折こんでいた金利上昇の「一服」で、ダウは反発という状況になっているのである。

かんたんにいえば、市場は読んでいる。

そんなこんなで、ツケは国民が払わされるのだが、その損失に気づかれないような「誤魔化しの経済政策」を日本政府は推進する。

それが、社会主義・共産主義=全体主義というものなのである。


ウクライナ沼に入れ込む蛮行

「(わが国は)ウクライナと共にある」といい切った自民党・高市政権のことばにウソはなく、どこまでも入れ込んで、カネを吸い取られることに快感を得る変態になっている。

15日、なんとわが国の衆議院議長(森英介:千葉11区)がウクライナを訪問し、彼の国の国会(「最高会議」という)で演説したのである。
そこに、「(ロシアの)蛮行」なる過激な発言が含まれていて、わが国は政府だけでなく立法府までウクライナに入れ込んでいると世界に示してしまった。

これぞ、「蛮行」である。

このひとの「演説原稿」を書いたのは誰だ?ということが問われないのは、政治家本人の口から出た言葉には、そのまま責任があるからである。

この演説の中にある、わが国とウクライナの共通事項として、「チェルノブイリ原子力発電所事故」と「フクシマ」を挙げる、トンチンカンの上塗りもあった。
「チェルノブイリ」は、ソ連時代の事故であることをなんと心得ているのか?と問えば、メチャクチャな歴史観と地理感覚、政治感覚であることがわかる。

チェルノブイリがどこか?をこの脳天気なひとは地図をみて確認したことがないのではないか?

キエフの北、ベラルーシ(「南ロシア」という意味)との国境近くであって、放射能被害はウクライナの地ばかりか、風向きでかえってベラルーシもロシアも多大なる影響を受けている。
さらに、チェルノブイリの人口構成は複雑で、ロシア語圏の東スラブ民族とも深い関係にある土地なのである。

いまどき、ちょっと調べればわかるこのような事柄を、ほんとうに森英介なる人物はしらないのか?わからないが、「三権の長のひとり」としてはあまりにも政治的な発言なのである。

しかして、なんで「三権の長」のうちの衆議院議長がウクライナを訪問しないといけなかったのか?
なんでウクライナ国会で演説をする「異例」なことをやったのか?が、気になるのである。

ようは、衆議院議長というよりは、自民党の党員代表としての訪問ではないか?

すると、福岡県議会の外国視察、とおなじ構図なのだわかる。
そもそも、衆参両院の議長職が、政府の外交を担うことはない。

つまり、わが国憲法が定める「三権分立」からしたら、憲法違反の越権行為なのである。

これを、臨時国会で問い詰める議員はいるのか?注目したい。

憲法違反をやってでも、日本政府・自民党がウクライナに国会議長を送り込んだ理由とは、おそらく、カネに困ったEUからの要請か?それとも、カネを出さないトランプ政権2.0への当てつけか?

なんにせよ、負け戦のウクライナに入れ込むのは、「大損」になるのは火を見るよりも明らかだが、もっといえば、「支援金のキックバックほしさ」なのかと勘ぐりたくなるのである。

すでに「X」では、日本からの支援金=寄付金50億円の行方を調べたひとが、どこにも使途がわからない、不明な状態になっていると投稿している。
これに、ロシア在住の「X」民は、ウクライナ外務事務次官だった人物の個人運営NGOに流された、と書き込んで、この次官は国際支援金の着服容疑ですでに拘留中、だという。

ウクライナの汚職実態は世界最悪と評価されてきたが、いま、この捜査=大掃除をやっているのは、トランプ政権2.0であって、FBI職員も派遣して支援しているのである。
つまり、日本政府・自民党の「焦り」から、なんとしてでも「支援=裏金」を維持したいとみることができるのである。

むろん、日本政府はアリバイとして、上のような「事実があるなら」との仮定法で、「日本国民の善意を裏切るもの」としてウクライナ側に事実解明を求めている、という。

だが、森英介氏は本件に言及したのか?の報道はない。

トランプ政権2.0と対立してまでも、そこまでやるのか?なのだ。

つまり、「ウクライナと共にある」とは、自分たちも「汚職まみれ」であると告白しているも同然ではないか?と疑う。
「汚職責任追及・撲滅支援」をやっているトランプ政権2.0と真逆の、「汚職支援」をやっているのが、日本政府・自民党で、とうとう衆議院議長まで動員してしまった。

これを、「蛮行」というのである。

再熱除湿のエアコン

「27年問題」を抱えるために、今年、駆け込みでエアコンを買い換えたひともおおかろう。

エアコンだけでなく、蛍光灯も規制の対象になっているけれど、給湯器には「2028年問題」がやってくる。

政府はどこまで個人の生活に介入するべきか?あるいはできるのか?という「自由主義問題」のひとつとしてとらえれば、まったく社会主義・共産主義=全体主義に傾く日本政府のやることなすことのいちいちに文句をいいたくなる。

政府のいい分は単純で、「地球環境保全」なるまさに単純な世迷い言である。

これもまた、家族=家庭経済を破壊して、社会主義・共産主義=全体主義の実現をはかるための見事な詭弁なのである。

地球環境保全のために、国民はあらゆる負担をせよ!と命じるのが、日本政府となっていて、権威のお墨付きが「国連」なるエセ国際機関である。
ドイツと日本=敗戦国に対する、国際的イジメ機関が国際連合=戦勝国組合だからである。

そこにまた、「先進国のつとめ」なる、見栄がはいりこんでいて、2007年の年初にとっくに先進国ではないと国会で歴史的な経済演説をした、大田弘子経済担当大臣の宣言を無視するのは、もう、おなじ政党が政権を維持しているとはおもえない。

この時期よりずっと悪化しているいまの日本人の「ひとりあたりGDP」をみれば、地球のためにカネやらなにやらを負担する余裕はないのである。

しかし、それを「やれ!」という日本政府の意図とは、まさに上に書いたポリコレにほかならない。
しかして、17日夕方、高市首相による内閣改造の説明と各大臣の紹介についての生中継があったが、意図するところは「反日政策の強力推進」だから気分が悪くなった。

そんなわけで、27年度から、いまよりぐっと厳しくなる「省エネ基準」を満たさないエアコンは、製造も販売も「禁止」となるのである。

このように、政府が国民に命令できる根拠はなにか?をかんがえると、日本国憲法に反していないか?と疑問がわくのだが、レジを通過後にイートインでの飲食か持ち帰りかで消費税率が事前に変わる、所有権を侵害するようなことも、レジ袋の有料化も、国会を通さずに官僚の裁量で実施されることは、まったく民主主義国家ではないことをやっている。

江戸幕府による「倹約令」のごとく、なのである。

だから、哀れな国民は自己防衛として、26年度エアコンを駆け込みで買うのである。

ようは、日本政府は幕府化していて、「皇室典範」をあっさり変えることも含めると、徳川幕府よりもはるかに強大な権力を発揮しているのである。

さてそれで、どんなエアコンが自宅に最適なのか?をかんがえるとき、消費者が自分でメーカーごとの機種の特徴をつかむ努力をしないとわからない。
これがまた、複雑にできているのである。

これが、お気軽なひとなら量販店の販売員(じつはメーカー毎からの派遣)の口車にのせられる要因だ。

しかし、シンプルな区分けをする方法がある。
それが、「除湿方式」による分類だ。
基本的に2種類しかないからである。

・弱冷房除湿
・再熱除湿

前者は除湿を冷房運転のマイルドさだけでおこなうもので、後者は冷房運転をして除湿をするが、冷たくなった空気を再加熱して部屋に送るので、梅雨時などそんなに気温が高くない時期の室内を冷やしすぎない特徴がある。

これを、「エアコン研究所」さんがわかりやすい動画にしている。

けれども、「再熱除湿」の機種には、無用な「フィルター自動清掃」機能がついているきらいがあるために、プロ職人による内部清掃依頼では本機能なしの機種との比較で費用が1万円程度高額になる難がある。

逆に、エアコンは数年に一度、できれば2年に一度ぐらいの頻度で、プロに内部清掃を依頼する必要がある家電である。
残念ながら、室内機内部のカビやほこりを自動でクリアにする機能は存在しないために、プロによる清掃は必須だし、同時に室外機の清掃で運転能力も維持できるようになる。

「フィルター自動清掃機能」が、本格的清掃作業の妨げになって、手間賃が余計にかかるのである。

それゆえに、この無駄機能がないさらなる絞り込みの手間がかかるのである。

結論を書けば、「再熱除湿」で「フィルター自動清掃機能なし」の両方を満たす機種は全メーカー比較で「ない」という驚くべき統一された結果となる。

わが家では、エアコンは「クーラー」としてしか使わないので、ほんとうは「冷房専用機」がほしい。
暖房にはガスファンヒーターを使うからだ。

しかし、現行の機種で、「買い」の選択肢にはいる冷房専用機は存在しない。

このあたりの中途半端な商品構造も、まさか経産省の行政指導やらで工業会にちょっかいをだしていないか?と疑うのは、マーケティングをきちんとやればどこかのメーカーがかならず気づいて何らかの製品を市場に出すだろうからだ。

この点で、わが国は自由経済ではない、可能性がある。

つまるところ、統制経済、なのだとかんがえると、つじつまが合うのである。
そうやって、政府はあらゆる方法をもちいて、国民経済を破壊し、ついには共産主義・全体主義のディストピアを現実化させたいのでは?と下種の勘繰りをするのである。

それで、工業会は「除湿機」を別途購入させたいとかんがえているのだろうか?とおもえて、情けなくなるのである。

スーパーの中学生出禁

14日、岩手県奥州市の『いわて生協コープアテルイ』で、10日から中学生のみの入店禁止措置をしたとニュースになっている。

さて困ったことに、わたしは岩手県へは数度しか訪問経験がないために、この広大な県内で「奥州市」がどこにあるのか?の見当がつかない。
それで、マップで検索したら、平泉町内の「中尊寺」からわずかに北からが奥州市であることをしった。

県都の盛岡はここからずっと北にある。

症状として、どうしてこの地で「発症」したのか?はしらないが、わが国の一律的官僚主義による「公立中学校」をかんがえると、おそらく特段の地域差はないとかんがえられるので、全国的な展開がふつうになるのではないか?

また、「父兄」とはいわず、「保護者」となったおとなの責任放棄についても、中央集権による全国的なことだろうから、やっぱり地域差があるとはかんがえにくいのである。

当然だが、警察も教育委員会も同様で、岩手県警やらが特別に問題あるとはいえない。

そんなわけで、店側の苦渋も特段の地域差があるともいえないのである。
きちんと、法的な検討をしたうえでの「措置」であろう。

すると、この破滅的な行為を集団でやっていた心理はなにか?が気になるのだが、むかしからある、成長期の若いエネルギーの発散、とすると、もっとも便利な場所すなわち本件では当該スーパーがたまたまの「現場」となったのではないか?と疑うのである。

しかも、あたりまえだが「休日」のご乱行なのである。
つまり、平日は学校へ行っている、ということだ。

この「真面目さ」が、なんだかあたらしい。

むかしなら、「不良グループ」という仲間での行動で、たまに学校に顔を出すが、誰かの家やどこかにしけ込んで自由行動を謳歌していたものだが、どうやら今回は「不特定多数」という特徴があるために、いまどき普及があたりまえの防犯カメラでさえも「個人が特定できない」ことが、結果的に連帯責任となったのだとおもわれる。

ようは、ふつうに登校している子供たちが、休日になると豹変する、という事象なのである。

この処置がどこまで有効か?と問えば、当該スーパーには来なくなるだけ、だといえるので、近隣に別の場所をみつければ、そこでまた「出禁」をくらうことになるのだろう。
念のために、公式に「出禁」を宣言したスーパーは、彼らが敷地に内に入ったことだけを理由に、「不法侵入」での対抗策を発動できるのである。

ここで興味深いのは、外部から侵入をはかるネズミを特殊な音波で追い返す、という手法の不思議な有効性と、中学生たちの共通はあるのか?という点だ。

ネズミの場合、「縄張り」があるので、このやり方をブロック単位のビルやらで採用した場合に、その近隣では一定以上の過密状態になることでの「総数減」という生存のための調整現象がおきるのである。

「中学生たち」がはたして個々の「縄張り」をもっていたのか?は、記事からではわからないから、数学の「集合」としての表現でいえばかなりあやふやなのである。
つまり、いきなり個人の特定が困難だということの前に、「グループ行動」としてどう分析していたのか?の議論が記事にないのである。

もしも、他校やら他グループとの仲間意識による「縄張り」があったなら、ネズミのような生存競争による敗者は、他地域に行くしかなくなるか、別の遊び方を考案するのだろうか?

なんだか『ウエスト・サイド・ストーリー』のようなのである。

すると、どうやって彼らの余ったエネルギーを消費させるのか?となる。
体育の授業に2012年から「ダンス」が必修採用された本質はこれだとおもうが、地域差があるとしたら「ダンスによる消耗」が薄いのか?と気になるのである。

休日に、ダンスをどこで練習させるのか?は、おとながかんがえることである。

「居酒屋」経営の難易度

インバウンドの増大とSNSの日常化が同時におきて、外から日本文化をみる外国人観光客の風景から、彼らの内なる感情が露わになってきて、それがおおむね「日本絶賛」となっていることに日本人が気づきはじめた。

ほんとうはこのような現象は、信長から秀吉の時代にやってきた伴天連も、幕末から明治のはじめにやってきた外交官たちやまだ珍しかった旅行者も、しっかり書き残しているのだが、日本人一般がいちいちこうした記録を読まないためにあまりしられていないだけでなく、時代が古くて、いまの日本を褒めているのか?の自信がなかったことも影響しているだろう。

その自信喪失の原因に、敗戦とその後の征服が影響しているのは当然である。

だから、これまた日本人一般が意識しない植民地を征服者が訪問して絶賛している交錯に違和感を覚えることもある。
ところが、その征服者のはずのインバウンドが、じつは母国での強烈な身分社会における中流以下が主流なのだとしると、妙な説得力をもつのである。

日本を訪問するインバウンドに、いわゆる「セルブ層」はほぼいない。

「日本観光」の要は、「サイトシーイング」としての歴史的建造物たる神社仏閣の見物が主流となろうが、おおくのインバウンドが驚愕しているのは「そこ」ではなくて、日本人の「日常」におけるあらゆるモノとサービスの品質(クオリティ)が、母国のそれと比較して「高すぎる」ことにあるようだ。

たとえば、「洗浄機能つき便座」への絶賛はよくしられたことであり、輸出も記録的だというが、あんがいと母国で不評なのは、外国では水道の水がたいがい「硬水」なので、噴射ノズルがミネラル成分によって目詰まりしてしまうことにある。

ために、訪日外国人でもとくにやや長期滞在の女性が気づくのが、髪や肌のつやがでてくることだという。
日本の「軟水」が、決定的によい影響を与えるので、母国に帰ってからの悪い変化にも気づいてしまうのである。

だが、むかしから旅の楽しみといえば、ご当地での「飲食」であろう。

そこで、大注目されているのが、「居酒屋」なのである。
彼らの発信で、「居酒屋」を母国語で表現する単語がみつからず「IZAKAYA」といっていることに気づくと、日本人としてはエミール・ゾラの傑作『居酒屋:原題L’Assommoir(ラ・ソモワール)』とはなにか?が気になる。

ようは、「レストランとバーの中間的な飲食店」のことを日本人はイメージするが、身分社会の下層民が集う、つまり、ゾラがいう「居酒屋」とは、わが国のそれとはぜんぜんちがう貧相で下品な店をさすのである。

それはまた、『レ・ミゼラブル』の「宿屋」も同様で、江戸幕府の五街道整備における「旅籠」の安全性とは異次元の悪党が営むことの「ふつう」と通じている。
しかして、当時のヨーロッパ身分社会における下層民の絶望的な生活感=不道徳が、じつは現在の左翼たちに保存されているのではないか?と疑うのである。

そんなわけで、日本でいう「居酒屋」形態の飲食店は彼らの母国に存在しない。

日本の現代的な「居酒屋」にリスペクトする外国人は、日本独自の飲食店形態として1000年の歴史を引き合いにするのである。

よって、いきなり母国で開業することはできない、とも自己分析している。

なぜなら、中間層以下の多数は、より野人にちかい生活習慣のために、節操もなく「入りびたる」ことと、22時を超える店舗滞在の外における街の治安を考慮すると、いかにも危険だから、というのである。

これはこれで、自動車の運転手に酒を提供してはならない、という発想と似て非なるものではるが、遅い時間に街中にでて帰宅することの危険性は、まったく暗いアフリカのジャングルを丸腰で歩くようなものであろう。

たしかに、19世紀のパリの下層社会を描いたゾラの『居酒屋』とは、日本的には戦後の混乱期にあったような、「カストリ酒場」のイメージをいうし、そこで安くてアルコールが強い酒に溺れるひとたちの絶望が渦巻く現場、という意味で、現代日本の居酒屋とは別物であろうけれども、わずか半世紀ほど前にはその辺に存在していた共通がある。

とはいえ、インバウンドが驚愕しているのは半世紀前のそれではなく、現代的な方であって、料理のレベルとアルコール飲料のレベルばかりか、街の治安の安全性がこれを支えていることも、ぜんぶセットの一括りなのである。

しかして、客層として日本人がいまだ主流の居酒屋が街の王道であるのだが、アルバイトに依存することの難易度は、常連の扱い、という点でかなり高い。
週に決まった曜日が出勤だと、客がその裏スケジュールの来店パターンであれば、アルバイトからしたら「新顔」にみえるのだ。

これはこれで、客側も緊張する。

そこで重要なヒントとして、キープボトルの存在に早目に気づいてもらえるようにしているが、最初の一杯たるビールの注文では、まったく新顔・新規客の扱いをうけるのである。
これを、どうするのか?が、店主の力量となるが、厨房配置や店の構造上、料理作りに忙しい店主に依存するのは酷である。

ところが、アルバイトのひとによっては、たとえ常連だと気づいても接客態度に変化がないことがある。
これはこれで、パーソナルな資質とするのが従来の常識だろうが、そうはいかないのは客の立場である。

ときに、昨今では、中華系の居酒屋もふえてきている。

中華系の中華料理屋というのも変ないい方だが、和食化した町中華でもオーナー一家が中華系の場合がある。
その繁盛店の共通は、やはり「女将」の接客と気の利かせ方が、日本人的あるいはそれ以上のウエットさがあるのである。

これもたまたまかもしれないが、わたしが好んで通う店の中華系女将は、わたしの顔を見るなりキープボトルを探しだし氷の準備をはじめるのである。

それが、中華料理屋だろうが焼き鳥居酒屋だろうが、である。

こういう店が好きなのである。

つまるところ、やる気=モチベーション、の問題なのであるが、これを現代的日本人の若者アルバイト(出勤は週1や2程度であるとして)にどうやって訓練するのか?は、いかに自店が選ばれ続けるのか?という経営上の究極的命題の解決法として重大である。

一方で、学生アルバイトとはなにか?をかんがえたばあい、単なる「非正規雇用」という意味ではなくて、社会の実践的な教育現場、として捉えれば、カネを得るという目的だけでは物足りないのだと本人がおもうひつようがある。

学び、としてカネを得ながら得る別の価値の方が高い、というものの見方である。

これを誰が教えるのか?
ついぞ、学校で教えているとは聞いたことがないし、いまどきの親はどうなのか?

インバウンドがいう、日本の軟水やらの価値とか、夜間でも安心して居酒屋にいられる治安・安全の価値とかはあっても、この点が欠けている。
それに気づいた中華系の女将を、これまた「高度マネジメント職」というべきかは、順番の問題である。

気づき、という最初をどこで得るのか?が、あたかも偶然に依存しているからである。


困った!AfDの連立相手が左翼

「極右」というレッテル貼りが、世界マスコミの標準=デファクトスタンダードになっているけれど、困ったことに、極左政党から分裂した新興左翼政党がAfD政権樹立(州首相誕生)に協力すると正式発表して、「極右」表記がつかえなくなっている。

連邦制のドイツでは、アメリカとちがって「州知事」ではなく、「州首相」を州議会(一院制)の議員から選出する。
それで、各州の首相と重要な大臣職にあるひとたちが、そのまま連邦議会参議院(上院)議員となるのである。

また、ドイツの連邦議会参議院には、日本やアメリカとちがって、大きな権限がある。
それが、連邦衆議院(下院)の議決に関する拒否権の行使で、これが発動されたら「廃案」となるから、ひじょうに強い権限をもっている。

なぜかといえば、ドイツの歴史の複雑さ(貴族による細かな領地の統治実績)からの知恵だからだ。

ドイツの地は貴族の血縁(政略結婚の繰りかえし)による「血の平和」のために、天下分け目の合戦もなかったのでわが国における徳川家に匹敵する超大大名が存在せず、しかも、ローマ教会からも離れたプロテスタントゆえに、宗教的な権威の集中もなかった。

分断の長い歴史から、いまもしっかり分断されていて、連邦政府の役割は日本のような「中央集権」までとはなっていない。
ようは、「州」がいつでも分離できるような状態のために、「民意」のはずの連邦下院議会よりもっと住民生活に近い「州の統治」の延長が重要視されている、ということだ。

フランスでは、マクロン政権の内閣が崩壊を繰り返したが、そのたびに、マリーヌ・ル・ペンの国民連合を抜きにする「左翼の野合」でパッチワーク内閣を成立させてきた。
AfD排除のために、左派が連合しようにも議席数で同数になって、過半数がとれないために、新興左翼政党が初の5議席をとったことの「ゆくえ」に注目が集まった。

しかして、あろうことか、極左から別れた5議席がAfD支持を表明したのである。

一方、13日投開票のスエーデン総選挙(一院制)では、移民(国籍取得した)票によって政権交代が起きることとなったので、ドイツとは真逆の模様がうまれた。

これは、 アンゲラ・メルケル元ドイツ首相が告白した、有権者の輸入、の成功事例となる。

かんたんにいえば、国家が溶けて流れ出したのである。

いまや、スエーデンの「原住民」となったひとたちは、少数民族としての保護的な権利を要求するに留まる状況となった、といえるが、はたして移民が支える政府は、これまでの「左派」がいう少数派の権利保護を主張し続けるかどうか?さえわからない。

これが、思想と主張の乖離、である。

つまり、「主張」は、たんなる政治的なパフォーマンスにすぎないのであった。

それでもって、沖縄県知事得選挙でも異変がおきて、二期続いた左派政権が接戦にもならず倒されたが、どうやら左派の応援団がかえってマイナスになったと評判なのである。
たとえば、蓮舫や辻元清美らの過激な主張が、有権者にパフォーマンスにすぎないと見破られてしまったようなのである。

ここでも、模様が変化した。

世界は、「まだら模様」に変化している。

名言「文化はコレクションじゃない」

例によって、突如降臨したユーチューブの話である。

主はフランス人さんで、日本人女性との国際結婚。
日本国籍のまだ幼い娘さんに対する「教育論」が降ってきたのである。

むろん、個人の家庭でのことだから、他人があれこれいう話ではないが、なんだか「フランス人的」な内容が気になったので書いておく。

どこが「フランス人的」だとおもったのか?といえば、その文化論の本質的な点である。
たとえば、レヴィ=ストロースを彷彿とさせるのである。

ご本人は、日本文化に惚れ込んだフラン人であり、日本に住み続ける覚悟をもっての結婚だから、フランス語を話さない日本人女性との間に授かった子供には、日本人として育ってほしい、という強い自覚があるのだ。

しかし、一方で、家族の絆としての自分、つまり父方はフランス人なのだから、それを断ち切るというかんがえはない。
母親が日本語で話しかけているのに対して、自分は必ずフランス語で話しかける。

それで、本人が成人の暁に、父方を訪ねてフランスに渡ることも意識しているけれども、「日本人」として渡仏してほしいと願っているのである。

こういうのを、健全なナショナリズムという。

しかしながら、社会の根本基盤単位である家族を解体したい、と願ってやまない社会主義・共産主義=全体主義では、あらゆる屁理屈を駆使してでも実現をはかるので、むかしはちゃんと「危険思想」として区別したいたのに、これが崩されたのもこれらのひとちによる政治活動成果なのである。

自分は除いてすべて「唯物」なので、何年かけてもしつこく活動するのが特性だ。

そのために、多数の人間の心に「スキ」をみつけると、そこに集中的に攻撃・宣伝を実施して、徐々に、しかし確実に破壊する。
つまり、「(社会の)破壊活動」とは、常時おこなわれているのだが、「自由」の建前はこれに弱く、禁じることが緩くなるのである。

まったく、悪魔的な『笑ゥせぇるすまん』以上の悪魔なのである。

「文化」をたくさん身につけることが、あたかも「優位」だとかんがえることは、母国文化の意味をしらないか軽視するかからでてくる発想である。
逆に、母国文化の広さと深さをしらないようして育てると、容易に軽視できる人間となるから、企画者はまったく悪魔同様に意図をもって教育の方向を定めるのである。

GHQの申し子たる自民党と社会党が「やらせ八百長」で教育界を支配した80年で、まったく設計図どおりとなったのである。

だから、冒頭の日本をこよなく愛してくれているフランス人のいい分は、過大評価、にみえるのである。
だが、フランス革命以来「(社会主義)先進国」のフランスでは、日本よりももっと古くから家族破壊がすすんでいて、目も当てられない惨状、なのだといいたいのだろう。

ドイツでAfDが優勢になってきて、既存の左派政党のほとんどが「AfD禁止」をあからさまな要求するまでパニック化している。

そこで、かつて2004年にも2010年にも「多文化主義は完全に失敗した」といっていたアンゲラ・メルケル元首相は、「人道主義」に転換して大量移民の流入をとめなかった。
AfDの大勝利の選挙後であるつい最近、選挙権を得た移民がAfDなどに投票せず、自党が永遠に有利になることを意図していた、と語り出したのである。

ようは、民主党バイデン政権(オバマ政権の延長)がやった、国境破壊の論理とまったくおなじであることに注意がいる。

このひとは、2021年に「2014年のミンスク合意は、ウクライナがロシアとの戦争をはじめる準備のための時間稼ぎだった」とオランド元フランス大統領と揃って自慢したのである。

まんまとプーチンをはめることに成功した、と。

しかして、何度も書くが、オランドはフランス革命に冒されたままの頭脳で、メルケルは旧東ドイツ社会主義の素直な申し子なゆえの勉強エリートなのである。
その愛弟子が、EUの女帝ウルズラ・ゲルトルート・フォン・デア・ライエンなる共産主義=全体主義者だ。

そんなわけで、本稿冒頭のフランス人はすくなくともこの部類ではない。

ときに、日本文化とはなにか?に即答できる日本人がほとんどいないのは、あまりにも広く深いために、説明が難しいからだ。

なんとなくわかっているので日本人をやっていけるが、そのなんとなく、が薄まると、自分が何者なのか?が不明になってしまうのである。

スシローが放つ「チップ文化」破壊

3日、フード&ライフカンパニーズは、10月にニューヨークに傘下の「スシロー」をアメリカ進出第1号店として開業すると発表した。

この発表に沸くニューヨーカーたちの話題に、「チップ不要に歓声」という記事がまぎれている。

飲食店などでの「チップ」は、欧米の文化として定着しているが、近年その批判も高まってきている。
それは、「セルフ」あるいは「ほとんどセルフ」なのに、堂々とチップを要求されるばかりか、自動精算機で料率を強制選択させられる高機能会計機が普及していることもおおいに影響しているからである。

ようは、利用客はチップ支払いを拒否できない。

トランプ政権2.0の選挙公約で、連邦チップ税の廃止、を実行に移したが、それはチップを受け取る側への減税であって、そもそもチップの意義そのものが問われているのである。

わが国で販売価格に革命をもたらしたのは、江戸日本橋の三井越後屋(現三越)が掲げた「現金掛け値なし=定価販売」であったことは小学校の授業で習う。

それまでは、客は気に入った商品価格についての値段交渉をするのがふつうだったので、掛け値なしの安さばかりか、時間と精神的な負担の軽減で大ヒットした。

いまではディスカウント販売がふつうになったばかりか、専門が細かくなったので、定価販売でなんでもござれの「百貨店」が廃れてしまっている。

江戸期にも、宿場の宿では「枕ゼニ」の文化、すなわち「心づけ」としての「チップ制度」はわが国にもあった。
これが、昭和のバブル頃にも残っていたものだ。

しかし、高度成長の東京オリンピックを契機として、大手ホテルが率先してチップ制から「サービス料金制」へと移行したのである。

これは、施設の大型化で、大量採用した従業員個人が得るチップの職場管理が困難となり、従業員間のトラブルにまで発展したことも要因になっている。

しかも、会社は、「サービス料売り上げ」として計上することで、いったんとはいえ、名目上も実質上も、「会社のもの」としたのである。

それで、各従業員には勤務評価としての「再配分」をしているとした。
しかし、この問題は奥が深く、接客現場に関与しない間接部門の従業員給与にも反映される「平等」のために、そもそも論をいえば現場の不満はくすぶったままなのである。

よって、なるたけ会社は話題にしたくない。

こうした日本の事情はさておいて、今回のスシローによる「チップなし宣言」は、アメリカ社会に何をもたらすのか?注目したい。

それには、従来、どのようにしてサービス担当従業員にチップが渡っているのか?と、会社がどこまで関与しているのか?の双方に波紋を生むからで、この点で利用客が負担するチップがなくなる、という単純さではないからである。

つまり、まずはスシローニューヨーク店に就職希望する現地人は、チップ収入をはなから期待できないことが採用条件となることからはじまる。

これをスシロー経営側は、どのように説明し納得を得て雇用するのか?となって、現地の飲食サービス業事業者はしっかり観察していることだろう。

ましてや、現在のニューヨーク市およびニューヨーク州は、民主党政権下にあるので、いかなる行政からの(社会主義・共産主義的)介入があるのか?も予想できない。

こうしたリスクを、フード&ライフカンパニーズはどのようにかんがえているのかも気になるところである。

さては上のような各種問題を突破したとき、アメリカに「チップ不要文化」が形成されることとなり、それは巨大な文化破壊となって世界を覆うことだろう。

イコールアース図法と地球儀

4日、「国連の決議」という怪しさに注意がいる中で、世界地図表記法が、これまでのメルカトル図法からイコールアース図法に変更されることになった。

アメリカが唯一反対する中、わが国は賛成(164カ国)したという。
ちなみに、棄権は6カ国であった。

球体である「地球」を、平面の「地図」にしようとすると、それぞれの特徴からさまざまな「図法」が考案されてきた。

それでもって、「学校教育が変わる」という議論があるらしい。

端的にいえば、教室に大きな「地球儀」を置けばいいのである。

むかし、小学校に入るお祝いに、誰だかに「地球儀」をもらった。
バレーボールほどの大きさだったので、小さめではあるがこれを眺めているのは楽しかった。

しかし、軸が固定されていたので、南半球をみるには台を無視して転がすようにしないといけない難点があった。

なぜか当時のデパートの「おもちゃ売り場」にさまざまな地球儀があって、月とセットになっているタイプもあったのを記憶している。
それで、月と地球の関係も、月の裏側が見えないこともわかったものだったけれども壊れやすい感じがしておねだりはしなかった。

家の建て替え時にこの地球儀を処分の対象にしてしまったのが、いまさらに悔やまれる。

最新のハイテク地球儀は、一家に一つあると便利だろうに、購入のきっかけがないのである。

しかして、いま、「デジタル地球儀」なるアプリがある。

パソコンやタブレットで使えるから、やっぱり国連は怪しいのだ。
しかも、いまの学校は、子供に一台ずつの端末貸与まであるから、何をいまさら「イコールアース図法」なのか?さっぱりわからない。

だが、面積表示がメルカトル図法よりも実際に近くなるので、「日本は極東の小さな島国である」という恣意的な教育はできなくなるし、排他的経済水域も領海に含めると、わが国は世界6位の面積となる「海洋大国」だとしれてしまうのである。

だから、領土、領海をいかにして防衛するのか?という問題がすぐさま出てくるようになるのは、「ふつうの国」として十分意味のある教育となる。

また、「海洋資源」という観点からは、漁業だけでなく海底の鉱物資源についての知識も重要な教育課題となろう。

これらが総合的にわかる地球儀はまだ見たことがない。

その点で、教材企業には重要な商品開発のチャンスとなろう。

なので、子供には地球儀を見せてから各種の地図を参考にさせることが、おとなの務めとなるのであった。

地方が中央を刺す

現代の世界潮流として、地方選挙の結果が中央政府の転覆原因となっていることがある。

盤石な議席を確保し、PSYCHO-PASSの典型であった英国の労働党スターマー政権さえ、地方選挙における大敗北に耐えられなかった。
けれども、PSYCHO-PASSな組織である労働党は、懲りずにもっと過激な人物を首相に据えたから、いったん放出されたマグマが再び煮えくり返っていることだろう。

これよりはやく、2023年、オランダで最長だったルッテ政権(マスコミは「保守」と書く)を倒したのも、やっぱり地方選挙における与党敗北からのことだった。

英国には「保守党」があるが、この国の近代史では、「福祉国家建設競争」という愚策で、労働党と保守党が先を争って、両党がその社会主義性を保守していることが、現代の衰退の原因だとまだ気づかない。

ドイツで6日に決定的な敗北を喫したメルツ(連邦政府)首相は、これまた懲りずに「抜本的な改革が必要」と発言し、AfD排除=抜本的な改革、という、これまた民意をぜんぜん読めないPSYCHO-PASSの自滅をやっている。

もしも、ほんとうにメルツ政権が基本法第21条の発動を裁判所に要請したばあい、ドイツ人たちは蜂起するかもしれない愚策である。

それでか、かの極左マスコミの代表格たるニューヨークタイムズ紙すら、「AfDへの(排除)攻撃は逆効果だ」と主張しはじめて、「極右」なる誤表記もやめるべきだとの論陣をはりだした。

これはこれで、正解、ではある。

だが、愚かなメルツは、20日にある、ベルリン州とメクレンブルク・フォアポンメルン州でのダブル選挙を控えるなかで、有権者に怒りの爆弾を投げてしまった。
なにせ、今回連邦政府与党が大敗北したザクセン・アンハルト州議会選挙の投票率は、統一後初の「高さ」たる、8割弱を記録したのである。

ようは、無党派層が動いた、結果なのである。

この投票率の高さを左翼マスコミは書かない。
「民意」だとしれるのを恐れていることの「編集方針」なのだろう。

それでも過半数に3議席足りないAfDは、政権樹立のためにどうするのか?となっているが、はじめて5議席を得た新興政党が、来月招集の初議会で「AfD首相任命に投じる」と発表し、もはや初のAfD政権誕生が確実となった。

これが、20日の選挙に影響しないわけがない。

わが国では8日、なんだかわからない「中道改革連合」が自滅した。
この一連の騒動の隠れた原因に、政党幹部たちの独りよがり的な、つまり、PSYCHO-PASSな世論を理解できない独善があったといえるだろう。

かつての政権党からの没落を、マスコミが「野党第一党」だとおだてて支えたのも、国民向けのプロパガンダのはずが、政治家へのプロパガンダとなった。

なんだか、メルツ的なのである。

奇しくも、いま、わが国おける地方選挙として、沖縄県知事選がおこなわれている。
そして、来年の春には二期にわたる「統一地方選挙」があるので、これらはまったく、世界規模の「今様」なのである。

むろん、あと二ヶ月ない、アメリカの中間選挙が、さらなるショックを世界に与えることは確実なのである。

ときに、アメリカの大統領選挙も中間選挙も、じつは、大規模な地方選挙だともいえる。
ふつうの国の首相に相当する州知事ばかりか、両院制の州議会選挙だけでなく、もっと小さな自治体の選挙も同時にあるから、あまりの選ぶべき種類のおおさに、有権者は投票に20分ほども要するのである。

わが国のように、数枚の投票(数分で)をすれば済む、というレベルではない。

ために、トランプ氏は「推薦状」を大量にだしているばかりか、「X」にも細かく投稿して、国会ばかりか地方候補の当選を促している。

いったん流動化をはじめた流れを、そうはかんたんに止められない。

物理、だからである。