一玉3000円の白菜

報道の一致した理由説明によると、「天候不順」が白菜価格を爆上げしているという。

ほんとうだろうか?

過去、わたしの記憶で一玉800円に驚愕したことがある(たしか「ハナマサ」だった)ので、さいきん近所のスーパーの生鮮野菜コーナーでみかけた「3000円」には、さすがに目を疑った。

一部の記事には、あっさりと「運送費その他の費用増も影響」とかとあって、天候不順だけで3000円になっているのではないと示唆している「良心的な」ものもある。

誰もが、日本は島国だと認識しているが、では「島国の特性」とはなにか?と全員が意識してかんがえているわけではない。
それに、なんとなく「海が防御している」と、学校で習うことが擦り込まれている。

「元寇」も、「鎖国」もしっかり習うが、外へ出ていった神功皇后の「三韓征伐」やら「白村江の戦い」は古すぎて、秀吉の「朝鮮出兵」も珍しいことになっている。
つまり、これらはあたかも「防護柵」に守られていることの逆だから、現代日本人には馴染まないのである。

旧帝国陸海軍の作戦地域は、西は紅海から、東は南太平洋の島嶼にまで及んだので、当時のひとたちの頭の地図には、相当に詳細な国際地図があったのである。
いまの排他的経済水域の国際ルールで、わが国は世界第6位の面積がある、巨大な国になったのに、その地図が頭にないし、まだ「小さな島国」だと思いこまされている。

それが「経済」になったとき、国内産業を保護するために、みえないあたかも「ダム」のような防護柵を設けて、「内外価格差」を生み出した。
外国の価格が安くて、国内の価格が高いのも、産業優先策のなかで国民は容認し、そのまま習慣化して、とうとう誰も気づかなくなったのである。

日本人の海外渡航が自由化されたのは、1964年(昭和39)年4月のことだから、ちょうど今年で60年の還暦となる。
とはいっても、まだ1ドル=360円の「超円安」だったから、外国に好きに出かけて買い物を楽しむなんてことはだれにもできなかった。

それでも、国によっては、「同じモノの値段がちがう」ことがバレだした。
リカードがいう「価格差:価値の落差」こそが、貿易による利益の源泉だから、安い地域で買って、高い地域に持ち込んで売れば、運送料やらを差し引いても儲かるなら、だれでも富を得ることができるのである。

これを自由かつ民間にやらせずに、国家がやるのを「管理貿易」といって、継続すると「国栄えて民滅ぶ」ことになっているのは、自然の「法則」だからだ。

もっとも近い「外国」は、沖縄だった(返還されたのは、1972年(昭和47年)5月15日)から、それまで沖縄土産といえば、「スコッチウイスキー」だったのである。
「酒税」のちがいが、「ダム」の役割をしていたからである。

さてそれで、金の高騰がとまらない。

2000年の「1000円/g/年平均」を底にして、いまは約13000円にならんとしている。

これは、単純比で13倍になったのだが、年率に換算(24(年)√13(倍))すると、年率で約11%の上昇ということになってそれこそ大変な勢いだとわかるのである。
このところの円ドル相場が、ざっと1ドル100円から、1ドル150円になったのも含めて、金でもドルでも、一方的に円の価値が下がっているとこないだも指摘したことの繰り返しである。

それが、「白菜」の価格でも現れている、とかんがえれば、800円から3000円になったのさえも、「緩く(マイルドに)」感じるのである。

何度も書くが、金(Gold)自体は価値を生まない、ただ歴史的に貴重と認められている金属ある。
一方で、インフレとは、通貨価値の下落をいう。
これは、モノに対して通貨の方がたくさんあることで発生する。

だから、中央銀行はインフレを抑え込むために金利を上げて、市中にあるおカネ(通貨)を中央銀行に吸い上げて、モノの量とおカネの量とを均衡(合致)させようとするのだ。

アメリカもヨーロッパも、大量のおカネを市中に出した(たとえば、ウクライナ支援とか)ので、金利を上げてインフレに対応しようとしている。
日銀も、ずっと続いていた「異次元の金融緩和(おカネの無制限な供給)」をやめて、やっとこさそろそろ「金利を上げようかなぁ」、という状況になっている。

しかし、もう、たくさんあり過ぎるおカネ(=吸い上げが間に合わない)で、石油も天然ガスも価格が上昇しているのがぜんぜん止まらないのである。
ほんとうは、石油がガスが値上がりしているのではなくて、先進各国のおカネの価値が減っているだけなのである。

これに加えて、産油国(=概ね天然ガス産出国でもある)は、こないだ天寿をまっとうしたキッシンジャーがニクソン政権でやった「ペトロダラー(石油の決済はドルに限定する密約)」からの脱却を意識して、とうとう人民元やらインドルピーでの決済も認めるようになった。

「脱炭素」は無意味だが、「脱ドル」には意味がある。

困ったアメリカは、瀕死でもなんでもかまわない岸田首相を、「国賓」待遇して、世界に大量に出回るドルの裏付け(無額面小切手帳の裏書き)を約束させたのである。

つまり、わが国は文字どおりの「ATM(無限小切手の保証人)」にさせられた。

しかして、ドルを支えるために円を大量に市中に出さないといけなくなって、国民に国債を買わせる(国民の富を収奪する)ために、NISAを「やれ」といっているのである。
そんなはずはない、わたしはNISAで国債なんか買っていない、と個人がいっても、カネを集めた金融機関は、結局、日本国債を日銀から買うしかないのである。

そんなわけで、わが国はかつてない、忘却した敗戦後の600%のインフレかそれ以上の通貨崩壊の大津波がやってくる可能性がでてきている。

円は元の「360円」に戻されるのではないか?
しかし、いまどきそんな超円安になっても、かつてのような「世界の工場」に逆戻りできないで、国内の工場はとっくに人口が減るというのに大型マンションになっているのである。

一億総乞食化が、自公政権のなれの果てになるかもしれないが、対抗する野党はどこにも存在しないことこそが日本の悲劇なのである。

その原因たる最大の悲劇は、国民がこうした危機意識をぜんぜんもっておらず、安穏と暮らしていることだ。

東京都の食料自給率は、たったの「2%」だという意味すら、阿呆ばかりの都民には理解できないから、3000円の白菜なら買わないでキャベツでよい、とだけ思っている。

だからこそ、都知事のウソにも無頓着でいられるのである。

だがしかし、都心が廃墟・スラム化するときが間もなくやってくるかもしれない。
すでに先進のカリフォルニアやニューヨーク、あるいはロンドンがそうなりつつあるから、けっして空想ではない。

そのとき、自慢の治安も阿鼻叫喚な状態になっているにちがいない。

ジャンルとしての「ノーブラ散歩」

ちょっと「H(エッチ)」な話題である。

さいきんでは、「叡智」とも書いて「H」の代用をするという、あたらしい隠語もできたらしい。
なるほど、「叡智か!」ともおもわせるが、そもそも「H(エッチ)」といったのは、「変態の『へ』」のローマ字表現をもって、「変態」といわないで済ますいい方だった。

ようは、「ローマ字」という、平仮名、片仮名につぐ第三の日本語表音文字の、あたかも英語とはちがうけど、なにやら意味深ないい方が妙な略語として流行ったのである。

嚆矢は、「NHK」だとおもっている。

日本放送協会を、だれが「NHK]といいだしたのか?
それでも、日本相撲協会をだれも「NSK」とはいわない。

もはやふつうになった、「K・Y(空気読めない)」も、外国人には通じない純粋日本語表現である。
なので、いまの若者用語としてのこの手のローマ字系略語の多用には、還暦過ぎのわたしにはついぞついて行けなくなっている。

YouTubeをいろいろ探索していたら、自撮りで「ノーブラ散歩」をやっているひとがたくさんいることに気がついた。
彼女らは、タイトルのトップに「【ノーブラ散歩】」と記載している共通もある。

なので、こうした「ジャンル」を、本人たちも意識しているのがわかるのである。
それと、これまた共通の概念として、ノーブラは「ファッションである」という主張もある。

また、なにも日本だけの現象ではなく、「Bra Less」というタイトルは世界共通のようで、もしやあたらしい「女性運動」なのかもしれない。

その意味は、いわゆる「LGBTQ」に対抗した、「おんならしさ」を強調することでの、自己の存在をアピールしないといけないほどに、追いつめられた精神が生じているのだろうか?

この逆に、「おとこらしさ」のアピールがある。
これには、昨年にアメリカで起きた、「バドライト不買運動」も影響しているのだろう。

アメリカ最大のビール・シェアを誇る、バドワイザーの「バドライト」が、広告にトランスジェンダー俳優を起用したら、これまでの荒っぽい男性が好むイメージが崩壊して、なんと圧倒的シェア1位の座からあっという間に転落してしまったのである。

ビール市場におけるシェアの逆転は、めったに起きることではないために、「保守的」の典型と世界から岩盤評価されていた日本で起きた、キリンラガー・アサヒスパードライの逆転については、あのハーバード・ビジネススクールにおける、伝説的な「ケース・スタディ」としても有名になったものだった。

これで日本国内ビールメーカーは全社、横並びの「ドライ」にシフトをみせて、各社の伝統的なブランドが次々と連鎖反応的に崩壊したのである。
わたしは日本でいう、「ドライな味」という、ウソのようにコクも深みもない味気ないビールを好まない。

そんなピルスナー界ではなくて、エールに分類される、ベルギービールの最高峰『オルバル』をもって、「ドライ」というのである。

さてバドライトの事例は、株主資本主義によって選任された、ポリコレ(左翼思想)の経営者が、よかれとしてやったことの完全なる裏目となる「ケース・スタディ」になるが、もはや左翼に牛耳られているハーバード大学やその他の有名校で、「教材」として扱われるかどうかは不明である。

あまりの売上減少に、さしもの左翼経営者もあわてて「(おとこらしさの)元に戻す」という安易をやったから、かえって火に油を注ぐ事態となったのである。

それでも、「顧客感情を無視したポリコレの押し付けによる失敗」のわかりやすい「事例」になるには、もう少しの時間がかかりそうである。
それがまた、こうしたポリコレの押しつけ(強制)に、世界的反発の政治運動を起こしているから、いったいなにがしたかったのか?

むかしは、タバコのCMで、チャールズ・ブロンソンが「マールボロ」の専属だった。
西部の牧場で、荒っぽいカウボーイが苛酷な仕事の合間に一服する、というのが定番だった。
なので、女性がマールボロを手にしていると、妙な違和感があったものである。

これは、日本の「ハイライト」にもいえて、職場の大先輩たる女性がハイライトをカートンで購入しているのを珍しくみていたのをおもいだす。
それでも、女性が「ショート・ホープ」をくわえているのは一度ぐらいしかみたことがない。

さてそれで、ノーブラ散歩では、しっかり乳首が目立つようなニット系とかの服装を選んで散歩するのを自撮りするのが定番なので、撮影現場までの道中もこの格好なら、結構な目線を受けるはずである。

一歩まちがうと「露出狂」になるのだけれども、男性のTシャツからみえる乳首とどこがちがうものか?という前提があるのなら、なるほど今様の価値観の表れなのだろう。

たしかに、女性の豊満な胸に、「豊穣」を重ねて崇拝してきた民族も多数ある。
なので、隠すものではなく逆に自慢げに晒すものだった。

この意味で、晒す寸前で止めていることに、恥辱はないという発想もあるやにちがいない。
いわゆる、「寸止め」だ。

わが国では、伝統的な和服のばあい、女性は下半身用の下着を着けることがなかったけれど、「舶来品」としての、また、「見せパン」としてのズロースが流行りだすにはあんがいと時間を要している。

「白木屋の火災」でパンツが普及した、というのも井上章一が『パンツが見える』で証明したように、デマである。

そんな事情から、女子高生が見せパンならぬ、ミニに工夫した征服のスカートに学校指定のジャージをはくのも、防衛本能が強化されているからなのかもしれない。

しかして、YouTubeというSNSメディアは、視聴回数によって収入となる仕組みがあるので、ノーブラ散歩とは「動くグラビア」を個人事業としてやっている、という側面もある。

かんたんにいえば、「稼ぎ」のため、である。

すると、今後は「プロ」との間での熾烈な競争が発生する可能性がある。
しかしながら、「部位」における競争なので、プロとアマの境界が曖昧で、しかも、収入がある状態なのはもう「セミ・プロ」同然なので、場合によってはより激烈になるとも予想できる。

めざといファッション界は、そのうち「乳首だけだす」ようなものを、パリやらのオートクチュールで発表すれば、これに左翼の「セレブ」が食いついて、あたたくなった気候に乗じて、通常のファッションに変容することだってあるのだ。

だったら、温暖化バンザイではないか?と、おとこらしいひとたちは大喜びするのだろう。

アメリカの選挙で、「中絶」が一大関心事となっているのは、家庭の崩壊やレイプの横行による望まぬ妊娠に対応している政治テーマであるからだ。
だから民主党は目先の中絶容認を叫び、共和党は家庭の崩壊を食い止め、レイプを凶悪犯として処罰することに重点をおいて、中絶をなるべくしないとしているのである。

そうやって見ると、「Bra Less」を推進する民主党は、レイプを誘うことも意図した、「マッチポンプ」をやっていないか?
「理性」を重視してきた西洋社会が、自ら理性を失い男を挑発するかの行動を「よきこと」とするのは、女性の解放だとでもいいたいのか?

わたしが暮らした80年代のエジプトで、ノースリーブにショートパンツ姿のアメリカ人の娘が、白昼の路上で数人に輪姦されるという事件があった。

被害女性からの訴えに、イスラム裁判所は、女性が挑発して男性たちの理性を崩壊させた罪で懲役刑を下し、アメリカ大使が猛抗議したところ、国民の反米感情が高まる事態にもなったこと記憶している。

女性があからさまに肌を出すことを「ふしだら」だとする常識が、サウジよりもよほど開放的だった当時のエジプトでもふつうにあったのである。

「ジェンダー平等」という変な教育が、変な効果を社会にもたらしていることだけは、どうやら確からしいのである。

「このようにしてローマは滅んだ」とおなじ社会の廃頽が、現代文明を終わらせようとしていて、それにわが国も「感染」したといえるのである。

柿渋染の最終購入

関東人で、「京都府木津川市」と聞いて、地図が思い浮かぶひとはかなりの関西通であろう。

京都府最南にして、東に隣接するのは奈良市である。
いわゆる「山城国」で、北東にはお茶で有名な和束町があり、南には名刹の浄瑠璃寺や岩船寺がある。

高校の現代国語の教科書に、堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』というエッセイがあって、修学旅行の際には、グループ自由行動で実際に訪ねたが、宿の京都三条から公共交通機関と徒歩とでは、ほとんど一日がかりであった。

やっとたどり着いて庭を散策した後に入った本堂では、たまたまか日常なのか不明だが、住職による「九体阿弥陀仏」の楽しい解説を聞いていたら、仲間が「バスがなくなる!」と叫ぶや、慌てて飛び出したことを覚えている。

「(話の盛り上がりは)ここからやのにどうなすった?」と聞かれ、「すみません、最終バスがなくなると帰れません」と答えるや、「どこまで帰るん?」「京都です」「あっ、それなら急ぎや、またいつか来るんやで」「はいきっと来ます」が最後の会話であった。

時計は確か、まだ陽が高い午後3時台であったか4時台のはじめであったかと記憶している。
こんな時間で「最終」なのが、まったくわからなかったが、再訪したのはそれから20年ほど後のことで、その二度目以来いまだに三度目はない。

一生に一回と、やっぱり文学がらみで『城崎にて』の城崎温泉の旅については、シリーズで書いた。

この帰り、丹波から一気に京都市内を南に抜けて、さらにたまたま木津川市を東に抜けて伊賀を目指したことがある。
どうしてこのコースにしたかは、土地勘がない中での適当なコースどりであったことは間違いない。

通過するだけであっても、なるべくマイナーな地域の雰囲気を味わいたかったからである。

それでももう一つちょっとした理由があって、たまたま東京の秋葉原から御徒町へ抜けるのに、JR線のガード下にある「日本デパート」を散策していたときに見つけた、「柿渋グッズ」(このとき購入したのは「枕カバー」)の製造元が木津川市にあるからだった。

わざわざ柿渋を採取するための専用種たる「渋柿」の栽培から自家でおこなっていて、そのクオリティが素晴らしく、洗濯せずとも何年使っても「匂わない」という驚きがあるのだ。

それで、高価だがシーツを思い切って購入しようと、久々にHPを検索したら、全商品が「売り切れ」になっている。
嫌な予感がしてダメ元で直接電話をしてみたら、先月末で「無期限休業(事実上の廃業)」したという。

もう最終処分のセールも終了し、電話の相手も今週の金曜日(本日)で退職して、店は無人になるというのだった。

念のために購入した「枕カバー」の逸話もしたら、売れ残っている商品がまだ少しあるとのことで、内容を聞くと、シーツに代用できそうな布があり、また、マスクなら数があるという。

説明では、シーツだと染め上げて商品にするのに、なんと3年から5年かけて何度も繰り返して染めては乾かして、さらに寝かせていることを初めて聞いた。
後継者が絶えたのは、今の3倍以上の価格設定にしないと手間賃が出ないことにあるという。

これを90歳越えの3代目ご主人が柿渋染の魅力を伝えるために、一人で作業をしていたが、もう体力的に限界になったということだった。

この店の商品の特徴である、「深い色」は、ご主人の献身的かつ完璧主義があってのことで、他店ではもっと染めが薄いのをもって商品としているのは、一種当然なのである。

つまり、こんな深い色の柿渋染は、この最終在庫をもっておそらく二度と手に入ることはない、ウルトラ希少品になってしまっているのである。

もしも後継者が再開するとしても、商品になるまでに3年から5年かかるため、「次回」手に入るとしてもざっと10年後とかとなって、そのときの価格は想像できない。

染めに入る前に、柿の栽培も再開しないといけないが、渋柿も実をつけるまで時間がかかり、なお、植えたうちの何割かほどしか育たない「効率の悪さ」だというのは、「桃栗三年柿八年」のとおりらしい。

それゆえに、柿畑は、予備の木の栽培のために、収穫量の数倍の面積も要する。

そんなわけで、処分品であれなんであれ買わずにはいられなくなって、ご退職・完全閉店前に滑り込み注文することにした。

翌日、届いてみたら「おまけ」に、「柿渋液」をいただいた。
こちらは、親類の方がやっている商品なので今後も手に入るという。
ご親戚は、柿渋液専門で、手間だけかかる染め物は販売していない。

もう自分で染めるしかない、というわけだ。

木綿のTシャツなら、半年は染めては乾かすことを繰り返し、さらに半年ほど畳んで「寝かせる」と出来上がるという。
今から仕込んでも、着ることができるのは来年だ。

ただし、柿渋液には独特の匂いがあるので、乾かすときにご近所には気をつかうことになるとかで、できれば戸建ての家の庭先が望ましいらしい。

できあがれば染め物自体にも匂いはなく、汗をかいても匂わない強烈な消臭力は、雑菌を繁殖させない強烈な殺菌力があるからで、さらに柿のタンニンは生地の繊維自体を強化もする。

大型の染め物となる、シーツやらともなれば、桶の中で足で何度も踏んでやらないと、繊維の奥に染み込まないというから、集合住宅住まいには不可能な作業だ。

それでもなんだか、いろいろと小物の染めに挑戦してみたくなった。

辞職理由は「リニア」の不可思議

政治家のいうことがほとんど信用できないことになったので、本稿タイトルのこの言葉も、にわかに信じがたい。

もちろん、わたしは川勝氏を評価するものではないと、前にも書いている。
残念ながら、経済学者としてもイマイチ・イマサンなのである。

どうせ「狂信的」というのなら、せめてアルゼンチンの大統領のように熱を入れてほしいのだが、なんだか煮えきらないのである。

ただし、川勝県政は15年も続いていて、選挙のたびに静岡県民は対抗馬をいつも30万票以上の差で落選させている。
残念だが、わが神奈川県も似た状態なのである。

世間(神奈川県知事がその代表的な浅はかという意味で)が、リニアの工事妨害をしている迷惑だとか、外国とのつながりがあるとかと、およそ県知事に対する批判ではなく単なる誹謗中傷に聞こえることも、ビジネス保守は垂れ流すので厄介なのである。

このブログでは、一貫してリニア不要説を書いてきた。

川勝氏とは逆に、リニアを欲しがっているのが、上の神奈川県知事、山梨県知事、愛知県知事という、ポンコツ知事群だから、おいそれとこのひとたちの「必要論」に乗ると、将来に大禍根を残す、という警戒感があるのだ。

だから、静岡県知事のいう「大井川の水脈問題」だけで、この人の応援をしてきたともいえる。
その他の業績やらに興味がないのは、わたしが神奈川県民民にして横浜市民だからである。

神奈川県や横浜市にはいいたいことがありすぎて、どこから話せばいいのかに途方に暮れるが、念のため、知事や市長だけでなく、議会の体たらくをとくに指摘したいのである。

わたしは狩猟をしないが、クレー射撃でもっぱら皿を割っている。
その射撃仲間に多数の「狩人」がいて、ほぼ狩猟禁止地区ばかりの地元神奈川の丹沢には行かず、伊豆半島や山梨県の山に獲物を求めている。

このひとたちが口を揃えてハッキリと、リニアのトンネル工事による「周辺猟場の水源枯渇」があって、野生動物がそのエリアから絶えたことを確認している。

一頭も、一匹も、一羽もいなくなった、と。

いちど枯渇して、工事が終了してよしんば水場が復活したとしても、二度と戻ってはこないのが「野生」の本能なのだという。
それに、強烈な「磁場」が、野生動物を遠ざけるのである。

また枯渇したら、命にかかわるからであるし、磁場を関知する動物たちの「自然」な感覚が狂うのである。

これが山に幸を求める者たちの、証言なのである。

ところが、口では「SDGs」とか「多様性」とか、「持続可能性」とかをいう、上の3ポンコツ知事たちは、こんな「猟場の異変」についての情報を、みごとに無視する全体主義を貫くのである。

「狩猟の許可証」は、その猟場がある県知事が発行するものだから、しらない、とはいわせない。
当然に、地元議員の耳にも入っているはずだけど、なんだかリニアが最優先で、箝口令を敷かれるのだろうか?

きっと、「空気」が議員の口も封じているにちがいない。

しかして、猟場以外でもリニアによって沿線の地元にどんな影響があるか?とか、設置する「駅周辺」の生活環境がどう変化するか?についての念のための研究がなく、ただ開通さえすれば地元が繁栄するものだという、予定調和説だけがこのポンコツたちの心情なのである。

大袈裟ではなく、このような予定調和説だけのポンコツたちが、先の大戦の「真珠湾奇襲」をやったのパターンなのである。
しかも、当の海軍は、なぜか陸軍とちがって、だれひとり「戦犯」にならなかった不思議もあるのだ。

つまるところ、リニアによるなんらかの悪い結果が現れたときにも、これらのポンコツ知事たちが責任を問われない、のが、わが国における恐ろしいほどの構造がある。

いわば、川勝氏はひとりでこの予定調和説が支配する恐怖の「構造」に対抗していた「はず」ではあるが、退任の言葉にはこうしたことをわかりやすく県民に説明するのにひと言もなかったから、まったくもって残念な御仁なのである。

まさか、マッカーサーのごとく、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と気取ったのか?

大阪万博もしかり、で、日本人は敗戦から80年経っても、発想の構造がぜんぜん変わっていない。
一生懸命「目先」の目標(建設)さえやれば、あとはうまく行く(はず)。
こうやって、いかほどの人々が戦地で亡くなり、民間人が焼き殺されたのか?

口で「反省」するだけの「猿回しの猿」同様に、まったく反省などしていないのである。
つまり、50年先か100年先かしらないが、いつかはリニアも「遺跡」になる。
このときとは、どんなときなのか?も一切想定しないのは、過去の「敗戦」ならぬ「廃線」すらかえりみない思考構造によるのである。

川勝氏の意思を継ぐ候補ではなくて、おそらく「リシア推進派」が邪悪なマスコミの協力を得るのだろうが、静岡県民の選択を注視してみたい。

アメリカ雇用統計の怪

インフレを嫌って、徹底的な通貨防衛をやる政策選択と、失業を嫌って、徹底的な雇用創出政策をやる選択とが、国の歴史と国民性とによって分かれている。

とにかくインフレを嫌っているのが、マルクの崩壊(1兆分の1になった)を経験したドイツなので、いまだにドイツ政府はヨーロッパ最悪の経済状況でも、政府が予算の大盤振る舞いをすることはない。

わが国も、第二次大戦後のインフレ(600分の1になった)を経験し、「預金封鎖と強制的な新円切替」を経験しているが、すっかり忘却の彼方になって、産業構造転換のための労働争議(たとえば、炭鉱の閉鎖)をふくめた失業対策に重点が移って久しいのである。

これが、政府に依存する体制構築を許し、国民の共通した発想となっていまにいたっている。

今年になって、そんな最悪状態のドイツにGDPで抜かれたのだから、日本経済の衰退の方がよほど慢性症状として深刻なのであるけれど、国民のおおくは政府依存症から脱しようとすることもできない重度の中毒症に陥ってなお、自覚もしていないのである。

だから、これからウクライナが落ち着いたらドイツには有利になるけど、ヨーロッパ(EU)にアメリカからの独立を促進させるはずのトランプ政権が復活したら、より一層、自由に活動できるドイツに有利になるはずである。

ただし、ドイツのネックは、わが国も「しかり」だが、中国経済(製造)依存の復活測度が緩いという点に尽きる。

そんなわけで、こないだの3月に発表された2月のアメリカの雇用統計が、妙に「快調」な変な数字が気になるのである。

それは、バイデン政権「なのに」、アメリカ経済は力強い、と評価する向きがあって、株価が上昇し、日本の株価も活況を呈する状態になったと、一部で解されていることと連動している。

しかし、中身をよくみると妙なことが分かる。

雇用人数は増えているのに、失業率は横ばいで、企業のサービス分野(主たる要因は「人件費」)負担(=「賃金:時給」)は減っているのである。

これは、「雇用統計」と一口でいっても、「企業」と「家計」のふたつの視点からのデータをあわせたものをいうから起きるとかんがえられる。

詳細データがないから断定はだれにもできないが、疑わしきは「不法移民の大量入国」による、「効果」だ。
これなら、バイデン政権「なのに」の、「なのに」の意味がみえてくる。

すると、アメリカは第二の奴隷制を実行していることになる。
残念ながら、なんでもアメリカ民主党のいいなりになったわが国政府も、ソックリ真似て、わが国がかつて経験したことがない、「奴隷制」の導入を図っている。

「なのに」、わが国は「道義国家」だという噴飯を政府与党は臆面もなく宣伝している。

これが、口先では「多様性」といいながら、それを強制するひとたちの多様性のなさを表しているので、気がついたアメリカの黒人団体が民主党を「人種差別主義政党」だといってトランプ派への乗り替え支持表明につながっているのである。

日本ではNHKが、こんなことも国民に伝えないので、トランプ氏が人種差別主義者だと信じて嫌っている、かわいそうなひとたちが多数いる。
しかし、こうしたひとがたくさんになっているのは、わたしには迷惑なのである。

そんなトランプ氏が、100人あまりの資金集めの会合を開いて、史上最高の76億円を一晩で集めたと評判になっている。
先週には、ニューヨークでクリントン、オバマ、バイデンの3大統領が5000人を集めて開いた大会では、有名ミュージシャンも登場したが、このときの史上最大額は38億円だった。

一週間で記録を倍額にしているのである。

なお、この大会の最中に、トランプ氏はニューヨーク市警の殉職した警官の葬儀に参列していたのだった。

さて、不法移民の大量入国で、合法移民たちが失業してしまうのが社会問題になっていて、合法移民たちがこぞってトランプ氏支持に回っているのも、この雇用統計の読み方、なのである。

毎日がエイプリルフール

4月1日が、「エイプリルフール」なのは、諸説あるけれど、イギリスやフランスが発祥というから、「お里がしれる」風習だということはわかる。

日本には大正時代に伝わったという説があり、大正デモクラシーとの関連がありそうである。

いわゆる、吉野作造が唱えた、「民本主義」のことで、いまようなら明治憲法(主権者は天皇)に対抗した「民主化運動」と解されているけど、そんなもんだったのか?と、わたしは疑っている。

幕府がなくなって、政体が大変化して半世紀しか経っていない時期なのだ。
いかに寿命が短かったとはいえ、徳川時代のことを覚えている「古老」たちは、あちこちにいたはずだ。

よくよくみると、幕府の腐敗もあったろうけど、薩長閥の横暴よりは「まだまし」とみるひとたちが、あんがいと多数いたのではないか?
それは、日露戦争後の日比谷焼打事件が、とうとう戒厳令の発令になったごとく、そもそも日本人は荒っぽかったとはいえ、さほどに強権的な「開発独裁」型の政府だった。

つまりは、作用と反作用の関係に似ていて、作用が強力であればあるほど、反作用も強力になるのは、社会現象も同様なのだ。

さて、ことしの4月1日から一週間ほどが経過して、さまざまな媒体に掲載された、記事を装った「ウソ記事」がみえてきたので、念のため書いておく。

まずは、わたしが尊敬している渡辺惣樹氏がアップした、「フォーブスジャパン」の記事は、少しの読解力を要するものだが、同日のもうひとつの記事を読み込むには、ちょっとした予備知識もさながらに、このブログでは定番の『ニキータ伝』さんのYouTube番組を観て、ロシア側からの目線をしらないと理解が難しいかもしれない。

だが、わが国からだけでも兆円単位の援助をしてきたウクライナが、なぜに砲弾が足りないのか?とか、いまごろ大砲を修理しているとは、なんのこっちゃ?なのである。

むしろハマスの指導者が自慢げに語る、武器に事欠かないのは、アフガンに置いてきたこれも兆円単位の米軍装備やら、ウクライナ支援の物資が横流しされて、ブラックマーケットで簡単に購入できるといった話が直接的な関係をもっているのである。

そんななか、『カナダ人ニュース』さんが、1日、スコットランドでの「ヘイト法施行」がまるで、エイプリルフールネタだというのは当然だし、地元カナダのトルドー政権が試みている「思想警察」の法案の驚きは、もう冗談ではすまされない。

ただ、トルドー政権の失政によって、対抗する自由党の支持率がV字回復しているので、このままトルドー政権が突っ走るほどに自由党支持率も上昇すると予想できるので、まだ棄てたものではない。

世界では、毎日がエイプリルフールのような事態が発生しているけれど、あんがいと外国よりも派手さはないが真綿で首を絞められる確実さで、厳しい情勢にあるのがわが国なのである。

日本人の良い点でもあり利用されると最悪なのは、社会の構造がはじめから「自然にある」とかんがえる傾向が大変強い。
だから、「人為のものは、人為で変更できる」とはかんがえない特性があるのだ。

明治憲法も、かつて「不磨の大典」と呼称し、あたかも「バイブル:聖書」のごとく、一文字たりとも変更は許されないとして破滅したが、それが「日本国憲法」にもスライド適用されて現在に至っている。

しかし、歴史的な実行力をほこる岸田政権は、この改悪を目論んでいて、トルドー政権よりも慎重に、かつ、着実にあらゆるソースを活用して現実化しようとしている。

対する国民のほとんどは、今般岸田政権がすすめる憲法改正がなんのことかにも興味がないまでにされてしまったのである。

もちろん、マスコミは御用のために徹底的なプロパガンダを連日連夜流すにちがいないから、毎日がエイプリルフールの日常が5月の連休明けごろからはじまるにちがいないのである。

マイナーな国産プラットフォーム

共産国家としてのわが国だから、なんでも政府が主導的な役割を担うのは当然なのに、デジタル空間における国産プラットフォームがマイナー状態になっている。

もちろん、政府よりも党が上にあるのは、自民党の各部会が各省を管理する体制によってそうさせているのである。

たとえば、「政府税制調査会」の無力は有名で、わが国の税制をコントロールしているのは、「自民党の税調」にほかならない。
この意味で、あの財務省だって無力なのである。

じつは、実力ある支配者は、「大臣」ではなくて、党の「部会長」なのだし、これをまとめる「政調会長」こそが、やばいほどの行政実務を仕切っているのである。

このパターンが、あらゆる分野に「党組織」として及んでいるので、ずさんな組織力しかない野党が太刀打ちできないのである。

ところが、その自民党が外国によってコントロールされているのではないか?という疑惑が、河野太郎氏の活躍で一気に話題になって表面化してきている。

それでも河野氏が悪びれることも落ちぶれることもないのは、あの、世界経済フォーラムを主催するシュワブ氏による「将来のリーダー」に日本代表として選択されているからであろう。

また、つばさの党代表の黒川敦彦氏がいうように、「おじいちゃんの代からCIA~♪」と唄われているように、吉田茂も岸信介も、どちらもコードネーム付きのエージェントだったことは、アメリカ公文書館が機密解除した資料からはっきりして、もはや陰謀論にもならない事実となった。

わが国の戦後をけん引した大宰相といわれている、吉田茂のコードネームは、「POCHI:ポチ」だった。

また、マッカーサーを頂点とするGHQ(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国最高司令官総司令部)も、主に二派に分かれて激しい内部対立をしていたことがわかっている。

ときの政権は、急死したフランクリン・デラノ・ルーズベルト(略して「FDR」)の「4選」任期を引き継いだのが副大統領だったハリー・S・トルーマンで、民主党政権であったから、一派はバリバリの民主党(容共勢力:民生局長のホイットニー少将派)で、もう一派は軍内の共和党支持勢力(第二参謀部長だったウィロビー少将派)であった。

弁護士でもあるホイットニーの少数チームが、日本国憲法草案を一週間ほどで書いたことは有名で、わが国の「国体」が共産化されたのはこの人物と本国とのつながりによるものだとかんがえるのは当然だろう。

なお、マッカーサー自身は共和党から大統領を目指すが、ホイットニーをはびこらせたことをもってしても、いまどきの「軍産複合体:RINO」であったかとおもわれる。

そんなわけで、現代をしるには200年はさかのぼれ、という教訓をして、たったの80年前ほどで、アメリカ民主党の支配体制がわが国に移植されたことがわかるのである。

これで、わが国は通信回線のインフラ整備では先進国的な側面はあるけれど、そこにどんなコンテンツを流すのか?については、決定的に「遅れた」ようになっている。
しかし、「mixi」をよってたかって潰したように、おかしなことが起きて、とうとうGAFA の天下になったのは、そうさせた、という意思を感じるのである。

もちろん韓国製(実態は中国)のLINEしかり、TikTokしかりで、まったく規制するどころか公的機関が率先してこれらの使用をあたかも推奨している。

GAFAの「G]は、グーグルのことだけど、この会社は「広告会社」だ。
検索エンジンでどんな検索をしたのか?やら、YouTubeで、どんな動画を視聴しているのか?の情報を収集して、プログラミングしたアルゴリズムが個別に見合った広告を出すことで、確実な成果をあげていることを、注文のクリック数との相関をわかりやすく広告主に報告しているのである。

こうして、わが国の電通やらが支配してきた広告マーケットが、外国企業の支配下に入っているのは、もう地団駄踏んでも対抗するのは困難で、とうとうできたばかりの本社ビルを売却するまでに落ちぶれて、ニッチな分野に追い込まれている。

もちろんその電通は、岸信介が満州で得た人脈からの話になるので、やっぱりここ100年といった歴史となっていて、岸がCIAのエージェントになったのと、電通がGHQの支配下に入ったのとは、おなじタイミングであったにちがいない。

それでもって、既存の国家警察を廃止させたGHQがこんどは自ら日本統治に困ってつくったのが、東京地検特捜部で、管理者はCIAとしたのである。
これを、日本総督たる駐日アメリカ大使が管理しているのである。

吉田茂(民主党の「ポチ」)の流れをくむ宏池会の岸田政権が、こうして岸信介の直系の旧安倍派を壊滅させた。
安倍晋三氏がなぜに暗殺されたのか?の謎も、この線上にあると「にらむ」のは、素人でもわかるほどの単純さがあるからだ。

河野太郎氏が党広報本部長になったときに書いたが、今回の旧安倍派だけをターゲットにした茶番で、参議院の重鎮議員だった世耕氏が失脚したのも、和歌山における二階氏との確執もあるだろうけど、世耕氏が「プロパガンダ」の専門家であることに注目したいのである。

そんなわけで、わが国に独自のプラットフォームが育たないのは、育てる意思がないからなのである。

花冷えのなか江東区を歩く

5日は冬が戻ってきたような天気で、朝までの雨もあってかどこも人通りがすくなく、めったにない鈴かな「花見散歩」であった。

佃島から月島、越中島と「ウォータ・フロント」を行きながら、「川の街」である江東区を大横川沿いに歩けば木場に出る。
その途中、平久(へいきゅう)川にかかる「平久橋」たもとには、「波除碑」(「津波警告の碑」)がある。

「1791年(寛政三年)に襲来し、多くの死者と行方不明者を出した高潮」を記念している碑だが、この大災害を受けて幕府はこのあたりの土地約1万9千㎡の土地を買い上げて、空き地(居住禁止地区)とした」と説明板にあった。

さり気ない記述であるが、東日本大震災の記憶がある現代人には、「エッ?」と思う。

津波被害による震災復興に、25年間の「復興増税」を全国民で負担している現代、この幕府の対応は、じつに先進的ではないか?

いつまで「空き地」だったのかが書いていないので、そのうち江東区の資料でもみてみたくなった。
いわゆる「ゼロメートル地帯」として、このエリアがさかんに報じられたのは、わたしが子供のころで、『日本沈没』が流行った頃ではなかったか?

橋から見わたすこともできない、住宅街になっている。

それから「横十間川親水公園」を抜けて「仙台堀川」を渡ると、だんだんとインド人街の様相が醸し出される。
江戸川区は、群馬のブラジル街、埼玉川口の中国・クルド人街と並び称されるほどに有名な、新興のインド人街を形成しているのである。

そのため、区内には3箇所の「インド人インターナショナルスクール」がある。
ここでは「インディア インターナショナルスクール イン ジャパン」の新築・ピカピカの校舎がそびえ立ち、対岸の江東区立第二南砂中学校がなんだか貧弱にみえてしまうのである。

生徒たちは男女とも赤いブレザーを着用していて、男子はスラックス、女子はスカートを履いている。
ママチャリを脇に、インド系のお母さんたちが所々で三・四人が井戸端会議をしているのは、いったい何を話しているのか?

なお、この学校は、「ケンブリッジ式」の教育がおこなわているとのことで、あの赤いブレザーが、ロンドンの近衛兵の色かもしれないとおもった。
なにせ、インド系の人物が、英国首相になるご時世だから、かつての苛酷なインド支配も、インド人たちの記憶から薄れているのかもしれない。

そんなわけで、ぜんぜん英国の所業になんの興味も関心もない日本人にも入学が可能だから、「国際」とか、「授業は英語」、「ケンブリッジ」とか、「海外有名校への進学」とか、「国際バカロレア」とかに滅法弱いひとたちは、日本の学校を見下してこのような国際学校が人気なのも頷ける。

ただ、気になるのは、しっかり「文科省指定 認定インターナショナルスクール」となっている余計があることだ。

それに当然だが、「日本語力」をどのように「補完」するのか?という点では、諸刃の剣だという認識をどれほどの日本人の親(あえて「保護者」とはいわない)がかんがえているのか?も気になることではある。

じつは、日本人の定義は、日本に住んでいて日本語を母語としてを話すひと、なので、たとえ日本に暮らしていても、日本語が母語ではないとなれば、もう日本人の定義から外れてしまう。

けれども、いまやグローバル全体主義によって、「日本人であること」の意味を薄めてもよいという風潮ができているから、ただの「記号化」になっていると書いた。

このことが、どんな厄災を日本人にもたらすかは、あと何年かすればわかることだが、元には戻せないのが「移民問題」の「問題」たるゆえんなのである。

そんなわけで、何人であろうが、あるいは、外国にある日本人学校もしかりだが、インターナショナルスクールの本質とは、そこにある国においての「国民性」を、オリジナルとは相容れないと認識するためにあることが前提だということがミソなのである。

つまるところ、インド系であれば、インド人として教育する、という意味である。

こんなことをかんがえながら、まだ7分咲きほどの桜を曇り空の中でボンヤリと見ていたら、見えてきた別の光景なのであった。

これをいまさかんな、「東京15区衆議院議員補欠選挙」での争点にしている候補者は誰なのか?と気にかかったけれど、なんだかなぁの反応しかないだろうと、いわない方が「お得」になっているかもしれない。

司馬遼太郎は国民作家でいいのか?

国民的人気を博する作家とは、国民全体の気分のことを言語化できるひとという意味になって、端的にそれを「国民作家」といっていた。

だから、国民の気分が変化すると、いかに国民作家といわれていても、あたかも北極星が別の星に移るがごとく、国民作家も別の表現者になるのである。

しかし、問題は、国民気分の全体的な一致が、分断や個化(=アトム化)によって、分裂からどんどんと細分化されて、とうとう地域や他人との「つながり」が断ち切られると、国民作家というまとまった象徴としての概念も消滅する。

それが、いまの時代にみられる現象になっている。

ようは、「国民」それ自体の消滅が先にあるので、国民作家も存在しなくなるのである。
それで、国民とは「国籍」だけの記号になった。
こうして、移民との区別をしているにすぎないが、そのうち移民が日本国籍を取得するので、ますます「記号化」が促進されることになっている。

それは、あたかも住所だけの記号になった、「郷土」とおなじで、とっくに「ふるさと納税制度」によって、現住所さえ「郷土」から乖離させられているが、さらにマイナンバーによって単なる数字の羅列に変容することにもなっている。

つまり、記号化の記号を、アナログからデジタル化することで、完璧な「個化=アトム化」が完成し、人間から時間感覚をも奪うことになった。
ここでいう時間感覚とは、時系列のつながり、のことで、先祖や子孫にあたるひとたちを無視して、「個我」としての命のある現世の時間だけを意識するようにされているのである。

『旧約聖書』を聖典としている、ユダヤ・キリスト・イスラムの各宗教が、いわゆる「契約社会」なのは、根本に「唯一神との契約」があるからだけど、「期限」についてのかんがえ方も厳密なのである。

たとえば、結婚式における「死がふたりを分かつまで」という言葉は、婚姻関係の終わりについての契約となっていて、日本の神式における「永遠の契り」という概念とはまったく別のものである。

それゆえ、欧米人の「往復書簡」が、当事者双方の死にあって出版(公開)されるのも、プライバシーも「死」によって保護の対象から外れるからである。
ここでも、日本人の「永遠」という発想とまったく別物なのである。

だから、日本における「欧米化」とは、「永遠」から「個人の死まで」という時間範囲の限定という変化が起きていることが、もっといえば、日本の『旧約聖書化』をいうのである。

そうやってみると、過去の日本的価値観は、もはや風前の灯火となっていることが、あらためてわかる。

わたしは司馬遼太郎のよき読者ではなく、むしろこの作家の書いた欺瞞(体制礼賛)が鼻につくので、国民作家というよりも欧米化を推進した体制応援団の団長としてみている。

それよりも、エンタメに徹底した、池波正太郎の方がよほど深いとかんがえている。

ともするとドラマの脚本家だった、橋田壽賀子の「明治女の記録を伸しておきたかった」と動機を述べた『おしん』の一代記や、花登筐のど根性ものが懐かしい。

もう国民作家は現れないかもしれないが、司馬遼太郎が忘れられていくのは、あんがいと悪いことではない。

ただし、「歴史」そのものが忘れられてしまうのは、民族としての滅亡を意味するのである。

国産旅客機開発!何が経産省を?

三菱重工が「MRJ」でコケて倒産しかけたのは、1兆円の投資にリターンがぜんぜんなかったからだけど、こんどは「複数社でやればいい!」という、より難易度を上げてでもやるというのは、経産省の役人にどんな動機があってやってくるものなのか?

経産省は、『悪霊』かなにかに取り憑かれている?

本稿では、この「悪霊」についての分析を試みたい。

さて、このような具体的事案のかんがえ方の整理には、いったん抽象化することがセオリーとなる。
「具体 ↔︎ 抽象」の相互で何度か思考を行き来すると、だんだんとその本質が見えてくるものなのである。

しかし、ただ抽象的にかんがえるといっても、きっかけとなる手がかりがないと、どこからどうかんがえればよいかがわからない。

そこで、わたしはこんなときには、小室直樹やら山本七平やらの考察を参考にしたくなるのである。

今回は、さいきん復刻された小室直樹の名著(彼の著作は全部が名著)『危機の構造』(初版は、昭和51年:1976年)を底本にして紐解くことにする。

ついでに念のため、「構造」という見方をするのは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を嚆矢としてできた、「構造主義」によるものだ。

さて、『危機の構造』のなかでも、日本社会における「原理」と「構造」を解析しているのが第二章である。

なお、出版時の大問題は、「ロッキード事件」(昭和51年:1976年)で、前総理の田中角栄が逮捕された時期(三木武夫内閣)にあたるのでまずはこの事件を扱いつつ、その前(昭和47年:1972年)に全国民を震撼させた浅間山荘事件を起こした「連合赤軍」という10名ほどのグループの組織に関して「構造解析」を試みるのである。

もちろん、わが国における近代史上最大の問題は、第二次世界大戦の参戦であり、敗戦であるから、戦後の大繁栄の絶頂期に起きた連合赤軍事件と、戦前・戦中の軍についての分析にも余念がなく、当時の軍事官僚と戦後の経済官僚の類似性が、なんと連合赤軍の類似性とともに「三重」になるのである。

そうやって、とうとう、ビジネス・エリートの世界にも、同様の構造を見出すのが、小室直樹をして傑作と名高い本著作の価値である。

ここから、わが国民性が作りだす「組織」の共通した特性があぶり出される(P.41)。

「社会の機能的要請は、多くの機能集団により分担され、しかもこの昨日集団は複雑多様であり、独自のメカニズムで作動するから、機能的紛争の生起は不可避である。しかも、社会全体における機能的要請の達成は、これら多くの機能集団間の分業と協働によりはじめてなされる。ゆえに、機能的紛争を未解決のまま放置すれば、社会過程の進行は阻止され、所期の結果は達成され得ない。」

当然だが、以上から、機能的紛争すなわち職場間などのセクショナリズムに代表される対立が、どんな組織でも、あるいは企業にもみられるのは、機能集団として「日常」であるので、ここに調整のための「組織マネジメント」が必要になるのである。

しかし、わが国では、「組織マネジメント」の方法論すら体系的に教えることを、一部を除いてしていない。
そのメソッドは、戦後米軍から製造業に移植され普及している「MTP(Management Training Program)」である。

小室は、次の3点をもって、おそるべき予定調和説の存在を指摘している(P.45)。

・自分たちこそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。
・この努力は、所与の特定した技術の発揮においてなされる。
・したがって、この所与・特定技術の発揮においてのみ、全身全霊を打ち込めば、その他の事情は自動的にうまくゆき、日本は安泰となる。

続けて、「このような人びとは、分業のパーツとしてみる限り最高の部品(パーツ)である。しかし、ひとたび全体のリーダーとなるや、最悪のリーダーとなる。けだし彼らは、限定された分業の遂行者としての視座しか持ちあわせないため、全体的コンテクストにおいて、すべてのフィードバックを総合することはできないから、リーダーとしては最悪のリーダとなる。」

こんな事情から、「一般的批判拒否症」を発症する。

これはいま国会で流行の、「答弁拒否」という状況になって現れている。
行政府の大臣といえども、国会の場における議員からの質問には、「答弁する義務」があるのは、議員が選挙を通じた「代議士」だからである。

これをどんな了見で拒否しているのか?と問えば、「一般的批判拒否症」を発症しているからだと「診断」できる。

そんなわけで、一般的批判拒否症を発症すると、「各機能集団間のディス・コミュニケーション」となって、結局は、「所期の目的が達成され得ない。」(P.51)ことになるのである。

そんなわけで、「MRJの失敗」があったのに、へんな「エリート官僚」の義務感が「悪霊」のような振る舞いをさせているが、上のメカニズムが作動してかならず失敗するのである。

おそるべし、官僚思考、おそるべし小室直樹!