赤ペンとノートアプリのさまざま

業務用ではなくて、個人用の話である。

個人用でも、遊ぶためではなく、勉強や仕事効率化のためだから、広い意味の業務用でもある。
タブレットPCは何枚か所有していたものの、本物のPCではない不満が原因で、つい「何枚も購入」ということになってしまった。

もとはPCじゃない、という感覚があるので、「安かろう悪かろう」の典型だと認識していた。
もちろん、価格的に別格の「ipad」なるタブレットPCのことはしっていたけど、こちらもついうっかり「ウィンドウズ・タブレット」という別物に手をだしてしまっていた。

昨年は、政府から10万円、おカネがもらえた。
いっそのこと、として買ったのが気になるipadであった。
これでようやく気がついたのは、ipad以外のタブレットPCとは、用途限定の「ゴミ」であることだ。

けれどもipadも種類がたくさんあって、機種選びには困った。
動画編集はしない、という一点で、「pro」ではなくて、「Air」にしたのだけれど、結局、老眼に厳しい画面の大きさから、「12.9インチ」のProを中古で買い増して、2台持ちで使っている。

中古にしたのは、アップルペンシルの第一世代が、双方で使い回しできるからである。
あんがいとこの第一世代が便利なのは、100均にある子ども用のシリコン製鉛筆グリップが書き心地をすこぶる向上させるからで、マグネット式で充電する第二世代では使えないのが最新を選ぶ気のしない原因になっている。

そんなわけで、政府からのおカネだけではぜんぜん足りなかった。
もちろん、「アプリ」にもおカネがかかる。
最近のアプリは、「サブスクリプション」といって、毎月に使用料を引き落とすものがあるから、気軽に購入のタップができない。

「ちりも積もれば」の典型で、あとから困っているひとも多いと聞く。

その意味で、「買取型」は、「良心的」といわれるようになった。
とはいえ、数千円になると、やっぱり躊躇する。
使用を重ねることでの利便性と、目のまえに提示された金額の比較判断が困難だからである。

これが、「経済人」というものだけど、年がら年中「経済人」をやっているわけではない。
それでも経済学徒必読の書といって、むかし読まされたのが、『ロビンソン・クルーソー』(経済人の物語)だった。

 

これは決して子ども用の児童文学ではない。
むしろ、むき出しの損得勘定がさせる行動が原動力の、大英帝国流の理想像なのだ。
無人島での「やるべきこと(いまなら「To-Doリスト」)」を、貸借対照表に転換して優先順位をつける。

ロビンソン・クルーソーが、とっくに身につけていたこれらの手法を、日本を代表する企業の経営者が、ほんとうに無意識レベルでやっているのか?
社長室に座っている時間、これをやらないで「経済人」を演じることが、どうしてできるのか?

ただし、上述のように、人間は24時間連続で「経済人」ではない。
人生の楽しみという個人的な世界のために、理屈では通らないことをする。
これが集まると、「経済学の根底」を揺るがすのである。
だから、生活経済が豊かになると、経済学モデルが陳腐化して、「使えなく」するのだ。

ロビンソン・クルーソーの物語は、意外な展開をみせるから、全部が教科書にはならないけど、その判断も「読んだ上で」だし、その意外性を楽しむのも人生である。

そんなわけで、「読む」という行為は、「書く」ということよりもだんだんと多くなる。
社会的立場がそうさせるのだ。
上位者は、もっぱら部下の報告を読んで判断することがふえることになっている。

すると、若いうちにちゃんと「書ける」訓練をしておかないと、「読む」立場になったとき、うんざりするような文書を読まされるはめになっても、修正指導ができなくなる。
これがどれほどの不効率を組織にもたらすか。

老眼が眼精疲労を惹起させたら、それから書いた人間に八つ当たりもしたくなろう。
つまりは、パワハラの原因になりかねないのだ。

「書く」には、画期的といわれた「アウトライン・プロセッサ」が、ワープロの普及の後にやってきた。
いまでは、もっと詳細な、「マインド・マップ」が重宝されている。
かんがえをまとめる、というまえに、思考の構造図を描くことでより鮮明になるからである。

すると、「読む」には、書き手の思考構造の「解明」をともなうのだ。
だから、略して「読・解」というのである。
そのために、むかしは「赤ペン」をつかったものだ。

ペーパーレスになったいま、やってくるのは「電子文書」である。
なので、これを読解するのには、印刷して赤ペンもいいけど、それよりも端末上で直接読み込みたい。
そこで、書くためでなくて読むためのアプリが重宝する時代になった。

『Flexcil』とか、『Liquid Text』、定番なら、『PDF Expert』や『GoodNotes5』がこれにあたる。

これらを足して割ったアプリが欲しいが、そうはいかない。
この文書なら、どのアプリが適しているのか?を判断するのが、読み手に要求される「作業能力」になったのである。
まちがえると、二度手間、三度手間になる。

赤ペン一本で解決できた時代とは、部下の文書もそれなりに「読めた」のかもしれない。

[追伸]
「書く」のには、ふつうキーボードを使うけど、「手書きキーボード」(買取型490円)を見つけてインストールしたら、これが快適だった。

「バイデン政権」は親日か?

カッコで「政権」と書いたのは、「?」だからである。

与党民主党の動きも変で、無理クリの「弾劾」に時間をつかって、政権の政権たる「閣僚人事」をぜんぜん優先させていない。
間もなく「政権」発足1ヶ月になるにもかかわらず、議会承認(人事は連邦上院)を得たのは、全部で20人以上のうちのたったの6人である。

しかも、弾劾の後、上院は連休に入ってしまった。
閣僚がいないから、バイデン氏は新記録の水準すら超えた数の「大統領令」を濫発しているけれど、実行予定もわからない状況になっている。
それで、とうとう「身内」のはずのマスコミが、「独裁的」と批判を開始している。

アメリカのマスコミには、「100日ルール」という慣習があって、新政権発足後の100日間は、政権批判を控えて見守る、というはずなのに。
しかも、選挙でも見事なエコ贔屓をしてきたのに。
だから、よほど腹に据えかねる事態なのである。

そんななか、突然、韓国に対して、「慰安婦だかなんだかと日本にイチャモンをつけ続けるなら、同盟関係を見直す」と発表した。
これを、わが国の「保守論客」で、「ざまぁ」と歓迎しているひとがいる。
どうしてこうも、単純なのか?と疑うのである。

見た目はあたかも、日本を擁護している風情だが、この「政権」は、まちがいなく大陸の大国に絡め取られているひとたちが運営しているのだ。
しかも、「反日」を国是とする建国をしてしまった「韓国」の現政権は、その国是を強力に推進してきた。

したがって、「もっとイチャモンをつければ、同盟をやめて在韓米軍を引き上げるから、韓国現政権の望みどおり大陸の大国の属国にしてあげます」、といったのだ。
すなわち、東アジアの勢力図が、一気に大陸有利に変更することを認める、というメッセージだ。

この「政権」は、明らかに「親日ではない」ことが判明した。

一方で、わが国の「保守論客」の一部は、前から在韓米軍の引き揚げをいっている。
韓国の現政権に呆れたアメリカの政権が、軍を引き上げたら困るのは韓国だ、という論法である。

これも、「おかしい」。

アメリカの東アジアにおけるプレゼンスを維持するには、日韓という味方をもって、全体主義に対峙する必要があるからだ。
だから、みすみす韓国を、たとえ望みが寝返ることであったとしても、これをぜったいに認めない、とするのがアメリカどころか、わが国にとっても死活的に重要なのだ。

だから、「似非」という単語が浮かぶ。

わが国の防衛ラインが対馬までおりてくるのは、19世紀の明治政府が恐れた以上の不安定を、21世紀のわが国にもたらすのだ。
すると、「日露同盟」という発想が必要になる。

プーチンは、こないだ改正した憲法をもって、領土不変の原則をいいだした。
つまりは、北方領土は返さない、という意味だ。
ならば、わが国としては、ウラル以東のシベリアを「円流通圏」にさせるべく仕向けるチャンスなのである。

国際感覚が鈍かったという大日本帝国でもこの状況なら、さまざまな手段をつかって「闇だろうがなんだろうが」、円を流通させてロシアルーブルを駆逐させたろう。
話がかわって、「デジタル人民元」を警戒するのは、上記の方法の実行を意味するからである。

   

「エスタブリッシュメント」たちのアメリカ民主党は、冷戦の記憶(利権)が忘れられないままでいる、という意味での「保守」だから、嫌いな日本と大嫌いなロシアを同盟させることに躊躇しない。
わが国の対戦相手だって、終始一貫して、アメリカ民主党政権だったのだ。

つまり、アメリカ民主党からすれば、米中戦争が第二次冷戦ではなくて、「米・中同盟」対「日・露・英(印豪)・欧同盟」が次の冷戦になることを意味するのである。

19世紀から20世紀までにできた世界秩序の「大地殻変動」だ。

しかしながら、この「バイデン政権」は、ほんとうに「米軍」を掌握しているのか?という疑問が、ここでもむしかえすのである。

それが、「トランプ氏への異常な怖れ」を原動力とする、政治的優先順位にあらわれている。
大統領のために働く内閣の組閣より、離任したはずの前大統領を「免職する」弾劾を最優先させる理由はなんだ?

まったくの論理矛盾が矛盾にならないのは、トランプ氏の「政治的抹殺」が目的だからである。

しかし、米軍はどうしているのか?
「バイデン政権」と、「軍政」が併存しているかもしれない。
これは、法治と民主主義の常識なら「あり得ない」ことだ。
しかし、その法治と民主主義を破壊したのが、民主党だ。

「無罪」となった、トランプ氏は活動を開始した。
2月第三月曜日は、初代大統領ワシントンの誕生日で、「大統領の日」という祝日である。

同日、フロリダの沿道に集まった支持者たちが、トランプ氏に「わたしの大統領」と叫んでいる姿が動画になっている。
これを、たとえば『ニューズウィーク日本語版』(2月16日)は、苦々しく「現役然として」と伝えているのが印象的だ。

不思議なのは、「現役」と変わらない車種による車列(警備)が維持されている一方で、「現役」のはずのひとが乗るへこんだ車列と、シークレットサービス?のコートの下のジーンズ姿が、「おかしな」ことなのである。
警備の常識として、警護対象者がスーツ着用なら警備もスーツを、ラフな姿ならそれに合わせて、カムフラージュをするものだ。

やっぱり「変」なのだ。

コロナ・バブルの株式市場

【1000本記念】

失業がふえて、よくなる兆しはどこにもないのに、株価だけは値上がりして、30年ぶりに3万円を超えている。
世の中の、コロナ禍にあってのことだから、きっと、「コロナ・バブル」というにちがいない。

いわゆる、「ファンダメンタルズ」でいいところがないのに、株価だけが上昇しているのだ。

バブル経済とは、実体経済と虚業の経済が分離して、離ればなれになることをいう。
このことを、むずかしく「乖離する」というと、なんだか格好がつくから不思議である。

かんたんにいえば、あまったおカネの行き先が、たまたま「株式」ということで、知る人ぞ知る「ビットコイン」も、すごい値上がりをしているのだって、おなじ理屈の「カネあまり」だ。

もとのおカネは、各国政府が中央銀行に印刷させたおカネである。
わが国だって、ずっと「金融緩和」という用語をつかって、お札を大量に印刷してきた。
ところが、街にある銀行が新規の貸し出しをしないから、銀行にお札の需要がない。

それで仕方がないので、日銀が国内の株式を買いだして、いまや日本の上場株式の3割も日本銀行が保有しているから、これぞ正真正銘の「国家資本主義」が完成した。
日本銀行こそが、わが国企業の「大株主」なのである。

こんなことをしても株の値上がりがなかったけど、なんだか突然買われはじめた。
先月は、こっそり日銀が「金(ゴールド)」をこれまで保有した1割にあたる量を一気に買い増した。

それでも、金の相場が値上がりしなかったのは、どういうわけか?
巷では「陰謀論」として、金本位制への回帰をうわさする向きもある。
そんなことになったら、紙幣が紙切れにならないか?
そうさせないための、日銀の金保有(保証)だというひともいる。

ようは、よくわからない、のである。

世の中にはガセネタが蔓延しているからである。
たとえば、第二次安倍内閣が発足してすぐに発表された、「アベノミクス」(大規模金融緩和)で、さっそくに株式相場が値上がりし、円ドル相場も円安になった、というガセがあった。

月次資料をみれば、内閣が発足前に、とっくに相場は動いていたのだ。
とくに円相場は、欧州の売りが原因で、日本政府の政策とは関係ない。
なぜなら、ギリシャなどとの「ユーロ安定」のためという、あちらの一方的事情が原因だったからである。

ところが、そんな「事実」を無視して、「アベノミクスの効果」だといえば、群集心理もはたらいて「景気がよくなる」という図式をとった言論人が大半だった。
「結果よければすべてよし」というわけである。

しかし、そんなに「うまい」ことはないから、ぜんぜん「結果よければ」にはならなかった。
そうやって、こんどは「矢が足りない」という、他人まかせ、政府依存をいいだして自分たちの「うそ」を隠そうとしたのである。

さすれば、政府の役人も政治家たちも、「予算を膨らませる」という、もっとも「おいしい」手段を正当化できるから、民主党政権時代の「巨額予算」をあっさり超えても、だれも文句をいうものはいなかった。
こうして、100兆円予算が「ふつう」になったし、新記録の大型予算を組むことが内閣の看板になったのである。

しかしながら、こんな大それた金額を、どうやって使うのか?
「国土強靱化」をしたいけど、左翼さまたちが、コンクリート(従来型の公共事業)はいけないことにしたから、地球環境というありもしない「問題」に飛びついた。

そうやって、国費を「脱炭素」という意味不明に浪費している。

いま、普通科高校でどんな授業がおこなわれているのかしらないけれど、「化学」や「生物」の授業は、はたして成立しているのだろうか?
これら教師がおしえる内容と、政府が目指す内容とが合致しないことぐらい、気の利いた高校生なら気づくはずである。

すると、一方を立てれば一方が立たない。
このバカバカしさに気づいたら、アホらしくて勉強する気を失うか、とにかく余計なことは気にせずに、教科書を暗記して受験に立ち向かえばよいと割り切るかしか、選択の余地がないところに追いこまれている。

心ある教職員は、この点で、「反政府」になるだろう。

まことに気の毒なことを、10代の若者たちに強いているのが、無責任極まりないおとなたちだから、どうにもこうにも、世の中が乱れるのである。
文部科学省という役所のトップ(大臣ではなく事務次官)が、違法の天下り斡旋でクビになったら、なんと、悪所通いの常習で、若い女性の「貧困調査員」をしていたと自慢までしたのだった。

世の中の大半は炭素(有機物)でできている。
人間をふくむ動物だって植物だってなんだって、みんな炭素で組成されているし、摂取する「栄養」もぜんぶ炭素だ。
それで、脱炭素とは何事か?

「質量保存の法則」を習った意味を忘れろと政府はいっている。

さらに「生物」で習う、細胞分裂における遺伝子(DNA)のコピーを担当する、「メッセンジャーRNA」の働きを「阻害する薬」のことを、「ワクチン」といいだした。
ターゲットにする病原体のRNA「だけ」を阻害するものか?とかんがえたら、女子高校生が「打ちたくない」という当然のこたえをだしている。

政府があわてて、子どもへの接種は慎重にといいだしたのは、小国民の成長を阻害するおそれではなくて、責任をとらされるおそれが優先事項だからである。

こうして、それはそれ、これはこれ、という二重規範(ダブル・スタンダード)が常識になれば、どんなに不況で、自殺者が増えようが株価は上がるのである。
そして、儲けたひとを「勝ち組」というけれど、はたして個人投資家が機関投資家に勝てるものか?

何の事はない、資本主義の終わりでも矛盾でもなんでもなくて、ただの社会主義者の体制派による、一般人からの「収奪」なのである。
もともとが「ディストピア」な話を、理想的という意味の「ユートピア」だというのは、『ユートピア』を読んだことがないからいえるのだ。

だから彼らは嘘つきではない。
詐欺師なのである。

「株屋は株屋」とむかしからいわれるゆえんがここにある。
アメリカでは、「GAME STOP株」で、個人投資家が機関投資家を攻める行動をしたら、株屋がインチキをやって「事件」になった。

ほらね。

停電の回復を役所が発表する

被災者の皆さまには心からお見舞い申し上げます。

わが家でも、久しぶりの「大きな揺れ」であった。
横浜のわが家は停電はしなかったけれど、千葉県と神奈川県でそれなりの停電があったのはなぜだろう?

さらに、震源地とその周辺の停電も、復旧について経産省が発表する「怪奇」がある。
「電力自由化」が詭弁であることをいまさらいう必要もないけど、役所が情報をとりまとめる「サービス」にだれも疑問がないことが「怪奇」なのだ。

緊急時なのだから情報が一本化されるのは正しい、というひともいるだろうけど、それが、「政府依存」であり「全体主義への脇の甘さ」をつくる。
ならば、どうして「電気事業連合会」のとりまとめではなくて、経産省なのか?

情報を一本化しているのが経産省なのではなくて、電力会社のオーナーを「気取っている」のが経産省なのである。
株式を保有している意味の「オーナー」ではなくて、訳もなく会社を「支配」している、これしかない。

電力会社は民間企業を偽装した、実質国営企業なのだ。

この構造は、国鉄と運輸省(当時)の関係に似ている。
国鉄もはじめは「鉄道省」という役所の運営事業だったから、採用における身分差があった。
いわゆる「キャリア」だ。

それで、赤字が膨らんでどうにもならなくなっていた時期に、「キャリア」入社の若者にどうして入社したのかを質問するマスコミ報道があった。
でも、彼らは入社してすぐに、運輸省の命令で動いていることに気がついて、運輸省にはいった同級生たちから一生下に見られることが理解できたろう。

そうなれば、「お山の大将」になるしかないから、「社内」で下の身分で入ったひとたちを見下さないと、精神の安定が保てない。
これが、「国鉄労働争議」の遠因ではないかと疑うのである。
おそろしく大きな組織なのに、組織を動かす手法が、「役所」なのだ。

たぶん、「JR」になっても、根本は変わらないとおもわれる。
なぜなら、元からあるDNAがそうだし、民営化したからといって組織論を根底から見直した話を聞かないからで、その意味ではあたらしいDNAを取りこんだ気配がない。

しかしながら、以上は過去か現在のはなしである。
おそるべきは、日本政府:内閣府が掲げる「ムーンショット計画」だ。
まさに、『1984年』の姿を政府が目指すと、臆面もなく堂々と発表されている。

目指す社会(内閣府のHPにある)
・人の能力拡張により、若者から高齢者までを含む様々な年齢や背景、価値観を持つ人々が多様なライフスタイルを追求できる社会を実現する。

・サイバネティック・アバターの活用によってネットワークを介した国際的なコラボレーションを可能にするためのプラットフォームを開発し、様々な企業、組織及び個人が参加した新しいビジネスを実現する。

・空間と時間の制約を超えて、企業と労働者をつなぐ新しい産業を創出する。

・プラットフォームで収集された生活データに基づく新しい知識集約型産業やそれをベースとした新興企業を創出する。

・人の能力拡張技術とAIロボット技術の調和の取れた活用により、通信遅延等にも対応できる様々なサービス(宇宙空間での作業)が創出される。

狂気すら感じるのだ。

これらすべてを、「政府」が用意するという発想は、完全に全体主義である。
電力会社による「停電の回復」を、政府がとりまとめる、ということの延長が「これ」だ。

目標時期は、2050年までに、とある。

すなわち、猛烈な金額「研究開発費」と、スピード「研究開発構想」で、国民にはみえない場所で、ブルドーザーのような強引さを持って推進している、のである。

ほんとうの恐るべきは、上記5点を読んで、なにも感じないか、なんだか「よさげな未来」を感じるひとたちの、「読解力の欠如」なのである。

そのために、読解力のない国民をつくる必要がある。

これが、いわゆる「教育問題」なのであって、「問題」はずっと前からあるけれど、いっこうに「解く」ひとがいない、理由だ。
そして、この問題を解く「べき」が、あろうことか文部科学省だと信じて疑わない国民がいることだ。

つまり、泥棒に店番をさせるようなものなのだ。
文科省が指示を出したと官房長官が発言した、「入試にあたって大学は受験生に地震で不利にならぬよう配慮せよ」とは、各大学当局を幼稚園生以下に扱った、自分だけがよい子のアリバイ作りにすぎない。

このような妄想に取り憑かれた日本政府のかんがえ方が、間違っている根本に、「分散」という発想がないことにある。
すべてが、「集中」の思考なのだ。

分散とは、人間ひとりひとりをアトム化するのではなく、ひとりひとりの尊重をすることだ。
それは、個々の自由な発想の集合体が社会をつくる、という自由主義思想の基本中の基本なのだ。

だから、たまに突拍子もないひとが現出してもかまわない。
「仲間はずれ」にするのではなく、取りこむべきなら自然に取りこまれる。
この「自生」のかんがえ方が、人類社会を発展させてきたのである。

この正反対が、「集中」だ。
上記の「美辞麗句」の一句一句をよく読めば、そこには「自生」などなく、個人の自由もない、「完全管理」を理想としている。
「AI」に欺されてはいけないのは、そのプログラムを誰が書くのか?にあるからだ。

映画シリーズ、『マトリックス』が娯楽ではない、哲学的で真剣な警告となっている。
シリーズ最新作の「4」は、今年のクリスマスに公開が予定されているから、日本では来年の春休み映画になるのか。

地球上でもっとも完璧な「共産化」を、冗談抜きで、日本政府が目指すと宣言している。

おそろしいことである。

トランプ「弾劾失敗」の残念

訴追した連邦下院の持ち時間は、100%消費したのに、弁護側の持ち時間はたっぷり半分も余して「結審」し、判決は57対43で過半数はこえたけど、憲法規定の「2/3」に届かず、「無罪」となった。

「有罪」には、17人の共和党側からの「裏切り」がいないといけなかったし、裁判開始にあたって、「違憲」の動議があり、この議決の裏切りは6人しかいなかったから、結果はみえていた。

弁護側の初日、ひとりの弁護士の論点が「変だった」ため、この時点で裏切りがひとり増えて、さらにもうひとりが加わって、当初の5人から7人になった。
このひとたちは、「地元」の共和党から、激しい批判をあびていて、「辞職勧告」も地元共和党から決議されはじめている。

アメリカの選挙は、「党内の予備選挙」を経てから正式の候補者になる。
なにも、大統領選挙だけの仕組みではない。
これが、「近代政党」の「近代」たるゆえんだから、わが国の政党は、この意味で「全党」が近代政党ではない。

裏切り者は全員、次回の選挙で消えゆく運命を自分で選択したことになった。

すこしさかのぼって「外野」の状況を解説すれば、弁護団への「脅迫」があったのが、初日の「不調」の原因とみられている。
144人の憲法学者たちが、連名で弁護団の弁護士資格の「剥奪」をいいだしたのだ。
この筆頭に、元ハーバード大法学部長がいる。

しかしながら、民主党員だけど現職のハーバード大法学部教授が、違法な脅迫である旨の警告を発した。
筋を通すひとが残っていた。
ハーバード大学の名誉にも貢献したことだろう。

それにしても、「残念」なのは、弁護団が持ち時間を使い果たさなかったことにある。
トランプ氏の、見た目とはちがう上品さがここにある。
「完膚無きまで」相手を追いつめない。

「無罪」を勝ち取るだけが、この裁判の目的なのか?
仮に「有罪」になったら、被選挙権の喪失だけでなく、場合によったら別件で捕まって、身柄拘束する挙にでないともかぎらないのが、相手の本性なのだ。

何度も書くが、社会主義者=かならず全体主義にするひとたちは、自分たちが「理論的に正しい」と、その理論・思想を一方的に信じているので、歯向かうものを容赦しない、という特性をもっている。

あの、昭和元禄まっさかりの1971年から翌年までに、仲間を連続リンチ殺害した、「連合赤軍」だって、あるいは過激派の「内ゲバ殺人」だって、おなじ行動パターンなのだ。
自分しか正しい者はいない絶対者だから、歯向かうものは殺してもいい。

これが、「無神論」なのだ。
絶対神はいない。
なぜなら、自分が絶対神だからである。
これが、国家レベルに組織化されると、指導者が神格化される理由だ。

すなわち、そんな相手との闘いなのだから、弁護側は徹底的に潰さないといけないはずだ。
にもかかわらず、これを、「しない」おっとりさが歯がゆいのである。

例によって、トランプ氏は弾劾裁判中も、自身はゴルフ三昧をやっていた。
それで、記者に「大丈夫か?」と聞かれても、余裕綽々ではあった。

強い意志と信仰をもつ彼は、けっして自分を信仰の対象とはしない。
絶対神が彼のなかにいるから、政治的余裕なのではなくて、「神のご加護」を本気で信じているのだということが、ようやくわたしにもわかってきた。

すると、「無神論」あるいは、「近代合理主義」(神の存在に懐疑的)のひとたちからしたら、トランプ氏の存在が、きっと不気味になるはずだ。
それが、政治的になにかを企んでいる、と勘ぐるしかなくなるからだ。
けれども、彼の企みとは、神と共にある、ことだけなのだろう。

そうしてかんがえると、イエス・キリストが説いたように、隣人を愛し、叩かれたらもう一方の頬を差し出すがごとくの態度の意味も、一貫性のあるものとなる。
なるほど、アーミッシュたちが、救世主だと認定したわけがわかるのだ。

さてそれで、これから、なにが起きるのか?

トランプ支持者のなかにも多数いるはずの、「近代合理主義者」たちの期待に、どのように応えるのか?
民主党の、白を黒とする企ては、トランプ弁護団によって粉砕された。
証拠提出された「ビデオ」の、悪意ある「編集」こそが冤罪づくりという犯罪行為であったと論破されたのだ。

しかし完全論破されながらも、議会の過半数が「有罪票」なのである。
このモヤモヤを、どうやって晴らすのか?
次は、スッキリさせることがどうしても必要になる。
あたかも、キリストが奇跡を起こすようにだ。

一方で、民主党の残念は、どんな形で歪むのか?
最初から歪んでいるから、もっと歪むことは確実だ。
犯罪を正義にしてでも、何が何でも、トランプ氏をおとしめる。
それこそが、彼らの行動原理そのものだから、止まりようがない。

あたかも、時季はずれの、「過越祭」のようだ。
どちらの陣営も、ドアに自陣のマークをつけろ、と。
さもなくば、皆殺し、である。
さては、どちらを選択すべきかが問われだした。

モーゼの警告に従わなかった、エジプト王の長男が息絶えたごとく。

他民族の宗教祭りが、わが国にもやってきた。

わが国も病気を利用して、政府の意向に従わないと「科料」をくらう時代が到来した。それよりも、だれも「憲法違反」をいわないから、ほんとうは憲法が殺された。
感染防止に効果がないことは承知でも、効果があることにするのは、国民に命令したいからである。

どちらを選択するのか?
自由か?
強制か?

けれども、年内にあるはずの衆議院選挙(10月に任期切れ)で、選択肢がない、という絶望的困ったがある。

左翼の主張と内輪げんか

こないだ紹介した『TIME』誌の2月4日号の記事、「The Secret History of the Shadow Campaign That Saved the 2020 Election」で、民主党勝利の「手柄」についてさんざん自慢したばかりであったけど、こんどは、いつものように「内輪もめ」を開始した。

ただし、この記事で持ち上げられた、「最大の功労者=全米労働組合」は、早くも新政権が打ち出す政策で、「大量失業」の窮地に追いこまれてしまっている。

誰のために?何のために?
組織をあげて不正をしても、正義のためなら法を侵しても許される、という図らずも「不正」の事実だけでなく、病気の利用やらなんやらという「手口」まで記事にして公開したのは、勝者の奢りとしかいいようがない。

さほどに、この選挙の勝利とは、勝者に多大なメリットをもたらすものに違いなかったはずなのに。
あゝそれなのに、それなのに、アメリカ人は失業し、不法移民を留めおくとは。

いまさら残念ながら、労働組合は、利用されるだけ利用されて、あっさりと棄てられた。
どういうわけか、暴動をしていたひとたちも、「カネよこせ」と叫んで、こんどは民主党への攻撃を開始したのも、金の切れ目が縁の切れ目ということで、利用されただけだったことに気がついた。

こんなことなら共和党を支持すればよかった、と遅きに失したけれど、間違いに気づいたのは不幸中の幸いだ。

アメリカが生んだ偉大な経営者のひとりであり、「経営学」の祖のひとり、チェスター・バーナードの唱えた「協働」を、経営者として実践してきたトランプ氏に気づかなかったことの不明が、いまの労働組合にブーメランとなったことが骨身にしみたことだろう。

1980年に日本でも大ベストセラーになった、フリードマン夫妻の『選択の自由』は、どの書店にも山積みされていて、当時のサラリーマンがこぞって読んでいた。

もしや、その後にやってきた、「バブル」とは、フリードマンの直截な表現を誤解したからだったかもしれない。
それが「反動」となって、「新自由主義=憎し」に変換されたなら、辻褄はあうけど、「読解」に値しない「誤解」のままという恨みがある。

シカゴ大学で同僚だったハイエクは、フリードマンと一緒に扱われることがよくあるのも、「誤解」である。
ハイエクの深みは、フリードマンの荒っぽさと一線を画す。
ただし、フリードマンの文章は、ハイエクよりずっとわかりやすい。

ハイエクの著作『自由の条件』をカバンからだして首相就任記者会見をはじめたサッチャー氏とコンビを組んだ、レーガン大統領は、フリードマンを実質的経済顧問にしていた。
なお、日銀もフリードマンを顧問にしていたけれど、その提言を活かすことはなかった。

「小さな政府」では都合が悪い、きっと、大蔵省が自民党政治家をたぶらかしたのだろう。
わが国は、「大きな政府」を、いまでも「国是」としている。

『選択の自由』には、「消費者団体」が消費者のためになるとは限らないという事例や、「労働組合」が労働者のためになるとは限らないという事例も「章」をたてて書かれていた。
いまやっと、アメリカ人はフリードマンの解説を苦く思っているに違いない。

さて、宿敵トランプ政権打倒を成功させた自負と安心感からか、こんどはテレビ局の免許取消がはじまった。
社会主義者(かならず全体主義になる)とは、自分の「理論」が絶対だとして譲らないという習性がある。譲ると粛正されるからである。

それで、「BBC」と「CCTVの海外放送」が、双方の国で放送免許を取り消している。
わが国の「NHK」は、かすりもしないから、「BBC」よりよほど悪辣だとかえって素性がばれた。

イギリスでも国民のBBC批判は高まっていて、この点はNHKと似ている。
アメリカ大統領選挙報道では、あの偏向のCNNと、あらそって偏向ぶりを見せたのがBBCだったけど、国際放送としてNHKを視聴するひとがいないからか、NHKの話題は薄い。

そんなBBCが、どうしたことかウイグルでの「問題」を、ちゃんと放送した。
わが国は、外務省が「人権問題はない」としているから、NHKも「ない」ことにしている。

人権よりもカネが欲しい。人権では食っていけない。
世界が呆れるいい分でも、いくらでもいう「非道義国家」に成り下がったから、「日本はいい国だ」といって国民をなだめる放送をする。

余計なお世話なのである。

イギリスがCCTVの海外放送を免許取消にしたのは、(外国)政府当局が放送内容をコントロールしているなら違法(政治宣伝にあたる)だという法律がもともとあったからである。
どうやら、この条文の存在にイギリス人が最近気がついたようだ。

アメリカ民主党に肩を持った、昨日の友が今日の敵になったのである。

どちらの放送局も、「真実を伝えている」と言い張っているのが、笑いを誘っている。

アメリカ民主党は「禁止」されるか

戦後、西ドイツでは、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者)党は、禁止されて、東西ドイツ統一後のいまでも有効であるし、当局による取締がおこなわれている。
その理由が、人類社会に厄災をもたらしたことにあるのは、日本人だっておおくのひとがしっている。

それに、イタリアのムッソリーニが率いる「ファシスト党」をくわえて、「日・独・伊・三国同盟」を結んだことの「痛さ」とは、わが国の歴史の痛恨をいう。
なお、ムッソリーニは、あんまりの「極左」だったから、イタリア共産党から「除名」されて、ファシスト党(超極左)を設立した経緯がある。

昭和14年(1939年)、平沼騏一郎内閣は、「独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という談話を発表して総辞職に至る。

「日本外交の国際認識の欠如」のもっとも顕著な例として、いまでも語り継がれている。
しかし、この翌年の9月27日、ベルリンと東京で三国間条約が調印された。当時は、帝国議会での批准を要しない。

「日本外交の国際認識の欠如」というフレーズは、いつ(戦前・戦後)でも、何回でも使える、驚くほど便利ないいまわしである。

つまり、日本(人・国)は、「外交音痴」ということなのだ。

国が外交音痴なのは、職業外交官に依存しているからである。
職業外交官とは、外務省の外交官試験合格者たちをいう。
わが国には、職業軍人がいない建前があるから、外交官の頭脳には「軍事」も必要なのだけど、戦前・戦中の軍人依存があったから、戦後の日本外交官に「軍事」が抜けているし、興味もないから研修もさわり程度で済ますのだ。

戦争とは外交の延長にある。

これが、戦争を繰り返してきた欧州の常識で、クラウゼヴィッツの『戦争論』(ナポレオンの国民軍についての研究)は、いまだって必読の書に変わりはないし、マキャベリの『君主論』も彼の地域のひとたちには同様である。

  

大使館に派遣される、「武官」がいる、とはいえ、本国における自衛隊制服組が、首相官邸の敷居を跨ぐのにどのくらいの時間を要したか?
つい最近まで、制服組トップは官邸に入ることすら許されなかったのだ。

これを、以前、「新・平安時代」だと内輪に書いたことがあった。
藤原氏一族が支配した時代、貴族たちは、血に穢れた「侍」たちを忌み嫌ったから、「大将」やら「少将」の肩書きは一族に与えても、本物の武官たる「侍」には、下級の地位しか与えなかった。

これが、東の平将門、西の藤原純友の乱となる。

現代の「侍」で「穢れ」の対象になっている、自衛隊が乱を起こすのではないか?
「起こせ!」と叫んで、失笑がかえってきたのが三島由紀夫事件だった。
その話の延長に、『皇帝のいない8月』(1978年)があった。
はたして、「荒唐無稽」と切り捨てられるものか?

 

名画と名高く、バーグマンの美女ぶりが印象に残る、『カサブランカ』(1942年)の背景にある、「緊張」は、ナチスの傀儡といわれたフランス・ヴィシー政府が支配するモロッコにおける人間ドラマで、登場人物たちの背景もえらく複雑だけど、「アメリカ参戦」と重なる観客の背景も計算されているのだ。それで、アカデミー賞3部門を受賞した。

そこであらためて、「連合国」をかんがえてみると、基軸は英・ソ・米(ずっと「中立」といっていた)ということで、本当は、「英・ソ」の連合なのである。
戦後「鉄のカーテン」ができて、あたかも「冷戦勃発」となるけれど、どうして「ソ連」と連合したのか?

こうやってみると、がぜん「チャーチルがあやしい」のだ。
英国保守党の「黒歴史」が、チラチラする。
大英帝国の、既存ルールを無視して、都合がいい新規ルールをつくる行動原理と習性がみえてくるのだ。

「赤い帝国」となった、ソ連や中共が、大英帝国のやり方を学んだということがよくわかるというものだ。

「人類に厄災」といえば、わが国に原爆を2発も落したばかりか、通常兵器にあたるという焼夷弾(粘性のある油が主)だって、民間人を焼き殺すための兵器だ。

水をかけても消えないし、顔など皮膚についたら、どんなに拭っても取れないで焼けるだけだ。
木と紙で作った家に住む日本人を殺戮したのは、アメリカ民主党政権であった。

昭和20年5月24日の空襲で、慶應の小泉信三塾長、翌日の「山手大空襲」では、ギリシャ哲学の田中美知太郎博士が大やけどを負って、ご両人とも顔が崩れるケロイドの後遺症が残ってしまった。

ならば、どうしてアメリカ民主党は禁止されないのか?

いまやっている「トランプ弾劾裁判」は、アメリカ民主党禁止のための「わざと」かもしれないと勘ぐりたくなる。

その意味でいえば、「言論戦」や「思想戦」が起きているのである。

わが国には、なんでもいえる「言論の自由」を金科玉条のごとくにいうひとがいるけれど、「ナチス禁止」には反対しない。
それにくわえて、たいがいが「反米」だけど、その対象は、共和党なのであって民主党ではない不思議がある。

それは、国内にあって、共産党を禁止しないことにあらわれる。

かつての社会主義圏だった東欧諸国はもとより、共産党を禁止している国は多数ある。
むしろ、共産国でないのに「共産党」が議席を持つ国は、日本とフランス「だけ」なのだということもしっていていい。

酋長のJBが活躍する

いまやネット界は、「伏せ字」が流行している。
あたりまえだけど、誰だって直接的ないい方をしたいのに、それができないから工夫する。
「検閲」があからさまにおこなわれているからである。

わが国の歴史で、あからさまに検閲がおこなわれていたのは、先の戦争中のことである。
昭和13年の「国家総動員法」から、関連法が整備された。
一本の法律だけで国民を締め上げることはしない、ということは、いまでもおなじ政府のテクニックである。

このときは「軍:このばあいは陸軍」が、検閲をしたけれど、検閲をされる側(たとえば新聞社)は、社内に検閲担当者をおいて、陸軍の検閲による印刷差し止めを回避した。
やり方は、陸軍の検閲官より内部検閲を厳しくしたのである。

しかし、こうした内部検閲をはじめる前は、軍の検閲官に印刷を差し止められたりして、経営上困ったことになった。
物資欠乏のなか、貴重なインクと新聞紙がムダになって、おどろくほどの経費がかさむからである。

検閲が初期の頃、印刷の植字を急いで抜いたのが、「伏せ字」になって、すき間が白く空いたので、なくなった文字数をかぞえては、文字を埋めるパズル替わりにして楽しんだという。
それから、社内検閲がはじまると、原稿そのものを「差替え」するから、読者は「伏せ字」を見る機会がなくなった。

「コンプライアンス」の重要性が、いつの間にか強化されて、社内での専門部署が当時の社内検閲のごとく、機械的にしか動かないとどうなるか?は、容易に察しがつく。
その「弊害」も、ほんらいは経営者の経営力の結果だけど、圧倒的多数の残念な経営者は、当該部署の責任者に詰め腹を切らせるから始末が悪いのである。

もちろん、コンプラの不祥事を報じる側もおなじだから、「検閲担当者」の方法を聴き出す話が、あたかも本人たちの意志で実行したように印象づけるのである。
「担当者」は、「社命」によってやっていただけなのに。
だから、ちゃんと「責任者」にも取材しないといけないのだ。

これを、「愚直」にやったのが、ハンナ・アーレントの歴史に残る仕事『 エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』だった。
それで、この作品を書き上げた彼女を映画にして、あんがいと、全共闘世代に受けたのが、映画『ハンナ・アーレント』(2012年)だ。

映画の作中に登場する、アイヒマンは、本物の裁判映像からの「出演」をさせる工夫がされているのも話題になった。
組織の中での、中間管理職としての「陳腐さ」が発見された。
これは、人類共通の発見だった。

 

そんなわけで、いま実施されている巨大テック企業たちによる「検閲」も、実行責任者の「陳腐さ」が予想されるのである。

しかしながら、伏せ字や読みかえなどの工夫が、それなりに普及すると、それ自体が「用語」に変化する。
これを、「AI」による検索と競争する、ということが現実になったのである。

それで、いま大統領「らしきひと」を、「JB」と表記することがあたらしい習慣になったし、大統領のことを「大酋長」と読み替えるのだ。

1952年の『人生模様』(20世紀FOX)という映画は、あの「オー・ヘンリー」の短編集から、名作を5本選んで、これを当時の有名監督たちが一編ずつを担当した、アンソロジーになっている。

1.「警官と賛美歌」:ヘンリー・コスター監督
2.「クラリオン・コール新聞」:ヘンリー・ハサウェイ監督
3.「最後の一葉」:ジーン・ネグレスコ監督
4.「赤い酋長の身代金」:ハワード・ホークス監督
5.「賢者の贈り物」:ヘンリー・キング監督

「警官と賛美歌」には、マリリン・モンローが街娼でチョイ役だけど、味のある演技をみせている。
この映画は彼女の人気が、直前の『ノックは無用』で盛り上がってからだから、端役なのにクレジット・タイトルは大きい文字表記になっている。

オー・ヘンリー(本名はウィリアム・シドニー・ポーター)は、1910年(明治43年)に47歳の若さで没しているので、作品は、日本の明治時代にあたるアメリカを舞台にしている。
だから、この映画は、作家の死後40年以上経ってからの「時代劇」でもある。

さてそれで、4番目のエピソード、「赤い酋長の身代金」は、なんだか後の『ホーム・アローン』(1990年~2012年)シリーズを彷彿とさせる。

妙にひとがよく上品な二人組の犯人が、土地持ちの金持ちの子どもを誘拐して身代金を稼ごうという魂胆だけど、捕らえた子どもが「ハンパない悪ガキ」だった。
彼の名前が、「JB」で、犯人のおとな相手に、「酋長」ごっこを要求するのだ。

不可思議な「縁」があるのは、『ホーム・アローン2』(1992年)に、当時既にテレビのトーク番組で人気を得ていた、トランプ氏が「チョイ役」で出演している。
もちろん、その後に大統領になるとは誰も想像しなかっただろう。

このシーンは、ニューヨークのプラザホテルでロケをした。
トランプ氏は当時のオーナーで、自分の出演と引き換えに撮影を許可したというエピソードもある。
それが、カナダのテレビの映画放送で、この場面をふくめていくつかを「カットした」ことが話題になった。

そして、今年、全米俳優組合に加入していたトランプ氏除名の動きに先手をとって、「こんな組合なら辞めてやる」と手紙を書いて脱退したのも、ニュースになった。

日米のメディアは、反トランプ一色なので、「おとしめる」ことしかしないという、別の「筋書き」もある。
これに、フリーの記者たちも売文のために日和るから、「クラリオン・コール新聞」も、一歩まちがうと、にも読めるのだ。

オー・ヘンリーが想像もしないドラマが現実になっている。

「昔の日本人」とは?

むかしはこうだった。
年寄りがよくいうセリフである。

かんがえてみればあたりまえで、齢を重ねれば誰だって記憶の厚みが増すものだ。
「齢(よわい)」とは、記憶の重なりをいうのである。
だから、人生経験がたかだか10年とか20年では、「むかし」といってもたいしたことはない。

ご本人には気の毒だけど、1992年のバルセロナ・オリンピックの水泳でいきなり金メダルを獲得した、岩崎恭子氏(当時14歳)が、「今まで生きてきた中で一番幸せです」といって失笑を買ったのは、その人生の「薄さ」であって、だれも「若さ」を笑ったのではなかった。

しかしながら、今年43歳になる本人が、おなじセリフをいったなら、もうだれも失笑なんてしない。
それよりも、アスリートのアスリートたる時間の短さとその頂点の瞬間に、ひとびとの想いが重なるであろう。

ここには、人生の「時間」の意味がしみじみとにじみ出るのである。
そして、「時間」とは、あんがい残酷なものだと。
万人に容赦なく平等に流れる時間は、いっさいの妥協なく一方通行で戻ることは決してない。

若い時分に、時間は残酷だといっても、その意味を理解はできない。
むしろ、ありあまる時間をもてあそぶのがふつうなのだ。
この感覚が、若者文化をつくりだす。
いまの年寄りも若い頃がそうだったように、である。

それで、たまにやってくる「戦争」が、若者にありあまる時間の感覚が間違いであることを教えた。
そうかんがえれば、オリンピックが4年に1度なのも、オリンピックをめざす若者には、時間の感覚を正しく教えるにちがいない。

だとすれば、上述の若き岩崎恭子氏の発言は、オリンピックへの出場準備からの「管理された時間」をおもえば、本人なりの率直な言葉になるのは理解できるし、「平和の祭典」の意味もわかるというものだ。

小学校でも当時の学童日本記録をだしている。
すると、中学1年で100m・200m平泳ぎで「2冠」を達成してから、彼女はおそらく「強化選手」になって、管理の対象になったのではないか?
だとしたら、同級生たちが時間をもてあそぶときに、それどころか時間に追われる毎日だったと思われるのだ。

以上が、すでにひと世代30年ほど前の「昔」の日本の一コマである。
さてはもっと前ならどうなのか?
わたし自身の人生を通過させて、その前をみるのなら、いまや「日本人の記録」となっている古い映画のなかでも「名作」のセリフを参考にしてみようかとおもう。

監督 小津安二郎『長屋紳士録』 昭和22年(1947年)4月完成の松竹映画。
未亡人役の飯田蝶子が語るラストシーンだ。

「考えてみりゃあたしたちの気持ちだってずいぶん昔とはちがってるよ。
自分一人さえ良いきゃいいじゃすまないよ。
早い話が電車に乗るんだって人を押しのけたりさ、人さまはどうでもてめえだけは腹いっぱい食おうって了見だろ。
いじいじして、のんびりしてないのはあたしたちだったよ。」

いまでも相づちをうつところだ。
すると、74年前のひとのセリフといまが一致する。

一体全体、日本人が日本人らしかったのは、いつのことだったのだろうか?
このセリフからみえるのは、「戦中」かその前の「戦前」だ。
当該の場面で、相づちをうちながら聞き入っている登場人物は、目の前の長屋に住まう役の小沢栄太郎と、同居人役の笠智衆のふたりである。

作品中の設定年齢は不詳だけれど、生年が飯田蝶子は1897年(明治30年)で50歳、小沢栄太郎は1909年(明治42年)で38歳、笠智衆は1904年(明治37年)43歳たちのかけ合いだ。

全員が明治生まれだから、やっぱり近代日本人は、明治の頃を原点にして、それ以前を「昔」として感じていたのだろう。
だとすると、夏目漱石の頃の人間模様が、がぜん興味深い。

そこで、『坊ちゃん』を詳細に時代考証した研究成果を発見した。
『「坊ちゃん」に見る明治の中学校あれこれ-国民的名作を教育史から読み直す-』藤原重彦、2019年、である。
版元が「ウニスガ印刷」となっているけど、電子出版されてから紙の本となったものだ。

「中学(5年制)」というところがミソなのだ。
本文に説明があるけれど、当時中学校に進学できたのはおよそ1%。
義務教育の「尋常小学校」は、いまの4年生まで。
その上の2年制の「高等小学校」でさえ、なかなかいける時代ではない。

飯田は高等女学校(中学校に相当)へ入学するも、すぐさま中退した。
小沢は中学校で胸を病み、笠は東洋大学印度哲学科を中退している。
つまり、このひとたちは、当時の「エリート」だったのだ。

演じた庶民は、そのほとんどが小学校の10歳、あるいは高等小学校(いまの小学校)の12歳で社会に出ていた。
だから、「昔は」というときのおおくは、小学校を出てからの社会をいったのだ。

どうやら、学校教育だけで教育されていたのではないことは確かなのである。

「、のようなもの」の建国記念の日

「建国記念の日」とは、国家にとって一番重要な日である。
近代国家なら、次が「憲法記念日」だ。

あんまり知られていないことに、わが国の「憲法」は、国会で認証されていないという秘密がある。

1946年(昭和21年)11月3日(明治天皇の誕生日:「明治節」でもある)に、日本国憲法は「公布」された。
これによって、「帝国議会」が「国会」となり、国会に「衆議院」と「参議院」が定められた。

それで、1947年(昭和22年)5月20日に、日本国憲法に基づいて第一回国会が招集され、現在の第204国会へと続いてきた。
これは、日本国憲法が帝国議会で制定はされたけど、その新憲法が新しく定めた今の国会での承認を、「されないまま」であることを意味する。

ただの「手続き論」ではないかというひともいるやもしれないけれど、民主主義とは「手続き」を重視する主義なのであるから、嘘みたいに重要なことが放置されている国になっているのだ。
つまりは、「、のようなもの」としての「憲法」と「国会」があるということだ。

言葉を整理すれば、「憲法、のようなもの」が、「国会、のようなもの」を定めて、そこが国権の最高機関とされている、ということになる。

絶対多数を誇る与党が、憲法議論を内輪でして、国会でしないままにしているけれど、聞こえてくる議論に、「国会での憲法の承認」がないのも、わが国自体が「、のようなもの」であるからだといえる。
つまりは、「国、のようなもの」ということだ。

日本国という、「実態」があるのはあるが、「実体」がない。

だから、全部がぜんぶ、「、のようなもの」になってしまうのは、国の根幹が「、のようなもの」だから当然だ。
「軍、のようなもの」が「自衛隊」だし、「議員内閣、のようなもの」も、高級役人が仕切っている。
そうしたら、とうとう「病気、のようなもの」が流行りだして、「自粛、のようなもの」で「強制」している。

「政治家、のようなもの」が、「決断、のようなもの」をして、地方の「知事、のようもの」が、「藩主」となって、国へ「要請、のようなもの」の「命令」をしたら、「緊急事態宣言、のようなもの」が発令された。

だからといって、生活のなにが変わるかといえば、「飲食店、のようなもの」だけ、営業時間を短縮させられ、時間外にも営業していようものなら、警察官が「営業許可証を見せろ」と、「嫌がらせ、のようなもの」を堅気の経営者にしている。

そうして権力行使に飽きてきたら、今度は「知事、のようなもの」が、勝手に「解除宣言、のようなもの」をいい出した。
「国、のようなもの」は、47もある都道府県に、いちいち対応できなくなって、「中央集権、のようなもの」が崩壊しだした。

平成21年(2009年)の雑誌『Voice』9月号の「特別寄稿」は、民主党代表(当時;記事直後の総選挙で首相になる)の「私の政治哲学」が、いま、そのまま「実現」しているのである。

この記事を読めば、鳩山氏がよく(受験)勉強されたのはわかるけど、およそ理系(東大計数工学科卒)とは思えない、思考の「飛躍」による「支離滅裂」に改めて愕然とする。

その「愕然」には、この記事の原稿をもとに、ニューヨークタイムズ紙が同年8月6日の電子版に「New Path for Japan」という見出しで英語翻訳掲載
し物議を醸した、ことも含まれる。

すなわち、いまのアメリカ民主党の支離滅裂の原因、のひとつにこの論文があるかもしれないとおもうのだ。

先週4日に、有名な(左派系)週刊誌、『Time』 に掲載された、「The secret history of shadow campaign that saved the election 2020.」という記事の、民主党擁護(「選挙不正は正義」だから許されるという主張)の「支離滅裂」に通じているからである。

鳩山由紀夫氏にとって政治家としての「師」は、吉田茂と岸信介の間にあって、どっちつかずのような「鳩」といわれたひとだけれど、祖父、鳩山一郎であるというのは自然だし、「ヨーロッパ統合の祖」クーデンホフ・カレルギー(日本名;栄次郎:母が日本人)への傾倒は、納得できるものである。

カレルギーの『汎ヨーロッパ』(1922年)の翻訳者は、鳩山一郎に相違ない。
なお、版元が鹿島出版会だけでなく、翻訳者に鹿島建設中興の祖、婿養子の鹿島守之助がいるのも、ゼネコンらしい思想背景とつながるから興味深い。

その後カレルギーは、『全体主義国家対人間』(1935年)もだして、ソ連とナチに激しい批判を展開した。
彼は、資本主義が深刻な社会不平等を生み出すことを憂いたまではいいが、その解決に、「博愛=友愛(鳩山は「友愛」をとる)」という「道徳」に解決方法を求めてしまった。

おなじオーストリア人にして、真性自由主義者のハイエクと、ここではっきり分岐する。
ハイエクは、「閉じた社会(道徳が通じる)」と「開かれた社会(自由競争)」とを「別物」と分けることで、別個のルールをもとにした冷徹なる批判と解決の方向論をすすめたし、ヨーロッパ統合に懐疑的で、むしろ全体主義化に警告を発していたのであった。

なお、友愛は「fraternity:フラタニティ:ラテン語で「兄弟」」という
意味になって、キリスト教をはじめとする各種慈善団体によく用いられることでしられる。

わが国の元は反社会主義「友愛会(1912年結成のやはりキリスト教の影響があった)」が徐々に社会主義に傾倒し、後の日本労働総同盟となって、1940年に産業報国会に吸収された経緯がある。

鳩山由紀夫氏の地元、北海道にも「友愛思想」は根強く普及している。

「閉じた社会」=「ローカルで伝統的な社会」だから、このことをあらかじめ承知なら問題ないけど、グローバルに通じるのだと勘違いしてはいけない。

言葉が共通でも、細かいところで「違う」のは、地域ごとに伝統もちがうからである。
それで、無理やり一緒にしようとするから、よかれが、「全体主義」に転じるのである。

わが国も、アメリカも、「建国」についてかんがえるときがやってきたのだ。