ニュースがない日はニュースをつくる

以前に「ニュースがない日のニュース」について書いたから、本稿は久しぶりの続編である。

新聞だろうがテレビやラジオのニュースだろうが、枠が決まっている。
新聞なら「紙面」という面積の枠に記事で埋めなければならないし、放送なら「時間枠」のなかに埋め込む必要がある。
伝統的な、記事をアナウンサーが読み上げるニュース番組ならば、適切な読み上げスピードが文字数に換算されて、原稿が書かれることになっている。
だから、時間内に収まるようになっている。

直近の、世界中の出来事をニュースは対象にしている。
「直近」でないと、「New」でなくなるので、古い話は「ニュース解説」という別枠になる。
とにかく直近の「New」な話題をいくつも集めて、新聞や放送番組にするから複数形の「s」をつけて「ニュース」としている。英語だと「ズ」になるから和製英語でもある。

通信網が広がって、通信手段もインターネットが主になったので、世界は格段に話題が「豊富」になったはずである。
それなのに、「情報弱者」(略して「情弱」)が発生するのはどうしたことか?

ふつう、情弱なひとたちは、インターネットにアクセスすらできないとおもわれているけれど、スマホ全盛の世の中である。
かなりの強い意志がなければ、いまどき「ガラケー」を使いつづけることもできないから、情弱なひとほどスマホもハイエンド機種だったりする。

ケータイ・ショップの店員さんのいわれるままに契約するからだ。

問題なのは、使い方がわからないのだ。
もちろん、この中には、かかってきた電話の受け方も含まれるけど、疑問が湧かないから、検索エンジンをつかわない。
こうして、日がな一日、新聞や地上波の放送を観ていれば、ちゃんと情弱にしてくれる。

けれども、そもそも疑問が湧かないという特性があるので、それで困らないし、新聞とテレビのニュースはちゃんと観ているから、自分が情弱とは思いもしない。
だから、他人から「情弱」といわれると、やけに腹を立てるのである。

プライドはある。

ふつう、毎朝配達される新聞をみていたら、ニュースの中身に濃淡の波があることに気がつくものだ。
今日は読み応えのある記事がたくさんあるとか、ないとか。
それで、ない日はどうかといえば、たいがいがどーでもいい記事や話題で「枠」が埋めてあることに気づく。

前々から仕込んでいる「ストック」もあるけれど、昨今は「製作した」という記事が紛れ込んでいる。
一歩まちがうと「捏(ねつ)造」ということになりかねない。
すると、読者がこれを「読み込む」必要があるのだ。

ある特定の思想信条による「編集」は、人間が記事にするのだから仕方がないことである。
それに、「編集」に「作文」まで含まれるので、なにもかんがえずにただ「読んだり」「視聴」していると、そのうちに「洗脳」されてしまう危険もある。

やや疑問があることでも、堂々と繰り返しインプットされると、ふつうなら、簡単に洗脳されて、こんどはそれとはちがう記事に反感を持つようになるのである。理性ではなく感情になる。
あんがい人間は単純なのである。

だから、報道機関の読者や視聴者に対する誠実性とは、自分たちの立ち位置を明確にすることになる。
これを隠して、あたかも「真実」を伝えているなら、それはもう「宣伝(プロパガンダ)」にすぎない。

そんなものを、購入させられる読者や視聴者は、なんだか可哀想を超えて滑稽である。
すいている電車で、新聞を広げているひとが、酷暑の中マスクをしている傾向が強いのは、「わたしは情弱です」という看板をつけて歩いているように思えてならない。

「公正中立」なんてあり得ないのだ。

けれども、いつの頃からか、「公正中立」の看板を高々と掲げながら、ほんとうは自分たちの政治信条に基づいた記事を生産して、これを「すき間」に埋め込みだした。
批判を受けたら、反省どころか「報道しない自由」という、どこかの国の強弁を真似て開き直ってしまうのだ。

報道機関が自分から「報道しない自由」をいったら、それは「自主検閲」を宣言したもおなじである。

戦時中、物資がないから紙もインクもない。
それで、軍の検閲で「発禁」を命じられたら経費負担に耐えられない。
でも、日本軍という役所の検閲は、いまとおなじ役所仕事だから、その文字が印刷されなければいい。これで、白枠の伏せ字になって、読者は穴埋め問題にして楽しんだ。

でもやっぱり、かっこ悪いので、自主検閲をして軍がよろこぶ記事を量産したという歴史がある。
占領軍はもっと巧妙で、はなから記事に真実を求めない。
求めたのは占領政策に合致した記事=作文だから、やっぱり自主検閲をしてこれをクリアした。完璧なプロパガンダになったのだ。

読者はどこにも穴埋め問題がないから、そのうち洗脳されいくのである。

そんなわけで、新聞と地上波放送のニュースはみないことにしている。
それでも、困ったことに、困ったことがない。

日本はいつまで日本でいられるのか?

8月10日は、台湾と香港でそれぞれ歴史的なことが起きていた。
どちらも「人為」なので、人間の意志がはたらいている。

台湾では、台湾が日本でなくなって以来初めての、アメリカ政府高官(閣僚級)が訪問した。
この訪問には、2018年3月にとっくにできていた「台湾旅行法」がはじめて適用されている。

官僚=政府が法案を立案して、これを国会でほぼ原案通り承認する、というスタイルのわが国とちがって、アメリカでは上院だろうが下院だろうが、議員が法案を立案してこれを議会でたっぷり審議し、決まったことを法律として政府に実行を命令するのがアメリカだ。

だから、トランプ政権はようやく議会の命令にしたがったことになる。
なんだか悠長な法律名だが、政府高官は台湾に行け、という命令なのである。
日本の狂った報道だと、まるでトランプ政権が無茶ぶりしているような印象操作をするけれど、やれと命じているのは議会なのである。

ほんとうに流行の原因ウィルスが存在するかしないかに関わりなく、ここは「あることにして」でも台湾を訪問したのは、台湾も以前はそうだったWHOのオブザーバーにさえ反対して議論に参加させない国があるからだ。
WHOとは別の保健機関創設を模索しはじめたアメリカとしては、まったくの「政治案件」なのである。

じっさい、WHOは、国際連合の下部機関ということになってはいるけど、運営予算の大半が、各国政府拠出「ではなく」て、民間製薬会社などからの寄付金によっている。
つまるところ、利権の巣窟なのである。

だから、原因ウィルスの存在についての疑問には一切触れず、マリス博士の「感染症の診断にPCR検査を使ってはいけない」という警告も無視して、流行のはじめから「ワクチン開発」に巨額の投資が行われた。

いまだにウィルスを分離・特定したことがないのに、どうしてワクチンが開発できるのか?
しかも、このワクチンとは人類の初めてが詰まっている「RNA型」、いわゆる遺伝子操作をした注射を打つのである。

遺伝子操作をした小麦や大豆すら嫌って、味噌や醤油にだって「遺伝子操作していない」のを用いているのに、注射するか?
だれがどんな安全性に保障をしてくれるものか、さっぱりわからない。

あのビル・ゲイツ氏も、このタイミングを計ってなのか、ツイッター投稿して、最新のキットでPCR検査をやれとアメリカ政府を脇からあおっている。
あたかも、対象になるウィルスが実存するみたいな発言だ。
このひとの名前が付く財団は、医療・薬品系の事実上の投資会社状態であることに注意したい。

そんなわけで、いつも嫌がらせをする国は、この訪問に怒り心頭、例によっての骨髄反応をして批難声明を発表したけど、予定通りのことなので慌てるひとはいない。
むしろ、訪問前に、武力行使をほのめかしていたから、どうするのだろう?
武力行使したら大変なことになるし、しなくても大変なことになる。
だれも彼らの脅しに屈しなくなるからである。

ただし、わが国は除く。

ありもしないウィルスに怯え、全国知事会がお盆帰省をするなという骨髄反応なのだから、「万が一」でも武力行使されたら、「腰が抜けて坐り小便しちゃう」※だろう。
※古今亭志ん生の伝説の名演『火焔太鼓』のセリフ

同じ日、その台湾海峡の向こう岸の香港では、重要人物たちがあいついで逮捕された。
この度できた、新法が適用されたというけれど、「法の不遡及」という一大原則を無視している。

果たして、わが国の法律家たちは、ぜんぜん反応しないのはなぜだろう?

案の定、わが国が「懸念を表明」したことに、「内政干渉」だと反論したという。
さあ、わが国の法曹会は、一体どうする?
憲法学者はなんとする?

法の不遡及について、事後法が適用されたのは、「東京裁判」での「戦犯」例がある。
なるほど、事後法でも差し支えないという論理はここにあるのだろう。
けれども、わが国だって、独立したあかつきに、さっそくこれらを無効とする国会決議が、議員からの発案で全会一致でなされているのだ。

でも、これもいいたくない、触れたくないのがわが国の法曹会だ。

そんなわけで、東京から飛行機で数時間の距離にある二つの地域での出来事は、ぜんぜん他人事ではない。

未来の日本が、いまの香港なのである。

さてそれで、日本はいつまで日本でいられるのか?
「亡国」するなら、なるべくなら自分が死んでからにしてほしい。
でも、それじゃ子孫たちはどうなるのか?
いまのままなら、見殺しである。

なにか平和的な方法で、一矢報いるものはないか?
そういえば、8月9日が本来ならばオリンピックの閉会式だった。
この際、原因ウィルスの存在が「あったこと」にして、来年も再来年もオリンピックを諦めるというのはどうか?

来年の夏にあきらめれば、年明け早々の冬の大会もできない。
風邪が流行るのは、やっぱり冬だ。

それなら、ダラダラとPCR検査をやって、その辺にふつうにあるコロナウィルスが付着・感染したことにすれば、発病しない患者がたくさんできる。(いまもだが)
これを理由にすれば、世界に貢献できるかもしれない。

ついでに、オリンピックも永久にやめれば、ムダな投資をさせられる国もなくなる。なんなら、ギリシャで毎年やればいい。

消極的方法だろうが、意思をもって行うことを日本人もやらないと、気がついたら日本国がなくなっている。

絶大な金融制裁の効果

特定の組織と、その組織にいる個人を相手におこなうという「金融制裁」とは、歴史的なスタンダードになりつつある。
つまり、これまでは「やってなかった」から歴史的なのだけれども、いったんこれをやったら、その後は「ふつう」になる、という意味である。

これまで「やってなかった」のは、国家どうしのことは、国家と国家のレベルという対象に対称性があったからである。
けれども、この対称性についてコンニャクのように効かない国家が相手の場合どうするのか?

近代は、国民国家という概念が常識となっている。
これは、国民が国家の主人だという考えを基本にしている。
しかし、国民が国家の主人ではなくて、一部の国民による支配体制ができている、となると話がちがう。

それが本稿冒頭の、組織と組織の構成員を指すのである。

たとえば、わが国の場合は、政府と役人が主にこれにあたる。
けれども、これに与党や与党の議員も含まれて、さらに、マスコミ各社とその社員というひとたちもいる。
ある意味、与党に対してまったく無力な野党も、与党を援護しているようなものだから、仲間である。

いまさらだけど、これをカレル・ヴァン・ウォルフレンが、『日本/権力構造の謎』で、「中心がない」と指摘している。

 

まぁ、中心がないという指摘は、なんとなくわかる。
誰が首相をやっても、なんにも変わらない。
だったら、誰でもいいくせに、長期政権のいまの首相に代わるものがいない、という不思議なことになっている。

なんにせよ、わが国は、いわゆる近代国家としての国民国家ではないことは明確だから、いわゆる近代国家ではないのである。
それを、いわゆる近代国家だと国民みんなで思い込んでいるから、いつでも何度でも欺されるのだ。

それで、なぜかまた矛先を、政府だったり政治家だったりに向けるから、肝心の、いわゆる近代国家ではない、という肝にいつまでたってもたどりつかない。
要は、国民が阿呆なのである。

しかし、それでもなんとかなってきたのは、二度とアメリカに逆らわさせないという占領政策が効いて、これを自ら70年もやってきたから、いまや単なる神経反射になってしまった。
従順な羊たちを、アメリカの牧師さんたちが率いているのである。

ところが、なにを勘違いしたのか、従順な羊のようだった面積だけは大きな国が、突如自分たちは狼だったと思い込んで、ロシアの後釜としての世界タイトルマッチに乗り出した。
もしや、西側マスコミのおだてにまんまと乗ってしまったごとくである。

ふつうのリングとちがうのは、はいているパンツの色、つまり挑戦者が赤いことだけでなく、場外乱闘をチャンピオンが想定していることだった。
情報戦と軍事力のパンチで自信満々リングにあがった挑戦者だったが、近代総力戦に経験豊富なチャンピオンを舐めていた節がある。

チャンピオンは、挑戦者の情報戦のパンチを作れなくする、サプライチェーンマネジメントを実行したのを皮切りに、とりあえず空母を2隻挑戦者の喉元に突きつけつつ、わが国の島嶼防衛にもバックアップを開始した。
でもこれらは、挑戦者とリング上での試合風景でしかない。

国際基軸通貨の発行元という自分の最大の強みを、チャンピオンは熟知している。
およそ世界の金融機関で、アメリカドルを取り扱えないなら、ほとんど相手にされないのが、この世のグローバル経済である。

すなわち、金融機関として国際決済機能をどうかんがえるか?ということなのだけれど、そんなもんなくなったら店をたたむしか選択肢はない。
チャンピオンのセコンドをやっているイギリスは、阿片戦争で香港を得たけれど、それで大儲けした銀行がHSBCだった。

H:香港、S:上海なので、むかしは「香港上海銀行」といっていた。
なんと、香港の騒動で、この銀行は挑戦者側のセコンドに就任したのだ。
いま、チャンピオンとチャンピオンのセコンドが、トイレの裏に呼びつけてボコボコにしているところだろう。

突如、マイクを握ったチャンピオンがひとりでリングにあがって、挑戦者の背後にいる組織とその構成員もボコボコにしてやると雄叫びをあげて、名指しした。
家族も含めた入国禁止・出国命令もあるけれど、なんといっても銀行口座の凍結が痛いだろう。

香港の行政長官は、「あたしには関係ない」とリング脇から嘲りながら野次ったけれど、チャンピオンはにやりと歯をみせて、イギリスにある彼女の夫と子ども二人の口座を凍結するはずだ。チャンピオンのセコンドが親指を立ててうなずいている。

ついでながら、チャンピオンはヨーロッパ・アルプスの国にも連絡して、ボコボコにされたくなかったらわかっているよな?といったら、先ずはスイスの外務大臣が「おまかせあれ」と返答した。
もうすぐ、スイス銀行が5000ほどある構成員の口座を凍結するだろう。

予想される金額は、数百兆円?
いやもっとあるはずだというから、はんぱない。
このおカネは、国家から盗んだものだ。

くわばら、くわばら。

「夜の街」はいけないのか?

過去に、こんな「弾圧」をした為政者はいたものかと思う。
いま、コロナ禍をいいことに、「夜の街」に対する行政当局による弾圧が、あたかも合法的に行われているけれど、いったいどこに正当なる法的根拠があるものか?

未熟な人間が為政者になって正義を振りかざすと、世の中は暗くなる。
熟した人間というのは、むかしから「清濁併せ呑む」ことができるひとをいうのである。

なぜならば、ふつう人間は、それぞれに「清」の部分と「濁」の部分をもっているからである。
聖者とは、これを超える修行をなしたひとをいうから、聖者は他人の「濁」を責め立てたりはしないで、むしろ「ほどほどに」と鷹揚なのである。

「ほどほどに」とは、禁止ではない。
自分で「抑制」、「制御」しなさいということだ。
これを、「セルフコントロール(自制)」という。

そもそも「自粛要請」とは、「自制を促す」ということのはずだったのに、いつの間にかに「命令」となって、あらゆる「禁止」が奨励されるようになっている。
もはや、「立ち入り禁止」の看板が目立たないほどだ。

むかしよくあったのは、「小便するな」という手書きの看板だった。
つまり、そこでしてしまうひとがたくさんいる、という合図でもあった。
塀や電信柱に貼るのが典型だったのは、たいがい道路も舗装されていなかったからである。

それでかんがえついたのが、赤い鳥居のマークである。
これは、いまでも有効なのだが、外国人には通じにくい。
やっぱり、鳥居に向かってするのは憚れるのが日本人だからである。

すると、「禁止」ばかりを命ずるのは、なんだか日本人ではないのではないか?という気がして、このことも違和感の原因なのである。

いったい、こうした禁止をいうひとたちは、自己抑制が強いひとなのだろうか?
もしそうであっても、人間理解というものがどの程度あるのだろうか?

自己抑制ができる自分と、自己抑制できない他人とを比べて、自己抑制できない他人を見下すことの自己抑制ができないことを、おそらくかんがえたこともないのであろう。
結局、自己抑制できない人間から見ても、このような為政者は自己抑制ができていないと判断できるのだ。

このギャップ。
自己抑制ができている自分は正しいということの怪しさに、ぜんぜん気がつかないで、知事などといった上位の立場から命令を下すのは、専制君主とおなじなのである。
まさに、「君臨」している状態だからである。

しかし、このような未熟者を選挙で選んでしまったことが「厄災」の原因だ。
愛知県知事のリコールが成立するかしないかは、この意味で全国的な注目に値する。

さてそれで、夜の街である。
規制・禁止の対象のほとんどが「飲食店」である。
けれども、飲食店というくくりはたいへん大雑把だ。
それに、営業時間を短縮するとどうして感染症の予防になるのかの根拠も希薄だ。

このブログでは、いま流行っている「感染症」は「幻」であるという前提があるので、より過激に「無意味」を主張するだけでなく、行政による「営業妨害」にどう対処すべきかをかんがえたいのである。

「幻」であることの根拠は、「コッホの4原則」に適合していないからだと書いた。
存在するのは発生地での「論文」しかなく、誰もこの論文を疑わず、驚くべきは、誰も「今回の(新型)コロナウィルス」を特定していないから、見たこともない。

だから、「幻」なのであって、社会は恐怖のメルヘンにおびえている。

けれども、こんなことに構わず夜の街を弾圧するのは、肝心の病気のことを無視してでも、君臨したいという願望・欲望があるからである。

人間には息抜きが必要だ。
だから、余暇や娯楽が商売になる。
その娯楽のなかに「観光」がある。
つまり、夜の街の弾圧は、観光の弾圧にもなるのである。

これが、お盆の時期に帰省するなという知事たちの命令になって、PCR検査陽性者=感染者=幻、が村八分になる原因なのだ。
江戸時代より理不尽なのである。

地元に帰省することは、もちろん、「観光」ではない。
けれども、都会から観光目的でやってくるひとたちと区別がつかないから、という理由で拒否しているのである。
つまり、地方出身者で都会に住むひとたちが、ふるさとを喪失して「浮き草化」をさせる意味もあるのだ。これを「分断」といわずになんというのか?

人類が「観光」を楽しむようになったのは、労働者という身分が生まれたことによる。
つまり、産業革命と近代工業なくして「観光客」は存在しえない。
わが国近代の、地方出身者こそ、近代工業の担い手だったのである。

すると、夜の街の弾圧とは、近代の否定運動なのである。
近代の否定とは、資本主義社会の否定に通じる。
すなわち、いま夜の街の弾圧をしている確信犯たちは、社会主義・全体主義を志向していると断定できるのである。

人間理解が「物質レベル」なら、これを「唯物論者」というからである。

果たして、リコールの対象なのではないのか?

集団買収の消費減税

もしや疫病の原因になっている、新型コロナウイルスは「存在しない」けど、人間社会が「あると信じた」ことが、「疫病」をつくってしまったかもしれない。

発見者が警告した、「PCR検査」を「感染症の診断に使ってはならない」のに、なぜか最初から使いまくっている。
それで、わが国でも、「PCR検査を中止せよ」と一部の医師が発言をはじめている。

症状があるひとが、かかりつけ医にやってきて、医師が診断する。
ほとんどのばあい「風邪ですね」ということで、処方をもらって薬を服用すれば数日で完治するのだろう。
免疫が弱っているひとのなかで、「こじらせて」しまえば「肺炎」になるかもしれない。

もちろん、症状が「ない」ひとは、かかりつけ医にも行かない。
症状がなければ、病気ではないからだ。
でも、診断のためにPCR検査をすれば、無症状なのに病気にされる。
それで、感染症の法律によって、「隔離」されてしまうのだ。

このことこそが、「医療崩壊」である。
さらに、国民の側だって、発症していなくて無症状なのに、「後遺症を心配する」ということが起きている。
これは、「教育崩壊」か?

高等学校全入時代どころか、大学でさえ進学希望者全入時代がとっくにやってきているのに、この程度のこともわからない。
それで、テレビで専門家が「無症状なら後遺症はありません」と真顔でいうのを聞いて安心するのである。

むかしの「無学だったひとたち」だったら、真顔でこんなことをいう専門家をバカにしたにちがいない。
「そんなもん、あたりまえだろう?こいつアホか?」
専門家が阿呆なのではなく、「学のあるはず」のいまの国民が阿呆になったのである。

医療崩壊というのは、「診断」における医師の存在意義が薄くなってしまったからである。
医師は、なんのためにいるのか?
治療をおこなうにあたって、「診断」こそが最大の重要事項であるのは、それで治療方針が決まるからである。

先日、昨年におけるわが国の人口が50万人減少したいうニュースがあった。同時期の新生児は、過去最少の87万人だった。
つまり、わが国は昨年、50+87=137万人が亡くなっていたということだ。

そのうち、肺炎は10万人、肺がんなども10万人なので、肺に関係する病気の死者は20万人だ。
今回の疫病による死者は、半年でざっと1000人。
これで、恐るべき伝染病といえるのか?

各国の「対策」に、「新型コロナウイルスによる肺炎」と「診断」して、カルテや死亡診断書の死因に記載されると、割り増しの医療報酬が支給されるという「制度」がある。
少なくとも、医師に「記述したくなる」要因を与えている。

そんななか、死者数がヨーロッパで最多になったイギリスは、「揺りかごから墓場まで」をキャッチフレーズにした手厚い社会保障制度が残っている。
世界を支配した、大英帝国の爛熟が「安心な社会」を指向する社会主義と結合してできた「国是」である。

もちろん、歴史はこれによっても大英帝国の没落がはじまったことを示している。
わが国の社会保障も、大英帝国に倣ったので、みごとな没落がはじまったのである。

EUから離脱した国民感情は、EU委員会に国家の決定権を奪われたことにあるが、決定打となったのはEUが押しつける移民の受け入れ人数が「受け入れがたかった」からなのである。
なぜなら、これまで社会保険料を払っていない大量の移民が、即保険適用になるから、既存の国民は「損」になるとかんがえたのだ。

これは、わが国でも起こり得る移民拒否のストーリーだが、わが国民は、保険料は国が負担してくれると思うだろうから、イギリス人より鷹揚でいるかもしれない。(イギリス人からバカだと思われても)
あるいは、消費税がもっと増税されても、社会保障の財源というなら容認するのだろう。

コロナ禍は、イギリスだって飲食業や旅行業などがひどいことになったから、思い切ってこの分野の消費についての税を減税することにした。
わが国がばらまく方式の「Go To」とは逆の方式を採用している。
批判が強いこのやり方に、あろうことか「コロナ担当大臣」が、国土交通省の問題だと振ってしまった。

あれれ?これって官邸主導の第1次補正予算でなかったっけ?
官邸主導の政策とは、経産省主導ということの「隠語」である。
内閣は、すでに「閣内不一致」を呈しているのだ。

解散風がやや吹き出して、与党勝利の方程式に「消費減税」という決め手が隠し球にあると噂されている。
あれれ?昨年、消費税は社会保障のために増税されたんじゃ?

ようは、どうでもいいのである。
与党が勝ちさえすれば、あとでなんとでもなる。
そのための、集団買収ができればよい。

しかし、とっくに国民という大衆は反逆を開始した。
減税によろこんで集団買収されても、あとはなんとでもなるのだろうか?
ならばもっと減税せよにならないような、飴をたくさん用意するのか?

もはや、経済政策を国に任せてはいけないのである。

マリス博士の一周忌

昨日、8月7日はキャリー・バンクス・マリス博士の一周忌だった。

1993年に博士がノーベル化学賞を受賞したのは、ターゲットにしたDNAを大量かつ高速に増幅させる「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法」と呼ばれる技術を開発したからであった。
これは、「遺伝子の二重らせん構造」の発見に次ぐ大発見といわれている。

いま話題の「PCR検査」の生みの親である。
彼がノーベル賞を受賞した同じ年だがノーベル賞の前に、「日本国際賞」という科学分野では権威ある賞も授与されていて、亡くなったいまも残る彼のHPにその記述がある。

さて、受賞後の彼の主張で有名なのが、エイズに関しての重大な問題提起、すなわち「エイズ・ウィルスは存在しない」という説を唱えたことにある。
これは、「コッホの4原則」を根拠にしている。

1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
※「微生物」にはウィルスを含める

エイズの場合、ウィルスの発見よりも前に「抗体」がみつかった。
それで、ウィルスが存在するはずだということになった。
パスツール研究所のモンタニエは、1983年に発見したとされる「HIVウィルス」によって、2008年のノーベル生理学賞を受賞している。

しかし、マリス博士は「コッホの4原則」に合致していないとして、これを大批判していたのである。
驚くなかれ、「HIVウィルス」は、「発見」から40年経ったいまでも「分離されていない」のである。

だから、現在でもHIVに有効なワクチンは存在していない。
それよりも、むしろHIVウィルスなるものは「本当に存在するのか?」という問題になってきている。
そこで、麻薬や血液製剤などの直接作用によって免疫機能が低下することで起きるという説が「エイズ否認主義」の根拠となっている。

このように、「コッホの4原則」を厳守する姿勢を明らかにしているのがマリス博士の立場だから、博士は自ら発見したPCRを「感染症の診断に用いてはならない」と発言していたという。

この発見が画期的なのは、短時間で特定遺伝子を増殖させることにある。
それは、40乗ものレベルになって、これは顕微鏡なら100万倍ほどに匹敵する。

たとえば、自分の手のひらを顕微鏡で覗いてみれば、たかだか数十倍に拡大しても、指紋が山脈に見えるし、そこに付着した異物を見つけることができる。

つまり、驚くほどの「感度」なのである。
すると、もし、ターゲットにした遺伝子がそもそも見当はずれだったりしたら、どうなるのか?
素晴らしい感度で、まったくトンチンカンな結果がでることになる。

しかも、そのトンチンカンを真に受けたりしたら?
絶望的な勘違いが社会に蔓延するのだ。
だから、「診断」に使ってはならないのである。

これを指摘しているのが、徳島大学名誉教授の大橋眞医博である。
先生の専門は、免疫生物学だ。
以下は、指摘されている問題点のポイントだ。

・あちらの国の専門家チームが特定した(新型)コロナウィルスの遺伝子情報の「論文」が、すべての発端である。
・この情報を、WHOのデータベースに登録した。
・善意を前提にしているデータベースなので、要件を満たせば誰でも論文登録できる。
・善意を前提にしているので、登録論文の検証をだれもしていない。
・特定に用いたサンプルは、最初に発症した市の病院にいた肺炎患者の肺を洗浄した液体から得ていて、実物はすでに存在していない。
・したがって、この論文の検証をおこなう術はなく、世界はこの論文が「正しい」という前提に立っている。
・PCR検査のターゲットは、この論文にある遺伝子情報を用いている。
・もちろん、原因とされるコロナウィルスを世界でだれひとりとして、分離していないし、実物を見たものもいない。

なんと、エイズとおなじく、コッホの4原則に合致していない。
そして、なんだかわからないけれど、病原となるコロナウィルスがあるはずだから、PCR検査をしているのである。

まったく不思議なことに、今回のコロナ禍は、博士が亡くなってから起きたので、博士の生の声での「おかしい」を誰も聞くことはできない。
健在なら、なにを発言するかは火を見るより明らかである。

すると、この「パンデミック」とは、まったくの「茶番」と断定できるのである。

そして、かえって博士の死因が不明なのが不気味である。

夏の怪談より、ずっと怖いことなのである。
改めてご冥福をお祈りいたします。

合掌

レバノン化するニッポン

中東のレバノンというのは地中海に面した「国」を指す。
首都は同国最大の港湾都市ベイルートである。
この港で、市の半分が被害を被る大爆発がおきた。

むかしは「中近東」と別けていたけど、最近では範囲の広い「中東」が便利な表現になっている。
京都を中心にした中央集権国家としての歴史がながいわが国では、都からの距離で国名(近江とか遠江、上・下、前・後)をつけたのと同様に、ヨーロッパとくにイギリスからの遠近で地域名をつけたものだ。

イギリスからみた地理の概念として、インドが「東」だったので、インドよりも近い東との中間を、「中近東」といって、それよりもインドに近くなる中間を、「中東」といって区別した。

日本人には、どちらも遠いので、「近」がとれて「中東」ですませることがおおくなった。
これは、あいかわらずこの地域の「石油」にしか主たる興味がないからであって、中東と中近東を区別する気概も失ったのである。

もっとも、その原因にもなるのは中東戦争以来の複雑さで、その中東戦争の原因だって、複雑なのである。
複雑なことをかんがえると気分が悪くなるひとが増えて、単純化された情報こそに居心地のよさがあるのを「大衆」と呼ぶので、わが国は世界に冠たる「大衆社会」である。

その「大衆」からの人気を得ないと、どんな職業でも成功できない。
そんなわけで、「大衆」による「大衆化」が極大にまで膨張し最後は自己崩壊する物理特性を大衆社会は内包している。
これが、民主主義の暴走となって小数派への弾圧になるのである。

しかし、オルテガがいう批判すべき大衆とは、大衆のなかの大衆すなわち、専門家を指すのであった。
大衆に真っ先に迎合するのが、大衆である専門家だから、これが膨張のエンジンであり、燃料にもなっている。

大衆となった専門家と、本来の専門家を見抜くためのリトマス紙とは、「わからないことをわからないという」ことである。
大衆となった専門家は、わからないことをわからないとはいわない。
本来の専門家は、わからないことをわからないというのだ。

わが国には、中東の専門家が数々いるけど、被災者には申し訳ないが、どうなっているのかを観察できるチャンスが、このたびの「ベイルート大爆発」である。
つまり、わからないことをわからないとはいわないか、わからないことをわからないというか?

中東戦争の当事国ではなかったのに、人口の少ない小国だったレバノンは、国防力も乏しく、周辺の当事国から大量の「難民」がなだれ込むのを阻止することができなかった。
当然に、難民の中に紛れ込んだ、当事国になりたくないレバノンにとっての危険人物たちもいた。

世界の三大宗教の聖地があるイスラエルと隣接するレバノンも、「宗派のるつぼ」だった。国内には18もの宗派がある。
そこで、人口で最大のキリスト教マロン派(東方カトリック)とイスラム教とで知恵をだし、大統領と首相を交互に選出する方法をあみだした。

ちなみに、元日産自動車のカルロス・ゴーン被告は、キリスト教マロン派だという。

しかし、中東戦争の影響で、上に書いたバランスが狂ってしまったゆえの長期にわたる内戦で、いまは「ヒズボラ」というテロ組織が政権を担っている。ただし、意外にも普通選挙はおこなわれている。
彼らはイスラム教シーア派だ。

これには、事情があって、キリスト教徒よりもイスラム教徒の方が「多産」だということがある。
平和が破られて半世紀も経ったので、人口構成がかわってしまった。

シーア派といえばイランである。
しかして、ヒズボラ支配の実態とは、イランの支配のことを意味する。
そのイランは、イスラエルとは犬猿の仲のはずだけど、「敵の敵は味方」という論理が働いて、「それはそれ、これはこれ」がまかり通る。

こうして話が、どんどん複雑になっていくのである。

レバノン国内に話を絞れば、中央政府(ヒズボラ:シーア派)の意向を無視した残り17の宗派が、別々の動きをはじめるという「運動」がある。港湾に備蓄されていた小麦等の食料が、この爆発で雲散霧消してしまったことが、いきなり「食料危機」になったのだ。

大爆発の原因追及よりも、さぁどうなるレバノン?ということになっている。

話をわが国にもどすと、中央政府と地方政府の一部が、ぜんぜんちがうことをいいだして、なにがなんだかわからなくなっているのは、ご承知のとおり「コロナ対策」の分裂である。

中央は「Go To」で旅行に行けといい、地方の一部は「自粛せよ」といっている。この一部とは、東京・大阪・愛知といった大都市圏の(宗派を異にする)知事たちなのだ。
武器を使わないけどまるで、レバノン内戦の様相なのである。

いまからすれば、中央の内閣と総理大臣の権限を地方政府、なかんずく知事へ大幅に譲る、「緊急事態宣言」がわが国における「大爆発」だったのである。
『特別措置法』に従って権限を返上すべきなのに、これをしないのは、知事は「直接選挙で選ばれた」ことの「民主主義」があるからである。

これは、「民主主義の暴走」である。
そしてこうなったのは、この膨張運動の担い手が、政治の専門家であるという「大衆」が知事をやっているからである。
大衆は、わからないことをわからないとはいわないのである。

もちろん、「緊急事態宣言」をだした、中央の政治家も、企画した中央のエリート役人も、みんな「大衆」なのである。
だから、「民主主義の暴走」を予想しなかったばかりか、できなかったのだ。

地方は中央に従うだけの存在だと、これら大衆が決めつけて、大衆の知事たちが反逆を開始したのである。

この分裂は、もう誰にも止められない。
だから、もう止まらない。
わが国は、急速に分裂し、レバノン化するしかない事態となった。

古い本を読む

社内コンサルタントから卒業して、他社さんのコンサルをすることになってから、俄然と読書の量と傾向が変化した。
もちろん、量は増えたのだけれど、問題は質なのである。
最初は気がつかなかったのだが、振り返るとはっきりとした痕跡が見えてきた。

それが「古い本」なのである。

どのくらい古いかといえば、現代語で読める範囲をいうけれど、おおよそ80年代から90年代にピークがある。わが国の経済絶頂期こそ、出版においても絶頂だったのだろう。時代にたえる図書は、後に「古典」といわれてもおかしくない要素を持っている。

それは、深い思索による発露を意味するので、著者自身もその瞬間にしか書けない文章かもしれないという緊張感がある。ただうまい表現ということではない。私が選んで読むのは、小説ではないからである。

もちろん示唆に富む小説だってあるのは知っている。だが、文壇ではなく論壇での議論を優先して読みたいという願望が強いのは、不遜にも他人様にアドバイスをするということの不安を消しこみたいからであった。
できるだけ「正解」に近づけたい。そのための抽象(哲学)が欲求の対象になったのだ。

しかし、過去形になっているのは、このところの10年以上、あるいは15年か、わが国の論壇の議論における劣化を感じるようになったからである。そこにかつての論客達による深い思索の発露を感じないばかりか、「薄さと軽さ」が読むに耐えなくなったのだった。

これは何故なのか?

ついぞ気がつかないできてしまったけど、コロナ禍という「社会現象」を目の当たりして、ますます何故か?についての答えの欲求が高まってきた。すなわち、日本社会がコロナ前の元に戻れそうにないからである。
その理由と、先の何故か?が同じ答えにあるのではないかという気がしてきたのだ。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、これは「わが国近代の終焉」なのかもしれない、という予感である。
近代は、資本主義の工業化を生みだし、その結果「大衆」をつくった。
大衆とは、自分からかんがえないひとの集団を指す。

その大衆がつくりだした社会を「大衆社会」といい、大衆社会は大衆によって崩壊すると予想されている。
コロナ禍は、ウィルスがもたらす病気によるのではなく、かかって死にたくないという大衆の心理がつくりだした「禍」だ。

すなわち、大衆が大衆社会を崩壊させている歴史的場面を、いま我々は目撃しているのである。

オルテガ・イ・ガセットの名著『大衆の反逆』(1930年)では、労働者という意味で「大衆」を批判したのではなく、専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判をしている。

まさにいま、国や都道府県が招集している、「専門家会議」という場で、役人が恣意的にあつめた「科学者」を自称する、「近代の原始人、近代の野蛮人」たちが、専門家たる研究の成果からの見解を述べるのではなく、自身の気分で意見を述べて、非専門家に命じることを使命にしてしまった。

かつてのソ連に生きていた、ルイセンコが蔓延っているのである。
エセ遺伝学者の彼は、スターリンやその批判をしたフルシチョフという時の権力者におもねった学説をとなえ、ソ連科学アカデミーの議長にまで上り詰めた。一方で、正規の科学者たちは多数、よくてシベリア送りになったのだ。

いま、わが国は、ひとりではない、多数のルイセンコが蔓延っている。
そして、これを批判する者は、研究予算もなにも奪われるのである。

上に書いた経済の絶頂と出版における絶頂期が同じ80年代から90年代にピークがあるということの裏に、ソ連東欧の体制転換という歴史的大事件が隠れていることに気づくのである。
この時、わが国では「たまたま」バブルだった、のだ。

つまり、世界の大変化に気がつかず、文字通りの井の中の蛙たちが絶頂を謳歌していた姿が浮かび上がってくるのである。
それにしても、なぜこうした歴史的大転換に気がつかなかったのか?いや、今現在だって気づいているといえるのか?

価値基準が違うという認識があったから、無視できたのである。

それは、バブル後にしきりにいわれた「自由と民主主義という同じ価値基盤の上に立って」という政治家達が発信した言葉にヒントがある。
ひとは、本当に同じ価値基盤があれば、それをわざわざ言葉にはしない。違うけど「同質」といって確認し合う必要があるのは、そうしないと友好国でないとされて不都合だからである。

詰まるところ、「日本の異質性」こそが、日本人の価値基盤だったということである。
それは、日本人は特別だという傲慢な発想を、だれもがしていたということで、まさにコロナにかかる数が欧米に比して少ないことの理由になっている。

では、何が「異質」なのか?

今更ながら、「自由」と「民主」の概念なのではないかと疑っている。

本人のせいではまったくないけど、韓国の俳優名はカタカナで表記することになっている。それで、「ハン・ジミン」というひとをテロップで見て笑ってしまったことがある。

問題なのは、「ハン」ではなくて「ジミン」の方だ。政治用語なら「ジ・ミン」にしないといけないけれど、日本人には「自民」であって「自由」と「民主」は切っても切れないという感覚がある。けれども、世界の常識は、「自・民」なのである。

わかりやすいのはやっぱりアメリカで、二大政党のゆえんは、民主党が「民主主義重視」の政党で、共和党が「自由主義重視」の政党だからである。実はこのバランスが難しい。

民主主義が強くなりすぎると、多数の暴力となって少数が排除されるし、自由主義が強くなりすぎると、他人を無視し、とうとう個人が絶対になって無政府主義になる。

ふつうの国は、これらが牽制しあってバランスを保つようにできている。

わが国の異質は、自由と民主主義が一体だから、牽制の方法がないことだ。
それで、たまたまコロナがきっかけになって、特に民主主義が強くなりすぎて暴走をはじめたのである。自由と民主主義が一体だから、この暴走を止める手段がない。それで、社会自体が崩壊を開始した。

大衆民主主義社会の自壊である。

民主主義の暴走を止めるには、自由主義が頑張らないといけない。
ところが、民主主義をやめろとは誰もいえない。却って、民主主義の名のもとに為政者達が命令する社会になっている。まさに多数による暴力がはじまって、自由の圧殺となっているのである。

つまり、いまのままでは「コロナ禍」は永久に終わらないということだ。
「感染」と「PCR検査陽性」を一致させるという、現代のルイセンコ説を「まちがっている」といえる政治家がいない。
責任をとりたくないからである。

だから、決して「一過性」ではなく、むしろ延々と続くのである。
それは、コロナ禍が原因で社会的に生きていけなくなったひとの数が、コロナに感染して亡くなるひとを上まわっても終わらない。

小室直樹は輪廻転生のごとく、この暴走によって傷めつけられた国民が自ら気づくまで、何度も傷めつけられることを覚悟せよといっていた。
西部邁『大衆への反逆』(文藝春秋)も、1983年出版の「古い本」であって、これから35年後の2018年に自裁して果てた。暗に小室のいう輪廻を自ら断ち切って「おさらば」を告げたからだと思われる。

民主主義と自由主義、この本質を熟知する二人の碩学の結論は、期せずして同じなのである。

これから生きていくには、自分自身にも、コンサルタントとしていえるのは、過去を棄てて、あたらしい仕事を見つけるしかないということである。

施餓鬼会のないお盆

お盆だって、ほんとうは「盂蘭盆(うらぼん)」で、これを「裏」と書いたから「表盆」はいつだ?ということになる。
サンスクリット語という古代インド・アーリア語が仏教典のオリジナルだ。
これを三蔵法師が漢語に訳して「お経」になった。

外来語を表記するのに、わが国ではふつうカタカナが使われる。
集合でいうと、外来語∈カタカナ語、と書けて、外来語はカタカナ語に属することを意味する。
りんごの英語Appleをふつう「アップル」と書くけれど、「あっぷる」とも書くこともあるからややこしい。

アルファベットを使う国や地域では、オリジナルの発音に真似た表記で外来語も書くしかない。
この意味で、漢語をつくる漢字でも、外来語はアルファベットと同様にオリジナルと似せた発音の文字を使う。

けれども、我々もよくしる漢字には、「表音」だけでなく「表意」の機能もある。
それで、発音表記のために書いたものに、なんだか「意味」があるように思えてしまうのだ。

ようは、当て字に意味を見出すという効果が発生する、ということである。

だから、「名訳」は、オリジナルの意味に合致した漢字をあてて、その発音までオリジナルに近いと、まったく自国語のようにすることを意識したものだ。この確率はかなり低いだろうけど、当て字に意味があると思い込むことになる。

日本の高校で習う漢文の「読み下し」とは、もっとすぐれた方法で、オリジナルの漢語で書かれた文章を「レ点」をつけて後から、とか、「而」の文字を目印に、そのまま「訓読み」すなわち、日本語にして読み進むという恐るべきものである。

漢語という外国語を日本語に翻訳するのではなく、日本語として直接読みこなすのである。
この読み下しのための「行ったり来たり」を、英語の長文読解でもやるというのは、江戸から明治の「漢籍の素養」があるひとの英語習得法を、現代の漢籍の素養がないひとにもやっているということである。

まさか、英語を読み下そうとしたのではなかろうか?

さて、「盂蘭盆会」には、「施餓鬼の法要」がおこなわれる地域がある。
地域と宗派によるのだけれど、これに「新盆」も含まれる。
亡くなったひとの初めての「盂蘭盆」のことである。

そもそも「お盆」とは、先祖の霊をお迎えしてこれを祀ることをいう。
迎え火でキュウリを馬に、送り火は茄子を牛に見立てるのは、早く来てゆっくりお帰りいただくための風習である。
有名な「大文字焼き」や盛大な夏の「花火大会」は、迎え火と送り火の「過剰」な形なのである。

また、「施餓鬼」とは、ご先祖には関係ないが、無縁仏などの不幸な魂を供養して、善行を積むことでいま生きているひとの魂を磨き、それで将来自分が死んだとき、成仏しようという儀式である。

生まれたからには必ず死ぬ。
だから、仏教徒のばあい、人生の究極目標は、成仏すること、一点に絞られるのだ。

だいたい、8月15日を中心に前後の日にちを「お盆」としていたけれど、大戦争の停戦日が同じになったので、戦争犠牲者たちの「鎮魂」も兼ねるようになった。
国際的に正式な戦争の終結日は、降伏文書に署名した9月2日である。

そんなわけで、毎年8月は、わが国が宗教国家であることを世界に知らしめる。それは、「お盆休み」という長期休暇があって、近代化や工業化のために集団就職やらで地方から出てきたひとたちが、ご先祖様のために帰省する「大移動」が風物詩にもなるからであった。

「夏休み」=「お盆休み」が、外国の「バカンス」にならない理由がここにある。

これを破壊するのが、わが国「保守政治」なのだからどうかしている。
さらに、既存宗教がなんの役にもたたないばかりか、そんな政治に異議も唱えずひたすら追随するのはいかがなものか?

わが家に届いたお寺からの案内に驚愕した。
今年は盂蘭盆会も施餓鬼の法要も新盆も中止します。
理由は、「三密」がいけないからだとあった。

おいおい、わが家の宗派は「密教」でなかったか?
比叡山参拝はなんだったのか?

本来の「三密」とは、「身密:手に諸尊の印相を結ぶ」、「口密(語密):口に真言を読誦する」、「心密:心に曼荼羅の諸尊を観想する」の「身・口・心」(しん・こう・しん)のことなのである。
「信仰心」という漢字が浮かべば、完璧な漢語の翻訳者だ。

なお、ここでも「密」という漢字は「表音」のために使われているのであって、漢字がもつ意味とは関係ないことに注意を要する。
コロナ対策の「三密」は、対策としての意味はないが、「密」という漢字の意味は有効である。

物質的な今般流行のウィルスに感染・発病予防のために、無理にご参集いただくことはありません。
宗教行事ですので、檀家各位がご判断ください。
寺としては、毎年同様の法要をいたします。
ご参集いただけなくても、同日・同時刻に、ご自宅の仏壇にてご供養をされますようお勧めいたします。
なお、当日はユーチューブでのリアルタイム配信をいたします。

こんな案内ならまだわかる。

果たして、わが国の宗教は、人間を幸せにしてくれるものなのか?
過剰な社会に警鐘を鳴らせない宗教にもこまったものである。
宗教国家なのに宗教が弱体化するなら、本格的な衰退といえよう。

東京の中心で「変」を叫ぶ

千代田区が荒れている。

区長と議会の対立は、区長が議会の解散を宣告し、これを区の選管と総務大臣が無効と言ったら、区長は裁判所の判断を仰ぐという。
また、初当選した3年前の選挙では、都知事の応援があったけど、この騒動で都知事は「区のこと」としている。

報道によると、事の発端は、区長が家族で購入した区内マンションが「抽選外」で購入できて、その理由にある「特別」とはどうやら「容積率の割り増し」という貢献をしたからだという。
区長権限の個人への悪用ではないか?という疑いがうまれた。

そこで、区議会は区長の証言をとろうとしたが、埒もないので100条委員会という伝家の宝刀を抜いた。
この委員会での「偽証」をもって、区長は「刑事告発議決」をくらった。
それで、刑事告発議決をすること=不信任議決だという「解釈」をして、地方自治法178条をもって議会解散を告げたのである。

ところが、この「お告げ文」を議長に手渡しても、議長は断固として受け取らなかった。
このときのシチュエーションは、春先に「やらない」と区長が公言した、コロナ見舞金(12万円/区民)を「やる」といいだしから、区の予算委員会も紛糾し、その「休憩時間」という間隙をついたものだった。

さらに、突然議長室に区長がやってきて、この「お告げ文」を差し出してからの押し問答のやりとりは映像記録されている。
議長がしきりに「総務省見解」をたてに拒否しているので、冒頭の総務大臣の発言は、とっくにあった見解の「追認」をしただけなのだろう。

というわけで、わが国の中心である東京の、そのまた中心である千代田区で、「変」が起きている。

さいきんの記憶で、千代田区といえば、内田なにがしという都議会議員が知事をもしのぐ「都のドン」だったことぐらいだったけど、とっくに引退している。
ただし、このひとの女婿は現職の千代田区議でもある。

「区長」対「全議員(25名)」という構図は、わが国ではなかなか珍しい。

当然だがマスコミは、発端となった「疑惑」があるから、区長が悪だと暗示させるような報道姿勢である。
首長のこんな横暴がまかり通るなら、全国の自治体がおかしくなる、といってあおっている。

しかし、「賽は投げられた」のだから、どうかんがえるべきかを別の視点から論じてみたい。
人生には取り返しのつかないことがある、からである。

本件では、「区長が議会解散を告げた」という事実が、取り返しのつかないことにあたる。
また、これ以前に、「議会が刑事告発の議決をした」という事実も、取り返しがつかないことなのだ。

そして、議会は総務省に依っていて、区長は裁判所に依っている。

三権分立しているといいながら、本当は三権分立していないわが国で、三権分立しているはずだと主張する区長の態度は、正義に満ちている。
25人もいる議員の全員が、この区長に対峙していて行政当局の元締めである総務省に依るのは、いったいどういう了見なのか?

それは、「従来秩序の維持」という常識が、25人の区議にあるのだといえる。この意味で、千代田区民の常識が議員にひとりの洩れもなく具現化されているのである。
けれども、「従来秩序の維持」がすべての前提にあるということは何を意味するのか?

このブログで何度も主張してきた、「国家行政による支配」を意味する。
すなわち、わが国に事実上「地方自治」なんて存在せず、旧自治省=現総務省のいいなり、ということを「よし」とするかんがえにほかならない。
その旧自治省とは、さらにさかのぼれば旧内務省のことである。

敗戦を境に中央省庁の看板の掛け替えがおこなわれた。
現在最強とされる大蔵省は、このとき看板は掛け替えず、いまの財務省になったのは「不適切な接待」とか「金融危機」による。
大蔵省解体論があるけれど、職員をクビにしたわけではなく、金融庁を創設しただけだった。

ほんとうの「最強」は、旧内務省なのである。
鳩山内閣で廃止した「事務次官会議」も、いまは「次官連絡会議」になっているけど、この会議の議長こそ、官僚の中の官僚、わが国の筆頭官僚が務めるポストなのだ。

それは、事務担当内閣官房副長官であって、歴代おおむね旧内務省・旧自治省事務次官経験者が就任することになっている。
そして、事務次官なら一般職だけど、内閣官房副長官は認証官なのである。
このちがい、お分かりか?

個人が家族をつくり、家族の集団が町内会・自治会で地域を支え、その集合体が自治体となるなら、日本全国の自治体を支配するとは、わが国民を支配するということになる。
これが、旧内務省・旧自治省で、いまでいう総務省の行政なのだ。

だから、たまたまとはいえ、わが国の中心地・千代田区で起きていることは、総務省支配の終焉か、継続か?ということでもなく、もはや裁判所に委ねるということが、蟻の一穴を意味するのである。
総務省見解 → 選挙委員会の解散無効判断 → 総務大臣の解散無効見解を無視した区長の、司法判断優先とは、まさに反乱の意味の「変」なのである。

さては、司法の判断とは、三権分立に向かうのか?
それとも、国家行政当局の支配継続を維持するのか?

「大変」なことになっている。