IMF専務理事の「もっと消費増税を」

先月25日だから、10日ほどまえ、日本の記者とのインタービューで、今年の秋に就任したばかりのクリスタリナ・ゲオルギエバ氏(66)が、日本の消費税について2030年までに15%にするひつようがあると述べたことが報道された。

このひとの前職は、世界銀行のCEO(最高経営責任者)だった。

はて?
ゲオルギエバ氏は、ブルガリア人である。
くわしい経歴はしらないが、世界銀行の設立は1945年で、設立をきめたのは1944年(戦争中)の「ブレトン・ウッズ会議」であった。

戦後すぐにはじまった「冷戦」で、世界銀行にソ連は条約批准をしなかったので出資金をはらわず、「鉄のカーテン」の向こう側に引きこもった。
穴ぐらから出てきたのは「冷戦終結後」である。

つまり、衛星国のブルガリアだって、親分の意向があるから世界銀行とのつきあいなんてしないし、できない。
その前に、「共産圏」なのだから、「資本主義の経済学」をまなべるのは、政府から特別な許可をうけて「敵情研究」としてしかできなかったはずだから、国中で指で数えられるほどしかいないはずだ。

彼女の年齢からすれば、30代の半ばで「自由化」したから、ほんとうに「自由主義経済」が「理解できている」とかんがえていいのだろうか?と素朴な疑問がわく。

おなじ疑問が、いまはレームダックのドイツ・メルケル首相にある。
彼女は、サッチャー女史とおなじ「化学者」出身だけれど、東ドイツのひとなのだ。
やっぱり、人生で重要な知識をえる時代に、もっとも「優秀な社会主義国」に生きていたのだ。

そうはいっても、ドイツ人は政府のいうことに懐疑的なヨーロッパのなかにあって、断然、政府のいうことを信じる傾向があるひとたちだ。
いまは、ヒトラー時代を全否定するが、ヒトラー以外の政府なら信じて依存する。ヒトラー時代も、東ドイツの優秀さも、政府依存では同じ民族だ。
ここが、かつての同盟国、わが国と似ている。

さて、世界銀行とIMFは兄弟のような関係で、戦後世界に関与してきた。
途上国のインフラ融資を主とする世界銀行の融資のおかげで、東海道新幹線、名神・東名高速道の資金ができた。

当時の日本は、「途上国」だったのである。
いまの日本人は、このことをそっくり失念している。

そして、「先進国」になってから、こんどは「資金提供」の側にまわった。
この組織の決定には、出資「額」と出資「率」とで、投票数がきまることになっていて、一位がアメリカ、二位が日本、三位が中国となっている。

総裁人事では、基本的な「きまり」として、アメリカ人がなることになっている。
IMFのトップである専務理事は、ヨーロッパ人が「きまり」になっているから、フランス人からブルガリア人になったことでもわかる。

簡単にいえば、米欧でトップを「独占」しているのである。
まさに、戦後の西側戦勝国体制の申し子として、いまだに続いている「しきたり」なのだ。

IMFは、国連の専門機関になる。
この機関の議決権も、基礎票にくわえて出資額ごとに一票がくわえられるようになっている。
やはり一位はアメリカで票数割合では16.52%、続いて日本の6.15%、三位は中国で6.09%(2018年)だ。

日本からの幹部として、副専務理事が97年から連続して選出されている。
2011年になって、中国がアジア枠の副専務理事を要求したが、二名とすることで日中軋轢を回避している。

それでは、いったいだれが日本人で副専務理事になっているかといえば、歴代全員が財務官僚なのである。
世界銀行が「民間人」を基本としていることに対して、IMFは「公務員」なのが国連機関らしい。

これで、就任したばかりのひとが、日本の消費増税をくわしく語れた理由がわかった。
「セリフ」を書いたのは、日本人の元財務官僚にちがいない。
どこまでも、財務省に忠誠をちかうひとたちだ。

「IMF」という、あたかも「権威」をつかった、あくどいプロパガンダである。

彼女は、日本が10月に10%へ消費税率を上げたことに「政府の景気対策のおかげで円滑に実施できた」と評価したという。
おどろくほどのとんでもない認識である。
すでに「消費減少」が数値で報告されていて、来年が懸念されているのに。

「日本政府は余計なことをして社会主義・共産主義化せずに、自由主義体制にもどることで、国民負担を軽減させよ。そのために減税せよ。」
これが、「体制転換」を経験したひとがいうただしい「セリフ」だろう。それを言わない、言わせせない理由とはなにか?をすこしかんがえればよい。

かつて、小沢一郎氏がいった「シャッポは軽くてパーがいい」をそのままやらせる根性は、われに間違いなしと豪語してはばからない日本の財務官僚ならではではないか。

ブルガリアは世界一の「人口減少国」になっている。
少子でも高齢化でもなく、若くて優秀なひとたちが他国へ移民してしまうからである。

三年ほどまえ、ルーマニアとブルガリアを旅したが、30年前までの「失政」の爪痕は深刻だった。
かつての盟友両国の国境は、ほぼドナウ川なのだが、これが「橋のない川」なのだ。

数本しかない橋の両端のたもとに入国と荷物検査所がある。
たった数カ所で間に合うほどに、大規模な「貿易」すらない。
バルカン半島の複雑さを、よくもソ連は力で押さえつけたものだ。

むしろ、根性が曲がっている当時の英米の戦争指導者たちが、わざとスターリンに押しつけたのではなかろうか?
ヒッチコック監督の『バルカン超特急』は、ドラキュラのふるさと、ルーマニアのトランシルバニアの山岳地帯にある小さな駅から物語がはじまる。以下は、淀川長治解説つき。

古代ローマの端っこだった「ローマの国」だから、「ローマニア」が「ルーマニア」と、ロシア語に採用された「キリル文字」をつくった「ブルガリア」の仲は、いまでも悪い。
「ローマ字」に親しい日本人が、ルーマニアで読めた看板が、橋をこえてブルガリアに入った途端に読めなくなる。

中央アジアからやってきたモンゴロイドのブルガール人がつくったからブルガリア。南隣のギリシャ同様、オスマントルコにやられまくったが、首都ソフィア空港は、トルコエアーとルフトハンザがターミナルを二分していて、自国の航空会社の肩身はせまい。

自国が衰退しているのに、国際機関でえらくなるのはどんな気分なのだろう?
もうすぐ、日本人官僚もそれを味わうだろうが、厚顔無恥だから、心配はご無用と突っ張るにちがいない。
それよりも、中国に席を独り占めされることを気にするだろう。

じぶんさえよければよいからである。

全米税制改革協議会議長の来日

アメリカ共和党の強力な支持母体のひとつである。
この会の主張はシンプルだ。

「能力のない者に
  税を預けてはいけない
 
 悪事につかわれる」

能力のない者とは、政府(役人たちの集団)のことであり、
悪事とは、国民の利益に反することである。

もともと、独立戦争の原因が「紅茶への課税」を、本国のイギリス国王が「勝手にきめた」ことであったから、アメリカ人の心持ちには、「税」にたいする「抵抗」がある。

もちろん、「悪事」の「悪」には、キリスト教の「道徳」が基盤になっている。

教科書でならったように、イギリスを追われた「ピューリタン(清教徒)」が大西洋をわたってできたのが、アメリカのはじまりだから、アメリカという国は宗教的な国家なのだ。
つけくわえれば、「ピューリタン革命」と「名誉革命」を経ていることもベースにある。

そしてその「ピューリタン」が「清教徒」といわれるのは、「清い」ひとたちだからで、それは「極度に潔癖」で「まじめ」なひとの比喩でもある。

いま国内で話題の「花見」だって、「極度に潔癖」ではなくてもおかしなことだが、「倒閣」が実現しないのは、「受け皿」がない、というもっと酷いことが現実だからである。

むかしは「清濁併せ呑む」のが、おとなの姿だったけど、いまは「濁」だけを無理やり呑まされて、気分どころか「脳」の調子がわるくなってきた。

そこで、全米税制改革協議会の議長が来日して、「減税イベント」が先月23日に東京で開催された。
じっさい「減税」は、「世界潮流」なのであるが、「逆神」ニッポンは、とにかく世界を無視する、あるいは、孤立するようなことばかりをしている。

どういうわけで「財界」も「労働界」も、消費増税に賛成したのか?
「労使協調」はいいけれど、ここまでするものか?
年金財源確保のためという、将来の給付を担保したいのならば、税ではなくて自分で貯めればよいのである。

しかし、日本人はとうとう政府依存の中毒症になって、ギャンブル依存症と同様に、政府の年金が不安だから政府にお金を預けようとしてしまうのである。

これは、競馬で負けたひとが、べつのギャンブルに手を出さず、なぜかまた競馬で勝とうとするのと似ている。
パチンコでもおなじ。なぜか、パチンコの負けはパチンコで取り戻そうとするのだ。

カジノの問題で、ギャンブル依存症対策が最重要だと、これまた擦り込まれたが、とっくに公的年金というギャンブル依存症になっている。
だれがこれを「治療」してくれるのか?

とはいえ、自分で貯めるにしても、わが国の金融機関という金融機関が、保険会社もふくめてまるごと「金融庁」という「能力のない者たち」が支配して、儲からないことばかり、コストが増えることばかりをやらされて、虎の子資産を預けようにも不安でしかたない。

これに、日銀という親方が、あろうことか過去の人類史にない「マイナス金利」というジョーカーをきってきた。
「ルール違反だ」と叫ぶ経済学者は皆無で、むしろ「ジョーカーあり」の「(屁)理論武装」をする。

こんな「悪手」は「二歩」のようなものだから、即刻「負け」になるのに、なんでもありのむちゃくちゃが平然とおこなわれ、これをやらせているのが「政権」という「政治」なのだ。

銀行に預けたところで金利もつかない。
預かった銀行は、貸出先がない。
リスクをとって将来性のある会社に融資したくても、金融庁が「不動産担保をとれ」と命令する。

若いひとがたちあげる「ベンチャー企業」に、差し出す不動産担保などあるはずがない。
それで、「かぼちゃのなんとか」という不動産事業に突っ走ったのが静岡県の銀行で、とった担保を水増しまでしたのだった。

これは、金融庁の犯罪「教唆」ではないのか?
とも、だれもいわない。
「報復」をおそれるからである。

ピューリタンにみるように、イギリスだけでなくヨーロッパでは、かつて酷い政治がおこなわれて、民衆はずいぶん痛めつけられた。
教会でさえ、民衆から収奪する存在だった。
だから、彼らは政府を全面的に信頼しない、信頼してはいけない、ということをしっている。

そうしたことの結晶が、アメリカ合衆国なのである。

わが国だって酷いことはたくさんあったけど、ほとんど全員が、おどろくほど「貧乏だった」から、酷いことの酷さが伝わっていない。
ほんとうは、もっと「一揆」のことをしるべきなのに、ときの支配者にまかせる「楽さ」が優先する。

政府と生活が、もともと分離していても変化がゆるく、貧乏にかわりがないからどうでもよかったのだ。
しかし、「豊かになった」ので、政府と生活が分離したままではすまなくなって、しかも、世の中の変化が速くなっている。

そんなわけで、わが国では、政府によって、いまよりもっと国民が酷い目にあってはじめて「新しい一揆」がおきるのだろう。

香港でのできごとは、未来のわが国の姿なのである。

官営カジノ失敗の予感

どこにつくるのかまだ決まっていないが、「制度」だけは先行している。
1日、カジノで儲けたひとの課税逃れをさけるため、事業者に外国人客にも「源泉徴収」をさせるというニュースがきた。

日本の「官僚」が、かくも劣化してとはおどろきだ。
いまになって競馬などの「官営ギャンブル」と、すりあわせをしたのだろう。

入場に身分証の提示をもとめるのだから、カジノの敷地内は関(イミグレーション)外の「租界」であるとすれば、「免税地域」という「特区」になぜしないのか?しかも、入場料も徴収する。

もっとも近い「マカオ」とどう競合するのかをかんがえないのは、マーケット意識ゼロの「徴税役人」こそである。
わが国でもっとも「優秀」とされる法学部出が、こぞってなるのが「徴税役人」だから、かれらからみたら、一兆円もの大金を外国から投じる者が「バカ」にみえることだろう。

ましてや、そのうち社会問題になること必至の、大負けしたひとからの容赦ない「取り立て」も、人生をたかだか博打で棒に振る「愚か者」の自己責任にしかみえないはずだ。

大学で、じぶんより成績がわるかった同級生たちがなる「弁護士」に、「金利過払い金問題」でビジネスをつくってあげたが、まもなく時間切れになるから、カジノの取り立てというあたらしいビジネスをつくってあげるのは「友情」だけではない「憐愍」だろう。

それでいて、国と立地のある自治体とで、収益の3割を折半して、濡れ手に粟の不労所得をえようという魂胆で、カネの行き先は、国会に報告義務のない「特別会計」になっている。
どんな「豪遊」を目論んでいるのだろうか?

もちろん、カジノ会社の法人税だって、ふつうに徴収することになるのは「事業会社」として当然だ。
これが「二重課税」にならないのは、ヤクザも青くなる「ショバ代」徴収を合法として「着服」するからである。

どの自治体も、住民の「反対」を無視して誘致に走るのは、こんな天からお金が降ってくる「事業」は、かつてなかったからである。
それで、住民がどうなろうが、役所の予算が潤沢なら「ばら撒いてやる」からありがたくおもえ、と幕藩体制でもかんがえなかった発想をしている。

そもそも「経済特区(略して「特区」)」とは、中国の改革開放政策にあたって、ときの最高指導者、鄧小平が推進したものだ。
つまり、国中が「共産体制下」にあってにっちもさっちもいかない、ガチガチの統治制度だらけだから、特別に風穴をあけて、自由経済地域として「指定」したのである。

これはうまいやりかただと、日本でもまねっこしてはじめたのは、日本もおなじ「共産体制下」になっていたからである。
べつのいい方で「官僚社会主義体制」とマイルドにいいかえているのは「文学」センスである。

きっと、政府の「カジノ調査団」は、世界各地のカジノをあるいて、じっさいにいくらすったのかしらないが、大勝ちしなかったもんだから、大勝ちしたひとから「徴税する」と発想できるのだろう。

すると、カジノでのチップ代は領収書がもらえないので、官房機密費があてられたことだろう。
ならば、少額でも勝ったなら国庫に返還すべきだが、そんな細かいことをされたらこんどは「入金」が面倒だから、じぶんの財布にいれたはずでもある。

豪勢な建物や奇抜な運送手段(候補地の横浜では、港にロープウェイをかけるそうである)などを用意して、キラキラなエリアを演出したい。
そのために、はたまた税金を投入するというのは、カジノ投資者からしたら、笑っちゃうほどに脳が溶けているとおもうだろうから、きっとじぶんの脚をつねってこらえているはずである。

国民資産をひろく吸い取るためにやってくるひとたちを、国民資産をつかって歓迎するとは、ほとんど「原始人」である。

そんななか、先月29日(一昨日)、北海道知事が候補地で初の誘致断念を決めたのは、理由はどうあれ「まずまず」であろう。

さいきんはやりの野崎まど作『バビロン』には、神奈川県に第二の首都になる「地域」という意味で、「新域」というエリアがでてくる。
相模原市、八王子市、町田市などの、「神奈川県内」にまっさらな「特区」ができて、そこに日本国内のさらなる「国内」ができたという想定だ。

  

コミック版、さらに、現在放送中のアニメ版がある。
作品自体「有害小説」という分野になるとの評価があるのは、子どもには刺激が強すぎるし、大人にもあわないひとがいるからだろう。
ましてや、どうやら「3巻」で完結しないらしい。

ちなみに、八王子市、町田市をふくむ「三多摩(北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡)」は、1893(明治26)年3月31日まで「神奈川県」だった。

注目の一点は「新域」という発想である。
従来からの規制のなにもかもを取り除いてしまう。
選挙制度も、選挙権、被選挙権ともに「規制」がないから、小学生だって投票も立候補もできる。
乳幼児がいれば、親が二票以上を握っていることを「許す」のである。

ほんらい、カジノという「悪所」は、江戸の吉原がそうだったように、大門をくぐれば身分がひらたくなる特別な空間ですらあったのだから、幕府権力も及ばない場所だった。
それは、高度な「自治」があったからであったものを、1957(昭和32)年4月1日の「売春防止法」施行によって、1612年以来の灯が消えた。

約350年もつづいた「吉原」の最後の夜も、だれもが翌日に「廃止」されるとはおもえない盛況だったという。
しかし、翌晩は、全店閉店のあっとおどろく「消沈」だった。
かくも国家権力がおよぶと、「自由」がなくなるのである。

新吉原女子保険組合が編纂した『明るい谷間』(1973年、土曜美術社)は、1952(昭和27)年刊の翻刻で、当時の「遊女」たちによる「文集」である。
その中身の「文学性」の高さには、おどろくばかりである。
永井荷風を代表するように、「客」に「教養」があったからである。

現代のカジノは、開業する前から役人たちが「消沈」させているのは、はたしてなんのためなのか?
当の本人も気づいていないことだろう。

もちろん、「客」に「教養」も必要ない。
ただ、客のカネを吸い取るマシンなのである。

政治が死ぬと、こうなる。

引きこもるおとなたち

年末をむかえて、どちらさまも来年度の町内会・自治会の新メンバーをきめる次期になってきた。
むかしは、町内会・自治会に加入するのは「あたりまえ」だったけど、いまは「任意」という名目が実質になって、歯抜け状態になっている。

各組の班長も、むかしは番地順に総当たりだったけど、高齢化もあって拒否されるから、なんだか早く順番がまわってくるようになった。
それで、班長から組長や役員をえらぶので、地元の「主」がいるなら固定的だが、いまどきの集合住宅だと難儀する。

古い町はとにかくなんでも、「主」が仕切るのがしきたりだ。
これはこれで、新規の住人がいじめられる事例が全国で発生する問題になっている。
わが国がいまだ封建社会であることを、奇しくもあらわす事例だ。

しかし、都会の集合住宅は別物で、「民主主義」ゆえの「面倒」が発生するのである。
法的な根拠がある「住宅管理組合」には、「資産価値の維持・管理」という目的があるけれど、町内会・自治会は「任意」かつ「住民相互扶助」という目的が成り立たない社会になってきている。

しかし、それでも「機能している」という前提にあるのが「自治体」という役所で、下部組織として便利に利用している。
だから、住民の側には役所に「利用されている」という意識がめばえて、よりいっそう町内会・自治会活動が「ムダ」におもえるのである。

すなわち、町内会・自治会の役員などを経験すればするほど、役所の町内会・自治会への支配(わずかな補助金をだす手法)が理解でき、その手先になることに疑問を感じるようになるメカニズムになっている。

ある意味、中学校の生徒会のようなもので、生徒が自主的に決めているようにみえるけど、じつは職員室が指示をだして、生徒たちに活動させているのだ。
快適な役所の空間から、末端の住民からはみえない、連合会組織などの上部組織をつうじて命じているので、よくにている。

そうかんがえると、わが国の役人たちによる住民支配の構造が学べるという意味で、町内会・自治会の役員を経験するのは役に立つことがある。

町内会・自治会の会合に地元政治家は入れないから、末端においても「政治」は住民から切り離されて、「行政」が住民と「寄り添っている」のである。
これは、ほんらい、逆ではないのか?

投資家として有名な「ジム・ロジャーズの日本衰退論」については、先月も書いた。
これを裏づける、たいへん身近なケースを体験したから書いておく。

町内会・自治会の班長をきめるにあたって、いったん承諾した二人の子持ちのお父さんが、名簿署名を拒絶して家にひきこもってしまったのだ。
チャイムを押そうがノックしようが、でてこない。
仕方がないので、一軒とばして80代でも元気な一人暮らしのお年寄りに頼んだら、あっさり引き受けてくれた。

別の班では、60代の夫婦ふたり世帯が「順番」になるのだが、とうとう県や市の広報紙から回覧板もいらないので、ぜったいに引き受けないと拒絶した。
そこまでして「強制」するのは「任意」にならないから、やっぱり一軒とばして80代があっさり引き受けてくれた。

「順番」だから一年早まるだけだ、という80代。
逆に、来年になったら生きているのもわからない、とも。

断ったひとたちの面倒くさいという気持もわかるが、自分か断ったらだれに順番がまわるのか知らないはずもない。
だから、「かんがえない」ことにしているにちがいない。

不便だったむかしは、隣近所と生きていたけど、便利になったいまは、じぶんたちの世界で生きていける。
たしかに、わが家だって全世帯にくばられる、県や市の広報紙をいつからか読んだことがなく、そのまま「古紙用」の袋に一直線だが、それで「こまった」ことがない。

その意味で、県や市という「自治体」と、住民生活が「分離」している。
もっと「分離」している地元政治家は、ひっつける「糊」として、税金をばらまくことに専念するしかなくなった。

台湾の李登輝(岩里政男)元総統のいう「公」の概念が失われ、「私」しかなくなったのが、戦後の「日本」だから、この意味でも戦前・戦中と戦後は別の国になっている。

いまや「公」の概念は、ロングテール状態で、なんとか「完全消滅」を免れているが、それは「極小化」の「微分状態」だともいえる。

子どもを前にして、「公」を棄て、自室に引きこもれる精神状態は、むかしだったら「異常」とされただろう。
しかし、そんなことはおかまいなしで、「引きこもったほうが勝ち」になるのである。

こんなおとなたちをみながら育つ子どもが、おとなになったらなにをしでかすのか?
わざわざジム・ロジャーズにいわれるまでもないことだ。

残念だが、そういう国になっている。

歴史がうごく師走

令和元年の師走である。
そして、来年はオリンピック・イヤーということになっている。
高度成長下の前回と、衰退期の今回は、グラフにすると「正規分布図」のような「山型」の裾になっている。

富士山でいえば、本当の火口ともいえる「宝永山」にあたるのが、田中角栄内閣の絶頂で、それから頂点のバブル経済によって上り詰めたら、砂走のごとく落ち込んでいまにいたる。

東京オリンピックや、大阪万博をやると、あたかも日本経済がふたたび繁栄するのだ、というかんがえは、「因果」をさかさまに捉えた、勘違いをこえるバカバカしさがある。
原因と結果という順番を逆にするからである。

その発想の由来は、ケインズ理論による「有効需要の創出」だろう。
社会に「需要がない」のなら、政府がなんでもいいから「需要をつくれば」、景気はよくなるという「あれ」である。
このかんがえを採用して、世界大恐慌の大嵐を乗り切ったのが、ヒトラーのアウトバーン建設に代表される巨大公共事業であった。

第一次大戦の敗戦による賠償金で、ドイツは経済破綻寸前だった。
そこに、巨額な公共投資をしたら、たちまち財政破綻して、ドイツはヨーロッパ最貧国になるとおもわれた。

ところがどっこい、失業者たちに仕事と賃金がいきわたって、たちまち経済復興してしまった。
これが、国民が熱狂したナチス支持の経済的側面である。

スターリンのソ連での「五ヵ年計画」の「大成功(という嘘)」と、ヒトラーのドイツの「大成功(という本当)」とで、ほんとうはどちらも政府主導の「社会主義」なのだが、日本の軍・官エリートたちは、「これしかない」と思いこんだのである。

戦争に負けて、軍のエリートは一掃されたが、官のエリートは無傷だったから、わが国はアメリカの指導のもと、官も解体されるはずが「なぜか?」されないで、そのまま「社会主義体制」がつづいた。

一昨日の11月29日に亡くなった、大勲位の中曽根康弘氏は、その一掃された軍のエリートのひとりだ。つまり、本当は「社会主義者」で、もっといえば共産主義に近かったが、それでは選挙に勝てないから、「右をよそおう」ことにした「芸人」である。

ところがあいにく、悲願の「内閣総理大臣」になる前の、いまはない「行政管理庁長官」で、あろうことか「自由主義政策」である、国鉄や電電公社、専売公社などの「民営化」をするはめになった。
世界を、サッチャーとレーガンによる「新自由主義」を基本にる「自由主義革命」=「反共産革命」が、席巻していたからである。

成り行き上、レーガンと盟友関係になったのだけれど、果たして本気だったのか?「芸人」は素顔をなかなか明かさないが、たまにポロリと変なことを言った。
靖国参拝で「私人として」とわざわざ言って、閣僚の「公式参拝」が以来一度もできなくなったりしたから、高等な「芸当」をみせてくれた。

さて、ケインズ理論が対応できる「条件」がある。
それは、利子率(名目金利)が一定以下になると、「流動性の罠」にはまって「金融政策が効かなくなる」ことだ。
ヒックスは「2%以下」と言っている。

そんなわけで、わが国はとっくに「流動性の罠」にはまっていながら、アベノミクスは効くはずのない「金融政策」に依存して、さらにオリンピックと大阪万博をやるという。
「アホノミクス」と呼ばれるゆえんだ。

政府がかならず関与するケインズ理論は、広義の社会主義である、と批判したのはハイエクで、そのハイエクの「自由主義」が、ただいま現在の世界の主流であるけれど、これを「徹底的にきらう」のが、日本政府で、洗脳された日本人一般だ。

歴史がうごくとき、時代を象徴したひとが世を去るのは、譲位があったからなにも「天皇」だけではない。
戦後昭和の大歌手、美空ひばりが平成元年(昭和64年)になくなったのも因果をかんじる。

さてそれで、100歳をこえた中曽根康弘氏の死去は、昭和の前後と平成をみつめたひとの人生だった。

今月は、わが国にとってとんでもなく重要な期限が、大晦日に設定されている。
・北がいう米朝協議の期限
・在韓米軍経費負担の大幅増について韓国側の回答期限
である。

北・南とも、半島の情勢を左右する。
わが国の存続にとってきわめて重要な、太平洋戦争以来、朝鮮戦争後つづいた従来の「地図」がかわる可能性がある。

これはまさに、中曽根氏が持つ従来の常識の「廃棄」がひつようになっているという意味でもあるから、彼は彼とともに「かんがえ方」も一緒に葬られることになったのだともいえるだろう。

そんななか、花見の善し悪しをグダグダ議論しているわが国は「亡国」ということを忘れたようだ。
ずっとむかしからあるからと、未来永劫、ひとつの国家が、自動的に継続するようなことは、人類史にない。

アメリカがかつて許さなかった「日本の自主防衛」を、トランプ政権は「やれ」といっている、戦後初の政権である。
はたして、この一大チャンスを、わが国は活かせそうにないことが大問題なのだ。

この「存亡」を意識して、国民が意思表明する台湾の総統選挙も、新年の1月にあるのに、日本のマスコミは詳細を伝えない「自由」を、例によって発揮している。

オリンピック・イヤーが吹っ飛ぶような、不穏さが新年早々にやってくることが決まっている。

官僚が辞めている

大型台風の前日に、国会質問を出した、出していない、という言い訳合戦になったのは、SNSで中央官庁の「国会班」のだれかが「遅い」とか「帰れない」とつぶやいたことではじまった。

「国会班」とは、全省庁にあって、衆参両院からの「質問」に対して、「政府答弁」を書き上げる部隊のことをいう。
国会会期中は自動的に役所に詰めることが「必要」になるので、24時間体制の過酷な職場である。

企業でいえば国会は、株主総会のようなものだけど、むかしは数十分でおわった株主総会も、いまなら数時間から半日、ながくても一日でおわる。
ところが、国会はだんぜん長いので、総務部の「想定問答づくり」のたいへんさの数百倍のたいへんさが国会班にやってくるのである。

どうしてこういうことになっているのか?といえば、「行政府」に実権がある国だからである。
大正デモクラシー以来、わが国政党政治の「欠陥」は、政党内にシンクタンクが「ない」ために、行政府の官僚が、「政策の企画立案」をしているので、政権与党にいても官僚頼みになるしかない。

かつての「みんなの党」が、珍しかったのは、政党が外部シンクタンクに政策立案を依頼したことにある。
オーナー党首だった渡辺喜美議員みずからが、このことを自慢している。

つまり、既存政党は、外部シンクタンクにさえ政策立案を依頼しない、ということである。
もちろん、政権与党は上述のように、それを官僚組織に依存しているから、全国津々浦々、すべての「自治体」も役人が企画立案をしているのは、政党の中央にないものが地方組織にあるわけがないからである。

高級官僚になることの「魅力」は、この「政策の企画・立案」が任されるからである。
その資格を得るには、いちばんむずかしい公務員試験に合格することで、そのために、いちばんむずかしい官立の大学の法学部に入学することであった。

つまり、受験戦争の元凶のひとつに、高級官僚になる、ための方法として「てっぱん」が存在する。
子どものころから、勉強一筋がんばって、ひとたび高級官僚に採用されれば、ろくな仕事をしなくても、入省後のお気軽な人生が約束されたも同然だからだ。

しかし、そんなひとばかりでなく、ちゃんとした「こころざし」ある若者だっている。
けれども、その純粋な「こころざし」とは、天下国家はじぶんが動かすということだ。

民主主義が定着しているならば、「議員」をめざすのが「筋」というものだが、「議員」はお飾りにすぎないと、若い時期に確信するのが優秀さの証明だから、学校を出てもだれも「議員」を目指さない。
そのかわり、中央の役人として課長ぐらいの肩書きで、次官、局長ににらみをきかす「議員」になるのだ。

これは、一種の「下剋上」である。
しかし、次官、局長の「老獪」さは、かつての部下を「先生」と呼びながら、自省の省益に役立つように「仕込む」のである。
それは、出身省庁からの「情報統制」で可能になる。

どんなにこころざしがあっても、数年もすれば出身省庁の実態からかけ離れるので、むかしの「つて」をたどって情報をいち早く得て、党内議論でのイニシアチブをとりたい。
さすれば、一目置かれ、党内序列があがる。

これこそが、こころざしを達成するための近道だと思い込まされるから、情報統制されるとじぶんの価値がなくなるほどに思えるのは人間の心理である。
こうして、下剋上のはずが、省庁の手先になる仕組みがある。

徳川幕府を倒した明治政府とは、あたらしい幕府だった。
「幕閣」とは、三権を握るひとたちのことで、将軍だって大奥にこもっても、政治がちゃんと動いたのは「歴史」がおしえてくれる。

これができたのは、「鎖国」をしていたから、幕府は国内だけみていればよかったが、「黒船」で外国との交渉を余儀なくされたら、たちまち体制が揺らいだのは、「トップ」はだれだ、「トップ」に会わせろと外国側から「強要」されて、はたと気づいたのである。

「将軍」と「天皇」のどちらが「トップ」なのか?と。

そんなわけで、明治政府とは、外国人にトップは「天皇」だということを基準に、政府自体は「幕府」とおなじ、幕閣ならぬ「維新の功労者」という「仲間うちだけ」で三権を握ったのである。

この体制を崩さないように、慎重に書き上げたのが「明治憲法」である。
この「憲法」のコンセプトは、さらにあたらしい幕府をつくらせない、という決心に基づくので、天皇以外の中心がなく、ぜんぶバラバラの体制なら「安全」とした。

総理大臣にだって、閣僚任命権も罷免権もない、あんまりバラバラで「決まらない」から、戦争遂行にじぶんでたくさん役職兼務した東條は、戦後に「独裁者」だと批難されるが、東條の本音は独裁者なんて「不可能」な設計が明治憲法にされていたといいたかっただろう。

日本国憲法は、明治憲法とは別物になったが、無条件降伏した「日本軍」とはちがって、条件降伏した「日本政府」の官僚機構は「無傷」だったから、そのまま三権支配を維持していまにいたるのである。

昨日、香港人権民主主義法がアメリカで成立し、フランス、イタリアやイギリス、ドイツにカナダ、オーストラリアでも同様の法律ができそうなのに、わが国で「議論すら」されないのは、「人権民主主義法」を管轄する「役所がない」から、企画も立案もされないのである。政治はとっくに死んでいる。

そんなわけで、あたらしい鎖国をしているわが国だから、政府官僚という幕閣の完璧支配が、野党の言い分まで奪うから、国会質問といってもなにを質問すべきかがわからないので、さまざまな「イチャモン」の波状攻撃しかできない。その「イチャモン」への「答弁書」を夜を徹して書かねばならないバカバカしさが永久に続くのがこの「体制」なのだ。

これに「嫌気」がさした、優秀な官僚が辞めている。
優秀な人材が、役所からいなくなることを「危機的」というひとがいるけれど、民間にやってくるのはいいことだ。
それに、民間活動のじゃましかしない「政府」が弱体化するのは、ぜんぜんわるいことではない。

官僚を民間へ「追い込み猟」をする野党は、「この一点」だけだが、国民のためになっている。

めでたしめでたし。

東海道新幹線のリアル英語放送

車掌さんによる案内放送だけでも、世界的にはめずらしい。
さいきんではヨーロッパでも、新型車両の特急だと車内放送があるが、旧型の客車だと特急でも「無言」がふつうだから、日本からの団体ツアーで新型に乗るだけだと、日本とのちがいをあまり感じないかもしれない。

いや、むしろポーランド国鉄の新型車両の特急は、各席に電源があるし、車内販売での飲み物が一乗車につき一杯だけソフトドリンクが無料で提供されるので、電源が窓側にしかない日本の新幹線よりも便利で、かつサービスだってわるくない。

もちろん、運賃の安さは、日本とくらべれば比較にならないほど安いので、うれしいかぎりだ。
片道2,000円も出せば、3時間程度の鉄道旅行ができる。
そうかんがえると、日本の新幹線の料金は、暴力的に高価である。

東京-京都の片道正規料金は、「のぞみ」指定席で14,000円ほどだ。なので、一家4人で往復すると、112,000もする。
LCCの国際線なら、一家でソウル往復がおなじ料金で可能だ。
もちろん、割引チケットもあるし、外国人なら特別パスもあるけれど。

そんな新幹線で、ちょうど昨年12月から、車掌さんの肉声による英語放送がはじまっている。

こんなことが「ニュース」になるのが「日本」だ。
従来からの、録音も併用して放送している。
車両端通路ドアの上には電光掲示板があって、こちらもバイリンガルだから、外国人がこまることはすくないだろう。

いま、駅は多言語対応になっていて、日本語、英語(アルファベット)、中国語、ハングルの4カ国語を目にするようになった。
動かない「看板」ならいいが、電光式だと中国語とハングルの時間分が、なにを示しているか表記がわからなくなる。

それに、構内の音声放送でも、中国語とハングルの時間分、なにをいっているのか見当がつかないのは電光式とおなじである。
「国際的」だということなのだろうが、はたしてここまでする必要があるのか?と、あえて苦言を呈したいのは、なにも中国語とハングルをディスるわけではなく、英語だけではダメなのかといいたいのだ。

もし、日本がほんとうに「国際的」になったのなら、ぜんぶ日本語で通す、というほどの「根性」があってもよさそうだが、フランスのシャルル・ド・ゴール空港でも英語放送をするくらいだから、「英語だけ」でなにがいけないのか?

これは、逆に、日本人の自信のなさ、を表現していないか?

その意味で、世界に冠たる「東海道新幹線」が、基本的に日本語と英語だけに絞っているのは「なかなかの根性」なのだと好感評価できるのだ。

けれども、やっぱり鉄道会社の「幹部」が鉄道の旅をしていない、とおもうのは、「ここぞ」というタイミングでの案内がないからだ。

たとえば、通過駅の表示、長いトンネルや鉄橋の表示がないのである。
通過駅の表示が、日本語だけなのはなぜか?

しらない国で、いまどこを走行しているのかをしるためのランドマーク的設備ぐらい、英語で電光掲示してもバチはあたらない。
それに、新聞各社が提供している「ニュース」だって、どうして英語版がないのか?話題がローカルすぎるからだろうか?

車内販売の案内放送も、日本語だけの不思議がある。
外国人観光客向けの「車内限定品」があったら、買いたくなるし、その体験が「観光」を形成するのである。

前に山陽新幹線の観光放送を書いた。
新大阪から西は、運行がJR西日本に交替する。
グリーン車だと、まずお手拭きが配付されて、ゴミの回収にも巡回してくれる。

だから、山陽新幹線から東海道新幹線になると、サービスのちがい、が歴然とする。
「会社」による「標準サービス」が、おなじ車両に乗っているだけで体験できるのは、あたかもヨーロッパ的だ。

IC(インター・シティ)特急は、国境をこえて主要都市を結ぶけれど、大陸内なら、いまはパスポートをみせるだけでほぼすむ。
ブレグジットのイギリスと大陸をむすぶ「ユーロスター」は、乗車時にパスポート・コントロールがあるから、これには時間の余裕が必要だ。

この意味で、東海道新幹線と山陽新幹線、それに九州新幹線は、全区間を乗車しようとすれば、「国境」ならぬ「会社がちがう」ということになって、国内なのに会社ごとのサービスがことなるという、世にも珍しい体験ができるようになっている。

東海道新幹線のリアル英語放送は、その中のひとつなのである。

それにしても、北海道会社と四国会社とをつくったのは、いまさらながらにどうするのか?が気になる。

「マネした電器」はすごかった

幸之助翁の「語録」は、いまでも「新刊」で購入できる。
さほどに示唆に富んでいるのは、さすが「経営の神様」である。

しかして、かれが創業・経営して、電球や二股ソケットをつくる「町工場」から、世界に冠たる巨大電器メーカーになっても、業界筋から「マネした電器」と陰口を叩かれたものだった。

けれども、ぜんぜんひるまなかった理由はなにか?

いいものを安く、大量に供給する、という信念があったからだ。
おなじ関西人どうし、ダイエーの創業者中内功氏と、根本では似ていた。
ちがうのは、「作り手」と「売り手」という立場だ。

まさに時代は、「大量生産・大量消費」をおう歌していたのだった。
だから、幸之助翁亡き後、ものが行き渡り、時代が「多様化」して、「多品種・少量生産」になると、たちまちにしてビジネス・モデルの再構築をしなければならなくなった。

これが、80年代後半のバブルがふくらむ前、つまり80年代の前半にさかんにいわれた「リストラクチャリング」の必要性だった。

中内氏がつくりあげた「流通革命」は、「作り手」と「売り手」の立場を逆転させて、「作れば売れる」から「売りやすいもを作る」に変えたのだ。

幸之助翁が構築した「直下のショップ」が、大手電器メーカーなら競って真似たビジネス・モデルだったのは、量販店など存在しない当時、商店街の電気屋さんを「囲い込む」ことが、最大の販路拡大手段だった。

なので、他社が「新発売」した機器を、おどろくほどのスピードでコピーし、さらに、機能を足し込んで「新発売」しないと、お客が「直下のショップ」から、他社の直下のショップに移ってしまうおそれが経営上もっとも重要なことだった。

そして、その主戦場は、テレビとラジオだった。
独自技術をもつソニーに対して、ソニー以外の陣営はソニー以外の技術を競うことになる。
しかし、「メカ」がインターフェースの主流だったから、かならずそこが「故障」した。

それは、いまはなき「回転式チャンネル」だ。
ガチャガチャと回して局を変える。
観たい番組が家族でちがうと「チャンネル争い」がおきたのは、テレビが一家に一台しかなかったからである。

リモコンのはしりは、回転式チャンネルがリモコンでまわる、という機構をつけたものだった。
電源と回転方向のボタンしかなかったが、座ったままでチャンネルが変わるのは画期的でもあった。しかし、よく故障した。

なので、各社の「直下のショップ」から修理にきてもらう必要があったから、テレビは近所の電気屋さんで買わないと、どこに修理をたのんだらいいかわからなかった。

それに、そもそも「電気屋さん」のおじさんは、ラジオ修理の技術者が本業だったので、店には「部品」があふれていた。
小中学生のころ、自作のラジオをつくりたくて電気屋さんに相談したら、ガタガタといろんな棚から部品をさがしてくれて、「これだけあればできるよ」といって、ただでくれた思い出がある。

そんなわけで、街の電気屋さんは、「すごいひと」だった。
トランジスター・ラジオを開発したのはアメリカ人だったけど、これを大量につくって売ったのはソニーだった。
だから、ソニーのラジオはいまでも「ブランド」である。

ところが、「感度」ということでいうと、「松下」はすごいから、こちらも負けずにいまでも「ブランド」である。
なのに、どちらもとっくに「日本製」ではない。いまどきどの国でつくろうがどうでもいいが、「こだわり」まで抜けていないか?

さらに、AMラジオ放送が終了してFMに統合されることになった。
これまでの「AMラジオ専用機」がゴミになる。
「電波」のつかいかたを効率化しないと、「5G」やら「6G」の時代に対応できないための犠牲である。

技術の進化と、消費者の選択肢の幅がひろがったことで、「直下のショップ」で買わないといけない理由が減衰するのは「修理の必要がない」ことからであった。
それで、「量販店」が台頭したが、いまは量販店も「展示場化」して、注文はネットになった。

ほとんどのものが普及して、なにが新製品なのかがわからない。
それで「検索」するのがネットだから、お店のひとよりも消費者のほうが詳しいときがある。
詳しくないひとがいるお店は、そのまま信用されないから、ネットで購入するのである。

「マネした電器」がすごかったのは、その「コピー力」だった。
コピーするための「分析力」を、そのまま「製品化」に応用して「販売」してしまうのは強力な「情報力」が根幹にないとできない。
いまは「中国メーカー」にビジネス・モデルごとコピーされた。

しかして、「マネした電器」の真骨頂は、いまやパソコンにある。
軽量にして強靱、そしてバッテリー駆動時間で他社を圧倒し、だんとつの「高単価」だ。
CPUはどのメーカーもおなじなので、同条件による「突出」に成功したのは「すごい」のである。

この「ビジネス・モデル」を他の製品に展開しないのが不思議である。

じつは、「作り手」も「売り手」も、「情報産業」になって、おなじ土俵で商売しているのである。

タレント発掘番組は娯楽ではない

アメリカNBCが2006年から放送をはじめた、オーディション番組で、翌年からイギリスITV(最大・最古の民間放送局)でも開始された。
あの「ポール・ポッツ」も「スーザン・ボイル」も、この番組から誕生しているのでご覧になったむきもおおかろう。

世界各地に拡大開催・放送されるようになったので、さいきんでは「世界一決定」までになっている。
おなじ「フォーマット」で開催を実施しているのは上記の他に、
・オーストラリア
・韓国
・ドイツ
・スエーデン
・中国
・クロアチア
・デンマーク
・フィンランド
・オランダ
・ノルウェー
・ポーランド
・ロシア
以上、ぜんぶで14カ国ある。

いわゆる「タレント」といっても「才能」のことなので、「歌手」や「アイドル」といったジャンルをこえているのが特徴で、むしろ「エンターテインメントの才能」があれば、なんでもいい。

本家アメリカ版では、優勝賞金100万ドルとラスベガスでの公演にメインで出場できる。
イギリス版は、女王はじめ王室メンバー御前でのパフォーマンスと、賞金25万ポンドとなっている。
たかが「民放」の「娯楽番組」で、「王室」が「特典」としてでてくるのだから、およそわが国では「ありえない」ことでもある。

しかも、順番が「賞金」ではなく「王室の御前」が先なのも、イギリス版をしてイギリス版せしめている。
アメリカ版では、「賞金」がトップである。

フランスをのぞく米英露中で同一フォーマット番組があることが、興味深いし、日本版がないのはなぜだろうか?
それでも、日本人は出場していて、2013年にはアメリカ版で『蛯名健一(ダンス)』が初優勝している。
その後もたくさんの「才能」が出場しているのだ。

この意味でもこの番組は、国内地上波では観ることができない「情報番組」になっている。

オリジナルの番組としては、審査員の「毒舌」ともいえるほどの「厳しい講評」も「売り」である。
他人がきいても耳が痛いはなしは、聴きようによっては「いじめ」のようにもなるが、その「適確さ」が「ショー・ビジネス」の裏側を一般人も垣間見ることができるようになっている。

もちろん、「言い過ぎ」については、観客が審査員に容赦なく「ブーイング」をおくるのだ。
審査員はその「ブーイング」に、「反論」か「詫びる」というどちらかの対処をするが、反論には説得力があり、詫びには非を認める理由を添えている。その「理由」がたとえ「屁理屈」であってもだ。
すると、観客はさらに「ブーイング」をあびせるのである。

ブーイングを喰らっても、気にとめない態度と、屁理屈でも言い訳することこそ、「白人的ふてぶてしさ」である。
善し悪しをこえて、こうした「態度」が「世界標準」であることも学べるのだ。

とはいえ、緊張して自信のない出場者は自己紹介で、おもわず厳しい男性審査員に「Sir」をつけてしまうが、ちゃんと「呼び捨て」にするようにうながすのだ。

このことが、「日本版がない」ことの理由ではないのか?
さらに、審査員適格者が「いない」ことにも原因があるのではないか?とうたがう根拠になる。

つまり、番組制作者やスポンサー、あるいは「業界」におもねることはできても、「ショー・ビジネス」からの「商品開拓」ができないということだし、日本の観客は権威ある(はずの)審査員に、「ブーイング」などしないし、もしそれが起きたら「ニュース」になってしまうだろう。

もちろん、司会者だって、審査員には「先生」をつけて「さん」呼ばわりもしない。
「先生」なら「先生らしい」講評をすべきところ、「できない」のである。

つまり、審査員としてこの番組への出演は高いリスクを負うことにもなる。
日本で想定できることは、「厳しい講評」をいうことはなく、適度なダメ出しコメントにならざるをえず、外国版にくらべれば「迫力」が減衰することになるだろう。
「リスクは避けるモノ」だからだ。

いつからこんな「脆弱な文化」になってしまったのか?

かつて、日本テレビが放送していた『スター誕生!』(1971年~1983年)は、ジャンルを「歌手」に限定していたが、敗退した出場者が泣き出すほど「厳しい講評」が連発されていた。
けれど、だれも「いじめ」とはおもわない、かえってそれが「本人のため」という説得力にあふれていたものだ。

なにも、はるかとおい過去に、「最低辺身分」としての「芸人」がいたからという意味ではない。
もちろん、はるかとおい過去、とは、ついぞこの間の昭和の時代にまであった。
歌舞伎から「人間国宝」が輩出されるようになったのはいつからか?
能と狂言は、ずいぶん前から朝廷が保護下においている。

このあたりの、むかしの事情は、隆慶一郎『吉原御免状』、続編の『かくれさと苦界行』にくわしい。
ちなみに、この2作品は本編ともいえる大作『影武者徳川家康』を読み込むための「準備編」でもあるし、並行世界の「外伝」でもある。

  

  

それは、残念ながら会場に詰めかける「客層」のちがいにもあらわれているように感じる。
日本では、じぶんの興味ある特定分野いがい、反応しない傾向がある。「お客さん」になるのだ。

しかし、外国の会場はそのようなことはいっさいなく、出たとこ勝負の出場者と同様に、これからなにがはじまるのかの好奇心の高さであふれている。
すごいものはすごい、と素直に評価する。

「世界」がみえてくる。
「世界」をみせてくれる。

これは、「娯楽」をこえて、れっきとした「情報教養」番組なのである。

さっき買ってくれたひと

いまさっきのことが記憶できないと、集中力の欠如とか、加齢やもしやの病気をうたがうはめになる。

1971年にアメリカからやってきたので、まもなく半世紀になるハンバーガー・チェーンは、例によって日本的サービスを展開しているものの、それは、世界の店舗におけるサービスが、あまりにズサンだからの比較結果でもある。

高級な接客サービスを目論むひとたちからすれば、まるで悪の根源のようないいかたをされるけど、ファストフードというビジネスにおけるスタイルとして完成されているという評価をしないから、はなしがもつれるのである。

しかし、どんなに日本的な丁寧で迅速な対応をしようとも、そして、その結果として、アメリカ本国や他の先進国からの外国人客がその対応を「絶賛」しようとも、さっき買ってくれたひとを記憶しないふりをする、だから、やっぱり「記憶しない」ということにおいて、まったく世界共通なのである。

誤解しないでほしいのは、この会社のビジネス・モデルとして、「記憶しない」ということを前提としていて、それを世界で実行しているということをいいたいだけで、「良し悪し」をいいたいのではない。

つまり、さっき買ってくれたひとを記憶していても、記憶していないふりをする、あるいは、ほんとうに記憶しないとしても、ビジネスがなりたつように設計されている、ということだ。

おおむねどんなひとでも、従業員になれる、という特徴があって、客側からすれば「どうして覚えていないんだ?」ということが全世界で共通の話題になっても、これを「無視できる」強靱なモデルになっているのである。

これが、やっぱりアメリカからやってきた、「コンビニエンス・ストア」という業態でも採用されたのは、「便利さ」という「機能」を切り取って強調し、町内の知り合いがやっている個人商店と棲み分けるためだった。

阿部寛が好演する『結婚できない男』におけるコンビニでの買いものシーンの「おかしさ」は、いま放映中の続編『まだ結婚できない男』でも採用されて「定番シーン」になっているのは、視聴者の無意識の共感を得るための重要性があるからだろう。

阿部演じる「桑野」が異常者なのではなく、だれにも日常の「店の異常」をもって、じつは「桑野」は悲しき被害者にもなるのである。

すると、これら「さっき買ってくれたひと」を無視できるビジネス・モデルをもって、はたして「接客の理想」あるいは、「ファン作り」としての普遍性を見いだせるのか?と問えば、「真逆」こそに真実がある。

それは、かれらがもともと選んだ「棲み分け」を実現するための「機能」を、一般的な商売につかってはならない、ということである。
一般的な商売とは、「顧客創造」のことだ。

もちろん、ファストフード・ビジネスも、コンビニエンス・ストアも、「顧客創造」をしているが、そのプログラムの「特殊性」が一般的ではなく、またそれがこれらビジネスの成功要因になっているとしれば、かんたんにまねのできるものではない。

さっき買ってくれたひと、嵩じれば、昨日買ってくれたひとを、どうやって覚えるのか?
そして、なにを買ったのか?ということにまで遡及できれば、おどろくほどのビジネス・チャンスが、買ったくれたひとからやってくる。

それは、かつての新幹線の社内販売のカリスマ「斉藤泉」さんが体現したと前にも書いた

購買者である客の心理で、もっとも重要なことは、「じぶんのことをしっている」ということの「確認」ができた瞬間だ。
この瞬間に、客がかってに「全面的信頼」を開始していて、さらに、もっとじぶんをしってほしいという気持になるからである。

パーサー不足で、JR東日本は新幹線の社内販売を終了するとニュースになった。
これを決定したひとたちは、列車で旅をしたことがないらしい。
高級乗用車の後部座席に身を沈めて、鉄道管内を高速道路で移動しているにちがいない。

パーサーに情報を提供する方法をかんがえない。
パーサーの個人的記憶力や集中力に依存しながら、時給を「高い」と断定している。
それに、売れたときの「歩合」もあるのか?つまり、インセンティブのことだ。

こうした「欠如」をしているのに気づかないのが、「幹部」という「患部」なのだ。
はたして、「斉藤泉」さんを、教育指導員にしておきながら、こうしたことができるのは、ぜんぶ彼女に依存したからにちがいない。

この会社の「元国鉄」だった官僚主義のDNAが、民営化で消失したのではなく、確実に保存されたことがわかる。

ようやく支払方法に交通系ICカードが採用された。
検札にこなくなった理由は、電子的処理を車掌の端末でしているからだ。
ならば、せめて号車と席番号による購買記録をなぜとらぬのか?

駅の売店で乗車前購入しようが、足りないこともあるし、車内限定品だってある。
スマホから切符が買えて、どうして車内販売の物品(駅弁などの)予約ができないのか?

それを受け取るときに、別の商品だって購入できる。つまり、販売チャンスがふえる。

「駅ナカ」ばかりに夢中のようだが、「車ナカ」こそ価値がある。

さっき買ってくれたひとを覚えさせる方法ぐらいかんがえろ、というのはわがままなのか?

とかく鉄道会社は「私鉄」でも、客を「流体」としてしかみない傾向がある。鉄道管理局がそうさせるからである。
だから、子会社・関連会社での鉄道以外の事業における「客」も、たんなる「流体」として認識されてしまうのは、本社からくる3年交替のエリートたちが、「流体」だと訓練されているし、そうでなければ「社内」でエリートになれないからである。

この「応用力のなさ」は、自分たちの「事業構造」を客観的に分析できていないことの証拠だ。
客は、安全に流せばよい、とする国の管理に依存しているだけなのだ。

他のサービス業界のひとは、けっして真似てはいけないよ。