量販店の時計売り場にいってきた

目的はプレミア時計ではなくて、量産されているものだから、素直に量販店に行くのがわたし流である。
それにしても、量販店でもそれなりの「高級品」はある。

腕時計にどのくらいの価値を見出すのかは、ひとそれぞれだが、「時刻と時間をしる」という意味のニーズなら、せいぜい「数万円」でたりる。

むかし、ど根性ものドラマの原作で一世を風靡した花登筐(はなとこばこ)氏が、いまにつづく信じられないほどの長寿インタビュー番組に出演して、当時数千万円の腕時計を見せたあと、ポケットから数万円の時計をだして、実用しているのはポケットの時計だといって笑っていた。

数千万円のほうは一日で数分狂うが、こっちのは数秒も狂わない、と。
だから、分単位、秒単位のテレビの仕事には、ポケットの時計がないと仕事にならない。

それなら、そちらの「高価」な時計はなんですか?ときかれたら、「見栄です」と即答していた。
「見栄だから、これは時計ではない」という説明が、新鮮なおどろきだった。

なるほど、それで男性ものの時計でも、高価なものは「ブレスレット(腕輪)」というのかをしったから、なんだか物知りになった気がした。
時計ではなく、すばらしい飾りの腕輪が時計のかたちをしているのだ。

若いころ、スイスにひとりで旅行して、ジュネーブの時計屋通りを散策した。
ぜんぜんしらない時計屋の豪華なショーウィンドウを覗いてみて、その「桁違い」に驚嘆した。

こんなにたくさん「腕輪」を売っているのだから、たくさんのひとが買っているにちがいないが、どういうひとたちなのか見当もつかなかった。
オリンピック競技の計測で有名なメーカーは、「中の下」とかいうひとがいたけれど、なるほどそんなものかともおもったものだ。

せっかくなので、「中の下」でいいからひとつ買ってみたが、数年でこわれてしまった。
仲間からは「一点豪華主義」をわらわれたが、残念な買いものだった。

ジュネーブの酒場では、「カシオ」がスイスメーカーだというスイス人がたくさんいた。
レマン湖のほとりには、たくさんの広告があったけれど、どこにいっても「カシオ」のものは目立っていたからだろう。

クォーツの時計が一般人にも買えるようになったのは、わたしが高校生になったころだ。
ボタン電池で駆動するため、分厚さがなんとも無粋だった。
高級時計は薄いものだという常識が、このときにはこわれかかっていた。

機械式を席巻して、あまねく世界にひろがると、希少価値にまで減少した機械式が見直され、こんどは数千万円の価格がつくものにクォーツはない。
安物の代名詞になったのか?

そうはさせじと、クォーツの時計は、多機能化という生き残り戦略をとるのは必然で、電気をつかうことの意味から、とうとう「発電」にいきついた。
それから、時報の電波を受信して、時刻を修正する機能もついた。

ずいぶんと国内二局対応だけで、外国では「ただのクォーツ」になっていたが、世界各国の時報をひろう機能ができたし、GPSまで受信するようになった。
これに、ボディーの素材がステンレスからチタンになって、おもちゃのような軽量化もされている。

どうやって堅いチタンを精密に加工するのか、ぜんぜんわからないけど、ソ連が崩壊したときに、あまった在庫のチタンでスコップをつくったのは、ロシア人がなにをつくっていいかわからなかったからである。かくして、世界最高峰のスコップがうまれた。

量販店のシステムは、どのフロアーのどの売り場も、量販店の社員は会計をやっていて、ついぞ商品説明はメーカーからの派遣になっている。
そんなわけで、メーカーをこえた同類商品の「串刺し検索」が苦手である。

ならば自社の商品検索はどうかといえば、カタログを暗記するにも苦労するほど「多品種」を売りにしていれば、販売員が気の毒になるほど選ぶのがむずかしい。
つまりは、客にとっての選択基準が、値札以外の見た目ですぐにはわからないのである。

すると、多品種のメーカーとは、いったいどんな「コンセプト」で開発設計し、商品化を決定しているのか?
自社内ブランドの棲み分けと機能共通性の組合せが、まったくもって「無限大」の様相をしめすから、その「ややこしさ」は半端ではない。

運悪くわたしに声をかけてきた販売員は、見た目も若いお嬢さんで、まだまだ新入社員のような風情であった。

どうやって社内の開発設計チームにフィードバックされているのかなぞ、ちょこっと売り場にやってきた消費者に知る由もないが、ここに「販売拡大」の要素が埋めこまれていると、悩めば悩むほど焦れったくなるのである。

あぁ、帯に短し襷に長し。
ならばと、予算枠を売り場の最大に拡大してみても、決定打に欠く商品群とは、どうなっているのか?
機能スペックをマトリックス(一覧表)にしていない証拠である。

世界的量産大手でこれである。
もしかしたら、ブランドごとに担当する役員がちがっていて、横の連絡もままならないのかもしれないと、勝手に想像するにいたった。
このひとたちは、ほんとうに「時計」をつくっているのだろうか?

まことに「販売員」が気の毒なほど、あれこれとつき合わせてしまった。
さいごに、検討の選択肢にのこったモデル番号をメモして、カタログとともにわたしてくれた。

彼女は、いい仕事をしているのになぁ。
買わないのは、販売員のせいじゃなくてメーカー自体にあるという事例である。

その横のコーナーに、電卓のカシオさんの時計があった。
まさかと思って、こんなのがあるかと希望を質問したら、「あります」という。

「即決」である。
時計屋がつくる時計が、コンセプトの混乱をしめすのをたっぷりみたあとだ。

電卓屋は、コンセプト設計がうまいのか?いや、たぶん「量産」に愚直なのだ。だから、機能を合理的に追求する。
機械式でなく、「クォーツ時計専門」だと割り切れば、スイス人がスイスメーカーだと言い張っていた意味が、数十年ぶりにわかった気がした。

それでわたしは、時計よりも「コンセプト」を買ったのである。

14K万年筆とソーラー電波時計

万年筆マニアには、「インク沼」という魔界が存在している。
しかしながら、これらは概ね「水性インク」の分野をいう。
万年筆用インクには、ビールに「エール」と「ピルスナー」の二分類があるように、「水性系」と「顔料系」の二種類がある。

主流といわれているのが、水性系で、その色彩の多様さは数えきれないから「沼」と表現されて、いったんはまるとなかなか抜け出せない危険性にあふれている。
デスクまわりが、インク瓶だらけになってしまうのだ。

しかも、こちらは「化学合成」されたインクなので、「混ぜる」ことは御法度である。
ちがうインクをつかうには、万年筆内部をきれいに洗浄してからでないと、機構内部で化学反応をおこし、不具合のもとになる。

万年筆好きは、この洗浄作業もあじわっているのだが、面倒におもうひとには「ガラスペン」が人気だ。
さっと洗えて、すぐに別のインクをつかうことができるし、書き味のカリカリ感が、手に心地よい。

ただし、水性系は時間経過によって「退色」する。
数年で文字の判読ができなくなることがあるので、保存したい書面ならじゅうぶん注意したい。

水性系の異色に、「ブルー・ブラック・インク」がある。
これは、ほんらい「青と黒の中間」という意味ではなく、タンニン酸と鉄イオンをふくむ、化学反応によってインク色を紙に定着させるものだ。

なので、書いたときの「ブルー」色から、時間がたてば、「ブラック」に変化する。
さいしょのブルーが「退色」して、酸化反応によって鉄イオンが「黒」になってあらわれるのだ。よって、時間による退色はすくない。

最新技術の「ブルーブラック」は、水性で「青と黒の中間」という意味になったので、ほんらいのものに「古典」をつけて区別している。
「古典ブルーブラック」は、かなりの「酸性」だから、安い鉄ペンだとペン先が腐食するから注意したい。

一方の「顔料インク」は、そのまま「顔料」という、水に溶けない粒子状の材料をつかっている。
水溶性ではない、ということから、いったん乾くとしっかり定着して、うえから水をかけても溶け出さない。

つまり、書いた文字の耐久性が高いのである。
ほとんど退色もしないから、重要文書や公文書などには、顔料インクが欠かせない。
古文書が、紙がもてば千年単位で保存できるのは、蝋燭のススからつくる、伝統的な書道の「墨」も、顔料インクだからである。

ただし、こちらはメンテナンスが面倒で、ペンの機構内で乾燥してしまったら、固まって、万年筆が万年どころではない事態となる。
「洗浄キット」という化学物質で溶解させるか、メーカー修理ということになる。

だから、顔料インクを万年筆に入れるには、ふだんからよくつかうものや、キャップの機構で、乾燥をふせぐ機能のものでないと「こわい」ことになる。
さらに、メーカー保証ということを考慮すれば、顔料インクと万年筆はおなじメーカーで一致させないと、修理保証さえ危ぶまれる。

そんなわけで、一本、つかいたい顔料インクのためにそのメーカーのポップな14K万年筆を購入した。
ちなみに、外国製の顔料インクは、ふつうの文具店では入手困難なので、今回購入したのも国産メーカーのものである。

わたしは、筆圧が強い方なので、14Kのペン先が一番好きだ。
18Kでは「柔らかすぎる」し、鉄ペンやステンレスは、やっぱり「引っかかる」からである。

ほんとうは、購入後しばらくつかったら、ペン先のメンテとしてプロに磨いてもらうとよいのはわかっているが、なかなかそうもいかないままに「満足」している。
きっと、おおちがいの「満足」があるはずである。

そうこうしているうちに、愛用の腕時計がこわれてしまった。
三本所有の機械式が、これで全滅した。
単純にソーラー式のものが一本、電波ソーラー式が二本。
こちらは、ぜんぜんこわれない。ただし、電波ソーラーの一本は、秒針がドンピシャではないけど、実用にはこまらない。

外国の電波もひろうのがさいきんの電波ソーラーで、高級品はGPSとの連携で「自動時間修正」されるという。
中の機能はどうなっているのか?おしえてもらっても理解できないだろうけど、放置していて時間を刻みつづける便利さは、数百万円以上のものとは、価値の意味がちがう。

スマホがあるから、腕時計は不要だといういうひともいるが、そうはいかないときもある。
見せびらかすためのものではないけれど、じぶんに必要な機能のものなら購入を検討するのもありである。

そんなことをしていたら、あたらしい万年筆と電波ソーラー腕時計が、ほぼおなじ値段であるのに気がついた。

意外にも、万年筆屋は高価なものを売っているのか?それとも、時計屋が安いものを売っているのか?
部品点数と精密さにおける勝負なら、電波ソーラーに。
その精密さを、ひとが調整している勝負なら、万年筆に。

価値と価格の難しさは、消費者の「欲しい」によっても変わるから、やっぱり計画経済は成り立たない。

さて、それで、どうするか?

階段は必ず手すりにつかまる

登るときも降りるときも、必ず手すりにつかまる。
エスカレーターは、うごく階段だから、やっぱりおなじで、必ずゴムベルトにつかまる。

「化学メーカー」の厳しい社内ルールのひとつである。
これは、「安全」にかかわるルールで、その安全とは、「労働安全」のことである。
すなわち、「労働災害」を未然にふせぐことが目的である。

化学薬品をあつかうから、化学メーカーの社内として、たとえ事務スペースであっても「例外を認めない」のだ。
さいきんの化学では、摩擦を激減させる薬品だって、少量でも機能を発揮するから、「もしも」それが付着した靴底でスベってケガをしたら、それだけで「事故」になるのである。

こんなことは「業界人」ならば、当然で、新入社員からたたきこまれる。
だから、駅のエスカレーターで、しっかりベルトにつかまっているひとや、若いのに階段の手すりにつかまっているひとを見かけたら、化学メーカーに勤めるひとだとおもってまちがいない。

社内の習慣とは、社外で発揮されてこそだからである。
つまりは、たんなる「生活習慣」になって、はじめて社内でのルールが社内でまもられることが成就するのだ。

人間を訓練するのに、「生活習慣」にまでするのは、けっしてたやすいことではない。
むしろ、生まれてから育った、ほんとうの「生活習慣」とはちがうことをさせられるとき、ひとはかならず反発するものだ。

この反発は、容易に「拒否」というレベルになる。

さて、読者のあなたが、上司として、新入社員にどうしたら「生活習慣」レベルにまで教育訓練をして仕込むことができるだろうか?

「命令」するだけでできるか?
あるいは、「懇願」すればやってくれるか?
「生活習慣レベル」である。

たいそうむずかしいとおもうだろう。

すると、ちょっとまってほしい。
だとすると、どうやって日常業務が生活習慣レベルになったのだろうか?
たんなる「慣れ」とはいかないのは上記の例でわかるはずだ。

つまり、予測できることは二つ。
一つは、なんとなく覚えたことが、日常業務になったパターン。
一つは、しっかり説明を受けて、先輩や上司から繰返し指摘されているうちに慣れてきたこと、である。

生産性があがらない、というぼやきが聞こえてくるのは、さいしょのパターンだ。
なんとなく覚えたことが習慣になっているので、これは職場全体が「なんとなく」に包まれている状態にある。

もう一つのほうは、「意思」がはたらいている。
だから、こうした職場は、合理的なやり方に変更することをいとわない。
時間がたてば、すっかりやり方が変わっていて、別の職場から出戻りすると、「浦島太郎」の気分が味わえる。

だからといって、ぜんぶがすっかり変化しているかというとそうではない。「コア」な部分は、しっかり守られているもので、そのことがむかしの記憶を呼び戻すものでもある。

「仕事」や「業務」には、「意思」がないといけない。

それは、最終的にその「仕事」や「業務」の、そもそもの「目的」や「目標」が達成されなければ、やった意味がなくなるからである。
「意味がない仕事」とは、たんなる「無駄」だから、それで生産性があがるわけもないし、会社の業績もよくなるばかりか悪化して当然になる。

「悪化」ならまだしも、「赤字」となって、これから脱出できないと、倒産の憂き目にあうのが世の中の厳しさだ。
しかし、この厳しさは、物理法則のようなもので、誰にだって容赦ないから、誰だってそうならないようにするのが人間というものだ。

つまり、業績が伸びない、悪化している、ということに気がつけば、「対策」をかんがえて実行することになるのだが、どうしてそうなったのか?の原因をしっかり追求しないという、非科学的方法をえらぶものだから、「意味のない努力」のスパイラルにはいってしまう企業組織は山ほどある。

その原因が、「習慣レベル」の意味とその「効果」を考慮しないことにあるのだ。
よい習慣はかならずよい結果をもたらすが、悪い習慣はかならず悪い結果をもたらす。

子どもへの説教のようであるけれど、こうした原則論すらわからないで「おとな」になった「父ちゃん坊や」がそこら中を闊歩している。
軍隊のように、下位のものたちに命令すれば、そのとおり実行される、というたわごとも、父ちゃん坊やならではの浅はかさから発言される。

ふだんからだれからも尊敬もされない上官が、いきなり「突撃!」と叫んだところで、だれが敵前に飛びこむものか?

命令が命令として機能させるために、ホンモノの軍隊は、一般人がかんがえるよりはるかに高度な「心理戦」を、内部組織をあげてやっている。
こうして、「信頼」という絆をつくって、はじめて命令がそのまま実行されるのである。

感染症が流行しているいま現在、化学メーカーの社内あちこちに手指消毒剤が置かれているのは、それでも「手すりにつかまる」ことをやめないからである。

物も人も大切にしない日本文化

「もったいない」が世界でブームになったといっては、これを自画自賛する。
なかなかの「ナルシスト」ぶりをするのである。
いつからこんな国民性になったのだろう?

もうそれは、夏目漱石『草枕』が指摘している。
つまり、この小説の時代背景である「日露戦争」のころになる。
幕末、国際政治的には強引に開国させられたわが国ではあったが、横浜の港における「税関官吏」のまじめさは、そんな事情にこだわらない外国人入国者を感嘆させていた。

 

草枕冒頭には、有名な一文があって、受験生なら暗記させられるから覚えたむきもおおかろう。

「智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」

智は「知識」、情は「人情」、意地は「意思」と置けば、ビジネスにおける心理学の「核心」にあたる。
先頭の文字をとって、これを、「知、情、意」という。
なお、「棹」は「さお」と読む。竿竹をみなくなって、字も読めなくなった。

漱石のこの指摘は、まったくそのとおりで、「知情意」とは人間がもつ「三つの心的要素」のことだからである。
よって、なによりも三方の「バランス」が重視されるものだ。
正三角形の中心から三つの頂点に線を引いて、これにメモリをつけてグラフにすれば、バランスの善し悪しが視覚化できる。

いわゆる「ハラスメント」は、この「バランス」をうしなった心理状態でうまれるものだ。
だから、加害者を罰することだけでは事後処理しかしないことになってしまう。
予防には、「三つの心的要素」をセルフ・コントロールするための「訓練」がひつようなのである。

浅はかになった日本企業は、組織をあげてこの「訓練」を、経費削減の対象にした。
それでいて、「コンプライアンス」や「社内統制」にはコストをかけている。

ふつう、こうした状態を、「砂上の楼閣」というのである。

高学歴で、優秀なはずの経営陣が、なぜにかくなる「愚策」を実行し得て、なお、それを「恥」ともおもわぬのか?

わが国の「教育」で、人間の「三つの心的要素」のうち、「知だけ」が重視されるという「バランスの欠如」がそうさせているからである。

学校教育だけでなく、家庭教育においても、はたまた社会教育においても、「知だけ」という価値観が、「優秀=知=学力だけ」ときめつけて、「情」や「意」が軽視されすぎた。
つまり、三角形がかけない「一辺」だけの「線」にしかならないものが、「エリート」になってしまったのだ。

だから、組織の上から下まで、「仕事ができない」。
企業における「仕事」とは、「価値創造」の活動のことをいう。
一辺しかないものたちがあつまって、購入者という人間を感心させることなんてできっこないから「売れない」のである。

『草枕』は、おそろしく深い「心理描写」をしているので、物語の本筋とは関係のないような、「胃痛」とか、なんとはない「会話」があるが、これがないともっと漱石がいいたいことがわからなくなるはずだ。

「ドイツの三B」の最後のひとり、大作曲家ブラームスは、そのレコード解説で「一音も無駄にしなかったひと」だというものを読んだことがある。
作曲家で「音を無駄にするひと」がいるものか、と読みながらかんがえた記憶があるからおぼえている。

小説家なら、一文字も無駄にするはずがない。

三B筆頭の大バッハは、楽譜に音符の濃淡をつかって、十字架をえがき、そのたもとにじぶんの「名前」BACHを数字譜から音符に変換させて書き上げた。
もちろん、音楽として演奏できて「傑作」のひとつになっている。

これぞ「職人技」というひとがいるけれど、わたしには「知・情・意」の三つがそのまま突き抜けたとしかおもえない。
大バッハの生涯は、苦難もあったがしっかり幸せな家庭を築いている。死別した先妻に4人、以下タイトルの後妻とは13人の子をなした。

元は創作の作品だが、おおくの事実とすこしの嘘で綴られた『バッハの思い出』を原作としているモノクロ映画(1967年、西ドイツ・イタリア)である。

すると、ほんらいは生まれてからの生活のなかで育まれるはずの「情・意」を、人生のどこで補完するのか?
これができなければ、物とおなじに人も扱われる状態が「文化」になってしまうし、すでになりかけている。

むかしは、職場に尊敬できる先輩や上司がいたものだ。
いまは、望むべくもないかもしれない。
「知」にすぐれ、「情・意」に欠くものこそが、「情・意」をにくむからである。

もしや、「文学」系の大学しか、「情・意」をまなぶ機会がないのかもしれない。

漱石が嘆き、みずからも神経衰弱に悩んだのは、「西洋化」という「合理」のなかに「不条理」をみたからだろう。
滅びゆく「旧き日本」を英語で記録したのは、岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』だった。

いまや、彼らすら歴史の中にあって、現代日本人とは別人種になり果てている。
物も人も大切にする日本人は、死滅したのか?

そんなことは、あるまい、と信じたい。

ヘンテコなZEH住宅

終の棲家をどうするか?

若くもないから20年ほどで売却できる家がいい。
それで、ひとさまにお世話になる「ホーム」という「家」にうつれば、いよいよ人生のしめくくりとなる。

そんなわけで、家をさがしはじめた。

住宅ローンをかかえていた家は、妹にくれてやってしまい、賃貸住宅に四半世紀も住んでいたが、定年すれば賃料が払いつづけられるのか?という「不安」がある。

しかし、東京オリンピックというイベントへの変な期待から、不動産価格が上昇しているし、そもそも新築物件の数が世帯数をうわまってしまったから、そのうち値崩れして安くなるとも期待している。

これを、「日本経済の崩壊」だというひとがいるけれど、平成バブルが崩壊してこのかた30年、ずっと崩壊したままだから、いまさら感がたっぷりある。

持ち家を買って所有することが、はたして有利かといえば、もうわからない。
賃貸に四半世紀も住んでいたら、所有の魅力はたったひとつ、好みの機能を実現するかガマンするかだけである。

ずいぶん前に骨董屋で購入した、「囲炉裏」をリビングに設置して、できれば自在鉤も天井からつるしてみたい。
そのための「排気」ができる家がほしい、という「希望」がある。
もちろん、囲炉裏端での「一杯」をやりたいのだ。

世界をみわたせば、円であろうがドルであろうが、その都度、相場は変動しているけれど、不変の価値をもつという「金(ゴールド)」を基準にすれば、この20年で金の価格は5倍にも6倍にもなった。
つまりは、世界の「貨幣価値」が、その逆数の、五分の一、六分の一になったわけである。

これを「株価」でみれば、アメリカのGAFAのような前世紀にはなかった新興企業だと、創業時から数十倍という価値がついているのに、日本企業の株価はバブル時の半分ほどをウロウロしている。しかも、価格維持を日銀がやっていてのことだから、とっくに末期症状を呈しているのだ。

これが、貨幣価値の減少を呑み込んでなおゆとりあるアメリカを示して、ひたすら貧乏になっているわが国をあらわしている。

つまり、円を円という貨幣で持っていると、それ「だけ」で貧乏になるのである。
だったら、物質に換えてしまったほうがいい、ともいえる。
そうはいっても、いまさら「金」を買おうにも高すぎるから、日本国内にいるかぎり、住宅でも買っておこうかということにもなる。

20代で自宅を建てた経験が一回だけなので、どんなことになっているかをあらためてしらべてみた。
前回は、祖父からの家の建て替えだったが、今回は終の棲家だから、土地からさがすことになる。

「通勤」をあまり意識しなくてもいいけれど、やっぱり「バス」は不便なので、年寄りになっても最寄り駅から徒歩圏がいい。
なんといっても、最後は「売れること」が購入の条件になるから、若いときとはぜんぜんちがう。

街の中心部人気に引きずられて、郊外の土地もなかなかの価格である。
ふと気がついたが、「都市ガス」がふつうではなかった。

むしろ、プロパンガスのほうが、カバー面積でいうとふつうなのだ。
「機動性」からしてあたりまえだが、都市ガスエリアから出たことがなかったので、なんだか「新鮮な発見」である。
家をかんがえるとは、こういうことかとしみじみおもう。

都市ガスエリアに照準をあわせるとすると、たちまち「郊外」の意味が限定される。
神奈川県の西部および三浦半島の一部が、供給エリアではないことをしった。

エネルギー供給という点からすると、見逃せない。
高額なプロパンガスのランニングコストを見限って、「オール電化」を選択する手もあるが、損得勘定の計算はややこしい。

この「計算」で、可笑しいものをみつけた。
それが、いつものとおり、「国が推奨する」という住宅で、なんと「計画」では、2020年までに新築住宅の半数以上を「ZEH(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス)住宅」にすると、2018年の閣議決定「第4次エネルギー基本計画」でさだめている。

その前、2016年閣議決定の「地球温暖化対策計画」でも、2020までに「ZEH住宅」を半数以上にするとしているし、2017年閣議決定の「未来投資戦略2017」でもおなじだから、さすがは官僚によるすりあわせも完璧だ。

これらの「計画」こそが、国家による「統制」であって、スターリンの「五ヵ年計画」をいまだに追求する日本国という社会主義国の姿をあらわすものだ。
すなわち、わが国経済が停滞しつづけている「元凶」である。

「計画経済国家」の面目躍如だが、なぜにかくも「地球環境」というものに取り憑かれてしまったのか?
まさに「貧乏神」ではないか。この「神」にかしずく「神官」たちこそが、わが国の高級官僚なのである。

そして、普及のための手段が、やっぱり「補助金」なのだ。
つまり、「補助金」がもらえないと、ぜんぜん「割に合わない」ということになるから、「ぜんぜん、エコじゃない、ハウス(ZEH)」の意味でもある。あゝ情けない。

一級建築士の本橋哲幸氏によると、補助金認定のための基準をクリアする計算では、リビングを「せまく」すると「有利」になるというから、「ちんけ」な家をつくれと国が命令しているようなものだし、なんといっても詐欺犯罪的な太陽光発電をベースとしていることで、まったく反省のかけらもない。

じぶんのすきなように家も建てることもできないのだ。

ああ、海外移住したい。

国家資格のキャリアコンサルタント

コンサルタントいう商売には、いろんな分野がある。
その分野の専門家なのだから、さぞや「国家資格」という権威づけが必要だとかんがえがちだが、その「発想」自体が異常なこともある。

たとえば、アメリカの「税理士(EA:Enrolled Agent)」は、日本のそれとはおおきくことなる。
なぜなら、アメリカにおいての税務申告は個人がおこなう原則があり、なおかつ、誰でもが有料で税務申告作成をすることができるからである。

つまり、税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっていない。
必要性があるのは、アメリカ国内というよりも国際取引における「税務」なのだが、頻繁に変更になる税法にたいする資格保持のための継続教育の困難さから、資格自体がマイナーになっている。
そんなわけで、全世界でEA資格をもって活動しているひとは、48千人ほどである。

税務申告書の作成、という業務が「独占資格」になっているわが国の税理士は78千人強だ。
昭和の戦前、国家総動員法施行前までのわが国も、いまのアメリカのように「確定申告」が一般的だった。

勤め人の「源泉徴収制度」とは、戦費を効率よくあつめる制度としてうまれ、戦後も政府に都合がよいのでそのまま継続し、いまにいたっている。
これを「発明」したのは、ナチス・ドイツであった。
いつでも「戦時体制」の国がわが国なのである。

ある業務分野を、特定のひとに「独占」させることを国家がきめる。
これが、「国家資格」というものであるから、ほんとうは最小分野にとどめるべきである。

その意味でいえば、資格試験よりも「学位」で代用することがのぞましい。さらに、分野によっては、学位もいらない自由でいい。

自由競争をさまたげないことが、けっきょくのところ、価値の高い専門家を育成する。
利用者が自由に選べれば、専門家は専門分野を同業者より磨くしかないからである。これが、ほんらいの「サービス競争」である。

ネットという媒体ができて、「情報の対称性」が実現しだした。
需要者が最適の供給者をみつけることができる可能性が、ネットがない時代よりも格段にたかまったのである。
だから、供給者はじぶんが「検索」によってでてこないと、世の中に存在していることすら認知されない。

だから、どちらさまも「こぞって」HPをたちあげて、自己PRにつとめている。
しかし、こうした方法が普及すれば、やっぱり「口コミ」に回帰して、それがさらなる「信用」となっている。

「口コミサイト」がほんとうに「口コミ」なのか?がうたがわれたら、だれも観に行かなくなった。
本物の「口コミ」に回帰していることの裏返しである。

これは、たんなる「噂」が「ひろく深く」なる、危険な社会になったことでもある。
それで、権威がひつようになって「国家資格」の意味がたかまるとすれば、社会が「権威主義」におちていくというスパイラルではないかとおもえる。

平成28年という、さいきんできた国家資格に、「キャリアコンサルタント」がある。
どうして、こんなものが「国家資格」なのかわからないし、どうして「資格試験」を受験しなければならないのかもわからない。

いつものとおり、管轄する役所(このばあいは厚生労働省)から、天下り先の「協会」を「育成」するためではないのか?

不可思議なのは、キャリアコンサルタントの業務に「キャリアカウンセリング」があることである。
「コンサルタント」と「カウンセラー」の概念が、混じっている。

カウンセラーの方面なら、「公認心理師」という国家資格が、平成28年にできているから、厚生労働省さんは、おなじ年に大活躍している。
すると、「キャリアコンサルタント」のなかにある「カウンセリング」と、「公認心理師」の「カウンセリング」のどちらが優先されるのだろうか?

一般国民には知る由も、理解もできない。

協会HPによれば、

「カウンセラーは、個人の興味、能力、価値観、その他の特性をもとに、個人にとって望ましいキャリアの選択・開発を支援するキャリア形成の専門家です。
「就職」「転職」「再就職」「キャリア」などの課題を抱えているクライエント(相談者)の方に対して、キャリアカウンセリングを通じてその方が自分らしく生きいきとする仕事を見つけ、働けるように総合的にサポートします。」

とある。さらに、

「企業内
企業の中では、従業員のキャリア形成支援者として、従業員のキャリアプランを明確にし、そのために必要な知識・資格の習得や仕事の選択を行うことを支援する機会が増えています。

大学・行政機関・人材紹介・人材派遣・再就職支援業界
大学のキャリアセンターには就職活動中の学生、ハローワーク・人材紹介・人材派遣・再就職支援には一般の求職者が訪れます。これらの方の就職、再就職のために効果的な自己分析の方法、エントリーシートの作成支援、面接の指導等のキャリアコンサルティングサービスへのニーズが高まっています。」

社会に出て働いた経験がうすい大学生と、どっぷり仕事にまみれる企業内、それに人材派遣などの「水と油」をやっぱり「混ぜ」ている。

無責任社会の結果が、このような資格をつくって、とうとう「人生」までが他人の「アドバイス」ならぬ「カウンセリング」で決められてしまう。

おそろしい社会になったものである。

マスクでなく科学で感染をふせぐ

三回目の検討で、やっとこさWHOも緊急事態だと発表したニュースの意味は、「緊急事態」だということではなくて、「どうして決められなかったのか?」ということの「理由」のほうになっている。
圧力をかけたのは、発生源の国なのか?それともIOCなのか?いまは、だれにもわからないけど。
WHOとて、やたら「政治的」なのである。

戦勝国の「連合」である「国際連合」とか、その専門部会の「国際」や「世界」がつく、たくさんの組織を、敗戦国ゆえか、やたらとありがたがるのはやめたほうがいいというメッセージでもある。
人類の「保健衛生」のためにあるはずの「世界保健機関」にして、このざまである。

しかし、そんなことにお構いなしなのはウィルスのほうで、こちらは「宿主がいれば増殖する」という法則だけに支配されている。
生物である「細菌」とちがって、ウィルスは「生物とはいえない」から、化学反応という原理だけがよりどころなのである。

これに、安逸の誉れがたかいわがマスコミは、「専門家」というひとを連れ出してきて、感染予防のコメントを吐かせるが、はたして科学の知見に基づいているか?とか、予防実績はあるか?というはなしを無視して情報をたれ流すことがある。

やっぱり油断できないのは、この国には「ジャーナリズム」がないので「ジャーナリスト」がいないからである。
わが国でいうジャーナリストとは、「活動家」のことを指す。

そんなわけで、ジャーナリストが「いる」アメリカに目をむけると、世界最高峰の「賞」といわれる「ピューリッツァー賞」の受賞者でもある女性科学ジャーナリスト、ローリー・ギャレット氏の記事がある。

彼女は、カルフォルニア大学サンタクルーズ校で生物学を、バークレー校大学院で細菌免疫学を、そしてスタンフォード大学大学院に学ぶが、博士号の学位は取得していない。それは、在学中、ラジオでの科学ニュース番組のレポーターがおもしろくなって、ジャーナリズムへの道に向かわせたからだった。

1996年、「解説報道部門」においてピューリッツァー賞を受賞し、SARS、新型インフルエンザ、結核、マラリア、エイズなどに取り組み、いまは、アメリカ外交評議会で「グローバル・ヘルス・プログラム・シニア・フェロー」として活躍中である。

さて、このような経歴から、感染症における「現場取材」での、みずからの感染防止策を知らしめる記事を書いているのである。
かんたんにいえば、彼女のながい取材経験で、一度も感染したことがない「理由と方法」である。

それは、徹底した科学知見による予防策の実施なのだ。
今回の新型ウィルスにたいする予防策として、きわめて重要な方法でもあろう。

感染防御のための危険箇所の認識として、第一に「目」、第二は「口」だから、ひろく「顔」を汚染させないことだ。
その原因は、圧倒的に「手」によってなでることにある。
つまり、汚染されたじぶんの「手」で、目をこすったり口のまわりを触ることが、もっとも「危険」だと指摘している。

それで、手を汚染させないために、「手袋の使用」と「手の消毒」が、もっとも「効果的」だという。
手指消毒剤と石鹸による「手洗い」の徹底。
使用したハンカチやタオルのこまめな交換と洗濯。

日本人が大好きな「マスク」は、ほとんど役に立たないばかりか、長時間の着用はかえって「危険」だから、どうしてもマスクをしたいなら、短時間での廃棄と交換が肝要である。
マスクの効果は、「口」を触りにくくする程度でしかない。

ただし、他人との距離は50㎝以上をたもつことが重要であるから、満員電車などを利用して他人と近接するなら、そのとき「だけ」マスクをつかうのは推奨される。けれども、マスクをはずすときの「手」にウィルスが付着しているとかえって危険だから、手洗い後にマスクをはずすことで、その後もう一度手洗いが必要である。

公衆の場における危険は、不特定多数の手が「触った場所」になる。
・階段やエスカレーターの「てすり」
・エレベーターの「ボタン」
・電車やバスの「つり革」や「てすり」
・おカネやレシートの授受
・トイレのドアや水道のコック、あるいは個室

つまるところ、なにかに触ったら、消毒剤をつかう、あるいは石鹸で手を洗うことが、なによりも重要なのだ。
手洗いには、かならず石鹸をつかう。
特別な石鹸ではなく、ごく普通の石鹸でよいのは、石鹸の界面活性効果で蛋白質でできているウィルスの外殻を破壊するからである。
生物でないウィルスは、これで「死ぬ」のではなく、増殖のための方法を完全にうしなうのである。

すると、宿泊施設などでの取り組みは、
エコだからタオルを交換しない、のではなくて、どんどん交換して洗濯することをアピールしたり、ロビー階だけでなく、各階のエレベーター・ホールに手指消毒剤を設置して、ボタンに触れた手の消毒をさせるように仕向けることである。

従業員にも手洗いを「強制」させることが重要で、「励行」という通常モードではいけない。もちろん、マスク着用は意味がない。
たとえば、お客様のカバンを持ったら、かならず手洗いをするように強制しなければならない。

残念だが、洗面所にある「エアー・タオル」は、ウィルスを風でまき散らす効果があるから、ペーパー・タオルを使わせることが安全になる。

「エコ」では、ウィルス対策にならないことを、利用客に知らしめることも、じつは重要な啓蒙活動なのである。

巷間、ドラッグストアからマスクの欠品があいついでいるが、科学を信じない原始人があんがいおおいことを示している。
接客業でマスク着用を義務づける企業があるというのも、経営者が原始人だと表明するにひとしいから、外国人知識人がおおく利用する高級施設ほど注意したい。

「偽善」の人材こそが財産だ

わが国で経営者になるひとが「うそつき」か「偽善者」ばかりになったのは、平気で「こころにもないことをいう」からではなくて、できもしないし、やりもしないことを口にして、いい子になろうとするからである。

じぶんはわるくない、いい子なのだ。
この心理が、そのときだけの「でまかせ」を、本気だとじぶんに信じ込ませてしまうから、始末が悪いのである。
だから、「うそつき」とか「偽善者」よばわりされると、おどろくほどの抵抗を示し、かならず反論にならない反論を感情的になってするのである。
そして、絶対に反省をしないのは、いい子であるからだ。

経営トップの最大の仕事は、次期トップの人選であった。
ところが、けっきょくは「好き嫌い」になって、「情」に流される。
そんなことを数代にわたってしていたら、そだちのよさげないい子ばかりが選ばれて、とうとう企業価値が減りだした。

人材こそが財産だ、とか、人材の材の字は「財」である、とか、うまいことはいうけれど、新入社員採用の面接もしたことがなく、管理職昇格の社内研修に顔も出さないでいられるのは、いったいどんな神経なのか?

じぶんはえらいのだ。

この「特別感」、「選民」としての「満足感」が、無邪気なほどに、本人を堕落せしめるのである。
けれども、本人以外にも「犯人」がいたりするのは、「大企業」における「秘書群」でる。
「スケジュール管理」という名目において、「分単位」の管理をつくり出す。
こうして、本人の意志とは関係なく、本人の時間を奪うのである。

しばらくすると、本人は意思のない「ロボット」になる。
「激務」のようにみえる「スケジュール」の強制によって、秘書群のいいなりに「こなす」だけで精いっぱいになるからである。
そして、取り巻きたちに、つねに「ヨイショされ続ける」、という環境において、もはや「さからえない」という心理をつくり出す一方で、前述の「特別感」に浸らせれば、さほどの時間をようせずに「堕落」に成功するのである。

これが、社内官僚としてのエリート集団が、一丸となっておこなう「骨抜き」手法である。

まるで「マンガ」のようなストーリーだが、これを可能とする「素地」がある。
それが、先代トップたちによる「後継指名」である。
わが国の歴史で、すばらしく安定した時代とは、その名の通り「平安時代」であった。
このときにこぞっておこなわれたのが「院政」だ。

どういうわけか、実力社長といわれたひとたちが、こぞって「無能」を後継者に指名して、じぶんは「院政」をねらう。
株主総会をクリアすれば可能なのは、自身の任期延長なのに、これをしない。
あたかも「長期政権ではない」という素振りの方が重要らしい。
ようは、株主総会の決議を「なめている」のである。

もちろん、いちばんなめられているのは「無能」なのに社長になった本人である。
けれども、「無能」だから、断ることもできないで、社長のイスにおさまるのである。

そんなわけで、被害者の筆頭は従業員一同である。
院政を敷いて、自己満足にひたる「老害」を隠すのが無能の誉れ高い社長なのに、この体制を支えなければならない。
「血縁」をもってトップにすえた、幕藩体制のほうがよほどあきらめがつくというものだ。
ましてや、当時の風習に「藩主押し込め」までがあった。

これは、「無能」の藩主を、城内の奥深くに「押し込め」て、つまり、座敷牢などに「幽閉」して、知らんぷりをする制度である。
おおくの「元藩主」は、発狂なりして壮絶なる生涯となるものの、一般庶民には知る由もない。
いわば、家老以下の部下によるクーデターだが、あんがい一般的だったから、わが国の資本主義より救いがある。

部下の方が上司より優秀だという事実は、人材こそが財産という美談を暗く染める。
これをまた無能がいうのではあるが、まったくの事実だから、いわれた側の従業員はうれしくもない。
「当然」だからだ。

しかし、ゆっくりとしかも確実に、組織は「壊死」をはじめている。
糖尿病のように、末端神経からやられるので、無能の脳がこれに気づくこともない。

残念だが、治療法もないのである。

こうして、優秀な従業員から退社する。
「泥船」だと気づくからである。
けれども、無能をコントロールしていることに満足している階層は、自分たちが沈み行く「泥船」のコントロールをしているのだと気づかない。

もし、いまどき、人材こそが財産だと社内に公言するだけのトップがいたら、すぐさまうたがっていい。
それで、なお、従業員の具体的な教育に経費削減をして、縮小するのなら、もう確信していい。

わかりやすい「踏み絵」になっているのだ。

退職願を書いておくもよし、転職先を先に探すもよし。

横浜中華街で新型ウィルスに感染?

こんなはなしが「ニュース」になって、電波にのるのはいかがなものか?

「デマ」と「真実」の区別もつかいないひとたちがいるのは、あまりにも「お気軽な生活」をしているからだろう。
発言したひとも、局として放送を許可したしたひとも、「放送法」に抵触しないのは「なにを言っても自由」だからか?

ひとから「いい子」でいたいのは、じぶんが常にただしいからではなくて、「ひとに同調する」ことで達成できることを覚えただけの「芸」のない「芸」からうまれる。

なにかと話題になる「放送法」の「ザル状態」も、「放送コード」にある、言ってはいけないこと以外なら言っていい、という安易な解釈で運用されれば、放送ぜんぶが「安易」に染まる。

「中国人がたくさんいる横浜中華街が感染の危険が高い場所だ。」

発生源の地域からの入国制限をすることをせず、漫然と国境(入国管理)を開いていたら、感染者がポツポツとみつかりだした。
そのひとが、ご当地からの旅行者なのか日本人帰国者なのかを放送せずに、ただ「現地」からやってきたひとが感染していたというだけだ。どんな「制限」が、放送局にあるのだろう?

日本人の帰国者といったって、現地駐在のひとだったのか、短期の観光旅行客だったのかも報道ではわからない。

それで、ただ「中国」や「中国人」という、おそろしくおおきな範囲のキーワードだけで、「危険」をしらせるとは、無責任ではなく「デマゴーグ」だというべきだし、ヘイトである。

たしかに、「中華街」なのだから、中国人はたくさんいる。
でも、横浜に居住している、ということを第一にすれば、どうして「感染源」になるものか?

このひとたちの「関係者」が、現地からやってくる可能性が高いから、というのなら、それは入国管理の問題にもどるだけで、本人たちの問題でもない。むしろ、何国人であろうが感染された側からすれば、勘弁してくれよでも済まないのは命にかかわるからである。

粗っぽいことをやるのが、あちらの政府で、それを指示する独裁党はもっと粗っぽい。
わが国政府の繊細さにくらべての一般的な印象だけれど、さいきんのわが国政府のテキトーさは、責任放棄という意味の荒っぽさだから、あちらとの差は「五十歩百歩」でしかない。

1000万人の居住者がいる「市」を、いきなり「閉鎖」したり、こんどは春節の民族大移動の時期にもかかわらず、「出国禁止」にしたり、なかなかの「荒っぽさ」が報じられている。
いっぽう、わが国は、特になにもしない、という「荒っぽさ」だ。

飛行機をだして、現地から邦人を連れ戻すのはいいけれど、「検疫」はどうするのか?そのまま「隔離」され、経過観察される手順の説明をしているのか?
いつもどおり、飛行機だって自衛隊機ではなくて民間機をチャーターするという「無責任」をシラッとやるようだ。

WHOに加盟が許されていない、台湾は、総統みずから素早い行動をしていて、双方の移動(現地へ向かうことも、戻ることも)をすぐさま禁止して、団体ツアーの受け入れも拒否を表明している。
まさに、緊急事態・危機管理対応の教科書のような行動だ。

感染源の国が、「出国禁止」処置にした理由は、台湾が打った初期の手にたいしての「後手」になったともかんがえられる。

わが国官邸には、おどろくほどの「電子機材」をととのえた、危機管理用のコントロール・ルームがあるが、例によって、これらの機材に電源が入っているかもあやしい、「無能」ぶりである。
もしや、危機とは「国内専用」だったのか?

すると、わが国政府は、国内での感染が広がる、ということにならないと行動しない、ということになる。
つまり、感染者や死者がでるのを「待っている」という愚劣を、まじめにやっていることになるではないか。

これは、粗っぽいをこえて、狂気ですらある。

なんでこうなるのか?

「思考の順番」がちがうからである。
小学校の算数を、「算数」といって「数学」といわないのは、「算数」が計算方法の習得にかぎられるからである。

中学にはいってからの「数学」は、どうしてそうなるのか?が重心になるのだが、なぜか数学の先生は、一年生のさいしょの授業でこれをいわない。

それで、延々と「証明問題」をやるから、生徒にはたんなる「苦痛」となるのだ。
数学嫌いを大量生産するのが目的か?とうたがう理由である。

算数で、足し算と引き算、掛け算と割り算をならって、それから、おなじ式に足し算と掛け算が混じったときの計算の「順番」をならう。
このとき「( )」のつかいかたもおそわって、ただしい「答え」の出し方を訓練される。

けれども、おとなになって、
2+3×4=?
を計算してもらうと、ただしい「14」ではなくて、「20」とこたえるひとのほうがおおかったりする。

おなじ式に足し算と掛け算が混じっていたら、掛け算を先にしてから足し算をしなといけない。
3×4=12 のつぎに2を足して、14とするのだ。
2+3=5 これに4を掛けて20としてはいけない。

どうやら、一般のおとなとおなじで、選ばれたはずの政治家たちも、優秀なはずの高級官僚たちも、20を正解とする、「順番どおり」やってきたらその都度都度に、神経反応のような思考をしているのではないかとおもえてならない。

ちゃんと「(2+3)×4」で対応しているような、明確な優先順位をしめす論理で説明できる、台湾の総統のような対処をせよ。

こまった、ではすまされない異常が、日常化している。

どんなひとが「怠け者」なのか?

働かないで暮らすひとは、「怠け者」だというけれど、働かないで暮らせるひとってどんなひとなんだろう?

日本人の将来不安をつくっているのは、「公的年金」を主管する日本国政府が、「公的年金」だけでは暮らせませんよ、と断言できない「言論空間」があることである。

せっかく「2000万円ひつようだ」と正直にいったのに、なにを「怒っている」のだろうか?

わが国の「年金」制度は、戦時中にできた。
さいしょは「積立金」だったけど、戦後の大インフレで「積立金」がすっ飛んで、仕方ないので「賦課方式」に変更した。
用語として「掛け金」がのこったが、「税金と一緒」の意味になっている。

「税金」を政府があつめて、これを「公共の利益」のためにつかう。
民間企業では担当しきれない分野である、という定義が先にある。
それで、事業利益がでない「社会インフラ」にこそ資本投資する政府の役割がある。

だから、いったん定義した「分野」から、政府がはみだしておカネをつかうことを、みとめないのが「本筋」なのだが、「公平な分配」という「魔語」におびき出されて、他人からあつめた税金を、すきなようにつかいたい衝動にかられるのも「政府」の性である。

政府にはふたつの機能がある。
「集金マシン」としての機能は、税務署や地方税事務所がになう。
これをどうつかうかは「国会」や「議会」の役割だったはずだけど、一般会計だけでも機能不全になって、特別会計は役人の自由になった。

そんなわけで、公的年金とは、年金会計という「特別会計」にあるから、けっきょく「掛け金」なんて存在しない。
ところが、「賦課方式」とは、あつめた資金をその年の受給者に支給しちゃうので、現役世代がおおくて引退した高齢者がすくないときしか成立しない。

つまり、どんどん子どもが生まれる、人口拡大が前提になっている。
けれども、半世紀以上まえから、わが国の人口予測は「少子」を読んでいたので、この時点で将来「成り立たない」ことをしっていた。
それでも、しらんぷりできたのは、政治家の都合と役人の都合、それに国民の都合があわさったからである。

まるで「真珠湾攻撃」とそっくりなのである。

国民の都合とは、「掛け金」をかけていなくて、それで、戦禍にも生きのこった明治生まれの世代から支給されたからである。
このひとたちの「現役時代」、年金制度そのものがなかったから、掛け金をかけることもなかった。

ただでもらえる。

この刷りこみが、つづく大正・昭和世代にできたのは、サラリーマンの「掛け金」が、本人と雇用主である企業との「折半」だから、本人には「やたら安い」ようにみえたのである。
企業がいう「人件費」には、健康保険もいれた、社会保障費の負担分がふくまれている。

だから、「人件費が高い」という社長のボヤきには、社会保障費負担がデカイ、というボヤきもはいっている。
「脱サラ」して、個人事業主になれば、ぜんぶが「自己負担」になるから、「痛い」ほどよくわかる。

日本政府は「気前がいい」。
「気前がいい」ことをいう政治家が、とにかく人気を集めた。

しかし、なにごとも、きれいなバラにトゲがあるごとく、そうは問屋が卸さない。

だんだん政府におカネがなくなって、財政が赤字になってしまう。
そこで1981年に登場したのが「目刺しの土光さん」だった。
第二次臨時行政調査会のコンセプトは「増税なき財政再建」。
しかも、当時の鈴木善幸首相は、82年に「財政非常事態宣言」まで発表している。

が、焼け石に水。
徒労であった。

国民を「政府依存」にさせることは、政治家と官僚には、都合がいいのである。
政治家には権力を、官僚には公私混同の快楽が保障される。

じつは、日本人はとてつもなく強欲な怠け者なのだ。

会社ではのんびりテキトーになにかしていれば確実に給料がもらえ、将来も自己負担50%で年金生活が優雅にできると信じてきた。
こんなことを「信じられた」のは、強欲な怠け者の証拠なのだ。
それで、ない袖は振れぬと政府がいったら「怒り」だした。
どこまでも、強欲な怠け者なのだ。

じぶんの年金をじぶんで積み立てる。
政府が介入しようが、企業が負担しようが、原資はじぶんの「稼ぎ」である。

「日本版」という「枕詞」がつくと、とたんにニセモノになる典型に、「日本版401K」があった。
こんなインチキな制度をよくもつくったものだが、年金をぜんぶこのような「積立」に転換すればよかった。

そうすれば、年金をあつめる、運用する、くばる、ことを仕事にする役人がいらない。
いっとき、失業がふえるけど、気にしない。
優秀な役人には、民間がだまってみていない。

ただし、働かないで生活できる方法まであるのがわが国のやさしさだ。
じぶんの資産ではなく、他人のおカネで生活した方が、最低賃金で働くよりもみいりがいいようになっている。

まことに「税金」が安くなることは、ありえないのである。