優秀な人材がほしい

どの経営者とはなしても,だれもがもとめているのは「優秀な人材」である.
破綻しそうな企業では,「お金」に順位をゆずるけれど,それでも,この期に及んでなお,二番目に「優秀な人材」がほしいという.

パーティーなどの雑談の場でつっこみはしないけれど,再生の現場ではつっこまざるをえない.
それで,経営者や経営幹部に,優秀な人材とはどんな人材をいうのか?を書き出してもらうことをしたことが何度かある.

このブログの読者ならお気づきだろうが,まともにきちんとした日本語で書き出せるひとはすくないのだ.
もっといえば,コミック作品の主人公にあたる「スーパー・サラリーマン」のようなひとをイメージしていることがままある.

まさに,いまの副総理・財務大臣のように,マンガの読みすぎ,である.
こんな超人的人物が現実に入社したら,あなたは上司としてかえって困りませんか?と聞くと,たいがいの幹部はやっと気づいておどろくのだ.
なぜなら,それであなたはどんな仕事ができるのですか?あるいは,したいのですか?という質問がつづいて,ばあいによっては上司のほうが存在が否定されてしまうかもしれない.

さほどに曖昧な概念で,優秀な人材がほしい,と口にできるのは,実現性のほとんどない幻想だからである.
もちろん,再生現場だから,数年前から新入社員など採用していないし,パートさんの欠員すら補充できていない.
理由は,応募がないから,であることがふつうだ.残念ながら,この「ふつう」は,人的サービス業では「ふつう」になっているから,再生企業だけが苦しんでいるものでもない.

経営者や幹部が,優秀な人材がどんな人材なのかがわからないうちに,優秀な人材を募集しても,優秀な人材が採用できるわけがない.
こうしたことを理解してもらってから,あらためて当社にとっての優秀な人材とはどんな人材なのかを議論したら,でてくるのは「スペック」ばかりだった.

さらに,「即戦力」というスペックもかならず加わるのも特徴だ.
これは,「作業」のことを指す.
おなじような「作業」を,他社で経験したことがあれば,それを「即戦力」というからだ.
しかし,この「即戦力」には,自社で訓練する必要がない,という意味もある.

ふつう募集人材の「スペック」というと,学歴や,資格,職歴・勤務経験が典型的だ.
それで,話題をかえて,どんな人物と一緒に働きたいか?に振ったことがある.
すると,でてくるのは「人柄」に関するものばかりになった.
これは、接客業だから,という理由だけではない.

直接の接客を想定しない,たとえばボイラー技士であっても,一緒に働きたいか?という基準では,決め手は「人柄」なのだ.
そんな人物であれば,客室温度や風呂の湯温についても気遣いができるだろうと,かんたんに予想ができる.

整理しよう.
第一に「即戦力」になる,「優秀な人材」.
第二に「人柄」.
これは,自社での「人材育成」の放棄のようにもみえる,ある種の「むしのよさ」がみてとれる.

人口減少にともなう労働人口の減少は,「需要と供給」という経済原則によって,確実に価格上昇が予想される.
だから,企業は内部での人材育成という教育を実施しないと,本人のパフォーマンス分と賃金のバランスがとれなくなる.

イギリス人はとっくに意外な発想をしていて,

という本を書いている.
参考になるはずである.

ところで,2020年度から,同一労働同一賃金のための法制度が実施される.
対象となる法律は,
労働者派遣法,パートタイム労働法,労働契約法,である.
なお,中小企業は「改正パートタイム労働法」について,2021年度から適用されることになっている.

これらが実施されることは,もはや決定事項である.
つまり,未来はもう定められたのだが,この制度の運用のために,欧米では常識の「ジョブ・ディスクリプション」(職務記述書)が,わが国でも必要になるのではないか?
そうでなければ,雇用形態にかかわらず,同一労働同一賃金をどうやって実現するのか?

この書類は,職務内容,必要なスキル(資格ふくむ),賃金条件(労働時間ふくむ)などが記載されたもので,募集者が作成し応募者はこれをみて応募する.
一見,なにか特別なものにはみえないが,「労働市場」の要になるものだ.
「就職」であって「就社」ではないことに注意したい.

つまり,企業はほしい優秀な人材の「定義」を書いて公表しなければならないのだ.
このための準備はすすんでいるのだろうか?

手法さえわかれば簡単だ

世の中にはかぞえきれないほどたくさんの「ノウハウ本」がある.
しかも,だいたいどれもそこそこ売れている,のだという.
なるほど,本が売れない時代の書店に,ノウハウ本が山積みの理由がここにある.
まったく不思議なはなしである.中身が濃い本ほど売れないというのだから.

「ノウハウ本」を読んで,ノウハウを習得したひとをわたしはみたことがない.
すると,「本なんか読んでも役に立たない」と豪語して,いっさい読書をしないという経営者もいるから,世の中には極端があふれている.

「ノウハウ本」を購入するひとと,読書を基本的にしないというひとは両極端のようだがそうではない.
共通点に,「手法さえわかれば簡単だ」というお手軽・お気軽な「思想」があるからだ.
90年代の「軽簿短小」という産業トレンドが,そのまま人間の「軽薄さ」に転換されたようだ.

一方は,「手法だけ」をもとめて「ノウハウ本」を読みふけり,手法が自分にはあわないとして,また別の本をもとめるタイプだ.
もう一方は,肝心の手法など,本に書いてあるはずがないからと,本を読まず,うわさやトレンドに飛びつくタイプなのだ.
だから、両者のもうひとつの共通点は,テレビの情報,すなわちマスコミの影響をうけるようになることだ.

これは,ホテル業界では顕著で,とくに婚礼部門が深く冒されている.
新婦が必携の「婚礼雑誌」に,利用者と提供者双方が振り回されてひさしい.
わたしもかつて,紹介者をつうじたカップルで,新婦から直接雑誌をみせられて,このページの写真のように結婚披露宴をやりたいといわれたことがある.

当時の数字はわすれたが,さいきんのこの雑誌の発行部数は約30万の月刊誌である.
結婚する組数はだいたい年間で60万組だから,単純に新婦の半数はみている可能性がある.式までの準備期間をかんがえると,ひとりで何号も読破するにちがいない.
だからこそ,とてつもない影響をおよぼす雑誌だと位置づけられているのだが,裏をかえせば,式が近い招待客候補の友人もみている可能性がある.

それで,30万人がみた写真どおりでほんとうにいいのですか?と聞いたら,キョトンとしたひとがいた.
結果的に,オリジナリティを一緒に追求するという意味ではあたりまえの「手作り婚礼」になった.

ところが,いまは,「お客様は『神様です』」という美辞麗句にさからえずに,お客様のいうとおりの実現こそがサービスというかんがえ方になっているようだ.
「正解」をだれもしらないが,「正解に近づける」という手法すらわすれてしまったのかのごとくである.

ここに経験豊富なプロが介在する価値があったはずなのだが,本人希望の雑誌のとおりに再現すればクレームはこない.
これを20年もやっていたら,とうとう「経験豊富なプロ」が途絶えて,たんなる受付係になってしまったから,単価がたかい社員でやることもなく外注化がすすんでしまった.

こうして,気がついてみれば,会場と料理だけが「ホテルの商品」でしかないのだが,商品名はホテルになるから,顧客が買っているはずの「◯◯ホテルでの婚礼」と,ホテルが売っている商品がみごとに解離してしまった.
それに,気がついたひとたちが,また例の雑誌情報であらたなトレンドに向かうから,ホテルはいつも後追いというモデルができたのだ.

それでは,成功したモデルの手法を真似ればよい,と「手法さえわかれば簡単だ」というひとたちはかんがえる.
それで,婚礼専門の外部の知恵を買ってくれば,あとは自動的にうまくいく,はずである.
ところが,世の中そんなに甘くできてはいない.

これは、政府の未来戦略がかならず失敗する構造とおなじである.
いまうまくいっている知見からしか予想ができないからだ.
婚礼雑誌が紹介して,いつしかトレンドになるやり方は,かならず「手作り婚礼」という挑戦者がいたものだ.

これは,イノベーションのことである.

当然,リスクは本人たちが背負ったので,企画倒れしてしまったアイデアもたくさんあっただろう.しかし,だからといって,新婚のふたりが不幸になるのかはまったく別のはなしである.
「リスクは避けるモノ」を追求する組織が,どんなに優秀な識者を呼んできても,イノベーションのたまごも生まれない.

残念だが,信念を持って,自分で手法をかんがえつくまでやらないと,けっして自分のモノにはならないのである.
いいかえれば,自分がノウハウ本を書けるようになることなのだ.
果たして,そうなったとき「手法さえわかれば簡単だ」といえるだろうか?

とんでもない.
そのレベルにまで達したら,こんどはその手法をさらに磨いて,進化させなければならないという信念がわいてくるだろう.
それを誰がやるのか?

「手法さえわかれば簡単だ」という思想では,繁栄は永遠にやってこない.

「自己満足シート」と微分積分

音楽の専門家ではないが,音楽にはおおきくわけて「モノフォニー」と「ポリフォニー」という分類があることはしっている.
「モノフォニー」の代表は,「歌謡曲」や「演歌」で,モノフォニーの「モノ」とは,写真の「モノクロ」のように「単」という意味から,旋律がひとつの音楽をいう.
その反対が「ポリフォニー」だ.「ポリ」は「複数の」という意味だから,旋律・声部が複数の「多声部音楽」である.

ちなみに,ポリ袋の「ポリ」,ポリバケツの「ポリ」,ポリタンクの「ポリ」もおなじで,ポリエステル,ポリエチレン,ポリ塩化ビニールの「ポリ」もみな,「複数の」からきている.

ポリフォニーの大家といえば,まずはバッハがあげられる.
彼の有名な曲や,きれいな曲は5声や6声で書かれている.それを,二本の手しかないピアノ演奏にすると,演奏者泣かせになるから,ピアノ弾きにバッハは人気薄だというはなしがある.

わたしはそんなバッハが好きだとピアノの先生にいったら,なぜ?どうして?とあんがいしつこく質問された.とっさに「微分で聴くのが好き」とこたえたら,えらく感心されてこちらが恐縮したことがある.

旋律の声部が複数同時に鳴るから,メロディーがあってないような不思議な曲がある.それを,瞬間瞬間の和声で聴くと,なんだかあたまの後ろがジーンとしてきて心地よいのである.
高校のとき,微分の説明が下手くそな先生がいて,授業はとてもつまらなかったが,自分のバッハの聴き方が微分なのだということだけはわかった.

会社にはいって上司から,新入社員研修の講師を命じられた.
しょっぱなの,企業人としての心得,があたえられた時間枠のテーマだった.
そこで考えついたのが,「自己満足シート」である.

単純に,x軸とy軸の十字があって,原点がいま,というだけの紙のお題にしたものだ.
時間軸のx軸には左端に起点があって,そこから原点までは生まれてから今までの「過去」,原点から右側は明日からの将来で,とりあえず向こう10年間とした.
満足度はy軸で,プラス100,マイナス100とした.

過去の自分はどんな満足度で今日に至ったのか?
明日からの自分はどんな満足度で10年後をむかえるのか?
それぞれフリーハンドで線を記入してもらい,トピックがあればメモを書いてもいい.

10人十色とはこのことで,みごとに全員がちがうパターンを書き込むのだが,そのちがいは主に過去にあった.
なにがあったのか知る由もないが,若い新入社員にも,それぞれ複雑な人生があったのである.
未来のパターンは,希望にあふれているパターンで一致するのだが,これも微妙にそれぞれちがう.

印象に残るのは,担当した数年間で,書きながら泣き出したひとが何回もいたことだ.
こうやって自分の人生をかんがえたことがなかった.
それで,幸せな子ども時代がおもいだされて,感無量になったという反面,将来がみえなくて希望と不安が渦巻くのが自分でわかるという.
たしかに,まだ配属先が発表されていない段階での研修だった.

それから,人事制度がいろいろかわって,評価制度も試行錯誤の状態があった.
「制度」だから,コロコロ変わるのは好ましくないが,好ましくないのがそのまま続くのはもっとこまるから,なかなか難しい.

とくに部下の評価はたいへんで,ボーナスだけでなく昇進・昇格にも影響するからおざなりにはできない.
「自己満足シート」の記入で泣き出すように,ひとの人生を預かっているのだ.

再生現場にたったとき,「自己満足シート」の記入をお願いしたことがある.
会社の破綻という事態がおきたばかりだから,これを記入するときの心も荒んでいるひとがおおいのは想定どおりだ.
それで,しばらく保管して,再生が動き出してから時期をみて,もういちど描いてもらうと,適確な変化かそうでないかがよくわかる.

これをもとに,個別面談するのは効果的だ.
心の変化の瞬間を「微分」して聞き出すことができたり,満足度の面積が「積分」でイメージできたりする.
従業員のこころの動きがプラス方向になるのと,業績がプラス方向になるのには若干の時間差があるけれど,こころの動きがプラス方向にならないで,業績がプラスになることは,ほとんどない.

もちろん,この図に正確な数値はないから,当然に計算不能なのだが,しっかり傾向だけは理解できて,ちゃんと紙に残るのだ.

こういうのを,数学的思考というのではないか?
こころの微分積分が,業績を左右するバロメーターになるものだ.

観光産業は基幹産業にならない

世の中にはこまったひとたちがいて,「幻想」をあたかも「現実」のようにかたることがある.
それが業界人であれば,「アドバルーン」だと聞き手が認識すれば問題にならないが,専門家とか有識者と称するひとのはなしだと,それは「うそ」にもなるから社会には害悪である.
どんなものかといえば,以下のとおりである.

「観光産業を(わが国の)基幹産業にしていくのが目標である.」

これは,不可能でもあるし,そうなっては困る.

結論から先にいえば,政府の訪日外国人旅行者による国内消費の目標が,2030年で15兆円でしかないからだ.
2016年の消費額が3.7兆円だったから,これは年率に換算すると10.5%という昭和の高度成長期に匹敵する伸び率になっているのにだ.

わが国のGDPは,内閣府発表の2017年度,名目548.6兆円,実質533.0兆円である.
インフレを考慮したのが実質額なので,16年の消費額で実質を比較すれば,0.69%にすぎず,30年の目標値で比較しても,2.81%である.
もちろん,GDPは「付加価値」だから,外国人の消費額という「売上」で比較するのはまちがっているのだが,より外国人の影響が強くなるこの方法でみてもこの数字にしかならない.

この産業だけで,国民は食ってはいけない.

つまり,「観光業」としてありえないほどの大成長をとげても,国民経済にとって3%にも満たないのが,外国人依存の結果なのだ.
これが,どうしてわが国の「基幹産業」になるのか?
まさに,顔を洗って目を覚ませといいたい.

さらに,この議論には,観光業をバカにしているのではないかと疑いたくもなるニュアンスがふくまれている.
「観光業」とは,総合芸術的な産業なのだ,ということを忘れているのではないか?ということだ.
単純に規模を追っている印象が「基幹産業」といういい方にあるようにおもわれるからだ.しかし,そのわりに,数字を無視しているのは意図的にか?それともファンタジー文学か?

自然をあいてにしながら,食料生産に関係する一次産業と,二次産業たる鉱工業からうまれる文明の利器の積極的投入による利便性の追求と環境保護,それに人的なさまざまなサービス,という産業分類のすべての知見を統合してはじめて成り立つのが「総合産業」であるはずの「観光業」ではないか.

それは,バレエやオペラに代表される「総合芸術」に似ている.
しかして,バレエやオペラを芸術界の基幹産業と呼ぶものなどいない.
ましてや,バレエやオペラの売上高が,他の演奏会のシェアで比較しても,巨大とはいえないだろう.

わが国観光業が外国人市場で発展するためには,わが国独自の一次産業があって,わが国の二次産業が利便性を提供しつづけ,これを人間がプロデュースしなければならないのだ.
それを,最後の観光業従事者というひとたちだけで,なし得るものだ,というのは,「夢」を通り越した「誇大妄想」ではないか?
あるいは,「自信過剰」の鼻持ちならぬはなしである.

たとえば,自然の景観という観光資源も,外国の僻地にあるような「放置された自然の美しさ」をわが国に探せば,じつは本当に放置された場所か,交通機関の整備がないまさに「僻地」しかない.
便利な交通がある場所は,人工的な建造物にあふれていて,かぎられたお決まりの撮影スポットしかないから,現地にいくより映像でみたほうが美しいかもしれない.

ふるい伝統的な日本を感じる地方都市も,東京のようになりたい,東京のようなガラスとコンクリートがほしい,と全国一律にカネをばらまいたから,駅舎すら撮影意欲をなくすポスト・モダン建築ばかりで,情緒などどこにもない.
これは,旧市街・新市街という都市計画の常識が,経済の貧困と貧困なる発想が掛け算になって,市中でもほんの一角が「観光地」で残るばかりである.

戦後のまちづくりにみられる混沌こそは,敗戦の貧しさの象徴で,それを近代というおしろいで化粧はしたものの,にじみ出る貧しさは消しようがない.
これが,欧米以外の,たとえばアジアからの観光客に受けているのかもしれない.
かつての支配者たちがつくったまちとはぜんぜんちがう混沌をみて,安心と自信を得るのではなかろうか?しかし,これは自慢できない.

東京の焼け野原に匹敵する破壊を,執念と自助で復活させたワルシャワ市に代表されるポーランド人の精神は,日本人にはつゆほどもなく,ただひたすら近代をもとめたのは,いまさらながらに貧困なる精神だったのだとおもう.

いまだにこの精神のままでいるから,この国が観光立国になどなれないし,なったところで本当の貧困がまっている.

無政府をシミュレートする

経営者集団の日本経団連が望ましいが,労働者集団の連合(日本労働組合総連合会)でもよい.
そろそろいちど,日本政府なかりせば,というシミュレーション研究をしてみたらどうだろう.
このシミュレーション研究に政治志向はいらない.
単純に,「無政府だったら」という状態だと,わたしたちの社会経済がどうなるのか?という研究である.

社会保障が国民皆保険であることも,善し悪しのはなしではなく,「なかりせば」だから,ぜんぶ白紙にするとどうなるかである.
この,どうなるか?も,わたしたちにとって,であって,政府の債務がどうなるか?ではない.
むしろ,民間の年金保険や,積立ファンドの活用の意味になるだろう.

つまり,政府の関与をぜんぶ出すのだ.
必要なこと,不要なことという仕訳では,政治信条が入り込むし,現状を基礎にかんがえることになって,「白紙」からのはなしにならないから,機械的に消し去ることがもとめられる.
それから,わたしたちのためになることを抽出すればよい.

たとえば,警察.
だれだって,警察がなくなったら犯罪がふえてこまるとかんがえるだろう.交通事故の処理もできないから,自動車保険の受け取りにもこまる.
しかし,警察の仕事は,ほかにもいろいろあって,なかでも「許認可」という仕事に注目すると,おおくが「公安委員会」から引き受けていて,いわゆるふつうの役所のような「行政」がおこなわれている.
公安委員会は行政を警察に丸投げしているのに,警察を監視するというのは,陳腐なしくみである.

おなじく,消防.
だれだって,消防がなくなれば火災のときに誰が消すんだになるし,救急車がやってこないと命にかかわる.
しかし,救急車が訓練されたタクシーでいけない理由はないだろうし,やっぱり消防法にある各種規制のために,「行政」がおこなわれている.

マイナンバー制度ができたのに,どうしていまだに「戸籍」があるのかもわからない.
世界をみわたすと,「戸籍」があるのは日本周辺国の数カ国にすぎない.

ちなみにアダム・スミスがあげた国家の役割は,以下の三点だった.
・国防
・司法行政
・公共設備

国防には外交がふくまれる.
外交の延長線上に戦争がある,というかんがえ方は世界の常識だから,平和憲法があるから戦争はおきない,という発想とはだいぶちがう.

司法行政は,独占市場(航空業界、携帯電話、放送業界など),外部性(公害防止・対策),情報の非対称性(市場の失敗の原因)を,社会全体の利益から調整するという機能が求められるものだ.

公共設備も,収益性がなくても社会インフラとして用意しないといけないものは,国家が面倒をみなければならない.

これは確かに古典的だが基本である.
しかし,このかんがえを拡大解釈してきた歴史があるのも,また事実である.
そして,拡大解釈と公平な分配というかんがえがくっつくいて,社会主義がうまれた.
みんなから集めたお金を政府がつかう,といったときの「つかう」が「分配」になるからだ.

どのように「つかう」のが,社会にとってもっとも合理的であるか?という発想で経済学がうまれたが,「つかいかた」に公平性重視という力学がはたらくと,社会主義経済になる.
そして,それが拡大すると,はたらくことよりも分配をもらう方が得になるという逆転がうまれて,経済活動が停滞するようになる.

こうなると,みんなで貧乏になる,という仕組みが完成したのとおなじだから,分配をきめる政府が,頑張れば頑張るほど,国全体の貧乏が加速されてしまうことになる.

いま,わが国はたしかに,米国とは軍事的な同盟関係にあるが,分配という価値感でかんがえれば,アメリカ人なかでも共和党と日本の国情は正反対にある.
だから,「自由と民主主義という『共通の価値感』」を,米国とわが国は共有していない.
自由と民主主義を日本政府はぜんぜん重視していないのに,重視しているふりをしているのも,詐欺的である.

すると,あんがい「無政府」でも悪いことがすくないのではないか?

労使でシミュレーション研究をやる意義はあるはずである.

「もったいない」が損をふやす

世界にひろがる「もったいない(Mottainai)」.
2004年のノーベル平和賞受章者,ワンガリ・マータイさんの活動の標語にもなったから,おぼえているひともおおいだろう.
日本人がもっている,「もったいない」の精神が世界を救う.

ところが,「もったいない」の精神が,企業経営に害をなすことがあるから,じゅうぶんに気をつけなければならない.
それは,失敗した投資について「もったいない」からといって,追加投資してしまうことである.
これは、個人の生活でもあることだが,さいきん「断捨離」が理解されてずいぶん改善してきている.

「サンクコスト(Sunk Cost)」とか,「埋没費用」ともいう「費用」がある.

これは,理論としては「投資」をするときに無視しなければならない「費用」なのだが,人間心理としてなかなかそうはいかないので,注意せよと教わるものだ.
なにに注意せよというのか?それは,理論どおり無視すること,と念をおされるのである.

そこまでいわれても,実務ではなかなかふんぎりがつかないのが人情で,埋没原価の金額が大きいほど,判断に影響をあたえる.
上の判断とは,理論から離れる判断という意味で,まさに間違った判断のことをいう.
つまり,損のうえに損をかせねる判断ということだ.

具体的にどんなことなのか,事例でかんがえよう.
事例1.
「耐震補強」をしなければ,公表されてしまうということになって,数千万円かけて耐震補強工事を実施したが,その直後,建て替えのはなしが立ち上がった.
建て替えに「賛成」すべきだろうか,それとも「反対」すべきだろうか?

事例2.
さいきん流行の「ドタキャン」で,用意した料理がムダになった.
この料理を「再販売」するのに,再販売価格の35%の手数料が発生する.ただし,そのうち5%ポイントは,NPOへの寄付であることが購入者に告知される.
食材は廃棄すべきか,それとも再販すべきか?

事例1.は,建て替えの検討にいまの建物の耐震補強工事費用を考慮する必要は「ない」になる.
数千万円ものお金をかけたことは,すでに支払い済みで,二度と帰ってはこない典型的な「埋没費用」である.その数千万円がもったいないからと,あらたに建て替えることに反対する理由にはならないから,きっぱり断捨離する必要がある.

ちなみに,あらたに建て替える建物の取得コストに,取り壊してしまういまの建物の耐震補強工事費用を「加えて」収益計算をすることもまちがっている.
必要な目線は,あくまでも「キャッシュ」の増減であるから,すでに減った分は関係なく,現状のキャッシュ残高から,新規計画のキャッシュをかんがえなければならないのだ.

事例2.は,キャンセルという事態で発生した「廃棄」までのはなしと,その後の販売のはなしを切り離してかんがえなければならない.だから,再販売ではなくて,販売である.
すなわち,材料費や人件費,光熱費の合計が「埋没費用」にあたる.したがって,(再)販売するばあいの仕入原価は,ゼロ,さらに廃棄処理費がかからなくなる分が仕入れ値をマイナスにするから,手数料分を負担してもかならずキャッシュがプラスになる.
もちろん,NPOへの寄付については,さらに別途の広告宣伝費として考えればよい.

よくあるのが,材料費や人件費,光熱費に,あらたな手数料もくわえて考えてしまうことだ.すると,この方法は「大損」という経営判断をみちびくので,何もせずにだまって廃棄することが「得」ということも一緒に判断される.
これを,「損益計算書思考」と,いいたい.損益計算書の流れが,まさにこの思考の原点にあるからだ.

まったく,「損益計算書」は経営にとって役に立たないどころか,損をふやす思考を促すからやっかいである.
まじめな経営者ほど,この思考に冒されているから,この国の儲けがなくなった.
経営上,もっとも優先されるべきは,しつこいが「キャッシュ(現金)」である.
だからこそ「埋没費用」という発想で「断捨離」をしないと,得が損に,損が得にみえるという正反対の結論が,計算上は正しいけど平然とみちびかれるのだ.

すなわち「損益計算書思考」とは,貧乏神である.
だれだって,貧乏神に取り憑かれれば,厄災をまねく.
だから,「埋没費用」という,お払いをしないといけない.

「もったいない」という精神は,埋没費用をしっているひとには「道徳」にもなる美しいものだが,そうでないひとには貧乏がやってくる.

正しい「もったいない」を追求したい.

生類憐みの令を笑えない

ばかな独裁者がばかな法律で国民を苦しめたとして,世界的に有名なのは五代将軍綱吉による「生類憐みの令」だ.
これを習うと,だれでもが愚か者「綱吉」の名前を覚え,独裁政治の怖さをしる.
そして,人間より「犬」や「蚊」までが大事にされた本末転倒の倒錯を笑うのだ.

しかし,バランスが崩れたひとには画期的な法律にみえて,動物愛護も極端にはしると「生類憐みの令」になりかねない.
それが「鯨類」保護の国際問題にもなるし,犬や猫の殺処分ゼロ運動にもなる.
そして、「保護」という概念が拡大に転じて,「地球環境『保護』」も極端にはしると,あたらしい生類憐みの令にもなる可能性がある.

ひとつひとつに異論があるわけではない.
ここでいいたいのは,バランスが崩れたひとたちが極端にはしることの恐怖である.
たとえば,犬や猫の殺処分ゼロをいえば,その数字の拾いかたではなしがおおきく変わる問題がある.

従来は,都道府県などの各自治体が,むかしは保健所,いまは動物愛護センターという施設で,大量の殺処分をおこなっていた.
とくに,街のペットショップで売れ残った「在庫」としての子犬や子ネコが,だんだん育って「子」でなくなってしまうと,こうした施設に運ばれて処分されていたことがある.

こうした「業者」の「業務用在庫」の持ち込みを,施設が受け入れ拒否できるように法律が改正されたら,より深刻な事態になっていまにいたっている.
つまり,ペット生体の「流通システム」という視点を考慮しての「法改正」ではなく,事象だけをみての改正だったから,急に処分場の入口が閉鎖された「だけ」という事態になった.

施設側は,もう「業務用在庫」の処分をしなくてよいから,正規の「殺処分数報告」では「激減」が記録されるのは当然である.それで,とにかく「ゼロ」ならよいのだ,になった.
しかし,物理的に業務用在庫が「減った」事実はないので,引き受け業というあたらしい業種が生まれて,対象となる生体自身の運命から「悲惨」がなくなることはないどころか,一生粗悪な環境に放置される「生き地獄」が出現した.

スーツを着た国会議員たちの「議員立法」だったというが,残念を通り越したお粗末である.
だから役人が起草すればいいと,いいたいのではない.
この国の国会議員は,立法府という権威をいいことに,ほとんどの法律は役人が起草することになってしまって,議員が起草するという本分を忘れたことを嘆くのである.
だから,この法改正を起草した議員たちには,はやく次の法改正での改善を強く期待したい.

先日は,これと反対の,役人による起草とおもわれるとんでもないニュースがあった.
「レジ袋の有料化」である.
環境保護が歪んでバランスが崩れたひとたちによる極端の極地だ.
この国を仕切る文系の高級官僚が,いよいよ「化学」という人類の知見を無視して,「独裁」にはしる例である.もはや「野蛮」の領域ではないか?

民間には残業を減らせと命令するが,もっともブラックなのは官庁の残業だろう.
高級官僚でも働き盛りは課長級であるのは,民間とかわらない.
男であろうが女であろうが,このクラスの官僚はまともに家に帰れない生活をしているからか,なぜか「レジ袋」だけが目の敵にされるのだ.
自分で買い物をしたことがないのだろう.

先月書いたが,野菜を買うとプラゴミがふえるのである.
レジ袋はすくなくても「ゴミ袋」というべつの使い途が用意されているが,野菜の包材はそのままゴミである.
つまり,日本で生活をしていればかならず疑問におもうのは,野菜の包材からでる山のようなプラゴミの方である.
だから,役人の,この生活臭のなさは異常である.

国民生活を苦しめる「政策」が,なぜか国民受けするのは,化学をわすれた「科学技術立国」の素顔になった.
まるで戦時中の標語が,ゾンビのように生き返って,「お国のためなら我慢する」が「環境のためなら我慢する」にすり替わっただけである.

江戸時代の将軍は,愚かさで歴史に名を残したが,ほんとうは将軍をささえる官僚機構が幕府にもあった.
しかし,封建制の専制政治ゆえ,歴史における愚かさの責任は,この将軍ひとりが背負うのだ.

すると,民主主義を標榜する現代にあって,化学を無視した国民生活を苦しめる法律が,将来どのように「愚か」であったかを,「犯人は誰?」に展開すれば,それは「日本国民である」という結論がかんたんに見出されることになる.

今さえよければそれでよい,とする刹那主義が,将来に責任があることをすっかり忘れているくせに,将来の地球環境のために「レジ袋を有料化」すれば問題が解決すると信じるのは「偽善」であり「詭弁」である.
流通業界に経費削減の儲けをつくって,税収をあげようとする姑息な手段にすぎないものを,「地球環境」などという大言壮語に惑わされるの愚でしかない.

あゝ,この国の凋落がとまらない.

いまさら「√」の発見的教授法

電卓についてまえにも何度か書いたが,講演会で横道にはなしがズレたときにする「√」の話題が,おもわぬ好評をいただくことがある.
日本の数学教育の「落とし穴」だと感じる瞬間でもある.
すでに世界の主流であるという「発見的教授法(heuristic method)」への「拒否」なのか「無知」なのかしらないが,純粋理論一辺倒で,それがどんなふうに実生活に役立っているかをおしえない.

わが国のこのやり口は,圧倒的に教師有利(生徒不利)のたちばを維持できるという点で,古来からの「諭して教える」という「教諭法」の漢字の意味をそのまま体現しているから,ある意味開き直ってもいる態度である.
先生たちの労働組合としては,この楽な方法を批判する気はないのかもしれない.

しかし,数学の抽象的論理を,さいしょからさいごまで「抽象」のままの解説で,子どもの頭脳に押し込もうとするから,たいがいの人数が理解不能になって,そのまま数学嫌いになってしまう.
だから,あえていえば不良品を大量生産するシステムになるから,これを批判反省して,世界は「発見的教授法」を採用したのだ.

日本の学校教育は,まさにTWI研修の精神に反しているということがわかる.
わが国の製造業では「常識」にあたるものが,サービス業に導入されず今日まで及んでいると書いたが,そのサービス業に「学校教育」という分野もふくまれることがよくわかる.

学校の先生のおおくが,新卒者採用だから,なるほど製造業での実務経験など期待する方がどうかしている.
そういうわけで,人的サービス業という分野に新卒者採用で就職すれば,理論の具体的利用方法をしらないままで幹部になるということが異常ではなくなるのである.

そこで,ビジネスにおける「√(平方根)」のはなしだが,その前にひとつ,道具についても触れておきたい.
「実務用電卓」といわれる「ふつうの電卓」には,二種類あるということだ.
「√」キーが「ある」ものと「ない」もの,である.

電気量販店の電卓コーナーに行くと,あろうことか「ない」ものを「経理用電卓」と表記していることがある.
「経営の理屈」をもって「経理」とすれば,まちがいなくこれは「誤記」である.
「√」キーが「ある」ものをかならず選択するのが,すくなくても経営幹部の幹部たるゆえんである.

ビジネスの場面で「√(平方根)」を必要とするのは,「年利」をかんがえるときになる.
たとえば,本年の数字と昨年の数字を比較して,その「伸び率」をしりたいときには,
本年の数字/昨年の数字-1
で計算する.このあとに100をかければ「%」表示になる.

では,本年の数字と一昨年の数字を比較したいときにはどうするのか?
本年の数字/一昨年の数字-1
では,年率の平均にはならないから,割り算部分を「√」のなかにいれて計算しなければならない.
これを「幾何平均」と呼んでいるが,呼称はこのさいどうでもよい.

世の中は「複利」でできている.
一昨年を計算のスタートにすれば,一昨年 → 昨年 → 本年,と数字はたどる.
だから,一昨年から昨年の伸びを踏み台にして,昨年から本年の数字ができている.
それで,この伸び率の平均がしりたいのだから「√」をつかうのだ.

かんたんにいえば,二年前の数字との比較だから「二乗・平方」の「根」がひつようになる.
実務での表など,よく目にする数字の書類には,一昨年の数字もよくあるから,気を利かせて幾何平均も表内にあればいいが,あんがいとないから,そのときにちょっと電卓で確認したくなる.
このとき「√」計算ができないと,お手上げなのだ.

「√」は,「二」乗をもとにするので,この例では「二」年前の数字につかう.
だから,2の二乗の4年前,2の三乗の8年前の数字なら,「√」キーを二回,三回とおせばこたえがでる.
しかし,そのほかの年数は計算できないから,自在に「累乗」と「累乗根」の計算ができる関数電卓の出番がここにでてくる.

関数電卓は専用の計算キーがたくさんあって,一瞬ひるむが,ビジネス場面で三角関数はつかわないから,目立つ位置にある「Sign」「Cosign」「Tangent」キーは,まず一生必要ない.
そういう意味で,ムダな機能に高いお金をはらうのはもったいない気もするけれど,「利率」にしてどうなの?という疑問をかんたんに解決してくれる文明の利器である.
ボケ防止に,あいた時間で三角関数の問題を解いてみるのも,一興ではあるから,まるでムダではないだろう.

スマホの無料アプリもあるけれど,やはりビジネスの場面では,押し間違えがない「実機」をつかいたいものだ.
ふつうの電卓なら「√」キーの「ある」もの.
関数電卓は,量販店なら980円で手にはいる時代に生きている.

私立医大の入試不正は不正か?

公正であるべき医大の入試に不正があったと騒ぎになっている.
しかし,そんなに大きな「事件」なのだろうか?

医大というところは,法科大学院と同様で,卒業時に「国家試験」がある.
つまり,医大卒業という学歴「だけ」では,社会的にも意味がない.
国家試験に合格しなければ医師になれないからだ.
これが,医大を他の一般大学と区別する重要な要素になっている.

さらに,問題が指摘されて「調査」対象としているのは「私立」ばかりである.
「私立」とはすなわち「私塾」であって,それが経営上,卒業生の関係者を優先して入学させるのはある意味当然ではないか?
むしろ,国公立に不正がないかを調べるべきで,調査対象の選択からしておかしくないかとおもう.

つまり,文部科学省という役所の,権力維持のためが第一優先事項としておこなわれているのではないか?
これに正義をふりかざして,一方的に「不正」だとまくしたてるのは,「私塾」を無視した事大主義である.

現役と一浪には加点があって,それ以外にはなかったことに,大学当局は問題意識がうすかったという.
その理由は,これまでの経験から,入学後の「伸びがちがう」ということがあって,教師の認識として合意があったのだろう.

ここで関係者がいいたい「伸び」とは,一般大学でいう成績ではなく,国家試験合格の水準に近づく,という意味でなければ辻褄があわないのだが,報道側はちゃんとここが理解できているのか不明だ.

あくまでも,国家試験合格の実績が大学側の「格付け」になるはずだ.
経験値から,「伸びがちがう」のであれば,問題意識がないこともうなづける.
すると,どこかで聞いたはなしをおもいだす.
自動車メーカーの「検査不正」のことだ.

たしかに,「不正」をそのまま擁護するつもりはないが,国内出荷分が完成検査対象で,輸出対象は完成検査を要しない,という二重のルールの存在が気になるのだ.
そして,糾弾されたメーカーは,30数年間も(ほとんど「不正」と気がつかず)「不正」をしていたのだから,ふつうにかんがえると,なんのことかわからない.

くわえて,こうした「不正」による事故も報告されていないとすると,国内には手厚く安全が保護されているが,外国分には手薄でよいという意味にもとれるから,一種の人種差別ではないか?
さらに,安全が手薄な輸出対象の国からこの件でのクレームがない.

大騒ぎして,メーカーを叱りつけているのは,その30数年間も「不正」に気づかなかった,国交省(旧運輸省)であるけれど,国民目線からすれば,第一に国交省の仕事がずさんであることが糾弾されねばならず,第二に,そんな「検査」がほんとうに必要なのか?ということだ.
外国政府がもとめない検査はやっぱり不要なのに,国内でその不要な手間が強制されつづければ,当然それはコストになって,結局は消費者が負担させられる.

私大医学部の入試「不正」と,自動車の完成検査「不正」の構図が,たいへんよく似ている.
私大を叱りつけようとする文科省の高級官僚が,自分の子息を無理クリ入学させたことから,国民目線をそらせようと躍起になっていることも,そっくりなのだ.

むしろ,これらの「不正」問題でわたしが興味あるのは,中身なのだ.
医大の「伸びがちがう」ということの中身である.
自動車会社なら,工程上の作り込みについての,前工程から後工程に引き渡すときの「検査」の中身である.

まえに書いた「TWI研修」の思想である,「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」に注目すれば,日本における医大の教師陣がこの思想をどうとらえているかを知りたい.
また,問題発覚すらなかった「TWI研修」の世界的権化である,トヨタ自動車と,問題が発覚した自動車会社のちがいを知りたい.

「TWI研修」は,アメリカ軍が日本の産業界に教えてくれたものだったが,そのアメリカに日本から逆輸入され,現在はとくに,医療分野での応用がめざましいという.
これを,日本の医療関係者がどのくらい知っているのか?ということなのだ.

実力がない者が,「不正」で入学したとしても,授業についていけなければ卒業できない.
だから,外国の「私立大学」は,人間関係と寄付金の多寡で入学が許可されるのは,むしろ「ふつう」のことではないか?
それで,本人がちゃんとがんばって勉強して単位をとれば,正々堂々と卒業できる.

くわえて,もしその学校に「TWI研修の精神」があれば,どうやったらわかるのか?を教師陣も研究するから,より,本人は卒業に近づける可能性がたかまる.
ましてや,国家試験を合格しなければならない医大なら,入学のことでいまやっている議論と,大学側の謝罪がほんとうに必要なのか,おおいに疑問なのである.

若者の減少もふくめた平時における強烈な人口減少という,人類史上経験のない事態にすでに突入しているわが国にあって,重要なのは病的に潔癖な「公正さ」をもとめることよりも,成果をだす仕組みを追求することだろう.

「職域奉公」という体質

戦中の昭和17年(1942年)にでた,橘樸「職域奉公論」によると,近衛文麿の大政翼賛会ができた当時にはやりだした用語であるという.
だから,ちょうど昭和15年(1940年)ごろにあたる.
国家総動員法ができたのは昭和13年(1938年)で,第一次近衛内閣のときだった.

すなわち,「職域奉公」とは,すべての職業が国家の戦争遂行という目的に協力することをいうから,これがわが国職業人の「道徳」になったのだった.

このころにつくられた「戦時体制」が,21世紀の今日にも連綿とつづいていることを告発したのが,野口悠紀夫「1940年体制」だった.
いまの戦後最長になりそうな総理がいう,「戦後レジームからの『脱却』」というフレーズが,じつは「戦後レジームへの『回帰』」だとわかる本だ.

もっといえば,戦後体制とはおどろいたことに,戦時体制の延長にすぎない.

 

この本は初版と増補版とがあって,初版+増補版最終章で全部読めるようになっている.最終章が差し替えられているので,増補版一冊だけでは漏れが生じるので注意したい.

さて,政府がすすめる「働きかた改革」に財界アンケートでも半数が「迷惑」と回答したのがニュースになった.
その「働きかた改革」の浅はかさとは,戦時体制としての「職域奉公」を,政府が押し進めたことを忘却しているからである.

ところが,民間は,それがすっかり道徳として「血肉」になってしまったから,両者のズレは二重らせん構造のようにからみあっている.

たとえば,わが国を代表する証券会社である野村證券の創業の精神には,「証券報国」,「職域奉公」がはっきりとうたわれている.
これを,現代風の「事業ドメイン(領域)」として解釈しているのは,必然であろう.
あえて意地悪くいえば,だからNOMURAはゴールドマンサックスのようになれない,のではないか.

ゴールドマンサックスは,その経営幹部が歴代,アメリカ連邦政府要人になるほどであるが,社が掲げるものに「証券報国」も「職域奉公」もあるはずがない.

この例からもわかるように,戦前からつづく伝統的なわが国の企業は,いちように「職域奉公」という思想をかかえたままでいる.
あたかも,それは日本人の宗教心のように,ふだんはほとんど意識することはない.しかし,ことなにかあるときに,忽然と信心深くなって,効きそうな神社仏閣にお参りするようなものだ.

組織では,「職域」が「聖域」になる.
だから,他部署の人間は,そこに足をふみいれることすら許されない.
これをパロったのが,2008年の映画「ハッピーフライト」における,航空会社の地上職が機内に入るシーンだった.

しかし,現実は,当事者間でけっして笑えない問題だ.
よしんばこれが,社内不正を調査する場面なら,おなじ社員同士が検察と容疑者のような関係になる.
だから,もし,事件が収束しても,部署間の軋轢はけっして緩むことはなく,それは個人間の恨み辛みになるものだ.

「第三者委員会」という調査機関による調査は事実上の経営放棄だとまえに書いたが,そうでもしないと上記の軋轢をマイルドにする方法がない.しかし,あくまで「マイルド」だ.
つまり,まじめな企業のまじめな部署ほど,「職域奉公」の意識が高く,自分たちの職場を「聖域化」させることで,一体感という精神の安定を得ようとするのである.

もちろん,ここにはもはや「お国のため」という意識はないだろうが,「会社のため」に変容しただけで,なにが会社の利益になるのかが不明なまま,経験と勘で「奉公」してしまう.
それででてくる職場の概念が,現状維持,なのである.
頑迷な「守旧派さがし」をしても,ピンとこないのは,こうした事情があるからだ.

むかしながらの方法を盲目的に維持する.
それがもっとも「間違いない」と信じることで,会社に貢献できると確信する.
こうして,職場の改善はすすまないから,生産性に変化はおきない.
むしろ,生産性に変化をおこさないことが,「聖域化」した職場をまもることになっている.

経営者は,それではこまる.
それで,改革に「聖域はない」といってはみるが,どうしたらよいのか打つ手がみえないから,もっともらしく「全社一律」という落としどころにおとす.
できもしないことをわかっていても命じるのが仕事と自己欺瞞して,結局できないのを部下のせいにする.

会社の利益とはどんなことで,職域奉公では達成できないとトップが説かないと,現場は理解できないことを理解できない.
しかし,そのためには,どんな仕組みが必要なのかをかんがえて,その仕組みを用意しなければならないから,現場にいうまえに経営者がやるべきことが山ほどある.

伝統的企業の従業員から昇格した経営者ほど,自身が職域奉公に染まっているのだと,最初に認識しないと,やるべきことも見えないで任期をおえるだろう.
それをまた,後任や後輩,あるいは新入社員が黙ってみているのである.