わが国では,子どもの時分からめったに「ディベート」をやらない,というよりやらせない.
議論として対立する論点をえらび,自分が賛成であろうが反対であろうが,クジなどで賛成側や反対側の一員になって,論をすすめる「訓練」である.
本当は賛成なのに反対側になるとか,反対なのに賛成側にたったりするから,これは「複眼的」なものの見かたについて学ぶカリキュラム(教科)になる.
自分「だけ」が大事である,というかんがえ方では,自由も民主主義も成立しない.
それで,このような複眼的思考の訓練をして,勝手気ままな動物ではなく,社会的な動物に仕立て上げようという「人間教育」になるのである.
つまり,自分と同様に相手のことを尊重できるように鍛えるのである.自己主張もするが,相手の主張も認める.
そうやって,自由と民主主義の社会を維持しようという決意が,社会の道徳にもなるのである.
果たして,こういった「決意」が,わが国の社会にあるのか?と問えば,疑問におもえる事態がたまたま発生した.
わたしは読者ではないが,「新潮45」という雑誌の休刊(実態は「廃刊」と噂されている)にいたった経緯がそれである.
最後の号に寄稿したひとが,「自分の論文を読んでいないひとからの批判ばかり」と反論する記事を別にネットでみつけた.
わたしも当該雑誌を読んでいないけれど,これは,なかなか興味深い反論である.
日経BPから2016年にでたハイエクの名著に,ハイエク全集編集責任者ブルース・ゴールドウェル教授の序文を思いだしたからである.
このなかで,教授は,「当時の英国知識人は,読まずに批判していた」と書いている.
この文章でいう「当時の英国の知識人」とは,社会主義に傾倒していた「リベラル」を指す.
これに関しては以前書いたから,そちらを参照されたい.
「リベラルな知識人」というひとたちの思考と行動パターンは,かつての英国と現代の日本に共通点があることがわかるのが,「興味深い」のだ.
そして,「読まなくてもわかる」という態度で批判を展開するのは,かつての紅衛兵の「造反有理」もおなじ思考法であろうと推測できる.赤い表紙の毛沢東語録を振り回して,殺人にまで手を染めた.
ところで,教授が指摘する「当時の英国」とは,ハイエクが発表した当時のことだから,1944年(昭和19年)頃のことである.
紅衛兵が組織されたのは,いまでは東大があしもとにも及ばない大学ランキングでアジアナンバーワンの精華大学で,1966年のことだったから,「読まずに批判する」思考方法は,20年かけて地球を半周した.
その紅衛兵たちが跋扈した文化大革命に,わが国知識人たちが心寄せたことは,稲垣武「『悪魔払い』の戦後史」(文藝春秋,1994年からの復刊,PHP研究所,2015年),
「『悪魔払い』の現代史」(文藝春秋,1997年)に詳しい.
こうした人たちの「言論」が,文字になって残っているから,あとから証拠になって本にもなるが,テレビやラジオといった媒体では,音声中心だからそれがなかなか難しい.「たれ流し」といわれるゆえんである.
将来,これらも,検索の対象になれば,すこしは無責任な言動がへるのではないかと期待したい.
けだし,マスコミは揚げ足取りの言葉狩りも本業だから,文脈を確認する態度は受け手には必須であることにかわりはない.
今回は,たまたま新潮社という老舗かつ大出版社のできごとで,突然と社長のコメントが出た先の「休刊」決定だった.
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い,と,雑誌本体や出版社が批判の対象になったようだが,雑誌や出版社は「場」の提供だけだとして,誌上で大議論が展開できないのは「危険の兆候」ではないかと,読者でなくても心配だ.
「休刊」を,消極的でも支持するひとは,積極的に支持するのとはちがうといいたいだろうが,「支持」は支持である.
おおくが,今回議論となった,社会的マイノリティーに対する「差別はいけない」から,という理由を挙げているのも金太郎飴のような特徴である.
言論の「場」と「差別」というのは,いまにはじまる問題でもない.同和問題が解決しない理由のひとつでもあろう.「タブー」にして済ますはなしになっていないか?
むしろ,いま,「差別」という誰にも反論をゆるさないことばをもって,「場」の存在を葬ることが正しいのかをきちんと議論してもらいたい.
きちんと,というのは論理的に,ということだ.
「情緒」は美しくもあるが,依存すれば「醜悪」にもなる.
会社組織という,ちいさな社会にあって,情緒に依存するから「ハラスメント」が起きるのである.
ましてや,国家おや.
一部の作家が「場」の消滅を批判している.
わたしは,そうしたひとの読者でもないが,論理として正しいとおもう.