論理ではなく情緒が好き

わが国では,子どもの時分からめったに「ディベート」をやらない,というよりやらせない.
議論として対立する論点をえらび,自分が賛成であろうが反対であろうが,クジなどで賛成側や反対側の一員になって,論をすすめる「訓練」である.
本当は賛成なのに反対側になるとか,反対なのに賛成側にたったりするから,これは「複眼的」なものの見かたについて学ぶカリキュラム(教科)になる.

自分「だけ」が大事である,というかんがえ方では,自由も民主主義も成立しない.
それで,このような複眼的思考の訓練をして,勝手気ままな動物ではなく,社会的な動物に仕立て上げようという「人間教育」になるのである.
つまり,自分と同様に相手のことを尊重できるように鍛えるのである.自己主張もするが,相手の主張も認める.
そうやって,自由と民主主義の社会を維持しようという決意が,社会の道徳にもなるのである.

果たして,こういった「決意」が,わが国の社会にあるのか?と問えば,疑問におもえる事態がたまたま発生した.
わたしは読者ではないが,「新潮45」という雑誌の休刊(実態は「廃刊」と噂されている)にいたった経緯がそれである.

最後の号に寄稿したひとが,「自分の論文を読んでいないひとからの批判ばかり」と反論する記事を別にネットでみつけた.
わたしも当該雑誌を読んでいないけれど,これは,なかなか興味深い反論である.
日経BPから2016年にでたハイエクの名著に,ハイエク全集編集責任者ブルース・ゴールドウェル教授の序文を思いだしたからである.

このなかで,教授は,「当時の英国知識人は,読まずに批判していた」と書いている.
この文章でいう「当時の英国の知識人」とは,社会主義に傾倒していた「リベラル」を指す.
これに関しては以前書いたから,そちらを参照されたい.

「リベラルな知識人」というひとたちの思考と行動パターンは,かつての英国と現代の日本に共通点があることがわかるのが,「興味深い」のだ.
そして,「読まなくてもわかる」という態度で批判を展開するのは,かつての紅衛兵の「造反有理」もおなじ思考法であろうと推測できる.赤い表紙の毛沢東語録を振り回して,殺人にまで手を染めた.

ところで,教授が指摘する「当時の英国」とは,ハイエクが発表した当時のことだから,1944年(昭和19年)頃のことである.
紅衛兵が組織されたのは,いまでは東大があしもとにも及ばない大学ランキングでアジアナンバーワンの精華大学で,1966年のことだったから,「読まずに批判する」思考方法は,20年かけて地球を半周した.

その紅衛兵たちが跋扈した文化大革命に,わが国知識人たちが心寄せたことは,稲垣武「『悪魔払い』の戦後史」(文藝春秋,1994年からの復刊,PHP研究所,2015年),

「『悪魔払い』の現代史」(文藝春秋,1997年)に詳しい.

こうした人たちの「言論」が,文字になって残っているから,あとから証拠になって本にもなるが,テレビやラジオといった媒体では,音声中心だからそれがなかなか難しい.「たれ流し」といわれるゆえんである.
将来,これらも,検索の対象になれば,すこしは無責任な言動がへるのではないかと期待したい.
けだし,マスコミは揚げ足取りの言葉狩りも本業だから,文脈を確認する態度は受け手には必須であることにかわりはない.

今回は,たまたま新潮社という老舗かつ大出版社のできごとで,突然と社長のコメントが出た先の「休刊」決定だった.
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い,と,雑誌本体や出版社が批判の対象になったようだが,雑誌や出版社は「場」の提供だけだとして,誌上で大議論が展開できないのは「危険の兆候」ではないかと,読者でなくても心配だ.

「休刊」を,消極的でも支持するひとは,積極的に支持するのとはちがうといいたいだろうが,「支持」は支持である.
おおくが,今回議論となった,社会的マイノリティーに対する「差別はいけない」から,という理由を挙げているのも金太郎飴のような特徴である.

言論の「場」と「差別」というのは,いまにはじまる問題でもない.同和問題が解決しない理由のひとつでもあろう.「タブー」にして済ますはなしになっていないか?
むしろ,いま,「差別」という誰にも反論をゆるさないことばをもって,「場」の存在を葬ることが正しいのかをきちんと議論してもらいたい.

きちんと,というのは論理的に,ということだ.
「情緒」は美しくもあるが,依存すれば「醜悪」にもなる.

会社組織という,ちいさな社会にあって,情緒に依存するから「ハラスメント」が起きるのである.
ましてや,国家おや.

一部の作家が「場」の消滅を批判している.
わたしは,そうしたひとの読者でもないが,論理として正しいとおもう.

人情とまさかのキャッシュレス化

中央計画経済の計画策定をめぐる困難さは,1921年に創設されたソ連の「ゴスプラン(国家計画委員会)」がどうなったかでわかる.こたえは,国家の崩壊であった.
しかし,その創設一年前の1920年にミーゼスが発表した「社会主義共同体における経済計算」という論文で,その「不可能性」がはっきりと指摘されていたことにもっと注目すべきである.

青山学院大学の故吉田靖彦教授の「社会主義経済計算論争再考」(1991年)に詳しい.
また,ミーゼスの著作なら「ヒューマン・アクション(人間行為の経済学)」(春秋社,2008年)が,大著だが読みやすい.しかし,古書で50万円の値がついているから,電子書籍版か図書館に頼ることをおすすめする.

わが国における「経済学」が,マルクスに脳髄を冒されたまま,なんとかの一つ覚えよろしくいまだに先進国のなかで唯一ケインズ一辺倒を維持しているのは,ある意味いじらしくもある.
完全な勘違いにもかかわらず,経済官僚たちによる戦後経済復興の「成功体験」という幻が,夢うつつのまま忘れられないからだろう.

あのサムエルソンの有名な教科書「経済学」は,米ソが「対等に」対峙していたという,これもおおきな勘違いだったことの前提から,「混合経済」という資本主義と社会主義を「混ぜた」いいとこ取りを提唱するという「猛毒」だった.

ところが,訳者であって,わが国経済学会を牛耳っていていたマルキスト都留重人が,これを東大で積極的におしえたのが効果てきめん,各大学の教師と官僚がみごとに染まってしまった.
いまだに大学の経済学部にはいるのに,受験で数学を要しないのは,マルクス経済学という「文系」を前提としたからである.

そういう意味で,さいきんになって再評価されてきている上述したミーゼスが代表する,オーストリア学派(ウィーン学派ともいう)の「経済学」は,なるべく早い時期に取り込んでおけば,免疫力をたかめるワクチンでもあるし,もし「発病」しても解毒剤としての効能もおおいに期待できるのである.

だから,影響力のある大学の先生や経済官僚を自負する人たちやその予備群には,はやくミーゼスなりのオーストリア学派を飲み込んで,自浄作用を期待したいのだが,そうはならないのがわが国の宿痾である.

その病気が,「キャッシュレス化推進」という政策にあらわれて,経産省さんのお役人たちが中国で普及したという「バーコード式」に飛びついて,これを使えと民間に命令しようと準備をはじめた.
命令はムチだが,例によって補助金というアメも用意する,いつもどおりのワンパターンである.

ところが,これまで景気を気にして優柔不断を繰り返した「消費税率」の問題が,いまだにはっきりしないから,レジと連動したクレジットカードの処理端末すら普及しない.
もちろん,税率変更に対応したレジの更新もしないのが民間における経費削減のすさまじさである.
補助金をやるやから「やれ」と命令したが,正式に決まるまで動かないのは「人情」だ.

静岡県の銀行の不祥事や,九州の県をまたぐ地銀の統合問題の公取委の判断など,AIだけでなくこのところ銀行をとりまく話題が豊富だ.
将来をみれば,人口減少とAIが脅威となるが,足下はなんといっても日銀の「異次元緩和」というむちゃくちゃで,マイナス金利という人類史上はじめてがとびだして久しい.

銀行があまったお金を日銀に預金すると,利子をくれるのではなく手数料をとられてしまうから,誰かに貸さなければならないが,金融庁が「担保をとれ」と命令するから,不動産でうまい貸出先はないかとさがしたら,でてきたのが「かぼちゃのばしゃ」だった.

誰でもいいから貸さねばならぬが高じたら,てきとうに書類をつくればいいことになったのだろう.
それで,不正がばれたら,こんどは金融庁が,不動産融資を「監視する」というむちゃくちゃで,銀行の稼ぎはどうしたものかになって今がある.

半沢直樹のドラマのような展開で,自己目的化した役所に振り回されるお気の毒な銀行だが,その後始末はかならず一般国民がかぶることになっている.
それで,10月から銀行だけでなく郵貯も,キャッシュカードの取り引き手数料を「値上げ」して,小銭を稼ぐことになった.

預金者は気がつけば,自分のお金を引き出すのにお金がかかる事態になる.
そんなバカな,と防御策をかんがえたら,キャッシュレス化がもっとも合理的だ.
クレジットカード系,流通系,交通系も,携帯だって,つかえばポイントをくれるから,現金を引き出す手数料との差額分が「お得」になる.

主幹の役所がやろうして命令してできないことが,別の役所の命令から「まさか」のキャッシュレス化がすすむに違いない.
それが「人情」というものだ.
ミーゼスのいう「人間行為の経済学」がとっくに教えてくれている.

「持続可能」というかんがえ方

わが国漁業において,「持続可能」というかんがえ方がないことを前に書いた
これは,残念だが,政府にも国民にもないかんがえ方である.

わが国が民主国家であるとすれば,国民にないから政府にもないという順番になる.
中央政府の独裁的国家であれば,政府にないから国民にもないという順番になる.
どちらかというと,後者のほうがなじむから,わが国の民主主義を疑うのが正常だろう.

このあいだの北海道地震で,あろうことかわが国ではじめてブラックアウトが原因の大停電が発生した.
これについても書いたから,重複はさけるが,太陽光発電の無意味さが図らずともクローズアップされることにもなった.

この問題を,科学の目線から解説しているのは,なぜか武田邦彦教授ひとりである.
太陽光発電パネルをつくるためにもエネルギーが必要だが,これをまかなうのは太陽光発電ではなく火力などの「安定」した発電方法からの電気で,残念ながら太陽光発電パネルの発電力では,太陽光発電パネルをつくることができない.

これは,研究者ならだれでも知っている物理科学の常識だと教授はいう.
それなら,どこかがおかしいではないか?
すると,教授は,法学部とかの文系のお役人は,エネルギーの付け替え,という技をつかって,太陽光発電パネルをつくるときのはなしと,太陽光発電パネルが発電するときのはなしとを「分離」してしまうことからくる,お伽話であると説明する.

「屁理屈」をもてあそぶ法学部だというのは,なかなかの名言である.
だから,おなじ論法をもちいると,電気自動車や水素自動車も,科学的にはぜんぜん「持続可能」なものではないということがよくわかる.
ガソリンや軽油を燃やす,既存の技術に飽きた研究者たちの「おもちゃ」にすぎないという.

その究極が,原子力で,福島の事故の始末をどうするかさっぱりわからない科学技術水準なのに,政府は「安全が確認された」と明言していることも前に書いた.
そんななか,昨年,資源エネルギー庁は「安全性を向上させる」という驚くべき発表をしている.
通常の火力発電所が壊れるのとは意味がちがう原子力を対象に,こうしたことが言えるのは,やはり文系法学部のお伽話であるとしかおもえない.

どうせお伽話なら,原子力船もつくれなかったわが国にあって,原子力潜水艦や原子力空母の原子炉を,大地震でゆれても大丈夫なように海に浮かべれば,よほど安全だろうにとおもってしまう.
退役したこれらの艦船を,もらってくることはできないのか?
機動力がある発電所になるだろう.

結局のところ,「持続可能」という議論に,前提となる定義がないのだ.
だから,文系がてきとうな屁理屈をかんがえついて,それを政策にしてしまう暴挙が平然とおこなわれ,研究予算が欲しい科学者がだんまりを決め込み,あわてた科学者が細々と反論するありさまになってしまった.

これは、文明国のやることではない.
野蛮な独裁国家がやってきたことだ.

学校での理科教育はどこにいったのか?
自然科学の法則が,かんたんに書き換えられてしまうなら,決算書の書き換えなど,もっとかんたんだ.

「文と理」が分離して,とうとう社会が分裂してしまった.
早稲田大学の経済学部が,数学を受験科目にくわえると発表したのは,ようやく離れる方向から反対のベクトルがでてきたのだと期待したい.

制度をつくるのは人間だから,まず人間が持続可能でなければならない.
人材の使い捨て,などということをしていると,その組織は持続不可能になる.

月次資料はゴミか?

統計用語に「ゴミ」という表現がある.
ろくでもない雑でいい加減なやり方で収集したデータ「らしきもの」を,どんなに精緻な計算で加工しても,でてくる答はつかいものにならない.
材料がさいしょから腐っていたら,最新の調理器具を用いたところで,それは食べることができないのとおなじだから,「ゴミ」からは「ゴミ」しかできない,という意味である.

文春新書に,谷岡一郎「『社会調査』のウソ(リサーチ・リテラシーのすすめ)」(2000年)という本がある.

マスコミ報道など,ふだんの生活でよくみかける「統計」数字や,グラフ表示に,結果ありきのインチキが多々あることを,具体的におしえてくれる.

これをもって統計なんか「役に立たない」と決めつけてはいけない.
ちゃんとしたデータの収集方法をまもって,検討された適確な方法で計算されたものは,役に立つものだ.
もちろん,計算が正しくなければならないが,統計計算機能つき関数電卓やパソコンの表計算ソフトが計算をするのがふつうだから,データ入力さえまちがえなければ,計算は機械がやってくれる.

「発見的教授法」について,以前書いた.
はじめに目標を設定して,それからどうやって目標を達成するかの思考方式を「演繹法」という.
これをベースにしているのが,発見的教授法のポイントである.

ところが,わが国では,あいかわらず一段一段積み重ねる方式の「帰納法」が主流で,これを変えようとしない.
統計がどんなに世の中で役立つかを先に教えず,無機質な計算方法をとにかく教えるから,生徒は苦行的勉強を強いられて,結果がでなければだれだって面白くない.そうして,「理解したい」けどぜんぜんわからない子どもに,脱落するように仕向けているかのようである.
じつにサディスティックなのである.

だから,ほんとうに頭のいい子と,深くかんがえない要領のいい子がフルイに残るようになっている.その深くかんがえない要領のいい子が,大挙して高級役人や経営者になっているから,国力が落ちたのではないか?
「理解したい」という欲求をもたせて,おもむろにやり方を教える方法では,脱落者が減ると予想できるから,結果的に全体の底上げができる.それが,国力になるのは当然ではないか.

生徒の成績があがらないのは,教える側の教え方が下手なのだ,という発想法が予備校にしかない.
だから,学校が部活の場になって,塾が勉強の場になった.
それで,教え方が下手な教師が部活でパワハラするなら,生徒は学校にいく理由がない.
わからない子どもがゴミなのではなくて,教え方が下手な公務員教師がゴミなのだ.

ところで,「数学」という教科の不思議は,三角関数を重視しているようにみえることだ.
経営者が欲しい知識に三角関数はふくまれない.
むしろ,微分と積分のほうがよほど重みがあろうが,いまどきの「文系」の高校生には選択の自由がない.なぜか「理系」の生徒しか習わなくっているから,三角関数と順番が逆ではないか?
これも,世の中でどんなに役立つかを教えずに,計算方法だけに突っ走るからだとかんがえられる.そういえば,公務員教師はビジネス経験をもちようがない.

なんどもこのブログでは損益計算書を批判の対象にしてきているが,損益計算書にはもちろん罪はない.それをありがたがるひとが問題なのだ.
業績がダメな企業ほど,損益計算書をありがたがっている.
それで,こういう硬直した企業ほど「経理部」がしっかりしているから,確定数字しか目にできない.

これは規模の大小に関係ない.
大企業なら自前の経理部,小規模企業なら,顧問税理士からの資料に依存しているのがふつうだろう.
それで,どちらも「3週間」かかる.「3週間」である.先月の数字が確定するのに「21日」を要するのだ.

すると,こうした企業では定例の月次幹部会が開催されるが,社長も含め幹部が先月の数字を,今月の残り10日しかないなかで「議論」している.
いったいなにを「議論」しているのか?3週間前におわった,先月の反省なのである.
たしかに反省は結構だが,どんなに反省しても先月の売上や現金がふえることはない.

各人の時給を足し算すると,おどろくべきコストがこうした反省会にかかっているのに,こうした企業ほど鉛筆一本,紙一枚を惜しむのだ.
そして、残りの10日間で今月をどうするのかを「検討」する.
当日から10日で効果のある対策がとれるなら,先月の反省は,もっと早く対策をとるべきだった,の繰返しにならなければならないが,そうはならないのが業績不振企業の不思議である.

深くかんがえない要領のいい子が,集団でおとなになった成りの果てである.

3週間後の「月次資料」は,ゴミである.

民間に「智恵」はめったにない

役所がこまったときにつかう逃げ口上に,「民間の『智恵』の活用」がある.
ふだんは上から目線で,民間をバカにし尽くしているので,これほど歯が浮くはなしもないが,そらみたことかと言われた民間がよろこんだりするから,役人はうしろを向いてベロをだすばかりだ.

この国の民間企業のたいはんは「赤字」である.
だから,きっちり納税している企業の数は,おどろくほどすくない.
もちろんなかには「智恵」をつかって赤字にして,税金をはらわない企業もあるだろうけど,その智恵とは「悪知恵」だから論外である.

お役所のアルバイト仕事に,各種の「現業」がある.
たいがいが,実質子会社の財団や公社などが直接運営するか,その財団などをつうじて指定管理者に孫請けさせている.
おおきな都市になれば,直営の交通局などもある.

バブル前後に流行って設立された,「第三セクター」はみごとに全国で全滅状態で,とうとう一例も「黒字」はなかった.
第三セクターこそ,民間の智恵の活用ではなかったか?
つまり,これでわかるのは,民間に智恵がなかったことである.

しかし,一方で,官営事業の特徴に,「儲けてはいけない」という妙な決まり事がある.「民業圧迫」というまっとうな批判をかわしたいだけなのだろうが,儲けなくてはいけない「民」からすれば,儲けてはいけない「官」は,たんなる「楽勝事業」になって,やっぱり民業圧迫をする.
だから,共同事業者に「官」がくわわると,とたんに儲けることが「罪」になってしまう.

収支トントンをもってよしとする.
赤字なら,血税の投入で,より価値がたかい事業にみえる.
指標が「収支」というフローだけだから,土地や建物といった不動産にくわえ,業務に要する設備などの動産といったストックになる「資産」は,設立時にしかみない.

「官」には減価償却という概念がないから,ときがたてば修繕だけではすまない更新が発生するけれど,その積立というかんがえもない.
なぜなら,それは別会計の予算という,財布がもともとちがうからである.
ところが,いざとなるとその予算が組めない.税収不足と社会保障制度が,自治体にも重くのしかかるからである.結局は,一緒の財布なのだが,そんなことは事業のあいだ気にしない.
こうして,官営事業のほとんどが,最初の投資の償却がおわるころに,だいたい息絶える運命がまっているのである.

では,智恵があるはずの民間はどうか?
わかっているのは一部の企業である.
たとえば,トヨタ自動車.
もはや,わが国をささえる唯一の業種であるなかのトップ企業だ.

トヨタ自動車の影響力は自動車業界だけでなく,わが国製造業に多大な貢献をした.
もっとも有名で重要なのは,故大野耐一副社長による「トヨタ生産方式(脱規模の経営をめざして)」だろう.1978年の初版で,40年たったいまでも新刊書として入手できる名著である.

ホテル勤務時代に手にして,衝撃をうけた一冊である.
あたかもよくあるノウハウ本のようなタイトルだが,とんでもない.
これは、技術の本ではない.中身は深遠なる経営思想と哲学にあふれているから,「人文科学」の本である.
だからこそ,観光立国とおだてられ,人手不足になやむ人的サービス業に,重要な示唆をあたえてくれるだろう.サブタイトル「脱規模の経営をめざして」がそれを物語っている.

ところで,いい旧されてはいるが,トヨタ生産方式といえば「ジャスト・イン・タイム」で,在庫を持たないことが有名であり,各企業がこれを真似ようとして,おおくが挫折を強いられていることでも有名だ.
その理由が,「なぜを5回繰り返す」という思考法の実践における成否なのである.

現場における問題を解決するにあたって,とにかく「なぜを5回繰り返す」.
これを愚直に50年間やってきたら,かってに世界一の自動車会社になっていた.
世界一という結果がすごいのではなく,「なぜを5回繰り返す」ことを全社でつづけたことがすごいのだ.

かんたんに真似ができない理由である.
3回までならなんとかなるが,あと2回がでてこない.
宿泊業の場合,とりあえず3回でもいいから「なぜ」を繰り返すことを指導している.
じっさいにやってみると,はじめはとにかく「苦痛」なのだ.

しかし,これを全社でやって,それを自社の「社内文化」にまで昇華できるかとなると,さらなる苦痛がやってくる.
おおくはその苦痛を経営者があじわうことになるから,つづかない.
こうして,智恵のある企業とない企業が分岐して,残念だが苦痛に耐える企業が圧倒的にすくないから,智恵のある企業がかぎられるのだ.

昨今の不祥事も,智恵を絞り出す苦痛ではなく,相手を罵倒してこころを疵付ける苦痛のほうになってしまった.
それは,安易さというぬるま湯が変容した苦痛だろうから,企業文化の劣化にほかならない.
経営者の劣化を鏡に映したものだろう.

それで,役所がパワハラを禁止する法案をつくるときた.
民間に知恵などないとかんがえている証拠である.
これに財界が反発しないのは,自らの知恵のなさを認めたも同然である.
むしろ,パワハラをするような不逞のやからを自社から排除できるとよろこぶのか?
雇用主としての責任放棄もはなはだしい.

そうかとおもえば,トヨタの社長は自動車保有に関する消費者の税負担が世界標準に照らしても高すぎると政府に文句をいってくれた.
これぞ,民間の智恵というものだ.
トヨタしかないとは,嘆かわしいばかりである.

「放送事故」がわからない

ネット配信専門という「番組」ができた.
地上波とはちがうターゲット層で,かなり絞り込んでいるのが特徴だ.
だから,マニアのための番組になる.

いまや世界最大のショッピングサイトになった「アマゾン」では,年会費を支払うと本の配送料が無料になるサービスがどんどん足し算されて,おなじ会費で音楽も映画やテレビ番組もネット配信で視聴できるようになった.
これに,アマゾンオリジナル制作の作品も加わったから,地上波でもレンタルでも視聴することができないものまで用意されている.

娯楽だけでなく,ニュースだってBBCやCNNが選べるから,とくだん地上波の放送をみなければならないという積極的な理由がうすまっている.

昨年末のNHK受信料にかんする最高裁判決について,このブログでもコメントしたが,こんどは大手ビジネスホテルチェーンの受信料訴訟で,支払命令の判決がでた.
「稼働率」ではなく,「部屋数」に応じてのはなしだから,宿泊業界には激震が走ったのではないか?

いよいよテレビがないホテルが普及するかもしれない.
ネット動画が観られるモニター端末があれば,想定顧客によってはかえって重宝がられるのではないかとおもう.

政治家もNHKを「敵にしたくない」から,国会でNHK問題は議論されないというが,それは本当か?
だとしたら,国民にとって放送局が「脅威」となる事態であって,社会の木鐸でもなんでもなく,たんなる恣意的な政治勢力であることになってしまう.

これも情報リテラシーに欠ける高齢者が,地上波,なかでもNHKを信じていることがおおきな原因なのだろうか?
もちろん,テレビだけでなくラジオという存在も無視できないものの,民放の信頼性が低いなら,本来NHKに対抗するはずの民放の姿勢も間接的ではあるが,NHKの応援をしていることになる.

わたしはテレビを観ないので,旅先の宿でもテレビリモコンのスイッチを入れることはない.
残念だが,ご当地番組で,役に立ったという経験もないから,とくに気にしない.
この何年間,ニュースも天気予報も観たことがないけれど,ぜんぜん困らない.
しかし,テレビがついていないと安心できないというひともいる.
観ているわけではないが,ついている状態が「ふつう」だというから不思議だ.

そういうわけで,たまに食堂などで観るニュースや天気予報は,なにか珍しさすら感じるが,その内容のなさにやっぱり観なくても大丈夫という,安心感さえ得ることができる.

天気予報(気象情報ともいう)では,なぜか天気図をしめさなくなった.
小学校の理科で習うものをみせないで,晴れや雨の図柄や衛星画像だけで解説するのは,天気図をみせて視聴者の頭でかんがえることをさせないという意味だから,これは愚民化である.
だから,新聞やネットの天気予報で天気図をみるほうが,自分の判断と解説記事とを比較できるので納得できる.

あるとき驚いたのは,季節の変わり目ではあるが,女性お天気キャスターが「明日おすすめの服装」といって,こんな服がいいですねと具体的に紹介して,後を受けた女性アンカーが,「いいこと聞きました,明日はわたしもそれを着ます」とまじめにいったのを目撃したことだ.
これは、放送事故ではないか?とドキドキしたが,この国ではだれもそうは思わないらしい.

どんな服を着るのかはまったくの「個人の自由」だ.
これに対して,テレビ放送でやんわりとではあるが具体的な指示をするというのは,「自由の侵害」である.この場合の自由とは,「選択の自由」のことである.
その具体性から,受け手からしたら「命令」にだってとることができる.それを,アンカーがダメ押ししたのだから,欧米なら抗議の電話が殺到しそうな放送であった.

「個人の自由」をつよくもっている国ならば,天候の変化がはげしい日になると予報するなら,その情報をしっかり伝えて,「おしゃれの工夫がいろいろできる日になりそうです」といえばよい.
これもあれも,それからこんなのも,と具体的に言うだけでなく画像で見せたら,完全なるすり込みである.
ようは,おおきなお世話なのだが,「放送」だから,「あちら」ではおそらくこの程度では済まないだろう.思考停止を意図的にさせる悪意すらかんじるからである.

直接の衣服のはなしではないが,カーライルの「衣装哲学」は,欧米人の思想のふところの深さと広さが,難解ながらもわかる一冊である.

軍隊と警察とスポーツチームや医療チームなどの職務上の要請,それにそもそも自由がない囚人以外,おなじ服は着ない,という欧米自由主義精神の深淵に「宇宙」まで思考して近づけるだろうから,寝不足の秋の夜長にピッタリだ.
よく眠れる可能性が高い,と同時に,日本人の発想とのちがいをあじわいたい.

先祖帰りした部下育成の精神

OJT(On-the-Job Training)は,おおくの企業で採用されている教育方式であるが,ここから「TWI(Training Within Industry)研修」がうまれている.
「Industry」という語がはいっているため,製造業と一線を画したがるサービス業ではなじみが薄いかもしれない.

TWIとは,職場教育(企業内教育)の手法の一つで、主に、監督者向けのものをいう.
監督者とは,「現場」がつきものだから,いわゆる「現場責任者」の育成手法のことだ.
英語表現がはいっていることでわかるが,人材育成手法として戦後,米軍が日本に伝えたものである.
これは,「進駐軍」の功罪のうち,確実に「功」となったもののひとつであった.

当時の日本企業が,どのくらいの驚きと衝撃でこの手法を受け入れたかについては,導入した企業内では「伝説」になっているはずである.
だから,導入しなかった企業には,なにもないのは当然で,さいきんはOJTやOFF JTでさえ主旨をとり違えたあやしい企業はたくさんある.

その証拠に,目的と内容の合致ではなく,入札方式という「金額の多寡」で研修講師を選定している本末転倒を散見することができる.もちろん,単に安いほうが落札できる.
経営者が「人財」という経営資源に無頓着で,人事や研修担当に丸投げしているのがよくわかる事例である.
業界はなんであれ,利益をだしたければ人財育成「しかない」ことをしらない人物の所業でもある.

「後進の育成」という名目で,役職定年制や定年退職者の再雇用がおこなわれたが,かなりの企業でそれは文字どおりの「名目」であって,「実質」がともなっていないことが認められる.
「後進の育成」ではなく,引き続き現役時代と同程度の「作業」を命じられ,しかも年収は半減させられるのが実態だろう.
「方便」もここまでくると「うそ」になる.

過日は,ベテランドライバーが再雇用によって命じられた,社内清掃業務への従事を「不当」と訴えた裁判で,原告敗訴の判決がでていることでも,「名目以下」の状態を国が認めたかたちになっているから嘆かわしい.

高齢者雇用で人手不足の「人手」が,安く手に入から「得」だとかんがえる愚かさは,社内の高齢者層がひととおりいなくなったときに気がつくだろう.
そのときの若年者数は,数年前の半減レベルになっているから,争奪戦もはげしいだろう.そうなれば,選ぶのは若者のほうになるはずで,その企業で高齢者がどんな境遇におかれているかも将来の自分にてらして選択基準となるのは必定だから,愚かな企業は採用が困難になってしまう.

そのうち,人材紹介業界が,高齢者の働く満足度や企業内文化の比較調査をやって,ランキングをつくるはずだ.それが,株価に反映されてもおかしくない社会になる.
だから,いまの経営者が引退して逃げ切れたとしても,後任から突きつけられる経営判断の甘さの汚名だけは避けられない.
もっとも,いま「得」だとうそぶく人物は,自己の名誉すら気にしない神経だからできるだろうから,本人はさしおいて,組織の傷はより深くなるだろう.

はたして,「後進の育成」とはいかにあるべきなのか?

TWIが現場責任者向け,ということで,以下の四つのポイントを骨子にしている.
TWI-JI(Job In-struction):仕事の教え方
TWI-JM(Job Methods):改善の仕方
TWI-JR(Job Relations):人の扱い方
TWI-JS(Job Safety):安全作業のやりかた

どの項目も,みただけで「ハッ」とさせられるような気がする.
この四点がさいきんの「不祥事」の発生ポイントにもなっているからである.

本稿では,最初のJI:仕事の教え方の「精神」に注目したい.
それは,つぎのことばに集約されている.

「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」

これをアメリカ軍が教えてくれた.
スポーツ根性ものよろしく,日本人は「スパルタ式」がだいすきで,できないのはできない本人が悪い,という思想の真逆にあることにも注目したい.

名将ということになっている山本五十六提督の名言.

「やってみせ,言って聞かせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ.
話し合い,耳を傾け,承認し,任せてやらねば,人は育たず.
やっている,姿を感謝で見守り,信頼せねば,人は実らず.」

最初の一行が「有名」で,一瞬,TWIのようなのは,さすが当代随一の親米派のいったんをみるようだが,ごらんのように下に「余計な」二行がつづく.
よく読むと,米軍の「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」という思想とはぜんぜんちがう,上から目線であることに注意したい.
つまり,教える側は「つねに正しい」というかんがえがにじみ出ていて,そこに「反省」の精神がないのだ.

山本提督の名言は,いまでも「名言」としてしられており,学のある管理職ならよく口にすることばであろう.
つまり,この名言の思想が,精神基盤の深いところに染み込んでいるのが日本人の本質ではあるまいか?
であればこそ,米軍がもたらした「TWI研修」の真逆が,衝撃的だったのだ.

昭和20年代の半ばから,「TWI研修」がはじまるから,受講したもっとも若いひとたちは国民学校世代になる.
戦後の製造業の発展につくしたこの世代が,定年したのはバブル崩壊後の95年あたりからなので,TWI研修の精神も,バブルのイケイケで傷ついたのではないか?

そしてその後,企業が自社研修の余力をうしなって,とうとう山本提督への先祖帰りをしてしまった.
「名言」が名言たるゆえんは,凡人には実際にできないからである.
ことばだけが空虚をかさね,「部下の手柄は上司のもの,上司のミスは部下のせい」という本質があらわになっただけでなく,それが「外資のよう」だと勘違いする.

アメリカは,いまだに世界最大の製造業大国であることをわすれているのも,勘違いの深さである.
そのアメリカで,TWI研修は三洋電機から逆輸入されて息を吹き返し,近年では医療というサービス分野にもひろがって実績をあげている.
反省の「精神」が健全な証拠なのだ.

今日は秋分の日.
秋のお彼岸である.
これからの四半期は,冬至にむけて昼がみじかくなっていくから「秋の夜長」になる.
先祖帰りさせてはいけない,後進の育成について,じっくりかんがえるのにもよい時期だろう.

ハイテクだけがイノベーションか?

先端分野の高度な技術体系のことを「ハイテク」という.
一方,対義語には「ローテク」があって,こちらはいかにも地味だが,重要度ではけっしてハイテクにひけはとらない.
2000年に出版された「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです.」が参考になる.

サービス業にとって「イノベーション」というと知の巨人,シュンペーターのお家芸だから,なにやらむずかしいものとおもいがちだが,そんなことはない.
むしろ,わが国では理系の先端技術である「ハイテク」の開発と一緒くたになって,間口がせまくなっているとかんがえられる.

ふつう,人的サービス業では「接客」を重視するから,伝統的な日本旅館などで「イノベーション」といってもピンと来ないだろう.

しかし,どうしたらお客様がより快適に過ごせるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発したら,それは「イノベーション」である.
また,どうしたら従業員が楽してお客様の快適さを確保できるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発しても,それは「イノベーション」である.

だから,あんがい「イノベーション」は身近にあるものだ.
それを発見する努力が,組織的におこなわれていれば,それこそ「革新的」なのだといえる.
不思議なことに,昨今,こうした努力がないがしろにされている傾向がみられるのはどうしたことか?
伝統的な大組織にこそ,この傾向があるようにおもえるのも特徴だ.

それは,「現状維持」という価値感のまん延であり,「組織防衛」ともいえそうだ.
つまり,コンサバ,すなわち「保守的」といってよい.
問題は,なにを保守するのか?ということの定義あるいは合意が組織的になく,個々の構成員にまかせられているから,かならず一体感をうしなって,結果的に組織が崩壊の危機にさらされる.

疑心暗鬼をうむのだ.
あつく語るひともいれば,冷めているひともいる.
あつく語るひとからみれば,冷めているひとは「保守」すべきものを持っていないと映り,冷めているひとからみれば,あつく語るひとのことばが,あるべきものに対してうわついているとおもえるものだ.

だから,リーダーが必要なのだが,昨今の大組織にふさわしい見識のあるリーダーが不在だから,基盤となる価値感の共有さえできないでいることがある.

こんなときにこそ,外部コンサルタントの出番なのだが,リーダー不在の伝統的大組織ほど外部に依頼したがらず,また,依頼のポイントが整理できない.
依頼したがらないのは,リーダーがビジネスではなく「恥」とおもうからだ.
依頼のポイントが整理できないのは,問題山積で,優先順位すらつけられないからである.そしてそれが,恥の上塗りになって,さらに状況が悪化してしまう.

一方,コンサルタントの方は,いよいよ状況が悪化してから登場する.
それが金融機関や支援機関からの依頼になるから,あろうことかいつもの「経費削減」プログラムの策定と実行になってしまう.依頼者が理解できる安易な方法の提示こそ,成約のパターンだからだ.

こうして,本来のイノベーションとはほど遠い,患部摘出がはじまるのだが,痛みの割に効果がないのは当然でもある.
依頼者がなぜこんな効果が薄いのにワンパターンでの方法を選ぶのか?
それは,外部コンサルタントの経費を負担するのが,依頼者ではなく対象企業だからである.
つまり,依頼者に責任はない.

むしろ,本来のイノベーションが対象企業の業績を回復させようものなら,依頼者の依頼前の経営指導が問われてしまう.
安易な方法で,そこそこの成果がちょうどよいのである.
だから,バカをみるのは経営者になる.
それでそんなコンサルタントへの支払が無駄だと気がつくのだ.

こうして,近所の同業の様子をながめれば,ますますイノベーションをうながす外部コンサルタントの存在には気づかず,現状維持につとめてしまうのは人情だ.
しかし,なによりも,自らかんがえてイノベーションを起こすことが大切である.

節約すると貧乏になる

日本ではあまり有名ではないが,ドイツの大経済学者にゾンバルトというひとがいる.
このひとは,マルクスに傾倒したために忘れかけられているけれど,主著にはユニークな「恋愛と贅沢と資本主義」がある.
恋愛をすると恋人にプレゼントをすることになって,そのプレゼントがこうじて贅沢品になると,資本主義が発達するというのだ.

これは,フランス革命の原因追及になっていて,宮廷文化の絶好調から資本主義になって,それから革命がおきて社会主義になるという論である.
数学モデルを重視する近代経済学の立場からみれば,そんなバカなというはなしだが,さいきんはやりの行動経済学からすれば,プレゼントの効果は無視できないはなしである.

日本の経済がバブルの崩壊以降,なんだか停滞しているうちに,気がつけばずいぶん貧乏になってしまった.
月額給与もボーナスも,かつての「伸び」はないし,大企業にあっても「イケイケ」の雰囲気はない.
もちろん,すでに人口の二割が年金頼みの高齢者になったから,巨大な人口が国家のお世話になっている.

こまったことに,企業のおおくが安易な経営者によって運営され,そのひとでなくてもできる「経費削減」を命じるから,社会にお金がまわらなくなった.
個人の生活も,給料が減ればしぜんと節約モードになるが,むかしとちがってボーナスがでてもつかわずに節約する.そんなことをしていたら,節約モードがふつうになって,「安いものがいいもの」になった.

それで,企業も値段を下げると売上が増える,という成功体験が,これまただれでもできる経営判断でつづけたから,仕入れ原価の理不尽な値引きも限界になった.
そしたら,大地震がやってきて,電気代が値上げになった.
売値を下げないと売れないという「すり込み」が完成してのことだったので,だれでもできる経営判断の延長で,人件費を削減した.

社員の給料の削減もしたが,派遣や業務委託がより簡単だとかんがえて,自社のビジネスを他人にまかせ一息ついたら,人手不足がやってきた.
仕事のやり方の工夫もせずに,これまでどおりをつづけていたら,残業代がたまっていって,払えないものは払えないとほっかぶりし,あげくのはてに従業員から訴えられた.

なんて俺は不幸なのかと,自己の無能をかえりみず嘆くばかりで,どうしたらよいかがわからない.
不幸なのは従業員で,こんな会社にいても未来はないとわかっちゃいるけどやめられない.
中小企業のはなしではない.日本の大企業も同様の循環になっている.

これに無能な政府が輪をかけて,民間活動に直接手を出して失敗をくりかえす.
半導体しかり,携帯電話しかり,航空機しかりである.
社会の仕組みの根幹を「合理化」する必要があるのに,それにはいっさい触れずにいる.
企業が活動しやすい仕組み,お金がまわる仕組み,要は民間が儲かるようにする仕組みのことだ.
すなわち,自由にすることだ.

「仕組み」だが,補助金の仕組みのことではない.
補助金で事業が成功した事例もないからだ.

アベノミクスに規制緩和が欠けているばかりか,強化していないか.
緩和したのは日銀の金融緩和だけだが,これだけではお金がまわる仕組みになっていない.
与党や政府が頑張るほどに,窮屈な経済になっていく.

何故か?
仕組みを作らず,だれでもできる節約ばかりをしているからだ.
節約をやめてカネをばらまけといっているのでもない.
むかしながらの「業界」が儲かる仕組みでもない.
規制緩和による自由な経済にせよといいたいのだ.

だから,業績不振企業の政府による救済も必要ない.
ちゃんと倒産させればよい.
経営者が経営責任をとるのは,社会にとって健全なことなのだ.
従業員にも,他社や他業界への転職の道がある.いざとなったらそのために,やるべきことがあると意識できるし,意識があれば準備もできる.

ゾンバルトは,贅沢なプレゼント消費の資金を得るために,貴族が領地民を搾取して革命になるといったが,そのプレゼントをつくる職人には大金が舞い込む.なんであれ,その職人は製品の材料の調達をしなければならないから,そこにもお金がまわるのだ.

お金持ちを羨んでも,ひがんでも,なんの得にもならない.
にもかかわらず,金持ちをひがんで憎むように仕向けるマスコミは,社会の不安を増幅させるからあやしい意図すら勘ぐりたくなる.日本のマスコミはゾンバルト信者なのか?

お金持ちにはしっかり消費してもらうことが重要なのだ.
だから,政府が一定以上のお金持ちに強制して消費させろというのは間違いだ.
ましてやそれが,累進課税の成果として政府=役人の収入にさせてはいけない.引退した役人が肥る仕組みにつかわれるだけだ.

お金持ちがこれ見よがしに消費する社会こそ,じつはみんなを幸せにする.

ゾンバルトが発見し,見落としたことである.

グランドツアーを許せない国

「グランドツアー」は,おもに18世紀英国における「卒業旅行」のことである.
英国貴族の子弟だけでなく,ひろくヨーロッパ文化人にもひろがった「旅」で,目的地はなんといってもいまの「イタリア」であった.
もっとも,われわれがいま知っている「イタリア」は,第一次大戦のあとに統一されたから,「グランドツアー」時代は小国ばかりであったことに注意したい.

ヨーロッパ人にとっての「ローマ」は,都市としてのローマよりも「ローマ帝国」のローマをさす.それで,都市の「ローマ」がふくまれないけど,西ローマ帝国の後継として「ローマ」と名付けた帝国が「神聖ローマ帝国」として誕生し,ナポレオンによって消滅してもハプスブルク帝国として生きのこって,そのハプスブルク帝国が第一次大戦で終わると,今度は「ローマ」をふくむイタリアが統一されるというややこしさである.

長靴半島とシチリア島の歴史の複雑は,日本史の素直さとは一線を画すが,芸術の奥深さは小国の繁栄を背景にするから,日本の各藩のご城下が栄えたごとく,パトロンの存在なくしてはかんがえられない.その意味では,地方分散に利があるというものだ.

英国がグランドツアーの発祥といわれる理由に,大学の質の悪さ,といういまでは信じがたいはなしがある.その質が悪い大学とは,とうぜんケンブリッジやオックスフォードのことで,ある貴族の記録に,英国の大学に進学するくらいならイタリアへの旅行がよほど将来の役に立つとして,子息を進学させず旅行にだしたとある.

どうやら,当時の大学は新しいことを教えるのではなく,伝統的な決まりごとを教えるだけになっていて,教授職で積極的な態度をとると職が危ぶまれるほどだっという.
それで,当時としては月に行くような危険をもともなうけれど,人類遺産の宝庫であるイタリアを目指したらしい.そして,若様にはかならず教師が同行したから,知的刺戟としてかなりの成果もあったのだ.

もちろん,ダメ大学の卒業旅行としてもグランドツアーは行ったから,それなりの年齢幅がある青年たちが,ある意味大名旅行をしていた.そうなると,家格というものも幅をきかせて,随行員の人数もきまったというから,参勤交代の格式のような暗黙のルールもできた.
長男は二年から数年,次男以下は数ヶ月という待遇差も,日本とかわらない.

日本では,「卒業旅行」として,80年代に大ブームになった.就職がきまってから卒業式前の期間に二週間から一ヶ月程度の外国旅行をこぞってしたものだ.インド旅行で人生が変わった若者の話題もにぎやかだった.
60年代からはじまったというが,当時は国内旅行が主で,貧しい学生たちのつつましい旅だったろう.21世紀のいまは,小旅行を何回かするようで,海外旅行よりも国内がえらばれるという.

投資銀行勤務時代,英国人学生の「卒業旅行」のことを聞いた.
就職がきまると,人事担当者からどのくらいの期間の旅行にでるのか質問されるのがふつうで,たいがいの学生は「二年」とこたえるのもふつうだといっていた.長いと四年や五年もいるが,驚くことにおおくは許可されるらしい.
彼は,お金がなかったので「半年」とこたえたら,人事担当者が不思議そうな顔をしたという.

それで,どこに行こうが勝手だが,月に一回かならず会社に連絡をいれるというのが条件で,出社日も指定されるから,まさに現代にも「グランドツアー」の伝統はいきている.
どうしてそんなに長い期間,入社の延長が許されるのかを聞いたら,会社の経費とは関係なく本人が世界を観に行って経験することは,会社にとって悪いことはひとつもない,というかんがえだそうだから,「グローバル」が前提になっている.大英帝国の残滓であろう.

それにしても,二年でも驚くが四年や五年も海外を歩いて,入社が遅れても問題ないことがピンと来なかった.すると,「会社もしっかりしていて,ときたまレポートを要求している」から,あんがい無料で現地調査をやらせている.犯罪や事故以外,めったなことで採用中止にはならないが,あまりにひどいレポートだと,旅行期間の途中でも会社への出頭命令がでるから,放任はしても放置ではないのが立派だ.

会社としては,大学では得られない知識と経験値をもった新入社員に期待していて,本人の人生で家族がないまま外国を渡り歩くチャンスは一度だけだから,互いにメリットがある制度だとして成り立たせている.まさにグランドツアーの伝統だ.

つまり,たとえ新入社員でも対等あつかいなのである.
だから,常識として学生もふざけたレポートなど書きはしない.それこそ,人事記録に汚点をのこしてしまうと知っている.それで,旅先で知り合った他国の学生とネットワークをつくって,情報網として利用しようと行動するが,それを会社も期待しているという構図だからしたたかだ.

日本企業でこんなことをする会社はあるのだろうか?
一斉入社で取り囲み,網から洩らすまいとするのが日本企業だ.
どうやら,心理学でも負けている.
「同期」の競争という発想すらない.

日本でも,グランドツアー,おおいに結構,という文化になってほしい.