よけいな政府の景気判断

景気を「判断」して経営をするのは、民間だから、政府は正確な統計データの提供という「行政」を、粛々とすればいい。

日本政府という「開発独裁」のDNAをもった組織は、なにかとしゃしゃり出ることがだいすきで、「経済主体」は政府だとおもいこんでいるふしがある。
このとてつもない勘違いを、だれも正すことができない。

これは、裏返せば民間が政府の景気判断に「依存」している実態が、おかしいということである。
つまり、日本の経営者は、経営者の役割をじぶんで果たそうとせず、政府にゆだねてしまっているのだ。

だから、政府の勘違いを正すどころか、むしろ民間がいきすぎた政府機能の「維持」を要望してしまっている。
むずかしくてわからないなら、民間のシンクタンクが提供する情報をつかえばいい。

民間のシンクタンクが、特定会員向けとして、詳細情報を有料にしても、それを買えばすむのである。
そうすれば、政府の情報は必要なくなって、役人を民間に振り替えることもできるから、税負担も軽くなると思考すべきだ。

民間のシンクタンクはいくつもあるから、ちゃんと当たるところに人気があつまるだろう。
読みがはずれるシンクタンクには、淘汰の波がやってくる。
これは、有料になればなおさらだから、ただしい競争原理がはたらく。

いまは、民間のシンクタンクまで、政府の動向次第というエクスキューズがあって、業界のどちらさまも「救われている」から、競争にならない。
民間を見下す政府と、政府に依存したシンクタンクという、中途半端のダブルパンチで、救われないのは、おおくの民間企業なのである。

つまり、みごとなピラミッド型になっていて、政府を頂点に中間を民間のシンクタンク、そして最下層が民間企業群になっている。
その民間企業群のなかで、さらに大企業と中小企業、その下に零細企業と個人事業主がいる。

以上は、景気判断という「情報リテラシー」のことである。
けれども本当は、零細企業と個人事業主が、もっとも景気に敏感である。
だから、このピラミッド型は、ひっくり返したほうがただしい。
ところが、社会も政府も、そんな「転覆」はみとめない。

政府はなんでもしっている、ことにしないといけないとおもいこんでいるからである。
まさに、ここに「ソ連型社会」が垣間見えるというものだ。

そんなことだから、「実体経済の構造」とほとんどおなじにすることにしている。
ここでいう「実態」とは、人為的につくるものになっている。

さて、このピラミッド型にある民間のシンクタンクの位置には、金融機関もふくまれる。
それは、おおくの国内シンクタンクは、金融機関系だとおもえば納得できるだろう。

国内金融機関の能力が国際的に低く保たれているのは、系列シンクタンクの政府依存でもよくわかる。
政府の発表を「分析」すれば、ことたりるようなシンクタンクを、シンクタンクというひとは世界にいない。

国民にとって理想的な「行政」とは、どにいっても「おなじ」サービスをえられることだから、「機械的な行政」がもっとものぞましい。

しかし、日本国政府という行政機関は、法の下にある「施行令」、「省令」、「施行規則」、「通達」、「告示」といった、さまざまな手法で、役人が恣意的に命令できる権限をもっている。

だから、ぜんぜん「機械的な行政」ではない。
いったん「発令」されたら、機械的に世の中が「発令どおり」になる、という意味で「機械的」なのであって、意味がまったくちがう。
こんな「機械的な行政」を、この国では「法治主義」といっている。

しかし、こうした「法治主義」が、通じなかったのは、たとえば「原発事故」で、「法令」によって「安全が確保されている」ということが、現実の物理世界では歯が立たないどころか、イソップの寓話のようなことが現実になってしまった。

処理におカネがいくらかかるのかもわからない状態で、「兆円単位」の議論がされているが、この議論には「期間」すらも不明のままなのだ。
だから、われわれ日本人が、いったいいつまで、いくらの負担を背負っていかなければならないのかがわからない。

こうして、原発事故処理は「他人ごと」になっている。
それを意図してかしらないが、「安全が確認された原発」として、国内どころか外国にも輸出しようとして、こないだは英国で日立が大損を計上した。

勉強しすぎておつむのネジが数本どころかほとんど崩壊しているのではないかとおもわれる「頭脳」をもって、「判断」しているというのは、わるい冗談だとすますことができない。

政府は、機械的『に』行政をするのではなくて、機械的『な』行政をすべきだ。
だから、役所の統計不正は、根幹にあたる重要な問題なのである。

これは、機械的『に』行政をやりたくて、都合のよい統計結果を欲するという、統計学の初歩で最大注意される、よくある「誘惑」なのだ。

政府が景気判断をして、その結果、実体経済に政府がコミットすることが「あたりまえ」だとする20世紀型の発想をつづければ、政府は政府に都合がよい「統計」を発表するようになる。
それは、実体経済を歪めるという、まったくもっての「猛毒」が社会にまかれることにひとしい。

もし、政府の景気判断が「必要」だというのなら、それは、じぶんで判断力をうしなってなお、きがつかない「麻薬中毒」である。

規制緩和をぜんぜん進めない政府にして、政府機能の縮小はもはや望むべくもないのか?
それは、国民が麻薬中毒になったことの証拠でもある。

商品ではなく理念を売る

自社は、なにを売っているのか?

あんがいこれをちゃんと意識できていない企業はおおい。
ドラッカーは、自社がどんな価値を提供しているのかをみつけることが経営の肝心かなめだと指摘したうえで、それがなにかをみつけることの困難さ、について書いている。

つまり、自社は、なにを売っているのか?をちゃんとしっている企業は、おもった以上にずっとすくない、ということだ。

くわしくは、名著『マネジメント』にある。
大ヒットした『もしドラ』には、『マネジメント エッセンシャル版』なる「簡略版」の広告が裏扉についていたが、ひるむような大著の「原著」のほうをおすすめする。

 

 

アメリカ人の学者が書く「教科書」は、どの分野でもおおむね「大著」になっている。
その理由は、時代を代表する大学者が、懇切丁寧に説明しているからで、よってわかりやすさとページ数がトレードオフの関係になっている。

つまり、『マネジメント』という歴史的な価値もある教科書の原著は、ドラッカー自身が、かんで含めた説明をしているので、分量はあるがいいたいことが正確に表現されていてわかりやすい。
ページ数をすくなく要約した簡略版のほうが、じつは理解度という点で、はるかに難易度が高いことになるのである。

だから、「素人」ほど、簡略版にてをだすと「やけど」する。
「やっぱり、ドラッカーはむずかしい」になってしまうだろう。
そうはいっても、「原著」のボリュームはたいそうなものだから、気をいれて読まなければならない。

そこに目をつけた、いろんなひとたちが「解説本」をだしているという次第だから、ドラッカーは、くしくもじぶんの本の関連事業という分野も世の中に提供したのである。

「どうやったら売上がのびるのか?をおしえてほしい」

初対面でわたしも、何人かの経営者に質問されたことがある。
しかし、残念ながら適確なこたえをその場で提供することはできないし、もし、部外者のわたしがそのこたえをしっていたなら、コンサルタントなどという商売をとっくにやめている。

おおくの経営者がおちいっている「問題思考」は、ほんとうはなにを売っているのか?をしらないのに、売上の伸張だけをかんがえていることである。

わかりやすい説明として、ヤマト運輸を宅急便のヤマト運輸に育てた、小倉昌男『経営学』(日経BP社、1999年)がある。

この本でいう「サービスが先、利益は後」の「サービス」という用語が、ヤマト運輸のばあいにおいて、ドラッカーのいう「価値」を意味していることに注意したい。

だから、サービス業という共通項で、この用語「『サービス』が先」、と経営者がいうだけでは、残念ながら「詰めが甘い」ということになる。
自社にとっての「サービス」とはなにか?
そのサービスを購入してくれる、お客様の目的や利益とはなにか?を、自社なりに「追求しつくす」ことが必要なのだ。

「東京12チャンネル」という、地上波民放の「お荷物」といわれ、マイナー感がたっぷりあったテレビ局が、日本経済新聞社の傘下にはいって、「テレビ東京」と衣替えしたら、いまや独自番組で一目置かれる存在になっている。

ところが、例によって「免許」の関係で、関東近郊でも視聴できないエリアがある。
それで、月額500円という価格で、「オンデマンド契約」すれば、ネット配信という方法で、経済番組が見放題になる。

たとえば、新潟県。
わたしのクライアントに役に立つ番組が放送されたので、てっきりみなんさんが視聴していると思い込んで話題にしたら、「この地域では放送していない」といわれてこまったことがあった。
おなじことが、先般、伊豆半島でもあった。

今週の「カンブリア宮殿」で、回転寿司の「銚子丸」が紹介されていたが、まさに、「理念を売る」ことを実践している企業だ。
創業者の先代社長が、アメリカ視察で現地の経営者から直接指摘されて開眼したというエピソードがあった。

このアメリカ人経営者は、ドラッカーのよき読者か教え子だったのではないか?と推察する。

そのアメリカでは、とっくにテレビ受像機を製造していない。
かつての日本製テレビに市場が席巻されて、アメリカ人はアメリカ製のテレビをだれも購入しなくなったからだ。

そして、われわれ日本人は、そんなアメリカを傲慢にもバカにした。
テレビすら自国でつくれないとは、と。
しかし、アメリカではテレビよりも「進んだ」製品やサービスを売っている。
これが、「先進国」の「先進」の意味である。

なぜ、「先進」が達成できているのか?

商品ではなく理念を売ることに専念したら、いつの間にかそれが「先進」だったからである。
そのベースに、消費者の希望や要望が折り込まれているからだ。

ドラッカーは、アメリカで「生きている」のだ。

破滅願望

「欲望」をもつことは「いいこと」なのか、「わるいこと」なのか?

「清貧の思想」という美学がかつての武士にあった。
しかし、「武士は食わねど高楊枝」というのは、「清貧」をこえてしまった「見栄」でもあるし、庶民からの「ひやかし」でもあった。

日本から日本人が消えていく。
それで記録にのこしておこうと努力したのが、岡倉天心の『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』、そして、内村鑑三の『代表的日本人』だった。

わたしは、この三冊を「明治三部作」と呼んでいる。
三人の出自は、みごとに「武士」階級で一致し、しかも三人とも江戸時代生まれにして、三冊ともに「原著は英語」という共通点がある。

日本に興味をもった外国人が日本研究として読むなかで、どれもが「名著」として有名であるから、もしやいまどき、日本人より外国人の読者の方がおおいかもしれない。
若い世代ほど、これらの本にふれる日本人はすくないだろうと予想する。

  

これら三冊には、さまざまな関連本があるから、それぞれあたってみることをおすすめするが、上で紹介したものは、講談社インターナショナルからでている「対訳」だから、「原文」にもふれることができる。

また、かれらはなぜ「英語」で書いたのか?
という問いに、滅びゆく日本の記録を世界にのこすため、とする「動機」が指摘されてひさしい。
「悲壮感」を確信したひとたちの著作でもある。

だから、ここにはまだ、「滅亡の美学」がある。

けれども、こうした「悲壮感」すらなく、漠然とあるいは漫然と滅亡するなら、それは愚か者の末路でしかない。

日本の報道機関が「報道しない自由」を満喫しているおかげで、日本人の「ゆでがえる」状態がつづいている。

たとえば、ベトナムではすでに、高度な業務はベトナム人の若者がにない、一般的な事務を日本人がになう、ということが起きている。
このことは、当然だが収入に直結する。
あたりまえだが、高度な業務のほうが高価になるから、日本人駐在員は現地人より低い収入になっている。

日本企業の「金銭出納」を、見張っているのが日本人駐在員ということだが、キャッシュレスの取引が当然な時代のいま、むかしながらの「経理」で「見張り」ができるものか?

デジタル技術に長けていれば、会社の経理システムに侵入をゆるせば、たちどころに完全犯罪が実行される。
その、高度なデジタル技術者が、ベトナム人になっているというはなしである。

こうした技術をみにつけたひとたちのエネルギー源はなにか?と問えば、世界ではあたりまえの「ゆたかになりたい」という「欲望」の感情である。
そして、かれらの欲望をかなえるべく、「高度な教育システム」が用意されている。

ここで勘違いしてはならないのが、「高度な教育システム」とは、「世界標準」という意味とほとんどおなじことである。

ひとむかし前なら、世界標準は各国政府の取り決めで実行された。
そこには、「国境」という枠があって、だれもがこの枠に縛られていたから、政府間のあらゆる取り決めが有効だった。

しかし、マイクロソフトの「MS-DOS」や、これを発展させた「Windows」が世界中のパソコンの「標準」になってしまったことが象徴するように、政府とは関係ない企業が、「デファクトスタンダード(事実上の標準)」を提供できるようになってしまった。

これをうけて、「世界市場」は「一変」した。
すなわち、「世界標準」でなければ、世界で「売れない」のである。

あらゆる分野で「ガラパゴス化」している、わが日本は、国内標準と世界標準の二方面作戦をしいられて、ことごとく討ち死にの憂き目にあっている。
製造業が海外展開して、国内が空洞化しているのが問題の本質なのではない。

安い人件費の海外生産が有利なのではなくて、日本政府が強いる「国内標準」の製品をつくらないで、「国際標準」の製品をつくれることが重要なのである。

これに、労働市場が「ない」という「国内標準」の日本だから、労働市場が「ある」のが当然である「世界標準」の人材教育まで、「国内標準」になっている。

世界標準になった「世界大学ランキング」で、わが国最難関大学の順位が驚くほどひくいのも、ルールづくりの段階での国際会議への招待を無視して、知らぬ間にできた「評価基準」に、いまさらあわてているという体たらくだ。

この事業体はスイスに本部をおくとはいえ「民間団体」だったので、招待状をもらった「文部科学省」の役人が、なんでわれわれが民間の会議に参加しなければならないのだ?と「国内標準」の価値感で放置した結果である。

あの国際オリンピック委員会というのも、民間団体であるということを、文部科学省の役人はしらなかったのか?
もっとも、そんな「国内標準」の価値感しかない高級官僚は、世界大学ランキングで低評価な国内最難関校出身なのだから、まんざら評価基準がまちがっているのではないだろう。

「国際」という文字を、枕詞につければ、なんとなく「国際的」になって、まるで価値が高まるように思い込むのも、無意識における「破滅願望」なのである。

残念だが、無意識の破滅願望には、美学すら存在しない。

わからない「報道」の意味

日本語という言語は、「て、に、を、は」に代表される「助詞」によって意味が制御されるようにできているから、主語を省略したりできて、結論はさいごまでわからない特徴がある。

たとえば、試験ででてくる選択問題でのひっかけに、「。。。。。ではない。」という文があって、えんえんと長くつづく文でも最後の否定が正解なのか不正解なのかをきめてしまうから、これで「うっかりもの」を減点できるようになっている。

英語のような言語では、「主語+動詞」に絶対性があるから、主語を省略したりするのは、たいへんきもちの悪いことで、ましてや結論があとまわしになる文章がほぼないのは、言語の構造として無理があるからである。

これを、「語順のちがい」といえばかんたんだが、その「ちがい」が「ちがいすぎて」、おおかたの日本人には英語が理解できない。
だから、英語ができない日本人は、日本人としてかなり「スタンダード」だといえる。

そんな「スタンダード」な日本人が、ひとより数倍もの努力をしてつかんだ英語力をもって、英語教師という職業につくから、あんまり努力しない生徒でも英語ができるようになるのはゆるせない。
それで、やさしいことをむずかしく教える、という倒錯した方法が長年採用されつづけているとかんがえれば、納得がいくのである。

ところが,ネットの普及と動画投稿のコモディティ化で、英語の達人たちがじぶんの勉強法を公開している。
まさに、「学校ではおしえてくれない」貴重ともいえる「コツ」を、なんと無料で伝授してくれているのである。

しからば、なぜ無料なのかをかんがえれば、アクセスのおおい動画には、「広告がつく」からである。
いわゆる従来のラジオやテレビの「民放」とおなじだが、広告をとって放送するのではなく、人気がでたら広告がつく、という順番だから、よほどいさぎよい競争原理がはたらいている。

観る側も、あまたある動画をえんえんと視聴するひまはないので、おのずと気に入った動画には「チャンネル登録」をする。
これで、需要と供給がちゃんと成立することになっているから、「経済原理」とはおそるべきものである。

そんな現代にあって、経済原理がなかなか機能しない分野がある。
じつは、このことは国民にとって「おおきな損失」なのであるけれど、物質ではなく「情報」という特殊な「商品」では、わかりにくい特性があるために、旧態依然としたやり方がまかり通るのである。

たとえば、昨日の「ニュース」によると、日本の厚生労働省の現職課長が、韓国の空港で一時拘束され、これをうけて厚生労働省は、即時更迭したというはなしがあった。
この記事をこのブログの読者が読んでいることを前提にして、以下をつづけるので、お手数だがここで記事に目をとおしていただきたい。

発信元は、わが国を代表する「共同通信社」である。
共同通信社がわが国を代表するのは、記事のクレジットをみればわかるとおり「一般社団法人」であって、いわゆる「ナショナル・フラッグ」だからである。

また、この通信社の社名が「共同」なのは、新聞社やNHKをふくめた放送局と「共同」で設立され、それぞれに記事を「配信」しているからだ。
つまりは、わが国のニュースの「大元」なのである。

その通信社が配信した、例題の記事には、5W1H(why、what、who、where、whenとhow)が欠けている。
「記事」として、決定的な欠陥である以上に、文章になっていない。
日本語だろうが、英語だろうが、これはおなじだ。

だから、なにが起きたのか?がわからない。
「事件」の深層という以前の、なにが「事件」なのか?という意味である。

そんなことをふまえて、つぎに、「事件」をうけて、厚生労働省は即刻、官房付人事を発令したというけど、これは順番がおかしくないか?

当事者であるひとも、「課長」だ。
国家の本省の課長で47歳といえば、エリート公務員である。
そのひとが、私用の旅行で、外国の空港で一時拘束されたものの、それを解かれすでに帰国している。
空港職員とのトラブルとあるが、それはなんだったのか?

むしろ、この記事は、拘束された事情より、フェイスブックに投稿した内容と、「ヘイト発言」を「問題」にしているようだ、と推測するしかない。

読者に推測させる「記事」とはなにか?
これを「忖度」というのだろうか?
本人は、「なぜか警察に拘束されている」と書いているから、本人にも理由が不明な「トラブル」だったのだろうか?

理由なく、いきなり拘束されてしまったら、それは「変な国」である。

報道機関も組織だから、よくもこんな「記事」が複数の目を通過できて、本当の「記事」になったものだ。
それにしても、不可解なのは厚生労働省という組織である。
これが「働きかた改革」というなら、まさに笑止である。

なにかがおおきく壊れている。

犬が犬になる訓練

犬は生まれながらにして「犬」である。
ひとも生まれながらにして「ひと」である。

ほんとうだろうか?

見た目は、まったく「犬」であり「ひと」であるのだが、ちゃんとした「犬」や「ひと」になるには、ちゃんとした生育と教育がぜったいにひつようだといえば、ルソー信奉者いがい異論はあるまい。

このときの「犬」とは、「飼い犬」のことである。
いまは、「飼い犬」といえば「ペット(愛玩)犬」のことをさすようになったが、ちょっとまえまでなら「使役犬」がふつうであった。

「使役犬」とは、「番犬」、「牧羊犬」、「猟犬」や「警察犬」、「軍用犬」、「麻薬犬」に「盲導犬」などなど、しごとを持った犬をいう。
それで、そのしごとに向いた「犬種」を「つくる」という努力をひとがして、さまざまな犬種ができてきたのは周知のとおりだ。

だから、「愛玩用」という「犬種」も、おもに室内で飼いやすい小型犬でつくられるようになった。
江戸時代、「お犬様」でしられた御殿用に「狆」がいたのが、はじまりだろう。

その「愛玩用」の犬でさえ、ちゃんと「しつけ」を飼い主であるひとがおこなわないと、「反抗的」どころか「攻撃的」な犬になってしまう。
いわゆる「飼い犬に手をかまれる」ということが、全国的に「ふつうに」なってしまった。

つまり、「ちゃんとした『犬』」になっていない。
これを、ひとは、「問題犬」といったり、ちょっとまえなら「バカ犬」といった。

おカネがあるいま、その問題犬を「ひとのいうことをききわける『犬』」にしてくれる訓練士が、人気の職業になっている。
愛玩用の犬を、愛玩用の犬にする、ということだ。

しかし、これはひとからの目線である。
犬自体の目線からすると、いったいどういうことなのか?
しつけがなっていない犬は、犬にとってどういうことなのか?

すると,これは、犬の幸福論、というはなしになる。

人間も野山をかけて、獲物をとって生活していた時代があった。
おそらく、こうした時代には、ひとの猟をてつだう犬は生活に必要不可欠だったのではないかとおもう。
だから、獲物のわけまえをもらえる犬は、運動量と引換に食餌がとれた。

こうした期間が、万年単位であった。
そのまえ、ひとがひととして地球上の生物に進化するまえから、犬はオオカミとして群れで生きていた。

ひとが、どういったながれでいまの「頭脳」をてにいれたのかわかっていないが、犬の頭脳がひとほどおおきく進化しなかったのもなぜなのだろうか?
ひつようがなかった、とかんがえるのが妥当だろう。

しかし、犬はひとよりはるかに進化した嗅覚をもっていることは、子どもでもしっているし、くわしいひとなら、「感情を読み解く能力」に長けていることも指摘されている。

この「感情を読み解く能力」が、ボスにとっての群れの維持と従属する仲間にとっての「秩序」に不可欠だということなのだが、あいての脳内電流の変化も感じとっているのではないかと感じているひともいる。
それで、国家レベルでの「テレパシー」の実験までしているのだ。

つまり、じつは、われわれ人類は、犬という生きものがどんなものなのかを、くわしくしっているというレベルにないのである。

さて、そうすると、しっている、ということに、「段階」があることがわかる。
飼い犬に手をかまれるひとは、初歩段階だし、使役犬の訓練ができるひとは第二段階、愛玩犬の訓練ができるひとは第三段階というようにいえるのではなかろうか。

愛玩犬は、ひとあつかい=偏愛、される傾向がつよいから、ひとではない犬にはたいへんなストレスになることがわかってきている。
ひとでも軽いストレスは成長に好ましいものにもなるが、重度となれば変調や不調をきたして、さいごは病気になってしまう。

だから、犬が感じるストレスが、犬をして犬でいられなくなる原因にもなる。
愛玩犬の訓練ができるひとが、使役犬より上位レベルになるのは、犬への訓練だけでなく、飼い主への訓練もひつようになるからである。

じつは、この「飼い主への訓練」が、もっとも重要かつ困難なのである。
犬をひとあつかい=偏愛するという飼い主の行動は、「愛玩用」という目的と短距離で合致するからである。

愛玩犬の訓練士はさいしょに、飼い主の満足対象を、「犬のしあわせの理解」へと変換させ、じぶんのしあわせは、犬がしあわせだからだ、にしなければならない。

このへりくだった感情を、犬を飼うことの目的にさせるのは、いうほど簡単ではないのである。
初歩段階にいるふつうの飼い主たちの単純な飼育動機が、じぶんのしあわせのために犬を飼うことからきているからだ。

参考になるのは、カリスマトレーナーとして、世界的有名人シーザー・ミラン『犬が教えてくれる大切なこと』(日経ナショナルジオグラフィック社、2017年)がある。

上司と部下の関係とかへの応用になるし、著者が「不法移民」だったことからも、いろいろかんがえさせられる。

「群れ=組織」の動機が不純のままだと、大手不動産会社のアパート問題のような「事件」にもなるし、それを管轄する省庁が、どうやって言い逃れしようかという無体なすがたをさらすものだ。

犬は放置しても「犬」にはならない。
これは、ひとの社会でもおなじなのである。

「平均」でかんがえてはいけない

「統計不正」がいつものように泥沼化しているけれども、「統計」をしっているひとが追求しないで、たんなる「政府批判」を、政権担当経験があったひとたちがいうから、議論がねじれる。

究極の無責任を、国民はみせつけられているけれど、それが「選挙の年の『選挙戦略』」だという理屈らしいので、まともな筋立てができるひとなら気分がわるくなるほどの思考の倒錯であることに気づくことになる。

この倒錯した人物たちが、この国の国民を代表する国会議員なのだ、という現実は、そうしたひとたちを選んだ国民がわるい、というのが古今東西、第三者の外国人の見立てになるのがふつうで、「傍目八目」の冷徹さでもある。

とにかく、統計のかんがえ方を学校でおそわらなかったのだから、わからない国民はこの手の議論にだまされてしまう。
わが国における統計教育の「空白」期間は、なんと30年にもおよぶ。

復活したのは平成24年(2012年)度、つまり、やめたのは(昭和55年)1980年だった。
まったくもって、「ゆとり教育」そのものの「愚かしさ」を、いまになって社会が認識させられた、ということである。

いまさら、文部科学省の「視学官」というえらいひとが、「データのあつかいかた」をしることの重要性についてご託を並べている。
このなかで、先生も教わらなかったらわからない、と正直に書いている。

あたりまえである。
30年間とは、まさにひと世代だ。
日本人に、知的断絶をもたらした「文部行政」失敗の責任は、日本人全員が背負わされることになっている。

当時の審議をした「専門家」たちは、オルテガのいう「大衆」になりはてていたのだろうとかんたんに推測できる。
役人に「研究費」というエサで釣られ、魂を売った「ファウスト博士」の群れでもあるが、これらの群れは、いまもいたるところに存在している。

教わらなかった30年間の世代は、すでに社会の中堅を担っている。
日本経済が、「国家依存」する原因のひとつだろう。
じぶんでかんがえることができないから、「国」に頼るのだ。

これが、革命の伝統的な手法、「愚民化」の実践である。

しかしながら、統計が必要だという「視学」さまとて、統計を学んだわけではないだろうから、ほんとうはよくわからないはずなのに、知ったかぶりをして「指導する」。

「朝ごはんをたべると成績がよくなる」と、「相関関係」と「因果関係」をとり違えた「とちくるったキャンペーン」をやったのが、ほかならぬ文部科学省だった。
「部局がちがう」といえば逃げられる、役人のいうことを真に受けると、とんでもないことになる。

統計を勉強しなくても、なぜか「平均」だけは教わるから、ありもしない「平均値」が、平気でひとりあるきする。
だいたい役人になろうと、学生時代に公務員試験を目指すのは、成績が「平均以上」のひとたちなのだ。

ところが,グラフにしてみるという「ひと手間」をはぶくので、その成績がどんな分布図でできているかを意識しない。

毎年発表される、家計での貯蓄額も、たんに「平均」しかいわず、それをそのままニュースにしてたれ流すから、そんなばかな?ということで、「統計」を信じない。
数百万円の貯蓄が「ふつう」にあるはずがない。

ではこれをグラフにすると、まるで最新のリニアモーターカーの写真のような曲線で、はるか遠くまでつづくようにみえる。
それは、一部の大金持ちの貯蓄が、ずずーっとした線になるからである。
こうしたひとたちも「平均」の計算にはふくまれるから、多額な「平均値」が算出されるのである。

そこで、「中央値」や「最頻値」をみると、ぐっと低額な金額になってきて、庶民感覚と一致する。

こうしてかんがえると、じつは、世の中で「平均」が通用するのは「学校」という「特殊な社会」だけである。
その「学校」を卒業して、教師として学校にもどったり、公務員として役所という「特殊な社会」に入りこむと、みごとな「世間知らず」ができあがるのだ。

そして、このひとたちの特性として、「平均」で思考するようになるから始末が悪いのである。

だから、「可もなく不可もなく」が、人生の教訓になる。
そうして、とうとう、「リクルート・スーツ」という、ほとんどおなじデザインにして色合いの、特徴なき衣服を着なければならない、にまで発達した。

じぶんは「平均的な人間です」。
これをわざわざアピールしないといけないのは、「個性」の教育の完全なる失敗を意味する。

それは、ジャン・ジャック・ルソーがいう「アトム(原子)化」にすぎなかったわけだ。
ひとは、個体として「バラバラ」である、というかんがえで、社会との接点がなくなって、社会そのものも「バラバラ」になれば、それこそが「理想社会」だとしたものだ。

しかし、そんなものは社会ではない。
たんなるジャングルである。

成績のわるい子どもに、つぎは「平均点をめざしなさい」というのはまちがっている。
「わかるよろこび」を教えなければならない。
それが、ちゃんとしたおとなのつとめである。

上司は「補助輪」である

春である。
進学、進級、就職と、ひとが人生のふしめをむかえて、なんだか気分がたかまるじきだ。

暖かさにつられて、そろそろ子どもに自転車をあたえようか?

しかし、あんがい悩みだすと決められないかもしれない。
交通ルールがちゃんとわかるのか?
公園での乗りまわしだけに限定しようにも、おそらくそうはなるまい。
近所の交通事情をかんがえれば、やはり危険ではないか?

そんなこんなで、わたしはとうとう自転車を買ってもらえなかった。
なぜか妹が買ってもらったから、その自転車で練習した。
高校生になって、じぶんの小遣いで、友人から中古のサイクリング車を購入して、通学につかっていた。

ひとりで乗れるようになると、補助輪がじゃまになる。
それで、かってに父親の工具をだして、補助輪をとりはずして乗りまわしていたら、帰ってきた妹と大げんかになった。
まだ補助輪がひつような妹は、わたしの自転車をどうしてくれる、というわけだ。

しかたないので、また補助輪をつける。
これを何度かくり返して気がついたのは、妹にはやく補助輪なしで乗れるようになってもらうことだった。

それで、いっしょに広場へ練習にでかけてコーチしたものだが、妹は急にやさしくなった兄をいぶかったのはいうまでもない、、、のもつかの間、すぐに魂胆を読みとられたから、子どもだってばかにならない。

わたしの魂胆がおおきくはずれたのは、妹が補助輪なしで乗れるようになったら、じぶんの自転車をひとりじめして、わたしが乗れなくなったことである。
それで、同級生の弟の自転車にめをつけた。

これは、擬人化してかんがえると、上司と部下の関係にも読もうとおもえばよめるはなしになる。

わたしという人間が、だんだんと補助輪と一体化していくのである。
そして、部下がひとりだちできるようになると、わたしという「上司」が部下の成長に,こんどはじゃまになるのだ。
それでまた、あたらしい部下がやってくる、という循環である。

もちろん、ひとりだちできた「部下」も、あたらしい「部下」を得るようになって、じぶんが補助輪の役になる。
ところが、ここで「DNA」のコピーミスが発生することがある。
それは、「補助輪になる」ということを、本人が承知していないことが原因である。
つまり、さいしょの上司が、部下の卒業時に「上司は補助輪だ」という種明かしをちゃんとしていないことがいけない。

それで、「じぶんが」という主張がさきにでて、できない部下をなじれば、一気に「上から目線の立場」が確立するのである。
それで、一歩まちがえば「パワハラ」になってしまう時代になった。
部下育成には、上司の献身的な努力がひつようなのだということを、わすれてしまった「上司」と「部下」の悲劇である。

そうしてかんがえると、じぶんが補助輪ではなく、「じぶんが」だけしか認識できていない人物にとって、部下の育成とはナンセンスなものになる。
第一に、部下はかってに成長するもので、それは不断の自己研鑽による、という理屈である。
第二に、できない仕事をできない部下のせいにすることができる。
第三に、部下だって「おとな」であるという都合のよいいいぶんがある。
つまり、部下は上司をもり立てるべき存在である、という認識だ。

これは、封建時代の「大将」の発想のようでもある。
「会社は学校ではない」という経営者も存在する。
当然である。
しかし、「社員教育」が機能として内在するのが会社であるから、一刀両断で決めつけることはできない。

「スピードがもとめられる時代」
これは、部下の育成もおなじで、あるレベルまで、いかにはやく育成できるか?という意味になる。

じつは、ここに「人件費」も関連する。
「一人前に『なる』のに10年かかる」というのは、「一人前に『する』のに10年かかる」というのとおなじで、会社組織なら「なる」のではなく、意志として「する」からである。

これまで、10年かかっていたなら、なんとか9年でできるようにする。
一人前になるのに1年はやくなれば、1年分の「差額」を企業は手にすることができる。
5年ならどうだ?

これを実現させる方法のカギは、おそわる側よりもおしえる側にある。
いかに上手におしえることができるのか?
という研究なくして、達成できない。
すると、どんなに業務に精通しているベテランでも、その「やり方」を他人に、ましてや「素人」に教え込むのは、じつはたいへんに難しいのだ。

だから、ふつうはできない。
それで、「10年」ときめつければ、楽ができるのだ。
しかし、「スピードがもとめられる時代」に、会社はそうはいかない。

上司が「補助輪」になれる組織風土が、これを達成するのである。

憲法違反の財務省設置法

藤井聡京都大学教授は、内閣参与としてもマスコミに登場していた有名人である。
そのひとが、内閣参与時代にも内閣に対してこの発言をしていたというから、ちょっとおどろいた。

このブログでも、ずいぶん憲法についてかたってきている。
一介のコンサルタントが、大仰なはなしをするのは、それがわたしたちと「つながっている」からである。
だから、じつは、たいそう身近なはなしなのであって、とおい別世界のはなしなどではないからだ。

「日本国憲法」というものを、ちゃんと学習することなくおとなになるのが、日本国民の特性で、ゆいいつ「変えてはならないすばらしいもの」としか教えられていない。

それは、「国民主権」や「基本的人権」、それに「平和主義」という「用語」を暗記させられるだけであって、とくに「平和主義」を強調しておそわることになるから、「先生のいうことを『正しい』と信じるまじめな子ども」ほど、「そっち方面」にいってしまう。

「憲法」という「法」を、なぜ人類がもつようになったのか?とか、そもそも「憲法」とはなにか?とか、あるいは、「主体」である「国民」とはどういうもので、「主権」とはなにか?
こうした、前提になるはなしがなくて、いきなり「中身」をいうから、自分たちの生活に直接影響しない「別物」あつかいになるのである。

だから、国民必須の知識(あえて「教養」とはいわない)として、憲法のことをしっていなければ、それは、現代の地球に住む「国民として中途半端」だといえる。

これは、もう「おそろしいこと」で、なんだかわからないけど選挙で投票したり、じぶんの権利を主張してはばからないことがまかり通るようになって、結局、さいごは社会自体がこわれてしまって、人災としての厄災を全員がこうむることになってしまう。

ならば、どんな教科書がいいかをおもうと、やはり安心して読めるのは、前にも紹介した、小室直樹『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル、2006年)しか浮かばない。この本は『痛快!憲法学』の復刻版であるから、小室氏亡きいま、これを凌駕する解説が「ない」ことも、わたしのおどろきのひとつとなっている。

 

名著とは、難しいことをやさしくだれにでもわかるように解説した本である、とわたしは定義している。
その意味で、日本人にむけて書かれたこの本は、まちがいなく「名著」である。

小室氏は、日本国憲法の大黒柱を「第十三条にあり」と喝破している。
この条文は、以下のとおり。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

なお、「幸福追求」には、「財産」がふくまれるとかんがえられ、憲法二十九条に、

「財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

とあるのは、蛇足ではないか?ともおもわれる。

十三条にもどると、「生命、自由」について、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるから、憲法九条のために拉致被害者を救出できない、とする論も、憲法違反である。つまり、憲法九条すら、十三条にしたがうべきなのである、という主張がほどんどないことも不思議なのだ。

また、欽定だったゆえに明治憲法を「不磨の大典」として、一言一字といえども一切変えてはならぬ、という主張から、どうにもならない事象にたいして対処できなくて、とうとう滅亡の大戦争をはじめたことは、「反省」の対象になってはいるが、おなじような理由で「変えてはならぬ」という主張がいまでもあるのは注目にあたいする。

さて、そんな「憲法」の「大黒柱」をたてに、藤井教授は財務省の「存在」について異議をとなえた。
財務官僚がわるいのではない。
「財務省設置法」という、法律がわるいから、財務省は国民の幸福を無視して、「国家財政」だけをまもればよいことになっているのだ、と。

たしかに、大蔵省から看板を書きかえた財務省は、「設置法」はむかしのままでていて、そこには「国民経済」ではなく、国家財政だけしかない。
なるほど、これほどの「視野狭窄」もないというのはもっともである。

しからば、「法」を変えるのは国会のやくわりだ。
しかし、先般しでかした内閣法制局長官のもとにある「官僚機構」が、「法の番人」だと報道されている国である。
おっと、「法の番人」は最高裁判所ではなかったか?

内閣法制局を「法の番人」というのは、「立」の「脱字」だろう。
「立法」のときの「法案」を吟味して、過去のあらゆる法律との「整合性」をとるのが「日本式」なのだから、それをチェックするのは、国会提出前の「門番」のやくわりである。

ちなみに、アメリカではあたらしい法律がむかしの法律に「上書き」されるから、事前の「立法の番人」など必要なく、議会に提出されたり決議された法律に、憲法との整合性でいちゃもんをつけるのは、最高裁判所のやくわりになっている。

もちろん、各議員は、「立法のため」に選挙で当選したのだから、両院議会には手厚い法制局スタッフがいて、それぞれの議員の法案作成をてつだっている。
これらのスタッフは、議会事務局の採用で、省庁採用ではない。

日本では、しかし、前に書いたように、内閣法制局も各省庁からの「出向者」でなっている。
「国会軽視」をいうなら、ここが「肝」のひとつではないか?

そして、ほんらいは国会にある両院の「法制局」が、大車輪でうごくべきなのに、これが脳死状態だから国民がこまるのだ。
なぜ脳死状態なのか?は、内閣法制局が法案を一元管理していることに、両院とも国会側が「依存」しているからである。

藤井聡先生には、次にこのあたりをつついてほしい。

「感動工学」の教科書

人間を科学する、といえば、まず「人間工学」がうかぶ。
これは、人間という動物の骨格やら筋肉のつきかたから、どういう座面にすると疲れずに長時間快適にいられるか、といった側面を「工学」したものだから、物理的なのである。

大学の学部には、「人間科学部」というのもできて、こちらは心理学などを応用して、感情を科学するというアプローチもくわえている。
現代では、いかに人間をストレスから解放するか?という問題は、社会的ニーズがたかくなっているし、「心とからだ」を「総合・統合」しないとわからないことばかりだと気がついた。

もちろん、むかしからある「医学」も、人間を科学する学問だし、経済学や政治学だって、人間がわからなければこたえがみつからない。
そんなことをいったら、文学も芸術も、法学も、どれもこれも人間を理解しないとつうようしないから、哲学はむだではないこともよくわかる。

いまは、どの学問分野も専門によって細分化されてしまった。
だから、伝統的な学問分野の名前だけをみると、おそろしく深い世界にはいりこんでいるようにみえるが、ひとりの偉大な人物がその深堀をしているわけでも、指揮をしているわけでもない。

無数の「専門家」が、その専門部分をまるで一本の針でつついているような姿でいるのに、おおざっぱな目には、ある分野の深掘りがすすんでいるようにみえるだけだ。
つまり、新聞などの写真印刷のように、部分ではちいさな点(ドット)でしかないものを、遠目からみれば画像として認識するようなものである。

ほんらいの「教養」が「教養」でなくなったのは、こうした細分化が原因で、専門家には、専門外のことになると、とんとわからぬ世界になってしまった。

さらに、わが国の教育には、世界に類例をあまりみない、「系」という区別があって、「普通科」の高校生を「文系」と「理系」にきめつけて「専門化」させているのは、「総合・統合」への「反逆」をつづけていることとおなじだ。

オルテガがいう「大衆」とは、そんな「専門家」のことを指す。
だから、いわゆる労働運動などでいう「大衆」とは、ぜんぜん意味がちがうから、このちがいを意識しないと議論が混乱する。

むかしのテレビCMで、「わたしつくるひと、ボクたべるひと」というのがあった。
当時ですら、決定づけられた男女の役割分担に批判があったものだが、企業活動が「モジュール化」した現代では、すでに役割分担がはっきりしてきている。

たとえば、店舗づくり、という場面では、それが「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、コンセプト・メーキングにあたっての自社社員が「いない」ということがおきている。

典型的なのは、いまなにかと話題の「コンビニ」で、はたしてオーナーがどれほどじぶんの店の「店舗設計」にかかわれるのか?ということすらかんがえることもないだろう。
それがまた、「本部」の存在意義にもなっているからである。

上述の、「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、というのには、大手であろうが個人経営であろうが、も条件にくわわる。
つまり、たとえ「改装」や「改修」であっても、設計を他人に丸投げして、できあがった店舗を「運営」するだけ、ということができるようになっているのである。

ところが、ここにおおきな落とし穴がある。
店舗の工事「設計図」が他人まかせということには、まさに、「営業コンセプト」もふくまれるから、コンセプトから設計まで一貫しての「他人依存」という意味になる。

すなわち、じぶんの店の「根幹価値の創造」を他人にまかせることになっている。

もちろん、優秀な「請負人」は社内や社外にいるもので、こうした「プロ」にまかせれば、じぶんや自社での負担がないようにみえるから、まるで「リスク軽減」ができているようにもみえる。

しかし、この店舗で「稼いで」、その結果として生きていかなくてはならないのは、あくまでも「じぶんたち」なのだから、どうやって「コンセプト・メイキング」をするのかは、そのときに専門家におしえてもらっても、次からは自分たちでやる、という気概があっていい。

にもかかわらず、それも面倒だとすれば、それは、自社で不動産を所有する意味がないビジネスモデルになりさがる。
これを、「経営と運営の『分離』」というなら、おおいに異議のあるところである。

毎日、お客と接しているので、その声からどういった店づくりがよりよい価値をつくるのかを検討するのは、当然すぎることなのに、それを放棄しては元も子もないはなしになるとおもうからである。
つまり、前述したオルテガのいう「大衆化」が、ここでもおきているのだ。

そんなわけで、上に紹介した書籍は、情報通信という業界のはなしを例にしているが、「統合化」という方向に逆ブレしていることに注意したい。

具体例が、ハイテクのむずかしい産業だから、じぶんたちとは関係ない、とかんがえるのも「大衆化」である。
主張の「パターン」を読みとれば、じぶんたちに「おおいに関係がある」のものだと気づくはずだ。

すると、本業はなにか?
という「原点」にかえれば、お客を「メロメロにさせる技術」が、問われるというあたりまえにもどることになる。

個々のサービスの瞬間は録画でもしないと記録できないが、そのための「舞台」となる施設や設備が必要になるのは、サービス提供をおこなうものの宿命である。
だからこそ、これを他人まかせにする、ということの「あやうさ」をいいたいのだ。

そこで、そんなかんがえをたしなめるためにも、『感性商品学-感性工学の基礎と応用-』(海文堂、1993年)あたりをご覧になってはいかがかとおもうのである。
バブル崩壊後の苦しい時期に、王道追求の教科書がでているからである。

あたかも、ものづくりのメーカーさん向けにみえるかもしれないが、はたしてそうなのか?

この春の、サービス業の新入社員にもよい教育カリキュラムになるはずなのである。

「保守」は危険思想になる

こないだは、英国に発祥した「正統な保守主義」について触れた。

「保守」とひとことでいうときに、上述の「正統な保守主義」のことだと、だれもが前提にすればよいのだが、あんがいそうではなく、たんに「むかしを懐かしむひと」程度のことだと捉えられることがある。
そうなると、「正統」な理由がなくなってしまうから、うわついた「主義」にならざるをえなくなるのである。

そうやって、わが国のなかで「自由民主党」という政党の正体を吟味せずに、安易に「保守党」と呼んだことから、きがつけば背骨がゆがんでしまった。
これを矯正するのは、かんたんなことではない。

それに、「保守反動」という社会主義者や共産主義者など、革命を起こしたいひとたちがつかう用語もあって、なんだか「保守」は坐りがわるい。
それは、こうした革命を起こしたいひとたちが、日本社会のエリートたちにおおかったからである。

こうした「伝統」が、いまでもあるから、「保守」というだけでは、「どっちを志向しているのか?」が曖昧になってしまう。
それは、「保守反動」をめざすのか?それとも、「革命」をめざすのか?という二項対立になってしまうから、この問いには「ほんらいの保守=正統な保守主義」が選択肢から「わざと」はずされていることに気をつけないといけない。

もともと、革命をめざすひとたちが、これにのらないひとたちに対して攻撃するためにいったのが「保守反動」という用語だから、二項対立は当然であるばかりか、じつは、用語として「セット」になっている。
だから、この議論にのってしまうだけで、革命をめざすひとたちから論破される構造になっている。

この「わざと」を、「用意周到」という。
なるほど、エリートたちが好むわけでもある。

ビジネスでも、「追い込み猟」をしかけることは多分にある。
事前に、あいてに気づかれないようにひろく網を張っておいて、これを徐々に狭めていくのだが、高度なワザでは、あいてをからめ捕ることはしない。
出口を一つだけ用意しておいて、そこへ逃がしてあげるのである。

あたかも、あいてがじぶんの意志で決めたように仕向けるのだから、仕掛けた側にとっては「完全犯罪」的な結果になる。
もちろん、あいてには、仕掛けであったことを気づかせなければよい。
つまり、ほんとうにじぶんの意志であったとおもえばそれでよいのだ。

おなじ仕掛けでも、あいてを逃がさずにからめ捕ってしまうと、さいごはあいてが「はめられた」と気づいて、うらみを買ってしまうから、これは仕掛けた側の自己満足におわるのである。
すると、二度目以降、信用もうしなっているから警戒されてしまい、ビジネス作法としてやってはいけないとわかるのである。

けれども、じっさいにからめ捕ってしまって相手からの信用をなくせば、次のビジネスはないので、痛い大損をする。
この「痛み」の経験が、ビジネスの世界ではひとを育てることになっている。

ところが、それが通じない世界がある。
政治と行政の制度がそれだ。
この分野のひとたちは、「論破」して「屈服」させるまでやめない。
まさに、「二項対立」でなりたっている状態になってしまった。

二項対立のはじまりは、人類最古の経典宗教といわれる「ゾロアスター(拝火)教」である。
火を拝むのは、「明」(正義)と「暗」(邪悪)の、「明」をあがめるからだ。

わたしたちは、古代のなにやらあやしい宗教だとおもっているが、ギリシャにつたわってオリンピックの聖火となり、日本には「密教」における「御焚上」になっている。

暗い夜は邪気にあふれているから、火をたいて「明」のちからでそれを除くのは、ガス灯も電灯もなかったむかしには、だれもが信じたことだろう。

ギリシャと同時に、中東の砂漠でも影響をうけた宗教がうまれ、これが、旧約聖書になってキリスト教、イスラム教へとつづく世界をかたちづくる。
ところが,日本にはとっくに「八百万神」がいたから、あとからやってきた「密教」も、これにとりこまれた。

こうして、わが国のなかでは、「まつりごと」が、政治と宗教行事を一致させたのだった。
その意味で、祈ることが政治だったのだ。
「祈り」とは、時間と空間を超越するので、過去・現在・未来をひっくるめる行為だ。

古代が進化した「平安時代」に、決めごととしての『有職故実』がうまれるのは、たんに過去のやり方をつづけるということではなく、現在も、未来も、ということである。
これぞ、英国より千年早い、日本の正統な保守主義の聖典であった。
だから、折り合いをつけるための「妥協点」が重要だったのだ。

 

しかし、西にながれた思想は、二項対立にみがきをかけて、西洋文明をうんで、これが、戦後日本に無条件で採用された。
そして、いつしか、「伝統」になってしまったのである。

けれども、「まつりごと」の時間は千年以上あるのに、あたらしい「制度」は百年ない。
たった数十年しかない「制度」が「伝統」の用語で「保守」されている。

すなわち、英国の正統な保守主義ができるはるか以前からあった、わが国の正統な保守主義が、すっかり忘れられ、古いだけというイメージすら溶けてなくなって消滅してしまったのである。
いま、人類最古の「血統」である、皇室が絶えそうな危機にあるといわれることこそ、正統な保守主義消滅の「象徴」になっている。

こうして、二項対立のなかの「保守」、すなわち「保守反動」の「保守」が、濾過紙にぼんやりとシミになって残ってしまった。
だから、けっして「反動」ではないと証明したくて、どんどん「革命」を起こしたいひとたちに近づいていくしかなくなった。

これが、危険思想になる「保守」のできかたなのである。

このメカニズムに、「保守」を自称するひとたちが気づいていない。
それは、気づかない「ふり」をしているのか?それとも、ほんとうに気づいていないのか?
と、二項対立でとくよりも、「自由主義」に足場をおくことだ。

そうすれば、またたく間に革命をめざすひとたちの「呪い」がとけるというものだ。
わが国では、政治用語の「保守」は、つかわない方がいい。