世界最大の客船がこない

現在,もっともおおきい客船は,「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」という名前をもっている.
長さ 362.12m 総トン数 226,963トン 船幅 47.42m 高さ 72m 最高速度 46km/h
定員最大 6,780名 乗務員数 2,190名 建造費 1,350億円 就航年 2016年

横浜港にある,かつての太平洋の女王「氷川丸」のスペックは,
長さ 163.3m 総トン数 11,622トン 船幅 20.12m 最高速度33.725km/h
定員 331名 就航年 1930年(昭和5年)

ほら,やっぱりくらべものにならないではないか!
早合点はちょっとまってほしい.
昭和5年に,ホノルルまで一等250ドル(1,050円)という記録がある.
当時の1円は,いまの10,000円ぐらいだから,片道でホノルルまでの運賃が1,000万円を超える計算になる.
あたりまえだが,当時外国に行けたのは,特別なひとたちだけだった.

一方で,世界最大客船の料金は,二人一室7泊8日で$3,100(海側客室・食事付き,二名)+寄港地でのツアーだから,高価ではあるが「驚くほど高価」ではない.
もっとも,日本からの乗船なら,出発地までの交通費がばかにならない.
それで,この船の経験者は日本ではすくないだろう.

世界最大の客船内にはどんな施設があるのだろうか?
プールや劇場は定番で当然だが,カジノも忘れてはいけない.
「国際海洋法条約」で,日本船籍の場合は,カジノが国内違法なので公海上でも禁止であるが,外国船籍では,籍のある国の法に従うため「合法」になる.日本では「カジノ法」は成立したが,「実施法」がまだなので,当面は「禁止」だろう.
だから,この船が「IR(統合型リゾート)」である.
この手の船は,めったにこないが.
日本のリゾート業界は,それで助かっている.

ところで,かつての造船大国から転落したわが国だが,この船の建造はフランスなのだ.
建造費を定員で割ると,お客様ひとりあたり2,000万円程度になる.
日本で地上に建てるホテルより,安いのではないか?

最大客船のグレードは低い

ホテルにもグレードがあるように,客船にもグレードがあってこれを「クラス」という.
最高は,「ラグジュアリー・クラス」,中位は,「プレミアム・クラス」,そして,「カジュアル・クラス」の三種類だ.

「世界最大の豪華客船」は,当然に「ラグジュアリー」だとおもったらそうではなく,「カジュアル」に位置する.
「大きいことはいいこと」ではなかった.
入港できる港の大きさや深さといった制約があるし,大量のお客を乗せるのだから,サービスのきめも荒いという.

かつての氷川丸と比較すべきは,「ラグジュアリー・クラス」なのだ.

「カボタージュ」というルール

「サボタージュ」ではない.「カ」である.
これは,国内輸送を国内業者に限定する制度をいう.
例えば,外国籍の船による国際クルーズで,横浜港と神戸港を出発して香港に向かう場合,横浜から乗船したひとは,神戸で下船できない,ということだ.

飛行機は,カボタージュの規制緩和がすすんでいる.
「コードシェア便」というやり方を考えだした.
だから,この規制はもっぱら「海上輸送」にかかわる.

オーストラリアとニュージーランドが,この規制を撤廃したら,内航輸送の国内業者は壊滅的打撃をうけたという.これら政府は,コスト軽減を選んだのだ.
横浜市も,規制緩和を国に要請している.
客船も,コンテナも,「国際的」な経路から外れるという問題があるからだ.
「豪華客船」がめったにこなくなった理由のひとつでもある.

業界団体である,日本内航海運組合総連合会は当然強く規制緩和に反対している.

カボタージュは,国際的に認められている規制なので,概ね「維持すべし」ということなのだろうが,国民経済という視点から議論がおこなわれているようだ.
外の目からすると,この議論に抜けているのは,人口減少,である.
日本人の「船員」が,今後確保できるのか?

もしかすると,カボタージュは維持したいができない,ということになりかねない.
従来どおりの前提条件で,議論してもはじまらない事例のひとつである.

さいきんの「官庁文学」を読む

昨年6月9日,「未来投資戦略2017」というタイトルの「官庁文学」が閣議決定されている.

もう半年以上が経過するが,めだった批判がない.
これは,気持ち悪いので,ここで書いておこうとおもう.

199ページにわたる大著である

官庁文学というジャンルでもっとも有名なのは,「白書」シリーズである.
これは,毎年,定期的にでるから,愛読者もおおいだろう.ただし,「政府」という,かならず間違ったことをする組織の宣伝文だから,読者に相当な読解力を要求される「現代文学」のひとつである.

「未来投資戦略2017」というのは,その,かならず間違ったことをする政府が,厚顔無恥にも大上段で発信している,官庁文学のなかでも「プロパガンダ文学」というジャンルになる.
「プロパガンダ」という分野では,圧倒的にナチスのヨーゼフ・ゲッペルスという天才による完璧な「教義強制」の実績がしられ,これをスターリンや毛沢東も参考に自国で応用した.

残念ながらというよりも幸運にもか?,日本人は,教義を強制される,という方法ではなく,GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって国民を痴呆化させる,という方法のために,たとえ強制されても理解できない,という方向にむいている.しかし,その前に,政府の貧弱な宣伝力のせいで,最新作である「未来投資戦略2017」を国民一般が読んでいない.
だが,興味もない,となると,それは自分も「白痴化しているかもしれない」と疑うとよい.

この際だからせめて,「第1 ポイント 基本的な考え方」の10ページだけでもいいから目を通しておくとよいだろう.
「Society 5.0 に向けた戦略分野」として,以下の5項目があげられている.国民生活のほとんどをカバーしているので,まさにソ連型全体主義体制を彷彿とさせる.
観光系は,4にしめされているが,つぎの5では電子決済が目標化されている.
5は,「キャッシュレス化」をいうだけで,政府の「通貨発行益」にかかわる記述が「ない」ことに注目したい.これは,国民からハイエクの「通貨発行自由化論」を隠し,「通貨発行益」を死守するという表明でもある.
1 .健康寿命の延伸
2 .移動革命の実現
3 .サプライチェーンの次世代化
4 .快適なインフラ・まちづくり
5 .FinTech
「Society 5.0」というのは,「①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会に続く、人類史上5番目の新しい社会。新しい価値やサービスが次々と創出され、社会の主体たる人々に豊かさをもたらしていく」と,なんと「脚注」で説明されている.

「未来投資戦略2017」という政府の主張をつらぬく前提となる基本的価値観が,この「Society 5.0」なのであるが,「脚注」で処理しておわり,ということからして論理の飛躍がある.
つまり,本書は「SF」という分野に分類されるのではないか?通常の「SF」は,Science Fiction だが,本書は前提から Science を無視しているから,本書の「S」は,Social だろう.

つまり,本書は新分野の文学に位置づけられようが,内容はかなり「白日夢」的で,妖しい雰囲気を醸し出している.
「Society 5.0」は人類史における「第四次産業革命」だという.それで,日本政府は,産業革命をさせようというのだ.過去の産業革命は,一度も,政府主導のものなどなかったことを知らないらしい.政府や政治が主導したのは,「社会破壊」のほんとうの「革命」しかない.

ところで,この「基本的な考え方」には,5つしか項目がないが,本文でもある「具体的施策」になると,いきなり「6」が出現する.それは,「エネルギー」であって,「安全が確認された原子力の活用」とある.みごとな科学の否定.数千年オーダーの福島の後始末を「7」で挙げるべきだろう.
それにしても目次からはずすとは,政府は必ず間違えるだけでなく,姑息なことをする,と覚えておきたい.

このままガラパゴス化してしまう

「Society 5.0」を推進すると,「適切な人材投資と雇用シフト」という労働の付け替えをしなければならない.それは,「生産性の抜本的改善を伴うことから失業問題を引き起こす」が,「日本は長期的に労働力人口が減少し続けることから」,「他の先進国のような社会的摩擦を回避できる」そうだ.
これを「眉唾」といわなければ,たんなる「希望」だろう.「SF」の「F」は,Fiction のはずだが,Fantasy も掛けてあるから,和歌の伝統までも受け継ぐみごとさだ.

「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいくことから、対応が遅れたり大胆な変革を 躊躇(ちゅうちょ)したりすると、世界の先行企業の下請け化して、中間層が崩壊してしまうおそれがある。」
「日本は先行企業の下請け化するかガラパゴス化するしかなくなってしまう。」
と,二度も「下請け化してしまう」と心配している.
著者は,「下請け」がよほど嫌なのだろうが,それでは,中小企業庁の立場がないではないか.

世界の先行企業は,「水平分業」にシフトしており,「下請け,孫請け,曾孫請け」をやめられない日本は,いまだに「垂直分業」体制だ.その,体制を維持し,「水平分業」化を邪魔しているのが政府の規制や,その意向でしか動けない「業界団体」の「自主規制」ではなかったか.さらに,脆弱でかわいそうな中小・零細企業は「守らなければならない」から,「支援」と称して補助金漬けにする.こうして,むりやり「下請け」のままに固定させるのが,中小企業庁のお役目ではないか.

昭和23年に発足して以来,わが国中小企業の経営環境が,この役所の存在によって大きく改善されたという証拠がどこにあるのか?
即刻解散させて,現在の定員195名を直接中小企業に勤務させた方が,よほど為になるかもしれない.ただし,これらの人たちを採用したいとおもう中小企業があればだ.

この手法は,農業政策や医療分野などとそっくりおなじである.つまり,おなじパターンで全産業を,「固定」してきたのが政府である.
それを否定しようとは,みごとなまでのダブルスタンダード.
まさに「文学」でしかない,世迷い言である.

「ガラケー」に象徴されるように,この国が世界標準から別世界にむかったのは,世界は「消費者利益優先」を選択したのに,役所の『産業優先』という戦中からの「政策」と,利権がともなう「規制」のたまものだったことぐらいは,だれでも知っている.それを,いまさら,だれのせいにしようとしているのだろうか?

ついでにいえば,政府がすきな「日本版◯◯」というときの「日本版」には,「ガラパゴス化」が含まれている.つまり,日本の「ガラパゴス化」をもっとも強力に推進してきた張本人が政府である.
その政府が,上記のような言い分をして,しらっとしていられる神経は,もはやまともではない.

重要なのは,「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいく」という,正しい認識を示し,さらに,「Society 5.0を実現する主役はあくまで民間の活力であり、全ての産業で、従来型システムから舵を切り、知識集約型に産業構造を転換するための大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」というように,「主役はあくまで民間」といっていることである.

「予測困難」だから、硬直的な行動しかとれない政府は役に立たない.
だから、政府は民間の行動の邪魔をしてはいけない.
これが,自由経済の大原則だ.

本書は,責任は民間におしつけながら,政府が徹底的に関与する,という「宣言」になっている.
「さあ,仕事をしよう!」と,役人が腕まくりしている絵図である.財政難という存立基盤をすっかり忘れて,業界支配のための「補助金」が飛び交うことだろう.

これは,国民にとって絶望的な未来がやってくることに「確信」すら得られるとんでもないことだ.この「確信」になった「絶望感」こそ,「少子化」という現象の正体ではないか?
政府こそが,明治以来の開発独裁をやめて,「大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」のである,と特大ブーメランで返してやりたい.
その意味で,21世紀の自由経済体制のはずの「日本」における,「社会主義の失敗」として重要な「歴史資料」になるだろう.

すでに,こんな批判をだれも「書けない」社会になってしまったのかもしれない.

アナログをデジタルにする技術

宿泊業で三大経費といえば,人件費,原材料費,水道光熱費である.
この三つで8割ほどにもなるから,事業を左右する重要な費用である.
それぞれに,管理の方法がちがう.

以前,とある宿で月次の資料を見せてもらったことがある.すると,水道光熱費が異様におおい.
これはおかしいと指摘したが,「だいたいこんなものです」と動じない.
水道代は二ヶ月に一回の支払だけど,均すと特に異常はないという.
つまり,相当前から異常になっていることが,気づかずに放置されているにちがいない.
それで,たまたま大浴場の補修のための「閉館」があったから,ついでに専門業者にチェックを依頼したら,水漏れ箇所が発見された.これで,年間数百万が浮いたことがある.

毎日検針していない

電気,水道,ガス,重油など,それぞれには「メーター」がついている.
これを毎日検針するのが,水道光熱費を管理する,といったときの基本である.
しかし,残念な宿では,この基本ができているところがすくない.
だから,請求書のとおりに支払う,ということだけが「業務」になっている.

毎日検針することで,なにがわかるのか?
まず,「使用量」というデータが集まる.
よく,「データは活用されてこそ意味がある」などと耳にする.
じつは,「活用方法がわからない」というのがこの手の事例の問題点である.

しかし,そのことのさらに奥には,「なにがわかるのか?」という興味と想像がない.
だれが使っているのか?をかんがえれば,それはお客様である.
お客様のために,玄関やロビーに電灯がともり,館内には冷暖房がきいている.
お客様のために,お風呂の用意をし,食事の用意をしている.

だから,水道光熱費という費用発生には,「量」が消費されているとかんがえるのが妥当だろう.
であれば,客数との関係はどうなのか?という「関数」が役に立ちそうではないか.

「予想」・「予測」ができるかできないか

おなじ業界なのに,業績に差がつくのはなぜか?を吟味すると,業績のよいところは,「予想」・「予測」が上手で,そうでないところは下手である.
では,なぜ上手い下手というちがいができるのか?
「データの活用力」と一言でいえばこれにつきる.

予想・予測が的確だと,当然に対応が早くなる.この「スピード」こそが分岐点だ.
経営資源はかぎられている.
ひと,もの,かね,情報,というけれど,これに時間がくわわる.
宇宙の存在や地球の自転という,だれにもコントロールできないだけに,時間は貴重だ.

水道光熱費でいえば,予約客数から使用量が予測できる.だから,異常の発見がはやくなるし,請求書がくるまえに支払予測もできるから,資金繰りに直結する.
さらに,季節の変わり目に「判断」を要する,冷暖房の切り替え時期も,独自に計測した温度や湿度のデータが役に立つだろう.

日課ゆえの面倒を楽にする

メーター類は個人の家でも目立たない場所にある.
建て増しをくり返したような旅館では,読み取りに踏み台が必要だったりするから,危険が伴うことがある.
最近の技術は,アナログメーターをカメラで読みとって,それをデジタル化することができる.

これは,表計算ソフトに自動入力してくれる,という意味だ.
それなら,客数や気温など,手軽に計測できるものは手入力でも,ちゃんとデータの活用ができるだろう.

なんのことはない,これがいまはやりの,「IoT:Internet of Things(モノのインターネット)」ではないか?つまり,センサーと通信機能を持ったモノ達,ということだ.
かたひじに力をこめなくても,最先端はそこにあるということだ.

工業技術見本市にサービス・観光業がきていない

昨日から三日間の予定で,パシフィコ横浜にて,恒例の工業技術見本市がはじまった.
テクニカルショウヨコハマ2018(第39回)が正式名称なので,横浜市や神奈川県を中心とした企業が出展しているのだが,どっこい大田区や山梨,新潟からもしっかり参加企業がある.
今月は,これも春恒例の「ホテルレストランショー」がビッグサイトであるから,業界関係者はそちらのほうに目がいっているのだろうか?
いくつかの「ミスマッチ」を感じたので,記述しておきたい.

なんとなくミスマッチ

第一は,あいかわらず『「工業」は「ものづくり」』というミスマッチである.
これは,工業のひとたちが,他社の技術をみてさらになにかあたらしいものを作ろう,ということを否定しているのではない.
いいたいのは,「ものづくり」の限界がとっくにみえているのに,まだ「ものづくり」をしようとしていることである.

「ものづくりの限界」は二つある.
一つは,「デジタル生産」の限界である.これは,アジア新興国の得意分野になった.
二つ目は,「高齢化」による限界である.いわゆる職人技(「ローテク」ともいわれる)の断絶である.デジタル生産だけではできない,これこそが,日本の強みだった.その熟練の技が,高齢化という時間との闘いによってうしなわれようとしている.それを,仕方なく「デジタル」で補おうとするのは,新興国もしっている課題だ.中国の展示ブースが,それを象徴していた.

だから,それでも,歯を食いしばってがんばる姿が,妙に痛々しいのだ.
これは,昭和の成功体験の直線上の継続にすぎない,とおもえるからだ.
つまり,新興国とおなじ土俵でまだ闘おうとしている姿である.
要素価格均等化定理の罠から,でる気がないのか?まったく不思議である.
それを,「行政」が一生懸命支援している.

ワンパターンもここまでくると,滑稽にみえる.
おもえば,「平成」という時代は,とうとう「昭和」の精算すらできなかったのではないか?

工業は「ものづくり」をはやくやめるべきではないか?
わが国でもっとも利益率がたかい製造業企業は,だれでもしっているキーエンスだ.
しかも,かれらは,とっくに自社製造工場を放棄している.「工場」がないのに,製造業に分類されている.
かれらの本業は,製品企画と設計なのだ.
つまり,日本の製造業の将来あるべきすがたは,キーエンスのようになることである.

だから、ミスマッチの二つ目は,「もの」そのもを見ているだけで,「生活」をみているという展示がすくなかったことだ.
どんな「もの」であろうと,さいごは「消費者」によって「消費」される.それで,わざわざ「最終消費者」なるいい方まである.だから、たとえ「B to B」であっても,重要な概念なのだ.
自社は,消費者からみて,どこにいるのか?という演繹の発想がなければならないとおもうのだが,ほとんど感じなかった.

サービス・観光業が,工業を無視しているというミスマッチが強くうかがえた.
「文明の利器」は,ほとんど工業からうみだされている.
利用客に,快適さや利便性を提供するには,日本という先進工業国における工業がいまなにをしているのかをチェックするのは当然とおもうが,そんな発想すらなさそうだ.

しかし,これは工業側もおなじであるのは上述した.「生活」のなかに,サービス・観光業は存在するからだ.

本当に深刻なのはサービス業からの発信がないことだ

どんな便利なものがほしいのか?がわからないのが工業.
こんな便利なものがほしい?がわからないのがサービス業,になっていないか?
サービス業からのニーズに工業がこたえ,それを世界がほしがるというのが,本来の先進国としての役割ではないか?
であれば,製品自体をどこで作るかはどうでもいい.
アップルのような企業が,「見本」なのだ.

サービス業の生産性の低さについては,たびたびこのブログでも触れている.
しかし,そのサービス業が,業界内はもとより,異業種にすら発信していないのではないか?という疑問が,あらためてわいた展示会だった.

ホテルレストランショーで,どんな提案があるのか,確認しなければならない.

幹事の選択

いまでも団体ツアーがほしいという飲食店や宿はおおい.
なにしろ,むかしつくった「箱」がおおきい.
団体をメイン顧客に想定したのは,当時は正しかった.
バブル後,旅行形態が団体から個人にシフトしたから,大箱の施設ほど苦労している.

「団体」と一口にいっても中身はどうだろう.
「募集団体」なら,旅行会社が企画した商品に,たまたま集まった個人客の集団である.
ショッピングセンターの応募企画に当選したひとたちの「団体」もある.
そうかといえば,同窓会やクラス会などの,もともとが集団の団体もある.
「スナック」など,飲食店のお客が集まった「団体」ツアーもよくきくはなしだ.
団体がまったくない,ということではないが,口を開けているだけではそうそうやってこない.

事務は誰がやるのか?

募集団体や企画団体は,ある意味むかしからあったから,営業の方法もむかしからと変わらないだろう.いわゆる,エージェントまわりである.
個人が膨らんで団体になったのが同窓会やクラス会,それに個人経営のお店の宴集会である.
だから,これらの団体には,幹事という個人が存在する.
この個人こそが,決定権者だ.
同窓会やクラス会の幹事は,だいたい卒業前から変わらない.元学級委員が引き受けている.
あんがい一生つづくしごとである.
50代から,急に頻度をますのが学校関係の集まりだ.
元学級委員だった幹事は,それなりに出世しているはずで,事務能力がある.しかし,現役だと結構いそがしい.また,リタイヤといってもいろいろやることがある人物だと想像できる.企業の役員になっているかも知れない.
だから、手配の事務は負担である.

事務代行という営業

栃木県那須町にある芦野温泉には,「湯行会」という組織が各地に組織されている.
この会の分布密度は,ほとんど町内会なみで,自分の住所の比較的ちかくに「支部長」がいる.
ぜんぜん知らないひとだが,宿の壁にはズラーッと各地の「湯行会」支部長の顔写真と自宅の電話番号が掲示されている.
もはや個人情報保護法という国民孤立化政策を完全無視しているような鷹揚さで,むしろ清々しさまで感じるが,自宅のちかくにこんな「会」があるとは,おどろいたものだ.

この「会」は,支部長の都合で成立しているというから,またおどろきである.
支部に登録すると,支部長の都合できまった芦野温泉行きのツアー連絡がとどく.
日程(たいてい数泊の連泊を基本としている)と集合時間,場所が指定された連絡書で申し込む.

これらの手配は宿がしている.
支部長は,自分の行きたい日程を宿に伝えると,支部会員宛の連絡事務で出欠の確認をおこなって,それから,バス会社に連絡し,貸し切りバスを仕立てるというから,支部長本人がすることは,いつからいつまで行きたい,という希望を宿につたえることだけである.

おおくの会員は,万難を排して参加するという.はなしだけではにわかに信じられない.それで,ためしに現地へ行ってみて宿泊したら,本当だった.何回目かのおどろきである.
最初は,町内の老人会かとおもったら,そうではなく「湯行会」だという.本当の老人会も来るけれど,「湯行会」は少しはなれた人たちだから,「近所のしがらみがない」分,心底楽しめるらしい.

このビジネスモデルをまねる団体向きの宿を聞かないのも不思議である.
おそらく,「事務」ができないのだろう.
接客サービスばかりが「サービス」だというひとがいるけど,本当は「事務」というサービスがありがたい.
幹事をやればわかることだ.

観るだけの観光

光を観ると書いて「観光」だから,明治のひとは「Sightseeing」を訳したのだろう.じっくり観る感じがする.
「Tourism」は,これとはちがって,「名所巡り」という系統だろうから動きがある感じがする.お正月の「七福神巡り」も,指定された寺院に行くことが目的になるから,あんがい周辺をじっくり観る「観光」はパスしてしまう.
「団体ツアー」の絵はがき旅行も「観る観光」の観点から批判があるけれども,しらない土地での名所旧跡を「効率的」にまわれるから「ツアー」であって,個人的には嫌いではない.気に入ったら,あとでゆっくり個人旅行で「Sightseeing」をすればいい.

日本語は便利すぎて,どちらも「観光」で片づくが,どうやら「観光」と「名所巡り」は外国語のように分けたほうがよさそうだ.
名所巡りをしていても,目的地の名所を観光するとなると,いろんなものを「観る」ことになる.
このところ,「体験型の観光」が注目されているが,基本は「観光」という概念のなかにふくまれるだろう.

「観る」という場面で限定すれば,博物館や美術館は,もっぱら「観る」ものばかりである.
そこで,どんなものかと解説書きを読むのだが,有名な展示品については,「音声ガイド」という便利なものも普及してきた.しかし,これはすべての展示品が対象ではないから,音声ガイドの端末を借りたら,たいていは音声ガイドのあるものだけを「巡る」ことになる.それで,館内「ツアー」になる.

世界的に有名な博物館や美術館なら,じっくり「観光」すると毎日通っても一週間ではたりないかもしれない.
むかし,スペインのプラド美術館に三日通ったが,わたしの脳は画像データの消化不良で頭がぼんやりして気分が悪くなってしまった.日程の都合から三日で済まそうとしたのがいけなかったのだろう.完全に情報過多だった.
そういう意味でも,館内「ツアー」は効率的である.おそらく,二時間もあれば全館を巡るのだろう.
しかし,残念ながら印象に残ることはすくないから,どうしても「行ってきた」ということで終わってしまう.
だから,「観光」と「ツアー」は,トレードオフの関係にあるようにおもう.

観る観光は高い教養を要求されるから難易度が高い

テレビ番組で,美術をあつかったものはおおくないが,ある作家とか,一枚の絵とかと,対象をかなり絞り込んだ内容で構成されているから,視聴者はかなり深く情報をえることができる.
どんなに有名な作家で,どんなに有名な作品であろうが,そうした背景をしっていて鑑賞するのと,ただ観るのとでは雲泥の差である.

国内海外問わず,博物館・美術館,神社仏閣・名所旧跡を「観光」しようとすると,「教養」という壁がたちはだかる.
たとえば,観光の対象が自然の景観であるとしても,ただ観て「きれい」とか「すばらしい」で済まして,写真に記録を残すだけならそれでおしまいである.これが,従来の「観光」であった.
しかし,その景観がどうやってできたのか?地球物理学的な観察の説明や樹木や動物の特徴といった生態学,とか,そこで暮らす人がのこしてきた民話などという情報がつながると,がぜん価値が磨かれる.
これらを,どうやってスマートに情報提供するか?というのが,観光地にもとめられるのだろう.

地元のひとたちの教養が難易度を下げる

どういった解説・説明があるといいのか?
それを表現する方法で,もっともうまい方法はなにか?
そもそも,想定客はだれか?

残念な観光地には,おざなりで貧弱な説明しかない.これは世界共通である.
しかし,先進国と呼ばれる国では,あまりみかけない.
しっかり「観る」に集中させたら,つぎにはしっかり消費させるような段取りが組まれている.
そういったプログラムの構成は,役所のプロデュースではできない.

農産物輸出と駐車場

まったくちがう分野の話題にみえるのだが,昨日2月4日の新聞で注目の「共通記事」だ.

結論をさきにいえば,どちらも「政府の失敗」である.
丁寧にいえば,典型的なソ連型計画経済の失敗という意味だ.
民間の自由をうばって,政府が経済に命令するとこうなる,という旧東欧社会主義圏の住人なら,21世紀の日本でこんな政策がまだおこなわれていて,それを新聞が批判しないことに,唖然とするか,ノスタルジーすら感じるひともいるのではなかろうか.

日本政府のダブルスタンダードここにあり

「生産性向上」のために「働きかた改革」を打ち出してみたりと,なにかやっている振りをしているが,そもそもおおきなお世話である.
その一方で,あらゆる分野に命令し,ことごとく失敗しているのは政府である.
お願いだから,政府は邪魔な「経済政策」というお節介を,一日もはやくやめてほしい.
たったそれだけ,政府が退場すれば,この国の経済はよくなるだろう.

記事によると,農産物輸出が不調の理由は,「HACCP」という世界共通規格が日本で普及していない,という.
また,「グローバルGAP」という農産物の国際認証が,日本ではほとんど普及していないのが問題だとしている.
しかしこれは,農業鎖国政策の結果でしかない.それを,こんどは,企業や農家のせいにする.

東京オリンピック選手村での食事提供は大丈夫なのか?

数年前から指摘されている問題である.
上述の「輸出の不調」は,「選手村」という江戸時代の長崎の出島のような「想定の国外」でも発生する可能性と同意である.
つまり,各国選手には,グローバルな規格や認証を経たものしか口に入れたくない,というニーズがある.

「より速く,より高く,より強く」を,ドーピングなしで実現するための「食事」は,おそろしくナイーブな問題だ.
これを,「いなかのおばあちゃんがつくる野菜はおいしい」というレベルと一緒にするのは,「倒錯」といわれても仕方がない.日本は「メルヘン国家」になった.
それで,まずいと気がついた役人が責任転嫁しようというのがこの記事に透けてみえる.

おそらく,各国しかも「有力国」の「有力競技団体」との打ち合わせで,世界標準を要求されてしまっているのではないか?当然だが.
あと二年程度ではできないから,選手村での提供食材はほとんどが輸入食材になる可能性がある.

選手たちが楽しそうに,お好み焼きやラーメンなど,日本での食事をしている場面がテレビにでるだろうが,それは競技終了後の緊張が解けたアトラクションにすぎないはずだ.
テレビは,あたかも毎日,各国選手たちが「日本食」を楽しんでいるかのような印象操作をするのではないか?とひそかに期待している.

駐車場規制と人口減少

都心の駐車場が余っているから,駐車場規制をゆるめる,という内容の報道である.なぜ余っているかというと,公共交通機関が発達していることと,人口減少が原因だという.それで,稼働が二割しかない駐車場がでてきた.

駐車場という「箱物」を,ビルの地下なりにつくらせておいて,都心部は公共交通機関があるし,人口減少だからと「緩和」したところで,既存のビルオーナーはどうしろというのだろう?

「法」で規制すれば一律になる.
どのくらいのビルが新築されるか?を都内二十三区内ですら予想などできない.
だから、この規制は最初から適当なのだ.

そもそも,ビルの駐車場は誰のための施設かといえば,業務用と客用がほとんどだろう.
すると,ビルの設計において,規制が基準なのではなく,いかなる収益をもたらすかが基準になるのは当然だ.

これを,むりやり「規制」という基準にさせるから,民間は仕方なく規制にしたがう.それで,駐車場利用者がいないと「想定外」などという無責任用語を駆使して,緩和してあげる,という.
まるまる損をかぶるのは民間である.わざわざいうまでもないが,生産性が低い理由だ.
緩和でなく,最初から規制というお節介をしなくてよい.
収益の主体は民間だから,自分の事業にあわせた駐車場台数にして,損も得も民間に任せれば,すむことだ.

農業をやったことがない役人が,農業経営にお節介して農業鎖国をしてきたら,いつのまにかそら「輸出」だということに対応できない.
政府が経済活動に介入し命令すると,ろくなことがない.
伸びるべき生産性まで低下させる.そんなことを何十年もやってきて,まだ政府は自分が万能だという夢から覚めもせず,生産性をあげろ,と命令する.

霞ヶ関のファンタジーに翻弄される民間こそ迷惑千万.
これを経済団体が「支持する」という「倒錯」こそ,この三十年の閉塞感の正体である.

畏敬の対象を喪失すると堕落する

地震雷火事親父,これは恐いものの総称だった.
さいごの,「親父」がいつから怖くなくなったのか?いまでは,すっかり「ファミリー・パパ」である.
天災と親父が同列にあつかわれることのすごさは,親父側もたいへんだったろうと推測できる.
1968年に放送された,「親父太鼓」というテレビ・ドラマは,進藤英太郎演じる親父が,最後の抵抗をコミカルにみせてくれた.

家長制につながる,という批判はおいて,尊敬できる人物の存在,というのはたいへん重要なものだ.
「家庭」という,もっとも身近な空間における,尊敬,があるというのは,望ましいことではないか.ただし,それが権威主義にならない,ほんとうの「尊敬」であれば,である.

社内に尊敬できる先輩がいるか?

子どもは学校という集団において,社会化の訓練もうけている.
犬でさえ,生後すぐに母犬から引き離されると,社会化の教育をうけないから,一生にわたってむづかしい犬になる可能性が指摘されている.

おおくの国の教育制度が,小中高校と,それぞれ成長の年齢にあわせて学校をかわるようにできているのは,環境適応ということがあるはずである.
それでも,子どもにとって学校での一年はながいから,一学年の差でも,おおきな違いがある.
この時期,すさまじいスピードで「成長」しているからだろう.

三年間しかない,とかんがえるか,三年もある,とかんがえるかで,悩みの深刻度もかわるだろうに,たいがいは三年間もある,になってしまう.
尊敬できる友人・先輩や教師に出会えるか?は,そのひとの人生に影響をあたえる.損得ではない交遊というのは,ひとに豊かさを提供してくれるものだ.

就職というイベントをつうじて,一生お世話になる可能性がある会社という集団にはいって,職業人としてのスタートを切る.
このひとの職業人生を豊かにするかのひとつの決め手は,尊敬できる先輩の存在である.

こうしてみると,いい学校やいい会社というのは,尊敬できる可能性のあるひとの密度が高い集団を指すのではないかとおもう.

ABC分析における犠牲商品

飲食業界ではおなじみのABC分析だが,よくある失敗は,「売れていない」Cランクの商品を全部撤廃してしまうことで発生する.このCランク商品のなかに,Aランク商品へお客を誘導するための「犠牲商品」というものがもぐりこんでいる可能性があるからだ.

「犠牲商品」は,それ自体が売れるものではない.しかし,売れ筋商品へと誘導するための「みせもの」だから,「売れない」といって廃盤にすると,売れていた商品も売れなくなってしまうことがあるのだ.それで,「犠牲」という.

では,どうやって「犠牲商品」をみつけだすのか?というと,お客がなにをもってAランクのとある商品を選んだのか?を観察することになる.メニューをみながら,なにと比較したか?だ.
同系統のメニューの中にあるかもしれないし,別系統のメニューの中にあるかもしれない.
たとえば,麺類とご飯類とかである.

メニュー改訂をするとき,ABC分析の結果から仮説をたてて,ふだんから注意していないと,わからないものだ.

尊敬できる「犠牲商品」

このことの高度の応用は,「犠牲商品」をつくる,という作戦だ.
買って欲しい商品に誘導するための商品をつくる.

ポイントカードを発行して,そのポイント交換のパンフレットをつくるとき,データをみながら交換できる商品を選定することは当然として,いったい上限のポイント数をどうするか?という問題がある.
まじめな担当者は,最高ポイントを持っている人のポイント数を上限にしてしまう.
そうではなく,もっと上のポイント数にすれば,じっさいに交換できるひとはいなくても,パンフレットをみたひとが,こんなに購入実績があるひとがいるものかと感心してくれる.

人間は不思議な動物で,畏敬の対象があると気づくと敬虔な気持になるのだ.
音楽でも,素晴らしい「レクイエム」を聴けば涙し,「行進曲」なら歩き出す,とベートーベンが言ったとか.

尊敬できる人物が身近にいないひとは不幸である.
それは,犠牲商品の存在に気づかないで,いつもコントロールされる側にいるようなものだからだ.

ヒヤリとハット

事故がなく安全な状態を維持するのは,あんがい難しい.
ちゃんとしようとすると,ちゃんとコストがかかるようになっている.そこで,ほどほど,におちつくのだが,その「ほどほど」でほんとうに大丈夫なのか?となると,わからない.

個人ではなく,企業の安全対策は,基本中の基本なのだが,わかっちゃいるけど状態になりがちである.それは,やはりコストの問題があるからだ.

一口に「事故」といってもいろいろある.
そこで,最悪をかんがえることが一番いい.もちろん,最悪な事故は,人身事故で,それも死亡事故になる.
これは二つに分類できて,お客様が被害者になるもの,従業員が被害者になるもの,である.

ひとの命に重みのちがいはないが,お客様と従業員とでは,対応がちがってくるのは否めない.

ここでは,まず従業員の例をかんがえてみたい.

「業務上」という日常

会社の敷地であろうがなかろうが,業務上なら勤務中の事故である.
たいていの勤め人は,一日八時間は拘束されているし,通勤途上という時間もある.休みの日はのぞいても,人生の中における総時間数をかんがえると,たいへんな時間を「仕事」につかっている.
なかには,自分の時間のつかいかたがわからなくて,休日なのに会社にくるひともいるから,十人十色ではある.ただし,休みに出てくるこのひとが,仕事をしているかどうかは定かではない.

いわゆる現業部門という「現場」では,さまざまな工具をつかわないと仕事にならない.
だから,こうした工具が原因の事故はむかしからある.
ところが,いまは,病院で患者が取り違えられたり,ちがう薬をつかわれたりという事故まである.
これらはいちように「ヒューマンエラー」が原因といわれている.

そこで,専門家たちがヒューマンエラーの研究をしている.
この研究でわかったことは,「ヒューマンエラー」はなくならない,であった.
その理由は,「ヒューマンエラー」の原因が「ヒューマンエラー」だから,というものだ.
つまり,人間は間違える,ということにつきる.

だから,「ヒューマンエラー」を減らすには,人間は間違える,ことを前提にする必要がある.

なぜ間違えたのか?

たいていの「ヒューマンエラー」は,「つい」「うっかり」である.
しかし,その「つい」と「うっかり」で,自分の臓器が除去されてはたまらない.

そこで,「つい」と「うっかり」を収集して,「つい」と「うっかり」の原因をさぐってみる.
人間個体の神経の認識ミスなら,五感のうちのどれか?
人間個体の記憶ミスなら,記録の方法はないか?
といったぐあいだ.

結局「なぜ?」をくり返す

これは,「トヨタ生産方式」ではないか.
「つい」「うっかり」も「ヒヤリ」「ハット」も,原因の追及は,「なぜ?」である.

すると,従業員の安全を先にかんがえてみたが,お客のばあいもおなじである.
ただし,お客になるシミュレーションをしないといけない.
これは,テーマを変えるといくらでも応用ができる.
サービス向上になったり,生産性向上になったりする.

こうしたシミュレーションを,短時間単一テーマでおこなうのと,一泊まるまるおこなう方法がある.
一泊まるまるを「試泊」といったりする.
幹部でも,試泊経験が一度もないという宿はおおい.

1978年に世にでた大野耐一著「トヨタ生産方式」,奇しくも今年で40年の超ロングセラーである.
いまでも新刊で手に入る.

この本を「カンバン方式」の「ノウハウ本」だとおもっているひとをたまにみかける.
それで,「たいした本ではないのに」と,名著の理由がわからないらしい.
ただしくいえば,ノウハウ本だとおもって読んだら,なにやら漠然としていた,という感想なのだろう.

この本は,「哲学書」である.
漠然としているのではなく,「思想」が語られているのだ.だから「抽象」である.
「具体」ではないから,いくらでも応用できるのだ.
つまり,業種は問わない.
「ヒューマンエラー」の削減にもつかえるのは,その証明である.

わたしは鸚鵡ではない

くりかえして言うことを「鸚鵡返し」とよぶことがある.
ほんものの鸚鵡は,人間のことばを理解しているかといえば,おそらくそんなことはないだろう.
人間なら,鸚鵡とちがって,理解して返答している,とおもいたいがそうでもないことがある.これを,「機械的」といったりするが,手作業でも「機械的」な単純作業のくりかえしだと飽きてきて,しまいには苦痛にかわる.だから,ことばとして「機械的」に発することをくりかえすと,精神的にまいってきて,しまいには思考停止となる.

ところが,ホテルや旅館では,たとえ「機械的」であっても,くりかえし言わないと仕事にならないことがある.
だから、「機械的」に言わなければならない理由を知っているか知らないかが,その仕事の完成度につながる.すなわち,クレームの発生頻度がかわるということだ.

この「理由」を新人におしえないで命令でやらせていると,本人はだまって思考停止になる.そのうち,「理由」を説明できるひとがいなくなって,それが,職場全体に広がってくると,職場ごと思考停止になる.こうやって,ことばの発声が「単純作業」になって思考停止になると,人間は思考する動物だから,手をうごかす仕事も,かならず「単純作業」になるから,こころがうわついたサービスがお客に見ぬかれて,衰退という道をすすむことになってしまうおそれまである.

どんなことが「機械的でなければならない」のか?

第一は,「電話予約」における,「お待ちしております」に象徴される,予約承諾のことばである.
一般に「宿泊予約」というのは,厳密には「予約契約」のことをいう.これは,レストランの予約でもおなじことだ.
商法507条が根拠といわれたが,民法の大改正にあわせて,この条文は「削除」が決まった.
つまり,民法の特例法だった商法が,一部民法に先祖返りすることになった.
2020年の4月1日をもって,法律がかわる.

電話の通話は,双方向でつながっている.
そこで,電話で予約を受けるとき,その通話内で予約の申込みを受けて,部屋が空いているからと,「お待ちしております」と,承諾の意思表示をすれば,「予約契約が成立する」のだ.だから、鸚鵡のように,承諾の意思表示のことばを言わなければならない.

ちなみに,予約契約も売買契約である.売買を予約したのだ.売買契約は,売る側は商品を用意して,買う側はその代金を支払う,という約束である.
物質であろうが客室であろうが,売る側は用意しなくてはならず,買う側は代金の支払いをしなければならない.
ここで,買う側が一方的に売買契約を破棄したばあい,キャンセルチャージという違約金の債権債務が発生する.
だから,予約段階でも,その予約契約が成立したのかしなかったのかは,間違いなく伝える必要がある.お客は予約したつもりで,もし部屋が売り切れていたら,宿側が違約金を払わなければならなくなる.

第二は,荷物の預かりだろう.
いまは冬だから,クロークでコートなどを預けることがよくある.このとき,「貴重品類はございませんか?」とかならず聞かれる.たいがいは「ない」とこたえがあって,そのまま引換券をくれるが,もし,「ある」とこたえれば,それは貴重品預かりにと案内されるだろう.

ものを預かることを「寄託(きたく)」という.これは,民法でも商法でも規定があるが,ホテルや旅館,あるいは浴場などは,たとえ「無料」でも,法律は商人として預かったことにされるから,商法の寄託が適用になる.この部分は,商法が健在である.
それで,貴重品があるかないかを問うのは,あると申告されたときと,ないと申告されたときとで対応がことなるからである.簡単にいえば,適用となる条文がちがう.

客側が,うそをついて,貴重品があるのに無いといって,貴重品預かりではなくそのまま預かってしまい,もし紛失しても,文句がいえなくなる.お客が文句をいえないのは,鸚鵡のようにかならず確認することを怠らないためだ.あるときは言って,あるときは言わない,というのでは業務ならない.荷物預かり業務は,徹底的に鸚鵡になる必要がある.その一回ごとに,寄託契約の締結がなされている.

ホテルや旅館の大浴場,あるいはスポーツ施設のシャワールームや銭湯など,必然的に衣類や荷物を預けないとサービスを受けられないばあい,言って確認するのが面倒だから,紙に書いておけばよい,とはならない.
おおくの関係者が勘違いしているので注意が必要だ.

「貴重品は貴重品預かりまたはフロントにてお預けください,万一事故があっても責任は負いません」などという紙を,ポスターのように貼っている施設がある.
たしかに,利用客に貴重品預かりの場所を説明している,という効果はあるが,じっさいに紛失事故がおきたとき,施設側は「免責」にはならない.

商法の「寄託」は,いまだ文語での記述だから読みにくいが,じっくり読んでみることをおすすめする.

なお,駅のコインロッカーは,「賃貸借契約」なので,念のため.