割引や値引きは経費である

ちょっとした備品の買い増しには極度の抵抗をするのに,割引や値引きには寛容なことがある.
とくに,クレームが原因のばあいは,その傾向がつよまる.

ところで,宿泊業では割引や値引きをどうやって「記録」しているのであろうか?
あるいは,だれの権限で可能なのか,あらかじめ「ルール」はきめてあるのだろうか?
そして,たとえば,この一年で,値引き額の総額や割引額の「総額」がわかるしくみはあるのだろうか?

と,問えば,おおくの企業で「あれ?」にならないか?

売上になってしまう

だから、記録は「記録しよう」という意志がなければのこらない.
だれの意志かといえば,それは経営者の意志である.
法律できまっている「決算」や「納税」とはべつに,経営者のために数字をまとめるしくみがないとできない.
だから、法律は「最低限」のルールなのである.

それは,「二重帳簿」である,といった経営者がいた.
コンサルタントとして「痛い」経験だ.
どんな数字をみたい,ではなく,決められた数字があればよい,という発想だった.
それで,数字をみているのか?と質問すれば,「みている」という.
みてわかるか?と質問すれば,「わかる」という.
なにがわかるかと質問したら,「赤字だ」といった経営者がいた.

婚礼はなんのための事業か?

上記の問題を,ホテルの婚礼事業にあてはめると,そらおそろしいことになる.
ホテル自体が婚礼で売り上げる項目は,部屋代と飲食代,飲食代にまつわるサービス料だ.
神官や巫女も,牧師も,司会者も,衣装代も,写真代も,引き出物も,照明・音響も,招待状の印刷代も,おおかた外部専門業者へ業務を委託している.だから,ホテルは,これら業者から手数料を得るのだが,それは委託料の支払いとの差額のことである.

お客とのやりとりで,割引や値引きをする,というのは,いったいどこの売上対象からなのか?というと,たいがいが,「部屋代」からになる.
その「部屋」こそ,婚礼需要の競争のために,大枚はたいて改修投資したのではなかったか?

つまり,ホテルは,専門業者に軒先をかしていると上から目線でいたら,いつのまにかリスクはすべて負担しているというありさまになっている.

数字をみるのではなく経営をみる

「数字が苦手」という経営者はおおい.
従業員や部下には,「苦手を克服する努力をしなさい」といっているのに,である.
このブログでなんども指摘している(おそらくこれからも,しつこく)が,その「苦手」の原因は,わかるはずのない納税用資料の損益計算書をみるからである.
わからないものをみて,わかったふりをしなければならないから「苦手」になる.
こんなもの,役に立たない,と決めればすっきりするのにである.

お節介な税理士先生が,お茶でも飲みながら,「このところ原価が上昇してますね」とか,「いやー社長,そろそろ長期固定比率を改善した方がいいですよ」なんて言ったりする.
それでどうする?が問題なのだ.
その答は,いわゆる財務諸表にはない.

財務諸表に記載するまえの,早い時期に,どうやって問題点を発見し手当てするかが経営なのだから,こうした行動をしていれば,他人からとやかくいわれる筋合いはない.
しかし,財務諸表に記載されてから気がついたのでは,まったく後手にまわっているのだ.

値引きや割引は,あらかじめ,のルールが重要で,そのルールにおいてどんな情報を記録するかを決めればよい.
つまり,ルールづくりが経営なのだ.
あとは,その記録を追求できるようにすれば,「総額」もわかるようになるだろう.

こんな努力もしないで,最近は単価があがらない,とボヤくだけなら誰にだって経営者はつとまる.

安全は安全対策を講じていれば達成できるものではない

職場での事故は,労働災害(略して労災)になる.
これは,会社が傷つけたことになるので,労災保険があるから大丈夫,という問題ではない.

「安全第一」は経営方針である

工事現場でよくみかける「安全第一」のカンバンや旗は,単なる注意喚起ではない.
始業前のラジオ体操も,準備運動としての意味であって,決して楽しく運動しましょう,というものではない.ケガ防止のための重要な対策なのだ.

これは,事務職でも同様であるが,ほとんどのひとが無視して,自分の机まわりでラジオ体操をするひとはすくない.しかし,音楽にあわせる習慣はべつにして,同じ姿勢を維持する事務職では,筋肉をほぐす運動をすこしでも行うと,血行が改善されて緊張していた筋肉もほぐれるから,結局は作業効率も高まり,ミスも減る.

いまはパソコンという機械操作が事務職の主要業務になったが,パソコンもワープロもなかったむかしは,ソロバンか電卓で,表計算用紙に鉄ペンやボールペンで手書きで記入していたから,書き間違えるとたいへんだった.そのぶん,いまよりも緊張して事務作業にあたっていたろう.
コピーもやっとアオ刷りだったから,ガリ版のほうが手軽だった.いまの子どもには,ガリ版といっても意味不明だろう.

事故やミスをなくすことは,当然,なのだが,なかなかなくならない.
業務として「安全」は,あたりまえゆえの経営方針であるのは,人体を傷つけてはならないのと同時に余計な手間がかかることで損失そのものだからである.

ヒヤリ・ハットの経験情報

現場の事故には「ハインリッヒの法則」があるとしられている.アメリカの保険会社のデータから導かれた,1928年(昭和3年)の論文で発表された.
「1:29:300」という数字で表現されるものだ.これは,一つの重大事故の背景には29回の軽微な事故があり,その背景には300回のヒヤリ・ハットがあるというものだから,単純化すれば,329回の「オッといけない」を経験すると,330回目には大事故が起きるという法則である.

そこで,「細部は現場に存在する」という刑事事件とおなじ理由で,現場での「ヒヤリ」としたことや「ハッと」したことの経験を,どのくらいの従事者がしっているか?ということが,重要な防止策になる.つまり,重大事故をよぶ最下層のヒヤリ・ハットが減れば,軽微な事故も減って,最終的に重大事故も防止できるという理屈である.

できない理由がおそろしい

なんだ,そんなことならすぐにでも,いわゆる「情報共有」をすればいい,とかんがえるのは「正しい」のだが,世の中,なかなかそうはいかない.
最大の理由が,事故責任のありか,である.
つまり,犯人さがし,をしたがる企業内風土があると,かんじんの「情報」がでてこない.
だれだって,自分の責任を追及されたくないのは人情である.
そこで,現場での「ヒヤリ・ハット」はなにか?と問えば,ほとんどが「うっかりミス」のようにみえるものばかりになる.たとえば,ちょっとよそ見したら手を滑らせて包丁でケガをしそうになった,とか,雨で濡れた鉄板のうえで靴がすべって転落しそうになった,とかである.
「そんなもん,自分で気をつけろよ」で済まされてしまいそうなものばかりなのだ.

これに,刑事罰の受け方,という問題がくわわる.
日本の裁判例では,現場の当人あるいは現場にいた責任者が刑事罰を受ける可能性が高い.これは,経営トップの責任が追及されにくいという面をふくんでいるし,安全責任者であっても現場にいなければ免責になる可能性があることをしめす.
どうやら,日本人の裁判官は,現場,に罰をあたえることで,注意の教訓にしようと発想しているようだ.合理的な事故原因を追及して,その原因排除を社会的にさせようという方向ではない.
つまり,現場がスケープゴート(犠牲の羊)にされる.

だから,現場では,軽微な事故なら隠蔽した方が面倒がなく楽である,ということになる.
事故報告書を書かされても,原因の合理的追求をしようというならまだしも,責任という問題まで追及されたら割に合わない,ということが起こりうるのだ.

さらに,福島の原発事故のように,「安全が神話化」してしまうと,安全のための方策が無視されることがおこる.「安全」なのだから,対策をかんがえること自体が安全を否定しうる,という発想だ.日本人の官僚は,いまだに先の大戦から重要な教訓を学んではいない.これは,齊藤誠一橋大学教授による『震災復興の政治経済学』(日本評論社,2015年)に詳しく,その驚きのメカニズムが解析されている.本書こそ国民必読にあたいするとおもう.

つまり,犯人さがしの企業内文化を形成しうる,経営トップのふだんからの心構えが,重篤な事故ばかりか,ふだんからの情報共有をさまたげることに注意したいといいたいのだ.それは,経営者みずからが,「安全第一」の経営方針にそむくことになるからだ.

できる理由をつくるのが経営である

ヒヤリ・ハットの情報共有は,上述のような社内環境がないとできないものだ.
ところが,この「社内環境」をよくよくかんがえてみると,それは,「風通しのよい企業風土」のことであることがわかる.
つまり,対象が「安全」だけでなく,業務「改善」であろうとも,従業員から積極的な情報提供がある企業文化の存在を意味している.

これは,経営者の「おおらかさ」と関係がふかい.
「まじめ」なのはいいが,「おおらかさ」に欠けると,ひとはついてこなくなる.
「きちんと」するのはいいが,本質をわすれると,組織はあらぬ方向へ勝手にうごいてしまって,コントロール不能になる.
「デフレよなくなれ!」と,最高権力者が叫んだところでどうにもならない,のとおなじである.

「安全」の追求は,「安全」の担当部署だけで達成は不可能で,組織をあげて合理的な原因の追及とその原因をなくすことの行動でしか達成できない.

上述の,ヒヤリ・ハットの例をあらためてかんがえれば,包丁の例なら,よそ見したら,に注目すれば,なぜよそ見したのか?が議論の対象だ.オーダー窓口とまな板のある立ち位置レイアウトが不合理なら,注文のたびに「よそ見」することになるかもしれない.
雨の日の鉄板の例なら,滑り止め対策をどうやったらよいかを議論することになるだろう.

経営トップと現場の一体感こそが,もっとも重要だということである.

社員教育放棄の意味するもの

大学は入学するば卒業できる,というのが日本方式だから,なにがなんでも入学しなければならない.それで,入学さえしてしまえば,適当に人生でいちばん楽しい時間をたのしめるようになったから,これを「大学のレジャーランド化」といった.
大学側も,さまざまなレジャー施設(たとえば,テニスコートや研修所という名の保養施設)をつくって,かっこよく,しかも安く遊べることを入学案内の目玉にした.もちろん,これらはすべて授業料と寄付のおかげであるから,親からして「安い」かは疑問である.

そこそこの「労働者」がほしい企業は,将来の幹部候補は別として,大量採用が大企業としてのステータスを示したから,「大卒」という肩書きさえあれば内定をだした.おおくの有名企業でも,自社の成長戦略をきちんとえがいているわけではないから,本来ストックである人的資産を,フローの経済(景気変動)によって採用数を決めた.つまり,採用年次に景気がよければ大量採用し,景気がわるければ就職氷河期がやってくるというすがたである.

「バブル入社組」というひとかたまりが,これまた日本経済の風物詩をおりなす文化形成の根拠にされるのも,採用年次(ひるがえれば,生まれた年)が,たまたま,歴史的バブル経済という好景気の残影であるからだ.しかし,じつはこの年代のひとたちは,バブル経済を社会人として謳歌した経験はない.だから,「残影」なのだ.あの時代を,社用族として謳歌したのは,いま75歳以上のひとたちだろう.

かわいそうにも「バブル入社組」と一方的によばれる,この年次のひとびとも,まもなく50歳代に突入するから,社内ではそこそこの役職者になっているだろう.すると,あと十年もたてば,この人材のかたまりが大量に定年をむかえることになる.

いつから社内教育を放棄したのか?

日本企業は,以上のようなことを底流におくから,大学での教育内容は,「無視」して,社員は会社の教育研修制度の中で育てるものとされてきた.教育される社員の方も,大学で学んだことを他人に説明できるレベルではないから,会社の教育にすんなりはまるのだった.

経験値からいうと,バブルまえの時期から社内教育はうすまっていき,バブル崩壊のショックで放棄が正当化したとかんがえている.
バブル経済のまえ,というのは,70年代からつづく日本経済の安定期で,日本が経済力で世界を席巻していたから,企業はゆっくり人材教育をするよりも,OJTをつうじて新人を戦力化しようとしていた.OJTとは,「On-the-Job Training」のことで,現場で訓練させることを主とする.

そこで,問題となるのが「現場」なのである.
「現場」の「現場」たるゆえんは,ものづくりであってもサービスであっても,「戦術的」な仕事をしている特徴から,大卒という社内キャリアとして将来確実に要求される目線とはことなる次元での育成になるのは否めない.さらに,その「現場」が,経営と直結しているという自覚があればまだしも,とかく経営とははなれた存在であると思い込みやすいものだから,唯我独尊の立場でいることがある.このような「現場」には,事故や問題が発覚してはじめてきがつく気風までついてまわるので,OJTだけでの育成にはおのずと限界があるものだ.

だから,会社としては,現場ごとスキルアップさせるためにも,Off-JT(off the job training)をおこなう必要がでてくる.ここで,重要なのは,経営との一体感を埋め込むことなのだが,これにうとい経営者がおおい.それが,結果的に,社内教育の放棄,という現象を生むのだ.
つまり,社内教育はOJTでやっているから,社内教育を放棄している,という指摘に違和感をもつ経営者を「うとい」というのである.
それは,どんな人材が自社に必要なのか?という視点の欠如なのであるけれども,もっと深入りすれば,会社を将来どうしたいか?というビジョンの欠如でもあることを意味してる.

こういう企業こそ,採用にあたって,社長が人事に丸投げしている.
採用,という会社の将来を左右する一大イベントの意味すら理解不能なのだ.
だから,新人が会社を選ぶときに,社長が採用にコミットしない企業への入社はかんがえものだ.
自分を,一人前に育ててくれる気風がこの時点でみられないからだ.

人口減少社会で,人口増加時代の権威主義的経営者が生き残っている企業が危険なのは,こういう場面でも姿を現すようになる.

経費予算は必ず使い切る

役人には「売上」という概念がないから,「予算」といえば「使えるお金」のことである.
それで,毎年,年度末になると,「使い切る」ために,いろいろな工夫をかんがえだして,みごとに「使い切ってみせる」のが,会計課長の腕のみせどころになる.
「ムダ」ではないか?と外部からどんなに指摘されようが,「使い切らねばならない」から,気にしない.
年度予算を余らせたら,次年度から,その項目での予算が減ってしまう,という原理からくる行動と精神状態である.

それではいかん,ということで,単式簿記から複式簿記にかえようといううごきがある.
単式簿記とは,子どもの「お小遣い帳」や主婦がつけるという「家計簿」とおなじで,期首に「入金額」をかいたら,あとはつかった分を引き算して,のこりがいくらかをしる方法である.

複式簿記は,人類最大の発明,と文豪ゲーテが言ったという「発明」である.
ここで,お風呂の水がどのくらい変化したかを調べようとかんがえると,方法はふたつしかない.
第一の方法は,いまある水位にしるしをつけて,しばらくたったところで,増えたか減ったかをみるもの.
第二の方法は,蛇口からはいってくる水量と,排水口からでていく水量をそれぞれ計って,その差分で増えたか減ったかをしるものである.
第三の方法をかんがえだしたら,それは間違いなくノーベル賞をもらえるだろう.
さて,第一の方法が,ふつう「貸借対照表」とよばれ,第二の方法が「損益計算書」とよばれている.
この二つの書類は,「利益」というパイプでつながっている.損益計算書ででてきた「利益」は,貸借対照表の資本に転記されると同時に,資産のどこかも増えることになる.「損」であれば,資本と資産がそれぞれ減る,というしくみだ.

役所が単式から複式に転換するというのは,損益計算書で余った予算を資本と資産にすることで,ムダをなくそうという魂胆である.
これを,「民間の知恵」というらしい.

では,その「民間」ではどうか?
そもそも,企業「予算」というものも,お役所からいただいたかんがえ方であることを確認しておこう.
帳簿をつける,という行為は,「結果の記録」であるから,これだけでは「予算」にならない.それで,前期の数字から将来を予測して,目標にしよう,というのがはじまりである.お役所は,税収という「売上」からつかう分を決めていたから,民間はこれを学んだのである.

ふつう企業には最低でも二種類の予算がある.
「売上予算」と「経費予算」である.
「売上予算」は,今期収入の見込みと努力目標を足したものからなる.だから,売上予算の達成は,「必達」といういいかたをする.かならず達成せよ,という命令である.それで,達成すると,むかしは「金一封」が支給されもした.努力目標分も達成したのだから,その「お礼」と「よろこび」を会社は表現した.

さて,「経費予算」である.
じつは,民間企業でも「経費予算」の達成率は,100%,である.つまり,確実につかわれる.
だから,ほんとうは民間も役人を嗤うことはできない.
「民間はすぐれている」とか「民間の知恵」というのは,「すべての企業」にいえることではない.むしろ,そのようにほめられるだけの企業は,めずらしいのではないか?
これを,経済官僚はしっているから,ばかにして民間に命令するのだろう.

褒めておだてたり,鼻で笑ったり,うまくつかいわけている.上げたり下げたりするから,これをむかしのひとは「びっこにちょうちん」と言った.いまは,びっこが不適切な表現だからいわなくなった.それで,「あしがわるいひとにちょうちん」と言ったら,もっとひどいイメージになるから,ちょうちんが死語になったついでにやめた.
ほめられるようなすぐれた企業や知恵があるめずらしい企業ではない,ふつうの企業が,その命令をかしこまって受けとめるのだ.

おもしろいことに,売上予算は必達というが,経費予算を必達しろという経営者はすくない.
すぐれていて,知恵がある企業は,どちらも必達である.
次期以降の成長のための必要業務をかんがえると,お金が足りないのがふつうだから,経費予算のやりくりもたいへんなのだ.そういう経費予算なら,必達は当然だ.

だから、今期使えるお金,ではなくて,今期と来期の準備の活動資金,という発想がひつようになる.
それが,来期以降の実を結ぶもの,となってはじめて成長が達成できる.
経費は削減するもの,という思い込みでは経営はできない.

甘えの末路にある光

ふつうの大人なら,子どもを甘やかして育てたらどうなるか?は想像できる.
だから、むかしのひとは,気がつけば赤の他人の子どもでも注意したものだ.これを,お節介もはなはだしいという世の中にかわって,いまでは,知らぬが仏ならぬ無関心をよそおうことで,社会の平穏がたもたれている.

個人の生活で,他人への無関心が蔓延すると,個人は社会から孤立する.
それで,こうしたバラバラな個人をまとめて「大衆」と呼ぶ.
日本という国は,みごとな「大衆社会」になった.

高級ホテルのロビーのぶ厚いじゅうたんのうえを,平然とベビーカーを押して車輪の跡をのこす光景は,およそ世界ではありえないものだし,子どもがロビーで走りまわるすがたも,それを注意したホテルマンが親からクレームを受けるすがたも,日本と中国いがいではみることができないだろう.

「甘え」とは近親者にたいする「依存」である.
だから,親に依存したままで自立できない大人にならないように訓練するのが「しつけ」であった.少子なのに,その「しつけ」を親が放棄して,とうとう学校への依存がはじまった.ところが,公立学校にはその気も準備もない.それで,私立有名校は,学校社会を利用して親を教育する.こうして,「しつけ」を受けたか受けなかったかという「育ち」から,格差がはじまることだろう.

国が仕切るということ

個人がお節介をやかなくなったから,国家や地方行政がお節介をやくようになった.
いよいよ,社会主義国家日本の面目躍如である.
生活のあらゆる場面で,行政がおせっかいをやく.
最初は,たいがい補助金とか支援ということばで表現できるものだが,それが浸透すると,だんだんと,しかし確実に命令になる.悪魔とおなじだ.
こうして,自由が失われるのは,これまでの人類史の繰り返しである.

すごいものがあらわれた

ところが,政府に真っ向対決するすごいものがあらわれた.
それが,ビットコイン,に代表される「ブロックチェーン」という技術がうみだす「仮想通貨」である.
1976年にハイエクが発表した「貨幣発行自由化論」は,おおくの経済学者から無視されてきた.
貨幣の発行を独占している政府からはなれた発行体が,貨幣を発行することなどできない,と信じられてきたし,そもそも通貨は政府が発行して,中央銀行が管理するものと決まっている,と信じられていたからだ.
この「神話」に,仮想通貨がいどんでいる.
通貨を発行するものは,絶対的に有利な立場にたつから,古来,為政者が独占してきた.
民主政府といえども,通貨発行権を独占することにおいてこそ,経済をコントロールすることができるから,政府に莫大な利益をもたらすものだ.つまり,国民にとっては,経済の政府依存,を誘発して,政府のいいなりになる.それで,政府が経済政策をあやまれば,損をするのは国民という図式になっているので,通貨発行権をにぎる政府には,リスクがない.
もし,通貨発行権が政府から他にうつれば,政府は具体的な経済政策をうつことが,ほとんどできなくなる.もちろん,中央銀行も不要になる.
だから,政府は全力をあげてこれを妨害・排除しようとするはずである.われわれ国民は,その壮絶なたたかいのドラマをこれからたっぷりみることになるのだが,政府はわれわれ国民を懐柔しようと,ビットコインへのあらゆる憎悪を流布するだろう.これも,あらかじめ心得ておくとよい.

それでも,今世紀中旬までに趨勢がきまるだろう.
相手は,技術,なので,おそらく政府は太刀打ちできない.
すると,政府機能は一気に縮小せざるをえなくなるはずだ.だから若者がこれから,公務員を志望すると,中年以降になってひどいめにあうかもしれない.

政府が独占していた事業が民間になる

従来の「民営化」ということではない.政府機能の停止がそうさせるからだ.

政府がこうした事態になるまでに,一般経済でも決済が,ビットコイン,あるいは同類になっている可能性がある.銀行業務は,現在とまったくちがう内容になっているだろう.

「フィンテック」は,銀行業に革命をおこすものではなく,利用者側にこそ革命をもたらすから,経営者は「フィンテック」の研究をひとごとと決めつけてはいけない.

そう遠くない将来,国家に依存できないときがやってくる.
しかし,それは上からの命令をまつ社会ではなく,自主独立の精神をとりもどした社会になる.
「日本を取り戻す」とは,自主独立の精神の国にすることだ.

経理をアウトソーシングできるわけ

英語圏では,インターネットを介して,会計士による国境をこえた経理サービスが普及している.
発注者は,北米や欧州の企業で,受注者は,インドやスリランカの会計士である.
スリランカは,人口が2000万人しかいないが,国立コロンボ大学では,経営学部会計学科において4万人の会計士をつくりだす計画だ.国内需要ではなく,外国からの受注を期待している.
もっとも,会計士や税理士は,将来AIにとってかわられる可能性がたかいから,老婆心として心配である.

コストが安いというだけか?

発注者が,インドやスリランカの会計士に依頼するのは,自国の会計士の1/3程度という「安さ」であるといわれている.しかし,それだけが理由であるか疑問である.

企業にとって経理事務が必要な理由は,おおきく分けて二つだろう.
「会社決算」と「納税」である.
「会社決算」は,株式会社ならやらなければならない.いわゆる,株主への情報公開,である.だから,上場企業なら証券取引所に提出義務がある.
「納税」も,ほとんど世界共通の義務である.世界各国の政府で,納税をもとめないのは,「タックスヘイブン」といわれる数カ所の地域だけだ.
金融機関からの融資を受けるにあたって,これらの書類をみせるのも,会社の経営内容がしれるからだ.

ところで,以上の理由には肝心なものが抜けている.
誰のためのものかを基準にすると,株主のため,政府のため,金融機関のためであって,経営者のためが抜けている.

経営者は,株主のための資料である「会社決算書」をみながら経営しているのだろうか?
経営者は,政府に支払う税額は気になるが,「納税書類」をみながら経営しているのだろうか?
これらの書類は,経営者の経営実務に役立つのだろうか?

この際だからはっきりいえば,経営者の経営実務には役に立たない,というのが結論である.
だから、アウトソーシングしているのだともいえる.
自分のためにならない書類をつくるのなら,「安い」にこしたことはない.これが,経営判断だ.

すると,「国際会計基準」や日本の会社法による「企業会計原則」の議論はなにか?という疑問になる.
簡単にいえば,「株主への情報公開」のために必要な基準はなにか?だけである.
だから,会社経営の本質ではない.
会社経営をやったことがない役人や学者(優秀な学者ほど,ビジネス経験はない)が,「株主のため」という名目で,制度をいじくっているにすぎないから,面倒になった企業は上場をやめたがる.

月次「決算」に三週間かかる

さて,残念な企業共通の特徴は,その役に立つはずもない「決算」を経営資料にしていることだ.
きびしくいえば,「ゴミ」をみながらなにかを決めようとする.
「ゴミ」からは「ゴミ」しかうまれない,という原則もわすれている.

「税理士に経理をまかせている」という中小企業経営者はおおい.
すでに,この段階で経営者として問題である.
「税理士」は「会社経理」を業務としていない.「税理士」の本分は,「税額の算出」である.
つまり,経営者なのに,「経理」と「税務」の区別がつかいないということを「独白」しているのだ.

税理士は,きっちり数字をだすのが仕事だから,月次の数値がきまるのに三週間かける.
だから,先月の結果が確定するのは,今月ものこり十日しかないところになる.
これで,今月の対策をたてよ,と部下にいっても,手遅れである.
この「手遅れ」を,あろうことか毎月くり返している.

以上が,残念な企業に共通してみられる事象である.だから,いつまでたっても残念な状態からの脱却ができない.もちろんそれは,決算に三週間かける税理士のせいでもない.

「経理」をアウトソーシングしないわけ

好調な企業の「経理」は,当然だが「税務」とは無縁である.
経営者に適確な経営情報を適確な時期に提供するのが「経理」の存在意義とこころえれば,会社決算とも無縁である.なぜなら,会社決算は公認会計士の仕事だからである.アウトソーシングすると決めている業務を二重におこなうのはムダだからだ.

「経理」はアウトソーシングできない.
自社のオリジナルだからだ.それは,経営者がもとめる情報提供を追求すれば,かならずそうなるからだ.
こういう企業は,月初に幹部会を開催する.先月(つまり昨日まで)の月次と,今月の作戦をきめるのだ.もちろん,重心は今月の作戦にある.結果をどんなに議論しても,売上が増えるわけもなく,経費が減るわけもない.残念な企業は,結果の議論に時間をついやす.今月は残り十日しかないから,材料が豊富な先月の「反省」ばかりして,出席者の時間を浪費する.こうして,なんとなく幹部会が終了するのも共通の特徴だ.

もし,自社が「残念な部類かも」と感じたら,
どうやったら月初に月次幹部会が開催できるだろうか?
をかんがえてほしい.

やればできるものである.

官民あげて,という発想が生産性を低くする

なんでも「国民運動」にしたがる気風

最近はいわなくなったが,ちょっとまえなら,すぐに「国民運動」になった.
なにも,国民体育大会やラジオ体操のことではない.
このところ,「官民あげて」といいかえたらしい.マスコミは,ことばの選択が上手だが,なんのことなはない,いいたいことはおなじである.

「エルサレムのアイヒマン」をあつかった,映画『ハンナ・アーレント』が日本でもヒットしたのは,もう5年もまえになる.NHKの「100分 de 名著」は,観なくても,テキストを買えばよい.昨年9月に『ハンナ・アーレント』がでていて,よくまとまっている.

 
  

このなかで,彼女の主著「全体主義の起源」の解説がよい.
ここで注目すべきは,全体主義とは「運動」である,という.この「運動」は,もちろん政府が旗を振る.国民をまきこんでまきこんで,をやっているうちに,二重三重のおそろしく複雑な組織ができて,だれが責任者だかもわからなくなる.こうして,組織のなかに埋没した人間が,本人の意志をはなれた仕事をするようになる.

そこで,かつての「同盟国」である,ドイツをみると,この国のひとたちも「政府依存」がいまだにすきなのだ.これは,国民性だろう.
「インダストリー4.0」という運動は,モノのインターネット(IoT)を推進するにあたって,世界ではじめて政府が主導しているものだ.これをうらやましがるのが,やはり「政府依存」の日本人である.アメリカ人は,目もくれない.

集団主義とは,他人依存のことである

成長すさまじいかつての日本は,集団主義,を自負していた.個人主義の欧米の低迷こそ,集団主義の有利さの証拠だと信じた.
集団主義で成功したのは,梅棹忠夫先生がいう「あらっぽい工業」でも成立していたからだ.粗雑な製品でも,物不足の時代には売れた.「大量消費大量生産」である.
梅棹先生はこの時代の観光業も,「あらっぽい」と指摘した.それは,あらっぽい工業の成果である大量消費大量生産のたんなる延長線上にあるからだ,と.
新興国から猛追される時代になって,かつての欧米諸国が苦しんだ体験を日本が再び体験しているのに気がつかない.かつての「英国病」もしかり.先行する欧米から学ばなかった,慢心のなせるわざである.その欧米から,「日本病」(痛い日本)といわれてずいぶんたつ.

工業の世界は,とっくに「きめの細かい工業」へと転換している.ところが,文明の終着地でもある観光業の不勉強ははなはだしく,「あらっぽいまま」で生きのこった.その生きのこったすがたが,各地に点在する山賊のような「掠奪産業」としての無残である.

なぜ,観光業でこんなことになったのか?
それは,たんに時代を見誤った,という表面上のことではなく,集団主義における他人依存ではないかと疑っている.

カネにならない仕事とカネになる仕事の区別

「生産性」をかたるとき,「働き方」ばかりに目がいって,「生産物」の話題がない不思議がおきている.

ビジネスは「成果」である.

このひとことから,「成果主義」がうまれ,これが「終身雇用」という労働慣行を破壊した,という.しかし,「終身雇用」は健在だし,「成果主義」とはいっても,その「成果」を評価するしくみがいまだに完成されていないのはどうしたことか?

「終身雇用」が健在というのは,60歳で定年しても,おおくのひとが65歳まで「再雇用」されるからだ.退職金を一度手にするものの,現役時代のほぼ半分の収入で,おなじ仕事をしろという.

政府は,「同一労働同一賃金」をいうが,正社員とそれ以外という雇用形態ばかりに重心があって,「再雇用」が軽視されていないか?
そもそも,「再雇用」が必要なのは,定年退職しても,年金受給年齢との空白ができて,退職金だけでは「ゆたかな老後」なんて実現できないからだ.「ゆたかな老後」が満喫できるのは,元公務員にあたえられた特権になっている.

問題は,「働き方」なのではなく,「働かせ方」なのだ.
「カネになる仕事とカネにならない仕事」の区別ができない経営者のもとでは,おおくの従業員が,カネにならない仕事をさせられている可能性がある.
だから、官民あげて,という「国民運動」のさきには,虚無しかない.
「民」が,自社のなかにある,カネにならない仕事を排除して,カネになる仕事のボリュームをふやすことにエネルギーをかけなければならないのだ.

なんのことはない,企業としてあたりまえのことをすることなのだ.

技術料の範囲

安い食材をつかった料理なのに,高い値段のときがある.
そこで,料理人に,「いい値段だね」というと,「技術料です」と答がかえってくることがある.

「レシピ」に著作権がない理由

料理の本は数々あるが,「レシピ」だけ,だと著作権はないから,「レシピ」以外の文章や写真などに著作権があるのだが,「作り方」にも著作権はない.

有名料理人の名前や顔をパッケージにだして売られている商品は,有名料理人に「出演料」を支払うことになっていて,商品開発にかかわった分は「技術顧問料」になっているだろう.成果物としての,食材「レシピ」と「作り方」は,この「技術顧問料」にふくまれる.

これは,料理人の「書いたもの」を評価するのではなく,料理人の「技術力」を評価することからうまれている.

たとえば,オムレツ.
といた卵を油をひいた熱したフライパンに流し込んで,菜箸などでかきまぜて,ある程度かたまったらへりに寄せ,フライパンを片手でもちあげ,あいているもう一方の手でフライパンの持ち手の端をたたくとまとまって完成する.
というのは,だれだってしっている.でも,できない.
「どうやったらできるの?」と質問されても,たいがいの料理人は笑うだけである.
こたえは簡単.練習するしかない,だ.
それで、「技術料」が発生する.

技術料は料理だけか?

オムレツの例でかんがえてみる.
「といた卵」というのは,もしかしら「漉している卵」かもしれない.
「油」というのは,バターなのか,植物油なのか?バターでも,「溶かしバター」かもしれない.
鉄の「フライパン」がこびりつかないのは,「手入れ」をしているからだ.
これだけでも,「作り方」の前にある作業の裾野がひろがっている.
それに,オムレツを盛り付ける「皿」もひつようだ.
材質に形状,それに絵柄デザインはどういうものを選ぶのか?

オムレツを注文したお客からすれば.
まず,おおくのばあい,シチュエーションは,朝食,だろう.
あなたは,どんな気分で朝食をとりたいとおもうだろうか?
はつらつとした気がみなぎるような朝食.
おもわず笑顔がこぼれるような気になる朝食.
さまざまあろうが,気分が落ち込むような朝食は,かんべんしてほしい.

すると,ひとが朝食にもとめているのは,「いい気分」であることがわかる.
つまり,「いい気分」で「空腹を満たしたい」のであって,「空腹を満たした」から「いい気分」なのではない.

だから,プロとして,お客を「いい気分」にさせるためのものが,「技術」なのである.
そうなると,朝食をとる場所はどうだろう?
薄暗い空間か,陽光がさしこむような空間か?
畳にすわるのか?椅子にすわるのか?
定食式か?ブフェスタイルか?

これは,「コンセプト」である.
どんな「コンセプト」なのか?をかんがえる技術があってはじめて,個別の技術が生きるのだ.

残念な経営にはコンセプトが希薄である

コンセプトはビジネスモデルを決める.
だから,コンセプトが希薄ではっきりしない宿や飲食店は,成功する可能性がひくい.
お客は,コンセプトにお金を払っている.
料理の技術料というのは,コンセプトとの結合なくしては,単なる職人技になってしまうのだ.

一人前になるスピード

世の中「人手不足」である.
しかし,どんな人手が不足しているのかについて,あまり話題になっていない.
じつは,人手も二極化しつつある.
熟練を要しない単純労働者と,熟練の職人もしくは知的な高度な専門家である.
「しつつ」であるから,中間がある.それは,中途半端な熟練,なのだ.

中途半端になる理由も二つある.
会社都合と自己都合である.
残念なことに,会社都合で中途半端な熟練を産み出していることがある.将来も,会社都合での中途半端な熟練は一時的にでもふえる可能性があるとかんがえている.
なぜなら,「中途半端な熟練」とは,自社内でしか通用しない,という意味があるからである.
会社にとっては,使いつづけることができるというメリットがある.自社内でしか通用しないのは,いずれ本人も気がつくときがある.「転職」を希望しても,行き先がなくてできないという現実がやってくる.だから,退職しない.そのうち「転職」をかんがえることすら忘れるだろう.
これを,暗黙のうちに企業が仕掛けているのだ.従業員の囲い込みである.
もちろん,こんな企業が長く存続できるのか?となると微妙だろう.だから、一時的,とした.

会社の犠牲になる人生

なにも過労での自殺者やうつ病発症者だけが被害者ではない.もっとたくさんの「被害者」がいるのだが,本人が被害者だと気づいていないこともあるから,あんがいやっかいな問題である.

本人が気づかないのは,ぬるま湯,という環境もある.自己研鑽しようとなかろうと,なんとなく人生をすごしてしまえる「環境」があれば,とくにがんばる必要もない.中途半端な熟練,は技術系だけでなく,いわゆる事務系や営業系でもおなじである.むしろ,これらの職種のほうが,社内でしか通じないことがおおいだろう.それは,「社内文化」に精通すればするほど顕著になる.

超高齢化という現実から,政府ものがれることはできないから,そう遠くない将来に,定年の位置づけがかわると予想できる.
年金支給年齢を,とにかく先延ばしにしたい政府からすれば,65歳や70歳,はたまた75歳定年制ということもあり得るはなしである.もはや,民間の定年制度と年金支給年齢はセットである.だから,伝統的な日本企業は,かなりの長きにわたって「中途半端な熟練」をかかえこまなくてはならなくなる運命にある.
その準備が,一般社員の定年をとっくにこえて,「安全地帯」にのがれられたと一安心している現在の経営層は,怠らずにできているのだろうか?どうも,そういうふうにはみえない.
これらの伝統的な企業には,「社史」という社内文化まであるから,下手をすると,未来にわたって「社史」において汚名を負わなければならないのだが,そんな歴史観もないかもしれない.まぁ,会社が消滅すれば,「安全地帯」にいたぶん得だということか.

自己防衛という手段

そうなると,たとえ正社員であろうがなかろうが,どうやって「ちゃんとした熟練」になるのか?すなわち,いつでも転職可能な一人前,になるのか?という問題が,すでに年齢をこえて突きつけられているということだ.

若いひとほど敏感で,たとえば,有名調理師学校では,もはや優秀な生徒ほど大手ホテルへの就職を嫌っているという.一人前になるための時間が長すぎる,というのが理由だときいた.
それに気づいた学校側は,外国の「星」があるレストランや,有名料理人との間で提携し,最優秀生を留学させ,将来のオーナー・シェフへの道をバックアップするという.こうした,「実績」が,少子のなかから自校が選ばれるためのブランドとして磨いているのだ.

若者も,調理師学校も,どちらも自己防衛のためにやっている.

ふつうの「サラリーマン」こそ,どう生きのびる?が問われる時代になった.

幻想の「損益分岐点売上」

「損益分岐点売上」というアイデアはすばらしいのだが,実務ではつかえない.
だから,損益分岐点売上から必要売上高をみちびきだす計算をして,それを金科玉条のようにいうひとを信用しない.そのひとは,まったく実務をしらないひとだ.
残念ながら,銀行員など,それなりに勉強したひとにおおい.
公認会計士でも,自著の「管理会計の教科書」におくびもなくかくひとがいるから,注意したい.

絶版になった文庫本で,とある都市銀行の元副頭取が,融資先をきめる会議で「損益分岐点分析」をもって融資すべきといった部下をどやしつけたというエピソードを読んだことがある.この副頭取は,同書で「まったく役に立たないエセ理論」だと決めつけていた,と記憶している.
同感である.だから覚えている.

さて,売上高の変化にたいして動く費用と動かない費用がある.これが「変動費」と「固定費」のちがいだ.変動費の典型は「原材料費」で,固定費の典型は「人件費」である.
客数が増えれば売上も増える.宿泊客は食事をするから,そのために原材料費がかかる.売上と連動しているから「変動費」である.

残業をすると,残業代がかかることをもって「変動する費用」だから,「変動費」とかんがえるのはまちがいである.その残業が,売上高の増加と連動していれば,たしかに「変動費」に区分してよいが,そうでなければ,単に「固定費」の増加である.たとえば,交通機関の事故や遅れで,予約のあるお客の到着が遅れたばあい,その対応のための残業なら,売上に変化はないから固定費の増加になる.

ここで,売上と連動しない「固定費」は,売上がゼロでも発生する費用であることに注目する.
たとえば,ひまな蕎麦屋で,昼どきなのに誰もお客がいなくても従業員はいる.この従業員の雇用形態はなんであっても,そこにいれば人件費は発生する.
損益分岐点売上というのは,収支がトントンになる売上高のことだから,売上がゼロだったときの固定費分をチャラにする売上のことをいう.ところが,売上がたつということは,いくらかの「変動費」もかかるから,その分も考慮しなくてはならない.

そこで,損益分岐点は,つぎの式でもとめることになっている.
固定費/(1-変動費/売上高) ⇒ 変動費/売上高 を,「売上高変動費比率」と呼べば,
固定費/(1-売上高変動費比率) となる.

それで,このくらいの利益がほしいというばあいに,どれだけの売上が必要かをもとめるには.
(固定費+ほしい利益)/(1-売上高変動費比率) でよい.

なんかすごく科学的なような気分になるのが,損益分岐点分析がすたれない原因かも知れない.
これが,エセ科学のこわいところである.
まるでスターリンからフルシチョフ時代のソ連科学アカデミーを彷彿とさせる.アカデミー議長になったルイセンコは,遺伝学の権威,とされた.

社会主義の土地で育てた小麦は,資本主義の土地で育てた小麦よりよく育つ.
これが科学だった.ルイセンコは,メンデルのながれをくむ正統派を追放しまくったから,いまでもロシアの遺伝学は世界水準から30年遅れといわれている.
日本の経営者も,はやく目覚めてほしいものだ.

損益分岐点売上高の問題点は,すべての費用を,「変動費」と「固定費」に区分することを前提としていることだ.これが,実務ではできないのだ.
たとえば,上述の例で,到着が遅れたお客をただ待っているのにかかる人件費は,売上がかわらないから「固定費」としたが,このあいだに,たまたま予約なしのあたらしいお客がやってきたら,その接客にかかわった時間分は,「変動費」にしなければならない.
これをどうやって計上するのか?
客室照明の電気代は変動費だが,ロビーや廊下の電気代は固定費である.
このように,にわかに区分できない費用がやまのように存在している.それは,経費仕訳の段階で,経理部の人間が記帳するから,教科書のように「費目」だけで区分できないのだ,というひとがいる.では,これを現場でやらせれば解決するのか?そもそも,現場にそんな時間があるのか?

おどろくことに,公認会計士の著作でも,細かいことには多少めをつむりましょう,というスタンスなのだ.そして,有名な会計士が書いた本では,「とにかく『変動費』と『固定費』を区分せよ」とくり返す.その「やり方」の説明がないのに「ひたすら区分せよ」なのだ.だからエセ科学と断定できる.
実務では誤差にめをつむるわけにはいかない.それでは計算結果の誤差がおおきくなって,結局はなんの用途にもつかえない数字だけが算出されるからだ.

「損益分岐点」にこだわる「専門家」がいたら,エセだときめつけてかまわないだろう.
ただし,アイデアはすばらしいから,計算はしなくても,おおよその感覚を持つことはあっていい.その感覚があるだけで,エセ専門家を撃退できるからだ.

日本企業の「管理会計」がいまひとつ発展しないのは,ちゃんとした教科書に「エセ」が混じっているからではないかと疑う.
おおくの管理会計の教科書で,ここだけは読まなければよい,という読み方をおすすめしたい.