統計

日本の教育の不思議に,世界標準の欠如がある.
かつて,日本の教育は「世界一」を標榜したことがあった.その背景には,「経済力」といううしろだてがあった.たとえば80年代に,中曽根総理が,アメリカの教育をさげすんだ発言をして,アメリカ人が憤慨したことがある.それで,アメリカの教育界は奮起したというから,なにが幸いするかわからない.
一方で,経済力にかげりがでても,いちど慢心した気分はなかなかかわらず,あいかわらず世界一(のはずだ)だと自慢するのは,かなりずれているといえるだろう.

そのなかで,ちょっとだけ改善されたのが「統計教育」である.
わが国において,統計が中学校や高校のカリキュラムからはずれていたのは30年間にのぼる.これは,OECD加盟国で「唯一」というありさまだったのだ.それが,平成23年度から小学校で,平成24年度から中学校で「必修」になった.これで,OECD加盟国の足並みがそろったことになる.
ところが,その「レベル」が問題だ.
統計教育をしていなかった当時,日本の理系大学の二年生が学んだ内容を,シンガポールでは義務教育の中学校ですませていたのだ.もちろん,いまでもシンガポールでは変更していない.

それで,日本でも中学校レベル設定にしようとしたのだが,「難しすぎる」として,高校に延長した.なんと,日本の高校三年生が,シンガポールの中学生レベルを学んでいるのだ.しかも,いわゆる日本の「一流」大学の入試には「出ない」ことになっているから,高校生でも真剣に学んでいるとはいえない.

「難しすぎる」というのは,教師にとって,ということだから注意がいる.
30年間という空白が,教師という職業人にも「わからない」という状況をつくったのだ.それで,大きな書店の「数学書」コーナーには,「わかりやすい」「やさしい」「初めての」「まんがでわかる」といった「統計解説書」が積まれている.これらは,数学教師向けの本だ.

ところで,「電卓」を小学校や中学校の授業でつかうことをイメージしたことはあるだろうか?
世界の電卓市場は,日本製が独占している,というのも幻想になった.
とくに「教育電卓」という分野において,日本製は存在しないから外国製の独壇場である.その外国はどこかといえば,アメリカなのだ.もちろん,この製品分野も,製造国としては中国やマレーシアなのだが,設計などの知的財産はアメリカがおさえているパターンだ.

その知的財産に,教育メソッドまでがふくまれる.つまり,教育電卓の「メーカー」が所有している.アメリカのメーカーは,電卓をつかった教育メソッドを売っているのだ.そのメソッドを授業で実行するなら,一番適したのは自社の電卓ですよ,という具合だ.これが,小学校から大学まで一貫したメソッドになっている.

そうなると,生徒の吸収レベルを確認するための「テスト」において,電卓持ち込みでなければならなくなる.それで,世界標準では,数学や物理,化学の試験には,電卓持ち込みが「ふつう」のことなのだ.

たとえば,米国テキサスインスツルメンツ(TI)社の教育用電卓「TI84」という機種の機種名の由来は,アメリカの高校生の84%が所有している,という意味だ.残りの16%は,学校からの貸与によるから,授業では100%の生徒がこれをつかっている.
日本でも,一部の高等専門学校で,入学時に購入を義務化しているが,普及しているとはいいがたい.「学会」などの専門家集団が,手計算を奨励していて,教育用電卓の導入に否定的なようだが,その実態は,「能力不足がバレるから」といううわさがもっぱらである.

そもそも,義務教育で統計教育をOECD加盟国すべてがおこなっているのはナゼか?といえば,「データ」分析のための必須知識だからである.パソコンが普及した世間を生きていくためのに,仕事上でも生活上でも,統計センスがないと損をする可能性が高くなる.消費者行動を,企業は統計的に分析するのは当然だからだ.いまはやりの「ビッグデータ」とは,統計処理のことである.

そこで,世界は,「統計の仕組み」を学習させることが目的になっている.日本では,「統計の計算方法」が重視されているので,「重心」がちがう.計算はどうせコンピュータがやる.だから「仕組み」をつうじた「統計のかんがえ方」が重要なのだ,という世界標準には説得力がある.くわえて,ひとり一台のパソコンを用意するには大量の予算が必要だ.だから,電卓を用いるのだ.ところが,日本の学校には,とっくにひとり一台のパソコンがある.これで「統計の仕組み」はスルーして,「プログラミング」が小学校から必修になった.統計は,いまだ手計算であるから,そのゆがみは,唖然とさせるものがある.

統計を一部のひとびとの「専門分野」にしてしまうと,格差はひろがる.支配の論理にもなるからだ.だから,予防のためにも国民に統計を教育するのは,良心的な政府である.

「顧客第一主義」をかかげる企業で,「統計」を利用した経営がどこまでおこなわれているのか?というと,人的サービス業界では,中小のかなりの企業が活用しているとはいえない.

たとえば,旅館で,「お客様アンケート」を統計処理している例をみたことがほとんどない.
もちろん,アンケートの質問作成にあたっても,「統計的知識」を導入して設計している例は少ないだろう.すると,なんのために「アンケート」をとっているのか?という理由そのものが不明となってしまうから,「こんなことを書いてきたお客がいた」程度になって,ほとんど活用されないのが実態だろう.だから,客側も面倒なのでなにも書かないから,経営にヒントをあたえることもない.

しかし,これはお客様のせいではない.活用する意志がない,サービス提供側の問題なのだ.

「データ社会」に暮らしているのに,そのデータの活用方法もしらず,興味もない,というのは,もしかしたら文明人として,かなり危険なことなのではなかろうか?

みえるところしか見ない

残念な企業・組織の特徴のひとつが,みえるところしか見ない,であって,もっとひどくなると,みえるところも見ない振りをする,になる.見て見ぬ振り,ようは,無関心になる.

経営者をまねる

どんな組織も,トップの立ち居ぶるまいがその組織を代表する.
振る舞い,すなわち行動は,そのひとのかんがえ方からにじみ出るから,ごまかすことができない.だから,これを「言動」という.
日本人は組織を優先するように育てられる.とくに学校という組織は,個人に組織秩序を守らせるための訓練の場所にした.これは,成績とはべつの価値観だから,勉強ができなくても組織に従順なら問題児にはならない.だから,「いい子でいる」か「いい子でいる振りをする」ためのストレスが,イジメのエネルギー源かもしれない.

ときに,大企業の経営者も,まるで子供じみたことを命じることがある.
たとえば,「ノー残業デー」や「◯◯曜日は早帰りの日」などと,まったく本質とは関係のない,しかも子どもでも無意味だとわかることを,まじめに命じ,それを部下たちがまじめに実行することがある.
最近では,お国が命じた「プレミアムフライデー」がそれだ.

部下の無関心ほどこわいことはない

今日はやく帰っても,いつもの残業分の仕事は先送りになっただけだから,明日以降で消化しなければならない.だから,もっとも従順な従業員は,早帰りをまもって,翌日は早朝出勤をする.そうしないと,翌日発生するだろう,翌日分の残業が消化できないからだ.

なんでこんなことしているのだ?という疑問をもつことがムダになる.だから,これは,まじめな従業員ほど無関心にさせる訓練になる.すると,従業員の「仕事」は,とたんに「作業」になるから,あたらしいことはしない.あたらしいことほど,達成には面倒なことが増えるからだ.そうして,この組織の基準業務がきまる.

このような組織に,上から「予算」をあたえても,みごとにはじき飛ばされる.できない理由が延々とつづくだろう.それは,トップの姿の写しになるから,いつしか全社でトップの意向は無視される.

それで人事権をふりまわすと

簡単である.恐怖政治になる.恐怖政治でさいしょに犠牲となるのは幹部である.それで,その幹部と同格あるいは同格以下の幹部にも恐怖政治が伝染する.これが「パワハラ」になって顕在化する.すこしだけ利巧なトップは,犠牲に指名した幹部の罪状をあげて,組織で攻撃しようと旗を振る.

ジョージ・オーウェルの古典的小説『1984年』の,支配体制がそのまま現実になることがある.

みえないところを見ようとする努力

組織のトップが,いつも「みえないところを見ようとしている」なら,上記の悲劇は発生しにくい.
このようなトップなら,見た目の残業削減などにめもくれず,業務の見直しそのものを命じるからだ.なぜその業務をやるのか?案外,組織には理由がはっきりしない「業務」が埋まっている.これが,「社内金鉱」である.こうしてみつけたムダな業務を削減すれば,従業員の手間が減る.紙が減る.ゴミが減る.それで,あたらしいことに取り組む余裕がうまれる.

これが習慣化すると,従業員も「みえないところを見ようとする」ようになるから,勝手にビジネスが展開するだろう.

求人倍率

今月1日,今年10月の有効求人倍率が厚労省から発表された.それによると,過去最高だった1974年1月以来43年9ヶ月ぶりの高水準だという.また,正社員の有効求人倍率も,過去最高の1973年11月と並んだという.

1973年(昭和48年)11月とは,感慨深い.第四次中東戦争勃発による,石油ショックの月だし,翌,74年1月になって,だんだんと物価に反映されはじめるからだ.求人のピークがここにあるのもうなずける.

つまり,いま,日本経済は,有効求人倍率でいえば「石油ショック時点」にいる.
当時は,これからはじまる「狂乱物価」にゆれ,街の顔を一新した「スーパーマーケット」から,トイレットペーパーが消えた.企業の倒産があいつぎ,銀座のネオンも消灯され,まさにそれは永久不滅におもわれた「高度成長」を停止させたとだれもが信じた事件だった.

いまはちがう.政府の「経済統計」によれば,アベノミクス効果で景気拡大がひろがっているとはいうが,高度成長期のような実感はほとんどない.むしろ,静かな不安がひろがっている.
都内港区にしぼれば,求人倍率は8倍という数字になっている.あきらかに,職をさがすひとがすくないから,時給で100円や200円ふやしても,応募がないだろう.
つまり,抜本的な対策をたてるしか,ひとの採用ができない状況だ.「抜本的」とは,給与体系の設計からやりなおせば,販売力とのバランスがとれなくなるという意味だ.会社の屋台骨があやうくなっている.

ホテルラッシュは大丈夫か?

「オリンピック」でひとが来る,というのは間違いかも知れない.しかし,都内はホテルの建設があいついでいる.前回とちがうのは,大型案件よりも小ぶりのホテルになっていることだ.ホテル・オークラだけが目立つ大型案件で,あとはビジネスホテルが主体だ.

サービス要員として,ビジネスホテルはフルサービスの高級ホテルよりすくなくすむから,求人で心配ない,とはいえない.ホテルがホテルとして営業するには,清掃要員が絶体にひつようだ.また,シーツやタオルなどの,いわゆるリネン・サプライが,じつはかなり危機的状況にある.配送要員が足らないのである.

「民泊」は成り立つか?

法整備において鳴り物入りだった「民泊」だが,ネットでの予約販売ばかりが話題になって,事業としてのなりわいが曖昧だ.年間180日という営業日規制の実行がどうなるかもあるが,23区内であれば,区ごとに「条例」で規制ができた.事業者は,当然にこれら規制に対応しなければならないが,利用客からは,区がちがうことによるサービスのちがいを理解できるだろうか?たとえば,ゴミ出しのルールである.

これに,清掃とリネン類の交換作業がホテル・旅館同様にくわわるから,どうしても部屋がある程度集中してないと,手間にたいして採算にあわないだろう.であれば,「民泊」ではなくて「旅館」として営業した方が合理的にならないか?

ムダな人員が資産になる

世の中は人手不足なのだが,人手がある企業もある.メガ・バンクが発表した人員整理は,その一例だ.これらのひとびとを,古い手法で手放すのはもったいなくないか?

銀行のもつ情報を利用して,社会的なニーズに合致した事業目的の起業をしてもらうことで,関係者全員がハッピーになる方法を模索すべきである.そうした起業にたいする融資こそ,銀行の社会的本業であろう.なにも,自行の元行員にたいするお手盛り融資をしろといいたいのではない.すると,かならずあとにつづく地銀などでも,同様の地元ニーズへの起業があっていい.

優良な貸出先がないというなら,自行の行員をもって優良な事業をつくれといいたいのだ.

このご時世に,もし,ひとがいる,という企業があれば,これまでにない挑戦ができるだろう.

店じまい

「事業承継」が社会問題になっている.
企業は,「ゴーイングコンサーン(継続性の原則)」といわれ,基本的には,「永久」に存続しえるものだ.法的にひとと認める「法人」は,ほんとうの人間(自然人)である「個人」とはちがって,努力すれば「寿命」はつきない.ところが,日本の中小企業は,「後継者不足」という問題につきあたった.

企業30年寿命説はあやしい

企業や製品のライフサイクルを「30年」とする説が流布されて久しいが,わたしはこれを疑っている.
典型的な「例外」は,だれでも識っている「コカ・コーラ」だ.販売されたのは,1887年だから,日本では明治20年のことである.以来,この製品と,この製品をつくる会社の成長は,いちどもとまらず今日にいたっている.もちろん,いまも成長をつづけている.おもな地域はアフリカ大陸になった.
そこで,企業30年説では,面倒な説明をせず,コカ・コーラを「例外」としてあつかうのだ.

世界最古の事業会社は,日本の「金剛組」である.西暦578年,聖徳太子による大阪・四天王寺建立からはじまる.そして,創業数百年という現存企業の数で,日本は世界を圧倒している.
だから,企業30年説は,もっともらしいが穴だらけだ.

資本主義がはじまったのと時代があわない

経済史という範囲ではなく,人類史という範囲に拡大しても,資本主義がはじまったのはつい最近の18世紀のことである.よくある説明のまちがいに,「産業革命」を「資本主義のはじまり」とするものだ.そうではなく,「資本主義がはじまった」から「産業革命」が起きたのである.
発祥地の英国でも,いまにつづく古い会社はある.たとえば,ロンドン中心部の不動産を所有しているのは,ウエストミンスター公爵が所有する管理会社グロブナー社だ.昨年,公爵の急死で,その相続(一兆円をはるかに超える)が話題になった.「家」としては16世紀にさかのぼることができる.

資本主義があまりにも「新しい」ため,「ちょっと古い会社」は,その多くが資本主義発生前からつづいている.

重要なのは「信用」である

「資本主義」の前提には,「自由主義」がある.ここでいう「自由」とは,「自由放任」という意味ではない.「他人から命令されない」という意味だ.つまり,「自分で決める」という「自由」であるから注意がいる.とくに,わが国の言論空間では,「資本主義=自由放任=強欲」という図式が「一般的」になっているが,上述のような欧米の認識とかなりかけはなれている.

たとえば,旧ソ連・東欧社会主義圏では,とくに政治犯に対しての刑罰に,「自由剥奪刑」というものがあった.ここでの「自由」とは,人間がもつ生物としての欲望にかんする「自由」のことだ.すなわち,食欲・排泄欲,睡眠欲,運動・行動欲など,ふつうに生きていれば,本人の「自由」にまかせられるものが,自由でなくなるという「刑罰」である.詳しくは,ノーベル文学賞をとった,ソルジェニーツィンの『収容所群島』をみればよい.

「自由」とは,守備範囲がひろい言葉であるから,たいへんな注意でよみとく努力がいる.
これは,「freedom」と「liberty」の違いがはっきりしている言語をもつひとびとと,このふたつを合体させて「自由」としたことでの認識の差だろう.

さて,資本主義以前からつづく会社だからといって,社内風土に「自由がない」と決めつけることはできない.最近,「ブラック企業」として認定される会社のおおくが,資本主義時代の創業である.だから,資本主義に適応できているか,そうでないかは,企業の古さではなく,経営者のかんがえできまる.これを,「信用」と言いかえることもできる.

だから,事業承継の肝は,信用の承継なのだ.

創業者ひと世代で終わるのか,それともどうするのか?この判断には,自社の「ありかた」という哲学が必要だ.せっかく創業して,そこそこ利益もあげているから,閉じるのはもったいない,というのではなく,どういうすがたが理想なのか?というはなしだ.

企業規模を大きくしたい,とか,自社の特殊技術をもっと広めたい,とか,そのイメージはさまざまだろう.

一方で,取引先はどうだろう?

日本の職人が丹精込めてつくった商品が,世界の職人に愛用されているすがたを,作り手の職人にみせる,という番組がある.「道具」をあつかうこのシリーズは大人気のようだが,不思議な共通点がある.
それは,紹介される職人のおおくが,自分が手がけた商品の行き先にこれまで「興味がなく」,その道具が,その道のプロに使われている場面を「みたことがない」,というのだ.
これは,にわかに信じがたいことだ.プロ仕様の道具をつくる名人たちが,どうやってプロが望む遣い勝手をしっているのか?世界の職人が絶賛するのも,「遣い勝手のよさ」という「品質」である.それで,「これからも末永く,この道具を作りつづけてください」とお願いされる.この道何十年の職人の目頭が熱くなるクライマックス場面だ.

すると,この番組で紹介されることがない,とてつもなくたくさんの工場では,今日も商品の行き先や,使っているすがたをみたことがない,ということになる.

自社が「店じまい」すると,一体どうなるか?をほとんどのひとが認識していないのだ.
どこかの区切りで,この番組のような「旅」をして,自社の位置づけを「利用者目線」から確認することは,きわめて重要なことである.

旅行社による,ツアーの開発があっていい.これを,「パーソナル産業ツアー」と呼びたい.

旅館業でも,店じまいしたらどうなるかをかんがえることは,ふだんをどうする?に直結することだ.だから,店じまいについてかんがえることは,生き残ることに通じる.

量り売りの復活

量り売りの「格安」の焼酎がある.全国4,000カ所で販売しているというから,利用者もおおいだろう.
焼酎は大きく三種類,甲類と乙類,混和に分類できる.例によって,この分類も「酒税法」による.
甲類は「連続式蒸留法」という工業的な方式で,伝統製法の「単式蒸留法」が乙類になる.混和は,文字どおり甲類と乙類のブレンドである.それぞれに特徴があるが,「安い」のは甲類と混和で,「本格焼酎」である乙類は有名銘柄になると高級ウイスキー同様の値段がつく.
ここでいう「格安」とは,乙類なのに,という意味だ.

原材料が麦なら麦焼酎,芋なら芋焼酎なのはあたりまえだが,それぞれを保管する容器にこだわると味がかわる.この「格安」焼酎は,麦はオーク樽に,芋は焼き物の瓶にはいっている.だから,麦はほのかに木の色がついて黄色く,樽の香りがする.芋は,陶器のもつ遠赤外線効果なのだろうか,たいへんマイルドである.つまり,おもった以上に高品質なのだ.

メーカーのHPをみたら,「格安」の理由は,この樽と瓶だった.ふつうに販売されているように,一本ずつボトルに詰める必要がないからラベルの印刷も手間もかからない.それで「格安」になるという.そして,消費者は専用ボトルを初回に購入する必要があるが,そう高価なものではない.逆にいえば,余分なコストを,品質に投じることができる.

旅館の飲み物提供のかたち

たいがいの不振の宿は,夕食でお客にいかに酒類を飲ませるかで汲汲としている.土地や料理との相性を無視して,それ飲め,とばかりに注文をとりにくる.こうした宿ほど,メニューにある銘柄にも工夫がない.仕入れの酒屋が売りたい銘柄だから、都会のよくある居酒屋とかわらない.
そうかとおもうと,県外の有名銘柄・高級酒ばかりが目立つところもある.さも,この県には「なにもない」と言いたいようだが,そうではあるまい.残念ながら,いろんな理由で従業員教育ができないので,くわしいお客に質問されたら面倒だからだ.そうやって,くわしいお客をリピートさせないことをする.

ある宿で,お酒が大好き,というパートさんがいた.そこで,社長に相談して,このパートさんを口説いて,利き酒士の資格を取得してもらった.もちろん,時給アップも条件だ.それで,仕入れの品定めもやってもらうと,みるみるうちに夕食のレベルがあがった.調理場が反応して,酒に負けない料理を工夫したからだ.
意図しない,うれしい「化学反応」がおきることがある.しばらくすると,他のパートさんもうずうずしだす.好きな分野で責任をもったら,以前とはくらべものにならないほど楽しそうに仕事をするパートさんの変化に,周辺が刺激をうけるからだ.

この宿は,パートさんの指導によって,食事処の目立つ場所に県内酒蔵のとっておきをならべた.県外では,よほどでなければ入手困難という品ぞろえである.当初,この品ぞろえにかかわる投資に腰が引けたのは社長だった.売れなくて「酢」になったらどうする?というわけだ.

「乾杯用のおすすめ」とか,「○○にピッタリ」とかいう手書きのポップも用意して,迎えた初日は,大盛況だった.
ここにしかない,の達成である.

今後は,樽や瓶が並んだ中から選ぶという「楽しさ」が,商品になるかも知れない.

職人の出前

だれでも「出前」をとった経験はあるが,「デリバリー」になったら有料になった.さいきんでは,デリバリー・ピザの店に出向いて購入すると,「もう一枚『無料』」になるから,配達にするとピザ一枚分が有料ということがわかった.かんがえてみれば,お客が店に出向いて食事サービスをうけるのと,自宅に料理を運んでもらうのと,料金が「同じ」というのは変だ.

とはいえ,出前をむかしからしていたお店が,急に有料にしようとしても,なかなかお客様の理解が得られない,として躊躇するのもわかる.それで,お客がお店にそんな負担をさせていたら,こんどは人手不足で「出前ができない」ことになった.

もう少しすると,出前は追加料金がかかるサービスにかわるだろう.そうでなければ,自分からお店に出向くしかなくなるはずだ.これは,新聞にも,牛乳にもいえる.すると,デリバリー・サービス会社として,ヤクルトがみんな配達してくれる時代がくるかもしれない.

まるでちがう職人の出前

モノのデリバリー・サービスが「出前」だが,これがひっくり返ってヒトのデリバリー・サービスがある.寿司や蕎麦などの職人を自宅によんで,自宅にて作ってもらうサービスである.「無店舗」という業態だ.ちゃんとした店舗を用意する必要がないから,運搬のための自動車と運べる道具類を用意すればよい.おそろしく小資本で開業できるメリットがある.

モノのデリバリーなら,お客は「運ぶだけ」とかんがえがちであるから,「無料」ということに疑問がなかった.しかし,専門の技術をもつヒトが来るとなると,移動時間も有料だとかんがえる余地がある.だから、交通費という請求科目もたちやすい.

ちゃんとした職人でも,家庭によってことなるキッチンをつかっての本格料理提供にはノウハウが必要になる.盛り付けも,できればその家の食器をつかいたい.事前の情報交換にもノウハウがいるだろう.

利用客の立場からは,一度よい印象をもつと,かなりの確率でリピートするという.事前の情報交換も楽になるから,というのが建前で,本音はいろんなひとにキッチンに入って欲しくない,という心理だという.だから,ジャンル別に専門家がいる.

気になる料金だが,高級店並み,が相場だ.飲み物は自宅の冷蔵庫からだし,アルコールがはいれば,タクシー代も運転代行代もかからない.だから,トータルでは「かなりお得」なのだ.

その職人は何者か?

「職人の出前」では,現在のところ,案外ベテランばかりである.ちゃんとした料理人になるには時間がかかるからだ.

しかし,今後はおそらくちがった様相になるだろう.いま,調理師学校では,即効で「一人前」にするためのカリキュラム開発が急速に進んでいる.ラーメンと寿司に関しては,「速成」を強みとした専門学校が盛況で,仕入れやマネジメントまで,後方支援のアフターサービスもついている.

有名調理師学校は,提携先にパリのレストランや有名料理人の店があり,ここに留学させて修行するプログラムもある.もちろん語学教育にも力がはいる.そのコンセプトは「実用」である.「二十代で『星』を獲得する」のは,もはや夢や幻ではなく現実の世界なのだ.

すると,将来,「無店舗ミシュラン」という分野が生まれるかも知れない.

和食は大丈夫か?

2013年に「ユネスコ無形文化遺産」にえらばれて「和食」は,あたかも世界に飛び出したようだが,現実はどうだろう?和食界の重鎮は,「このままでは文字どおり『遺産』になってしまう」と危機感をあらわにしている.「伝統」がいつのまにか「因習」になってしまう例は,世の中にあふれている.

「速成」が正しい価値観ではないにせよ,それでも「速成」できないとあきらめるなら,時間を惜しむ日本人の若者は,和食界を敬遠して西洋料理の「速成」により魅力を感じるかも知れない.

つまり,料理界はすでに「速成」という競争に突入している.これが人材確保のキーワードになるだろう.さて,日本旅館はこれにどう向き合うのだろうか?

自分たちの料理人を,食のアドバイザーとして帯同して旅をする時代がくるかもしれない.

たまごかけごはん

地方の宿にいくと,「こんな田舎だからなにもない」というのが,どうやら全国共通の感覚らしい.しかも,かなり「本気」なのだ.

列島改造論に冒されている

日本経済の高度成長は,1973年の第一次石油ショックでおわったという「定説」があるが,かつて経済企画庁の『文豪』といわれ,いま日銀の政策委員である原田泰氏はその著書で,月次統計データをつかって否定している.第四次中東戦争がきっかけで発せられたのが,アラブ産油国の「石油戦略」である.この戦争は1973年10月のできごとだ.じっさい,わが国経済だけでなく世界に大激震をあたえたが,その「効果」は翌年,1974年の1月になって統計データにも顕著になる.ところが,原田氏は,日本経済は1973年の「6月」に中折れしているとデータで示した.

そして,これは,田中角栄内閣の「地方バラマキ」による不経済が原因と分析している.原田氏は,もし中東戦争が起きなかったら,田中内閣の明確な経済政策の失敗が糾弾されていたろう,と主張している.明治の文明開化からはじまる富国強兵のための工業化は,地方の農村が人材供給源だった.戦後も同様で,「集団就職」のそれは「金の卵」ともてはやされた.

井沢八郎の『あゝ上野駅』が発売されたのは1964年,ステレオ版が1976年にでている.

田中角栄は,幹事長を辞任した後,1968年に党の都市政策調査会長として「都市政策大綱」を,佐藤派から分離独立した1972年に『日本列島改造論』を発表している.

地方からやってきた金の卵たちが産み出した「カネ」を,「なにもない」地方へ還元して,せめて地方の県庁所在地は「東京のように」しよう,という発想だ.これは「票」になる.だから,いまも,批判のおおい公共事業のかわりに「ふるさと納税」で継続している.

「ない」のではなく「ある」を探す

これは,(なにもない)「地方はかわいそうだ」という感情をよんだ.まるでアメリカ人のアイルランドへの郷愁のようだ.

その地方に「ある」もの,といえば,「自然」だというのも,全国共通のようだ.かつて国鉄時代に,「ディスカバー・ジャパン」と銘打って,さまざまな「旅」がもてはやされた.「『愛国』発『幸福』行き切符」が大ブームになったのは,1973年だ.

それが,JRになったら,ピカピカのガラス張りコンクリートの駅が増殖した.日本建築学会は,いまだに「ポスト・モダン」追求がとまらないらしい.地方の駅前で,記念写真を撮る気が失せてひさしい.京都駅の「無残」も典型例だろう.その京都で,フォー・シーズンズ・ホテルが採用した「竹垣」は,伝統的技術の結晶でもある.外国資本が,日本の伝統を守ってくれた.ここは絶好の撮影スポットだ.

整備された田んぼや畑をみて,「自然がいっぱい」というセリフを発する旅番組のナンセンスはさておき,なぜか放置された「耕作放棄地」を「自然がいっぱい」とはいわない.完全に人力によって設計・管理されている「日本庭園」が,「自然」だとおもうのが日本人なのだ.

だから,棚田や千枚田をみると,たまらなく美しいと感じる.その「労力」を想像するだに感動し,ときには涙をながす.

たまごかけごはんが象徴するモノ

どのように育てられた鶏が産んだのか?どのように育てられた米なのか?どのように育てられた醤油なのか?

たまごかけごはんには,その土地のストーリーがつまっている.だから,わたしは,地方の「なにもない」という宿を指導するときは,朝食にたまごかけごはんをすすめている.

たまごかけごはんには,当然,なまたまごが必要だ.それで,案外,「保健所からの指導で当館では生卵の提供はしておりません」と,張り紙する宿泊施設はおおい.まちの牛丼チェーンにはかならず生卵の提供があるから,じぶんたちは生卵の管理ができません,と言っているにひとしい.管理ができていない状態だから,保健所から指導されているのに,その理由すらわからない,ということだ.

すると,ほかの食材の管理もおざなりのはずだ,とみることができる.これも,たまごかけごはんをすすめる理由になっている.

ひとの先行指標は学校

景気判断には「先行指標」と「遅行指標」がつかわれる.ずいぶんまえから有名な「先行指標」は,「エチレンの生産高」だ.石油からつくられるエチレンは,すべてのプラスチック類の原料である.現代生活にプラスチックは欠かせない.その原料の生産高がふえるのは,なにも勝手に工場がつくっているからではなく,「発注」があるからだ.最終製品の工場に部品在庫がなくなれば,当然に部品メーカーに発注する.その部品メーカーの在庫がなくなれば,さらにその先のメーカーに発注する,という連鎖で,最終的な発注はエチレン工場になる.「売れる」という「予測」があるから「発注」するのだから,エチレンの増産は,その後すべてのプラスチック類が増産になることを示し,それらが「売れる」を前提としているから景気の「先行指標」となる.「売れない」が前提になれば,エチレンの発注が減るから生産も減る.

「遅行指標」というのは,景気の上昇や下降がおきているときの念押しをする指標である.これには,「ホテルの宴会需要」がつかわれる.景気がよくなって自社の利益がかなりいい感じになると,ホテルで宴会をしたくなる.逆に,景気の潮目が変わると,先に予約したホテルの宴会をキャンセルしたくなる.だから,いつでもホテルの「実績」は景気の反応として遅れてやってくる,それで景気の状態の念押しができるのだ.もっといえば,ホテルの宴会ビジネスの本質は,経済の「フロー」によってきまるということだ.

20歳を基準にかんがえる

高校卒業生と大学卒業生の中間にあたる20歳を目安にすれば,人材に関してだいたいの傾向がつかめる.

ひとの先行指標として,もっとも早いのは,「出生数」である.わが国の出生数は,昨年「初めて」100万人を下回った98万1千人だった.だから,いまから19年後,今年1歳になった子たちは全員が20歳になる.つまり,19年後ぐらいの就職者の上限が決まるという意味での先行指標である.

これを,小学校,中学校,高校,大学と順にすればよい.小学校5年生が10歳なので,10年後に20歳になる.中学3年生なら5年後に20歳.高校2年生で3年後.大学1年なら,ほとんどジャストである.

人数だけではないが

すでに「少子化」しているから,「化」をとってもさしつかえないのではないかとおもう.まずは,地元就労圏内の学校における,上述の人数がどうなっているのか?を調べることからはじめたい.おそらく,全国どのエリアでも,おどろくほど数がいないことがわかるだろう.そう,まずは「おどろく」ことが重要なのだ.正しい現状認識が,すべての「企画」や「計画」の出発点になるからだ.

この「数字」は,子どもの数である.将来の労働力の「供給量」がわかる.すると,事業者側の「需要」はどうなのか?どのくらい「足らない」のかという問題になる.

誰にもコントロールできない「経済原則」がある.それは,「『需要』と『供給』によって価格が決まる」という原則だ.旺盛な需要に対して供給が極端にすくなければ,その「商品価格」は確実に「上昇」する.

労働者の「労働」も「商品」である.ふつう,労働の「質」によって「価格」がかわる.高学歴=高収入に見えたのも,労働の「質」が評価されていたからだ.しかし,圧倒的に供給量がなくなれば,まずは「数の確保」が優先される.そのうえで,「質」が問われるようになるだろうから,どちらにしても「賃金」は上昇することになる.

大学が倒産するという「先行指標」の陰で

このところ「大学」の話題が豊富だ.文科省の許認可権限の大きさが問題にならず,政治家との関係の方が重視されている.それでも,倒産する大学はこんご増加するのは確実である.

まだおおくの「親」が気づいていないが,高学歴=高収入という単純式の時代はおわった.「職人」という高収入の道があるのだ.これには,プログラマーも含まれるだろう.

2012年から,中学校の技術家庭科で,「プログラムによる計測・制御」が必修になっているし,数学において「統計」が全面実施されているのをご存じだろうか?その1年前,2011年から,小学校の算数で「統計」が教育されている.また,高校では2013年から「統計」教育がはじまった.わが国で,「統計」を教えるのは,なんと30年ぶりなのだ.

だから,先生もしらない.これで生徒たちは大丈夫なのか?とおもうが,この子たちはそろそろ20歳の「お年頃」になる.

プログラミングと統計をかじった人材が,あなたの会社にも入社してくる.

旅館の売店

「買いたい物がない」,といわれて世の中から退場を余儀なくされたのは,かつての流通革命の王者ダイエーだった.まったく買いたい物がない状態でも,なぜかいまでも存在しているのが,旅館の売店である.

商品の半分は委託販売品

デパートの衰退は,インターネットの発達によるEC(eコマース:ネット通販)の普及が原因といわれている.たしかに,これは決定打になるだろう.デパート(百貨店)というのは,中央集権的な商売だった.物がない時代,デパートという物理的なビル内の床に用意した数々の商品が,「よいもの」のほとんどすべてだった.だから,バイヤーの目利きがデパートのみえない商品だった.

豊かになるというのは,物がふえてくる,ということだから,床面積という物理的制約があるデパートには商品があふれかえるようになる.フォローしきれないものは,専門店にあった.しかし,物はそれでも増えつづけるから,コンピュータがない時代,手書きの伝票での商品管理は限界に達したのではないか.そこで,かんがえついたのが,「床面積を売る」という方法だった.

消費者には,デパートの店員か,床面積を買った側の店員かの区別がつかない.これで当面は,デパートはデパートでいることができた.

デパート全盛時代の旅館は,大型化して,お客をいかに自家から外にださないか,という囲い込み作戦が主流だった.その遺産が「売店」である.

もちろん,いまでも,旅館経営者は流通業が主体ではないとおもっている.サービス業とか接客業と定義しているにちがいない.だから,売店は,その延長での営業だという認識だし,どこにでも売っている商品揃えも,囲い込み作戦がベースだから,なんの疑問もないだろう.駅前の土産物屋にもあるけれど,どうせ買うならどうぞ当館でご購入くださいということだ.

ところが,物がない時代からの変化はデパートとおなじにやってきた.品揃えはふえるばかりだが,商品管理手法が古典的なままなので,「日持ちする物」が主体となる.そうやっているうちに,「リスクは避けるモノ」という刷りこみがはいって,リスクのある直接仕入れを避け,委託販売品が半分をこえた.

商品管理をしなくてよいという甘え

委託販売品とは,富山の置き薬のようなもので,売れた分だけ手数料を得られるしくみだ.定期的にやってくる「会社のひと」が,商品数をチェックして,手数料の計算までしてくれる.そして,売れた分を補充してくれるのだ.つまり,在庫管理と売上管理をしてくれるから,旅館側がやることは「店番」になる.

しかし,よくかんがえると,自社で直接仕入れの商品もある.こちらは,売り上げ管理も在庫管理も自分でやらなければならない.それで,売店の係(たいていはフロント係が兼務する)は,商品の「半分」である直接仕入れ分だけをチェックしている.つまり,委託販売品は「丸投げ」なのだ.おどろいたことに,委託販売品は「万引き」されても,自社には関係ない,という認識の旅館があったことだ.

委託販売の手数料計算は,まず「売上高」を確定する.なにが何個いくらで売れた,という計算だ.それから掛け率をかけて算出する.「売れた分」とは,商品の定数からなくなった分のことである.富山の置き薬とおなじだ.だから、万引きされた分も売れた分になる.ある旅館はここだけを注視して,関係ないと豪語した.万引きされようが,手数料がはいってくることだけが頭にある.しかし,いったん売上高の金額を引き渡さなくてならない.万引きされた分の売上高は,旅館が負担しているのだ.そこから,手数料がもらえるから,被害がすこしだけ減っただけだ.こんなことにも気がつかないのは,かなりの強欲発想だ.お客様の顔が一万円札にみえる精神病理だろう.

POSも導入していない

なんのことはない.売店で販売している商品管理は,全品,ちゃんと管理しなければならない.あたりまえのはなしなのだ.しかし,上述のような旅館は意外とおおく存在する.こうした宿ほど,売店の会計はフロントだったり,売店内でも「レジスター」のままだったりする.

直接仕入れと委託品を分けてレジスターを打つこともしないなら,どんぶり勘定のどんぶりにも失礼だ.ザルでもない.ザルの輪っかである.すくっているつもり,ほとんど宴会芸状態だ.

POS(販売時点管理)ができるレジスターを「POSレジ」という.日本では,40年ほどの歴史がある.最大貢献は,コンビニであることは誰でもしっている.あえていえば,コンビニの歴史はPOSレジの歴史なのだ.この誰でもしっているPOSレジを,いまだに導入しない旅館の売店は,それを観ただけで(経営の)「程度」がわかってしまう.

こんな旅館ほど,人手不足にさいなまれている.本業ではないと認識している程度の売店事業で,手作業による在庫管理をするしかなく,手作業による売り上げ管理をしているのだ.いったい,この手作業をするひとは,何時間かけているのか?そのひとの年収から換算すると,気絶しそうになるだろう.人件費が問題なのではない.ムダな仕事にかける「時間数」が,かくれた人手不足の原因である.

補助金に目がくらんではいけない

政府は,今年度の大型補正予算を組んでおり,そのなかに「ものづくり補助金」として1000億円を計上するという.「ものづくり補助金」とは,『ものづくり・商業・サービス経営力向上支援事業』というのがただしいので,なにも製造業だけが対象ではない.

本末転倒の闇

「補助金ビジネス」という商売がある.国(政府)や地方自治体という名の(地方政府:外国ではこちらがふつうのいい方)は,みごとに「縦割り組織」になっているし,縄張りからはずれる「組織間の連携」ということは,役人のタブーである.だから,となりの部署がどんな「補助金」を扱っているかは,その部署に訊かなければわからない.そこで,全役所の縦系と横系を網羅した「情報力」をもって,クライアントである企業の補助金受け取り額を増額させるというものだ.そして,成功報酬として,その幾分かを手数料として受け取る.もちろん,対象補助金からの直接受け取りではない.

このビジネスで有名なひとと,はなしをしたことがある.かれはいたってまじめな紳士で,だからこそ「情報」を「力」に変えることができたのだろう.そのひとが言うには,なにが困るかといえば,とにかく補助金をほしがる経営者がいる,ということだった.「とにかく」である.

自社事業とかかわりが薄い内容でも,「とにかく」いかにして受け取ることができるか?に興味があって,「とにかく」金額が大きいモノを好む傾向があるという.しかし,補助金にはたいてい「報告」とかいう紐がついていて,ながければ数年間,その「効果」を役所の当該窓口にレポートしなければならない.そこで,このビジネスには,「報告書作成」というサービスも付随する.ところが,無理して受け取った場合,書きようがなくて困る,というのだった.

無理して受け取るのは,意外にもさほど困難なことではないことがある.それは,役人の絶体基準「予算消化」という甘い罠である.これは,いま,商工中金の不正融資問題として顕在化した.本来の貸付先としては好ましくない企業にも,「不正に貸し付けた」のは,まさに「予算消化」のためだったことがあきらかになった.

もちろん,報告書が「書けない」ことは,はじめから予想できるから,このひとは,「お断り」する事例になるという.そのこころは,そんな補助金は,企業経営に資さないから,というまっとうな理由もふくまれている.

中毒化の事例

「補助金」を受け取るからある投資が安くすむ,とかんがえるのはふつうだろう.しかし,本当だろうか?かんがえる順番によって,こたえが変わることがある.それは,算数のつぎの式のようなものだ.

1+2×3=7 おなじ式のなかに掛算や割算がある場合

(1+2)×3=9 おなじ式の中に「( )」がある場合

例1:たとえば,旅館のロビー照明を変えたいとかんがえたとき.そもそも,「変えたい」理由があるはずだ.器具が古くさくなったとか,薄暗いとか,あるいは玄関の改修計画とデザインの統一性をもたせたいとかして「くつろぎの空間」にしたいとしよう.すると,どういった方法が,もっとも「変えたい」とかんがえたことのこたえとして合理的かが決定基準になる.

例2:ところが,なにもかんがえていなかったけど,「旅館のパブリック・スペースにおけるLED照明化にあたっての補助金」というものがあって,いまならほとんど「先着順」状態で受け取れる,という情報を入手したとしよう.すると,さっそく取引先の電気屋さんに連絡して,「見積書」を依頼するだろう.でてきた「見積書」の金額が,補助金の限度額に比べて余裕があるとわかれば,廊下部分の「見積書」を追加するだろう.こうして,「安く」高価なLED照明が設置できて,電気使用量も削減できたから,本当に万々歳!となるのだろうか?

例1の場合,全面的なLED照明の導入が「最善の解決策」になるのか?という問題がある.時期にもよるが,少し前なら,LED照明の「光」の質(波長)が,ひとの目には優しくなかった.紫外線寄りの冷たくするどい光が,LED照明の特徴だったから,ロビー照明としては「くつろぎの空間」をつくりにくいという難点があった.だから,一部スポット的にLED照明を導入したとしても,それは全体デザインとしての必然であって,補助金目的ではないことは十分ありえることになる.すると,補助金受け取りの手続きと,その後の「効果」をレポートする必要は,かなり薄くなってしまう.

例2の場合,「照明だけ」を交換することになるから,つけてみてやたらと明るいことに気がつく.そして,さまざまな汚れや老朽化箇所がめだつようになって,どうしようかと困ることがある.さらに,お客様には「まぶしい光」(白内障患者には不快な光)なので,落ち着かず,ロビーから人影がなくなることもある.廊下も不自然に明るくなるので,床の汚れまでも浮き上がって見えてしまう.すると,あろうことかロビーからではなく,その旅館の利用客が減ってしまうこともあるのだ.

かんがえる順番をまちがえると,とんでもないことになる事例だ.

さらに,補助金を優先させると,投資のタイミングがずれることもある.やりたい投資に補助金がつかないなら,先延ばしにして,補助金がつくまで待ってしまうのだ.こうして,経営資源としてお金ではけっして入手できない「時間」という意味の,適正な時期,を失うこともある.

ダイヤモンドならぬ,補助金に目がくらんでしまっては,取り返しのつかなくなることもある.くれぐれも,ご注意を.