原題は「CONCLAVE」である。
直近のリアルな出来事と重なって、興行的にもヒットしている映画だ。
監督は、95回アカデミー賞受賞の名作、『西部戦線異状なし』のエドワード・ベルガー。
なお、本作も97回アカデミー賞で、「脚色賞」を受賞しているが、「それだけ」というのも意味深だ。
「コンクラーベ」という発音が、「根比べ」と似ているし、100人以上の枢機卿が投票をして、3分の2以上の得票を得るまで続く。
これが、一日一回の投票規定だから、決まらないとほんとうに「根比べ」になるのである。
過去にバチカンのスキャンダルを扱った映画では、わたしのしるかぎり『バチカンの嵐』(1982年)と、『ゴッドファーザーPART3』(1990年)がある。
バチカンという大権威に「超批判的」な作品でも、一般上映されることに意義があるし、そこに描かれるスキャンダルのドロドロを、「(絶対)神」とはちがう人間の性としてかんがえれば、きれい事な世界なんてないことのリアルな発見がある。
残念ながら、わが国の宗教界ではこのような作品どころか、(学術)研究もない。
たとえば、天台宗の大本山、比叡山延暦寺が信長に焼き討ちされた阿鼻叫喚は伝わっても、そこでなにが日常だったのか?についてのリアルな詳細を表現するのはいまでもタブーであろう。
なぜに、寺院に多数の「女・子供」がいて、殺戮の阿鼻叫喚となったのか?は、「ご想像どおりです」というおとなの対応でとどまるのがわが国の文化ではある。
こんな悲惨は、ツヴァイクの『人類の星の時間』にある、「トルコによるビザンチンの奪取」つまり、コンスタンチノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)時の阿鼻叫喚と双肩をなすのではないか?とおもわれるが、ツヴァイクのような一流が書いても、日本ではだれも書かない。
また、江戸初期に、「東叡山」として、上野山に寛永寺ができたころ、本物の「比叡山」との確執も、一般人が詳しくしることはできないし、研究もないと井上章一氏が書いている。
なにせ、江戸の寛永寺の管長に「天台座主」がなるほどであったから、この時期の比叡山はどういう存在であったのか?についての宗門内部組織の事情はしるよしもない。
そうやってかんがえると、この映画が表現する「実態」がどこまで本当なのか?とは別に、なかなかにこれでも「オープン」なのである。
むしろ、本物たちの実態は、「こんなものではない」、まさに「事実は小説よりも奇なり」を想像させる。
もちろん、非公開が徹底している「コンクラーベ」であるために、具体的にどんな方法で選挙投票が実施されているかは外部者にはだれにもわからない。
これは、わが国の「大嘗祭」における、「秘事」として、いったいどんなことが行われているのか?は、いまだに一般人のしることではないのと似ている。
さいきんでは、「十字架の形態で寝る」という説もあって、なかなかにキリスト教的な解釈もある。
これはこれで、洋の東西はちがっても、「人間」のやることやかんがえることがおなじという、普遍性にも行き着くので興味深いが、神代から続くというわが国と、ローマ教会が組織されてからという時間差をかんがえると、あんがい日本の「景教(キリスト教ネストリウス派)」の影響というはなしもある。
だが、わが国には、「仏教」なるものが伝来したことになっている。
その「大乗仏教」が、シャカ=仏陀が悟った「仏教」なのか?という、根本的な疑問があるのでなんとも厄介だが、人間が「仏」になるのに億年単位とえらく時間がかかっても、ついには「なれる」と説く仏教とちがって、キリスト教は絶対に人間は神にはなれないところに、キリスト教の本質を教えてくれる映画だと解釈すれば、納得できるものである。
つまり、人類は、共通思想を持つことはできないのである。
さて、本作にある「確信否定」は、相対主義のことだ。
このことが、本作でのできごとを「輪転」させて、観る者の解釈を混乱させ始末におえなくしている「仕掛け」だし、作者は、ニーチェの『アンチクリスト』を意識しているといえる。
すると、ヨーロッパの文化的基礎であったキリスト教の実態(=基盤崩壊状態)こそ、深刻な現状の大本であることがわかるし、信仰深いトランプ政権2.0の時代に、アメリカ人から新教皇が選ばれた現実界の「コンクラーベ」の意味深さがわかるというものだ。
枢機卿たちをしてネイティブな「言葉」で、グループが形成され、もはやバチカン内部でさえ「共通だったはずのラテン語」がない指摘が、「悪役の声」であることに注意がいる。
しかるにこれすら、相対主義のなかにあるのである。
シスター役がイングリッド・バーグマンの娘、イザベラ・ロッセリーニだったことが妙に安心だったが、『不滅の恋 ベートーベン』(1994年)からの時間を経て、ずいぶんとぽっちゃりしてきたのが意外であった。
それにしても、教皇になりたい、なりたくない、という論争は、一種、「使い捨て」という意味であるから、『ルイ14世の死』(2016年)における医師団のセリフ、「次はうまくやろう」が耳に響いた。
この映画の主役が、名優、ジャン=ピエール・レオである。
それで現実の新教皇、「レオ14世」とは、なにかの偶然か?