ブラジルの言論統制

ブラジル最高裁判事が、8月30日に「X(旧Twitter)」の即時禁止を命じて、大騒ぎになっている。

X社主の、イーロン・マスク氏は、早速反発の記事を自ら載せたが、すでにブラジルでは閲覧も投稿もできなくなっているという。

これに、左翼メディアは、ブラジル世論の賛成・反対の拮抗がある、などということを書き立てていて、あたかも裁判官にとっても苦渋の選択のように見せているのは、まさに、言論統制のための援護射撃だといえよう。

逆に、アメリカ大統領候補のカマラ・ハリスが、この裁判官に賛成表明している(「言論統制」すべきと積極的)ことをぜんぜん報じないのである。
彼女は、言論の自由を「特権」と定義している。
だから、「特権」は剥奪されるべきもので、「平等」にしないといけない、と。

しかしこれで、困ったのは、「BRICs」の結束である。

いまや、「G7」よりもはるかに大きな経済規模になっているし、さまざまな国が、加盟申請をしていることに水を差しているからだ。

そもそもが、「BRICs」とは、経済アナリストが、たまたま新興国の中でも注目の成長力を誇示している国として単純にリストアップしたに過ぎなかったのが、どういうわけか「連盟」のような組織化がされ、事務局までつくられるようになった「悪ノリ」ともいえる。

それは、改めて国名を見ればわかる。
ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカである。

ようは、地理的にも文化的にも歴史的にも、どこにも共通性がないのだ。
むしろ、バラバラである。

トランプ氏が負けたように、ブラジルの大統領選挙でも不可解なことが起きて、右派の現職が追放され、左派の元大統領が返り咲き、いよいよブラジルは「社会主義国」になった。
これは、中国にとっては喜ばしいのかもしれないが、その他の3カ国にとってはどうなのか?

ただし、習氏は毛沢東を信奉するナショナリストで、鄧小平やらのグローバリストとは一線を画していた。
今年の、「北戴河」でなにがあったのかしらないが、グローバリストたちに追いつめられたという「噂」がある。

わが国の「逆神」マスコミがこの「噂」を躍起になって否定しているから、いよいよ怪しいのである。

それで、ナショナリストのプーチン氏は、中国についての「はないちもんめ」をはじめて、「本音」をさぐる行動(国家副主席と会談し、10月に中露首脳会談をする)をしているし、「BRICsの結束強化」も行っているのだろう。

なお、露・中の国境における巨大な緩衝地帯、モンゴルは、ロシア支持を打ち出している。

そのプーチン氏は先日、初めて公に「カマラ・ハリス支持」を明言した。

その理由は、政策決定行動が予測しやすいことでのロシアにとっての都合の良さ、を強調したのである。
トランプ氏は、予測不可能というリスクがあるのだ、と。

これは、アメリカ国民には逆にうつる。

カマラ・ハリス政権では、ロシアの手のひらの上で踊らされるに等しい。
なんのことはない、言葉とは裏腹に、プーチン氏は気心がしれたトランプ氏の再選を望んでいるのだ。

しかし、ブラジルの方は、まさにカマラ・ハリス政権の誕生を心待ちにしているにちがいないし、それはグローバリストに主導権が移った?中国もおなじだろう。

すると、いよいよBRICsの分裂が始まるのか?

なにせ、言論統制をはじめたのはEUもしかりだからである。
もちろん、EUも足元では崩壊の萌芽がはじまっていて、加盟各国の内政では、ナショナリズムが台頭している。

これに、左傾化(グローバリズム)に歯止めが効かなくなっているのが、労働党政権になったばかりの英国なのだ。
労働党は、当然にブラジルでの言論統制を支持している。

英国の没落は、もはや決定的なのである。

すると、自由を求めて日系人を中心に、ブラジル人たちがわが国を目指して大挙してやってくる可能性があり、日本政府もこぞって言論統制をやる可能性が高まるのである。

せっかくはるばる自由の国、日本来てこれ(言論統制)かよ!と、わが国で熱い暴動が発生するのも、間も無くのことになってきた、と妄想するのであった。

「メチル」を飲んでいた時代

わが家は、「酒呑み=呑兵衛」の家系ゆえ、遠い親戚には酒屋もあったという。

むかしの酒屋は、造り酒屋ではない販売店でも「量り売り」が基本だったから、自分で入れ物(一升瓶やヒモの付いた陶器の瓶)を持って買いに行った。
冬の名物だった屋台の「夜鳴きラーメン」でも、住宅街なら鍋をもっていって買っているひとはふつうだった。

瓶の口まであふれんばかりのギリギリまでいれるか、肩のあたりでやめるか?を、買い手はジッと観察していて、そそぎ手が「ケチい」と顧客にはならなかったのは、いまの居酒屋で皿にこぼすまでコップ酒を注いでくれる店が繁盛するのとおなじだ。

しかし、容量がわかっている瓶ならまだしも、居酒屋のコップの大きさはよくわからないので、皿にこぼしてくれるのを無条件で歓ぶのはいかがなものか?と思うのも呑兵衛ゆえの細かさである。

とはいえ、コップの代わりにビーカーが出てきたら、理科の実験のようで興ざめだ。
どこかの店では、大きなメスシリンダーにはいった酒が、「デカンタ売り」だったけど。

父は海軍だったので、終戦時には、戦闘機の高度計をはずして、そこにある「純粋アルコール」を、アンプルを呑むようにヤスリでこすってパチッと割って、一気に口に入れ、すぐさま水を流し込んだという。

これがまだ安全だったのは、「エチル・アルコール」だったからで、陸軍に大量在庫があった、燃料用「メチル・アルコール」とは別物である。

高校の化学の授業で、「メチル」と「エチル」の違いは、「メチルは目が散る」とだけ習ったのをいまだに記憶しており、その化学式でのちがいはすっかり忘れている。
そこで念のため化学式は、
メチル・アルコール:CH₃OH エチル・アルコール:C₂H₆O となっている。

どちらにも「C:炭素」がある。
やっぱり、「脱炭素」とは、笑止なのだ。

とにかく、メチル・アルコールを人間が飲むと、中毒症状がでて、嘔吐や腹痛ぐらいならまだしも、失明したり死亡までする毒物だ。

陸軍の「メチル・アルコール」の在庫とは、正確にいうと「燃料用メチル」に、飲用の焼酎を混ぜたものである。
コロナ禍の最中の消毒用アルコール不足で、焼酎も不足したのは、焼酎メーカーが消毒用アルコール(エチル)に生産シフトしたのが原因だった。

しかして、陸軍では、これを飲用すると危険なので、液体を赤く染めたり独特の匂いをつけてあくまでも「燃料用」としていたのである。
もちろん、石油からつくる「メチル」が貴重だから、焼酎を混ぜたのだった。

しかして、会田雄次が『アーロン収容所』で書いた、陸軍司令部のなかにいた「主計」たちの無計画(とにかくなんでも「備蓄」する習性)で、おおくの兵隊の体力がムダに失われ、結果的に戦闘以外で「戦死」してしまったことの責任を糾弾している。

たとえば、「軍靴」のことで、えらく長い行軍(典型的なのは「インパール作戦」)が作戦計画にあるのに、靴の支給がぜんぜんなく裸足どうぜんで熱帯のジャングルを歩かされて衰弱したとか。

日露戦争で、ロシア軍のマシンガンの餌食なった日本兵の肉弾戦は有名だが、じつは日露戦争の戦死者のうち、半分以上が「脚気」に罹患して亡くなっていた。
このことよりも悲惨な、「組織犯罪」が南方戦線での「主計」による目的合理性を欠く「管理」であったことは、いまの世の中でも通じる組織運営上の問題なのである。

なぜなら、会田雄次は、終戦後、主計たちがため込んでいた軍靴からなにから(米や缶詰などの食糧も)の大量在庫に唖然とし、しかもこれを現地でヤミ販売し私腹を肥やしていたのである。

まさに、ソ連が崩壊したときの共産党幹部が、失ったはずの「職権」で国家資産たる物資を私物化したのとまったくおなじ構造なのである。
ただし、こんなことは世界中でおこなわれた。
たとえば、問題作となった映画、『バチカンの嵐』(1982年)がある。

そんなわけで、敗戦後の日本の混乱期、これらの「飲用ではないアルコール」が、大量に闇市に流れ(だれかが陸軍の在庫を私物化した)て、呑兵衛だけでなくすさんだ精神のひとたちの気付け剤として「愛飲」されて、大量の失明者と死者を出す始末であった。

しかも、どうやったかはしらないが、「赤色」を抜き、「臭み」をとって売っていたという。これを、「ばくだん」と呼んでいた。

戦後の焼酎が、「飲用」としてでたのは、「カストリ」を嚆矢とするが、これはこれで劣悪であったから、「ばくだん」と「カストリ」のイメージ効果で、焼酎が日本におけるアルコール飲料の主流になるには、1979年に新発売された『いいちこ』まで待たねばならなかったのである。

わたしには、エジプトから帰国し、就職した1986年になって、同期の仲間と呑んだ『いいちこ』が人生初の焼酎であったからその記憶も味も鮮烈に覚えている。

焼酎って、こんなにうまかったのか?と。

父はもっぱらウイスキー派だったけど、『いいちこ』を呑ませたときは、やはり衝撃があったようだ。

まさか?と。

「ばくだん」と「カストリ」が擦り込まれていたようだから、なかなか口にしなかったときの最初のひと言である。

さて、昨年の「米の作況指数は101」だから、「平年並み」だったのに、なぜか「天候不順」ということになっていてスーパーの棚から米が消えたが、どこかでだれかが、「主計」の習性を発揮して、無意味に貯め込んでいるか、貯め込ますように仕向けているとしかかんがえられない。

それで、「新米」の価格は倍になっている。

メチルならぬ、カリフォルニア米を買わされるなら、それはそれで、なるほど、なのである。

TI-Nspire CX CAS の教科書

本稿のタイトルは、いわゆる「教育用グラフ電卓」のメーカー名(TI:テキサスインスツルメンツ)と組み合わせた機種名のことだが、機種の方は初代より数倍も処理能力が強化された「CXⅡ」がすでに発売されている。

なお、最後に表記されている「CAS」とは、「数式通り:Computer algebra system」のタイプを示すので、正確には「CAS機能がない」タイプと2種類が販売されている。
アメリカの各種資格試験に持ち込めるのは、『CAS機能がない機種に限定」となっているので念のため。

わが国を除く先進国では、数学や理科(物理、化学)の授業では、「CAS機能付き」の方が使用されているふつうがある。

このブログでは、ずいぶん前から我が国で「教育用電卓」の普及が一向にされないことをボヤキながら書いてきた。
どうやら、「予算」が少なくすむことが、利権化した教育関係者には「うまみ」がないかららしい。

それで、より高額なパソコンやタブレットを子供に使わせることをやっている。

もう一つの理由は、日本の数学や理科の教師に、「電卓」が妙に不人気なのである。
これは、生徒に不人気なのではないことに注意したい。
じっさいに、「高専」では積極的に利用・運用されている。

どうやら、数学と理科の教師は、こうした道具を授業に用いる方法を知らないらしいし、例の強制をともなっている「学習指導要領」から外れることを、公務員の業務管理の立場から制限されてもいるらしい。

むかしは「私学」なら自由だったが、いまや「私学助成金」と引き換えに「自由を放棄」させられてしまったのである。

ではなぜに、わが国以外の先進国は、こうした道具を授業に採用しているのか?と問えば、生徒の理解を促すために尽きる。
面倒な計算を紙と鉛筆で延々とするのはやめて、それは機械にやらせ、人間は「論理」をしっかり習得すべきだという思想からである。

こないだ書いたように、数学は決して理系ではなく、「論理学」に含まれるからである。

ようは、日本の場合、関係者のおとなたちの都合で、生徒たちの都合ではない。
生徒の成績が伸びないで悪いままでも、それはその生徒のせいで、教師の教え方のせいではないと発想するから授業の品質を改善する気がない、

さて、わたしの手元には初代の、TI-Nspire CX CAS がある。

この恐ろしくなんでもできる「グラフ電卓」は、じつは、ハンドヘルド・コンピュータであるので、ほぼほぼ厄介な計算ならなんでもこなす。
この「なんでもできる」が、操作法の複雑になって、どうやって使うのか途方に暮れるのである。

しかし、輸入総代店の社長にして数学者の中澤房紀氏が、『社会とつながる統計』を出版された。
こないだ頂戴したので、これをみながら機械をいじっていると、だんだん慣れてきた。

ネット上に、「使い方」の膨大なPDF(414枚)が、一関高等専門学校名誉教授の梅野善雄先生によって出されている。
この両者を見ながらの、「独習」をやってみたのである。

なお、梅野先生には、『いつでも・どこでも・スマホで数学!』が出版されていて、これはアンドロイドで動く「Maxima」という計算アプリの使い方を解説したものだ。
おそらく、高専の学生に、手軽に利用するようご指導なさったにちがいない。

統計といえば、「エクセル」を使うものや、もっと汎用的になるとパソコンのオープンソフト『R』が有名で、それぞれに多数の教科書もある。
しかし、中学校を卒業して入学する「高専」では、TIのこの機種一択なのだ。

それは、統計だけなく守備範囲の広さ(数学、物理、化学など)にある。

大人のための「やり直し」がついた教科書は「英語」なら多数ある中で、TI電卓と組み合わせて数学を学ぶものはたいへん少ない。

もちろん、メーカーのテキサスインスツルメンツやアメリカの大学教授(有名なのはMITの「名物教授」だったGilbert Strang:2023年に退官)の教科書は、当然にアメリカ人向(多くは高校生対象)けに出しているが、なぜか邦訳が少ないばかりかえらく高額なのである。

アメリカのこの手の教科書(理科系)がどれも、やたらに「大部冊(ページ数があってぶ厚い)」なのは、説明を省略しない、という「わかりやすさの工夫」に特徴があるからだ。
さらに重要なポイントが、「何のため?」にするかを丁寧に記述してあって、勉強のゴールを示してくれる。

だから、ぶ厚くなるけど、これを学ぶと何になるかがわかるから、読者の興味をつなぐのである。

この点で、逆に日本人研究者の教科書の多くは、えらくつまらないし、退屈だから、読破することが困難なものばかりとなっている「怪」がある。
読者の為に書いていないか、自分でもわからないのだろう。
そのつまらなさが、妙な「お作法」となっているのである。

おそらく、これからの子供は、たとえば「線形代数」を用いたデータ・サイエンスとかを使いこなせないと「まずい」状況になるのだろうけど、それに親が気づいていない可能性があり、その責任はまた、安穏と生きている祖父の世代にある。

確かにいまさら、還暦を過ぎて3万円超え(iPadアプリなら4,500円)の電卓を買って、さらに教科書を揃えて勉強したところでどうするのか?という疑問はあるけれど、ボケ防止とかという後ろ向きでもなく、なにも知らないまま朽ちていくのがなんだか癪なのである。

この意味で、生徒にTI電卓を持たせて教えていた、貴重な先生方には、是非とも「大人のやり直し」をTI電卓を使う解説書としてシリーズ化して欲しいのである。

その教科書を用いたネット動画での授業型式もあったら、絶対に観たいものである。

いかさまな観光地をつくる

「ガッカリ観光地ランキング」というものがある。

自然風景や歴史的建造物も含まれるが、圧倒的なのは、「いかさま=偽物」でできた人工的観光地の存在である。

世界的に有名なのは、シンガポールにある「マーライオン」であろうか。

どれほどのガッカリかを確認するためにじっさいに観に行って、「なるほど」としっかりガッカリして帰ってきたものだ。

ガッカリを確認するための「観光」というものもある。
観光の本質が、「体験」とか「体感」だからだ。
なので、阿呆がつくった「バーチャル観光」が無意味となるのは、バーチャル体験とかバーチャル体感では、人間は満足しないからである。

こんなことがわからないはずもないのに、「やる」のは政府からの補助金がでるからで、それ欲しさの卑しさも無意識に「体感」するのが人間というものなのである。

かつて、わが国が「アジアの盟主」といわれたのは、アジアで独立している国が、日本とサウジアラビア、それにタイぐらいしかなかったために、アジアで最初に工業化に成功したわが国が、気がつけばあたかも「アジア代表」のようになったからだった。

しかもそのやり方が、典型的「開発独裁」だったから、世界で最も成功した社会主義国といわれたのだった。

しかし、自民党を中心とした既存政党ぜんぶの悪政から、一世代以上にわたる経済の衰退(政府が経済に介入して起きる典型的な「政府の失敗」)が止まらず、あろうことかとっくに独裁国家のシンガポールに抜かれたばかりか、一人当たりGDPで2倍半も差が開いてしまっていまさら縮まる要素が見当たらない。

つまり、わが国のエリートは、シンガポールのリー・クアンユー一家にかなわない愚かさだということが、世界常識になっているのだ。

そのまたひとつの例が、「インバウンド」という外国人観光客が落とすカネに目がくらんで、あいも変わらず計算能力のない人たちが、「観光立国」なる幻想を追いかけているけれども、「産業規模」としてみたら、とうてい工業にかなわないのが実態である。

そんなダメダメの業界だから、徹底的に行政に依存する。

行政は行政で、目先は議会のチェックという一応の形式がある。
だから、「いかに責任を逃れるのか?」という問題と課題が混然とした、みうらじゅん著『やりにげ』状態をつくりだすことに専念するのである。

この書が醸し出す「昭和の香り」とは、無責任の匂いのことなのだ。

全国の地方行政ばかりか国家も、なんでも「マンガチックな着ぐるみ」を創設して、その「子供だまし」の無責任をみごとに「ゆるキャラ」と表現した「みうらじゅん」の天才が光る。

横浜には、1959年の皇太子ご成婚を記念して、「こどもの国」という、国家から資金も出た大公園があって、東急が運行する「こどもの国線(3.4㎞)」に乗っていくのが定番だった。

わが家からは、東神奈川を経由して横浜線で向かったから、やたら遠く感じたのもまた異空間に行く感じで盛り上がったものだ。
当時の横浜線は、1時間に2本しか走っていなかった。

この100ヘクタールもある敷地は、かつての陸軍から米軍に接収された弾薬庫で、タイミング的に「うまいこと」返還されたのだった。

さてそれで、いかさまな観光地である。

わが国には、たくさんの「いかさまな観光地」があるけれど、なかでも悪質なのは、あたかも「本物を装う」のだが、その実なかみは「オリジナルの由来とは縁もゆかりもない」ことにある。

たとえば、「大阪城」もしかりで、神奈川県でいえば、「小田原城」もそれにあたる。
鉄筋コンクリート造りで、見た目は城でも建築的な価値もない。

沖縄なら、「首里城」になるから、なんだか「城」が多いようだが、ほかにもたくさんある。
全焼した首里城は、例によって「再建」されるというが、どんなふうに再建されるのか?
なお、この場所が「世界遺産」なのは、建物ではなくて「城址」だけなのである。

では、その「城址」をどうやって解説・説明するのかについて、恐ろしいほどに無頓着なのだ。
これは、沖縄だけのことではなくて、全国のいかさまな観光地の共通なのである。

「予算がない」からケチって工夫するのは、いかさまな観光地をつくることに適用してはならない。
観光地にしたいなら、本物を後世に伝えないと価値がないからである。

すると、そこには伝統的工芸の技術の発露がひつようになる。
まさに、伊勢神宮の「式年遷宮」のような、技術と技能の「総力」が求められるのである。

しかして、観る側の知識欲が薄れたら、それもまた「いかさまな観光地」をつくる誘惑に変わる。

インバウンドが欲しいといいつつ、最上客たる富裕層が、いかさまな観光地を観る来るとかんがえるのがどうかしているのである。

いかさまな観光地で満足する愚民(たとえば「インスタ映え」さえすればなんでもいい)ばかりをあいてにするうちに、予算をたてる側がもっと愚民になっているのだった。

米軍の縮小と無敵の日本

ウクライナでの戦闘で、まだウクライナ軍が有利だとかいっている日本人インフルエンサーが存在している。

当初から、ロシアとウクライナ双方の軍事(いまどきなら当然に「総合的国力」)をぜんぜん分析していないことの、愚かな話によくも大勢の人たちが付き合っているものだと呆れる。
しかし、一方で、元自衛隊将官クラスのOBたちも、三軍(陸・海・空)揃って、やっぱり似たようなことをもっともらしく垂れ流していた。

背景にどんな事情があるのだろうか?と疑うのは、「まとも」なご高齢のお一人と、陸将補だったお方の二人がしっかりとした分析を申し述べておられるからである。
まぁ、退官後の時間が経って真にしがらみのない方と、管理者として鍛えられた方の二人だと思えば納得も行くが、それにしても(情けない)、なのである。

基本は「三軍」といっても、アメリカ軍には、海兵隊と宇宙軍があるし、正確には沿岸警備隊を加えて「六軍」あることになっている。
とはいえ、歴史的に軍隊の筆頭が「陸軍」なのは、地上戦の結果が決め手になることに、いまも昔も変わりがないからである。

すると、どうしても「国力」には、経済力と人口が評価の対象になって、とくに人口は、動員できる「兵の数」を決める基準となる。

たとえば、かつて「アラブの盟主」を自負し、周りもこれを認めていたのはエジプトだが、それはアラブ諸国で最大の「人口=陸軍」を抱えていたからである。
しかし、そのエジプトの経済が破壊されて、かつてのような見る影もないのは、40年で3倍に増えた人口(1億1千万人以上)を食わせる経済力を失ったからである。

ウクライナとロシアでは、圧倒的にこれら両方ともに差がありすぎて、当初からロシアに勝てっこないのがウクライナなのである。
それを、あたかも最新装備だからとかなんとかいって、ウクライナ有利と論を張ったのは、軍事専門家としても、経済専門家としても大恥になったのである。

圧倒的な国力の差が、太平洋戦争(わが国の法的に正式には「大東亜戦争」)での、アメリカに勝てっこない「無謀な戦争」、という戦後に定着した評価をウクライナにはなぜかあてはめないのも、ダブルスタンダードではないか?

とはいえ、もちろん、わが国に「勝機」はあった。

第一に、開戦しないことだった。
それで、しつこく戦争を仕掛けるアメリ政府の策謀をアメリカの国民にしっかり説明しながら、わが方は「忍の一字」を貫くことで、世界にアピールする時間が必要だったのである。

この点で、戦前の外務省・在米日本大使館は、「宣伝」が下手すぎた。
また、アメリカ政府への「宣戦布告文書」の提出が遅れ「だまし討ち」と評価された野村吉三郎駐米大使とは、近衛文麿が海軍大将から抜擢した軍人の特命全権大使だったのである。

ここにも、日本海軍の怪しさがあって、東京裁判でひとりも被告となっていない。

第二に、『ファウスト』でいう、「メフィストフェレス」にあたる、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)のヒトラーと、ファシスト党のムッソリーニ(極左すぎて社会党左派を除名され、グラムシの共産党からも無視された)と、手切れをすることだった。

しかし、すでにエリートで固めた日本の外務省・軍(とくに海軍)は、「目先の損得勘定」にだけの興味しかなかったのである。
むしろ、近衛文麿のごとき共産主義者が、「ソ連化」を進めるために、国家破壊活動としての「負け戦」を画策していた。

さて。少なくとも、最新のハイテク兵器であればあるほど、使いこなすための訓練が必要で、素人の兵がすぐさま使えるようにはならないのは常識である。
これは、戦車も戦闘機も、ドローンとて同様だ。

ただし、日本兵の武装は「三八銃」という、日露戦争で使用された「超・旧式」だった。
この理由は、「実績と信頼」だけで、三菱ジェットが失敗したり、日本のロケットが超・高価な理由として、いまどきありえない旧式部品をムリクリ調達させる、「お役所仕事」の成果なのである。

ソ連時代、少ないメモリーでも楽しめるテレビゲーム、『テトリス』が世界的ヒットしたのは、真空管技術で世界一だった東芝が倒産の危機に見舞われたのとはちがう、プログラミング時代のはじまりだった。

酷寒に住まうロシア人は、なにせ我慢強くて工夫する、あたかもかつての日本人のようなのである。

しかも、稀代の戦略家にして歴史家・法律家である、プーチン氏が仕切っている。

わたしには、荒巻義雄原作の戦記シミュレーション小説、『紺碧の艦隊』『旭日の艦隊』における「指導者」を彷彿とさせるのである。

一方、アメリカはその経済繁栄のために、「兵員不足」が深刻化している。
軍よりも稼げる仕事が民間にあるからだ。

さらにバイデン政権のアフガン撤退に見せたムダに、軍人家系の家(エリート士官の家だけでなく下士官も)も息子を兵に出すのに腰が引ける状況をつくっただけでなく、軍内に最新の「虹色政策」を導入して、ヘンテコなジェンダー兵団になってしまった。

もはや、「定員」に対しての兵員募集がぜんぜん間に合わない状況に陥っている。

それでもって、やたら「カネ」がかかる、ハイテク兵器の開発ばかりやっていて、たとえば「世界最強」のはずのエイブラムス戦車をウクライナに提供し、現場投入したがいまどきのドローンやらにぜんぜん歯がたたないので、とうとう現場からはずしてしまったのである。

なにせ、実践での動くカタログとしての意味で、販売不振になるのをこれ見よがしに世界に見せた阿呆ぶりなのである。

兵員数でかなわず、最新兵器が役に立たない、アメリカの戦争屋とEU=NATOの「想定外」で、もうどうにもならない状態を(第三)世界が観ているのである。

さてそれで、そんな弱体化したアメリカ軍に、全面依存しているままの状態で、なにもかんがえずに生きているのがすでに「無敵」化した日本人だ。

これから、食料もなくなって、食うや食わずになるように政府によって仕向けられていることにも気づかない家畜たちは、後がない状態のヤケのヤンパチでの「無敵」になる可能性が高い。

どうせなにもしなくとも、最期は死ぬしかない人生なのだと、やっと気づくからである。
それで、生きた証としての「名誉」という価値に気づけば、それはそれで「無敵」である。

一方で、かつてのアウシュビッツのように、政府による屠殺場にきっちり列を乱さず並んで殺されるひとたちと、反抗して戦闘的なひとたちに分裂するのはまちがいない。

そうかんがえると、夏休みが終わった子供たちが不憫でならないのである。

お寒い金融リテラシー教育

国民のためにならないことばかりをやって、国民から乖離した日本政府が推進しているのが、「NISA(少額投資非課税制度)」だ。

「預金(貯金)から投資へ」という合い言葉を宣伝している。

郵便「貯金」は、小泉・竹中政権で、外国に売り渡されたので、いまさら「郵政民営化」が国民の生活に役立ったのかどうなのか?をかんがえると、巨大詐欺にあった気分になる。
同時に、「簡保(簡易保険)」も、外国の保険会社になった(売却された)も同然だ。

しかし、騙されたともなんとも思わないで、お気楽な生活をしているのが日本人なのである。
「おおらか」といえばきこえはいいが、損得勘定もできない阿呆にされたのも事実だろう。

いまはしらないけれど、むかしは「自衛官の教育」に、「金利」がなかった。

わが家から近い横須賀にいけば、街中に独特の看板が目についたものだった。
それが、「自衛官専門」とかとある、「高利貸し」のものだった。
ふつうの街なら、「電話金融」とかの看板であるだろうが、横須賀は圧倒的に「自衛官専門」だったのである。

それで、破産してしまう「自衛官」が絶えなかった。

このことは、裏返せば、小・中・高の学校教育における「金利教育」がないことも意味するから、なにも自衛官が特別ではなくて、「電話金融」だって、社会問題になった「サラ金」の被害もおなじなのである。

この点、学校の先生(教諭)も、たいがい新卒の就職先として、いきなり教師になるので、案外どころではない世間知らず状態なのである。
だから、複利計算を複利計算の事例でなく、無機質な「等比級数」として教えるから、子供にはピンとこないままで卒業させることになる。

それがまた、この教師とおなじ、世間をしらない大人の拡大生産になっている。

たとえば、借金の仕方として、「住宅ローン」もさることながら、早い時期に取得するだろうものに「自動車運転免許」があって、免許を取れば自動車を買いたくなるのは人情だ。

すると、現金一括払いができる若者は少ないだろうから、なんらかの「ローン」を選択しないといけないが、このところよく見かける、高級ワンボックスカーとかだと、「残価設定ローン」なる金利支払い負担が圧倒的に重いものが人気だというから驚きなのである。

似たようなものに、クレジットカードの「リボ払い」なる借金地獄がある。

親の手厚い保護(むかしは「過保護」といった)のもとで、のほんと育った若者たちが、抵抗なくこれらの「借り方」を選択するというから、他人事ながら気の毒になる。

手元にスマホがあっても、関数電卓アプリを有料(数百円)で買うのを惜しんで、数万とか数十万とかの金利負担をさせられても、そもそも計算方法すらしらないという原始人状態になっている。

そんなわけで、邪悪な日本政府は、各地の教育委員会なる邪悪な組織をつかって、高校生を相手に「金融リテラシー教育」と称して、外部の専門家(ほとんどが「証券会社」から派遣)の講師が、「株式やら債券やらの投資」についての授業をやらせている。

おおくの場合、生徒に「投資ゲーム」をやらせて、あと数年でおとなになったら自己投資してもらえるように、証券会社に口座をつくる方法までも伝授している。

一方で、中学レベルの数学で解決する、ローン計算をよしんば教えているとしても、その担当教師は、「家庭科」なのである。

少なくとも、義務教育の範囲が、「社会で生きるための基礎教育」だとしたら、いまさらながらに「金融リテラシー」なる用語を使わずとも、世間にあるローンの仕組みを教えて損はない。

いやいや、そんなことを教えたら、「業界」が損をするために、献金を得る政治家が教えさせることを拒むだろうと役人が忖度してやらせないのだという構造になっていないか?と疑うのだ。

単純に高利を貪るのは禁止されたけど、複雑化させてあたかも「お得」に見せかけるのは、一歩も二歩も詐欺に近い。

大人向けとも言えないが、生活のための一般電卓や関数電卓を使いながら学べるドリル(事例問題集)があったらいいのにと思うのである。

CNNのカマラ・ハリスインタビュー

8月29日、CNNは、カマラ・ハリスとウォルツ両氏へのインタビューを放送したことが「話題」になっている。

この「話題」には、ふたつの意味がある。
・大統領・副大統領候補として「初の」インタビュー(ただし「録画」)であること
・なにを語ったのか?という中身についての評価

世界の大手マスコミは、「7月の政変(「党内無血クーデター」ともいわれる)」それまでの、なにがあっても「バイデン再選」だったのが突如ひっくり返っての「バイデン撤退」から、手のひら返しをして、「カマラ推し」一辺倒になった。

もちろん、その代表は、BBCを筆頭にしたプロパガンダ機関である。

2020年大統領選挙では、あまりの偏向ぶりにアメリカ人が嫌忌して、解約があいつぎ倒産寸前にまで追い込まれたのがCNNであったが、懲りずにまだ「民主党推し」をやっている。
これは、経営者だけの問題ではなく、株主の構成が「民主党推し」だからだ。

いまさらだが、「株主・資本主義」とは、企業支配のための方便であって、「企業の社会的責任」を放棄するための手段なのである。
この意味で、相互に経営を監視できた日本の「株式持ち合い制」は、株主の暴走を許さなかった「うまい制度」だが、これも日本政府は破壊している。

さてそれで、トランプ&ヴァンス氏の方は、何度も「生放送」のインタビューに応じていて、その時間数もおおむね1時間から2時間なのに対して、今回の「初」が30分あまりとなったのは、カマラ選挙キャンペーン事務局からの「カット要請」に応じたためという「話題」も添加されている。

ついでに、このインタビューアーの女性は、前回、ヴァンス氏への単独インタビューも担当していて、それはもう厳しい質問攻めであったのである。
しかし、ヴァンス氏がこれらの質問に丁寧にしっかりこたえることで対応し、「お見事!」とかえって評判をあげることになってCNNには予期せぬ結果(付随的結果)になった。

そのおなじ人物が、今回はえらくソフトな質問であったのも、「話題」になっている。
ただし、それなりの質問はしていて、これに正面から回答しないカマラ・ハリスとウォルツ氏の中身のなさも「話題」になっている。

この中身のなさも、あまりにも定番の質問(たとえば、「大統領就任初日になにをするか?」)に対してほとんど無回答だったから、インタビューアーにとっても番組ディレクターにとっても、付随的結果になったのである。

アメリカでは、この手の「大物インタビュー」の後には、たいがいが、スタジオに集まった評論家やらによる「第二部」としての評価番組がセットになっている。
そこで、CNNらしからぬ、「こりゃあダメだ」が飛び出したのも、「話題」になっているのである。

もちろん、CNNの番組だから、左翼=民主党支持者たちの「専門家」が集められる。
なのに事後感想が、「こりゃあダメだ」になったのは、返答内容がいまのバイデン政権副大統領としての発言とまったく矛盾(現政権の政策と真逆を述べた)しているからであった。

もちろん、中身のなさも「こりゃあダメだ」の一部をなしている。

しかして、左翼さんたちを失望させたのは、「極左切り捨て」とも「中間層へのアピール・シフト」ともいわれており、「選挙だから主張を変える(平気でウソをつく)」彼女の人格にも、「カメレオン」というあだ名がついているゆえんそのものがわかるからであった。

「トランプのせいだ」という、なんでもトランプが悪い、という主張の神通力が、効かない状態が生まれてきている。

ケネディ.Jrのトランプ支持につづいて、ハワイ州民主党の星だった、元連邦下院議員のトゥルシーギャバード女史(2020年の民主党内予備選挙でバイデンと最後まで張り合った)は、「わたしがしっている民主党とちがう」といって、議員も民主党員もやめたけど、このたびトランプ支持を打ち出して、もしやトランプ氏の政権入りをするかもしれない。

これには、大統領選挙と同時の連邦上院選挙で、トランプ派がどれほど民主党から議席を奪うのか?が「話題」になっている。
上院が、政府主要人事を承認しないといけないからだ。

これに当てつけた質問に、カマラ・ハリスは軽く「共和党員からも(わたしの)政権入りがあるかも」といったのが、日本でのこのインタビューの唯一の「話題」になっているのは、他に書くべき中身がないからである。

さて、どこまでこの無能コンビを持ち上げる茶番を続けるのか?

いまや、プロパガンダ機関にいるひとたちの「知能」が問われるまでになったのだった。

健忘国民の「令和の米騒動」にみる絶望

スーパーから米が消えたのを、その言い訳の張り紙「昨年の天候不順」をみてすぐさま信じ込むのは、いかに日本人が劣化したかを示すいい例になっている。

もちろん、昼下がりのファミレスなどでタムロしている主婦たち全員が手にしているのは、スマートフォンという呼び名のコンピュータである。

話を中断して夢中になっているのが、おそらく個人情報がダダ漏れのLINEであろう。

しかしてこの人たちは、家庭に戻っても夫婦そろって情弱なので、なんでスーパーに米がないのか?について、アクティブに調べようとなんかしないし、天候不順のほかにテレビのワイドショーで垂れ流している「インバウンド」の外国人が食べているからを疑いもしない。

国家が統制している、学校教育の結果がこれである。

アメリカでは、フェースブック(社名は「メタ」)を創業したマーク・ザッカーバーグ氏が国会にて、ホワイトハウスからの検閲要請に従ったことを証言して大騒ぎになっている。

彼はまた、私財400億円を前回の大統領選挙に投じた結果、彼の意図した社会に役立つどころか歪めてしまったことにも言及し、今回は資金を投じないとも明言している。

なんでもアメリカ民主党の真似っこをする自民党が、日本政府をつかって検閲(情報操作)しているのではないか?との疑念は晴れていない。

さてそれで、米がスーパーからなくなって、どの店もおなじ「昨年の天候不順」を張り紙で主張しているが、とんでもない嘘である。
第一に、昨年に「米の不作を伝えた報道はなかった」のであるが、情弱たちの記憶力も今では痴呆症的なのである。

ちょっと調べれば、昨年の出来は、作況指数が「101」(平年並み)という発表がされていたのである。
ちなみに、平成の米騒動(1993年)のときの作況指数は、「74」という、江戸期なら飢饉並みだったのである。

ではなぜに米がないのか?には、理由が二つある。

一つは、米価が安すぎて物流側が出荷しないばかりか、農家自体が自分の家に保管して出荷しないのである。
安すぎるのは、政府が農協に買取価格を抑えるように命じたからである。

二つめは、政府による「減反政策」に困った農家が、飼料用の米にシフトしたことが挙げられている。

これは、米をつくる「たんぼ」の保持が最大の理由なのである。
麦は連作障害が出るが、米は連作しないといけない。
つまり、いったん米づくりを休む(休耕する)と、再開がやたらと困難になることを農家は知っているからだ。

ついぞ100年前の農業国だった日本なら、こんなことは国民の常識だったが、給料取りが多数になったら、米作りとはどんなことをやっているか?すらわからない国民にさせられたのである。

食べる場面だけが「グルメ」だなんだと強調されているのは、まさにGHQによる「3S政策」だけれども、それがとうとう、食料をつくることの興味を消し去ったのである。

この愚かな国民は、何年か後に来るだろう、「飢餓の危機」にもまったく無頓着なのである。
これを、世界は、「愚民の滅亡」としてただ呆れて眺めるだけになるだろう。

食料をつくることに興味がないばかりか、飢餓のリスクすら想像できないので、日本人を滅亡させようと躍起の日本政府を疑うこともなく、「減反」に応じない農家をわがままだとして糾弾するのは、もはや自分が食べているものが何か?すらわからない家畜同然に成り下がったのである。

宿泊税を業界が要請する怪

28日、沖縄県の、「沖縄ツーリズム産業団体協議会」が、宿泊税導入の「陳情書」を出したとの怪ニュースがあった。

突如、残暑の中で背筋も凍る「寒い」ニュースである。

なお、知事(役所)サイド、あるいは、県議会サイドからはもっと強力な原案提示があったとかが理由で、業界サイドがこれで勘弁して下さいという意味なのかもわからないのは、そうした背景情報がどこにも見当たらないからである。

わが国は、決定のプロセスが公開されないことがふつうになっている。

むかし京都で、有名な神社仏閣に「拝観税」を徴収するといいだしたら、寺院側が拝観停止という強硬手段に出たことがある。

京都における「白足袋族」の代表が、坊主なので、この話題は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の拡大がおきた。

ちなみに、「白足袋族」とは、ほかに、呉服屋(西陣)の主人とか、茶人、それに学者とか伝統芸能のひととか和服に白足袋を履いている集団で、地場に隠然たる力をもっているひとたちを指し、庶民から「逆らってはいけない」といわれるひとたちのことをいう。

それでもって、祇園やらの花街界隈でのお得意さん・常連という特徴もある。

とくに、京都の寺院は、たいがいが「大本山」とかの「名刹」ばかりなので、檀家の墓地はなくとも、末寺からの上納金で生きている。
こうした仕組みは、日本のヤクザ社会にも導入されているものだ。

はたして、「門跡」ともなれば、世が世なら庶民が直接口をきける相手ではない。

そんなわけで、京都人の「イケず」な性格が、「税」の議論に入り込んだので、感情論も含めてやたら面倒なはなしになったのである。

しかし、わが国には、中途半端な「法定外税」という仕組みがある。
これは、地方議会の議決による「条例」で定めることができる「税」なのだ。

なんのための地方議会なのか?を問うたとき、最大のポイントがこれだ。

しかし、日本人には、「幕藩体制」がDNAに仕込まれたのかしらないが、地方独自の「税」があることに抵抗感が低い。
その割に、「天領」の方が格が上だとするヘンな自慢があって、それを21世紀のいまでも滋賀県の大津だと徒歩でまわれば体感することができる。

よくアメリカが引き合いに出されるが、彼の国は「合州国」なので、「州」ごとに別の国といえるから、「税」からなにから違うのは当然だけど、明治から平安朝以来の「中央集権国家」になったはずの日本だと、「藩」で違っていたことの中途半端な名残なのである。

さてそれで、沖縄県の椿事は、形の上だろうが業界団体がすすんで新税(県税)の陳情をしたことだ。

県民には課税しないということの意味は、県外客からなら収奪してもよいという、まるで山賊のような思想がみてとれる。
どうやって、県民と他県民を認識するのか?は、よくわからない。
沖縄の友人から予約してもらって、「県民」を装えば、課税されないのかもしれない。

それに、税率の「3%」とは、あたかも消費税導入時を思い出すが、県外客が相手だからそのうちいくらにでもなるのだろう。

なんにせよ、結局、この目的税の配分が欲しい、という乞食根性の発露だというわけだ。

3%の利益をあげる方策をかんがえることを放棄して、社会主義による役所からの安易な分配に目がくらんだのか?
なんだか、いまはだれも読まなくなった、尾崎紅葉の『金色夜叉』の貫一・お宮のようなのだ。

おそらく、沖縄の観光振興は、ぜんぶ県庁主導になって民間活力は消失し、国営ならぬ「県営」の略奪的観光地になる最初の一歩になるのだろう。
その前に、「新税」を創設することの重大性を、当該県議会議員たちが理解しているのか?

「琉球独立運動」の、別の側面「ソ連化」がこれなのだと全国にしらしめたのである。

政策選択に「減税」がない

政府の赤字を補うのは、福田赳夫政権からの「赤字国債」になって、その赤字国債を購入しているのが日本国民だ。
国民ひとりひとりは、「国債」なんか持っていないのだけれども、預金している銀行が持っている(日銀から押しつけられて買わされた)から、なんのことはない話なのである。

これは、政府の借金は、国民の資産になっていることを表す。

「経済の福田」を自慢していた自称エリートの福田赳夫は、もちろん、「大蔵官僚」(主計局長)だった。
それに加えて、経済とはほど遠い、東京帝国大学法学部でしかもフランス法科の卒業である。

当時は高度成長していたので、その余裕から、「角福戦争」なる、ヤクザまがいの抗争もやっていた。
田中角栄と福田の総理・総裁の座を巡って、両陣営から現金がばらまかれた。

「金権政治」は、なにも田中角栄の専売特許ではなかったのだが、国民はあっさりと擦り込まれてしまった。

ロッキード事件という不可思議な「事件」は、アメリカ議会の公聴会が震源地だった。
これで、「田中角栄逮捕」の号外が配られて、それを友達といた横浜駅西口でもらったのが、わたしの人生で初の「号外」を手にした瞬間だった。

どうして友達と横浜駅西口にいたかといえば、昭和51年7月27日(火曜日)だから、学校が夏休みになったばかりだったからである。

もうとっくに、「派閥政治」がふつうだったけれど、ありえないほど極小派閥の領袖だった三木武夫が首相になった不可解がある。
似たような話では、中曽根康弘もおなじだった。

中曽根は自身を「青年将校」といって自慢していたが、この御仁は、軍本流ではない「主計」将校で、これがまたおおいに腐敗していたことは、会田雄次『アーロン収容所』に詳しい。

ようは、福田も中曽根も、あたかもおなじ群馬県でバチバチだったとはいうが、どちらも「主計」出身の腐敗臭がする共通がある。

「財界の広報紙」だった日経新聞の腐敗は、とうとう「政権与党広報紙」にまで昇格して、「歴代政権、減税に失敗の歴史」なる、プロパガンダを昨年10月13日にだしている。

一方で、アメリカでは共和党政権のなかでも歴史的になった、「レーガン減税」があって、これを「トランプ1.0」では、さらなる減税をやって空前の好景気にしたのだが、いまになってふつうのアメリカ人が思い出している。

ときに、減税の経済効果は、大学の授業で圧倒的に採用されていた、『サミュエルソン 経済学』にもあったから、いまどきの財界人はむかしに習ったことも思い出せないらしいし、「(政府)財政」でいえば、減税による消費刺激がかえって政府の法人税収入を増やすことは常識なのだ。

なぜならば、個人消費支出こそが経済循環の要だからである。

しかし、日本経済とドイツ経済の「刈り取り」を開始した、欧米の支配層たちは、ぜったいに日本で減税をやるなと、命じたから、命じられた政権与党と政府、それにプロパガンダ機関とが組んで、むりやり「増税」を推進し、国民生活の破壊からの社会不安を創造しようとしている。

まさに、全体主義体制への転換をすすめているのである。

なので、前回紹介した『裸の共産主義者』は、タイムリーなのだ。

いま、「減税」をいう政党は、中核派の「れいわ新選組」と、ナショナリズムの「参政党」という、対極にあるふたつの弱小政党しかない。

あとは、共通の「指令」を受けている、まさに「既存政党」だという特徴がある。

ちなみに、参政党設立時のメンバーだった、渡瀬裕哉氏は、「政府に使えるカネをなくす」と、国民生活が豊かになるメカニズムを明快に解説している、国内では珍しい論を張っているので参考になる。

最低でも、第二法人税たる消費税をやめさせることが喫緊の課題なのである。

これは、元自民党代議士だった、安藤裕(あんどうひろし)氏の主張が大いに参考になる。
ガス抜き議員のひとり、青山繁晴参議院議員が、廃止ではなく消費税減税をかかげて総裁選に挑もうとしているのも、やっぱりガス抜きなのか?