パンがないならお菓子の妙

オリンピック・パリ大会の開会式では、あたかも「フランス革命の断頭台」のイメージまでが演出されて物議を醸した(欧米で珍しいことに主宰者が「謝罪した」)という。

「という」というのは、オリンピックやらにわたしが興味ないから観てないことの聞き伝えだといいたいからである。
まぁ、改善策を一ついえば、国別対抗をやめたがいいのだが、オリンピック委員会なる団体の怪しさが消えるわけでもないからどうでもいい。

「革命」だから、民衆が王様や貴族を殺めるのが正義のようになっている。

これぞ、モーゼの「十戒」のなかにある罪なのにだ。
「汝、殺す勿れ」は、第6番目で、5番目の「父母を敬うこと」と、7番目の「姦淫をしてはいけないこと」の間にある。

1番は、主が唯一の神、2番は、偶像崇拝の禁止、3番は、神の名をみだりに唱えないこと、4番は、安息日を守ること。
8番は、汝盗む勿れ、9番は、隣人について偽証しないこと、そして、10番が、隣人の家や財産をむさぼってはならないこと、である。

こうしてみると、先進国やらの文明社会では、前半の4番までは一旦置いても、それ以外について見事に「十戒」は壊れて(人為で壊した)しまったことがわかる。

まさにいまは、「革命」が実行されて久しい、といえるのだ。

それゆえ、「革命に失敗した」ロシアでは、いかに共産党から弾圧されても、とうとうロシア正教が生き残り敬虔な信者がいまの社会を構成している逆転があって、大多数が「反革命」をいうから西側の革命勢力がロシアを憎んでいるのである。

さてフランス革命で、断頭台の露と消えた人物の最高位にあったのは、ルイ16世だった。
「太陽王」といわれたルイ14世の後継は、曾孫のルイ15世で、その孫がルイ16世である。

王権の後継としては三世代だが、血縁としては間にいろいろとあるのは、わが国の白河天皇からの血のグダグダと似ている。

ちなみに、絶頂期の終わりを象徴させた映画、『ルイ14世の死』は、主治医の立場が際立つ最後のセリフが怖かった。
こんな医者たちにかかりたくないが、国民皆保険が徹底されているいまのわが国では、逃れようがないので厚労大臣が威張っていられる。

さてフランス最後の絶対君主だったルイ16世だが、フランス最初の立憲君主という立場になって、それからは「カペー」という本名の姓で呼び捨てにされる没落を一身で背負った。

王妃マリー・アントワネット・ジョセフ・ジャンヌ・ド・アプスブール・ロレーヌは、神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世の息女(第15子・第11女)にして、母はマリア・テレジア共同統治者(神聖ローマ皇帝カール6世の娘=男系最後の女性君主)である。

男系が女系にかわると、ややこしいことになるのがわかる。
なので、「皇統」を断ちたいと願う革命勢力は、ひとまず「女姓」を君主に推進する戦略をとる必然がある。

それでうまいこと「女系」がはじまれば、「血統」を戻すには遠い親戚まで辿るひつようがある。

さて遊び呆けたマリー・アントワネットを象徴するのが、「パンがなければお菓子を食べたらいい」との発言がいまだに憎悪をあおる宣伝につかわれていることだ。

しかし、ヨーロッパは気候と地質から、穀物が貴重なので、実はパンこそが「贅沢品」だったのである。
地面に勝手に生える草は、日本のように大きく育たないために家畜の放牧に適し、肉の生産に貴重な穀物を用いずに済んでいた。

そんな状況下、太陽王時代から「砂糖」が穀物を凌ぐ重要な商品になっていた。

つまり、アフリカの奴隷によるサトウキビ生産であって、ゆえに、ヨーロッパでチョコレートが大流行したのである。

そんなわけで、貴重な穀物からできるパンがないならアフリカからやってくる砂糖でのカロリー摂取をいったのだとも解されている。

ただし、精製した白い砂糖には「中毒性」があって、インドからヨーロッパに伝わった当初は「薬」として扱われていた。
なお、砂糖の精製方法もインド人が考案したというが、それは、阿片の精製とおなじ方法なのであるから、砂糖の精製は、当初「麻薬製造」をしていたのである。

われわれ日本人には理解し難いのは、コメを中心にした穀物が豊富にとれる多湿・温暖な気候のおかげからの食文化の決定的なちがいからのもので、欧米人には「主食」という概念もなく、日本人がふつうにしている「口中調味」もできない。

そんなわけで、コックは、パン屋とか菓子屋をおなじ「コック」とは認めずに、区別している。
コック服の向こう側は、意外とシビアなのである。

建築でいえば、大工と設備屋の区別に似ている。

麺を、音を出してすすれるか?すすれないか?というマナーの問題ではない。
むしろ、麺をすすって食べることで、一緒に汁を多くとれるメリットがあると気づいた日本人の味覚に対して、欧米人は相当に鈍感なのである。

しかも、たとえばフランス人はついぞこの間まで、正確にはイタリア・フィレンツェの名門、メディチ家から嫁をとるまで手づかみで食べるのがふつうだった。
フォーク・ナイフを嫁入り道具として王宮に持ち込んだからで、庶民に普及するのはずっと後になるのだ。

その極致が、英国人の味覚で、英国料理に美味いものはないとは世界の常識だ。

しかしながら、世界中、どこを征服しても現地の食事を食べることができた味覚がえらく鈍感な英国人だからこそ、七つの海を制覇することができたともいえる。
逆に、味覚が敏感でグルメな日本人に世界征服はできない。

こんなことも、オリンピックを報道するのにマスコミはぜんぜん伝えないのは、それが「3S政策」のイベントにすぎないからである。

アメリカ観光専門ニュースの「反トランプ」

「世界最大の旅行業界ニュース・サイト」を自称する、「Skift」が発信したニュースは、民主党を支持するとはいわないで、「もしトランプ政権が復活したら」と、その弊害をあげつらっている。

21日付けの記事タイトルは、「トランプ対ハリス:それぞれの政権が旅行業界に及ぼす影響」(署名は、サラ・コピット、ダウィット・ハブテマリアム、メグナ・マハリシ、スキフトの各氏)だ。

記事の詳細はサイトに直接アクセスしてご覧になるといい。

わたしが本稿でいいたいのは、「ニュース記事」の体裁をとった、政治的宣伝すなわち「プロパガンダ」が実行されていることなのである。

つまるところ、なぜにトランプ政権が、記事でいうビザの取得制限やら、DMO( Destination Management Organizationに反対するのか?の背景や理由について一切の言及をせず、これらの施策そのものを非難しているのだ。

むしろ、国家や自治体に私企業の集合体たる「業界」を依存させる施策こそ、支配者にとって有利になることを書かないことの不真面目に嫌悪感をいだくのはわたしだけではあるまい。
逆に、これを推奨して国家や自治体からのご褒美をもらうことの不道徳について、鈍感になりすぎていることの危険を指摘したい。

もちろん、民主党・バイデン政権(あからさまだったのはオバマ政権からである)が壊した国境の崩壊で、アメリカは「正直者がバカをみる」国に変貌してしてしまった。

それがまた、カリフォルニア州やらで議決・立法された、950ドルまでの万引きが軽犯罪となることでの、「掠奪合法化」が達成されたために、共産国家より悪質な状態になって、とうとう州からの脱出者が後を絶たないことになったのである。

おなじ状況が、英国でも起きていて、富裕層の英国脱出が相次ぎ、国家全体のパフォーマンスが「貧困国へ」と低下し続けている。
かつての世界覇権国が、とうとうわが国よりも先に「途上国」へ成り下がりそうなのである。

この意味で、わが国は、英国の後塵を拝しながら、確実に「英国化」の道をひた走っている。

26日からはじまった「パリ オリンピック」は、来月11までの日程ではあるが、まったくといって興味がないのは、前回の東京同様で、わたしの記憶では「2020東京オリンピック」についての映像を観た延べ時間は、おそらく「10秒」ぐらいだから、まったく記憶に残っていない。

それなりに観ていたのは、84年の「ロサンゼルス大会」までぐらいだった。

それもこれも、よくよくかんがえたら、近代オリンピックとは、「ヨーロッパ貴族のためのお慰み(暇つぶしの余暇)」にすぎないことに気がついたからである。
世界一を決めるなら、各競技ごとの「世界選手権」で十分なのだ。

創設者ピエール・ド・クーベルタン男爵の「女性差別」が、いまごろに批判のタネになっていると、左翼メディアの時事通信が19日付け記事で書いている。
なにをかいわんや。

まったくもって、上の業界紙と同列のプロパガンダにすぎないと指摘するのは、なにもわたしがこの男爵の高貴な思想を褒めたいからでもない。

100年前のパリでは、女性たちがシャンゼリゼを埋めつくし、「普通選挙法」における女性への参政権付与に「大反対」していたのである。

その心は、男がする汚い政治に子供産む神聖な女性を巻きこむな!、だった。

すると、男爵がいう、女性参加禁制のオリンピックで、勝者に「ローリエの冠をかぶせる」役が女性だったこととは、「神聖」の強調だったのか?
ある意味、女性に媚びたともいえる。

しかして、いまや「神聖」すらいえないのは、「唯物論」が全盛になったからなのである。
それをまた、現代の貴族たちが推進している。

歴史の断絶も人為である

国によって歴史観が異なるのは、それぞれに生活の事情が異なるからである。

たとえば、現代エジプト人の歴史観は、当然に古代エジプト人とはまったく異なるが、その複雑さは日本人からはかんたんに理解できるものではない。

われわれ日本人だと、学校教育の場で、最後の女王クレオパトラが自害した後のローマ帝国によって征服されたエジプトがどうなったかは教科書に載ることがないからだ。

しかし、パレスチナで生まれたキリスト教との兼ね合いでいえば、イスラム教化されるまでのエジプトは数百年間にわたって一大キリスト教国だったし、トルコによる征服からナポレオン、英国支配と、ずっと誰か他の国の征服下にあった。

こうした事情があって、自分で決める強力な指導者がいないと、雲散霧消してしまうような不安定さがあるのは、とうてい2000年以上「一国」として存在した日本人には理解の外にある。

いま、国立カイロ大学に「社会学科」がないのは、エジプト社会を(西洋発祥の)学問で整理することの困難からだと推察でき、都知事が在籍したときにも「社会学科」なる「科」があったのか?不思議にも調べて確認するひとがいないのである。

さて、西尾幹二氏による『GHQ焚書図書開封』(2008年)は、シリーズ化されて全12巻(2016年)で終了となっている。
これには、氏の体力と、まだまだあるはずの資料の発見の困難、それと、記述するのに簡単でないテーマの複雑性という複合的な理由があったからであった。

しかし、第一巻で示された、GHQ覚書のオリジナルコピーと翻訳文が示す通り、意図的になされた「焚書」なのである。

しかもこの「覚書(通達)」の日付は、1946年3月17日だから、1945年9月2日の「降伏文書調印」からわずか半年あまりで実施されていることのスピード感が、事務作業にアナログしかなかった時代として、驚異的だともいえるのである。

要は、アメリカは、戦争中(あるいは戦争前)から、詳細な日本占領(征服)計画を練っていたわけである。

なぜにあえて「征服」と書くかは、たとえ敗戦国といえども敵国文化を破壊することは明確な国際法違反だからである。

しかしまた、「国際法」の歴史を辿れば、それは狭いヨーロッパにおける戦争ばかりをどうやってルール化するか?の手段だったことを思い出せば、勝ったり負けたりする中での「お互い様」で成り立っている。

だから、国際法が適用されるのは、ヨーロッパだけのことで、それ以外は関係ないという、白人たちの野蛮な血が暗黙の了解となっているのである。
それを、優秀な日本人は、「人類全般」に適合される、普遍的な法理だと勘違いした。

もう一つの勘違いが、「天皇崇拝=現人神=日本教」という、近代経済体制を構築するのに用いた、日本的キリスト教を、天皇の人間宣言で破壊して、マッカーサーを神として崇拝するようにすり替えたことである。

これは、皆殺しにあったキリスト教「グノーシス派」がかんがえた階層構造に似ている。
神の上にもっと偉大な神がいるというもので、グノーシス派は、天界における地上を創った聖書の神の地位は最低だから、彼らが救世主と崇めた神とは「最高神」と位置付けたのである。

つまり、ローカルな現人神・天皇は最低の存在で、マッカーサーこそが「最高神」だと、日本人を教育した。
ところが、その最高神のはずのマッカーサーが、もっと上位のトルーマンによって解任されたから、いよいよアメリカ崇拝強が日本に定着したのである。

これが、「親米保守」の思想的基盤そのものだ。

そうやって、親米保守たちは、なんのための戦争だったかの理由を隠し、当該世代が消滅していよいよ最高神のむき出しの野望のために粉骨砕身している。

その人物たちが自民党を構成し、岸田氏が総裁(日本の葬祭主)なのである。

8月になれば、また今年も「悪い日本人・正義のアメリカ人(民主党)」の刷りこみキャンペーンがはじまる。

熱川の「東伊豆町立図書館」

個人的に住居のある横浜から近いといえば近いが、半島のアクセスの悪さからあんがいと敬遠してきた地域が熱川である。
子供のころに『バナナワニ園』を見学したことがあって、下田回りで一周旅行をしたっけかなぁ、という程度だった。

「伊豆半島」が、そっくりそのまま「ジオパーク」になっているのは、かつて太平洋に浮かぶ「伊豆島」が、フィリピン・プレートに乗って『ひょっこりひょうたん島』のごとく、50万年前に本州とぶつかって「半島」になったからである。

衝突地点の三島には、「三嶋大社」がある不思議。
どうしてここに建立したのか?地質研究からも明らかな場所選択に驚嘆するしかない。

その衝突からできた地面のシワが、南・中央・北という三本ジワの「日本アルプス」となっていて、まだ止まらない伊豆島の押す力で「南アルプス」の隆起は地球上で最大の年間4ミリという大きさだと「リニア工事の件」にからめて書いてきた。

世の中には伊豆半島をしょっちゅう訪れるひともいるだろうけど、熱川から先にはめったに行かなかったのが我が人生で、初となる熱川宿泊(連泊)滞在をやってきた。
「中日」は、町立図書館に行って「郷土史」をチェックする時間つぶしをやってきた。

私世代(還暦)以上なら、ほぼ誰でもしっている「熱川」といえば、花登筐原作のテレビドラマ、『細うで繁盛記』だろう。
うろ覚えのひとでも、あの強烈なキャラクター「正子」を演じた、冨士真奈美さんの捨て台詞は記憶にあるにちがいない。

その冨士真奈美さんは、三島の出身だったために、「伊豆弁」のキャラクターと合致したのである。

ちなみに、蔵書検索すると、ドラマ上の現地である熱川(東伊豆町)よりも、三島市立図書館の『銭の花』(『細うで繁盛記』の原作小説)コレクションに軍配があがる。
全巻のうち「欠本」が、一冊しかないからだ。

原因は、この当時の「製紙」にあって、インクの乗りを良くするため、という理由から、硫化アルミニウムを添加してしまったことにある。
それで、空気中の水分と紙の硫化反応で、「硫酸」を生成して紙自体の構造を破壊するのである。

ために「50年問題(崩壊にかかる時間)」として、なぜか日・米共通の出版文化財保護における大問題となっている。

これに、『銭の花』も該当しているので、全巻が揃っている神奈川県立図書館では、「全巻閲覧不可」という状態にある。
製紙業は、静岡県富士市の産業だから、伊豆半島からすれば対岸でのことが影響しているともいえなくはない。

山だらけの伊豆半島では、平成の大合併なる行政区域の無理やり廃統合をやって、この国をあたかも無機質な「行政区画」にしてしまった。
それでも巨大な行政区とならず、あんがいとこぢんまりとしているのは、おそらく人間の仲が悪いからだと推測できる。

昭和34年にできた「東伊豆町」は、「稲取町」と「城東村」の合併ということになっているが、その「稲取町」は「河津の庄」で十戸あった各家は「みな姓を異にし」とあるから、素性がちがう人たちで成り立っていた。

江戸時代は幕府直轄で、幕末から明治の廃藩置県までの領地は水野出羽守(千葉の菊間藩が沼津城を明け渡しされた)であり、さらに足柄県を経て明治9年に静岡県稲取村となる。
それで大正9年12月1日、稲取町となった。

城東村も、「河津の庄」にあって、その後、「白田村」「片瀬村」「奈良本村」「大川村」であったが、明治22年に合併して一村となっている。
江戸時代は幕府直轄であったが途中、小田原城主大久保家にあったものの、廃藩置県で、白田、片瀬両村は韮山県、奈良本、大川の両村は菊間県となっている。

熱川は、奈良本村にあたる地域だ。

それで、図書館では『東伊豆町誌-町制施行30周年記念誌』(平成元年3月31日)を眺めていた。
ちなみに、令和になった現在、これの「続編」はなかったのも印象的だ。

「町」という行政がつくった「正史」であるから、そこにいる人間模様が描かれていない恨みがある。
近代の行政記録における「無機質」は、おそらく人間を「経済人:ホモエコノミクス」と定義するまちがった思想が背景にあるからにちがいない。

この意味で、時代を書いた「小説」が時代考証の重要な資料であるという、NHKドラマ番組部シニア・ディレクター(時代考証担当)の大森洋平氏が、獅子文六の『箱根山』(ちくま文庫、2017年)に寄せた「解説」が説得力のあるはなしになっている。

索引もないのが残念だが、ざっと半日眺めていて、『銭の花』に関する記事は2カ所あった。

全国に熱川を知らしめた超高視聴率ドラマの効果が、どれほどの町の宣伝になったかは、計り知れないだろうに、とは思いつつ、癌による死期を覚った花登筐は作家としての遺書にあたる、『私の裏切り裏切られ史』で、その熱川のすれて冷たい住民たちの性格をコケ卸していて、作品の舞台を西伊豆は「土肥」に映した経緯も説明している。

なるほど、人気作家と舞台となった地元との軋轢の記憶が、この無機質な表現のなかにさらに埋め込まれているのか?と、すこしだけ「人間味」を感じたのである。

その横には、「東伊豆町老人クラブ連合会」が作成した、やっぱり30周年記念の文集『歴渦-激動の昭和を生きて』があった。
発行年は、平成6年とある。(1994年)

主に後期大正生まれの方々が綴った、戦争の記憶文集なのである。

その執筆者名の前に、地域が書かれているのは、山谷のなす地形が人間行動の範囲を決定づけることを示している。
「正史」に対する「副読本」としての価値は、期待以上のものであるけれど、明治生まれも加わってもっと早くに「村の生活史」を残していたら超貴重であったろうに惜しまれる。

冷房の効いた空間を占拠できるのは、贅沢なことだが、知らない町の図書館という空間は格別の価値をもっているのである。

「専門学校」が熱い

なんのために学校へ通って勉強するのか?の答は、自立して一生食べるため、が基本である。

明治政府が導入した、近代学校制度は、江戸時代にはなかったもので、江戸幕府は国家としての教育制度も持ってはいなかった。
幕閣のための「学問所」はあったし、各藩の「藩校」もあったが、一般人は寺子屋や私塾で、すきなように学んでいた。

しかし、近代科学からでた技術や技能を得て食べるためには、寺子屋だけではまにあわなくなったのである。

少子化と大学を増やす文科省の政策がミスマッチして、とうとう「大学全入時代」となったのだが、大学を継続維持するためには絶対に補助金がいることも政策的にやって、国家が教育の独占をすることとなった。

これになぜか、公正取引委員会は警告すらださないでいる。
政府部内の問題は、政府部内では問題にしないというだけのことではあろうが、食えない国民を増やすなら、それは独禁法を越えた犯罪行為である。

いま、世界からわが国は、「低学歴国」だとの評価も受けている。

世界の先端を走るには、「院卒:修士や博士の学位」が必須なので、「学部卒」のいわゆる「学士」では世界から相手にされない学歴だ、という世界標準からのはなしがある。

この良し悪しは別にして、食べるためになにを学ぶのか?は、きわめて単純かつ重要な問題なのである。
高度成長期であれば、大学卒の学歴は役に立ったかもしれないし、いまだにそれが社内における評価基準にある会社もある。

ただし、そんな古い制度を遵守している民間企業なら、はなから就職しない方がいいかもしれない。
淘汰の対象になりやすいからである。

そうやってかんがえると、「専門学校」が熱いのである。

「職業訓練校」という位置づけがながくなされてきて、大学(教師)からは蔑視されてきた歴史があるけど、その大学が職業訓練校に近づいていて、専門学校があんがいと抽象的なかんがえ方を教えている。

それは、職業上、抽象的な発想法をしらないといけない、という現場の要請によるからである。
世界性先端の現場では、抽象的な思考ができないとA.I.にとってかわられる危険があるからだ。

一方で、あたかもA.I.をバカにする傾向かあるのが、文系の学者たちで、自分がAIに劣っているとは微塵もかんがえてはいない。
しかし、会計士や税理士、弁護士までもがAIによる職業上の危機に面しているのである。

こうしてみると、高度な手仕事を要する職人の不足が、いまの若者には大チャンスではあるまいか?

そんなふうにかんがえる親世代がいないことも、さらなるチャンスを広げている。

ときに、専門学校は本人も率先して学びたい、というひとが多数なので、なんとなく入学した者も喚起されるという。
これぞ本来の「学び」なのだ。

10歳の男の子の味覚が最も鋭敏だというのとおなじで、このころの子供指先の感覚も、成功度に敏感なのである。
なので、専門学校でも遅すぎる、という名工の発言はうそではない。

いまさらながら、若年労働を推奨することはできないけれど、手先の訓練という意味で、逃したら大損になるのが10代前半でのものの触り方なのだ。

もっとも、子供を預かってこんなことを教えてくれる職人も、近所から消え果ててしまった。
小学校5先生で進学塾に行くのではなくて、専門学校で手作業を覚えさせる方が、よほど食える人間になるのではないのか?とかんがえた。

年表で昭和を読み返す

図書館に通うのは、夏なら暑さしのぎの意味もある。

新聞閲覧コーナーには、あいかわらずの人数がいて、とくに夕刊紙とかスポーツ紙が人気なのは、自分で買うことをしないからだろうと、勝手に推測している。
ビジネスホテルでは、無料で全国一般紙を配付しているところもあるけど、荷物が少ないとき以外は手を出さない。

手を出すのは、購入した野菜などを包むのにいいからで、それ以外の新聞(紙)の使い途はもうないとおもっている。

全国紙で倒産しそうでしない、「毎日新聞」が、とうとう9月から富山県での販売をやめるという。
宅配だけでなく、駅売りも対象なので、富山県の図書館にいっても毎日新聞を閲覧することは今後できなくなる。

「富山支局」は残すそうだ。
それで、「全国紙」のメンツは維持するようである。

そういえば、むかしは朝おきたら新聞をみるのが習慣だったし、夕刊の「特集」はあんがいとおもしろかった。
それでも一番先に観ていたのは、「テレビ欄」であった。

わたしもだんだん「高齢者」になってきた。
クラス会はかなり頻繁にやっているが、話題が「むかしばなし」になるのは、バラバラな人生を重ねたために共通の話題が、むかしばなしになるからである。

そういえば、あんなことがあった、という話題も、当然だが断片的だ。

そこで、『現代世相風俗史年表 1945-2008』(世相風俗観察会編:河出書房新社、2009年)を図書館で借りてきた。
初版は、1986年でわたしが就職した年にあたる。

一件ずつトピックを詳細に読む方法もあるだろうが、ざっと眺めることで、流れをつかみたいとおもったが、なかなかそうは簡単に流れがわかるほど単純ではない。

今起きていることの原因を探るならば、少なくとも200年は遡らないといけない、という歴史家の言葉を思い出させる。

アレックス・ヘイリーの名作、『ルーツ-アメリカ家族の物語』(1976年)、テレビドラマ版は、77年10月2日から連続8日間放送され、翌年4月には再放送され「クンタ・キンテ」は社会現象にもなった。

そのクンタ・キンテは、200年前の1750年生まれ、なのである。

ここから、「自分史」としての「ルーツ」探しが流行ったし、いまでも高齢になって時間を持て余すようになると、「家系図作り」に励むひともいる。

明治生まれの祖父母(誰にでも父方と母方とで4人いる)が亡くなったとき、相続のために戸籍を遡って探したもので、残念ながらコピーをとる手間を惜しんだから、いまさらもう一度調べるとなるとそれなりに面倒だ。

しかも当時は相続が理由なので、それぞれの両親までで済んだが、それからさらにどこまで遡れるものか?やってみないとわからない。
戸籍ができる前なら、お墓がある郷土の寺院の「過去帳」を探すことになろう。

借りたのは「風俗史」だから、時々の事件・流行を追っている。

一見してなんの脈絡もなさそうだが、ブラウン運動をする分子ように、それぞれが影響しあって、一つの現象になっているのだろう。

そんなことを思いながら、ページをめくるのである。

『西洋の没落』の必然がやってくる

シュペングラーは、「西洋文明は二十一世紀で滅びる」と書いて、これを、「運命であり、必然である」とした。

100年前の大著にして名著『西洋の没落』冒頭の言葉だ。

あっさりと、「西洋人は、あらゆる人間の普遍性」と述べて、ここに諸民族別のちがいについて考慮しない、いわゆる「西洋人らしい」思考の特徴も挙げている。

じっさいに、これこそが、「異文化共生」の正体なのである。

つまり、西洋人が決めた「異文化」と、西洋人が決めた、「共生方法」をもって、これを推進する以外の方法を認めない、という「強制」のことである。

我われが、こうしたあたらしい言葉に違和感があるのは、有無を言わせぬ強制がそこにあることと共に、「異文化=普遍性」にしてしまっている荒っぽさを感じるからである。

つまり、ぜんぜん異文化を尊重なんかしていないし、そのときの価値観の原点に、「日本人蔑視=反日思想」があることにも気づいているからだ。

たとえば、埼玉県川口市・蕨市のあたりで問題になっている、「クルド人」による傍若無人なふるまいを、元NHK職員であっても、もっぱらの保守人士だと思われていた、和田参議院議員が、大擁護する言動で支持者たちを混乱させている。

日本で最初の「ヘイト禁止条例」を定めた、神奈川県川崎市では、日本人がアジア人に悪くいうのを禁じるけれど、その逆はいっさい問題にしないのと同じなのである。

ここにある、「普遍性」とは、勝手に創り上げた政治的立場における「普遍性」のことなのである。
つまり、西洋人がやっている「ポリコレ:ポリティカルコレクトネス」そのものである。

すると、シュペングラーがいう、没落の論理的必然にはまりこんでいるのは、現代日本人の「意識高い系」という名の左翼・全体主義者たちを示すことが露見する。

前にこのブログで紹介した、ユダヤ教ラビの、マーヴィン・トケイヤー著『日本人は死んだ』(1975年)と、『新・日本人は死んだ』(1982年)の二冊に目をやれば、より具体的な警告が見えてくるばかりか、出版から40年以上の時間が経過したいま、もはや現実が記述してあることに驚くだろう。

なんだか、『北斗の拳』の決め台詞のようだ。

わたしは、トケイヤー氏も、シュペングラーの読者であるとかんがえている。
そのトケイヤー氏には、『日本には教育がない-ユダヤ式天才教育の秘密 』(1976年)という、至極当然の指摘もある。

この本から半世紀がたって、いよいよわが国の教育もいきづまっていることが、一般人にもわかるほどになってきている。

すると、嘆かわしいのは、わが国を政治や経済で牽引しているはずのひとたちの多くが、シュペングラーを読まずに、一介のサラリーマンから「昇格しただけ」なのだという貧弱なる無教養人としての育ちが見えてくるのである。

もちろん、今の西洋の指導者層も同様である。

残念ながら、トランプ氏とてもここに含まれるけど、「まだマシ」というのは、彼には最後の拠り所としての「信仰」があるからだ。

他はみな、「拝金主義」という信仰にふさわしくないぜんぜん別の心情を持っているので、誰からも尊敬されないのである。

当然のトランプ神格化

キリスト教とはなんなのか?を、日本人のおおくはしらない。
だからといって、仏教のなんなのか?をしっているわけでもない。

だから、「無神論者」だと自己認識するのだが、これはユダヤ・キリスト・イスラムの旧約聖書を土台に置く人類の多数派たるひとびとからしたら、単なる共産主義の告白に聞こえるので注意がいる。

もちろん、マルクスはユダヤ人(ユダヤ教徒)だったので、無神論の意味をしっていた。

このことが、いまどきの外国人旅行者から、世界で最も成功した共産主義国家としての理由づけにもされているのである。

わたしの記憶では、70年代から日本人でも気づいたひとがいた。

当時は、日本は西側自由主義圏の一員で、最も経済成長に成功したのも、「自由経済だから」と信じられていた。
だから、世界で最も成功した共産主義国という学者は、異端の目で見られたものである。

しかし、昭和36年に「福祉国家」(いまの社会保障制度が確立した)になったわが国は、文字通りの社会主義を採用して誰も不思議とは思わなかったのである。
なぜなら、戦前の近衛文麿内閣は完全なる社会主義政権だったからである。

あたかも「右傾化」して「ファシズム」の時代と戦後になっていっているが、ほんとうは「左傾化」して「共産主義=全体主義」を目指したのが日本とドイツ、そして、イタリアだった。
自由主義から全体主義はうまれようがない。

当時の知識人たちは、スターリンのソ連がやった「五ヵ年回計画」の目覚ましき大成功(全部ウソのでっちあげだった)を信じて疑わず、これぞ成功の処方箋だと確信していたのである。

まことに間抜けな話だが、知識人とはいつの時代もこんな程度なのである。

それで、ソ連時代をしっているロシア人は共産党を嫌うが、ソ連時代のなんたるかをしらない日本人は、いまだにソ連とその後のロシアの区別がつかない。
いまでも日本政府は、「五ヵ年回計画」が大好きで、いろんな計画をたてるのけど、その理由がスターリンなのである。

むかしは筑波大学や東京外語大のソ連専門家はまともだったけれど、いまの教授たちは、この区別がつかない錯乱をもって地上波に出てお金を稼いでいる。

何度も書くが、トランプの本質は基本的に牧師なのである。
彼は、自分の政治集会を「ミサ」として扱っているから、「YMCA」の曲を必ず流していた。

この度の暗殺未遂で、奇跡的に難を逃れたのも、「神」のおかげだと信じているだろうし、共和党の支持者の多くもプロテスタントの信者なのである。

この基本をしっていれば、「神がかる」のは当然だし、「神格化」されるのも必然だといえる。
敵対するバイデンは、カソリックだがどこまで真剣な信者かはよくわからない。

かえって、トランプが敬虔なロシア正教の信者たるプーチンとウマがあうのはわかりやすいのである。

この意味で、「同盟国」を言い間違えたという岸田首相は、もしも仏教寺院の檀家だとしても、バイデン並みの軽さか、共産主義者らしい無神論者にちがいない。

もちろん、わが国のマスコミは言わずと知れた共産親派だから、無神論がふつうなために「神格化」を極度に嫌うふりをするのである。
あるいは、それが「科学」だと言わんばかりに。

しかし、「科学」を神格化したのが共産主義だ。

世の中は、わからないことだらけなのに、わかったふりをしてどんなに間違っても絶対に他人のせいにして済ます習性をもっている。

比叡山で「千日回峰行」を何度も達成した酒井雄哉阿闍梨(あじゃり)は、真夜中の山中で出会う人間がもっとも恐ろしいと述べていた。

人間こそ、誰にも訳がわからない存在なのである。

そして、自分を証明する手段が意外にもないことも、ふだん気にしないで暮らしている。
何をもって自分だと他人に証明するのか?は、かんがえだすとキリがない。

「神性」は個々人それぞれにある、とブッダは結論づけたが、日本人ははるか前の縄文からしっていたきらいがある。

これを、英国のホームレスに語ると驚いて呆然とするのだ。

西洋人とは、そんなものである。

兵庫県知事とアメリカ民主党の共通

さすがは宗主国のアメリカ民主党の異常さは、わが国の比ではないほどの凄まじさで、全世界に(悪)影響させる力量はあるけれど、残念ながらわが国の中の兵庫県という位置付けでは、なかなか世界的なスケールの話にはならない。

しかし、福岡県人が東京をウオッチして、3年もしたら東京化するし、その福岡県をウオッチしている鹿児島県人は、それから3年もすると東京っぽいところまでの浸透をするものだ。

これに倣えば、東京の悪影響は兵庫県にはずっと速く浸透するに違いないので、この度の「知事の不祥事」とは、あんがいと東京の小池都政の悪い真似っこをした結果ではないかと疑うのである。

なぜならば、三期目の選挙後に「初登頂した」ときの、都庁ロビーにての職員からの花束贈呈のセレモニーで笑っているのは知事そのひとだけという妙な写真が報道されたことで以心伝心するものだからだ。

この花束も、都の予算からの拠出で購入したのなら、なお一層、手前味噌の物語が完成するのに、だれもそれを伝えてはくれない。

衰退しているとはいえ、わが国の首都東京の予算規模は、世界にあまたある小国の国家予算を超える規模で、その重みは、民間経済が衰退すればするほど高まるのである。

なにせ、もう「6公4民」になりそうな気配で、江戸時代ならとっくに「一揆」や「打ち壊し」が起きておかしくはない「重税」がのしかかっている。

アメリカでは、民主党が育てた「BLM」とか「アンティファ(アンチ・ファシスト)」と名乗るファシストたちが大暴れして、民主党の州知事から市長やらは、これを「平和的活動」として、誰も逮捕することもなかった。

もちろん、警察を支配するのもこれらの「文民」なので、大幅に削減された警察予算による、治安悪化も想定内の計画性をもっている。
それに、950ドルまでは「軽犯罪」とする刑法改正で、カリフォルニア州の都市部からは、小売店が消滅したのである。

どうしたことか、これに英国保守党が真似て軽犯罪化したら、全国でとてつもない「万引き」が発生しているのに、警察はもはや事件化すらしない。
驚くことに、より左派の労働党に政権交代したら、なんと刑法を元に戻す法案をだして「万引きが違法行為」になるという揺れ戻し現象がおきている。

もちろん、小売店主たちは歓迎しているが、万引きが規制されたら生活困難になるという理由で大反対する(政治)組織もあるというから、世の中は単純ではないのである。

この意味で、アメリカだけでなく、大英帝国ともあたらしい「日英同盟」をしたいヘンな保守系のひとたちもいて、きっとわが国でも万引きの合法化を狙っているにちがいない。

その意味で、「維新の会」という自称第二自民党のひとたちは、なにがあっても兵庫県知事に辞任しないよう圧力をかけている。
どうやら、いろんな公金をうまいこと使い込んだ悪事がバレるのを恐れているという噂まで立っている。

なんだか、バイデン一家がやったさまざまな汚職(売国行為)がバレるのを恐れるのと似ているのである。

さいきんになって、選挙とは、「有権者のIQテスト」だという言いかたが流行り出しているけれど、酷い目にあってこその気づきもあるから、ちょっとだけ「人間万事塞翁が馬」の故事をもって、厚顔無恥ぶりを発揮する知事さんの悪行三昧が、最後には兵庫県民にはいい結果となるのだろう、と気長にかんがえるている。

まぁ、リコールという手もある。
だが、検察が動かない国になったので、どんな幕引きがされるのか?まさに民度が問われているのである。

ただし、何度も書くが、わたしは選挙管理委員会も疑っている。

バイデン撤退の民主主義

アメリカ民主党は、アメリカ型民主主義の輸出をするために、世界で数々の戦争を仕掛け、これを収めたのが共和党政権というパターンだった。
かつては、ホメイニ師のイランが、イスラム革命の輸出に熱心だったし、その前は、ソ連がロシア革命の輸出をやって世界共産化を画策しているといわれたものだ。

だが、アメリカ民主党の、「民主主義の輸出」がもっとも各地で血を流すことになったのは、とにかく武器を売りたいがための、「あくどいセールス」の理由付けにすぎないからである。

彼らのいう、「悪の枢軸」の最初が、「日・独・伊の三国同盟:枢軸国」がはじまりであり、第二次世界大戦は、民主党のフランクリン・ルーズベルトと英国のチャーチル政権の英・米二国が主導したのである。
なお、チャーチルのヤバさについては、渡辺惣樹氏の『英国の闇チャーチル』をみよ。

「民主主義」をあたかも、自由の女神が掲げる松明のようにしているが、何のことはない、ただのセールス・トークにすぎなく、本音は「征服・支配」なのである。

なので、徹底的に破壊されたドイツは滅亡したし、わが国はもっとあくどくわかりにくい形式で滅亡させられた。

その象徴が、「天皇の人間宣言」というプロパガンダによる日本教の崩壊であった。

これでわが国は滅亡したのであるけれど、ドイツに適用した「ベルリン宣言」のように、国家滅亡のけじめすらつけてもらえなかったのである。

そのドイツから、フォン・デア・ライエンのような、アメリカ民主党の意に沿った政治家が登場し、ヨーロッパを牛耳っている。
彼女を登用したのが、東ドイツで育った化学者出身の、アンゲラ・メルケルだったのである。

この人物はあたかも、マーガレット・サッチャーが化学者だったことを利用した。

しかして、かつて国会議員で国防大臣経験者の彼女のいまの身分はドイツ政府とは関係なく、官僚のトップに君臨している。
なんだか、初の女性で防衛大臣をやった小池百合子(第一次安倍内閣)のようなのだ。

ライエンEU委員会委員長は、選挙とは関わりのない安全地帯から、たとえばウクライナの停戦に汗をかく、ハンガリーのオルバン首相を批判して、ハンガリーへの様々なイジメの先導者となっている邪悪がある。

7月からの半年間の「EU議長国」として、すでに精力的な停戦活動の『現況報告書』を書いてEU事務局へ提出しているが、フォン・デア・ライエン以下は、従来の「EU議長国」としての立場すら認めない、と勝手に決めつけている。

ここに、「法治」という概念すらないのは、単純に全体主義者たちだからである。
ゆえに、ナチスの正統な後継者、ゼレンスキー(政権)を大統領の任期が切れてもV.I.P.扱いして、ハンガリーという一国の首相より上位だとしてはばからないのである。

そんなEUを事実上支配しているのが、アメリカ民主党や共和党主流派の軍産複合体だ。
もちろん軍事では、アメリカがNATOを支えていることになっている。

そんな民主主義の本家本元の民主党が、とうとう「バイデン降ろし」を成功させたようである。
ただし、バイデン氏本人が、「撤退声明を出したのか?」は不明だ。
本人は姿をみせず、「書類」だけが表にでてきたが、その真偽があやしいからだ。

だが、この半年以上かけた、「党内予備選挙」の結果も躊躇なくかんたんに吹っ飛ばす、党幹部による組織の独裁があると、世界にしらしめたのは事実である。

各州で、予備選挙投票をした党員たちは、これをどうみているのか?ぜんぜん報道されないのは、幹部のご意向に従っているプロパガンダ機関ばかりだからである。

もちろん、予備選挙の結果がバイデン氏の圧倒的勝利であったのも、有力な対抗馬を出させないこともやったし、そもそも、選挙日程すら勝手に変更し、バイデン氏が負けると予想された州では、予備選挙すら実施しなかった。

自民党やらの「密室談合政治」をさんざん非難してきたわが国のマスコミも、およそ民主主義には値しないことを民主党がやっていると断罪報道するところはない。

もはや第二次トランプ政権ができることが、「織り込み済み」となっているのが、Moneyの世界だ。
株も債券も、トランプ政権を見越している。

これが、リスク管理というものだ。

いまから出たところで敗戦がみえるから、とうとうヤケのヤンパチになった民主党は、あろうことか歴史的不人気のカマラ・ハリスを大統領候補にするとこれも幹部がかってに決めた。
だが、オバマ派、クリントン派、ペロシ派の三派が一致してはいない。

痴呆症が悪化した老人から、こんどは知能が疑われる人物の立候補者変更に、ご当人のカマラ・ハリスはよろこんでいるらしい。

アメリカ合衆国初の、女性で有色人種の大統領になっちゃうかも、うふん、と。

だが、彼女はインド系なので、「黒人」ではない。
全米黒人協会は、カマラ・ハリスに、「黒人を名乗るな」と苦情を申し入れている。
それで、来月の党大会までに、「副大統領候補」を決めないといけなくなった。

日本では、このタイミングで日大の外国人准教授が書いた、「日本が黒人奴隷のはじまり」説で、大学はこのひとの経歴を削除した。
日大の不祥事は、延々とつづく。

さて副大統領候補にはラストベルト地帯の、スィングステートから民主党現職知事が出るのではないか?といわれはじめた。
選挙の趨勢は、知事配下にいる民主党州務長官が「選挙管理」の側面から握る。

よって、ラストベルトの星、D・J・ヴァンス氏を副大統領候補にしたトランプ氏の戦略的人選が光る。

あと3カ月と少しの大統領選挙は、やっぱり目が離せない。
属領である、わが国の状況が決まるからである。