国産旅客機開発!何が経産省を?

三菱重工が「MRJ」でコケて倒産しかけたのは、1兆円の投資にリターンがぜんぜんなかったからだけど、こんどは「複数社でやればいい!」という、より難易度を上げてでもやるというのは、経産省の役人にどんな動機があってやってくるものなのか?

経産省は、『悪霊』かなにかに取り憑かれている?

本稿では、この「悪霊」についての分析を試みたい。

さて、このような具体的事案のかんがえ方の整理には、いったん抽象化することがセオリーとなる。
「具体 ↔︎ 抽象」の相互で何度か思考を行き来すると、だんだんとその本質が見えてくるものなのである。

しかし、ただ抽象的にかんがえるといっても、きっかけとなる手がかりがないと、どこからどうかんがえればよいかがわからない。

そこで、わたしはこんなときには、小室直樹やら山本七平やらの考察を参考にしたくなるのである。

今回は、さいきん復刻された小室直樹の名著(彼の著作は全部が名著)『危機の構造』(初版は、昭和51年:1976年)を底本にして紐解くことにする。

ついでに念のため、「構造」という見方をするのは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を嚆矢としてできた、「構造主義」によるものだ。

さて、『危機の構造』のなかでも、日本社会における「原理」と「構造」を解析しているのが第二章である。

なお、出版時の大問題は、「ロッキード事件」(昭和51年:1976年)で、前総理の田中角栄が逮捕された時期(三木武夫内閣)にあたるのでまずはこの事件を扱いつつ、その前(昭和47年:1972年)に全国民を震撼させた浅間山荘事件を起こした「連合赤軍」という10名ほどのグループの組織に関して「構造解析」を試みるのである。

もちろん、わが国における近代史上最大の問題は、第二次世界大戦の参戦であり、敗戦であるから、戦後の大繁栄の絶頂期に起きた連合赤軍事件と、戦前・戦中の軍についての分析にも余念がなく、当時の軍事官僚と戦後の経済官僚の類似性が、なんと連合赤軍の類似性とともに「三重」になるのである。

そうやって、とうとう、ビジネス・エリートの世界にも、同様の構造を見出すのが、小室直樹をして傑作と名高い本著作の価値である。

ここから、わが国民性が作りだす「組織」の共通した特性があぶり出される(P.41)。

「社会の機能的要請は、多くの機能集団により分担され、しかもこの昨日集団は複雑多様であり、独自のメカニズムで作動するから、機能的紛争の生起は不可避である。しかも、社会全体における機能的要請の達成は、これら多くの機能集団間の分業と協働によりはじめてなされる。ゆえに、機能的紛争を未解決のまま放置すれば、社会過程の進行は阻止され、所期の結果は達成され得ない。」

当然だが、以上から、機能的紛争すなわち職場間などのセクショナリズムに代表される対立が、どんな組織でも、あるいは企業にもみられるのは、機能集団として「日常」であるので、ここに調整のための「組織マネジメント」が必要になるのである。

しかし、わが国では、「組織マネジメント」の方法論すら体系的に教えることを、一部を除いてしていない。
そのメソッドは、戦後米軍から製造業に移植され普及している「MTP(Management Training Program)」である。

小室は、次の3点をもって、おそるべき予定調和説の存在を指摘している(P.45)。

・自分たちこそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。
・この努力は、所与の特定した技術の発揮においてなされる。
・したがって、この所与・特定技術の発揮においてのみ、全身全霊を打ち込めば、その他の事情は自動的にうまくゆき、日本は安泰となる。

続けて、「このような人びとは、分業のパーツとしてみる限り最高の部品(パーツ)である。しかし、ひとたび全体のリーダーとなるや、最悪のリーダーとなる。けだし彼らは、限定された分業の遂行者としての視座しか持ちあわせないため、全体的コンテクストにおいて、すべてのフィードバックを総合することはできないから、リーダーとしては最悪のリーダとなる。」

こんな事情から、「一般的批判拒否症」を発症する。

これはいま国会で流行の、「答弁拒否」という状況になって現れている。
行政府の大臣といえども、国会の場における議員からの質問には、「答弁する義務」があるのは、議員が選挙を通じた「代議士」だからである。

これをどんな了見で拒否しているのか?と問えば、「一般的批判拒否症」を発症しているからだと「診断」できる。

そんなわけで、一般的批判拒否症を発症すると、「各機能集団間のディス・コミュニケーション」となって、結局は、「所期の目的が達成され得ない。」(P.51)ことになるのである。

そんなわけで、「MRJの失敗」があったのに、へんな「エリート官僚」の義務感が「悪霊」のような振る舞いをさせているが、上のメカニズムが作動してかならず失敗するのである。

おそるべし、官僚思考、おそるべし小室直樹!

常識を乗り越えたいときにはSFを

歴史小説はぜんぶ作り話だから絶対に読まない、といった理系人がいた。
彼は国立有名大学で、数学の博士号を持っているが、わたしは思わず「つまらない奴」といい返したものだ。

数学の本質は、論理である。

論理を理性に置き換えると、理性第一主義がルネ・デカルトが世界を一変させた『方法序説』による、近代文明社会の登場となっていまに至るわけであるが、その文明が行き詰まっているからこその「文学=文化」への回帰が重要かつ必要なのである。

これを、シュペングラーが100年前に『西洋の没落』で力説していると何度も書いてきた。

日本の大数学者、岡潔の『情緒と日本人』も、先の博士はしらないらしいから、どんな指導教授のもとでどんな博士論文を書いたのか?を思い切りうたがうのである。

大学と大学院は、「ゴミ論文」を量産していて、この「学位販売商売」は、そうやって質より量の大量消費時代のままでいるから一般人から「象牙の塔」といまだにいわれることになっているのである。

ただし、「安穏とした棲みやすさ」のおかげから、「ゴミ論文」すら書かないで、学費を負担する学生(とその親)に対して、教育詐欺をやっても恥じることは一切なく、むしろ学内の政治にエネルギーを投じて、一派による支配の構造を維持せんとして「保守」に汲々としているのである。

この意味で、大学生になったら、自分で自由に勉強する、という学問の本質的な状況に回帰するという、ここでも「回帰」が重要となるのである。

小学校から高校まで、先生(教師)と教科書のいう通りにするという訓練しか施されていないので、おおくの学生がすぐさま「自由な」大学生活に頓挫して、サークル活動やアルバイトに精をだすことになったのは、これも「むかし」からの伝統を「保守」する態度になっている。

就職予備群として、アルバイトで得られる社会経験がそのまま人生の役に立つこともあるけれど、それにはアルバイト先のおとなたちが尊敬に値するような品位があってのはなしであるから、あんがいと確率的難易度は高く、またそういったアルバイト先こそ、先輩から後輩に引き継がれる傾向が高いので、学生間の人間関係の構築がこの確率を高める条件になっている。

上のように、理系でもコレなので、文系という文科省の役人(じつは本人も文系のくせして)から、「役に立たない文系への低予算配分」という恣意的な行政がおこなわれて、ますますシュペングラーのいうことから乖離する自滅の努力をやっている。

しかし、役人は、「専門家会議」というアリバイ機関を用いて、あたかも「文系学者」のいう通りにしている「だけ」だという責任回避術をやめることはない。

たとえば、「新しい資本主義=じつは共産主義」のことを、礼賛する外国人学者のベストセラー、『企業家としての国家』とか同人の、『ミッションエコノミー』をしっかり参考にして、審議会での結論づくりにいそしんでいる。

「科学」は、理系ではない、「社会科学」とかもっと曖昧な、「人文科学」という分野をつくったけれど、「科学」の本質的意味は、「細分化」にあるので、文系も細分化することが「科学」として記述されているのである。

なので、対象が、「人文」だろうが「社会」であろうが、「科学=Science」になったから、あたかも上で紹介した著作が、文系役人の都合がいいように使われている。

つまり、とうとう、「SF」が、国家運営実務にそのまま応用されるという、まったくSF小説のようなことが現実になっているのである。

こうなると、「SF」を読んでおかないと、現実を見失うことになる。

さすがに、役人が御用学者をつかってSFの実現をはかるには、それなりの時間がかかるので、先に読んでおく、ということが「常識を乗り越える」ために必要になるという、伝統的ディストピア小説が描く世界が現実になろうとしているのである。

現代人は、SFを読むことがいまや義務になっている。

静岡県知事の辞任にひと言

一応、静岡県知事の元職は経済学者だったので、静岡県の皆さんがどうかんがえているのかしらないが、隣の神奈川県からの「残念」を表明する超少数意見(おそらくわたし一人だけ)を書いておく。

念のため、神奈川県知事の元職はフジテレビの報道記者で、政治討論「風」番組のキャスターもやっていたけど、記者としての業績については、残念ながらろくなものではないと前に書いた。

なにせ、日本のピューリッツァー賞と自画自賛している、「放送文化基金賞」と「日本民間放送連盟賞」の同時受賞歴があるとはいえ、ほんとうにこのひとが取材した記事が「受賞」の理由なのか?がうたがわしいと勝手におもっている。

「緊急医療にメス」と、日本の医療の闇に切り込んだはずなのに、コロナではその取材経験の微塵も感じさせない素人ぶりだったからである。

なので、本稿は、ポンコツぶりの競争をすると、静岡県知事の方が「まだまし」だということを書いて、辞任表明を残念がりたいのである。

ちなみに、山梨県知事のポンコツもなかなかに強烈であるが、山梨県民のポンコツという実態からして合点がいくし、クルド人問題で揺れる埼玉県知事にいたっては、アメリカ民主党の「聖域都市」を真似るほどのポンコツだが、こちらはより先進的で、いまや「売国」をやっている。

もちろん、神奈川県民のポンコツは、その圧倒的数の多さで、われながら気が滅入るが、さらに横浜市民とか、川崎市民など、とにかく「民主主義をうたがう」ほどの破滅的な民度の低さは、やっぱり一度破滅するしかないのだろう。

さて静岡県知事である。

このひとを「全国区」にしたのは、JR東海が社運をかけて強力に推進している、「中央リニア」への「まった」であった。
リニア自体に関しては、何度も「意味不明」と「禍根」について書いたので、この件に関して「だけ」じつはわたしは静岡県知事の支持者なのである。

東京と関西(やっぱり「大阪」)を結ぶ新幹線は、東海道新幹線と、北陸新幹線の2ルートができることはもはや既定路線なので、さらにもう一本の「中央リニア」とは何者か?という問題がある。

なお、こうした議論の前提に、いまやわが国では、「人口減少」という岩盤基板となった社会条件を置くのは基本中の基本である。
明治から150年間ほど、あたかも人口は増加するもの、という常識が、西暦2000年を境にこの歯車が「逆転」をはじめたのをわすれてはならない。

なので、3つの新幹線ルートに誰が乗るのか?にくわえて、旧幹線である東海道線と中央線、それに北陸線の3ルートも十分に「リニューアル」の検討を要していいはずのものだといいたい。

これらの議論には、「本州の地形」が前提になるのも当然で、それには「地質」もかんがえないといけないのも当然なのである。

旧幹線の東海道線が走るのは、中央構造線の南(「外帯」)にあたる太平洋側で、東京から冨士までは、フォッサマグナの真上を横断しているし、旧幹線の中央線は、その中央構造線そのものの真上をずっと走行するのは、地質構造がつくった地形がそうさせるからである。

「中央リニア」は、その中央構造線の真上と、50万年前に本州に衝突していまでは「伊豆半島」になった伊豆島の動きはいまだに止まっていないので、これでできた地面の「皺」が日本アルプスを形成し、もっとも伊豆島の押しに対抗して世界一の隆起をしている南アルプスをトンネルで爆走するという傲慢極まりない人工物としてまちがいなく「世界遺産の遺跡」になる代物なのである。

この意味で、大井川の水脈を理由に工事をさせないのは、逆にいえば、他の沿線知事らが目先に目がくらんで静岡県に文句をいうお門違いもはなはだしいのである。

JR東海が発表している、中央リニアの乗車料金体系は「安すぎる」ので、既存の新幹線や旧幹線の乗客が料金負担をさせられることになっているし、一緒に推進している国土交通省なる役所も、全国から集めた税金と国債とで資金援助するのは、かつて東海道新幹線が世界銀行から借りたとのはちがって、じつに不明瞭な資金計画なのである。

なんだか個人攻撃があらゆる方向になって、新年度の職員に語った「役人は優秀だ」という発言が、なんでもこじつけることに文才を発揮するマスコミの攻撃となった。

残念ながら、学校の成績すなわち「偏差値」でみたら、役人は優秀にきまっている。

原書は2014年にでた『企業家として国家』という、センセーショナルな本がさいきんになって新訳もでた。
もしや経済学者だった静岡県知事は、この本の読者なのかもしれない。

わたしはこの書についてかなり批判的な見方をするものだ。

なにせ、著者はあの世界経済フォーラムにどっぷりと関係しているし、イギリス政府にも発言力があるというから、没落の極みとなったイギリスを誘導しているという意味で、トップランナーなのではないか?

本来ならば、こうした書籍の内容を全面支持するはずのマスコミが、なぜに大批判をしたのか?は、マスコミこそが「ポピュリズム」の一大推進機構になっているからで、残念な多数の愚民を煽っているのである。

そんなわけで、リニアに反対するあたらしい知事が選ばれるのが、静岡県民の矜持をはかるバロメーターになったのであるけれど、そんな候補者がでるのか?から話がはじまったのである。

なので、これから「後継者」を選ぶ作業に知事は専念してほしい。

個人的な妄想をいえば、こんな静岡県知事を名指しして批判した神奈川県知事が辞任して、静岡県知事候補になって消え(敗退し)て欲しいとおもうばかりなのである。

イギリスが先に壊れていく

ユナイテッド・キングダム(連合王国:UK)は、4つの王国(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)が文字どおり「連合」してひとつの近代国家を形成している。

アラブ首長国連邦(UAE:むかしは「ア首連」と略していた)と、形態は似ている。

スコットランドと北アイルランドが、それぞれUKからの独立を画策しているのは有名な話だが、ロンドン政府の統治能力が壊れている深刻がある。

来年予定されているイギリスの総選挙では、現状、圧倒的な保守党の凋落から、労働党への政権交代が確実視されている。

けれども、今年の11月、アメリカ大統領選挙の結果を受けて、「ほぼトラ」が実現したら、イギリスもそう簡単に労働党へのバトンタッチがされるかどうかはあやしい。
むしろ、トランプ氏の当選後に時間がたてばたつほど、「打つ手」の正当性が、反トランプたちの目覚ましになる可能性が高まるからである。

いまや世界は、「保守と革新」とか、「左右の対決」とかという平面的な対極から、「グローバル全体主義」と「そのアンチ」とに分裂していて、アンチの側の代表にトランプ氏がいるにすぎない。

アンチには、ハンガリーのオルバン首相、ロシアのプーチン大統領、アルゼンチンのミレー大統領、それにフランスのルペン女史、イタリアのメローニ首相らがひかえていて、ドイツやオランダでは勢力が急伸している。

日本では、「親米保守=ビジネス保守」たちの親米がイコール「親・民主党=グローバル全体主義=トロツキー派」を意味することがハッキリしてきたのも、このひとたちが反トランプという立場を崩さないことであぶり出されている。

イギリスは、第一次大戦以前から国力の衰退が顕著であったために、清国と太平洋の覇権確保のために日本を、薩長とともに開いて、はなからアメリカを牽制していた。
当時は、アメリカもイギリスに従っていて、国力をため込んでいたのである。

しかし、大英図書館にこもって『資本論』を書いたマルクスを、あたかも「偉大なる無視」といって興味なさげに誤魔化したけど、本当はむき出しの野蛮な儲け主義に対するマルクスの批判が効きまくったのである。

これを、『エレファントマン』(1980年)で、見事に映像化した。

この映画の主人公は、気の毒にも「エレファントマン」と呼ばれた障がい者ではなく、ヨーロッパ大陸からの野蛮なノルマン人によってケルトが征服されてしまったことを原点とする、産業革命下での廃退した社会そのものであった。

なにせ、この国の王権は、日本的にみたら「ヤクザ」そのものだし、最強の海軍すら、実態は単なるドクロの旗を掲げる「海賊」にすぎなかったのである。

ふだんはドクロの旗を掲げ、王からの命令一下で「海軍旗」にかけかえた。

これをもって、日本人にはありえない卑怯な「偽旗作戦」が、彼らにはなんの道徳的後ろめたさも微塵もない、騙される側が悪いという何でもありがふつうの神経でできるのである。

わたしは、「資本主義」とはマルクスの造語にすぎないとかんがえているが、あまりの無惨な社会実態に、あたかもそれが資本主義の弱点なのだと勘違いして、数々のマルクスの指摘に沿った、本音では妥協の「対策」をとった(たとえば「福祉国家」という社会主義化政策)ら、なんとなく無惨が改善できた(あくまでも「対処療法」)ので、財政豊かなうちに本気で福祉国家に邁進してしまったのである。

魚が釣れないひとに釣れた魚を分け与えるのではなくて、「確実に釣れる方法」をしっかり教えることをトランプ氏がいうのは、しごく当然のことである。

ところが、そんなイギリスもざっと70年で財政破綻したから、とうとうサッチャーの出番となって、一気に「自由主義革命」まで突っ走ることになり、彼女の実子が母に楯突くのと重なって、福祉国家のぬるま湯に慣れてしまった国民からも嫌われて頓挫・退陣の結果に泣いたのだった。

左右に関係なく、「革命」とは失敗するものなのである。

なお、余裕のあるレーガンのアメリカは、パパ・ブッシュからあえなくクリントンに政権交代し、やっぱりグローバル全体主義へと舵をきったので、この30年のアメリカでトランプ氏が「外れ値」になったのだった。

適当な見せかけをやった中曽根内閣以降のわが国は、バブルで浮かれて、「冷戦終了=日独からの刈り取り」への大戦略変更に気づかないまま、21世紀になってもまだアメリカ依存をやっていて、これがあたかも「イギリス化の道」を既定路線の鉄道のようにひた走っているのである。

もちろんこんなイギリスの状況を知らないはずのないわが国のエリート官僚(オックスフォードやケンブリッジ、ロンドン大などに留学して、国費で学位を得ている)は、昭和36年に「社会保障制度」を完成させて、やっぱり70年で破綻するが国民には「安心」だと大嘘をついて平気でいる。

そんなわけで、いまのイギリス政府は、とうとう統治機能を喪失して、まもなく終了する様相になってきている。

なので、トランプ氏が復活したら、カウンターパートとしてイギリスにも第二のサッチャーが登場するだろうが、その前に、国民は塗炭の苦しみを味わうことになるのだろう。

昨年、ロンドンに次ぐ第二の都市、バーミンガム市は財政破綻して、あたかも「夕張市」のように中央政府直轄になったけど、今年からゴミの収集日が二週に一回となっているため、この夏は街中が悪臭にまみれることが確実になった。

ちなみに、中央政府直轄になったとは、市民が選んだ地方政府の責任を市民が追うという厳しいペナルティーがはじまった、という意味で、こうした厳しい責任を市民が負うことで、「地方自治こそが民主主義の学校」といわれる本来のゆえんなのである。

わが国も、順番待ちをしているので、イギリスがどんな悲惨になるかは「明日は我が身」なのであるけれど、脳まで溶けている愚民にそれが理解できないから、やっぱり順番通りになるのだと覚悟しておくことが必要なのである。

以上が大袈裟ではないのは、1日、とうとう金の価格が1グラム1万2千円を突破したことからそのまま読み取れることだからである。

コロナの始まりでは、7千円だったから、「円・ドル相場(1ドル100円が150円になった)」と並んで、円価(円の価値)が金でも半減しているのである。
つまり、バイデン政権によるインフレでのドルの減価よりも、円が一方的に価値を失っているのである。

だが、日本政府も日銀も、なんら具体的な手を打たないのは、理論の貧困ではなくて、政治の圧力から「打てない」からである。

驚くほどのスピードで、われ我は貧乏になっているのに、気がつかない大ボケが日本国民なのである。
この「ツケ」は、終戦時の大混乱よりも無惨なことになる可能性が高い。

ガソリンがリッター500円やら800円になってもおかしくない。これが、冗談抜きで、政府の補助金と業界規制(社会主義)が、国民の目を現実から遠ざけているから、「いざ崩壊!」となったら、あんがいとイギリスよりもずっと深刻なのは日本なのである。

日本文化破壊工作、「麹」の否定

それぞれの国家には、「国旗」や「国歌」あるいは「国の花」とか、さまざまな「国の代表」がある。

そのなかに、「国の菌」というものがあって、日本は「麹菌」を指定しているのである。

世界的に、日本人の「発酵文化」は有名で、味噌・醤油だけでなく、酒(いわゆる「日本酒」や「焼酎」)についても、「麹菌」は欠くことのできない原材料と同時に、発酵自体をおこなう素になっているからだ。

それでもって、「日本食」が、世界文化遺産になったのも、「麹」からつくるこれらの製品が、調味料としての当然となって、「からだにいい」つまりは、健康食としての驚異が認定されたからである。

なので、100㎏をかるく超えた外国人が、留学生として来日し、ホストファミリーとの日本食生活で、卒業して帰国したら、本国の家族が驚愕したというエピソードは、ネットにかなりのパターンでアップされて、一種の「定番」になっている。

さらに尾ひれがついて、本国の家族が「虐待された」と勘違いの憤慨をするというものまであるけれど、一応に、日本食の健康効果で結果的にすごい効果のダイエット食になったというオチである。

これがまた、ハリウッドセレブたちが、和食信仰をしていることにも通じている。

じっさいには、小麦を抑えて米を主食にすえたことの効果なのだとエビデンスがある分析がされてきている。
その米(ごはん)を食べるおかずに、発酵食品が不可欠だというのは、科学を超えた奇跡ともいわれている。

さて、わたし個人の話として、「酒粕を食べる」ことについても書いた。

いまでも続いていて、神奈川県内の造り酒屋の「紅麹酒粕」は、こないだ4㎏を食べきったばかりで、いま流行の「紅麹サプリ事件」の前に、ことしの新酒をしぼった酒活を買いにいったら、残念ながらことしは紅麹での仕込みはしなかった、とのことであった。

なので、いまごろこの酒蔵は胸をなで下ろしているかもしれない。

しかし、わたしとしては、熟成させた紅麹酒粕のあたかも甘くないチョコレートのような味が忘れられないので、大変残念がった矢先の「事件」となったのである。

もう、ネット界隈では様々な裏情報が曝露がされて、あたかも表の「紅麹悪玉説が確定した」かのごとくの、じつに非科学的な報道らしきプロパガンダが行われている。

たとえば、亡くなった「被害者」について、ワクチン接種歴に一切触れないことで、このサプリ単独の問題だと国民を誘導しているのが鼻につくのである。

もちろん、その先兵が、厚生労働省による立ち入り検査であるが、100倍に及ぶ「認定死亡者」がでているワクチン被害については、「契約」をたてにして、外国の製造工場に立ち入り検査するどころかその成分も、また、その契約書の開示も国会で正々堂々と拒否しているのである。

さて、ここでいいたいことは、「文化破壊=文化革命」だといいたいのである。

明治の「文明開化」とは、じつは「ヨーロッパ礼賛」のことを指して、あの福沢諭吉をして、『文明論之概略』で明記している。
ただし、さすがは福沢、しっかり「ダメな政府は愚民がつくる」とも筆を進めているところが、そのヨーロッパ文明のなれの果ての現代日本を表していてお見事ではある。

よって、あくまで開国したばかりの当時として、「科学」と「技術」にすぐれたヨーロッパの「実学をとにもかくにも学ぶべし」として、慶應義塾をその用にしたのはまちがってはいないが、いまどきの福沢を見倣うはずの塾長ならば、「日本文化」への一大転換をすべきところ、昨年の甲子園の「異常な応援ぶり(じぶんたちが勝てば官軍))から察するに、みごと愚民(ヨーロッパ文明)化しているのが慶應の校風だとしれた。

残念ながら日本には、シュペングラーのごとき「形態学」をもって、文化から文明にレベルダウンし、とうとう没落する、という歴史の繰り返しを日本人に向かっていった者は少ない。

坂口安吾の『堕落論』が、唯一か?

最近になって、絶版した作品が復刻されてうれしい、碩学・小室直樹の『危機の構造』は、氏の博士論文を基に坂口とは逆の、「急性アノミー(一種の心理的パニック)」が戦後の日本を覆ったという、ヨーロッパ文化的解釈がある。

レヴィ・ストロースの「構造」としてこの両者をみれば、あんがいと根っこでは似ていて、最後はシュペングラーのいう、「没落しかない」という終末は、あたかも、「超新星爆発」とおなじく、ここから「文化再生」のプロセスがはじまる、ということになっている。

すると、とうとうわが国は、愚民による政府が、最高度の堕落をはじめて、とうとう日本文化破壊という挙にでて、没落と再生への道を急いでいるとかんがえられるのである。

しかして、目論む再生のありようとは、ディストピア小説の定番たる、「全体主義礼賛」になるのか?それとも?

まずは、超優良企業たる小林製薬の株価下落によって、だれがこの企業の株を「安く」買い占めて、創業家を追い出して乗っ取るか?という事象にあらわれるはずなので、よっく注視しておくとこの問題のカラクリもみえてくることだろう、と書いておく。

残念ながら、エイプリルフールの話ではないのである。

小学生の語彙は200語!?

何年生のことなのか?がわからない、妙に刺激的な話が蔓延している。

検索すると、小学校入学時の語彙数は、5000〜7000語、卒業時にはだいたい20000語になっているというから、「200語」とはどういう勘定をしたのだろうか?

ただし、「200語説」は、日常会話でのこと、と一応のことわりがある。

会話では200語しか使わないが、読むときには20000語をしっている、ということなのだろう。
ただし、書くときにどうなのか?はわからない。

読めなければ書けないが、読めれば書ける、ということにはならないし、平安時代の言文一致に戻って、話すことが書くことになっているからである。

しかも、日常会話といっていても、それは同級生(子供)同士なのだろうと予想できるのは、親(おとな)との会話をかんがえると「たったの200語」ではありえない気がするからで、「子ども食堂」の普及ぶりをみると、あんがいといまでは親子の会話もないのかもしれない。

じっさいに、小学生同士の会話をじっくりと聞く機会がほとんどないから、たまにファストフード店で隣り合わせた経験でいえば、200語といえばそうかもしれないと思うほどに、会話が断続的でかつ略語を多用していることに気づかされる。

なにせ、おなじテーブルにいながらにして、全員が端末片手に対戦ゲームをやっていて、会話といっても「画面の状況に応じて」何か音声を発しているだけなのである。

「クソッ」とか「しねっ」とか、画面を見ていない側からすると何をやっているのかわからない。
ようやくゲームオーバになって、端末をテーブルに置くなりはじまる「会話」も、もっぱらゲーム内容に関することなので、単純な表現しかしていないのである。

そうやって、腕前についての評価になると、ゲーム用語で人間を評価して、結構どぎつい言葉責めをしているけれど、それで人間関係が大丈夫なのかとかつての子供の頃を思い出して心配になるのである。

どんなに仲が悪い相手にも、この子たちのような決め台詞は滅多に使うことはなかった。

これは、鈍感さを鍛えるための訓練なのか?それともなんなのか?をかんがえたくなる話であるが、あんがいとその場ではクールにやり過ごしていても、やっぱり子供だからあとからジワーッときて、脳の発達とともに引きこもりの原因になるのかもしれない。

スマホを持ち歩く小学生も見かけるが、もうどうにもならないほどに、親が与えることが常識にになっているのだろう。

買い与えないと、イジメの対象になるかもしれないという恐怖が裏返って、率先して購入しているとおもわれるからである。
むかしは学校も「禁止」をいって規制していたが、無責任がはびこって余計なお世話を先生たちもしなくなった。

「自己責任」とは、責任回避の便利な用語なのである。

すると、もうひとつ現れるのが、「横並び=同一化」による安心を求める精神の訓練となって、とにかく「外れ値」にならないための努力を親子でやっていることだ。

これが二十歳を過ぎても、「リクルート・スーツ」という個性を隠すための制服になったから、明日からの新年度どころか、年中みかけることになったのである。

ところが、「クールビズ」というヘンテコリンの蔓延(じつはこれも「横並び」)で、おとなの世界では、世界的にもありえない「ドレスコード」がないも同然の無秩序になったのである。

むかしは「集団主義」といっていたけど、これは明治以来の「国民均一化」による富国強兵のための強力な手段だった。
それで、近年「個性の重視」とかいったら、かえって集団から外れることが恐怖のタネになったのである。

しかし、左翼ばかりの教育専門家がいう「個性の重視」とは、アトム(原子)化のことであって、個々人をバラバラの粒のようにして現世だけの「生」としているから、「今だけ」のネット・ゲーム端末の普及にも文句をいわないのである。

これぞ、末法の世の中における、「現世利益」の具現化そのものなのである。

先祖や子孫のことをかんがえない、個(粒)としての自分だけ、をかんがえればいいという安逸が、全体主義社会をつくるための条件であることは、もうナチス・ドイツやソ連やらの迷惑な社会実験で判明している。

ちなみに、「ファシズム」の元になった、ムッソリーニが創設した「ファシスト党」がどんな思想の政党だったかを国民教育として教えない、というわが国教育行政の具体例からわかるのは、単純に「アウシュビッツの悪」を擦り込んで、いまガザでイスラエル政府がやっていることの意味を分からなくさせている。

もちろん、日本人でも日本政府をぜんぜん信用していないわたしのように、ユダヤ人だからといって、全員がいまのイスラエル政府を信用しているわけではない。
むしろ、イスラエルの人口構成は、いまやパレスチナ系住民の方が過半になっていて、戦争に嫌忌したユダヤ人が国外に退去しだしているほどなのである。

さて、元来、教育は家庭でおこなうものだった。
父や母から手ほどきされて、その最たる事例が「孟母」である。

孟母は理想的で尊敬の対象だが、「教育ママ」は蔑まされた。
その意味するところは、「ママ」という言葉にあって、「おかあさん」と呼ばないアメリカンな言い方が、「薄っぺら」を意味したのである。
コーヒーでいう「アメリカン」とおなじ意味である。

良家では、「とうさま」、「かあさま」と呼ばせていた時代だった。

すると、「学校」とは、教育を家庭から分断させているのだといえる。

むかしはほとんどのひとに「家業」があって、家に居た。
家業が廃れてどんどん勤め人になったことで、学校が「子供の預かり場所」にもなったのである。

だから、昨今の在宅勤務の普及は、この意味で家庭教育に回帰するチャンスだが、利権化した学校一本やりで、「多様性」を口を揃えていうのにそれを一切認めないのである。

29日、学習指導要領に従っていなかったとして、国立(「行政法人」という無責任の組織)の奈良教育大学付属小学校での「事件」についての処分が報道された。
それで、大学の学長やら大学教員に、当該校の校長やら管理職を処分するという、まことに不思議な責任回避が実施されたのである。

所管の「文科省」は、なぜに「無傷」なのか?
ましてや、教育大付属小学校とは、あたらしい教育メソッドやら効果測定のための「実験校」であって、生徒ははじめからモルモットなのである。

だから、教育大学付属小学校において、「学習指導要領」に沿わないのは、当然ではないのか?
むしろ、職務に忠実だったとかんがえるのである。

ならば、冤罪だ。

教育者の矜持として、処分されたひとたちは、訴訟を起こすべきである。

かくなる事態から、国立の小学校に行けるのは余裕のある家庭だけ、のようになっているようだが、じっさいは「抽選」ということになっていて、子供をモルモット扱いされることに同意しての入学なのだということすらわからない親世代の劣化も、過去の教育の成果なのである。

こうしたことから、登校拒否がふつうの感性ではないかと、妙に納得もできる。

窮屈すぎる学校制度を大きく変革すべき時代になっているけれど、おとなたちの劣化がこれを阻んでいるのである。

リモートデスクトップを試してみた

いまさらだけど、iPadを持ち歩くのに慣れてきたら、ノートパソコンを持ち歩くのが億劫になった。

そのiPadも、愛用しているのは「12.9インチ」の、いまのところ最大型と、「10.5インチ」を2台持ちすることもある。

これに、「HHKB」と「ケンジントンのトラックボール「Pro Fit Ergo Vertical」を加え、さらに12.9インチを乗せる「BoYata ipad スタンド」もあるから、ノートパソコンよりずっと重くなるのだが、ノートパソコン1台では解決しないことが優先なので、やめられないのである。

ただし、トラックボールはときどきで出番は少ないけど。
タッチパネルに触ることが、ユーチューバーの若者ほど面倒ではないからである。

このブログでも何度か書いたが、iPadの弱点は、「テキスト・エディタ」の貧弱にある。

わたしは、Windows版しかない、『秀丸エディタ』の機能深掘りは一切しないユーザーなのである。
あえて「秀丸似」といいたいMac版の『WZ Editor』は、たまに使うけど、Macをときたましか使わないので、ほとんどの長文作業は、『秀丸』ですましている。

この二つのエディタは、本文を書き込む画面とアウトライン画面とがセットで表示可能で、さらに動作が軽いために、別の画面で、たとえば「脚注」だけのファイルも開いて作業ができる、稀有な存在なのである。

万字単位の原稿になると、こうした機能が標準にない「エディタ」では、仕事にならないのである。

また、老眼が厳しい老齢の身としては、人気の「iPad mini」にぜんぜん触手が伸びず、むしろ14インチ版が欲しいほどで、10.5インチすら、参照や参考にするためのもので、メイン作業には小さすぎる。

とはいえ、繰り返すが、「秀丸』や『WZ』がiPadで使えない問題を、いろんなアプリで試してきた遍歴だけはある。
ただ書くだけなら、さいきんでは『Craft』やらで妥協している。

そんな中、リモート・デスクトップのお薦めが、『Jump Desktop』だという噂をききつけて、試してみることにしたので書いておく。

結論から先に書けば、事前に情報提供されてはいたが、「日本語入力に難あり」との情報は、やっぱり致命的ともいえる。

iPad側ではなくて、接続先となる、MacやWindows PCに、IMEとして「Google 日本語」をインストールする必要がある。

わたしは、「ATOK」ユーザーなので、正直「Google 日本語」は馴染みがなく、やっぱり使いにくいのである。

そんなわけで、残念ながら「決定版」にならなかった。

ただし、外出中の緊急対応として、「保険」にはなる。
といっても、家にある接続先のMacやWindows PCの電源を落としたり、スリープにさせたりすることもできないので、それなりの「保険代」としての電気代を要するのである。

それにしても、と思うのは、どうしてこういったアプリがみな外国製なのだろう?

たとえば、悪質で危険だとどんなにいわれても、国内では「標準」になっている「LINE」にしても、国際的に大問題となっている「TikTok」にしても、元は韓国と中国製で、「TikTok」は中国国内でも使用が禁止されている代物である。

つまり、こういってはなんだが、韓国人と中国人の作ったアプリが、人気を博していて、一般ユーザー向けのアプリで日本のものが見当たらないのである。

しかも、行政機関が「LINE」を用いて行政情報を住民に出すという、住民(個人情報保護)の安全を本気で守る気が毛頭もない様は、どうしたものか?

なお、わが家では、「VPN契約」をしているので、外出先からiPadを通じて自宅のパソコンに接続することの安全性はコストをかけて一応確保している。

リモート・デスクトップを利用するには、この程度の自己防衛はやっておいた方がいい。

腐る横浜のはなし

横浜市民がほとんどいない、のが「みなとみらい地区」で、この地区(三菱横浜造船所)の再開発に関して、あの横浜のドンこと、藤木幸夫氏曰く、「港湾局をはずして都市計画局がめちゃくちゃにした」とは、名言であった。

ただしそこには、市長も市議会も存在しない「不毛」がある。
そもそも、「不毛地帯」ゆえに、開港場の対象になったことをいま「ハマっ子」たちは思いもつかない。

横浜がハッキリとダメになり出したのは、超人気だった日本社会党、飛鳥田一雄市政のおかげであった。

このひとの安定支持基盤は、市職員(組合)であったけれども、借家住まいだったことがマスコミに「清貧」具合を強調されて、その思想の凶暴性を隠すことに成功していた。
ために、管理職が板挟みのサンドイッチの具材になっていたのである。

もちろん、市議会もそんな管理職に手を差し伸べることはなかった。

いまや港の管理も、横浜市港湾局から国土交通省の直轄になって、横浜市港湾局も国交省の下請けになった。
しかし、その国交省も韓国たとえば釜山と中国の上海に、まさかの国際ハブ港の地位を奪われるはずがないとたかを括っていたら、あれよと転落したのである。

ちなみに、それでも「港」は、特別待遇になっていて、異業種からの参入はいまだに認められない「特権地域」として残っている。

もう、バラ積み船が珍しくなったので、かつての肉体労働をもっぱらとする港湾労働者は激減し、巨大なガントリークレーンのオペレーターが、コンテナ輸送の「花形」になっている。

それでも、気づかない親が横浜には多数いて、子供に港湾に勤務するという道を知らしめることがないから、意外な高齢化と人手不足に困っているのが実情なのである。
だから、港湾関係者たちはみな高給取りになっている。

それもこれも、異業種からの参入ができないためにの特権があるから、大々的に人材募集をすると藪蛇になるからである。

もうとっくに「船旅」の時代は終わって、せいぜいロープライス層のための巨大な客船が年に数回寄港するだけになったけど、これを「超豪華客船」だとの欺瞞情報を流しているのが、いつもようにプロパガンダしかしないマスコミである。

だから、みなとみらい地区には「港湾機能」はほとんどないので、最初は「ワールド・インポート・マート」と自称して、世界中の輸入品を扱っていたものが、「ワールド・ポーターズ」と名前を変えるほどに気恥ずかしくなって、とうとう「アミューズメント特化」という転落になった。

これをやっているのが、「イオン」だから、どこの地方にもある「イオン・モール」のウォーター・フロント・バージョンになるに過ぎない。

結局、東横線からつながっている「みなとみらい線」の、みなとみらい駅か、JR桜木町駅で降りて観光するひとたちがターゲットで、その多くは埼玉県人(の中でも西部)ということになっている。

横浜だけに暮らしているわたしが、埼玉県の県庁所在地大宮に行った経験は、確か4度か5度だけで、副都心となったといっても用事がない。

たまにJR東の新幹線で大宮を通過すると、その発展ぶりは横浜以上に見えるので、埼玉県西部の田舎がターゲットで良かったとイオンのひとたちがかんがえるのには説得力がある。

そんなわけで、いよいよみなとみらい地区に行く用事がなくなったのは、陸側の「野毛地区」の昼飲み族にも関係がないことなのである。

それでもって、市中心部には、どういうわけか「アリーナ」だけが乱立している。

それもこれも、市民のためを装った埼玉県民のためだろうから、いっそのこと埼玉県の飛地になったらいかがだろうと思うこの頃である。
それで、不明な移民たちの対策も合同でできればよいかもしれない。

煎り玄米ごはん

コロナ前のずいぶん前に、長野県の佐久を訪ねた際に購入した、「五郎兵衛米」というブランド米が忘れられなくて、とうとう農家から直送の契約をするに至った。

籾付きか玄米か白米かが選べるので、「玄米」を選択したのだった。

「食の安全」がいろいろいわれる時代になったのは、マクドナルドのビジネス・モデルを「工業化に成功した」といわれていることにも関係して、食材そのものや加工にあたっての「工業化」が、さまざまな化学物質を使用するに至ったことへの心配を表していることは確かだ。

なので、「安心」と「安全」はぜんぜんちがうと書いた。

栄養価が白米よりもだんぜん高いことはわかっていても、玄米ご飯を炊くのも食べるのも、白米と比べたら腰が引けるのは、食感がおなじ「米」とはおもえないほどにちがうからだ。

もちろん、「うまさ」について白米がだんぜん有利にある。

籾を除いた玄米には、「胚」が付いているので、栄養があるけれど、農薬も付いている。

だから、これをもって「玄米毒」というひともいるので、「栽培方法」が玄米を積極的に食べる場合の決め手となるのである。

それがわが家では「五郎兵衛米」を注文している理由だ。

ところで、日本料理の専門家から、「煎り玄米で出汁をとる」という話を聞いた。
米から出汁が取れるのか?と疑ったけど、なんとちゃんと「うまみ」がでてくるのである。

そのために、玄米は乾煎りする。

強めの中火で鍋をかき回し続けると、パチパチとハゼてくる。
焦げないようして音がなくなったら完成だ。

このまま出来たてをスープ類に投入すれば、中華料理の「おこげ」ようになるし、冷ませばポリポリ食感のおつまみにもなるけれど、この冷めた炒り玄米を水から炊けば、出汁が取れるのである。

もちろん、出し殻を捨てる必要もなく、そのまま食べることができるのも玄米ならではなのである。

玄米茶の旨みは、玄米の旨みそのものとお茶の旨みとのマリアージュなのである。

よって、白米を炊くときに、入り玄米を一緒に投じる(水加減も同量を増やす)と、米を米の出汁で炊くという、すごいことができるのだ。

香ばしいかおりは、もちろん「おこげ」とおなじなので、これだけでも食欲をそそるが、カレー用に炊いたらなんとも美味いのである。

「安心」と「安全」はぜんぜんちがう

安全だから安心だ、とはいうが、安心だから安全だ、とはあまりいわない。

もしいうとしたら、その「安心」に相手への信頼があることを条件とする。

でも単に、安心だから安全とは限らないし、前提の「信頼」も、不祥事が起きたら「信頼を裏切られた」といって、せいぜいの恨み節をいっても落命したり健康被害となったりしたら元には戻ることができないので、ビジネス・モードでいうときには、いまどき全面的に信頼してよいかはかんがえないといけない時代となった。

消費者にしてコレなので、提供するプロ(ドラッカー『プロフェッショナルの条件』で指す意味)の側は、ふつうは神経をつかうものだった。

しかしながら、「売上優先」とか「利益第一主義」という、歪んだ発想をもった経営者たちから、「なんとかコストを下げるのがお前の仕事だ」と押しつけられると、現場も歪んで、心情的にはやりたくなくとも「これでなんとか」という意味のギリギリを追求しだすのである。

それで、その「ギリギリまで」の限界を、もっともっとと経営者に煽られて、とうとう妥協して一線を超えてしまったら最後、今度は「確信犯」に変容して、不具合が出たときのトカゲの尻尾切りをされることだってある。

こんな事例の場合、経営者が「責任ならトップたる自分がとるから」といって、たいがいは説得して、説得されてしまったら、上のように知らんぷりされるのが関の山なのである。

まるで、いま話題のワクチン大臣のごとくである。

そうやって職ごと失ったひとはたくさんいるけど、命を絶つ場合だってある。

むかしはそれでも個人の「泣き寝入り」だったけど、いまは「告発」することが容易になったので、次の段階は会社ごとなくなる、という事態になったのではあるが、だからといって被害者が救われるということはない。

日本経済のために、「規制緩和」がさんざん議論になったけど、緩和されたのは「安全基準」ばかりで、事業についての役所の「許認可」という社会主義=全体主義のための規制は、どんどん強化されていまに至っている。

ここには、役人は絶対に間違えない、という歪んだ発想が前提にあって、これがいわゆる「日本番DS(ディープステート)」を形成しているのである。

「DS」とは、高級行政官僚たちによる、政府の私物化を原点とするのは、世界共通だ。

もちろん若者が起業しようとしても、金融機関を取り締まる金融庁が、担保は不動産でとれと命じるものだから、借りようにも借りられず、結局は起業そのものを諦めることになっている。

ために、政府系金融機関が起業資金提供をする、というのは、マッチポンプなのであって、民間金融機関の役割が小さくなるように「規制」しているのである。

そんなわけで、古い企業ばかりが存続して、経済の新陳代謝がなくなったら、国家経済にとってのダイナミズムを喪失した。

これが相変わらず、若い親世代も子供に高い偏差値を求める理由となって、無難な就職を願うようになり、ひいては無難な人生が最良だという、ないものねだりをするしかなくなったのである。

その典型が、役所に就職が決まったらこれで「安心」だと胸を撫で下ろす風潮なのである。

これが「家畜化」の本質だ。

こうして、食べる物も「家畜化」がすすんで、ガンが死因のトップになった。

レジ前で、たっぷりの買い物をしているひとの購入品を眺めていると、大型冷蔵庫の普及とガンの発症率の推移が正比例しているのではないか?と思いついた。

ならば冷蔵庫は小さいほうがガンにならないのか?
電気屋さんが決してスポンサーにならない研究だろう。

ただしそうなると、日に一度の買い物では足りないかも知れないので、よほどの暇人で余裕がないとできないことになったのである。

これが、安心と安全のちがいで、安心しているのは富裕層ばかりという格差の元なのである。