「永遠なるもの」とはなにか?

宇宙がいつどうやって生まれたのか?について、鉄板だとかんがえられてきた「ビッグバン」が、ほんとうに起きたのか?という、いまさらタブーなはずの疑問が、いきなりハッブル宇宙望遠鏡から代替わりした、ジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡で撮影された一枚の写真から大騒ぎになった。

膨張する宇宙の逆をたどれば、極小の一点にたどり着く、という説の大前提になる「膨張」が疑われる写真が撮れてしまったからである。

それでもって、ループする宇宙とかナンとかと「新設」なのか?「珍説」なのか?素人にはわからない議論が巻き起こって、なんのこっちゃ状態になっているのである。

とにかく、宇宙をあつかう学問で用いる「単位」が、大きすぎるので、人間の生活時間の感覚とは一致しない。
もしも、人間の寿命が大幅に伸びて、たとえ100年となっても、宇宙の単位からしたら、一瞬どころの瞬間にもならないだろう。

たとえ5000年の歴史を誇っても、宇宙時間からしたら、やっぱり一瞬にすぎない。

その一方で、物質の最小形が、「素粒子」だということがわかって、こちらは逆に、おそろしく極小の世界にある。
物質は、原子レベルだとえらく「スカスカ」なのも、人間の生活からはかけ離れている。

それで、物質をあつかう「化学」や、「物理学」は、もう、「ダイヤモンド」やら「石炭」やらあるいは「砂糖」を見ても、ぜんぶ「炭素である」という判断をして、目に見える「もの自体」からなにかをかんがえることはとっくにしなくなったのである。

ところで、一般的にいう「恒星」は、太陽のように核融合反応をして光っているのであるが、結局は「鉄」をつくりだしてその一生を終えることになっている。

すべての生物は炭素をふくんでできあがっている(「有機物」という)ので、超新星爆発で飛び散った、鉄にいたらなかった炭素が惑星の材料になってくれないと生命は誕生しないし、なにせ「水」もないといけない。

こうやって改めてかんがえてみると、「永遠なるもの」とはなにか?とは、宇宙における「循環」をいうので、いまさらに「持続可能」とかという意味なし言葉の非科学をいわれても、なんだかわからないのである。

それでもって、今日は5月1日で、いわゆる「メーデー」という年に一度、世界の労働者の祭典の日だ。

わが国において、「主権回復の日」をどうして「国民の祝日」にしないのか?とか、戦後にあって、メーデーを祝日にしなかったのは何故か?に思いを馳せると、4月28日は前に書いた通り、わざと当時の「天皇誕生日」の前日にした嫌みがあるし、メーデーを公認したら、あたかもソ連のようなイメージになるのを嫌ったからだろう。

しかし、メーデーの主賓に、総理大臣が出席する時代になって、会場からの激しいヤジに、連合会長が遺憾の意を表するまでに時代は変わって、わが国の「国体」は、とっくにかつての社会主義国のようになっている。

かつての社会主義国とは、公式には労働者の国といいながら、ぜんぜんちがう国のことをさす。

そこで、あり得ないほどあからさまに、アメリカ民主党(という名の共産党)のいいなりの政策を、なにかに取り憑かれたように実行してやまない岸田政権のおぞましき姿に、労働組合や労働者たちはどうかんがえているのか?を問うと、ほとんど無反応になっていることに、さらなるおぞましさを感じるのである。

世界は、左右の対決というかつての図式から、グローバル全体主義と反グローバル全体主義(ナショナリズム)に分かれていて、はげしい対立構造ができている。

こないだ政府が募集をはじめた、実質的言論統制への「パブリックコメント」についても、はたして労働組合はどのような見解なのか?
「自由と民主主義」という「国是」が、溶けてなくなろうとしてしているさなかの、歴史的メーデーなのに、だ。

世界の小麦需要を支えたウクライナの穀倉地帯も、なんとすでに半分の農地が、グローバル企業に買い取られている。
アメリカでは、最大の農地保有者が、あの、ビル・ゲイツ氏となったことは、周知の事実だ。

食料の争奪戦で、貧困化するわが国はすでに「買い負け」しているのである。

あたかも、「飽食」と「食品廃棄」が同時におきて久しい国ではあるが、カロリーベースの自給率を厳密に計算すれば、1割もないのが、ほんとうのこの国の「脆弱性」なのである。

武器を買うだけが防衛ではなく、食料の自給という根本がすでにない、砂上の楼閣がわが国の飽食なのである。
それでも、豊富な食材がスーパーには永遠にあるのだと信じて疑わないのが、わが国滅亡の原因と後世の歴史家は書くにちがいない。

いまどきの賃金取得者が、どこまで自分を「労働者」だと認識しているのか?が薄まったから、労働組合の組織率はもうかつてのようなことはなくなっている。

しかし、80年代の日本でのベストセラー、『選択の自由』(原著は1962年)におけるフリードマン夫妻の議論は鋭く、消費者団体は消費者のためにあるのか?とか、労働組合は労働者のためにあるのか?を説いている。

ただし、これらの指摘は、一方では本来の目的(合理性)が組織マネジメントする者たちによって簡単に誘導されて、歪められるという意味でもあった。

もちろん、ハイエクの『隷属(隷従)への道』と双璧をなす、「新自由主義」の名著であるが、「新自由主義」という用語そのものが、都合よくグローバル全体主義者たちの巧妙な論理(欺瞞)によって、まるでコロナウィルスのごとく忌み嫌われる悪だという扱いとされている。

なお、『隷属への道』(春秋社版ハイエク全集)には、フリードマンによる「序文」がある。

個人的に、ハイエクの深淵に比べるとフリードマンの浅さが気にはなるが、こうした論を現代現役の識者が同時代として語ることもなくなっている。

そうやって、ケインズ的なるもの(実は共産主義)を、永遠なるものとして、これ以外を排除することが、すでに暗黙の了解事項になっている。

連合会長は、共産党の排除は熱心だが、共産化した自公政権には擦りよっているかに見えるのも、永遠なるものへの依存という病理なのだと、あえてメーデーの今日、指摘しておく。

分母と分子がない宣伝

「TRAIN TV」が未来だったのは、『トータル・リコール』(1990年)を製作したアメリカ人からの目線だろうが、たった12年後の2002年に、山手線で液晶ディスプレイが導入されて、映画の未来が現実化したのである。

それから22年経った今年、とうとう「放送」が始まって、本当の「TRAIN TV」に進化したらしい。

テレビと聞くと、ムダが反射的に連想されてしまうわたしには、きっとロクでもないのだろうと思って観ていたら、やっぱりロクでもないから、念のために書いておく。

「無料」だから民放と同様に基本的には車内で手持ち無沙汰になった人向けの、広告塔なので、そもそもが目と脳の毒である。
しかし、人間にも備わっている狩猟本能から、なにか動くものを見つめてしまう習性があるのだ。

これが、静止状態の「中吊り広告」や「壁面広告」と一線を画す、まさに画期となったのだ。
どうせ暇なら車窓の景色でもボンヤリ見ている方が、よほど健康によい。

ちなみに、人間の目線は、上下運動が左右の運動よりも優先するようになっている。
この意味でも、縦書きの日本語は合理的なのであるが、今どき、電車で読書をしているひとを見るのが困難になった。

これほどまでに勉強をしない民族が、かつてのGDPを維持できなくなるのは当然だ。

さてここで一例として取り上げるのは、役目を終えた路線バスを、なにか別の利用方法で「再利用する」という紹介番組である。

それが、「サウナ」というわけだ。

いま、東京の銭湯は、サウナ愛好家によって混雑している。
入浴料520円に、別途サウナ料金はだいたい400円ほどとなっている。

入浴料は、「統制料金」になっていているけど、別途にかかるサウナはどうやら「自由料金」のようである。

統制料金は、1946年(昭和21年)の「物価統制令」がまだ生きているためで、銭湯経営者は入浴料金を自由に決めることができないのである。
それで、いつものように、都道府県単位による「審議会」ができていて、知事が答申を受けて、決定することになっている。

当然だが、審議会メンバーは、専門家とか銭湯組合の代表とかという、選挙で選ばれることがない、有職故実に基づいて役人が任命することになっているのだから、実際には、役人が料金を決めていて、上司たる知事に提案決済されるようにできている。

そういえば、コロナ関連の審議会・研究会委員は、就任選定時に500万円/年を超えなければ、製薬会社からとかの寄付を受けた実績は問われない、という過去ルールが国会で明らかになったけど、行政側はこれを「問題なし」としているのは、「利益相反」としたら誰も委員になれないからだろう。

つまり、ここでも「議会」はスルーされるので、しっかりとした社会主義国家としての風情を残しているし、だんだんと地球上のふつうの国家に見られる賄賂に対する鈍感さという腐敗が我が国でも進行している証拠なのである。

なお、念のため、物価統制をやらせたのは制服者(これを、「占領軍」といったり、よりマイルドに「進駐軍」という征服された本質を隠す用語が多用されている)であるGHQの命じたところによるから、あたかも日本人が自分で決めたと思ってはいけない。

21世紀の銭湯に物価統制があるのは、いまでも占領中だということなのであるけれど、そうやって利得を得るひとたちの利益を守ることが、自民党的「保守」ということになって安定の制度化をしているのである。

神奈川県(役人のことである)の東京に対する恨みともつかぬ変な意識で、東京の銭湯よりもずっと設備で劣るくせに、料金だけは10円高く、とにかく「日本一の高額」銭湯にしているのは、警視庁に対抗してやまない神奈川県警の呪いなのか?とわたしは冗談抜きで疑っている。

もちろん、警視総監も県警本部長も、おなじ警察庁採用のキャリア国家公務員なので、彼らにはローカルな対抗意識はないのだろうが、それを無視しては「組織がもたない」という、マネジメント力の欠如から、長いもの(地方採用プロパーたち)にあえて巻かれて、「いいひと」を装っていることが、「肝要」という思想および訓練によって統括しているにすぎない。

それで、統制から外れている「サウナ」をバスの再利用対象にしたこのアイデアが妙に光るのである。

しかし、全国でいったい年に何台の路線バスが引退・廃車されていて、何台がサウナになってあちこちを移動しているのか?についての情報は一切ないし、改造にかかわるコストや運用費に対しての得られる収益との関係についても一切ない。

しかも、高温の室内温度に耐えうる窓や天井になっているのかの情報もないので、なんだか「なんちゃってサウナ」ではないかと思うのである。
もちろん、熱源はなにか?とか、水風呂はどこに用意されて、更衣室もどこにあるのか?と気になるのである。

つまるところ、制約がたくさんあるだけの与太話を、あたかも「美談」とする騙しのテクニック満載の事例なのだ。
なので、この映像を観ることで得られる効用は、「情報免疫」の鍛錬にほかならないけど、ボーッとしていると逆に洗脳される。

いくらだか聞いたら腰を抜かすにちがいない、「水素バス」(購入費はふつうのバスの5倍する1億円)が、公営交通やたっぷりとした補助金での民間運用が始まったら、バス料金がいくらになるのかとか、また地方税負担が増えるのかとかに関係なく、どんどん投資していけば、水素サウナ・バスが誕生するのだろうか?

この無意味を超えた狂気さえ感じる水素バスの運行維持費も、ふつうのバスの3倍かかっている。
とにかく、地球環境のため?になるかどうかもしらないが、生身の人間の生活が苦しくなることしかしないのを喜ぶのは、どこまでマゾヒストなのかと怖くなるのである。

それもこれも、本当は共産主義者だったケインズ(妻はロシア人で新婚旅行だけでなく複数回ソ連に行っているし、ケインズ自身はカミングアウトしてゲイであることを認めていた)の、「有効需要の創出」こそが、なんでもムダな公共投資が、最後は共産化に役立つとトロツキーは見抜いていたのである。

これが、福祉国家にも通じる、諸悪の根源だ。

けれども、ぼんやりとして画面を追えば、自分でかんがえることを放棄したひととか、かんがえると気持ち悪くなるように訓練されたひととかは、本気で素晴らしいアイデアだと思い込むにちがいない。

それでもって、利用料金が行政によって統制されていたら、もうほとんどお笑い種なのであるけれど、電車の中で吹き出したらこちらが周りから変人だと疑われるので、やっぱり観ない方が得策なのである。

政府の「国民生活の安全・安心の確保」

24日、内閣官房内閣感染症危機管理統括庁が所管する、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」についての、パブリックコメント募集が開始された。
なお、締め切りは、5月7日18時までとなっている。

いよいよ、全体主義の実現に向けた具体策が、「政府案」として公表されたのである。

このような重大案が、ゴールデンウィーク終了と同時に締め切られるのは、阿呆な国民が遊んでいる間に、突っ走ることを画策した役人の、まじめな、しかし、恐ろしく狭い思考の結果であり、さらにこれを許す、内閣官房の堅い意思すら感じるところである。

しかも、24日から7日までのGWだということには、28日の、「主権回復の日」がしっかりと含まれていることに注意しないといけないのである。
当時、天皇誕生日の「前日」としたことに、祝意ではなく悪意を感じるのは、「独立」なんかさせるものか!というGHQの意志を感じるからである。

にもかかわらず、野党は一斉に反発してはいないのは、野党もGHQの枠内にあるからだ。

さてそれで、ニュースとしては、次の2本が降ってきた。
政府が「誤情報」常時監視 6月にも閣議決定へ 感染症対策の一環で 言論統制の恐れも
厚労省、偽情報対策の報告書2700頁超を不開示 ワクチン接種促進「世論形成」目的で3年間実施

アメリカ民主党がやっていることを、日本支店だからそのまま真似るのは想像していたが、ここまであからさまな「憲法違反」を政府がシラッとやる姿は、かつてみたことがない。

ずいぶん前に、復刻された『日本人のための憲法入門』(2006年)について書いたが、元は、小室直樹の『痛快!憲法学』(2001年)の絶版をうけてのことだった。
小室はこの本の中で、シュテファン・ツバイクの『人類の星の時間』(初版は1961年)に収録されている、「エルドラード(黄金郷)の発見」の話を紹介している。

いわゆる、サン・フランシスコの現在の市域のほとんどが、ひとりの移民・ズーター氏の所有する土地であったのに、ある日の朝に使用人が「砂金」をみつけたために、あっという間に人々によって土地を奪われたばかりか、家族も殺されてしまうのである。

もちろん、ズーター氏は官権と裁判に訴えるが、欲に目がくらんだひとたちが多数となったので無視される羽目となる。
かくして、家族を失い独りになったズーター氏は、ついに絶望のあまり発狂してしまうのである。

著者の小室は、どんなに立派な憲法をもっている国でも、人々が憲法を護る気を失えばこうなる、という事例としてこの話を挙げたのだった。

すなわち、いま、わが国で起こらんとしていることは、日本国民が選出し絶対安定多数を与えた与党の欲に目がくらんだひとたちによって、自由な国民生活が破壊されることが、憲法を蹂躙しても「合法」だという悲惨になっているのである。

もちろん、国民に対する甘言の、「安全・安心の確保」というのは、政府に都合のよい詐欺の言葉遣いであって、余計なお世話なのだ。

しかし、政府依存を当然とする国民があんがいと多数いて、「やさしい政府」に感謝するむきもいるだろう。
このひとたちは、ヒトラーのナチスや、スターリンのソ連がなにを国民にしたかをしらないか、興味もないのである。

他人事だからだし、そんな厄災が自分にやってくるとは夢にもおもっていない。

結論からいえば、無能なバカである。
しかし、このようなひとたちが投票権を持っているので、ただの迷惑どころか、まことにこれらのひとたちこそが、厄災のタネなのである。

そらに加えて、巨大な「無関心層」が存在する。

ヒトラーも、レーニン、スターリンも、じつは国民全体的な「数」のうえでは、圧倒的に小数派だったのである。
いまの自民党も、国民の少数からしか票を得ることはできていないが、絶対多数の無関心層が投票行動もしないから、圧倒的多数の議席が取れてしまうのである。

そうやって、20世紀は、一般人が政府によって殺される時代となったのだった。
これを、イタリア(ファシズム誕生)の歴史として描いた、5時間16分に及ぶベルナルド・ベルトルッチ監督の超大作、『1900年』(1976年)がある。

寝正月ならぬ、GWの過ごし方もわからないひとには、せめていまどきのレンタルビデオ店に駆け込んで、たっぷりと鑑賞するのも悪くない。

いま、100年の時を超えて、再び、いや、もっと悲惨な状況になろうとしているが、GWはなにをして遊ぼうかとしかかんがえない国民によって、政府の野望は着々と実現に向かっているのである。

簡単ではない「卒業の定義」

日本の常識は、世界の非常識といわれて久しい。

いい意味でいえば、「日本人の優秀性」という自画自賛となる。

それはたとえば、世界に冠たる「理想的官僚制」の構築に成功したからだ、ともかんがえられてきたことでもわかるし、日本国民も、超難関校(たとえば「東大」)に入学して官僚になった人物こそが、超エリートなのだと信じてきたからである。

しかし、有名なアクトン卿の言葉、「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」にあるように、わが国の官僚も、この言葉どおりに腐敗してしまった。

ただ、日本が絶好調だった70年代まで、政治家もそれなりの人物がまだいたために、官僚のコントロールをしていた、はずだったかに見えた。
それで、真似っこしたのがカーター政権のアメリカで実現した「SES」だったとは前に書いた。

ついでに、EUの「制度設計」思想も日本の官僚制を強化して採用したアメリカに倣ったもので、これらはさっさと腐敗していまがある。

逆に、わが国の官僚は、ようやくにして一般国民にも腐敗臭を晒すようになったけど、明治新政府成立時点より腐敗はとっくにはじまっていた。

小池百合子東京都知事(それ以前は、防衛大臣やら環境大臣も歴任した)の、学歴詐称問題がぶり返しでてきて、いよいよご本人には政治的に致命的な「追い込み猟」がはじまっているようだ。

決定的なのは、今月号の『文藝春秋』に発表された、元側近にして、元環境省(庁)官僚でいまは弁護士の資格をもつひとからの告発である。

背景に、小池氏の後ろ盾だった、二階氏の引退(じつは彼女は「小沢チルドレン」のひとりでもある)による、パンドラの箱が開くがごとくがあることは、素人でもわかる。

つまるところ、旧田中派の生き残った二枚看板によって、「虎の威を借る狐(タヌキではない)」の化けの皮が剥がれだしたのだともいえる。

天邪鬼なわたしなので、告発者の側のトンチンカンが気になるのは、当初、小池氏の学歴についてなにも疑わなかったことにある。

東大を三番(どうして順位がわかるのかしらないが)で卒業したという、ご本人からしたら、相手がカイロ大学だということも、東大とおなじ事務能力だと思いこんだらしい。

この程度の社会常識が、わが国のエリート官僚の世間知らずなのである。

大政治家の神通力が消えたからか?朝堂院大覚氏という「本命」が現れた。

この御仁は築地移転騒動のときに、「女将さん会」にこうした情報を提供していたというから、今回がはじめての証言ではない。
氏は、小池氏の父(勇二郎氏)の借金を肩代わりして、エジプトでの一家の生活を支えていたのだと証言し、百合子氏がカイロ大を卒業したはずがないことに切り込んだ。

日本レストラン『なにわ』にまつわる話は、わたしがしる話と合致している。
逆に、この店の名前の元になった「浪速冷凍機工業」との関係がようやくわかった。

そんなわけで、この「詐称」についての定義は、日本的感覚とはことなる部分と、「国内法」にてらした部分とに分解できる。

日本的感覚とはことなるのは、人脈(コネ)とカネでなんとでもなる世界が、あんがいと世界では「ふつう」であることが重要な基本認識だ。

たとえば、同時代で世界でもっとも腐敗していると評価されていたのが、ウクライナであって、これはいまもおなじだ。
ちなみに、ゼレンスキー氏の母語はロシア語で、このひとは、ウクライナ語を話しても、第二語学レベルでしか話せないのである。

40年程前にわたしが暮らしたカイロも、なにかといえば袖の下を、相手から要求されるのがふつうであった。
上の、朝堂院氏の発言にある「ドクター、ハーテム氏」というのは、わたしもしっている有名なエジプト政界のフィクサーで、大統領だけではない、政官民へ果てしない影響力を行使していた人物である。

そんなわけで、朝堂院氏が、ハーテム氏を通じて百合子氏を「2年生に編入」というのは、カイロ・アメリカン大学からの編入という意味だとおもわれ、1年後に全科目で落第して退学したというのは、進級試験を受けた、という意味で意外だった。

わたしは、聴講生だとばかりおもっていたからである。
聴講生は、百年学ぼうが決して卒業はできないからだ。

よって、彼女がいう、「卒業証書」やら「卒業証明書」の真偽が問われるのは当然として、重要なのが、「本物」である可能性がある、ということなのである。

すると、日本的には絶対にあり得ない事態となるのだが、彼の国の実情からしたら、「本物」を裏ルートから入手することは、いがいと容易だとおもう。
しかし、どうしてこのような「不正」がはびこるのか?と問えば、こたえはいがいと単純で、「本人の実力を評価せよ」という思想があるにちがいないのである。

たとえば、中東世界の伝統的な買い物で、定価あるいは表示価格でそのまま買う者はいない。
値切ることが重要なのではなくて、買う側が示す金銭的価値と売る側が示す価値を一致させる手間をかけるのがふつうだからである。

自分が定価通り100で買った同じモノを、横の人が50で買っているのだってふつうにある。

それで返金してくれっこないのが、店主のいう「あなたは100だと評価した」というひとことでおわるからである。
ならばもう1単位を追加で、25で売れと要求したら、店主はニヤリと笑って応じてくれてるような国なのだ。

この計算を、エジプト人の店主はちゃんと暗算でやる。
日本人が交渉ベタなのは、骨髄反射的な暗算もできないからで、儲けたつもりで損をしていることにも気づかない。

小池氏は、エジプトの価値観を利用して「本物」を手にしたかもしれないが、その実力がぜんぜんないことがバレだして、彼女を利用してきたものたちの化けの皮までもが剥がされているのである。

驚くのは、彼女が用いた最強の武器が、アラビア語ではなくてただの「女の武器」だったことの証言である。

さて、ここは日本という、特殊な事情の国だから、「法」をもってすると、「私文書偽造」が刑事罰の対象となる。

すでに、股分の千代田区長は雲隠れして、彼女にまつわる者たちの悪事が晒されだした。

もう、これは、ただの「学歴詐称」なんてものではなく、政界・民間をまたにかけた大スキャンダルになるかもしれないのだ。

浄化は、いがいなところからはじまっているけれど、半世紀も彼女を利用してきた者たちの「被害」が絶大なので、とかげの尻尾切りもはじまっているにちがいないのである。

多様性欠如の左翼は必ず分裂する

言葉の定義が重要なのは、定義が曖昧なままの議論では、複雑になればなるほど、細部に至れば至るほど、何の話をしているかがわからなくなるからである。

本稿でいう「左翼」とは、社会主義・共産主義・全体主義を標榜するひとたちを一括りにしたもので、反対語にあたる「右翼」とは、自由主義者のことである。
これはハイエクの定義だ。
なぜなら、自由主義者で全体主義を求めることは、論理矛盾であるからである。

なので、面倒なのが「保守」という括りになるのである。

たとえば、左翼にあって保守するとは、「極左」のことを指すし、右翼にあって保守するといえばそれは何のことか?かなり曖昧になるのである。
それで、伝統的とか歴史的な「もの」や「こと」を保守するのが、保守主義ということになっている。

この曖昧さゆえに、前述のハイエクは、自らを「保守主義」者ではないことを表明して、あんがいと当時は物議を醸したものだが、やがて忘れられた感があるのは、世の中が「左傾化」したからだ。

仕方なくこうした三つの括りをもって、わが国の現状政治を眺めると、「日本保守党」なる諸派が、江東区の衆議院議員補欠選挙に出ていることで話題になっている。
この政党の名前をもって、そのまま「保守」という括りに入るのか?というと、わたしには決めつけることができない。

何を保守するのかを明確に定義していないからで、ただの「第二自民党」に見えるから、おそらく「左翼」に分類していいのではないか?といった匂いがするのである。
党首は、作家の百田尚樹氏と、名古屋市長の河村たかし氏のふたりで代表になっているけど、百田氏というベストセラー作家が言葉を定義しないことに、単純に違和感を覚えるのである。

政権与党の自民党と公明党、それにどうしたことか共産党も候補者を立てておらず、都知事の会派「都民ファースト」もどんな括りなのか不明なままで、どういうわけかこの副代表が「無所属」で出馬している。

ちなみに、野党の国民民主がこの無所属候補を推薦しているのだが、国民民主党という政党の立ち位置も、わたしには不明なままなのである。

そんなわけで、明らかに左翼の立憲民主党と、グローバル全体主義に明確に反対している「参政党」が唯一の右翼=自由主義を標榜していて、この二項対立だけがわかりやすいのである。

わが国には、国政政党としてこのほか、「れいわ新選組」という新左翼(共産党以外の左翼)のいわゆる中核派と、日本維新の会、N国党なる、括りの定義が困難な政党が存在している。

日本維新の会の本拠地、大阪における実態を見ると、やっぱり「左翼」に位置づけられるのであるし、N国党はワンイシューとはいえ、議員活動と党の存在がとっくに分裂していて、その分かりにくさは表現のしようがない。

こうしてみると、参政党以外はぜんぶ同類となるので、多党化しているようで案外と選択肢が少ないのである。

アメリカでは、民主党が分裂して、バイデン支持の本部と、ケネディ支持の傍流とに分かれたが、さらに極左の学生たちが、「反ユダヤ・親ハマス」を掲げて、まるでわが国の70年代を彷彿とさせる学内ピケ行動をして、なかでもコロンビア大学はとうとうロックアウトによるリモート授業になってしまった。

まさかのあり得ない「反ユダヤ」の主張に、驚いたのは民主党鉄板支持層で、ゆっくりとだが確実に、トランプ氏支持への転換が始まっているのである。
なお、こうした学生への支援団体(金銭と物資の両面)も、マトリョーシカ人形構造をとっていて、最上位団体の富豪オーナーが「反ユダヤのユダヤ人」だとわかっている。

あたかも、「反日の日本人」とおなじ構造があるのである。

そんな中、自民党の副総裁(No.2)たる、麻生太郎元首相がトランプ・タワーを訪問した。

さも、次期総理は自分だという下心満載で、「返り咲く」という共通語の意気投合をしたかのようだが、麻生内閣の次が「みぞうゆう」の政権交代で、あの民主党・鳩山由紀夫内閣となったことを、国民は忘れていない。

自民党の総裁(「首相」になれなかった総裁もいる)がこないだ国賓で訪米し、トランプ氏には目もくれなかったことの失敬に、こんどは麻生氏がバイデン氏に会わないことで当てつけたのは、岸田総裁流のバランス外交にちがいない。

あくまでも、「党」総裁は岸田氏で、麻生氏は副総裁なのだから、世界の目は、麻生氏の単独行動だとはかんがえないけど、逆神のマスコミは国民を騙すために、麻生氏の勝手な行動だと報じて、あろうことか内閣という党からしたら下部組織のしかもトンチンカンでしられる外務大臣にコメントを求めて、政府として関与しない、といわせたのである。

これをやるなら、岸田総裁に直接きくべきだし、政府を代表するなら官房長官インタビューが最適なのに、これをわざとしないで、外務大臣ごときに政府の代表意見を求めるという茶番をやたっし、シラッと応じた外務大臣は官房長官からの叱責も受けないのは、党も内閣も、組織としてメチャクチャだということをわざわざ世界にしらしめたのである。

それで、なるほどGDPでインドに抜かれたのか!と合点がいく一般人が、世界の常識となるのである。

こんな日本の対応に、お下劣なバイデン政権は、「下品だ」と評しているから、それなりの嫌がらせ効果になったのだろうが、日本総督のエマニュエル駐日大使がどんなお仕置きを自民党や麻生氏にするのかも、今後の注目なのである。

なんにせよ、自分だけが理論的に正しい、と決め込む神経だけは共有している左翼のひとたちは、懲りずに今日も分裂を繰り返すのである。

すると、組織マネジメントに取り返しのない失敗をした参政党・神谷氏の独り左翼行動で失った人材と信頼が、まことに残念至極のことになったのである。

吉野敏明氏、武田邦彦氏、赤尾由美女史の方々には、松田氏と共に神谷一派の組織マネジメントからの一掃ができなかった「小さなこと」こそ、将来のわが国の痛恨となってしまった。

いいひとたちは、ここ一番で「鬼神」になれなかったのである。

それでも、幸福実現党を離党(「幸福の科学」の信仰はやめていない)した、及川幸久氏や、元TBS記者の山口敬之氏が、参政党を一択で支持表明するのは、酸いも甘いも噛み分けて、「自由主義」を護ることを最優先させているのだと信じたい。

「柿渋染め」をやってみた

こないだ書いた「柿渋染の最終購入」で、オマケとしてプレゼントされた「柿渋原液(100㎖)」を使って、染め用のリネン生地ストールをまずは染めてみることにした。

YouTubeで染め方の解説を観たら、えらく簡単そうで、感心するほどの「お手軽感」に、いよいよその気になったし、春の陽気の中でどうやら貴重な晴天になったからである。

ネット通販という便利さの恩恵は、過去の人生経験から購入履歴どころか、購入しようというかんがえさえ及ばぬものも、検索すればいくつもでてきて、こんどはどこのショップを選べばいいのかを迷うのである。

せっかく原液を頂いたのに、染めるためのコレといった生地がない。

これからの「夏」をかんがえると、汗拭きを兼ねたストールがいいのではないか?と思いついたのである。
なにせ、柿渋タンニンの自然界最強殺菌力が、細菌の生存をゆるさないのでそのまま消臭にもなるからだ。

しかし、製品としてのストールではなく、染めるだけの工程を残したストールをどこで入手できるのか?すらしらなかった。

あるのだろうか?とおもって検索したら、でるはでるは、世の中には、こんなにも未染色の「半製品」があるとはとおもったが、染め物のプロもどこかで仕入れているにちがいないので、ものはためし、なのである。

そうやって、あっさりと簡単に注文できて、いつものように難なく届いたのである。

原液の使用には、かならず4倍から5倍あるいはそれ以上(7倍や8倍)の希釈を推奨する、ということなので、いただいた100㎖の半分、50㎖を料理用ビーカーにとってから洗面器に入れ、おなじビーカーで計った200㎖の水を洗面器にいれてかき混ぜた。

これで、5倍希釈をしたことになる。

原液はいがいと粘性が薄く、さっと水になじんだのはYouTubeで観た粘性があるタイプのとはちがかった。
泡立て器でよくかき混ぜる必要もなかったのである。

ちなみに、柿渋は漆とかとちがって、かぶれの原因になる物質は含まれていない。
元は渋柿とはいえ、果物なのだから当然といえば当然だ。
だから、わたしは素手で扱ったが、気になるひとは手袋を使うことも自由である。

ストールはいったん洗面所で軽く水洗いしてから、適度な湿り気のまま洗面器に入れた。
乾いた状態よりも、湿った状態の方が毛細管現象を促すので、染めムラも防げるという。
二枚ともしっかり浸して、そのまま約10分放置して、あとは絞って干すだけである。

柿渋特有の匂いがある、ということであったが、この「特選」原液は、さほど匂わず、とくに気にならないから、近所迷惑になるかもしれない懸念は杞憂であった。

素材がリネン(麻)なので、好天下だとすぐに乾く。

しかしここで重要なのは、「柿渋染め」の柿渋液とは、厳密には「染料」ではないことだ。

たしかに、柿渋液の色に染まるように見えるのだが、繊維に高分子(一万数千の分子量がある)の柿渋タンニンがコーテキングされて、さらに空気中の酸素と日光の赤外線によって乾燥させることで化学変化を起こすので、乾いて「完成」というのは、人間の手をかける意味での終わりで、色がつくのはここからじんわりと1年以上(ときには2年)かかって完成される。

だから、独特の匂い抜きも、上でいう化学変化によるために、陰干しが推奨され、ゆっくりと「赤外線」にあてることが匂いを「抜く」ための手間となるのである。

それで、これからの季節なら約1カ月(冬だともう少々長く)干し続け、最後に水洗いして乾けば「完成」となる。
なお、酸化を止めるのにつかう「焙煎剤」として、アルカリ性の「ソーダ灰」を用いることもあるようだが、とくに「必要」というものではないと原液販売の女将さんから聞いた。

使いつづけて、色落ちが気になりだしたなら再度染めることを繰り返せばいい、とのこと。

柿渋タンニンが線維をコーティングするので、繊維自体の強度も増して、タンニンの抗酸化効果で抗菌・無臭効果が続くのである。
それゆえに、残った液でちょうど洗濯していた「奈良蚊帳台ふきん」も染めてみたら、一滴も残さずに使い切れた。

別にある「生渋」という、色づきは薄いがフルーティーな香りがするという原液を注文して、到着したら、夏用の木綿の下着をやってみようとおもうのである。

先の女将さんは、そんなネット注文をした直後にわざわざ電話をいただいて、同時に注文した「特選」と「生渋」とでは、「生渋」の発色が弱いことの注意喚起の案内だった。

なんともご丁寧な対応に、こちらが恐縮したが、ついでにいろいろと質問できたのもありがたかった。

そういえば、柿渋タンニンの抗酸化作用の主役、ポリフェノールは、赤ワインの10倍以上あるそうなので、むかしから「薬として飲用」もしていたらしい。

人間の体内の活性酸素による「錆び」も中和してくれるというから、ますます興味深いのである。

雨なので昼呑みにでかけた

「昼呑み」は不謹慎なので基本的にしないのだが、鬱陶しい雨の日に家にこもるのも鬱陶しいと、思い切って昼呑みに出かけよう!と決心をした。

問題は、行き先エリアの選定である。

候補になるのは、湘南方面なら、藤沢・江の島とか、鎌倉市と横浜市が接する大船。
これ以上遠方となると、帰りが面倒である。
横浜中心部なら、だんぜん野毛であろうけど、ここは図書館通いの身からすると日常のエリアになって新味がない。

はて?どうするかが、鬱陶しい家の中での問題となった。

そこで登場したのが、横浜の北にある「ミニ川崎」としての鶴見だ。
横浜という場所は、安政6年に開港場にならなかったらただの「寒村」で、いきなり膨張したために、なんだか明治期のわが国の発展と並行して発展した感があるのは、ハマっ子だけの勘違いなのかもしれない。

しかし、「大江戸」時代から、地方出身者をおおいに吸収した伝統で、工場労働者を集めて「大東京」になったけど、一方で上野に到着した北関東や東北からの家出人たちは、東京の危険性を本能的に感じとって、また、捜索による発見を避けるため、さらに、荒っぽいイメージの川崎も通過して、ついに横浜に流れ込んだのである。

その玄関にあたるのが、鶴見なのである。

ちなみに、横浜市に「区制」がひかれたのは、昭和2年10月1日のことで、5区からスタートした。
そこに、鶴見区もあるのは、この区民の自慢にちがいない。

「神奈川県」の元になった東海道でも有数の巨大駅、「神奈川宿」からはじまる「神奈川区」と並んで鶴見区は、これまで一度も分区されることなくオリジナルのままの区域となっているからである。

なお、横浜は、ずっと「神奈川奉行」の管轄下にあって、奉行所が神奈川宿から移転して、いまの紅葉坂の上、神奈川県立青少年センター、神奈川県立音楽堂、神奈川県立図書館がある土地から、かつての港を見下ろしてのである。

残念ながら、現在は未来がみえない「みなとみらい」の開発によるビル群で、海すら見ることができなくなった。
ついでに、この奉行所の隣が、「掃部(かもん)山公園」で、陸蒸気と呼ばれた新橋ー横浜間の鉄道建設でやってきた外国人技師たちの官舎があって、その後、井伊掃部頭家の所有となってとうとう公園になった。

さて、鶴見である。

この土地は、永平寺とならぶ曹洞宗の大本山、総持寺が明治44年(1911年)に石川県から移転してきて、大正3年(1914年)には、すぐ近くに「花月園(かげつえん)」が開園した。
なんと、パリ郊外の「フォンテンブロー」をまねた大遊園地であったのだ。

さぞや総持寺の修行僧には、我慢の修行になったことだろうと推察するが、なんでこんな遊園地ができたのか?は、臨海部の工業化による大発展があったからである。

欧州における「観光客の誕生」には、産業革命による「労働者(階級)の誕生」がなくてはならない条件になっている。
それが、鶴見で現実化したのである。

なので、横浜中心部の港湾労働者とはひと味違うのが、鶴見であって、JR鶴見線なる臨海工場地帯専用の通勤電車がいまでも走っている土地柄なので、ちょっと一杯、として途中下車するひとたちがたくさんいたことは、この街の繁華街を形成している原動力のはずなのである。

京浜東北線を使うなら、総持寺がある西口、京浜急行を使うなら東口という使い分けになるのは、鶴見駅構内の貨物線のために、東西連絡通路が長いためだし、JRと京急線とは駅前ロータリーで分断されていて、「乗換駅」とはなっていないためだ。

そんなわけで、せっかく鶴見まで来た(とはいえ、横浜駅から10分ほど)から、西口と東口の「昼呑み」を覗くことにした。

「野毛」の猥雑さとはちょっとちがう雰囲気が、ビギナーの感じるところではあるけれど、それは若者たちの喧噪がない、おとなの世界だからなのだろう。
東口は、ロータリーを川崎側に折れるエリアが、どうやらそれで、京急側の旧東海道や、鶴見川の川向こうにある、沖縄・ブラジルエリアとはまた趣を異にしている。

非日常を味わったが、なかなかの低料金でしっかりした内容なのも、おすすめ、である。

これなら、電車賃をかける価値がある、と確信したのであった。

亡命ウクライナ人を救うプーチン

昨年9月29日の「ロシア通信社ノーボスチ」が伝えた記事が、いまごろになって出てきている。

内容は、ウクライナから外国に逃れたひとが、「徴兵」を事実上拒否することに通じる、外国におけるウクライナ領事館(大使館などの公館)でのパスポート更新をしないで放置しても、そのような期限切れパスポートを持ったウクライナ人のロシアへの入国を許可する、というものである。

実際に、ウクライナで今月発効した「新・動員法」では、徴兵年齢の引き下げだけでなく、徴兵を拒否した場合の(現行犯)逮捕権を、警察官その他の官憲に付与するもので、また、外国に滞在中の徴兵適齢者には、事実上の帰国命令を発したのである。

よって、外国滞在中の徴兵適齢ウクライナ人は、パスポートの更新手続きをしに領事館を訪ねたら、直ちに身柄を拘束されて強制的に帰国処分となるから、誰も公館に寄り付かなくなってしまったのである。

こうした強権的な政策の実行には、ゼレンスキー氏の大統領「任期」が、来月19日に満了となり、戦時戒厳令下での大統領選挙をやらなかったために、この日以降の「大統領不在」が憲法上は確定してしまっていることも関連する。

貪欲な戦争屋たちは、「ウクライナ人は最後のひとりまで戦え」と、自らは安全地帯から鼓舞して、驚くことにまじめな日本人の多くもこの論調に「正義」を感じている。

明文化された憲法があろうがなかろうが、それを護る気もない為政者がいて、護らせる国民の気概もなくなると、どうにでもなる、ということがこれでわかるのだが、超鈍感な日本人は絶望的にわからないのである。

まったく、先の戦争を反省しない不真面目(自虐史観)な態度の結果が、お粗末なプロパガンダを信じるという愚かさを露呈していることに、あろうことかぜんぜん気づいてもいない。

個人的な話になるが、半世紀前からの付き合いがある、中学時代の同級生たちでさえ、これらの仲間になっていて、飲み会でさえもわたしの口を封じようとするのである。

そこまでにしておきな、と。

奇妙なことに、「怒り出す」のは、もしや更年期かアルツハイマーの初期かと疑いつつも、しつこくいうのがわたしの性分なので、まさかウクライナが戦闘でも有利にあると信じているのか?と念をおすと、ロシアが勝っている証拠がない、とまでいうから、完全に「NHK脳」に侵されていると確認して黙ることにしている。

べつだん老いた同級生たち相手にいまさらマウントをとっても意味がないからだが、あとから一部のひとたちがそっと同意をつげてくれるのも同級生のよしみなのかもしれない。

大河ドラマなら『おんな太閤記』以来、ずっと観ておらず、朝の連続ドラマを最後に観たのはどの作品だったかも思い出せなくなりつつあるが、たいがいのヒロインたちが戦前生まれのひとだったので、作中の関係者が「赤紙」によって召集される場面なら紙のクズほどもたくさんあった。

それが、どんなに理不尽なことかを強調するのがNHKによる後出しジャンケンの掟で、本当のリアルな放送では「兵隊さん」とその家族をどんなにか「名誉」だと煽ったことか。
その煽りにそのまま乗って、反対者を「非国民」と非難したのは、「マスク警察」出現の精神構造とどこもかわっていない。

だから、『おしん』では、亭主の竜三が軍の協力者だったことに責任をとって自害させる話にしたのは、作者、橋田壽賀子の女目線による厳しい「反省」があったからだろう。

実際の日本人は、いまの河野太郎のように見苦しい責任逃れをして、本当に逃げ切っていたし、公職追放になったひとより、敗戦利得者の方が今に続いて上級国民化しているのである。

腐ったアメリカは、民主党だけでなく共和党RINOの連中も束になって、ウクライナ支援予算を通過させ、ウクライナ人のミンチ化・根絶やしに加担して、こんな理不尽を許すまじとするトランプ派は敗北してしまった。

ときをおかず、民主党はトランプ氏が暗殺されることを促す、大統領職にあった人物の身辺警護を解く法案も提出した。

対してイランのイスラエルへの反撃は、サウジをはじめ湾岸産油国が領内(領土と領海)からの米軍の軍事行動を禁止する声明に支えられて、大量のドローンによる飽和攻撃に時間差の巡航ミサイル(弾頭なし)で、これ見よがしの外交的大成功をおさめ、アメリカの中東におけるプレゼンスが消滅したも同然の大勝利をイランにもたらした。

16日のUAEの大水害は、狂ったアメリカが気候兵器を作動させたのか?と疑いたくなるタイミングで起きたけど、この復興支援の方が、よほどわが国の石油確保に有益だ。

カネによる新しい独裁的恐怖政治が、アメリカひいては西側で、はじまっているのを尻目に、世界は流動的になっている。
ましてや、西側から経済制裁を受けて疲弊しているはずのロシア経済は、IMFも隠せない活況にある。

この理由はかんたんで、ロシアが「自由経済圏」だからである。

もしや、トランプ氏がロシアに亡命する日が来るのではないか?

それで、亡命アメリカ政府とアメリカ民主党(実質共産党)政府の攻防が、日本に飛び火するかもしれないという、新しいシナリオができた気がする。

もちろん、日本政府は邪悪な民主党の支店だから、いよいよロシアと対峙するが、それが「同盟国中国」と思わずいった岸田氏の頭の中にある「地図」だとすれば、もはやこれまで、なのかもしれない。

そんなわけで、日本人は最後のひとりまでロシアと闘え、と次にいわれ出して、その気になったらもう、ウクライナと同じ運命がまっている。

この話に、台湾と韓国がでてこないのは、特殊出生率でわかる「滅亡」が、放っておいてもそうなるからで、わざわざカネと人員をかけてちょっかいを出すまでもないからである。

東アジアの状況は、日清・日露戦争前の状況にいよいよソックリな様相を示しているが、敵の進化に対して、日本やアメリカが思い切り退化している。
それに、果たしてロシアは敵なのか?という大問題が出現しているのである。

ひとりあたりGDPの凋落

わが国がアジア最貧国になる可能性について言及するのは、心配事が絶えないからだけでなく、政府がわざとそうしているのではないか?と疑うからである。

もちろん、一部の論者がいう、「アルゼンチン化」までとはいえないのは、過去の外国投資のおかげで、貿易赤字国になっても、経常赤字にはなっていないからである。
資本移転等収支と金融収支とで、黒字になっているからで、かつての「金満」のおかげで食いつなぐ国に変化したのである。

団塊の世代が、後期高齢者になってきて、わが国が「貿易赤字国になった」ことをどうおもうのか?をかんがえると、「にわかに信じられない」ということになるはずだ。
この世代が現役だったころのわが国は、貿易黒字で苦しんだことになっているからである。

しかし、苦しんだのは政府・役人で、国民はそのおかげをもって、贅沢な暮らしを謳歌できたのである。
「内外価格差」がなければ、もっと謳歌できたとおもうが、「内外価格差」で暮らすひとがたくさんいたから、プラス・マイナスはどうなのか?統計学者に聞いてみたい。

ここで、経済学者でなくて統計学者というのは、経済学者には立場とかなにやらと多大なバイアスがかかるから、まともに聞くとわからなくなるおそれがあるからである。
それで、数字しかみない、統計学者が推奨できるのである。

さて、ひとりあたりGDPがどんどん減っている、ともいえるし、新興国の数字が伸びているともいえるので、両方の効果から、わが国の数字が落ち込んで、とうとう韓国に抜かれたとニュースになっている。

また、このブログで、観光がらみの変な盛り上がりを指摘しているのは、「サービス収支」が赤字だということも論拠にしている。

訪日外国人が使うお金はかならず円に換金するから、「外貨獲得」そのものだけど、この収支に含まれる、「知的財産権」での巨大な支払が、「赤字」になるほど大きいことぐらいはしっていていい。

かんたんにいえば、「ネット利用料=デジタルサービス料」のことである。

でも、昨年には台湾にも抜かれたので、かつての「宗主国」としてというよりも、70年代とかにいっていた、「ふつうの国になりたい」願望が叶ったともいえる。

このブログでは、前に、「アナログ・トランフォーメーション」というタイトルで書いたのだが、まさに、後期高齢者たちが活躍した時代は、コンピュータの「コの字」もなかったのである。

つまり、わが国経済は、「デジタル・トランフォーメーション」をやったら、衰退してしまった、という状態になっているのである。

それはただの偶然で、各国もデジタル・トランフォーメーションをやっているから、単純に競争に負けている、という意見もあるにちがいないし、そもそも製造業が円高によって海外移転したので、国内での産業空洞化が発生したのが原因だ、という意見もあるにちがいない。

これについては、わが国得意の「垂直分業」を進出先でにも持ち込んだことがあって、外国のように「水平分業」への転換ができなかったことも要因として大きいのだが、それはまた何故か?をかんがえるには、たとえば、文化勲章をもらった中根千枝の古典、『タテ社会の人間関係』(1967年)を参考にすることができる。

ところが、昨今の円安(100円⇒150円の5割も円安)なのに、製造業がぜんぜん国内回帰せず、あんがいと外国企業が日本に工場進出するという過去にない現象となっている。

この原因に、「消費税」の存在があるという意見もある。

消費税を負担するのは消費者だというウソに、消費者(国民)が完膚なまでに騙されているからだが、消費税の本質は「第二法人税」であることをしっている大企業は、これをうまく利用して、きっちり「還付」をうけている。

つまるところ、なんだかしらないが消費税分の値上げに文句をいわない、消費者が一方的に損をしてその分が貧乏になって消費を減らしているのである。
さらにまた、政府は、「社会保障費負担のため」なるウソをこいて労働組合を騙した。
消費税収を社会保障費負担の補填になんか回していない。

西暦2000年以来、わが国は人口減少国になったし、この三年ほどは、どんな理由か「しらない」が、年間死亡者数が激増し例年からの増加予想(高齢化との比率)分から思い切り乖離して、昨年は20万人以上(この三年ほどだけの累計では40万人以上)も「超過死亡」となっている。

いわば人口減少にブーストがかかっているのに、ひとりあたりGDPが減るとは、人口減少よりも速いスピードでGDPが外国よりも伸びない、というしか解釈のしようがないのである。

もちろん、台湾も特殊出生率ではわが国より深刻で、韓国にいたっては世界最小の「0.72(2月28日、韓国統計庁発表)」で、同時に発表した2023年第4四半期(10~12月)の数字は「0.65」という驚異的=絶望的となって、いまや国民がいなくなるのが確実の状態になっている。

すると、どんどん減る人口で、経済規模を維持するだけでも、ひとりあたりGDPは高くなる。

そこで問題になるのは、どうやったら経済規模を維持できるのか?という「アナログ問題」になるのである。
つまり、効率的な「働かせ方」が、上手いか下手かがこの問題解決の分岐点となっていて、個人が奮闘する効率的な「働き方」の問題とは意味が異なることがわかる。

すると、台湾や韓国は、わが国よりもずっと上手に、「働かせている」のである。

その実現には、「マネジメント力」が必須で、とくに「経営者」と「(中間)管理職」をあわせた、「マネジメント層」による、上手な働かせ方ができないと、できっこない、ということになるのは当然だ。

要は、わが国のマネジメント層によるマネジメント力が弱っているのではないか?という仮説がここに誕生する。
なぜなら、台湾と韓国こそ、むかしの日本的なやり方が「遺産」として残っているからである。

この視点からながめれば、日本人がマネジメントについて学ぶチャンスは、部活だけでなく、学校(クラス運営や校内の委員会活動も)や地域でのクラブ活動などを通じて子供時分からふんだんにあるので、はるかに外国よりも有利なはずだったのである。

しかし、残念ながら「経験」はしても、これを「体系」として学ぶチャンスはないし、教師もこれに気づかず、もちろん文科省の役人も、マネジメント力育成の重大さをしらないばかりか、教育審議会委員も教育委員会の役人も同様なのである。

気づいたのは、「制服組」の現実からの目線だった。

これは、「箱」があっても「活用できない」こと、すなわち、マネジメント力の欠如が、国家レベルで軽視あるいは無視されていることの、わかりやすい事例ばかりがあるというわが国の問題の本質的なことなのである。

さて、マネジメント力がないとどうなるか?は、簡単で、たちまち「烏合の衆」と化す。

ために、個人の尊重が変に社会常識化してしまっていることで、さらに意見調整が難航する必定となり、リーダーシップとは命令だと勘違いした声の大きい人物が独裁をはじめて、憤懣やるせない集団が完成する。

これで「一丸となって」ということができるはずがないのである。

そうやって、「パワハラ」とかの各種ハラスメントに対応する「ムダ(な時間と解決の手間)」があちこちにできれば、当然ながらひとりあたりのGDPが下がるのだ。

さては、新入社員たちがはやくも離職している現象も、マネジメント力の欠如を見抜かれたゆえだとすれば、見棄てられたのは企業組織の方なのであった。

「関西・大阪」という別世界

もはや「歴史家」と呼んでいい、有名予備校超人気講師の茂木誠氏は、自己紹介で「縄文人の茂木誠です」といっている。

この島国の考古学や遺伝子学からわかってきた「歴史」を分母にしてとらえれば、万年単位であった、縄文時代の長さは、その後の歴史が一瞬にみえるほどになるからだし、日本人のDNAには縄文人からの遺伝子がかならず含まれているからである。

わたしが気になる「細部」は、縄文文化なのか?縄文文明なのか?という、文化・文明の呼び方である。

これは、シュペングラーのいう文化が劣化すると文明になり、やがて滅ぶ、というパターンにあてはめれば、縄文時代も「縄文文化時代」から「縄文文明時代」へと移って、やがて滅んで弥生文化が席巻し、その弥生文化が劣化して弥生文明となり、やがて大和政権によって滅亡したといえるのではないか?とかんがえるからである。

すると、縄文文化時代と縄文文明時代の境目は、どこにあるのか?が気になるのである。

わたしが子供だったときは、あっさりと縄文時代から弥生時代になって、とくに米の栽培は南方や朝鮮半島から伝来したと習った。
しかし、これらの地域から発掘される田んぼの遺跡やそこから出てくる米の遺伝子を調べると、いまや「米栽培は日本由来」という説が有力になってきている。

さらに、あいかわらずどう調べても、「日本語のルーツ」がわからないのを、茂木氏は「日本語族でいいじゃないか」といっている。
かならず外部から渡来したはずだと、かんがえることがナンセンスなのではないか?と。

もちろん、縄文人が弥生人に征服されたこともないのは、戦闘の痕跡が遺骨にも遺跡のどこにもないから(対人実戦用の武具すら発見されていない)で、さまざまな移民がやってきて徐々に混じって変化したとしかかんがえられない。

それで、オリジナルの縄文人がだんだんと東北以北にだけ残るようになったのを、大和政権が「蝦夷(えみし)」と呼んで、これを坂上田村麻呂に征伐させる「征服」話がようやく出てくるのである。

面倒なのは、「蝦夷(えみし)」と、北海道のことを「蝦夷(えぞ)」といったのとが、おなじ漢字を用いたために、アイヌの定義をねじ曲げてしまう「政治」が行われてしまったのだった。

これを、隠れ極左で横浜に選挙区がある、菅義偉氏が、「アイヌ新法」という国民分断化を法制化するという暴挙をおこなったのだが、岸田政権の暴挙がすさまじくて忘れ去られようとしている。

そんなわけで、万年単位の縄文時代を分母にしたら、大和王朝が奈良から京都にあった時間がざっと2000年だけとなる。
京都から東京へ移ったけれど、「朝廷」はいまだに続いているという見方もあるし、明治憲法が日本国憲法になったときに「滅亡した」という見方もある。

わが国の政府要人が外国へ行くときと帰国したときには、いまも皇居(朝廷)で「記帳」する習慣が政府にはあって、帰国して国民にメッセージを発表するのを、「帰朝報告」というのも、「朝廷に帰ってきて報告する」という意味なのである。

徳川政権の政治の中心は江戸で、経済の中心は大阪という分業体制を、秀吉の大阪集中からわけたのは、豊臣方への牽制策が優先された結果であったろうけど、あんがいとうまくいったのは、付随的結果だったともいえる。

これはたとえば、前橋(厩橋:うまやばし)藩と高崎藩があった群馬県の、政治は前橋、経済は高崎になっているのとは経緯がことなるものの、いまも群馬県の楕円的な状態が残るのは、「県」の無理やりがあるからで、このまた典型が青森県(元の津軽藩と南部藩でいまでも言葉が通じない)だ。

そんなわけだから、大阪の文化における関東方の違和感(当然にこの逆もある)は、、たった150年ほどで平準化されるようなものではない。

たとえば、大阪人はいわゆる「標準語:共通語」で話す(発音する)ことができない。

文部科学省の「全国平準化」の成果も、こんなもん、なのである。
もちろん、言語は「かんがえるときにつかう」ものだから、東京的発想と大阪的発想が異なるのも、言語がちがうことの結果にすぎない。

エスカレーターの左・右どちらに立つのか?も、東京は左、大阪は右で、アジア各国の右へならっているのが大阪、というよりも大阪方式をアジア各国がまねたのだ。
京都は、京都駅なら左の東京型がおおいけど、これぞ「おのぼりさん」が多数だからで、ちょっと郊外では大阪型になる。

そんななか、関東方でも、若者たちはSNSで大阪弁を積極的につかっているので、浸透力は文科省とは真逆になっている。

その「軽さ」(無責任な感じ)が好まれているという。
大阪弁で語尾につける「しらんけど」が、その代表だ。
ずっと「しらんけど」が、大阪弁だったのか?調べてみたくなるのは、「商都」として、「しらんけど」では取引ができないからだ。

もしや、大阪経済の衰退は、「しらんけど」が日常言葉になったのが原因ではないかと疑うのである。
だから、いまの若者が、「軽さ」ゆえに多用する大阪弁が、さらなる日本衰退の原因とならないかと心配するのである。

東京の戦後すぐの映画にある言葉といまのあまりのちがいはよく指摘されるけれど、大阪の同時代といまはどうちがうのだろうか?
むかしの「上方演芸」における、こねくり漫才の言葉が、あるいは、ミヤコ蝶々の話し方がわたしでも懐かしくおもえるのだが、現地ではいかがであろうか?

なお、さいきんになって、標準語:共通語に開国前の横浜村(じつは「本牧」あたり)の漁民言葉だった、「じゃん」が含まれているのは、横浜人のわたしからしても違和感があって、大阪人が語尾に「じゃん」があるのを気持ち悪がるのは、妙に共感・納得できるものである。

東京生まれで東京育ちの谷崎潤一郎が、大阪に移住してすっかり馴染んだのは、これもまた大阪人が自慢してもいいはなしだが、わたしは谷崎の「陰鬱」こそが大阪人の本性ではないかと疑っているのである。

還暦をとうにすぎたわたしは、とうとう関西・大阪を理解できない別世界のままで過ごすのだろうとおもう昨今なのである。