一人一日2.5リットルのコーラに溺れる街

動画のタイトルは、『コーラを飲むとしても水は飲まない?糖尿病高発生率のお国柄』とか、『世界で最もコカコーラ中毒で人が亡くなる街の闇の実態が恐ろしすぎた』であるから、ぜひご覧いただきたい。

舞台は、メキシコの小さな街だが、世にも奇妙な光景が繰り広げられているのは、動画で報告されている通りだ。

ひとびとが尊敬し、地元の宗教的な権威者でもある「シャーマン」も、宗教儀式にコーラを用いて、「糖尿病撲滅の祈り(まじない)」を真顔でやっている。

シャーマン曰く、「この街のひとびとが糖尿病を患うのは、コーラを常飲しているからでは亡く、家庭内や社会の人間関係のもつれが精神的な負担となって発病する」と明言している。

冗談をいっているのではなく、本人も信じて疑わないのだ。

しかし、この街にも近代教育を受けた医師もいて、これらの医師たちは、当然にコーラの多飲が糖尿病の原因であることはしっている。
けれども、ほんとうのことをいっても、ひとびとは聴く耳をもっていないので、発言を控えているという。

その理由は、とくだんの産業がないこの街に、コーラの工場ができて雇用を創出しているばかりか、コーラの工場が清涼なる飲料水の水源を独占しているからで、水道の水は飲用に適さず、しかも、コーラより高価であるという事情による。

ちなみに、メキシコ合衆国第55代大統領だった、ビセンテ・フォックス・ケサーダ氏(任期は2000年~2006年)は、なんと元コカ・コーラ社の大幹部であった人物なのである。

わたしは、まじないをするシャーマンの姿をみて、『続・猿の惑星』(1970年)の、遺伝子異常となった人類(ミュータント)たちが「コバルト爆弾」を教会の祭壇において一斉に祈る姿をおもいだした。

また、ひとびとが「正しい知識を拒否する態度」をとることについては、コロナ禍における国がいうワクチン接種の安全性に疑いのない状態や、疑う者を排斥したことも思い出されるのである。

18日、「新型コロナワクチンで国を集団訴訟」という報道が一斉になされたのは、わが国では「初」の集団訴訟であるからだし、その前の3月と今月の二号連続で、月刊『文芸春秋』が被害についての記事を大手マスメディアとしては「初めて」掲載したのだった。

けれども、アメリカ民主党への支持を社としても表明してはばからない、たとえば、「アルファベット」は、傘下の「Google」や「YouTube」における、ワクチンへのネガティブな情報を「誤情報」と断定して、「表示させない(BANする)」という内部規約を盾にして、あいかわらずの情報統制を正々堂々と実行しているのである。

これができるのは、アメリカ国内法の「通信品法230条」があってのことだが、あの民主党政権で総務大臣だった、原口一博衆議院議員すら「不思議」といわせる、この法がそのままわが国でも適用されてしまっていることなのである。

もちろん、原口氏は法的根拠となる国会質問などを通じて、本件を発信しているが、絶対多数の与党はもちろん、自身の属するだけでなく野党全体も、妙な「無関心」の態度を続けているので、政府役人の答弁も的外れが許されている状態にある。

これは、大臣やら地方なら「首長:知事や市長など」の、答弁拒否がなんだかトレンドになっていて、議会軽視もここまでくると、なし崩しの「独裁」がしらないうちにはじまっていることがわかるのである。

冒頭に紹介した動画では、あたかもコカ・コーラ社によるむき出しの利益追求が問題の原因にみえるけど、その背景には、驚くほどいまのわが国との類似がみえてくる。

また、ここで注意したいのは、動画中もあっさりと、メキシコのコーラが「おいしい」と評価されていることである。
これは、いわゆる人工甘味料ではなくて、ちゃんと砂糖をつかっている、ということが理由なのである。

世にいう、「ダイエット・コーラ」とは、飲むひとに対してではなくて、コーラ自体のダイエットという意味だ。

しかして、『砂糖の歴史』をみれば、じつは「麻薬」とおなじに、脳への快楽物質を誘引するために、習慣性・中毒性があるのが、「砂糖」なのであった。
だからといって、人工甘味料が、砂糖より安全性が高い、と断言することもできない。

「食欲」すら、誰かにコントロールされている可能性があることは、本来ならば「生きる力」として、小学校や中学校といった義務教育で教えておくべきことだろうが、これを「しない」、「させない」のも、誰かにコントロールされているからである。

新しい時代の経営は公共を無視する

前回の、「奇書」の続きである。

1961年に発行された、防衛研修所の『MTPを中心とした経営管理の技術』では、「新しい時代の経営」の第一条件に、「社会公共の福祉に貢献する」が挙げられている。

ここで、古い時代の経営にこの概念がなかったのか?と、ツッコミをいれて疑念を呈したくなるのだが、この疑念に対する説明は本書には一切ない。
まぁ、そうでなければ全部で22ページというボリュームをおおきく超えてしまうだろう。

批判が絶えない、「古典派経済学」では、その言い出しっぺの「神の手」で有名な、アダム・スミスが、『国富論』と並ぶ『道徳感情論』で、経済と道徳をちゃんと関連づけて書いている。

もちろん、アダム・スミスは、イギリス人なので、彼のいう「道徳」とは、英国国教会のキリスト教的道徳がベースの当然があるし、そもそも、「社会公共の福祉」なる概念そのものが、キリスト教からの発想である。

日本人は、理屈をこねくり返すことなく、「お互い様」という常識で身分社会(とはいえ、「職業別」の身分)を暮らしてきた。

経済活動における自由主義を、なんでもありの「自由放任主義」として決めつけたのは、アダム・スミス本人ではなく、後世におけるその批判者たちが勝手につくった屁理屈である。
なぜなら、アダム・スミスは、「道徳」による「制約」を基礎とした「自由主義(経済)」をいっていたからで、なにも制約がない勝手気ままを想定してはいないのである。

ここに、中世社会との断崖絶壁があった。

絶対王権の自由気ままをベースにした「重商主義」が、なんでもありの「東インド会社」を擁護したけど、一方で、国民自身は王権の制限に走った。
ロンドンの紳士は、インドでは暴君、という皮肉も、勝てば官軍で完全無視されたのである。

いまでは、資本主義が嫌いな社会主義・全体主義が好きな者によって、とうとう「強欲資本主義」とまでいわれているが、より強欲なのはこれらの者たちで、その強欲さを自己制御すべくあたかも「道徳らしいこと」を説いているのである。

それが、「持続可能」やら「SDGs」やらの、おどろくほど中身のない全体主義スローガンの欺瞞である。

欲しいものがいるから供給するだけだ、という理屈では、アヘンをつくって売っても、なんら罪深さを感じない、大英帝国の強欲さを強調するだけだし、西太后が仕切った清朝末期の政治もとんでもなかったけれど、アヘン戦争で英国に立ち向かったのは立派なことだった。

英国議会では、9票差での戦争遂行決議だったが、懲りない野蛮な英国人は、この反省から単純多数決のルールを変えて、戦争開始には、たとえば3分の2以上の賛成を要する、とかとしてはいない。

結局、現代イギリス人は自国の、アダム・スミスやエドマンド・バークをちゃんと読んでいるのか?と問いたくなるけど、読んでなんかいない、という貴族たちの回答が怖くて質問すらできないのかもしれない。

「正義は勝つ!」という、予定調和説を信じるように子供時分から「ヒーローもの」で擦り込まれている日本人は、正義の清国がアヘン戦争でズダボロになっただけでなく、獲物のぶんどり合戦にわが国も加わった「時代の常識」について、無反省で批判している。

だからまったくおなじ状態の英国で、おどろくほどの衰退がいまやとうとう「凋落」となっていて、われわれ日本の先を行くから、ウオッチすべきだと書いているのである。

その野蛮なイギリスから新大陸に逃れたひとたちが、せっかくつくった国なのに、やっぱり野蛮なひとたちが多数移民して、もっとも凶暴で野蛮なグローバル全体主義者たちに乗っ取られているのが、現代のアメリカとなっている。

このひとたちは、アメリカン・ドリームで手にした巨万の富を、いく世代の後世にも引き継ぐために、既得権益化することに躍起になっている。
あたかも「永遠のローマ」を追及するがごとくであるが、そのローマがいかにして滅んだか?を真剣にかんがえてなんかいない。

地球環境の変化を原因にすれば、寒冷化によるゲルマン人の南下という、生活空間の確保のための命がけが、帝国軍を打ち負かした、ということだから、プーチン氏がいう、「寒い国なのでもしも温暖化しているというのなら、わが国は歓迎する」といったことの背景に、ローマが遠くに見えてくるのはわたしだけではあるまい。

この意味で、このひとたちの行動規範はじつに永遠なるものに対する「保守」なのである。

しかしそこにあるのは、自家の既存資産とそれを生み出す利益の源泉を、誰にも渡さないで子孫に相続するという決心だけなので、「社会公共の福祉に貢献する」という概念そのものが存在しない。

そうやって、兆円単位の使いきれない資産(資金)をもって、政治家を買収し、手駒にすることが、もっとも効率がいいことに気がついたのである。

これで、資産家と政治家とだけの間で、ウィンウィンの関係ができた。

これにあやかろうとして、餌に食いついているのが大手マスメディアという構図ができたのであるが、あんがいと多数の庶民がバカばかりではないので、複雑な「大衆の反逆」が世界中で発生しているのである。

しかし、社会公共の福祉に貢献しないことで儲けることが、「あたらしい資本主義」となり、こともあろうに日本の首相がこれを推進すると宣言して憚らないまでにわが国も堕落した。

要は詐欺と略奪と冒険という、中世の山賊の倫理が、まかり通ろうとしているが、織田信長が登場して秩序を回復したごとく、そうは問屋がおろさないのが、政治力学というものなのである。

これは、この奇書における第二、「お客の利益を第 1とする」ことに明確に関連している。

なにせ、自分の利益を優先させることにおける、社会公共の福祉に貢献しないことの原因だからだし、そんな無価値をあたかも価値があると勘違いさせられて購入することの。一般人の資産の減少が、いまや「掠奪」とおなじになっているからである。

それが、ネット社会における、「無料」や「5%還元」と称して個人情報を盗みまくることの正当化だし、「有料」ならば、一生涯の料金負担から免れない、完全に第二の「租税」となっていることでわかるのである。

もちろん、民間企業の事業にみせて、じつは監督官庁の役人の天下りを基本とした癒着が世界的な仕組みとなっているから、行政の存在理由が「国民福祉のため」から完全乖離しても、民主主義だと言い張れるのである。

それでもって、あたかもいっときは、社会公共の福祉に貢献しない者が優位に富を得るだろうけど、これが蔓延したら、秩序の崩壊により、その「富」自体の価値もなくなって元の木阿弥になるのが、人類史の道理というものである。

これを、アダム・スミスは「神の手」といったのだ。

だからこうした者たちは、必ず滅亡する予定調和説となるのだが、困ったことに、一般人を巻き込むのである。

われわれ一般人は、早くからこうした不道徳な者たちから逃れないといけない。
そのために、まずは選挙に行って、手先となった政治家を当選させないことがはじめの一歩なのである。

「防衛研修所」発行の奇書

いまは、防衛「研究所」に改称(1985年)された、1952年に設立された保安庁の「保安研修所」が前身で、その後にできた自衛隊における尉官以上の教育・訓練を目的としたのが「防衛研修所」である。

この機関が発行した、『MTPを中心にした経営管理の技術』(1961年)を、国会図書館で昨年秋にみつけたけれど、自衛隊幹部に対しての教育に、中身がどんなだかと興味がわいたのである。

すぐさま国会図書館を訪ねて、唖然としたのは、「電子化」のためになんと半年も閲覧不能であったことだ。
しかして、時の流れは早く、このたび電子化された資料を自宅のパソコンから遠隔でコピーを送ってもらえたのである。

ただし、コピーは紙の郵送物として送られてくる。
なんでも、「著作権」が優先されるのは、前に書いた通りである。

しかしながら、本書には「奥付」がなかったし、そもそも、国家予算で運営される機構で製作されたものだから、これに著作権を付与する発想がおかしいのである。

腐っても鯛の、アメリカ合衆国は、軍も含む政府機関が一般向けに発行する情報に、はなから著作権を付与していない。
アメリカ国民全員のための「情報提供サービス」であって、料金はすでに税金として徴収済み、という理由になっている。

どうかしているわが国は、自民党政権のズボラから、国家機関が平然と「著作権」を設定しているのである。
これに、異論をいう国会議員が野党にもいない体たらくで、せめて共産党ぐらいは異議申し立てをしてもいいのに、とおもうのである。

そんなわけで、さっそく中身を読んでみた。
たった22ページの小冊子である。

表紙にいきなり「目次」があるので、本文もいきなりで、よくある「はしがき」も「後書も」ない。

表紙にある目次は、次のとおりである。

1 新時代の経営
2 管理者の能力
3 管理する技能
4 作業指導の技能
5 作業方法改善の技能
6 人間関係をよく保つ技能
7 結び

そもそもタイトルにある「MTP(Management Training Program )」は、戦後アメリカ軍がもたらした管理職訓練のためのメソッドなので、尉官以上の幹部自衛官にこれを訓練することに違和感はない。

しかし、目次からは見えない、「軍事」が、この本にはどこにもなくて、冒頭から「企業は、」ではじまっているのである。

幹部自衛官を育成するといえば、防衛大学校がすぐに浮かぶが、その下の中堅幹部を育成するための学校は、一般大学卒を集める「幹部学校」として別にある。

いまネットでさまざまに的確な軍事的解説をしている、元陸自「陸将補」だった方は、京都大学のご出身なので、おそらく防大ではなくてこちらの幹部学校のご卒業なのだろう。

「陸将」「海将」「空将」クラスを横目に、なるほどの実力差が歴然なのは、素人にもよくわかる。
なお、東大御出身なら、キャリア官僚として「内局勤務」を選ぶだろうから、なかなか征服組の悲哀を味わうこともないのだとおもわれる。

それに、旧軍が「幼年学校」という場所で、超エリート養成を子供時分から行なっていて、「大将」になるには、幼年学校卒からの一貫教育でないと無理だった。

軍人も、「軍事官僚」なのである。
幹部学校卒なら、普通は「1佐」どまりが、「陸将補(外国なら「少将」)」にまでなったのは、さすがに実力を無視できなかったのだろうけど、「陸将(外国なら「大将・中将」)」にはさせないのが、官僚機構としての秩序重視が見てとれる人事である。

何があっても、「例外」はつくらないのが、有職故実がすべての官僚ゆえだが、「令外の官」たる、「中納言」をつくった奈良のむかしのひとが偲ばれる。

そんなわけで、わが国の防衛大学校は、まだ独立前の昭和27年に「保安大学校」ができて、独立後の昭和29年に「防衛大学校」となっている。
つまり、本書は、防大が設立間もない時期の「読本」となっていたものだ。

ちなみに、知人を介して防大図書館にもあたってもらったが、やっぱり蔵書はなかった。

そこで、本文にある、「企業」を、「隊」とか「組織」に読み替えると、実に汎用性が高い「読本」になるのである。

読みようによっては、時代背景から「任官拒否」や教育内容への批判を想定していたのかもしれないし、中途やらで退官して民間に再就職する際の「再教育」のための「読本」だったのかもしれないけれど、いまのわが国において、このような「幹部教育」はふつうの学校生活でもほとんど実施されていないので、妙に貴重に見えるのである。

もはや、文字通りの「奇書」に相違ないのだが、たった22ページでよくも手短にエッセンスをまとめたものだと感心もするのである。

JRの全体主義

鉄道が先進的技術だったころ、開発独裁の国家として、「鉄道省」を設立したのは、画期的通信システムの「電信」と「万国郵便制度」のための「逓信省」の設立と発想はおなじだったのだろう。

それで、文明社会がかならずおこなう「科学」の導入が、人的機構(組織)をも細分化するのは、科学の本質が「細分化」にほかならないからである。

そうやって、日本交通公社も細分化されて、研究法人としての組織と、旅行エージェントしての組織に細分化した。

それで、あたかも国鉄の営業部隊がJTBのように見えたけど、国鉄が細分化されて「JR各社」になって、JR各社がそれぞれ旅行会社を持つようになったら、今度はJTBが存在意義を失うことになったのである。

なんだか知らないが、むかしのエリート学生がこぞって入社したがった企業が、定年間近になって経営の存在価値が問われることに次々となっているのは、エリート学生の成れの果てともいえるおそろしさを改めて感じざるを得ない。

この人たちは、いったい何を組織内で学んで成長してきたのか?と問えば、あんまり努力せずに過去の惰性で仕事をしているふりをしていたら、とうとう仕事をするとは何か?も忘れてしまったようである。

こんな光景が見えているのに、まだ、むかしながらのエリート学生を欲しがる企業とは、いったい何をかんがえているのか?と問えば、そんなむかしながらの自称エリートが幹部だったりするが、漢字がまちがっていてきっと、「患部」と書くのだろう。

なので、かつての鉄道省が運輸省と国鉄に細分化されて、運輸省が国土交通省に再編されたが、国鉄はJRに再度細分化されて、清算事業団とその他の事業各社になったのである。

ここで、重要なことは、「解雇者がいない」ことなので、細分化のたびに全体は肥大していることなのである。

組織が無駄に肥大化すると、時間をもて余すひとたちが多数生まれる。

これは、あたかも自然現象のようであるが、じつは人為である。
人間は暇だと、ろくなことをかんがえないのだが、厄介なのは、多忙な現場の人材は不足して、閑職にある中間以上の管理職(「マネジメント職」のこと)が、中でもかなりの高級幹部(患部)がとくに肥大化する。

なぜかといえば、細分化によって「必要」と(人為的に)見積もられた数の幹部候補生を確保するという「採用活動」が行われるからである。

しかし、こうした見積もりが甘いのは民間企業も同じで、それをむかしは「窓際族」と呼んでいた。
このいい方とその立場は、比較的低位の管理職だったので、実害が少ない分悲哀に満ちていたものだ。

しかし、細分化の恒常化が、低位の管理職だけでは賄いきれなくなって、とうとう幹部全体が「閑職」となるのである。

こんな組織は、「有職故実」による管理が行われるのだが、たまに、余計なお世話をしだす閑職が「鶴の一声」を演じることがある。

たとえば、北陸新幹線ができたら、関西(大阪起点)から福井・金沢に行くのがやたら不便になったことがそれである(もちろん逆もしかり)。
敦賀までは在来線特急で、ここで強制的に新幹線に乗り換えさせられるのだ。

一度座席に座ったら、目的地までずっとそのままでいい、という旅ができなくなった。

そうやって、新幹線の乗車率を高める、という数字が出来上がるのは、監督官庁の国土交通省の閑職にも役立つので、乗客の不便を無視してよい。

この意味で、アリバイ路線が、伊豆半島に向かう「在来線特急」の存在で、東京から伊豆急下田までの途中にある新幹線駅もある熱海での強制乗換なく、乗客はいったん乗ったら目的地まで行ける路線としているのである。

つまり、人口で多数の関東人には、関西人の不便がわからないような「配慮」がされている、といえるのである。

まったくの全体主義が、北陸路線で完璧に観察できるようになっている。

ウソつきが出世する世界

むかしは、「ウソつきは泥棒のはじまり」とか、「ウソをついたら閻魔様に舌を抜かれる」とかとおとなにおどろおどろしく脅されて、「ウソをついてはいけないこと」と覚え込まされた。

いわゆる、「躾(しつけ)」のうちのごく基本的な事項である。

こんな道徳が、社会に浸透していたので、日本社会はこれが「ふつう」なのだという信仰があって、とくだんどこかと比較しようという気も起こさなかったのは、国民のほとんどがめったに外国旅行にいけるような身分も余裕もなかったからである。

しかし、外貨不足が逆転して、慢性的な「巨大黒字」を謳歌するようになって、80年代には、稼ぎのない大学生でも「卒業旅行=海外旅行」になったので、猫も杓子も外国に行ってどんどん「騙される体験」をしたら、こんな正直者ばかりの国は、日本だけだったことに否応なしに気がついたのである。

わが家では、ベルギーの古都、ブリュージュを夫婦で旅したときに、中世の格好をした怪しい人物がウロウロしているので、「詐欺師」だとすぐにわかったが、どんな詐欺を仕掛けてくるのかが気になって、「引っかかる」ことにした。

なんと、パソコンでプログラムした絵柄デザインを「カレンダー」に仕立てたものを帳票で、しかも、なんと懐かしの「熱転写プリンター」ジーコジーコとその場で印刷して売っているのである。

それがどうしてこんな格好をしているのか不明だが、妙に明るいので気の毒になって買ってあげたが、せっかくなので棄てずに日本に持ち帰ってとってある。
ヨーロッパの首都にして、いまどきこんな商売?(詐欺だけど)があるのかと感心した。

日本人になら無価値のものでも騙して売れる!と勘違いされたら困るけど、人通りの絶えない路地でやる堂々とした感覚は、日本でお目にかかったことがない。

なんだか大道芸を観るような、観光経験であった。

こんな他愛もない騙しならまだしも、日本の世の中には詐欺が横行するようになった。
これを、「欧米化」というのである。

その典型は大手マスメディアが、「報道しない自由」なる、職業倫理の放棄をやっていることで、その思想的背景に「グローバル全体主義」があることは、しつこく書いてきた。
左翼の思想的行動原理には、「自分だけが(理論的に)正しい」という思い込みがあるので、かならず他人の意見を受け入れないから、「内ゲバ」がはじまる。

それで、共同通信の記事を買わない、という新聞社が続出して、わが国最大の通信社が万年赤字状態になったのは、喜ばしいことでもあるが、これで、共同通信の記事を買わない新聞社の記事クオリティが向上したものでもないから、「同士討ち」状態になって互いに沈没しているのは、ご同慶に堪えない。

そんな、ズブズブ状態の大手マスメディアは、現代最高の女性詐欺師、ヒラリー・クリントンの悪行を書かないし、よく似た小物の日本人、小池百合子の「(あえて)疑惑」のことも書かないし、13日、池袋で万人単位の参加があった、「パンデミック条約反対集会」も書かないし、よしんば書いても参加人数が少ないような印象操作をするための「写真」をつけている。

現実のあまりの盛大さに、とうとうあの、キアヌ・リーヴスが気がついて、自身の発信としてこれを報じて、世界に拡散している。

今週からはじまった、トランプ氏に対する「詐欺裁判(「魔女狩り」と呼ばれている)」の、驚くほどの「偏向(検察を一方的有利とする裁判官)」は、さしものアメリカ人左派でも意見が割れて、あまりの「司法の武器化」は、明日は我が身という恐怖に気づくひとを増やしている。

日本ではまだ行われていない?だろうが、この当該裁判官の、特性政党(民主党)に政治資金寄付をする行為が確認されているのに、裁判官の身分のままでいるのはアメリカにおいても「違法」なのである。

しかも、「構造的」に、トランプ氏を起訴して棄却されないのに、もっとちゃんとした証拠が確認されている、ヒラリー・クリントンには、まったく司直の手が及ばないのは、ニューヨーク州という民主党支配の政治地域における「闇」となって、とうとう州や市の人口流出がはじまった。

まったくもってマンガの、『バットマン』で設定した、「ゴッサムシティ」が現実になっている。

小池氏の場合は、後ろ盾の二階氏(あのジョージ・ソロスも)が引退表明して、いきなりトドメを刺されるがごとくの話になっているが、きっかけをつくった元役人も、「クールビズ」やら、「京都議定書」やらをやった、日本国民には望ましくない人物であるが、なんだかいまは英雄面しているのである。

その二階氏を引退に追い込んだのは、東京地検特捜部というCIA機関であって、妙ちくりんで中途半端な「捜査」は、まったく政治的な「脅し」となって、訪米前の岸田政権をコントロールしている。

ようは、だれがCIA長官で、だれがその上の「国家情報長官」で、だれが「司法長官」なのか?というマトリューシカ人形の中身を観察しないといけないのだが、小池を切ってでもやりたいことはなにか?こそ、ウソつきたちの魂胆なのである。

一方で、世界経済フォーラムを創設したクラウス・シュワブが入院したという「うわさ」が、世界を駆け巡っているが、この人物の年齢(御書誌86歳)からしたら確かにさもありなんではある。

そんなこんなで、世界はウソつきたちによってかき混ぜられているけれど、ウソつきたちにも寿命がある、という絶対的現実が、世界を救う唯一の光明となっているのは、過去のとんでもない人物たちの栄華が、そのまま『平家物語』のいう真理と通じるのである。

ローカルな「トンネル」の話

横浜市に生まれて60数余年、実家がある保土ヶ谷区では国道16号線、いまの住まいの戸塚区では、国道1号線のお世話になっている。

なので、今回は、「ちょっと」ローカルな話題である。

むかしの保土ヶ谷区(1969年に分区して「旭区」ができた)を通る国道16号線は、東側の西区から2級河川の「帷子(かたびら)川」に東海道線・横須賀線と相鉄線をまたぐ「尾張屋橋(宝暦年間:徳川9代家重、10代家治の時代に尾張屋九平治がこの辺りの新田開発したため)」の東側で国道1号と交差する。

いまの横浜駅もそうだが、中心部の市域はぜんぶ埋め立て地なのが横浜の素顔なのである。
それで、東海道線も横浜駅から保土ヶ谷駅までの区間は、たいがい「元は海の上」を走行している。

ちなみに、横浜市の「分区」は、1927年に区制がひかれたときは5区(鶴見区、神奈川区、中区、保土ヶ谷区、磯子区)だったのが、市域の拡大とともに増えたのと、人口増加で分区されとのと、二種類があって、「戸塚区」は、1939年に「鎌倉郡の村々」を編入したときに生まれた「区」である。

あおの有名な「鎌倉ハム」も、この「鎌倉郡」に外国人用の加工肉工場として誕生したのだ。

なので、わたしが小学生の頃学校で習ったのは、14区だったけど、1984年と1994年にも分区されて、いまでは18区になっている。
東京の「特別区」とちがって、すべて「行政区」なので、「区長」は横浜市役所の局長級が人事異動で就任している。

横浜駅がある「西区」も、中区から戦中の1944年に分区してできた敗戦前では最後のあたらしい区だったけど、区域の低地はやっぱり「元は海」である。

道路の話に戻ると、大磯から東京に自動車で通っていた「ワンマン」吉田茂のためにつくったのが、「横浜新道(1957年開通の「行政道路」である)」なので、いまは死語化したが、「ワンマン道路」といえば横浜市民ならだれでもしっていた。

建設を指示(実態は「命令」)したのは、GHQによる1948年(昭和23年)のことだったからである。

この道路は、国道1号線の「バイパス」扱いになっていて、建設費を回収した時点で「無料」になると宣伝していたが、大規模拡張工事でかえって4割増しの高額有料道路になったし、無料出入り口の全部が閉鎖かあらたに料金所を建設して、もれなく課金される「みえない増税」のようなこともやって、「平等」のもとで生活道路を封鎖する無慈悲が平然と実施された。

一方で、横浜港と米軍厚木基地を結ぶためには、国道16号と東名高速横浜・町田インターチェンジと国道246号を接続するのに、大渋滞が日常で、1973年になってようやく「保土ヶ谷バイパス」として国道16号の複線ができた。

これで、16号の片側2車線がいまの「環状2号」と交差するあたりで1車線になるためにどうにもならなかった、混雑が一気に解消されたのは事実である。

1号では、毎年盛り上がりを見せる「箱根駅伝」の「花の2区」の文字通りの山場である、「権太坂」を登る手前の狩場インター付近から国道1号は狭くなって、エリザベス女王も献花に訪問した「英連邦墓地」がある隣接の「児童公園」あたりでいったん片側2車線に戻るやいなや、保土ヶ谷区と戸塚区の区界の下り坂になると、再び片側1車線の狭さに戻る。

それゆえに、恒常的渋滞のエリアになっているのである。

鶴見から新横浜駅前を通過して国道1号と立体交差する「環状2号」は、そのまま京急屏風ヶ浦を横切って、磯子区で首都高に接続する。
その環状2号に交差するよう、市中心部の桜木町からやってくるのが、「桜木・名瀬道路」の未接続部分がやっとこさ今回話題の「トンネル」なのである。

このトンネルの上は、全国的に珍しい、「市街化調整区域」から、「農業専用」に用途替えを申請・許可された、「果実の里」で、農家が10軒ばかり寄り添って暮らしている地域である。

JR横須賀線の「東戸塚駅」の開業による都市化が、農家をして後世に畑を残したい、という強い危機感を呼び起こしたという。

ために、トンネルの計画事業は、1989年からのものだったが、ついぞ着工に至らずに今日になっていた。

それがとうとう、24年度予算で着工が決まったという。

その理由が、国道1号側の恒常的渋滞が、「滋賀県の事故(19年の保育園児などが16人も死傷した)」の再発防止だというのである。

つまるところ、「国」の目線は、滋賀県のことを戸塚区でもみていますよ、という高度からの鳥の目線でチェックをしているという、「へぇ」という話になっているのだ。

それゆえに本稿冒頭に、「ちょっと」をローカルな話にくっつけたのである。

道路の目線だけでなく、国が管理する全分野で、こうしたちゃんとした高度な鳥の目線をもってやってほしいものであるけれど、無責任と他人のカネを使うだけしかできない行政に、過度な期待は禁物なのである。

この意味で、黒澤映画『生きる』(1952年)は、「主権回復」直後に公開された、行政の実態を暴いた作品でもある。
志村喬の名演が光ることにだけ目を奪われてはいけない。

そうやって見ると、「熱血教師もの」というジャンルも、現実にはありもしないフィクションで、視聴者にファンタジーとは思わさず、あたかも理想としての目くらましをやっているから、没入してはいけないのである。

すでに火の車の財政で人口も減少するのに、あたかも慣性の法則がはたらいて、たんなる「惰性」をやめることができないから、新幹線も道路も、過去にできなかったものができている。

維持の負担が恒久的になるのだけれど、維持できなくなる現実をみない。
いまなら、かつての世界の覇権国、イギリスがどうなっているか?をじっくり観察すべきときなのである。

もはや避けられない?一億総乞食化

「ジャンルとしてのノーブラ散歩」から、前回(3000円の白菜)の続き、である。

いま日本が、「アジア最貧国」になる可能性がある、といったら笑い出すひとがたくさんいるにちがいない。
もちろん、そうなって欲しくないから書いている。

しかし、前にも書いた、アメリカのグランドストラテジー(国家基本戦略とくにこのブログでは「DPG:国防プラン・ガイダンス」のこと)が、92年頃に書き換わって、日本への投資(肥育)モードから、「刈り取りモード」になったのだ。

このことは、すべての日本人にとってあり得ないほど重要で、「肥育」の戦後が終わったという意味でもある。

「ウクライナ」から見えてくる、戦争屋の本質的なビジネス・モデルは、当該国民がなんにん死のうがお構いなく、自分らの投資した「カネ」さえ最高利回りで回収できさえすれば、バカボンのパパのごとく、「これでいいのだ」なのである。

もちろん、彼らは「ギャンブル」をしているのではない。
確実に儲かるビジネスをやっていると心から信じている、悪魔のような連中なのである。

このたびの岸田首相訪米で、安倍氏暗殺の構図がみえてきた。

おそろしいまでにわかりやすい『ファウスト』の世界である。
この場合のファウスト博士は岸田氏で、悪魔(メフィストフェレス:ジョー・バイデン)からもらった自身の欲望を満たす薬を飲んだ(首相の座を射止めた)ら、まずは目の前で安倍氏が血祭りになったのである。

だからもう、魂までもメフィストフェレスに差し出すしかなくなった。

日本国民は、全員が「捧げ物の羊」になって、これから焼かれることになるのはアブラハムが息子を生け贄にするがごとくだが、残念ながら「ストップ」の声はかからないにちがいない。

これは、あの『ローマの休日』(1953年)のグレゴリー・ペックが『オーメン』(1976年)のラストで演じているシーンなのだ。
ただし、さすがは「悪魔のダミアン」で、アブラハムと息子の結末が逆転しているのである。

すなわち、日本人はこの危機を乗り切るために、「鬼神」となって、トロキストに乗っ取られたアメリカ民主党に対抗しなければならないのだと、『オーメン』は図らずも教えてくれているのである。

まさか、高校生のときに観たホラー映画(当時は「恐怖映画」と呼んでいた)が、かくも高尚な教えに満ちていたとは、当時、ぜんぜん気づかなかった。
ついでに書けば、おなじく「恐怖映画」としての『サスペリア2』における話題が、小池百合子との関連でトレンド入りしている。

なるほど、なのである。

しかし、このひとの存在自体が、「恐怖」の源泉なのである。
国民の一部は気がつきだしたが、はたしてなかなか全員にはならない。
それは、「大手マスメディア」で曝露しているのが、月刊誌『文芸春秋』だけだから、ということもあるが、国を代表する総合雑誌を国民が読まない時代になっているからでもある。

円が大きく減価していることは、ヨーロッパやアメリカのように直撃的な影響があるなら誰にだって気がつくことだけど、内外価格差のダムで防御、つまり国民生活への直撃のない管理経済体制の日本では、悪い意味でマイルドな影響になっているのである。

しかし、つくられているトレンドに敏感なとくに女性たちが、「【ノーブラ散歩】」という少ないリスクで稼いでいて、性の鈍感化もすすんでいる。
こうしたことは、競争によってかならず「尖鋭化」するので、産業が破壊されたわが国が、「売春国家」になることだってあり得るのである。

では、商品にならない「高齢者」たちは?となれば、これはもう、乞食化しか選択肢がなくなる。
なにせ、「お金持ち」のはずだった、せっせと貯蓄した「円」が、価値をなくしているからである。

すると、そこまではいかせない、とするなら、トルコのように、独自通貨を棄てて「ドル流通」の国になるしかないが、ときにドル自体が大丈夫なのか?ということになりつつある。

残るは、金本位制になっている「ロシア・ルーブル」だけ、という現実がみえてくるのである。

かつて、シベリア圏を円経済圏にせよと訴えた、小室直樹の亡きいま、たった30~40年ほどで逆転したことの「ダイナミズムと仕組み」に、もっと深く関心を寄せるべきではあったが、もうあとの祭りなのである。

一玉3000円の白菜

報道の一致した理由説明によると、「天候不順」が白菜価格を爆上げしているという。

ほんとうだろうか?

過去、わたしの記憶で一玉800円に驚愕したことがある(たしか「ハナマサ」だった)ので、さいきん近所のスーパーの生鮮野菜コーナーでみかけた「3000円」には、さすがに目を疑った。

一部の記事には、あっさりと「運送費その他の費用増も影響」とかとあって、天候不順だけで3000円になっているのではないと示唆している「良心的な」ものもある。

誰もが、日本は島国だと認識しているが、では「島国の特性」とはなにか?と全員が意識してかんがえているわけではない。
それに、なんとなく「海が防御している」と、学校で習うことが擦り込まれている。

「元寇」も、「鎖国」もしっかり習うが、外へ出ていった神功皇后の「三韓征伐」やら「白村江の戦い」は古すぎて、秀吉の「朝鮮出兵」も珍しいことになっている。
つまり、これらはあたかも「防護柵」に守られていることの逆だから、現代日本人には馴染まないのである。

旧帝国陸海軍の作戦地域は、西は紅海から、東は南太平洋の島嶼にまで及んだので、当時のひとたちの頭の地図には、相当に詳細な国際地図があったのである。
いまの排他的経済水域の国際ルールで、わが国は世界第6位の面積がある、巨大な国になったのに、その地図が頭にないし、まだ「小さな島国」だと思いこまされている。

それが「経済」になったとき、国内産業を保護するために、みえないあたかも「ダム」のような防護柵を設けて、「内外価格差」を生み出した。
外国の価格が安くて、国内の価格が高いのも、産業優先策のなかで国民は容認し、そのまま習慣化して、とうとう誰も気づかなくなったのである。

日本人の海外渡航が自由化されたのは、1964年(昭和39)年4月のことだから、ちょうど今年で60年の還暦となる。
とはいっても、まだ1ドル=360円の「超円安」だったから、外国に好きに出かけて買い物を楽しむなんてことはだれにもできなかった。

それでも、国によっては、「同じモノの値段がちがう」ことがバレだした。
リカードがいう「価格差:価値の落差」こそが、貿易による利益の源泉だから、安い地域で買って、高い地域に持ち込んで売れば、運送料やらを差し引いても儲かるなら、だれでも富を得ることができるのである。

これを自由かつ民間にやらせずに、国家がやるのを「管理貿易」といって、継続すると「国栄えて民滅ぶ」ことになっているのは、自然の「法則」だからだ。

もっとも近い「外国」は、沖縄だった(返還されたのは、1972年(昭和47年)5月15日)から、それまで沖縄土産といえば、「スコッチウイスキー」だったのである。
「酒税」のちがいが、「ダム」の役割をしていたからである。

さてそれで、金の高騰がとまらない。

2000年の「1000円/g/年平均」を底にして、いまは約13000円にならんとしている。

これは、単純比で13倍になったのだが、年率に換算(24(年)√13(倍))すると、年率で約11%の上昇ということになってそれこそ大変な勢いだとわかるのである。
このところの円ドル相場が、ざっと1ドル100円から、1ドル150円になったのも含めて、金でもドルでも、一方的に円の価値が下がっているとこないだも指摘したことの繰り返しである。

それが、「白菜」の価格でも現れている、とかんがえれば、800円から3000円になったのさえも、「緩く(マイルドに)」感じるのである。

何度も書くが、金(Gold)自体は価値を生まない、ただ歴史的に貴重と認められている金属ある。
一方で、インフレとは、通貨価値の下落をいう。
これは、モノに対して通貨の方がたくさんあることで発生する。

だから、中央銀行はインフレを抑え込むために金利を上げて、市中にあるおカネ(通貨)を中央銀行に吸い上げて、モノの量とおカネの量とを均衡(合致)させようとするのだ。

アメリカもヨーロッパも、大量のおカネを市中に出した(たとえば、ウクライナ支援とか)ので、金利を上げてインフレに対応しようとしている。
日銀も、ずっと続いていた「異次元の金融緩和(おカネの無制限な供給)」をやめて、やっとこさそろそろ「金利を上げようかなぁ」、という状況になっている。

しかし、もう、たくさんあり過ぎるおカネ(=吸い上げが間に合わない)で、石油も天然ガスも価格が上昇しているのがぜんぜん止まらないのである。
ほんとうは、石油がガスが値上がりしているのではなくて、先進各国のおカネの価値が減っているだけなのである。

これに加えて、産油国(=概ね天然ガス産出国でもある)は、こないだ天寿をまっとうしたキッシンジャーがニクソン政権でやった「ペトロダラー(石油の決済はドルに限定する密約)」からの脱却を意識して、とうとう人民元やらインドルピーでの決済も認めるようになった。

「脱炭素」は無意味だが、「脱ドル」には意味がある。

困ったアメリカは、瀕死でもなんでもかまわない岸田首相を、「国賓」待遇して、世界に大量に出回るドルの裏付け(無額面小切手帳の裏書き)を約束させたのである。

つまり、わが国は文字どおりの「ATM(無限小切手の保証人)」にさせられた。

しかして、ドルを支えるために円を大量に市中に出さないといけなくなって、国民に国債を買わせる(国民の富を収奪する)ために、NISAを「やれ」といっているのである。
そんなはずはない、わたしはNISAで国債なんか買っていない、と個人がいっても、カネを集めた金融機関は、結局、日本国債を日銀から買うしかないのである。

そんなわけで、わが国はかつてない、忘却した敗戦後の600%のインフレかそれ以上の通貨崩壊の大津波がやってくる可能性がでてきている。

円は元の「360円」に戻されるのではないか?
しかし、いまどきそんな超円安になっても、かつてのような「世界の工場」に逆戻りできないで、国内の工場はとっくに人口が減るというのに大型マンションになっているのである。

一億総乞食化が、自公政権のなれの果てになるかもしれないが、対抗する野党はどこにも存在しないことこそが日本の悲劇なのである。

その原因たる最大の悲劇は、国民がこうした危機意識をぜんぜんもっておらず、安穏と暮らしていることだ。

東京都の食料自給率は、たったの「2%」だという意味すら、阿呆ばかりの都民には理解できないから、3000円の白菜なら買わないでキャベツでよい、とだけ思っている。

だからこそ、都知事のウソにも無頓着でいられるのである。

だがしかし、都心が廃墟・スラム化するときが間もなくやってくるかもしれない。
すでに先進のカリフォルニアやニューヨーク、あるいはロンドンがそうなりつつあるから、けっして空想ではない。

そのとき、自慢の治安も阿鼻叫喚な状態になっているにちがいない。

ジャンルとしての「ノーブラ散歩」

ちょっと「H(エッチ)」な話題である。

さいきんでは、「叡智」とも書いて「H」の代用をするという、あたらしい隠語もできたらしい。
なるほど、「叡智か!」ともおもわせるが、そもそも「H(エッチ)」といったのは、「変態の『へ』」のローマ字表現をもって、「変態」といわないで済ますいい方だった。

ようは、「ローマ字」という、平仮名、片仮名につぐ第三の日本語表音文字の、あたかも英語とはちがうけど、なにやら意味深ないい方が妙な略語として流行ったのである。

嚆矢は、「NHK」だとおもっている。

日本放送協会を、だれが「NHK]といいだしたのか?
それでも、日本相撲協会をだれも「NSK」とはいわない。

もはやふつうになった、「K・Y(空気読めない)」も、外国人には通じない純粋日本語表現である。
なので、いまの若者用語としてのこの手のローマ字系略語の多用には、還暦過ぎのわたしにはついぞついて行けなくなっている。

YouTubeをいろいろ探索していたら、自撮りで「ノーブラ散歩」をやっているひとがたくさんいることに気がついた。
彼女らは、タイトルのトップに「【ノーブラ散歩】」と記載している共通もある。

なので、こうした「ジャンル」を、本人たちも意識しているのがわかるのである。
それと、これまた共通の概念として、ノーブラは「ファッションである」という主張もある。

また、なにも日本だけの現象ではなく、「Bra Less」というタイトルは世界共通のようで、もしやあたらしい「女性運動」なのかもしれない。

その意味は、いわゆる「LGBTQ」に対抗した、「おんならしさ」を強調することでの、自己の存在をアピールしないといけないほどに、追いつめられた精神が生じているのだろうか?

この逆に、「おとこらしさ」のアピールがある。
これには、昨年にアメリカで起きた、「バドライト不買運動」も影響しているのだろう。

アメリカ最大のビール・シェアを誇る、バドワイザーの「バドライト」が、広告にトランスジェンダー俳優を起用したら、これまでの荒っぽい男性が好むイメージが崩壊して、なんと圧倒的シェア1位の座からあっという間に転落してしまったのである。

ビール市場におけるシェアの逆転は、めったに起きることではないために、「保守的」の典型と世界から岩盤評価されていた日本で起きた、キリンラガー・アサヒスパードライの逆転については、あのハーバード・ビジネススクールにおける、伝説的な「ケース・スタディ」としても有名になったものだった。

これで日本国内ビールメーカーは全社、横並びの「ドライ」にシフトをみせて、各社の伝統的なブランドが次々と連鎖反応的に崩壊したのである。
わたしは日本でいう、「ドライな味」という、ウソのようにコクも深みもない味気ないビールを好まない。

そんなピルスナー界ではなくて、エールに分類される、ベルギービールの最高峰『オルバル』をもって、「ドライ」というのである。

さてバドライトの事例は、株主資本主義によって選任された、ポリコレ(左翼思想)の経営者が、よかれとしてやったことの完全なる裏目となる「ケース・スタディ」になるが、もはや左翼に牛耳られているハーバード大学やその他の有名校で、「教材」として扱われるかどうかは不明である。

あまりの売上減少に、さしもの左翼経営者もあわてて「(おとこらしさの)元に戻す」という安易をやったから、かえって火に油を注ぐ事態となったのである。

それでも、「顧客感情を無視したポリコレの押し付けによる失敗」のわかりやすい「事例」になるには、もう少しの時間がかかりそうである。
それがまた、こうしたポリコレの押しつけ(強制)に、世界的反発の政治運動を起こしているから、いったいなにがしたかったのか?

むかしは、タバコのCMで、チャールズ・ブロンソンが「マールボロ」の専属だった。
西部の牧場で、荒っぽいカウボーイが苛酷な仕事の合間に一服する、というのが定番だった。
なので、女性がマールボロを手にしていると、妙な違和感があったものである。

これは、日本の「ハイライト」にもいえて、職場の大先輩たる女性がハイライトをカートンで購入しているのを珍しくみていたのをおもいだす。
それでも、女性が「ショート・ホープ」をくわえているのは一度ぐらいしかみたことがない。

さてそれで、ノーブラ散歩では、しっかり乳首が目立つようなニット系とかの服装を選んで散歩するのを自撮りするのが定番なので、撮影現場までの道中もこの格好なら、結構な目線を受けるはずである。

一歩まちがうと「露出狂」になるのだけれども、男性のTシャツからみえる乳首とどこがちがうものか?という前提があるのなら、なるほど今様の価値観の表れなのだろう。

たしかに、女性の豊満な胸に、「豊穣」を重ねて崇拝してきた民族も多数ある。
なので、隠すものではなく逆に自慢げに晒すものだった。

この意味で、晒す寸前で止めていることに、恥辱はないという発想もあるやにちがいない。
いわゆる、「寸止め」だ。

わが国では、伝統的な和服のばあい、女性は下半身用の下着を着けることがなかったけれど、「舶来品」としての、また、「見せパン」としてのズロースが流行りだすにはあんがいと時間を要している。

「白木屋の火災」でパンツが普及した、というのも井上章一が『パンツが見える』で証明したように、デマである。

そんな事情から、女子高生が見せパンならぬ、ミニに工夫した征服のスカートに学校指定のジャージをはくのも、防衛本能が強化されているからなのかもしれない。

しかして、YouTubeというSNSメディアは、視聴回数によって収入となる仕組みがあるので、ノーブラ散歩とは「動くグラビア」を個人事業としてやっている、という側面もある。

かんたんにいえば、「稼ぎ」のため、である。

すると、今後は「プロ」との間での熾烈な競争が発生する可能性がある。
しかしながら、「部位」における競争なので、プロとアマの境界が曖昧で、しかも、収入がある状態なのはもう「セミ・プロ」同然なので、場合によってはより激烈になるとも予想できる。

めざといファッション界は、そのうち「乳首だけだす」ようなものを、パリやらのオートクチュールで発表すれば、これに左翼の「セレブ」が食いついて、あたたくなった気候に乗じて、通常のファッションに変容することだってあるのだ。

だったら、温暖化バンザイではないか?と、おとこらしいひとたちは大喜びするのだろう。

アメリカの選挙で、「中絶」が一大関心事となっているのは、家庭の崩壊やレイプの横行による望まぬ妊娠に対応している政治テーマであるからだ。
だから民主党は目先の中絶容認を叫び、共和党は家庭の崩壊を食い止め、レイプを凶悪犯として処罰することに重点をおいて、中絶をなるべくしないとしているのである。

そうやって見ると、「Bra Less」を推進する民主党は、レイプを誘うことも意図した、「マッチポンプ」をやっていないか?
「理性」を重視してきた西洋社会が、自ら理性を失い男を挑発するかの行動を「よきこと」とするのは、女性の解放だとでもいいたいのか?

わたしが暮らした80年代のエジプトで、ノースリーブにショートパンツ姿のアメリカ人の娘が、白昼の路上で数人に輪姦されるという事件があった。

被害女性からの訴えに、イスラム裁判所は、女性が挑発して男性たちの理性を崩壊させた罪で懲役刑を下し、アメリカ大使が猛抗議したところ、国民の反米感情が高まる事態にもなったこと記憶している。

女性があからさまに肌を出すことを「ふしだら」だとする常識が、サウジよりもよほど開放的だった当時のエジプトでもふつうにあったのである。

「ジェンダー平等」という変な教育が、変な効果を社会にもたらしていることだけは、どうやら確からしいのである。

「このようにしてローマは滅んだ」とおなじ社会の廃頽が、現代文明を終わらせようとしていて、それにわが国も「感染」したといえるのである。

柿渋染の最終購入

関東人で、「京都府木津川市」と聞いて、地図が思い浮かぶひとはかなりの関西通であろう。

京都府最南にして、東に隣接するのは奈良市である。
いわゆる「山城国」で、北東にはお茶で有名な和束町があり、南には名刹の浄瑠璃寺や岩船寺がある。

高校の現代国語の教科書に、堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』というエッセイがあって、修学旅行の際には、グループ自由行動で実際に訪ねたが、宿の京都三条から公共交通機関と徒歩とでは、ほとんど一日がかりであった。

やっとたどり着いて庭を散策した後に入った本堂では、たまたまか日常なのか不明だが、住職による「九体阿弥陀仏」の楽しい解説を聞いていたら、仲間が「バスがなくなる!」と叫ぶや、慌てて飛び出したことを覚えている。

「(話の盛り上がりは)ここからやのにどうなすった?」と聞かれ、「すみません、最終バスがなくなると帰れません」と答えるや、「どこまで帰るん?」「京都です」「あっ、それなら急ぎや、またいつか来るんやで」「はいきっと来ます」が最後の会話であった。

時計は確か、まだ陽が高い午後3時台であったか4時台のはじめであったかと記憶している。
こんな時間で「最終」なのが、まったくわからなかったが、再訪したのはそれから20年ほど後のことで、その二度目以来いまだに三度目はない。

一生に一回と、やっぱり文学がらみで『城崎にて』の城崎温泉の旅については、シリーズで書いた。

この帰り、丹波から一気に京都市内を南に抜けて、さらにたまたま木津川市を東に抜けて伊賀を目指したことがある。
どうしてこのコースにしたかは、土地勘がない中での適当なコースどりであったことは間違いない。

通過するだけであっても、なるべくマイナーな地域の雰囲気を味わいたかったからである。

それでももう一つちょっとした理由があって、たまたま東京の秋葉原から御徒町へ抜けるのに、JR線のガード下にある「日本デパート」を散策していたときに見つけた、「柿渋グッズ」(このとき購入したのは「枕カバー」)の製造元が木津川市にあるからだった。

わざわざ柿渋を採取するための専用種たる「渋柿」の栽培から自家でおこなっていて、そのクオリティが素晴らしく、洗濯せずとも何年使っても「匂わない」という驚きがあるのだ。

それで、高価だがシーツを思い切って購入しようと、久々にHPを検索したら、全商品が「売り切れ」になっている。
嫌な予感がしてダメ元で直接電話をしてみたら、先月末で「無期限休業(事実上の廃業)」したという。

もう最終処分のセールも終了し、電話の相手も今週の金曜日(本日)で退職して、店は無人になるというのだった。

念のために購入した「枕カバー」の逸話もしたら、売れ残っている商品がまだ少しあるとのことで、内容を聞くと、シーツに代用できそうな布があり、また、マスクなら数があるという。

説明では、シーツだと染め上げて商品にするのに、なんと3年から5年かけて何度も繰り返して染めては乾かして、さらに寝かせていることを初めて聞いた。
後継者が絶えたのは、今の3倍以上の価格設定にしないと手間賃が出ないことにあるという。

これを90歳越えの3代目ご主人が柿渋染の魅力を伝えるために、一人で作業をしていたが、もう体力的に限界になったということだった。

この店の商品の特徴である、「深い色」は、ご主人の献身的かつ完璧主義があってのことで、他店ではもっと染めが薄いのをもって商品としているのは、一種当然なのである。

つまり、こんな深い色の柿渋染は、この最終在庫をもっておそらく二度と手に入ることはない、ウルトラ希少品になってしまっているのである。

もしも後継者が再開するとしても、商品になるまでに3年から5年かかるため、「次回」手に入るとしてもざっと10年後とかとなって、そのときの価格は想像できない。

染めに入る前に、柿の栽培も再開しないといけないが、渋柿も実をつけるまで時間がかかり、なお、植えたうちの何割かほどしか育たない「効率の悪さ」だというのは、「桃栗三年柿八年」のとおりらしい。

それゆえに、柿畑は、予備の木の栽培のために、収穫量の数倍の面積も要する。

そんなわけで、処分品であれなんであれ買わずにはいられなくなって、ご退職・完全閉店前に滑り込み注文することにした。

翌日、届いてみたら「おまけ」に、「柿渋液」をいただいた。
こちらは、親類の方がやっている商品なので今後も手に入るという。
ご親戚は、柿渋液専門で、手間だけかかる染め物は販売していない。

もう自分で染めるしかない、というわけだ。

木綿のTシャツなら、半年は染めては乾かすことを繰り返し、さらに半年ほど畳んで「寝かせる」と出来上がるという。
今から仕込んでも、着ることができるのは来年だ。

ただし、柿渋液には独特の匂いがあるので、乾かすときにご近所には気をつかうことになるとかで、できれば戸建ての家の庭先が望ましいらしい。

できあがれば染め物自体にも匂いはなく、汗をかいても匂わない強烈な消臭力は、雑菌を繁殖させない強烈な殺菌力があるからで、さらに柿のタンニンは生地の繊維自体を強化もする。

大型の染め物となる、シーツやらともなれば、桶の中で足で何度も踏んでやらないと、繊維の奥に染み込まないというから、集合住宅住まいには不可能な作業だ。

それでもなんだか、いろいろと小物の染めに挑戦してみたくなった。