辞職理由は「リニア」の不可思議

政治家のいうことがほとんど信用できないことになったので、本稿タイトルのこの言葉も、にわかに信じがたい。

もちろん、わたしは川勝氏を評価するものではないと、前にも書いている。
残念ながら、経済学者としてもイマイチ・イマサンなのである。

どうせ「狂信的」というのなら、せめてアルゼンチンの大統領のように熱を入れてほしいのだが、なんだか煮えきらないのである。

ただし、川勝県政は15年も続いていて、選挙のたびに静岡県民は対抗馬をいつも30万票以上の差で落選させている。
残念だが、わが神奈川県も似た状態なのである。

世間(神奈川県知事がその代表的な浅はかという意味で)が、リニアの工事妨害をしている迷惑だとか、外国とのつながりがあるとかと、およそ県知事に対する批判ではなく単なる誹謗中傷に聞こえることも、ビジネス保守は垂れ流すので厄介なのである。

このブログでは、一貫してリニア不要説を書いてきた。

川勝氏とは逆に、リニアを欲しがっているのが、上の神奈川県知事、山梨県知事、愛知県知事という、ポンコツ知事群だから、おいそれとこのひとたちの「必要論」に乗ると、将来に大禍根を残す、という警戒感があるのだ。

だから、静岡県知事のいう「大井川の水脈問題」だけで、この人の応援をしてきたともいえる。
その他の業績やらに興味がないのは、わたしが神奈川県民民にして横浜市民だからである。

神奈川県や横浜市にはいいたいことがありすぎて、どこから話せばいいのかに途方に暮れるが、念のため、知事や市長だけでなく、議会の体たらくをとくに指摘したいのである。

わたしは狩猟をしないが、クレー射撃でもっぱら皿を割っている。
その射撃仲間に多数の「狩人」がいて、ほぼ狩猟禁止地区ばかりの地元神奈川の丹沢には行かず、伊豆半島や山梨県の山に獲物を求めている。

このひとたちが口を揃えてハッキリと、リニアのトンネル工事による「周辺猟場の水源枯渇」があって、野生動物がそのエリアから絶えたことを確認している。

一頭も、一匹も、一羽もいなくなった、と。

いちど枯渇して、工事が終了してよしんば水場が復活したとしても、二度と戻ってはこないのが「野生」の本能なのだという。
それに、強烈な「磁場」が、野生動物を遠ざけるのである。

また枯渇したら、命にかかわるからであるし、磁場を関知する動物たちの「自然」な感覚が狂うのである。

これが山に幸を求める者たちの、証言なのである。

ところが、口では「SDGs」とか「多様性」とか、「持続可能性」とかをいう、上の3ポンコツ知事たちは、こんな「猟場の異変」についての情報を、みごとに無視する全体主義を貫くのである。

「狩猟の許可証」は、その猟場がある県知事が発行するものだから、しらない、とはいわせない。
当然に、地元議員の耳にも入っているはずだけど、なんだかリニアが最優先で、箝口令を敷かれるのだろうか?

きっと、「空気」が議員の口も封じているにちがいない。

しかして、猟場以外でもリニアによって沿線の地元にどんな影響があるか?とか、設置する「駅周辺」の生活環境がどう変化するか?についての念のための研究がなく、ただ開通さえすれば地元が繁栄するものだという、予定調和説だけがこのポンコツたちの心情なのである。

大袈裟ではなく、このような予定調和説だけのポンコツたちが、先の大戦の「真珠湾奇襲」をやったのパターンなのである。
しかも、当の海軍は、なぜか陸軍とちがって、だれひとり「戦犯」にならなかった不思議もあるのだ。

つまるところ、リニアによるなんらかの悪い結果が現れたときにも、これらのポンコツ知事たちが責任を問われない、のが、わが国における恐ろしいほどの構造がある。

いわば、川勝氏はひとりでこの予定調和説が支配する恐怖の「構造」に対抗していた「はず」ではあるが、退任の言葉にはこうしたことをわかりやすく県民に説明するのにひと言もなかったから、まったくもって残念な御仁なのである。

まさか、マッカーサーのごとく、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と気取ったのか?

大阪万博もしかり、で、日本人は敗戦から80年経っても、発想の構造がぜんぜん変わっていない。
一生懸命「目先」の目標(建設)さえやれば、あとはうまく行く(はず)。
こうやって、いかほどの人々が戦地で亡くなり、民間人が焼き殺されたのか?

口で「反省」するだけの「猿回しの猿」同様に、まったく反省などしていないのである。
つまり、50年先か100年先かしらないが、いつかはリニアも「遺跡」になる。
このときとは、どんなときなのか?も一切想定しないのは、過去の「敗戦」ならぬ「廃線」すらかえりみない思考構造によるのである。

川勝氏の意思を継ぐ候補ではなくて、おそらく「リシア推進派」が邪悪なマスコミの協力を得るのだろうが、静岡県民の選択を注視してみたい。

アメリカ雇用統計の怪

インフレを嫌って、徹底的な通貨防衛をやる政策選択と、失業を嫌って、徹底的な雇用創出政策をやる選択とが、国の歴史と国民性とによって分かれている。

とにかくインフレを嫌っているのが、マルクの崩壊(1兆分の1になった)を経験したドイツなので、いまだにドイツ政府はヨーロッパ最悪の経済状況でも、政府が予算の大盤振る舞いをすることはない。

わが国も、第二次大戦後のインフレ(600分の1になった)を経験し、「預金封鎖と強制的な新円切替」を経験しているが、すっかり忘却の彼方になって、産業構造転換のための労働争議(たとえば、炭鉱の閉鎖)をふくめた失業対策に重点が移って久しいのである。

これが、政府に依存する体制構築を許し、国民の共通した発想となっていまにいたっている。

今年になって、そんな最悪状態のドイツにGDPで抜かれたのだから、日本経済の衰退の方がよほど慢性症状として深刻なのであるけれど、国民のおおくは政府依存症から脱しようとすることもできない重度の中毒症に陥ってなお、自覚もしていないのである。

だから、これからウクライナが落ち着いたらドイツには有利になるけど、ヨーロッパ(EU)にアメリカからの独立を促進させるはずのトランプ政権が復活したら、より一層、自由に活動できるドイツに有利になるはずである。

ただし、ドイツのネックは、わが国も「しかり」だが、中国経済(製造)依存の復活測度が緩いという点に尽きる。

そんなわけで、こないだの3月に発表された2月のアメリカの雇用統計が、妙に「快調」な変な数字が気になるのである。

それは、バイデン政権「なのに」、アメリカ経済は力強い、と評価する向きがあって、株価が上昇し、日本の株価も活況を呈する状態になったと、一部で解されていることと連動している。

しかし、中身をよくみると妙なことが分かる。

雇用人数は増えているのに、失業率は横ばいで、企業のサービス分野(主たる要因は「人件費」)負担(=「賃金:時給」)は減っているのである。

これは、「雇用統計」と一口でいっても、「企業」と「家計」のふたつの視点からのデータをあわせたものをいうから起きるとかんがえられる。

詳細データがないから断定はだれにもできないが、疑わしきは「不法移民の大量入国」による、「効果」だ。
これなら、バイデン政権「なのに」の、「なのに」の意味がみえてくる。

すると、アメリカは第二の奴隷制を実行していることになる。
残念ながら、なんでもアメリカ民主党のいいなりになったわが国政府も、ソックリ真似て、わが国がかつて経験したことがない、「奴隷制」の導入を図っている。

「なのに」、わが国は「道義国家」だという噴飯を政府与党は臆面もなく宣伝している。

これが、口先では「多様性」といいながら、それを強制するひとたちの多様性のなさを表しているので、気がついたアメリカの黒人団体が民主党を「人種差別主義政党」だといってトランプ派への乗り替え支持表明につながっているのである。

日本ではNHKが、こんなことも国民に伝えないので、トランプ氏が人種差別主義者だと信じて嫌っている、かわいそうなひとたちが多数いる。
しかし、こうしたひとがたくさんになっているのは、わたしには迷惑なのである。

そんなトランプ氏が、100人あまりの資金集めの会合を開いて、史上最高の76億円を一晩で集めたと評判になっている。
先週には、ニューヨークでクリントン、オバマ、バイデンの3大統領が5000人を集めて開いた大会では、有名ミュージシャンも登場したが、このときの史上最大額は38億円だった。

一週間で記録を倍額にしているのである。

なお、この大会の最中に、トランプ氏はニューヨーク市警の殉職した警官の葬儀に参列していたのだった。

さて、不法移民の大量入国で、合法移民たちが失業してしまうのが社会問題になっていて、合法移民たちがこぞってトランプ氏支持に回っているのも、この雇用統計の読み方、なのである。

毎日がエイプリルフール

4月1日が、「エイプリルフール」なのは、諸説あるけれど、イギリスやフランスが発祥というから、「お里がしれる」風習だということはわかる。

日本には大正時代に伝わったという説があり、大正デモクラシーとの関連がありそうである。

いわゆる、吉野作造が唱えた、「民本主義」のことで、いまようなら明治憲法(主権者は天皇)に対抗した「民主化運動」と解されているけど、そんなもんだったのか?と、わたしは疑っている。

幕府がなくなって、政体が大変化して半世紀しか経っていない時期なのだ。
いかに寿命が短かったとはいえ、徳川時代のことを覚えている「古老」たちは、あちこちにいたはずだ。

よくよくみると、幕府の腐敗もあったろうけど、薩長閥の横暴よりは「まだまし」とみるひとたちが、あんがいと多数いたのではないか?
それは、日露戦争後の日比谷焼打事件が、とうとう戒厳令の発令になったごとく、そもそも日本人は荒っぽかったとはいえ、さほどに強権的な「開発独裁」型の政府だった。

つまりは、作用と反作用の関係に似ていて、作用が強力であればあるほど、反作用も強力になるのは、社会現象も同様なのだ。

さて、ことしの4月1日から一週間ほどが経過して、さまざまな媒体に掲載された、記事を装った「ウソ記事」がみえてきたので、念のため書いておく。

まずは、わたしが尊敬している渡辺惣樹氏がアップした、「フォーブスジャパン」の記事は、少しの読解力を要するものだが、同日のもうひとつの記事を読み込むには、ちょっとした予備知識もさながらに、このブログでは定番の『ニキータ伝』さんのYouTube番組を観て、ロシア側からの目線をしらないと理解が難しいかもしれない。

だが、わが国からだけでも兆円単位の援助をしてきたウクライナが、なぜに砲弾が足りないのか?とか、いまごろ大砲を修理しているとは、なんのこっちゃ?なのである。

むしろハマスの指導者が自慢げに語る、武器に事欠かないのは、アフガンに置いてきたこれも兆円単位の米軍装備やら、ウクライナ支援の物資が横流しされて、ブラックマーケットで簡単に購入できるといった話が直接的な関係をもっているのである。

そんななか、『カナダ人ニュース』さんが、1日、スコットランドでの「ヘイト法施行」がまるで、エイプリルフールネタだというのは当然だし、地元カナダのトルドー政権が試みている「思想警察」の法案の驚きは、もう冗談ではすまされない。

ただ、トルドー政権の失政によって、対抗する自由党の支持率がV字回復しているので、このままトルドー政権が突っ走るほどに自由党支持率も上昇すると予想できるので、まだ棄てたものではない。

世界では、毎日がエイプリルフールのような事態が発生しているけれど、あんがいと外国よりも派手さはないが真綿で首を絞められる確実さで、厳しい情勢にあるのがわが国なのである。

日本人の良い点でもあり利用されると最悪なのは、社会の構造がはじめから「自然にある」とかんがえる傾向が大変強い。
だから、「人為のものは、人為で変更できる」とはかんがえない特性があるのだ。

明治憲法も、かつて「不磨の大典」と呼称し、あたかも「バイブル:聖書」のごとく、一文字たりとも変更は許されないとして破滅したが、それが「日本国憲法」にもスライド適用されて現在に至っている。

しかし、歴史的な実行力をほこる岸田政権は、この改悪を目論んでいて、トルドー政権よりも慎重に、かつ、着実にあらゆるソースを活用して現実化しようとしている。

対する国民のほとんどは、今般岸田政権がすすめる憲法改正がなんのことかにも興味がないまでにされてしまったのである。

もちろん、マスコミは御用のために徹底的なプロパガンダを連日連夜流すにちがいないから、毎日がエイプリルフールの日常が5月の連休明けごろからはじまるにちがいないのである。

マイナーな国産プラットフォーム

共産国家としてのわが国だから、なんでも政府が主導的な役割を担うのは当然なのに、デジタル空間における国産プラットフォームがマイナー状態になっている。

もちろん、政府よりも党が上にあるのは、自民党の各部会が各省を管理する体制によってそうさせているのである。

たとえば、「政府税制調査会」の無力は有名で、わが国の税制をコントロールしているのは、「自民党の税調」にほかならない。
この意味で、あの財務省だって無力なのである。

じつは、実力ある支配者は、「大臣」ではなくて、党の「部会長」なのだし、これをまとめる「政調会長」こそが、やばいほどの行政実務を仕切っているのである。

このパターンが、あらゆる分野に「党組織」として及んでいるので、ずさんな組織力しかない野党が太刀打ちできないのである。

ところが、その自民党が外国によってコントロールされているのではないか?という疑惑が、河野太郎氏の活躍で一気に話題になって表面化してきている。

それでも河野氏が悪びれることも落ちぶれることもないのは、あの、世界経済フォーラムを主催するシュワブ氏による「将来のリーダー」に日本代表として選択されているからであろう。

また、つばさの党代表の黒川敦彦氏がいうように、「おじいちゃんの代からCIA~♪」と唄われているように、吉田茂も岸信介も、どちらもコードネーム付きのエージェントだったことは、アメリカ公文書館が機密解除した資料からはっきりして、もはや陰謀論にもならない事実となった。

わが国の戦後をけん引した大宰相といわれている、吉田茂のコードネームは、「POCHI:ポチ」だった。

また、マッカーサーを頂点とするGHQ(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers:連合国最高司令官総司令部)も、主に二派に分かれて激しい内部対立をしていたことがわかっている。

ときの政権は、急死したフランクリン・デラノ・ルーズベルト(略して「FDR」)の「4選」任期を引き継いだのが副大統領だったハリー・S・トルーマンで、民主党政権であったから、一派はバリバリの民主党(容共勢力:民生局長のホイットニー少将派)で、もう一派は軍内の共和党支持勢力(第二参謀部長だったウィロビー少将派)であった。

弁護士でもあるホイットニーの少数チームが、日本国憲法草案を一週間ほどで書いたことは有名で、わが国の「国体」が共産化されたのはこの人物と本国とのつながりによるものだとかんがえるのは当然だろう。

なお、マッカーサー自身は共和党から大統領を目指すが、ホイットニーをはびこらせたことをもってしても、いまどきの「軍産複合体:RINO」であったかとおもわれる。

そんなわけで、現代をしるには200年はさかのぼれ、という教訓をして、たったの80年前ほどで、アメリカ民主党の支配体制がわが国に移植されたことがわかるのである。

これで、わが国は通信回線のインフラ整備では先進国的な側面はあるけれど、そこにどんなコンテンツを流すのか?については、決定的に「遅れた」ようになっている。
しかし、「mixi」をよってたかって潰したように、おかしなことが起きて、とうとうGAFA の天下になったのは、そうさせた、という意思を感じるのである。

もちろん韓国製(実態は中国)のLINEしかり、TikTokしかりで、まったく規制するどころか公的機関が率先してこれらの使用をあたかも推奨している。

GAFAの「G]は、グーグルのことだけど、この会社は「広告会社」だ。
検索エンジンでどんな検索をしたのか?やら、YouTubeで、どんな動画を視聴しているのか?の情報を収集して、プログラミングしたアルゴリズムが個別に見合った広告を出すことで、確実な成果をあげていることを、注文のクリック数との相関をわかりやすく広告主に報告しているのである。

こうして、わが国の電通やらが支配してきた広告マーケットが、外国企業の支配下に入っているのは、もう地団駄踏んでも対抗するのは困難で、とうとうできたばかりの本社ビルを売却するまでに落ちぶれて、ニッチな分野に追い込まれている。

もちろんその電通は、岸信介が満州で得た人脈からの話になるので、やっぱりここ100年といった歴史となっていて、岸がCIAのエージェントになったのと、電通がGHQの支配下に入ったのとは、おなじタイミングであったにちがいない。

それでもって、既存の国家警察を廃止させたGHQがこんどは自ら日本統治に困ってつくったのが、東京地検特捜部で、管理者はCIAとしたのである。
これを、日本総督たる駐日アメリカ大使が管理しているのである。

吉田茂(民主党の「ポチ」)の流れをくむ宏池会の岸田政権が、こうして岸信介の直系の旧安倍派を壊滅させた。
安倍晋三氏がなぜに暗殺されたのか?の謎も、この線上にあると「にらむ」のは、素人でもわかるほどの単純さがあるからだ。

河野太郎氏が党広報本部長になったときに書いたが、今回の旧安倍派だけをターゲットにした茶番で、参議院の重鎮議員だった世耕氏が失脚したのも、和歌山における二階氏との確執もあるだろうけど、世耕氏が「プロパガンダ」の専門家であることに注目したいのである。

そんなわけで、わが国に独自のプラットフォームが育たないのは、育てる意思がないからなのである。

花冷えのなか江東区を歩く

5日は冬が戻ってきたような天気で、朝までの雨もあってかどこも人通りがすくなく、めったにない鈴かな「花見散歩」であった。

佃島から月島、越中島と「ウォータ・フロント」を行きながら、「川の街」である江東区を大横川沿いに歩けば木場に出る。
その途中、平久(へいきゅう)川にかかる「平久橋」たもとには、「波除碑」(「津波警告の碑」)がある。

「1791年(寛政三年)に襲来し、多くの死者と行方不明者を出した高潮」を記念している碑だが、この大災害を受けて幕府はこのあたりの土地約1万9千㎡の土地を買い上げて、空き地(居住禁止地区)とした」と説明板にあった。

さり気ない記述であるが、東日本大震災の記憶がある現代人には、「エッ?」と思う。

津波被害による震災復興に、25年間の「復興増税」を全国民で負担している現代、この幕府の対応は、じつに先進的ではないか?

いつまで「空き地」だったのかが書いていないので、そのうち江東区の資料でもみてみたくなった。
いわゆる「ゼロメートル地帯」として、このエリアがさかんに報じられたのは、わたしが子供のころで、『日本沈没』が流行った頃ではなかったか?

橋から見わたすこともできない、住宅街になっている。

それから「横十間川親水公園」を抜けて「仙台堀川」を渡ると、だんだんとインド人街の様相が醸し出される。
江戸川区は、群馬のブラジル街、埼玉川口の中国・クルド人街と並び称されるほどに有名な、新興のインド人街を形成しているのである。

そのため、区内には3箇所の「インド人インターナショナルスクール」がある。
ここでは「インディア インターナショナルスクール イン ジャパン」の新築・ピカピカの校舎がそびえ立ち、対岸の江東区立第二南砂中学校がなんだか貧弱にみえてしまうのである。

生徒たちは男女とも赤いブレザーを着用していて、男子はスラックス、女子はスカートを履いている。
ママチャリを脇に、インド系のお母さんたちが所々で三・四人が井戸端会議をしているのは、いったい何を話しているのか?

なお、この学校は、「ケンブリッジ式」の教育がおこなわているとのことで、あの赤いブレザーが、ロンドンの近衛兵の色かもしれないとおもった。
なにせ、インド系の人物が、英国首相になるご時世だから、かつての苛酷なインド支配も、インド人たちの記憶から薄れているのかもしれない。

そんなわけで、ぜんぜん英国の所業になんの興味も関心もない日本人にも入学が可能だから、「国際」とか、「授業は英語」、「ケンブリッジ」とか、「海外有名校への進学」とか、「国際バカロレア」とかに滅法弱いひとたちは、日本の学校を見下してこのような国際学校が人気なのも頷ける。

ただ、気になるのは、しっかり「文科省指定 認定インターナショナルスクール」となっている余計があることだ。

それに当然だが、「日本語力」をどのように「補完」するのか?という点では、諸刃の剣だという認識をどれほどの日本人の親(あえて「保護者」とはいわない)がかんがえているのか?も気になることではある。

じつは、日本人の定義は、日本に住んでいて日本語を母語としてを話すひと、なので、たとえ日本に暮らしていても、日本語が母語ではないとなれば、もう日本人の定義から外れてしまう。

けれども、いまやグローバル全体主義によって、「日本人であること」の意味を薄めてもよいという風潮ができているから、ただの「記号化」になっていると書いた。

このことが、どんな厄災を日本人にもたらすかは、あと何年かすればわかることだが、元には戻せないのが「移民問題」の「問題」たるゆえんなのである。

そんなわけで、何人であろうが、あるいは、外国にある日本人学校もしかりだが、インターナショナルスクールの本質とは、そこにある国においての「国民性」を、オリジナルとは相容れないと認識するためにあることが前提だということがミソなのである。

つまるところ、インド系であれば、インド人として教育する、という意味である。

こんなことをかんがえながら、まだ7分咲きほどの桜を曇り空の中でボンヤリと見ていたら、見えてきた別の光景なのであった。

これをいまさかんな、「東京15区衆議院議員補欠選挙」での争点にしている候補者は誰なのか?と気にかかったけれど、なんだかなぁの反応しかないだろうと、いわない方が「お得」になっているかもしれない。

司馬遼太郎は国民作家でいいのか?

国民的人気を博する作家とは、国民全体の気分のことを言語化できるひとという意味になって、端的にそれを「国民作家」といっていた。

だから、国民の気分が変化すると、いかに国民作家といわれていても、あたかも北極星が別の星に移るがごとく、国民作家も別の表現者になるのである。

しかし、問題は、国民気分の全体的な一致が、分断や個化(=アトム化)によって、分裂からどんどんと細分化されて、とうとう地域や他人との「つながり」が断ち切られると、国民作家というまとまった象徴としての概念も消滅する。

それが、いまの時代にみられる現象になっている。

ようは、「国民」それ自体の消滅が先にあるので、国民作家も存在しなくなるのである。
それで、国民とは「国籍」だけの記号になった。
こうして、移民との区別をしているにすぎないが、そのうち移民が日本国籍を取得するので、ますます「記号化」が促進されることになっている。

それは、あたかも住所だけの記号になった、「郷土」とおなじで、とっくに「ふるさと納税制度」によって、現住所さえ「郷土」から乖離させられているが、さらにマイナンバーによって単なる数字の羅列に変容することにもなっている。

つまり、記号化の記号を、アナログからデジタル化することで、完璧な「個化=アトム化」が完成し、人間から時間感覚をも奪うことになった。
ここでいう時間感覚とは、時系列のつながり、のことで、先祖や子孫にあたるひとたちを無視して、「個我」としての命のある現世の時間だけを意識するようにされているのである。

『旧約聖書』を聖典としている、ユダヤ・キリスト・イスラムの各宗教が、いわゆる「契約社会」なのは、根本に「唯一神との契約」があるからだけど、「期限」についてのかんがえ方も厳密なのである。

たとえば、結婚式における「死がふたりを分かつまで」という言葉は、婚姻関係の終わりについての契約となっていて、日本の神式における「永遠の契り」という概念とはまったく別のものである。

それゆえ、欧米人の「往復書簡」が、当事者双方の死にあって出版(公開)されるのも、プライバシーも「死」によって保護の対象から外れるからである。
ここでも、日本人の「永遠」という発想とまったく別物なのである。

だから、日本における「欧米化」とは、「永遠」から「個人の死まで」という時間範囲の限定という変化が起きていることが、もっといえば、日本の『旧約聖書化』をいうのである。

そうやってみると、過去の日本的価値観は、もはや風前の灯火となっていることが、あらためてわかる。

わたしは司馬遼太郎のよき読者ではなく、むしろこの作家の書いた欺瞞(体制礼賛)が鼻につくので、国民作家というよりも欧米化を推進した体制応援団の団長としてみている。

それよりも、エンタメに徹底した、池波正太郎の方がよほど深いとかんがえている。

ともするとドラマの脚本家だった、橋田壽賀子の「明治女の記録を伸しておきたかった」と動機を述べた『おしん』の一代記や、花登筐のど根性ものが懐かしい。

もう国民作家は現れないかもしれないが、司馬遼太郎が忘れられていくのは、あんがいと悪いことではない。

ただし、「歴史」そのものが忘れられてしまうのは、民族としての滅亡を意味するのである。

国産旅客機開発!何が経産省を?

三菱重工が「MRJ」でコケて倒産しかけたのは、1兆円の投資にリターンがぜんぜんなかったからだけど、こんどは「複数社でやればいい!」という、より難易度を上げてでもやるというのは、経産省の役人にどんな動機があってやってくるものなのか?

経産省は、『悪霊』かなにかに取り憑かれている?

本稿では、この「悪霊」についての分析を試みたい。

さて、このような具体的事案のかんがえ方の整理には、いったん抽象化することがセオリーとなる。
「具体 ↔︎ 抽象」の相互で何度か思考を行き来すると、だんだんとその本質が見えてくるものなのである。

しかし、ただ抽象的にかんがえるといっても、きっかけとなる手がかりがないと、どこからどうかんがえればよいかがわからない。

そこで、わたしはこんなときには、小室直樹やら山本七平やらの考察を参考にしたくなるのである。

今回は、さいきん復刻された小室直樹の名著(彼の著作は全部が名著)『危機の構造』(初版は、昭和51年:1976年)を底本にして紐解くことにする。

ついでに念のため、「構造」という見方をするのは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を嚆矢としてできた、「構造主義」によるものだ。

さて、『危機の構造』のなかでも、日本社会における「原理」と「構造」を解析しているのが第二章である。

なお、出版時の大問題は、「ロッキード事件」(昭和51年:1976年)で、前総理の田中角栄が逮捕された時期(三木武夫内閣)にあたるのでまずはこの事件を扱いつつ、その前(昭和47年:1972年)に全国民を震撼させた浅間山荘事件を起こした「連合赤軍」という10名ほどのグループの組織に関して「構造解析」を試みるのである。

もちろん、わが国における近代史上最大の問題は、第二次世界大戦の参戦であり、敗戦であるから、戦後の大繁栄の絶頂期に起きた連合赤軍事件と、戦前・戦中の軍についての分析にも余念がなく、当時の軍事官僚と戦後の経済官僚の類似性が、なんと連合赤軍の類似性とともに「三重」になるのである。

そうやって、とうとう、ビジネス・エリートの世界にも、同様の構造を見出すのが、小室直樹をして傑作と名高い本著作の価値である。

ここから、わが国民性が作りだす「組織」の共通した特性があぶり出される(P.41)。

「社会の機能的要請は、多くの機能集団により分担され、しかもこの昨日集団は複雑多様であり、独自のメカニズムで作動するから、機能的紛争の生起は不可避である。しかも、社会全体における機能的要請の達成は、これら多くの機能集団間の分業と協働によりはじめてなされる。ゆえに、機能的紛争を未解決のまま放置すれば、社会過程の進行は阻止され、所期の結果は達成され得ない。」

当然だが、以上から、機能的紛争すなわち職場間などのセクショナリズムに代表される対立が、どんな組織でも、あるいは企業にもみられるのは、機能集団として「日常」であるので、ここに調整のための「組織マネジメント」が必要になるのである。

しかし、わが国では、「組織マネジメント」の方法論すら体系的に教えることを、一部を除いてしていない。
そのメソッドは、戦後米軍から製造業に移植され普及している「MTP(Management Training Program)」である。

小室は、次の3点をもって、おそるべき予定調和説の存在を指摘している(P.45)。

・自分たちこそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。
・この努力は、所与の特定した技術の発揮においてなされる。
・したがって、この所与・特定技術の発揮においてのみ、全身全霊を打ち込めば、その他の事情は自動的にうまくゆき、日本は安泰となる。

続けて、「このような人びとは、分業のパーツとしてみる限り最高の部品(パーツ)である。しかし、ひとたび全体のリーダーとなるや、最悪のリーダーとなる。けだし彼らは、限定された分業の遂行者としての視座しか持ちあわせないため、全体的コンテクストにおいて、すべてのフィードバックを総合することはできないから、リーダーとしては最悪のリーダとなる。」

こんな事情から、「一般的批判拒否症」を発症する。

これはいま国会で流行の、「答弁拒否」という状況になって現れている。
行政府の大臣といえども、国会の場における議員からの質問には、「答弁する義務」があるのは、議員が選挙を通じた「代議士」だからである。

これをどんな了見で拒否しているのか?と問えば、「一般的批判拒否症」を発症しているからだと「診断」できる。

そんなわけで、一般的批判拒否症を発症すると、「各機能集団間のディス・コミュニケーション」となって、結局は、「所期の目的が達成され得ない。」(P.51)ことになるのである。

そんなわけで、「MRJの失敗」があったのに、へんな「エリート官僚」の義務感が「悪霊」のような振る舞いをさせているが、上のメカニズムが作動してかならず失敗するのである。

おそるべし、官僚思考、おそるべし小室直樹!

常識を乗り越えたいときにはSFを

歴史小説はぜんぶ作り話だから絶対に読まない、といった理系人がいた。
彼は国立有名大学で、数学の博士号を持っているが、わたしは思わず「つまらない奴」といい返したものだ。

数学の本質は、論理である。

論理を理性に置き換えると、理性第一主義がルネ・デカルトが世界を一変させた『方法序説』による、近代文明社会の登場となっていまに至るわけであるが、その文明が行き詰まっているからこその「文学=文化」への回帰が重要かつ必要なのである。

これを、シュペングラーが100年前に『西洋の没落』で力説していると何度も書いてきた。

日本の大数学者、岡潔の『情緒と日本人』も、先の博士はしらないらしいから、どんな指導教授のもとでどんな博士論文を書いたのか?を思い切りうたがうのである。

大学と大学院は、「ゴミ論文」を量産していて、この「学位販売商売」は、そうやって質より量の大量消費時代のままでいるから一般人から「象牙の塔」といまだにいわれることになっているのである。

ただし、「安穏とした棲みやすさ」のおかげから、「ゴミ論文」すら書かないで、学費を負担する学生(とその親)に対して、教育詐欺をやっても恥じることは一切なく、むしろ学内の政治にエネルギーを投じて、一派による支配の構造を維持せんとして「保守」に汲々としているのである。

この意味で、大学生になったら、自分で自由に勉強する、という学問の本質的な状況に回帰するという、ここでも「回帰」が重要となるのである。

小学校から高校まで、先生(教師)と教科書のいう通りにするという訓練しか施されていないので、おおくの学生がすぐさま「自由な」大学生活に頓挫して、サークル活動やアルバイトに精をだすことになったのは、これも「むかし」からの伝統を「保守」する態度になっている。

就職予備群として、アルバイトで得られる社会経験がそのまま人生の役に立つこともあるけれど、それにはアルバイト先のおとなたちが尊敬に値するような品位があってのはなしであるから、あんがいと確率的難易度は高く、またそういったアルバイト先こそ、先輩から後輩に引き継がれる傾向が高いので、学生間の人間関係の構築がこの確率を高める条件になっている。

上のように、理系でもコレなので、文系という文科省の役人(じつは本人も文系のくせして)から、「役に立たない文系への低予算配分」という恣意的な行政がおこなわれて、ますますシュペングラーのいうことから乖離する自滅の努力をやっている。

しかし、役人は、「専門家会議」というアリバイ機関を用いて、あたかも「文系学者」のいう通りにしている「だけ」だという責任回避術をやめることはない。

たとえば、「新しい資本主義=じつは共産主義」のことを、礼賛する外国人学者のベストセラー、『企業家としての国家』とか同人の、『ミッションエコノミー』をしっかり参考にして、審議会での結論づくりにいそしんでいる。

「科学」は、理系ではない、「社会科学」とかもっと曖昧な、「人文科学」という分野をつくったけれど、「科学」の本質的意味は、「細分化」にあるので、文系も細分化することが「科学」として記述されているのである。

なので、対象が、「人文」だろうが「社会」であろうが、「科学=Science」になったから、あたかも上で紹介した著作が、文系役人の都合がいいように使われている。

つまり、とうとう、「SF」が、国家運営実務にそのまま応用されるという、まったくSF小説のようなことが現実になっているのである。

こうなると、「SF」を読んでおかないと、現実を見失うことになる。

さすがに、役人が御用学者をつかってSFの実現をはかるには、それなりの時間がかかるので、先に読んでおく、ということが「常識を乗り越える」ために必要になるという、伝統的ディストピア小説が描く世界が現実になろうとしているのである。

現代人は、SFを読むことがいまや義務になっている。

静岡県知事の辞任にひと言

一応、静岡県知事の元職は経済学者だったので、静岡県の皆さんがどうかんがえているのかしらないが、隣の神奈川県からの「残念」を表明する超少数意見(おそらくわたし一人だけ)を書いておく。

念のため、神奈川県知事の元職はフジテレビの報道記者で、政治討論「風」番組のキャスターもやっていたけど、記者としての業績については、残念ながらろくなものではないと前に書いた。

なにせ、日本のピューリッツァー賞と自画自賛している、「放送文化基金賞」と「日本民間放送連盟賞」の同時受賞歴があるとはいえ、ほんとうにこのひとが取材した記事が「受賞」の理由なのか?がうたがわしいと勝手におもっている。

「緊急医療にメス」と、日本の医療の闇に切り込んだはずなのに、コロナではその取材経験の微塵も感じさせない素人ぶりだったからである。

なので、本稿は、ポンコツぶりの競争をすると、静岡県知事の方が「まだまし」だということを書いて、辞任表明を残念がりたいのである。

ちなみに、山梨県知事のポンコツもなかなかに強烈であるが、山梨県民のポンコツという実態からして合点がいくし、クルド人問題で揺れる埼玉県知事にいたっては、アメリカ民主党の「聖域都市」を真似るほどのポンコツだが、こちらはより先進的で、いまや「売国」をやっている。

もちろん、神奈川県民のポンコツは、その圧倒的数の多さで、われながら気が滅入るが、さらに横浜市民とか、川崎市民など、とにかく「民主主義をうたがう」ほどの破滅的な民度の低さは、やっぱり一度破滅するしかないのだろう。

さて静岡県知事である。

このひとを「全国区」にしたのは、JR東海が社運をかけて強力に推進している、「中央リニア」への「まった」であった。
リニア自体に関しては、何度も「意味不明」と「禍根」について書いたので、この件に関して「だけ」じつはわたしは静岡県知事の支持者なのである。

東京と関西(やっぱり「大阪」)を結ぶ新幹線は、東海道新幹線と、北陸新幹線の2ルートができることはもはや既定路線なので、さらにもう一本の「中央リニア」とは何者か?という問題がある。

なお、こうした議論の前提に、いまやわが国では、「人口減少」という岩盤基板となった社会条件を置くのは基本中の基本である。
明治から150年間ほど、あたかも人口は増加するもの、という常識が、西暦2000年を境にこの歯車が「逆転」をはじめたのをわすれてはならない。

なので、3つの新幹線ルートに誰が乗るのか?にくわえて、旧幹線である東海道線と中央線、それに北陸線の3ルートも十分に「リニューアル」の検討を要していいはずのものだといいたい。

これらの議論には、「本州の地形」が前提になるのも当然で、それには「地質」もかんがえないといけないのも当然なのである。

旧幹線の東海道線が走るのは、中央構造線の南(「外帯」)にあたる太平洋側で、東京から冨士までは、フォッサマグナの真上を横断しているし、旧幹線の中央線は、その中央構造線そのものの真上をずっと走行するのは、地質構造がつくった地形がそうさせるからである。

「中央リニア」は、その中央構造線の真上と、50万年前に本州に衝突していまでは「伊豆半島」になった伊豆島の動きはいまだに止まっていないので、これでできた地面の「皺」が日本アルプスを形成し、もっとも伊豆島の押しに対抗して世界一の隆起をしている南アルプスをトンネルで爆走するという傲慢極まりない人工物としてまちがいなく「世界遺産の遺跡」になる代物なのである。

この意味で、大井川の水脈を理由に工事をさせないのは、逆にいえば、他の沿線知事らが目先に目がくらんで静岡県に文句をいうお門違いもはなはだしいのである。

JR東海が発表している、中央リニアの乗車料金体系は「安すぎる」ので、既存の新幹線や旧幹線の乗客が料金負担をさせられることになっているし、一緒に推進している国土交通省なる役所も、全国から集めた税金と国債とで資金援助するのは、かつて東海道新幹線が世界銀行から借りたとのはちがって、じつに不明瞭な資金計画なのである。

なんだか個人攻撃があらゆる方向になって、新年度の職員に語った「役人は優秀だ」という発言が、なんでもこじつけることに文才を発揮するマスコミの攻撃となった。

残念ながら、学校の成績すなわち「偏差値」でみたら、役人は優秀にきまっている。

原書は2014年にでた『企業家として国家』という、センセーショナルな本がさいきんになって新訳もでた。
もしや経済学者だった静岡県知事は、この本の読者なのかもしれない。

わたしはこの書についてかなり批判的な見方をするものだ。

なにせ、著者はあの世界経済フォーラムにどっぷりと関係しているし、イギリス政府にも発言力があるというから、没落の極みとなったイギリスを誘導しているという意味で、トップランナーなのではないか?

本来ならば、こうした書籍の内容を全面支持するはずのマスコミが、なぜに大批判をしたのか?は、マスコミこそが「ポピュリズム」の一大推進機構になっているからで、残念な多数の愚民を煽っているのである。

そんなわけで、リニアに反対するあたらしい知事が選ばれるのが、静岡県民の矜持をはかるバロメーターになったのであるけれど、そんな候補者がでるのか?から話がはじまったのである。

なので、これから「後継者」を選ぶ作業に知事は専念してほしい。

個人的な妄想をいえば、こんな静岡県知事を名指しして批判した神奈川県知事が辞任して、静岡県知事候補になって消え(敗退し)て欲しいとおもうばかりなのである。

イギリスが先に壊れていく

ユナイテッド・キングダム(連合王国:UK)は、4つの王国(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)が文字どおり「連合」してひとつの近代国家を形成している。

アラブ首長国連邦(UAE:むかしは「ア首連」と略していた)と、形態は似ている。

スコットランドと北アイルランドが、それぞれUKからの独立を画策しているのは有名な話だが、ロンドン政府の統治能力が壊れている深刻がある。

来年予定されているイギリスの総選挙では、現状、圧倒的な保守党の凋落から、労働党への政権交代が確実視されている。

けれども、今年の11月、アメリカ大統領選挙の結果を受けて、「ほぼトラ」が実現したら、イギリスもそう簡単に労働党へのバトンタッチがされるかどうかはあやしい。
むしろ、トランプ氏の当選後に時間がたてばたつほど、「打つ手」の正当性が、反トランプたちの目覚ましになる可能性が高まるからである。

いまや世界は、「保守と革新」とか、「左右の対決」とかという平面的な対極から、「グローバル全体主義」と「そのアンチ」とに分裂していて、アンチの側の代表にトランプ氏がいるにすぎない。

アンチには、ハンガリーのオルバン首相、ロシアのプーチン大統領、アルゼンチンのミレー大統領、それにフランスのルペン女史、イタリアのメローニ首相らがひかえていて、ドイツやオランダでは勢力が急伸している。

日本では、「親米保守=ビジネス保守」たちの親米がイコール「親・民主党=グローバル全体主義=トロツキー派」を意味することがハッキリしてきたのも、このひとたちが反トランプという立場を崩さないことであぶり出されている。

イギリスは、第一次大戦以前から国力の衰退が顕著であったために、清国と太平洋の覇権確保のために日本を、薩長とともに開いて、はなからアメリカを牽制していた。
当時は、アメリカもイギリスに従っていて、国力をため込んでいたのである。

しかし、大英図書館にこもって『資本論』を書いたマルクスを、あたかも「偉大なる無視」といって興味なさげに誤魔化したけど、本当はむき出しの野蛮な儲け主義に対するマルクスの批判が効きまくったのである。

これを、『エレファントマン』(1980年)で、見事に映像化した。

この映画の主人公は、気の毒にも「エレファントマン」と呼ばれた障がい者ではなく、ヨーロッパ大陸からの野蛮なノルマン人によってケルトが征服されてしまったことを原点とする、産業革命下での廃退した社会そのものであった。

なにせ、この国の王権は、日本的にみたら「ヤクザ」そのものだし、最強の海軍すら、実態は単なるドクロの旗を掲げる「海賊」にすぎなかったのである。

ふだんはドクロの旗を掲げ、王からの命令一下で「海軍旗」にかけかえた。

これをもって、日本人にはありえない卑怯な「偽旗作戦」が、彼らにはなんの道徳的後ろめたさも微塵もない、騙される側が悪いという何でもありがふつうの神経でできるのである。

わたしは、「資本主義」とはマルクスの造語にすぎないとかんがえているが、あまりの無惨な社会実態に、あたかもそれが資本主義の弱点なのだと勘違いして、数々のマルクスの指摘に沿った、本音では妥協の「対策」をとった(たとえば「福祉国家」という社会主義化政策)ら、なんとなく無惨が改善できた(あくまでも「対処療法」)ので、財政豊かなうちに本気で福祉国家に邁進してしまったのである。

魚が釣れないひとに釣れた魚を分け与えるのではなくて、「確実に釣れる方法」をしっかり教えることをトランプ氏がいうのは、しごく当然のことである。

ところが、そんなイギリスもざっと70年で財政破綻したから、とうとうサッチャーの出番となって、一気に「自由主義革命」まで突っ走ることになり、彼女の実子が母に楯突くのと重なって、福祉国家のぬるま湯に慣れてしまった国民からも嫌われて頓挫・退陣の結果に泣いたのだった。

左右に関係なく、「革命」とは失敗するものなのである。

なお、余裕のあるレーガンのアメリカは、パパ・ブッシュからあえなくクリントンに政権交代し、やっぱりグローバル全体主義へと舵をきったので、この30年のアメリカでトランプ氏が「外れ値」になったのだった。

適当な見せかけをやった中曽根内閣以降のわが国は、バブルで浮かれて、「冷戦終了=日独からの刈り取り」への大戦略変更に気づかないまま、21世紀になってもまだアメリカ依存をやっていて、これがあたかも「イギリス化の道」を既定路線の鉄道のようにひた走っているのである。

もちろんこんなイギリスの状況を知らないはずのないわが国のエリート官僚(オックスフォードやケンブリッジ、ロンドン大などに留学して、国費で学位を得ている)は、昭和36年に「社会保障制度」を完成させて、やっぱり70年で破綻するが国民には「安心」だと大嘘をついて平気でいる。

そんなわけで、いまのイギリス政府は、とうとう統治機能を喪失して、まもなく終了する様相になってきている。

なので、トランプ氏が復活したら、カウンターパートとしてイギリスにも第二のサッチャーが登場するだろうが、その前に、国民は塗炭の苦しみを味わうことになるのだろう。

昨年、ロンドンに次ぐ第二の都市、バーミンガム市は財政破綻して、あたかも「夕張市」のように中央政府直轄になったけど、今年からゴミの収集日が二週に一回となっているため、この夏は街中が悪臭にまみれることが確実になった。

ちなみに、中央政府直轄になったとは、市民が選んだ地方政府の責任を市民が追うという厳しいペナルティーがはじまった、という意味で、こうした厳しい責任を市民が負うことで、「地方自治こそが民主主義の学校」といわれる本来のゆえんなのである。

わが国も、順番待ちをしているので、イギリスがどんな悲惨になるかは「明日は我が身」なのであるけれど、脳まで溶けている愚民にそれが理解できないから、やっぱり順番通りになるのだと覚悟しておくことが必要なのである。

以上が大袈裟ではないのは、1日、とうとう金の価格が1グラム1万2千円を突破したことからそのまま読み取れることだからである。

コロナの始まりでは、7千円だったから、「円・ドル相場(1ドル100円が150円になった)」と並んで、円価(円の価値)が金でも半減しているのである。
つまり、バイデン政権によるインフレでのドルの減価よりも、円が一方的に価値を失っているのである。

だが、日本政府も日銀も、なんら具体的な手を打たないのは、理論の貧困ではなくて、政治の圧力から「打てない」からである。

驚くほどのスピードで、われ我は貧乏になっているのに、気がつかない大ボケが日本国民なのである。
この「ツケ」は、終戦時の大混乱よりも無惨なことになる可能性が高い。

ガソリンがリッター500円やら800円になってもおかしくない。これが、冗談抜きで、政府の補助金と業界規制(社会主義)が、国民の目を現実から遠ざけているから、「いざ崩壊!」となったら、あんがいとイギリスよりもずっと深刻なのは日本なのである。