奇跡の中東和平

日本時間の10日、公明党が26年ぶりに連立政権から離脱するという「大ニュース」が飛び交っているなか、現地時間では9日、世界は「ガザ停戦合意」という急転直下の「超大ニュース」があり、13日にはエジプト(シナイ半島の保養地シャルム・エル・シェイク)で、シシ大統領とトランプ大統領の共催で20ヵ国以上の首脳が集まる「国際首脳会議」が開催された。

いったい主催者は、どのように各国首脳のスケジュール管理をしているのだろうか?

ここに、無能状態となっている日本政府からの代表の姿がなかったことが、世界から相手にされないいまの姿がみえてきて、大変残念な気持ちになった。
だが、首相が誰になるのか?わからない状態なので、相手にされるとかんがえる方がおかしい。

先ずは停戦の合意、次がそれでどうするのか?というテーマに移っているのである。

この第一段階の「停戦」に先立って、ロシアのラブロフ外相は、発表された停戦案を「現時点でのベスト」と評価していて、いわゆる陣営を越えて「トランプ案」がまじめに検討されていたのである。

第一次中東戦争(1947年から49年)が流血の歴史のはじまり、ではない。

第二次大戦中から勃興した「シオニズム(エルサレムにあるシオンの丘に帰れ運動)」が、主にナチスに迫害されたユダヤ人のあいだに広まったようにもいわれるが、ドイツ圏以外の世界に分散するユダヤ人の活動も活発化したのである。

政治思想としての「シオニズム」は、本当の地図上での「シオンの丘」を目指すものではなく、概念としてだったので、悲願とする「建国」さえできればどこでも良かった。

それで、「イスラエル」をどこに建国させるか?には、地球上で候補地が4案あった。

アルゼンチン、シベリア、満州、北海道、で、アラブ人たるパレスチナ人が住んでいるいまの地域がなかったのは、戦争勃発の危険があるためだった。
アルゼンチンは、ナチスに協力した「罪」があった。
戦後処理を考慮して、敗戦国の日本の満州と北海道が有力だったのである。

なお、シベリアとはハバロフスクの西側、スターリンによる「ユダヤ人自治州」があったからである。

いまの地域になった原因の第一は、むかしから戦争大好きな大英帝国の意地の悪い外交政策にある。
一般的に、「失敗した」という評価になるのは、現在に続く不安定さが中東にもたらされたからであるが、当の英国は「失敗した」とはかんがえていない節がある。

不安定にさせることでの支配の継続こそが、この国の常套手段だからだ。

ために、会議後の記者会見で、トランプ氏は「英国はどこだ?」といって、背後にいるスターマー首相を演壇に呼び出し、てっきり自分がなにか発言できるのか?と思った首相に、適当な握手をして追い返すシーンが印象的であった。

これを、トランプがスターマーを侮辱したと、トンチンカンな報じ方をするのを目にしたが、「いけず」なトランプ氏の性格をしっていれば、「お前、そもそもの原因のことわかっているんだろうな?」といいたかったのだと解釈できる。

それで、ヨーロッパ主要国の首脳が多数いる前で、「ハンガリーのオルバンはすばらしい!」と褒め称える「いけず」もやったのである。
ハンガリーをいじめるEUを小馬鹿にしたのは、いい意味の方の「いけず」である。

むかしはアラブの盟主といえば、人口が多く陸軍の大兵力があったエジプトであった。
それでも、当時の人口は4000万人ほどで「盟主」の地位にあったが、いまは人口爆発して40年で3倍の1億2000万人となり、軍の増強どころか食料が足らず国民を食わせることに汲々としている。

それで、サウジアラビアが財力で盟主になったが、英国=悪魔のささやきと金満財政の余裕から「福祉国家」を目指したら、とっくに政府財政は青息吐息になって、原油価格が$100を超えないと均衡しない厳しい状態に陥った。

その原油価格はいま、この停戦合意だけで大幅リスク緩和したので、約$60程度に下落してしまった。

本音では値上げのための「減産」をしたいが、それだと収入が危機的となるために、薄利多売で「増産」の方向になっている。
今後、ウクライナのカタが付いてロシア産原油が市場に開放されると、$30台だってあり得るので、中東の産油国にブラックロックやらゴールドマン・サックスやらが急いで拠点を開いている。

資産の投げ売りに対応する「ハゲタカ」たちが、すでにうごめいているのである。

そんな原油価格の状態なのに、ガソリン価格が高止まりしたままのわが国は、一体どうなっているのか?という議論が、「暫定税率」の話になって固定している。
これぞ、政治の貧困、なのである。

アルゼンチンのミレイ大統領は、トランプ氏に「ノーベル平和賞推薦状」をプレゼントし、アメリカ連邦下院は来年の「ノーベル平和賞」を要求すると発表した。

アルゼンチンが「イスラエル」にならなくてよかった、という意味がある。

どうする?ノルウェー政府、という「風が吹けば桶屋が儲かる」ようなことになっているのだが、「平和賞」発表直後のこの展開も、おそらくトランプ政権2.0は「計画」していたことだろう。

先に「トランプ受賞」が決まっていれば、それを大いに盛り上げる歴史的業績となるし、もしも「落選」したとて、ノルウェー政府に来年の受賞についての強烈なプレッシャーになる、と。

そんなトランプ大統領は、「日本はすでに同盟国でなくなったかもしれない」と発言している。
中共の傘下にある、という意味だ。

この発言を日本人は見くびってはならない。


合気道のトランプ政権2.0

民主党(議会トップは上院リーダーのチャック・シューマー)が、8回も否決して予算案を妨害したことが、今回(1日から)の「政府閉鎖」につながった。

オオカミ少年の逸話のごとく、どうせ今回もいつも通りのことだろう、というほどに、与野党の政争でやってくる政府機関閉鎖の危機は、なんだかんだの「談合」で解決するのがこれまでの通例だった。

ようは、政府債務の上限を「上げる」議決をすればいいだけ、という安易さ(国債の発行=FRBによる現金化)が答えだったのだ。

しかし、トランプ政権2.0には、強力なシナリオライターが存在する。

選挙公約にあった、「DS」あるいは、「ワシントンの沼に巣くう怪物たち」の排除という約束を実行するには、どうしたらいいのか?
これに、民主党の頭が悪いチャック・シューマーの力を利用して、合気道のごとく順手による施策を思いついたにちがいない。

つまり、「脅し」だけの民主党に、「閉鎖」で対抗する案で、予算がないから閉鎖だけでなく、予算がないから、カーター時代からの定年がない終身が約束されている官僚制=SESの民主党思想(グローバル全体主義)に偏向している高級官僚たち、とくにオバマが約2000人と大量採用した「オバマ・チルドレン」を中心とした解雇を企画したのである。

対象者は4000人で、すでにトランプ政権2.0は、各省庁の長官をして、これらへの解雇通告を実行している。
「連邦政府は、あなたの政府へのサービスを必要としなくなった」が、解雇理由である。

これには、スティーブン・ミラー(Stephen Miller)大統領次席補佐官がからんでいるはずだ。
この人物は、あのDOGEの産みの親で、連邦職員の本格的解雇について、トランプ政権1.0から仕込んでいた逸材なのである。

その「仕込み」とは、バイデンに解雇された職員に裁判で敗訴させるという巧妙さであった。

民主党の息のかかった連邦裁判官による「判決」を利用した。
「連邦職員の解雇権限は、行政府長官としての大統領にある」という決定が、いま、トランプ大統領の権限として活用されているのである。

よって、この民主党側判事のおかげで、さしもの高級官僚たちも解雇に応じるしか術がない。

それをまた、実行させたのが、民主党のチャック・シューマーという構図なのである。
トランプの政府を追いつめたはずが、自分たちがどうにもならない窮地に追いつめられて、打つ手なし、にされている。

今回の政府機関閉鎖の後に、トランプ政権2.0は、「SES制度」そのものを廃止する可能性もある。
24年大統領選挙中、トランプ氏は「猟官制度:スポイルズ・システム」を発展させた、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの功績を称えていた。

だが、ジャクソン大統領こそ、民主党初の大統領であったのだ。

もっとも、トランプ氏は元は民主党員だった。
このことも、いまの民主党は忘却しているし、RFK.Jrにしても、トゥルシー・ギャバード女史にしても、そもそもがバリバリの民主党員だったのである。

つまり、トランプ政権2.0とは、「旧民主党政権」なのである。

「旧」が、共産化=グローバル全体主義化した「新民主党」を排除する闘いを展開している。
その手法が、「新民主党=力業」に対しての「旧民主党=合気道」なのであった。

なんにせよ、日本でこのような議論が微塵もないことも、わたしが高市早苗氏にまったく期待しないばかりか嫌悪する理由となっている。

ノーベル委員会の敗北

10日、「2025年ノーベル平和賞」の受賞者が発表された。

ベネズエラの野党指導者で、ニコラス・マドゥロ大統領の独裁に対抗する人物、マリア・コリナ・マチャド女史である。
この決定に、マドゥロ大統領は、「悪魔の魔女」だとの声明を発した。

一方で、受賞を狙っていた、トランプ大統領には、パキスタン、カンボジア、マルタといった国々からの推薦があったものの「落選」となったのである。
ここに、日本がないことは、国民として覚えておいた方がいい。

「落選会見」で、トランプ大統領は、マチャド女史からのメッセージがあったことを伝えたし、マチャド女史本人のコメント動画もネット配信されている。
そこで彼女が語ったのは、「トランプ大統領にこそふさわしい。わたしが大統領にこの賞を献げます」だった。

世界の主要メディアは、トランプ氏の落選をバカにする記事を書いているが、独裁政権と対峙するマチャド女史からのメッセージを伝えない。
フランスのマリーヌ・ル・ペン党首と同様に、マチャド女史も政権側からの選挙妨害が露骨なのである。

実際に、トランプ政権2.0は、マドゥロ大統領への圧力を軍事的にも強化しており、マチャド女史からしたら、唯一の頼みの綱がトランプ大統領なのである。
それで、政権から命を狙われているために、マチャド女史はすでにアメリカ大使館の保護下にあるとの報道もある。

すると、ノーベル委員会(「平和賞」はノルウェー政府が担当する)の決定の意味はなんなのか?という、毎度の政治的なフィルターの疑念が吹き出してくるのである。

「経済学賞」とはちがって、アルフレッド・ノーベル自身が指定したのが「平和賞」ではあるが、政治的な中立を維持することの不可能は、そのまま賞自体が「政治」になっていることの問題である。

むろん、なにも平和に貢献したとはおもえない、オバマ、が受賞して、なぜにトランプではないのか?という疑問は、あんがいと中立的な意見となる。
佐藤栄作の受賞も、日本へ独立を促し、核武装を容認した共和党ニクソン政権(キッシンジャー)への皮肉の意味がある。

だがノルウェー政府の立場は、民主党バイデン政権と共同で実行した、「ノルドストリーム2」の爆破工作実行犯としての、トランプ政権2.0に対する不都合な真実があるのではないのか?

これを、エマニュエル・トッド著『西洋の敗北』での北欧三国の軍事化の動機と共に味わうと、説得力がでてくるのである。
この意味でも、トランプ政権2.0がノーベル委員会(=ノルウェー政府)に対して、批難声明を出したことはわかりやすい。

逆に、ノルウェー政府は、トランプ政権2.0に「日和らない=グローバル全体主義の自認」という態度を貫いたのだが、まさか肩透かしとした受賞者本人が、「トランプ大統領に献げる」といいだすとは予期しなかったのだろう。

ここに、ノルウェー政府=ノーベル委員会の敗北をみるのである。

草履で健康になる

1969年の東京オリンピック開会記念日(じつは紆余曲折ある)だった「体育の日」をより安逸な「スポーツの日」としたのは、2020年(令和2年)からであるがその前の1998年(平成10年)の祝日法改正(2000年:平成12年施行)によって、10月の第2月曜日へと、日付が変更されている。

これは、「ハッピーマンデー法」なる「国民の祝日に関する法律の一部改正」1998年(平成10年)10月14日成立(小渕内閣)による。
「飛び石連休」が激減した理由がこれだ。

ひっそりと、「3S」政策を強化した、といえる。

さて、作務衣と足袋を揃えたら、こんどは草履がほしくなった。

どんなアルゴリズムかしらないが、そんなかんがえが浮かんだすぐさま、なぜか草履の紹介がネットに現れたのである。

断面が三角の草を用いているのは、国内でも珍しいという商品紹介で、まったく「パピルス」に見えた。
ナイル川の川畔に茂る葦草の仲間であるが、エジプトでも近年では珍しくなりつつある。

ふつうのイグサに比して数倍もの強さがあるというけれど、最古の「紙」として用いた古代エジプト人の執念を感じるのは、わが国の「紙漉き」とはぜんぜんちがう、薄くスライスした茎を縦・横に並べて「編む」おおまかな布づくりなのである。

大分県から届いた草履をさっそく下ろして履いてみた。

子供の頃の夏休みには、ゴムぞうりを毎日履いていたのに、いつか鼻緒が食い込んで指を擦りむいて以来、ずっとご無沙汰していた履物である。

今回は、足袋が指をカバーしているけれど、「履き方」よりも「歩き方」を忘れている自分に気がついた。

踵から着地する、「靴」の歩き方ではうまくない。

そういえば、YouTubeで、「文明開化」から戦後の日本人は歩き方も奪われたという内容の動画があった。
和装における歩き方の基本は、前重心で骨盤をつかい、インナーマッスルを上下運動させるのである。

これがはた目に、相撲の運動に似ているとの指摘があるが、正確には上に書いたように、インナーマッスルを上下運動させるために、腕と足の左右の動作が一致するようにするのがコツなのである。

上下運動といっても、頭も上下に動くことはない。

駅までの道中で、かなり運動した感があるのは、慣れない草履が気になるだけでなく、「歩き方」そのものが、靴を履いたときとまるでちがうので、おそらくふだん使っていない筋肉たるインナーマッスルをうごかしているからにちがいない。

履物屋さんの動画を観ると、草履も下駄もどうやら同じ歩き方が前提で、戦国時代の武士が履いていた「足半(あしなか)」という前半分だけの草鞋(わらじ)が機敏さを確保できて重宝されたという。

一方、雪駄の歩き方は、踵の裏に金具をつけて、「チャラチャラ」音を出して歩くのが「粋」だということになったので、草履や下駄とはちがう歩き方となる。

それで、「チャラい」という言葉ができたが、いい家の人からは煙たがられたのであった。

前に同級生が語ってくれた、彼の父君が山梨の田舎に帰省の際、下駄を履いて山道を上がって峠を越えて、反対側の友人宅を気軽に訪ねていた話を思い出した。

いまは整備された国道があっても、とてつもないアップダウンである。
この旧道を下駄でいく脚力に驚いたものだが、正く履けてふだんからのインナーマッスルの使い手ならば、当時、驚くには当たらない行動だったに違いない。

さては草履を正く履いて、正しく昔ながらの歩き方を習得すれば、それだけでいまよりずっとなまくらな体が鍛えられること間違いなしだと確信したのである。

ところが、「履物屋」も絶滅危惧種で、売りたくとも作る職人がいなくなっているのは、「小千谷縮」とおなじなのである。
ただし、「履物屋」のビジネスモデルは、未完のパーツを組み立てて「商品にする」ことにある。

草履も下駄も、いまが最後の入手可能性となっている。

怖い「音楽の力」

1994年12月(日本では95年12月)に公開されたのが、『不滅の恋/ベートーベン』だった。

本物のベートーベンの遺書に残された「不滅の恋人」とは誰なのか?を当時の学術研究に基づく説をモチーフとしながら、ベートーベンの素顔の生活と音楽を関連づけた傑作である。
音楽は、サー・ゲオルグ・ショルティ指揮によるロンドン交響楽団のオリジナル演奏がこの映画のために録音されている豪華さだった。

映画のヨーロッパでのヒットとは別に、日本ではサントラ盤が異様に売れて、二枚目も発売されるほどの、ベートーベン入門CDになっていた。

作中、映画の語り部役の弟子に、ベートーベンが「音楽の力」について独白するシーンがある。
ひとは行進曲で歩き出し、ワルツで踊る、という一種の悪魔的な指摘に、弟子は驚嘆する。

西洋音楽しか習わなくなった日本人は、いま「邦楽」といえば、「J-POP」のことになった感があるけれど、雅楽からはじまる日本人の音楽は西洋音楽を拒否していることが痛快でもある。

ただそんな「邦楽」は、いまでは生活でも遠い世界になっている。

わたしは祖父とカラー放送前の白黒テレビ時代、昼の2時に東京タワーのスタジオから生放送していた『キンカン素人民謡名人戦』をよく観ていた。
こういう番組を、いまも覚えているのも「音楽の力」なのだろう。
ただし、民謡はどれも節回しが複雑で、なかなか覚えられるものではなかった。

似たような時期の1963年からはじまったNHK『新日本紀行』のテーマ音楽は冨田勲の名曲で、その民謡調の曲想が当時の日本の原風景を想起させながら、いま聴けばなんともいえない哀愁があるのは、原風景を失ったことでのことだろう。

だから、ここでいう原風景をしらないいまの若い日本人は、もしや退化しているのではないか?ともいえ、それがまた哀愁となるのである。

アニメに「聖地巡礼」があるのなら、『新日本紀行』巡礼もあっていい。

ニュースのはずなのに、音楽がついたことで違和感があったのは、2018年にあった、韓国海軍による自衛隊機へのレーダー照射事件における韓国側の報道でのことだった。
まるで、映画のような演出が「わざとらしさ」を独白したも同然だったが、素直に思考停止して視聴すればよくできていた。

昨今のテレビ報道における「偏向」問題で、日本の民放もこれとおなじ手法を用いて、映像に音楽をつけている。
その曲選びが、また、編集者の意図に沿っているので、素直に思考停止して視聴すると、すっかりその意図にはまり込むようになっているのはベートーベンの指摘通りなのである。

ニュース放送は意図的につくられている。

人間の脳は、柔軟ではあるけれど、何度もの刺激には「慣れる」ようにできている。
たとえば、むかし学生時代に、先輩のアパートに数日間籠もったことがあったけれども、この場所が在来鉄道の幹線が集中する線路の真横で、頻繁に通過する電車の音と振動がまるで『神田川』のようであったのに、しばらくしたらぜんぜん気にならなくなった。

とはいえ、やはりテレビ報道を観るのは脳に悪い。

それでYouTubeで、音楽家による解説番組を観ると「名曲」のなんたるかをしりえて納得がいく。

ベートーベンの後継者といえるブラームスが自身で「傑作」と評価した『交響曲第4番』が、どのような作曲テクニックとして複雑構造であっても、それが演奏されたら曲になっていて、素人が聴いても破綻しないことの奇跡は、つぎに何度も脳が勝手にリピートする原因なのだと合点した。

とにかくわたしの脳は、数々の名曲を押しやって、「ブラ4」を勝手にリピートするのである。

「耳について離れない」とはこのことだ。

ついでに、サガンの『ブラームスはお好き』(1959年)とセットになるものの、半世紀以上経った未来のフランスはそれどころではない
サルトルと親交があったという、実存主義作家としての彼女の筆致は、彼女が嫌ったフランスの延長によって、まさに懸念した通りになった、ともいえる。

なるほど、このようにして思考停止するとコントロールされるのか?

そこへいくと、どうなっているのかわからない日本の民謡が気になるのである。

公明党離脱と高市潰しの滑稽

首班指名の臨時国会はどうなるのか?

そもそも、高市早苗氏は首班指名を受けることができるのか?

「元・体育の日」の10日、26年間続いた公明党との連立政権が終わりをつげた。

このブログでは、高市早苗氏を一切支持していないのだが、現実の動きはことなるのも事実である。
そのリアリティーに寄せれば、まったく混沌としてきた、というのがすべてであろう。

果たして、高市氏が首班指名を受ける確率は、だんぜん下がっている。
さほどに嫌われる原因は、彼女の政治姿勢が「保守=右派」だとの決めつけ=世論操作にある。

しかし、世界はすでに「左・右対立」の時代は終わっていて、「グローバル全体主義・反グローバリズムの闘い」となっている。
この観点からしたら、高市氏は決して「反グローバリズム」のひとではないばかりか、むしろ、グローバル全体主義に日和っている側なのだ。

しかし、その寄り方が「甘い」という理由で、仲間内から排除されているのだとおもわれる。
もっといえば、旗幟を鮮明にしないので不気味、なのであろう。

たとえば、高市選対の応援団長、小野田紀美参議院議員は自ら「保守ではない」と宣言し、自分の言動が世間から「保守」だといわれているだけだと断言したようなわかりやすさが高市早苗氏にはないのである。

さて、公明党の離脱で、単純な「数の勝負」になってきた。

しかし、その組合せが複雑怪奇な情勢になっている。
自民党内は、麻生太郎氏を核とする表札は「高市派」と、菅義偉・森山裕のふたりが反麻生で連結している。
これと、野党のグダグダ連中が、党利党略で暗躍しているのである。

どちらにも、どこにも、だれにも、まったく、国民目線がない。
これはこれで、呆れるしかない歴史的権力闘争なのである。

改めて、坂口安吾の『堕落論』にいきつく。
堕ちるだけ堕ちて、底からの這い上がりしか残された道はない。

それを国民が選ぶという、責任が次にやってくるのである。

西洋は天皇の人間宣言で敗北した

GHQが勝者の論理丸出しの「占領」で、国際法もなにもかも無視した横暴をやったことことから、それが実態は「征服」だったとしれる。

これを企図したのは、開戦の半世紀前にも遡る『オレンジ計画』だったことが明らかになった。

だが、もう当事者とその世代は日本にもアメリカにも生存していない。

しかし、あんがい見棄てられているのは、計画の実行者だった「GHQ」とは、欧州を含めた戦勝各国の「連合軍」のことだから、わが国を征服して彼ら基準での好き放題をやった連帯責任から逃れられるものではない。

逆に、マッカーサーひとりの戦後処理を装った犯罪ではない、ということだ。

その数ある犯罪行為の中で、もっとも効果的な破壊力をもったものが、「天皇の人間宣言」である。

明治の、ほんとうは欧州列強の手先である「元勲」と呼ばれるひとたちの筆頭、伊藤博文が企図した「日本教」の布教をもって、わが国は近代工業国家へと脱皮するのに成功した。
「日本教」の構造は、ドイツ皇帝に謁見して指導を受けた伊藤が、プロテスタンティズムに基づいて考案したとおり、「プロテスタント教会」とおなじ建て付けになっている。

それが、「現人神」に集約される。

あろうことか、わが国はマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義に精神』を発表した1904年(明治37年)から5年よりもずっとはやい、1889年(明治22年)に、『大日本国憲法』をつくりおえていた。

逆にいえば、マックス・ヴェーバーは日本の状況からパクったのではないか?
それゆえに、『マックス・ヴェーバーの犯罪』なる告発本を書けるのが日本人だけなのではないか?と疑うのである。

ところで、ニーチェが『アンチクリスト』を発表したのは、1895年で執筆の開始は1888年だったから、やたらわが国の動きにまとわりつくのである。

わが国の事情をいえば、伊藤をはじめ討幕運動にかかわった者たちのほとんどは、「水戸学」に陶酔していた。
朝敵とされた徳川慶喜は、その水戸藩生まれであった人物なので、グルッと一周する。

産業革命を実地で観た伊藤は、市民社会のなかでも「中間層」の役割なくして工業化の不可能をしり、それをどのように作り出すのか?の挙げ句に、「四民平等」にいきついた。
身分制の伝統あるわが国を、フラットな「市民社会」に改造するには、ヨーロッパで圧倒的な権威たる「神」を創造し、それに四民を平頭させることが必要だったのである。

ために、伊藤本人は、生涯、天皇に平伏しなかった。
「現人神」をつくった「超人」が伊藤そのひとだとの自負であろう。

これを、「不敬」と責めたのが、暗殺犯、安重根の伊藤懲罰筆頭にあげる理由なのである。

しかし、先進国たるヨーロッパにおける「キリスト教信仰の弱体化」とそれにともなう「家族の解体」で、とうとう「道徳」と「倫理」が崩壊を開始する。
第一次世界大戦の「総力戦」とは、一般人を巻きこむことの無罪なる倫理崩壊があったことの結果なのである。

しかし、わが国は世界に魁けて日露戦争による「総力戦」を実行して、未来のヨーロッパに先行してしまったのである。

これが、ヨーロッパと日本がまとわりついて離れない、グズグズの原因だ。

しかし、「人種差別撤廃」をいいだした日本を許せないほど倫理が堕落したヨーロッパ&アメリカに敗戦してからの「戦後」で、彼らの「無」倫理の果てとなる「人間宣言」によって、ヨーロッパ&アメリカ人は、じぶんたちの神も徹底破壊したのである。

その挙げ句が、いま、だ。

トランプの登場も、ヨーロッパにおけるアンチ・グローバリズム政党の登場も、じつは「神を取り戻す闘い」となっている。
そうしないと、社会秩序の崩壊がとまらないからである。

日本では、神社を統轄する組織と、仏教の宗派それぞれにおける内部崩壊がとまらない。

構造がヨーロッパ&アメリカとおなじにさせられたからである。

つまり、日本再興のカギは唯一ここにあるということなのである。


通貨統合には多様性のかけらもない

EUの「€:ユーロ」のことである。

6日、フランスの内閣が組閣後したとおもったら14時間で崩壊し、いよいよマクロン政権が「詰み」の状態になってきた。

しかし、たとえ大統領がかわっても、域内統一通貨ユーロが残るので、次期政権も似たような体たらくになるのは確実なのである。
よって、解決策は、ユーロからの脱退、しか方法はないが、これはイコールEUからの脱退を意味する。

EUとの条約で政府債務の上限(GDP比3%まで)を定めており、これを大きく超え(6%弱)てしまったのは、「福祉国家」のための支出増大が原因なのと、ウクライナ支援が効いているのである。

ようは、EUという制度は国家から独立した財政及び通貨発行権を奪ったので、こうなる、ということなのである。

しかし、フランスの大恥は、ギリシャ危機におけるギリシャを徹底的に悪者にして責めたてた過去が、そのまま自国へのまなざしとなっていることで、6%弱とはいえ、あのギリシャのときとおなじ数字になったことを、もはや自国でコントロールできないことにあるのである。

そんなわけで、ドイツと並ぶEUの大国が、英国に続いて抜ける可能性が高まっている。

一方、わが国をみれば、はなからEU加盟基準を満たしたことがない、ということが幸いして、NATOの準加盟国で留まっている。
「正加盟」をときのメルケル首相から誘われたのを、安倍首相が丁重に断ったのは、野党が騒ぐ国内の政治事情によるためだが、まずはそれでよし、とするラッキーがある。

ただし、わが国の場合は、政府財政と「円」の通貨発行権を日銀が持っている、という意味での「独立」はあるが、その巨大債務をどうするのか?という問題の解決が、財務省だけに依存しているので、「財務省解体デモ」なるトンチンカンな行動となって、ガス抜きをやらされている。

バブル前の絶好調時代に、円の国際化基軸通貨策をやらず、ひたすら豊満な財政をたてにして、「福祉国家」を追及する中毒化を目指したのである。

ときに、大英帝国のはじめから「揺りかごから墓場まで」を標榜した英国の現状をみれば、わが国の未来予測も厳しいことがわかるし、先進国のフランスが「お先に失礼」とばかりになっているのは、明日は我が身、の典型なのである。

あの1895年(明治28年)に出版された『タイムマシン』に、「揺りかごから墓場まで」が登場する。

イギリス人は、はるか前の1516年に『ユートピア』なる「ディストピア小説」を書いていたが、言語は英語ではなくラテン語であったのは、知識人だけ、を読者に想定していたからで、一般人は読めなかった。

1932年(昭和7年)には『すばらしい新世界』が、1949年(昭和24年)には、あの『1984年』が世にでる。

人間のかんがえたことは実現する、というのは、『ゴーストバスターズ』(1984年:昭和59年)の「マシュマロマン」に象徴される。
ために、この作品はアカデミー賞を受賞したといえるだろう。

しかして、英国ではディストピア小説の伝統が、そのまま現実化しようとしており、これをフランスが追いかけているのである。

「多様性」をいう者たちに「多様性のかけらもない」のは、これぞダブルスタンダードなのである。

トランプメッセージの「いけず」

13時間の時差(サマータイム中)があるワシントンD.C.とわが国なので、6日、AM9:54(日本時間6日PM10:54)にトランプ氏自身が所有するSNS『Truth Social』に挙げた、異例の「高市あげ」記事が話題になっている。

前に、「関東人には不明の「トランプ京都人説」」を書いた。
ようは、アメリカ人(ニューヨークっ子のヤンキー)でありながら「いけず」なのである。

「いけず」とは、『新明解国語辞典8版』によれば、「[関西方言]いじわる(な人)。」とある。

アメリカ人で「トランプ嫌い」が一定数いるのは、その人柄の「いけず」なところが合わない向きがいるからだとおもわれる。
つまり、彼の言動にはトゲがあるばかりか、よくよく意図をとらえる読解力がないと、かなりズレた反応を示すこととなるのである。

このあたり、かなりの「京都洛中人」なのだ。

さてコメントの、「異例」のポイントは、
・総裁選に勝利したが首相に就任していない段階でのことであること。
・外交儀礼としては、公式の政府間「電報」が用いられ、私用の媒体ははばかれること。
・文面に、「おめどとう!日本国民の皆さん」があって、「政府間」ではないこと。

これに、冒頭の「素晴らしい知恵と強さを持つ人物」と褒めていることで、あたかも、安倍晋三氏とのことを思い出されるという、「解釈」が日本の読者一般の反応になっていることがある。

このブログでなんども書いてきたように、はたしてトランプ氏は安倍晋三氏と本当に胸襟を開く間柄だったのか?を疑っている。
ことの発端は、16年大統領選挙期間中における、ヒラリー陣営への一方的な「表敬訪問」で、アメリカ国内の選挙違反にあたることをやったのが、安倍首相そのひとだったことだ。

むろん、ヒラリー絶対勝利を信じた愚かな外務省の指図ではあろうが、トランプ陣営は選挙中の外国首脳との会談を、しっかり「違反」と認識していたことで、拒否された、ことになっている。

「バナナ共和国」のようなみっともないことを、日本(政府)がやったのである。

だから、日米首脳会談のためにトランプ大統領を初めて訪問した安倍氏は、顔が引きつっているのが確認できる。
これを、トランプ氏は「異例の大歓迎」とした演出で、まんまと取り込んだのである。

これぞ、「いけず」の真骨頂、まさに白拍子以来の籠絡を地でいく姿なのである。

トランプ政権1.0の苦しみは、大統領に従わない高級官僚たちの「妨害行為」であった。
それは、まさにオバマが大量採用した者たちであったし、そもそもアメリカに「高級官僚制」を制度化したのは、おなじく民主党の左派だったカーター政権だった。

つまるところ、対民主党との闘いは、とうとう1.0政権末期にまで及び、「バイデンジャンプ」に敗れて下野することとなったのである。
よって、トランプ政権2.0までの4年間という時間を、トランプ陣営は明確な戦闘態勢の準備につかい、対して焦る民主党はなりふり構わぬ「司法の武器化」で対抗したのである。

その民主党のやり口が、いま、ブーメランとなって民主党幹部の起訴になっている。

そんなわけで、トランプ政権2.0は、各国の情勢についての調査・研究も過去の政権とは次元が異なる精緻さという性質をもっている。
その中で、アジアでもっとも重要な同盟国日本の状況を、しらない、ことはあり得ない。

高市早苗氏が過去に、アメリカ民主党議員の世話になっていることも、彼女の人生のなにもかも、彼らは承知しているはずなのだ。
しかも、盟友のはずの安倍晋三氏が暗殺された現場たる「奈良県」こそ、高市氏の選挙区である。

その高市氏は、安倍氏の事件についてまったく関与せずに他人事として貫いている。

そもそも、高市氏は旧安倍派に加入もしていない「無派閥」が売りだったのである。
なので、どこから安倍晋三氏の意志を継ぐ議員筆頭となったのか?をかんがえれば、マスコミの「神話」ではないか?となるのである。

逆に、トランプ氏はこの「神話」をそのまま利用している。

一種の、「ほめ殺し」なのである。

ときに、トランプ氏にとって本当の盟友だったはずのチャーリー・カーク氏と日本人の関係をみれば、高市氏が参政党に与党入りを打診する声かけをしたことも、トランプ大統領への摺り寄りともとれる言動であったと解釈できる。

神谷氏はこれに先手を打って、現状で「与党に与しない」ことを明言した。

一方、チャーリー・カーク氏は、「ガザ問題」で急速に反ネタニヤフを露わにしていたので、暗殺理由としてトランプ氏にはまずい状況となっていることはまちがいない。
あたかも、「泣いて馬謖を斬る」のごとくとも解釈できるからである。

自民党総裁候補の顔ぶれの絶望的な状態から、高市氏が選出されてもその絶望は変わらない。

彼女の能力がほんとうに高いとするなら、それは、トランプ氏の「いけず」に対抗する「いけず」だという意味でしかない、というのが現時点でのわたしの評価なのである。
自民党そのものの「延命装置」でしかないけれど、もう命運というよりも「役割」が尽きているから、残るは「解党」という結論だけである。

すくなくとも、彼女を「保守の星」というのは、マスコミがつくった「神話」にすぎないからである。

むしろ、マスコミが望む人物であることが、日本人の悲劇となる。

それを、逆手にとったトランプ大統領の「いけず」な投稿は、来日時における当事者同氏によるバチバチがあることを予想させ、トランプ大統領の上手に期待するしかない「ねじれ」がつづくのであろう。

「教育用電卓」をおとなに売らない

一口に「電卓」といっても、四則演算だけの「ふつうの電卓」と、何十何百と用意されている計算機能の「関数電卓」とに大別できて、その中に「教育用電卓」がある。
それがまた、数式の扱い方法やグラフ描画機能で分別できるので、これまた一口に「教育用電卓」といっても豊富な種類がるものだ。

日本人は、「世界初!答え一発!」の宣伝が衝撃的だった日本製の『カシオ』が、世界最大の電卓メーカーだと思い込んでいるかもしれないが、関数電卓の分野でもカシオのライバルに『シャープ』があるし、『キヤノン』もある。

けれども、このブログで書いてきたように、世界ではあんがいと、『HP:ヒューレット・パッカード』とか『TI:テキサスインスツルメンツ』という老舗が有名なのである。
これら二大メーカーは、教師用と生徒用の「使い方ガイド」のみならず、さまざまな「演習問題」も用意している。

その理由は、『国際バカロレア』をはじめとする、世界における数学教育の標準に、「電卓をつかえるように訓練する」があるからである。
なので、試験に電卓を持ち込める、という概念を通り越して、「持ち込みの義務化」になっている。

計算問題の前に、「電卓のつかいかた」の出題があるからで、生徒には正しい手順のキー操作を、実際に操作しながら回答させるようになっている。
日本のおとなには一種のボーナス問題に聞こえるかもしれないが、彼らが持ち込むように指導される電卓の複雑なメニュー操作は、手に取ってみればわかるほどに簡単ではない。

そもそも、持ち込み指定される2万円から3万円する「教育用グラフ電卓」は、いまどき「ポケットコンピュータ」の進化版なので、メインメニューにある「計算の種類」も多数あって、どのモード・タイプの計算をこれからやるのか?から正確に選ぶことだけも、出題の意味があるのである。

ザッと挙げれば、基本計算モード、グラフモード、統計モード、方程式モード、3Dグラフモード、プログラミングモード、とかがある。
これに、行列、ベクトル、微積分は当然の機能だし、グラフモードで(連立)方程式の解(交点)をもとめるのに、描画した線上をなぞって求める方法も方程式モードとは別個にある。

はじめて操作するなら、こんな出題にサッと答えられるものではない。

だがしかし、作り手で販売元のメーカーは、「教育用」との既成概念にとらわれてしまっていることに気づいていないようである。

グラフも描ける大画面の電卓は、数式モードなら何行も表示される便利さがあって、さらに統計モードにある「表」をつかえば、あたかも表計算が可能なのである。
入力したデータの見直しができるのは、表示部のちいさい電卓では不可能だ。

そんなわけで、おとなになっても業務で十分に使えるから、液晶部などに故障がなければ「一生もの」であることはまちがいない。

今どき少なくなった書店では、おとなむけの参考書たる「やりなおし」とか「おとなの学び直し」とかいった参考書が並んでいる。
ここに、なぜか「教育用グラフ電卓」とセットで解説するものがないのである。

これは日本における教育用電卓の普及がないことへの、従順な対応としかおもえない。

だが、おとなに対してならば、存分な解説書があって然るべきではないか。

中国語では、道路工事のための関数電卓の使い方、なる本がでている。
おそらく、いろんな分野における「使い方」が出版されているのだろう。
これは、圧倒的なエンジニア育成数のちがいからでも想像できる。
日本とすでに人数で比較することの意味がないほどになっているのである。

なので、たとえば『カシオ』なら、教育用グラフ電卓をようやく国内販売をはじめたが、メイン・マーケットはアメリカのままなので、国内でのサービス軽視をしているのではいかと疑うのである。

これは、日本人全般にとって不幸なことだ。

おとなが使って便利なものを、子供に伝播しないはずもない。

ゲーム専用機を学校に持ち込むことは憚れるが、教育用グラフ電卓は、プログラムモードでゲームをつくることができる。
おなじ著者の「TI用]の解説もある。

だが、これは子供用の解説書なのか?といえば、そうともいえない。

おとながPythonを学ぶ、ひとつのアプローチである。
ならば、「大人買い」してもいいのである。