「ドイツ軍の会話」は本当なのか?

ネオコン(戦争屋)の女王、ヴィクトリア・ヌーランド「辞任」の件についての憶測である。

結論から先にいえば、「解任」ではないのか?という見解の憶測である。

もちろん、辞任と解任では、はなしがぜんぜんちがう。
自分からの意思で辞めるのか、他人から辞めさせられるのかのちがいだ。

はなしの発端は、上司たるブリンケン国務長官が、「辞任の申し出を受理した」と話したことからはじまるが、本人の弁がない不思議があったし、「辞任理由」も明確ではない。

ヌーランドはいったんは国務省「ナンバー2」になったはずではあった。

それは、副長官が辞任したことによる、次官から副長官「代行」になったのを、このたび、正式にあたらしい副長官が就任して、彼女は「元」の次官(筆頭の政務担当)に戻ったことが原因だという憶測が走ったのである。

あの往年の人気韓国ドラマ、『チャングムの誓い』で、なにがなんでも一族繁栄のために「最高尚宮(チェゴサングン=局長職か)になろうとする仇役が、いろいろな機会と下劣な人脈を悪用して、尚宮「代行」という地位に就くが、結局は悪事がバレて代行職を解かれプライドがおおいに傷つくというはなしが思い出される。

しかし、韓国人には申し訳ないが、そんなプライドが傷つくということだけで、万人単位の人々を死においやった、ネオコンの女王が、潔くも自らの立場を棄てるようなマネをするのだろうか?との疑問があった。

そんなタマじゃないだろう?

ひとはその人生が、顔に出たり、背中の表情に出たりするものだ。
ヌーランドの場合は、まちがいなく「顔」に出ている。
若かりし頃の彼女の写真と現在を見比べれば、このひとが何をしてきたのかがわかる顔つきになっている。

ただし、彼女はあくまでも、「高級官僚=SES=終身」なのであって、決断・決定をしてきたのは政治家たる上司たちである。

この意味で、「和製ヌーランド」と異名をとる、上川外務大臣は、政治家なので決定権がある分、「本家」よりよほどあくどい立場にある。

それにしても、わが国の歴代外務大臣のなんという無様!
平成24年(2012年)からの名前をそのまま書けば、岸田文雄 ⇒ 河野太郎 ⇒ 茂木敏充 ⇒ 岸田文雄 ⇒ 林芳正 ⇒ 上川陽子となっている。

後世、これが「亡国」と書かれても文句はいえないが、それもこれも、自公政権を選び続けた国民の責任なのである。
それが、民主主義というものだ。

さてそれで、解任説の原因は、ドイツ軍将官たちの会話がロシアに漏れたことだという。

ショルツ首相の弱腰に反発したドイツ空軍が、クリミヤ大橋をミサイル攻撃する「計画」のことである。

対して、メドベージェフ(元ロシア大統領)現ロシア国家安全保障会議副議長(議長は大統領が兼務)が反応して、「ドイツが再び敵に変わった」と発言している。

ドイツ側は、この情報漏洩に国防省が否定するのかとおもったら、なんと、「空軍の内部対話が盗聴された」ことを認めてしまったのである。

まさに、第三次世界大戦=核戦争の悪夢一歩手前だった。

そして、この作戦を練ってドイツ空軍を動かしていたのが、ヌーランドだったという「憶測」なのである。

そんなわけで、バイデン政権はあわてて彼女を解任した、という「説」である。

ただ、漏洩した情報そのものが暗号化されていなかった(ラジオのような平文でのやりとり)という不思議がある。
一体どういうことなのか?

われわれは、ドイツ軍のやり方、をぜんぜんしらない。

ソ連時代の1978年4月、大韓航空機をソ連空軍機が撃墜した事件で、ソ連空軍は緊急事態だから、「平文」も通信をしていたために、青森県三沢にある巨大アンテナがこの通話をとらえてそれをまた、TIMEだかNewsweekがすっぱ抜いたのを記憶している。

実態は、アメリカ側がソ連に「知っているぞ!」と雑誌記事で脅したのである。

当時、通常は暗号通信だけど、いざとなると平文になるのは、コンピュータの計算速度が不十分なために暗号を平文に戻す作業が間に合わないからだと説明されていたのが思い出される。

しかし、今回は密談で緊急事態ではないだろうし、いまのコンピュータはそんなお粗末ではない。
ただし、暗号の方が複雑化して、いまのコンピュータでも平文に戻すのは面倒な事情があるかどうか?

なんにせよ、あたかも、『平家物語』でいう、「鹿ヶ谷の陰謀」が漏れたのである。

なので、どういうことかぜんぜんわからない。
国際政治の闇がある。

それにしても、こんな「あわや世界戦争勃発か?」の重大情報が報道されないで、いつもの通りのワイドショーを垂れ流すわが国は、やっぱり滅亡するのではないか?

日本人のおおくは、この未遂のやばさに気がつかないでいるのが怖い。

モルドバの非承認国家が暴れそう

タッカー・カールソン氏がプーチン氏にインタビューしたときに、冒頭から延々とプーチン氏が「ロシアの歴史」を語り、さしものタッカー氏をして、無駄な時間稼ぎではないのか?と疑わせたことは、インタビュー終了後にタッカー・カールソン氏自身が告白している。

しかし、そんな告白をしなければならなかったのは、プーチン教授の歴史の授業が、その後の核心である、ウクライナとの戦いの経緯についての説明に重要な意味(伏線)を持っていることがわかったからであった。

とはいえ、日本史でいう飛鳥時代から現代までを30分ほどで言い尽くすのは困難であるし、島国のわが国と違って陸続きの国家群の複雑さは、簡単に、しかも一方からの目線だけで語り尽くせるものではない。

シュペングラーが100年前に書いた大著(ざっと2000ページある)であり名著の、『西洋の没落』では、そもそも「ヨーロッパ」という概念がまちがっているので、「ヨーロッパ対ロシア=ヨーロッパのロシア恐怖症」という重い病の原因になるのだと、当のヨーロッパ人たるシュペングラーが書いている。

あくまでも、「ユーラシア大陸」である、と。

だが、この東西に及ぶ巨大大陸の、ヨーロッパから見て東の果ての離れ島にいる日本人の目線では、西の果ての離れ島にある英国まで、あまりにも遠いので、互いにその詳しい歴史をしることは困難なのである。

それでもかつて、英国の大歴史家、トインビーは、「日本文明」という区分をもって、日本人の歴史を把握していた。
しかし、われわれの方は、いまだに「ヨーロッパ文明」だとして、この狭くややこしい「大陸」をひとくくりにしてしまっていて、中身について無頓着なままなのである。

プーチン氏の「歴史」は、リトアニアにポーランドやドイツ、オーストリア=ハンガリー(帝国)、あるいはルーマニアにも及んだが、「モルドバ」には言及しなかった。

あたかも、西のアルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)のように、「領地」として支配者が行ったり来たりしているのが、モルドバなのである。

残念ながら、この小国についての知識はわたしにはない。
ずいぶん前に、YouTubeで観たなにかのテレビ番組で、外国人が里帰りするにあたって、日本の「土産」で家族を驚かせる、という企画が何本かあって、モルドバ出身のモデル嬢が「シャワートイレ」を持ち帰ったのが、わたしにとってモルドバの知識のすべてである。

なお、叔父さん用には、「斧」を持ち帰り、その切れ味に驚愕した叔父さんは、「日本人は柴を効率的に集められるのでうらやましい」と言ったのが、印象的だった。
このひとの人生に、ガスや電気あるいは灯油で、調理や暖をとるという概念がなかったからである。

そんなモルドバにいつかは行ってみたいともおもったが、日本からかんたんに行ける場所ではない。

残念なことに、そのモルドバにも複雑な歴史があって、モスクワ在住20年の『ニキータ伝』さんが、ウクライナの戦線拡大(EUを取り込む大戦争)になりかねない状況を説明してくれている。

フランスのマクロン氏が、フランス軍のウクライナへの直接派遣に言及して騒ぎになったのと、もしや連動しているかもしれない。

N A T Oは「集団的安全保障」を旨としているので、フランス軍の派遣とは、フランス一国の参戦を意味するだけでなく、全N A T O加盟国の参戦をも意味するので、「おいおい」となったのである。

しかし、こんな重大なことを若いマクロンだって知らないはずがない。
知っていてぶち上げたのは、「観測気球」を上げたのであろう。

「西側」は、ウクライナのために自国の若者たちの血を流す気はまったくないことがかえってわかったのである。

しかし、今や女性が戦争仕切るヨーロッパにあって、モルドバの女性大統領が、強権的な発言で、ウクライナへの派兵を画策して、EU加盟へのご機嫌取りをやりたがっているのである。

一方で、このあたりの地図をみれば一目均衡表のごとく、もしもモルドバが隣国のウクライナに派兵でもしたら、ロシアにとって、これに対抗するにはオデッサを攻めてそこからモルドバに仕掛けるしかないという、戦線拡大の「呼び水」の役割にもなりかねない。

さては、アメリカでヌーランド氏が辞任して、後任が「後始末の専門家」、ジョン・バス氏になることがわかった。

この件についても、「ニキータ伝」さんが、ロシア側の目線とともに伝えてくれている。

なんであれ、今世紀は、女性の政治家や官僚が、火薬の匂いが大好きな「火遊び」をやっていて、外国人と不倫の火遊びをする程度の国会議員がいるユーラシア大陸のはすっこの日本は、世界情勢からかけ離れている。

その陰で、日本版のヌーランドがいまの女性外務大臣なので、このひとの「火遊び」こそが、危険極まりなく、こんな人物を持ち上げる岸田政権の「やる気と実行力」だけは、過去最強なのである。

図書館で過ごすのは文化的だけど

昨年から、図書館に通うために電車の定期券を買っている。

閲覧していると、驚くほどの書き込みが目立つ本がある。
おそらく、ひとりが「掟破り」をすると、次から次へとモラル・ハザードが発生するのではないか?

ペンやマーカーは論外だけど、鉛筆での書き込みを消しゴムで消す作業に没頭するはめにあうことがある。

すると、複数人の特徴が見えてくるのである。

どうして図書館の本に書き込みをするのか?については、ずいぶん前に書いた
所有と占有の区別がつかない、という、現代社会ではかなり重症な病理があるのだ。

なので、このような行為をするひとを、わたしは「土人」と呼ぶ。

返却の時に、「書き込みがあります」と申告したら、前のひとに疑いの目はいっても、犯人探しもなにもしない、のが図書館側の態度なので無駄だから、黙って返すことになる。

しかしながら、図書館内のトイレには、「カバーを外して持ち帰るひとを見かけたら職員や警備員まで」なんて張り紙があるので、とうとう「窃盗」にまで発展しているのだ。

むかしは館内でコピーをとるにも、窓口で申請して、職員が指定したページのコピーをとっていたが、いまでは「コピーセンター並」の台数があって、個々人が勝手にコピーできるようになっている。

ただし、このコピー機になぜか、「領収書」の発行機能がないのは、横浜市立図書館だけなのだろうか?

先日、見たい本がたまたま横浜市立図書館にも、近所の神奈川県立図書館にもないので、かっぱ橋道具街の先にある「台東区立中央図書館」にいってきた。

ここは、館内の図書だけをコピーする機械と、その他のコピーをする機械が別フロアーにある、という横浜人からしたら妙な面倒があることに気がついた。
そういえば、新宿区立中央図書館も、スマホなどでページの写真を撮影するなら、「申請署」を書いて提出しないといけないようになっている。

「著作権保護」という法執行にもとづく厳密なる行政が行われているのだ。

むかし、書類を写真に撮る、といったらなんだか「スパイ」のようだったのは、フィルムが貴重でとれる枚数も有限だったからである。
いまのスマホなどのメモリーなら、一冊ぜんぶを撮影しても屁でもないし、クラウドストレージにデータを送れば、端末容量を気にせずにほぼ無限大の撮影ができる。

国会図書館からして、古い資料のデジタル化による保存に一生懸命なのは、和紙ではない洋紙を用いた印刷物の、土台である「紙」の劣化で、ボロボロになってしまうから、という理由でのデジタル化なのである。

すると、こうした資料のみたいところをコピーするには、端末内の「スクリーン・ショット」機能を用いた写真撮影がもっとも簡単だが、そうはさせないで端末から図書館に特別接続された「コピー機」に送信してプリントアウトするしかないように設計されている。

つまるところ、アウトプットは、なんとしても「紙」なのだと発想しているのである。

そんなわけで、徹底的に自由主義者のハイエクが、特許や著作権の廃止を訴えたことは、なかなかに「今様」なのである。

この心は、「国家が文化を支配する」ことへの拒否感だった。

翻って、ウクライナ政府は、「徴兵年齢の引き下げ」と、国外にいる徴兵対象者への強制帰国及び拒否した場合の「領事館サービス」の停止を可能とし、さらに本人の銀行口座凍結もできるようにする法案を議会に提出した。

もしも通れば、外国に逃げたはずの当該ウクライナ人でも、難民になるか別の国の国籍を取得するしか、この法から逃れることができなくなるけど、国連が難民申請を受け付けるのか?ということにも発展するだろう。

たかが図書館のはなしからこの極端がつながっているとおもえないひとが、いまは多数いる。

しかしそうではなくて、よく想像力を働かせれば、あんがいと国家権力そのものの本質として国民は認識しないといけないのだ。

たとえば、神奈川県立図書館へ予約した図書の受け取りと返却ができる、横浜駅前の神奈川県行政サービスセンター入口ロビーには、「ウクライナ支援募金箱」が設置されていて、ウクライナ人だけをターゲットに「兵に行け」という意味の支援を県民に訴えてあたかも「よいこと」にさせているから、ちゃんとつながっているのだ。

本来ならば、戦争当事国を相手にするなら「両国」に対してとしないと、中立の立場とはならないから、わが国や神奈川県は、「中立」を放棄した。

むかしのちゃんとした日本人なら、「喧嘩両成敗」を主張したろうに。

国による特許保護も著作権保護も、よかれ、からあるものだろうけど、ウクライナ支援は、武器を売って儲けるためだけの、もう悪意を感じるまでになっている。

7日、その戦争屋を代表するバイデンのアメリカ議会における一般教書演説を、これまた戦争屋たちを支援するメディアになった、BBCが、みごとな「切り取り」で、あたかもバイデン支持が圧倒的な「ような」映像をつくって配信している。

よく観察すれば、「ウクライナ支援は武器を売って儲けるわが国の経済政策なのだ」と豪語したブリンケン氏も議場にいる不思議(彼は議員ではない)があるが、外国の戦争が大好きな民主党の腐った者たちだけが、熱狂しているのがわかるのである。

これらが、ハイエクにいわせれば「同根」なのだと、図書を読んでよくわかるのである。

随伴的結果のスーパーチューズデー

アメリカ大統領選挙の一つの山場が、5日の火曜日である。

候補者を選ぶための予備選挙は、大統領選挙の本選挙と似せて、「党員票」の獲得競争をやっているので、各州に割り当てられている「党員票数」が過半数を占めたら、その候補者が最終勝利者として正規候補になる、という仕組みである。

たとえば、ある州の党員票数が10だとしたら、その州予備選の勝者は、「10票(ポイント)」を獲得する、という意味だ。

5日は、15州で同時に予備選挙投票がおこなわれるが、この日の得票総数は800票以上になる。
いま、トランプ氏は200票以上を稼いでいるけど、5日に全勝しても、半数の1200票あまりには届かないので、もうしばらくは「お預け」の状態となる。

ただ、唯一の対抗馬たる、ニッキー・ヘイリー氏が、ようやく負けを認めて「撤退」を決めたから、この時点でトランプ氏が事実上の共和党候補となった。

そのニッキー・ヘイリー氏への大口選挙資金提供者たちが、先に「資金提供からの撤退」を表明してきているので、金の切れ目が縁の切れ目になったのだろう。

だが、彼女は自身が2期もつとめたサウスカロライナ州知事だったのに、同州で惨敗するという醜態を国民にみせてしまったし、とうとう「撤退表明」の場でも、予備選のルールである、敗者は勝者を支持すると表明するのが常識であるのに、トランプ氏を支持するとは言わず、ますます政治的な立場を失うという代償を払ったのである。

一方で、あくどいことをやってもトランプ氏に邪魔したい民主党は、「裁判」を武器化して、あらゆる手段で、あたかも「場外乱闘」を仕掛けているので、観衆はこれに嫌忌してかえってトランプ支持が増えるという予定外なことになっている。

なんだか、『チキチキマシン猛レース』のようなのだ。

一応、経営学では、目的や目標の達成にまつわって出てくる、予期しない別の負の結果のことを、「随伴的結果」と呼んでいる。

そんなわけで、共和党の予備選挙は続くが、撤退したヘイリー氏などへの、「トランプ批判票」がいかほどになるかも注目されている。

「あぶりだし」の効果も、予備選挙にはあるのだ。

なので、民主党の側もおなじなので、こちらをみてみると、なんとバイデン氏が、アメリカ領サモアで、無名候補に敗れるという「波乱」があった。

現職の大統領が党内予備選挙で敗れたのは、ジミー・カーター以来の椿事なのである。

この小さな島における波が、いったいどうなるのか?
それに、「候補者なし」に投じたひとの「得票数」も歴史的であるから、民主党におけるバイデン人気の衰退はめざましい。

それに、前日に出た最高裁判決で、国会が大統領職を決める権限をもつ、という判決文を根拠に、民主党は大統領選挙に負けても、同時にある上院(3分の1の改選)・下院(総選挙)で勝利し、トランプ氏の当選を認定しないという手にかけるしかない。

だが、そんなにうまくいくものか?

現政権への大きな批判に、イスラエル・ガザ支援に対して反対の党員が多数があるし、かえって独裁色を強める政権は、国務省ナンバー2だった、あの女戦争屋、ヴィクトリア・ヌーランドをとうとう国務省から追い出すこととなった。

けれども、後任が注目される当然がある。

なにしろ、引退の理由は、もっぱら「ウクライナの失敗の責任」といわれている。
これがほんとうなら、『ロシアより愛をこめて』の、クレッブ大佐 (Rosa Klebb)のような、使い捨てにされる感じがする。

この手の独善的な政権(これが独裁の典型)では、失敗するとこうなる、という、子供向けのアクションドラマのような展開になるものだ。

もちろん、成功を重ねてきた本人の方でも、自分が失敗するとはおもっていない、ので、失敗の原因を別に求めるものだ。

じつは、その原因が「組織」に行きつくのである。

そして、失敗したひとの特徴は、「部下」に原因を押しつけるが、自分が設定した、「目的や目標」のまちがいに気がつかない。
それで、随伴的結果のブーメランを喰らうけど、これすら他人のせいなのである。

さて、トランプ氏とイーロン・マスク氏が会談したけど、マスク氏は寄付を約束してはいないと「X」に投稿した。

彼らがなにを定めて、どんな随伴的結果がでるのかは、これからのことである。

100倍のコロナワクチン被害救済予算

昨年が3.6億円あまりだった、「コロナワクチン被害救済予算」が、ことしは110倍の397億円以上が計上されていることが判明し、国会で首相に問いただしたものの、武見太郎の息子がやっている厚生労働大臣が、あたかも空母を守るために身代わりで「撃沈」する駆逐艦の役を担った忠誠の場面があった。

しかも、この答弁は、「専門家が安全だといっている」という、論理のすり替えをもって押し通したから、もしもわが国がアメリカのような訴訟社会であれば、ここで大臣に指摘された専門家たちは、将来の損害賠償請求を覚悟しないといけなくなる。

しかし、そうなると政府の審議会委員にだれもなり手がなくなるので、きっとアメリカよりも腐っているわが国の司法は、「審議した結果の誤謬」は問題とせずに、審議会の存在意義を優先させた判決文を作文するのだろう。

つまるところ、裁判官も、わが国の主権者は国民ではなく、行政官僚であると認定するのだとかんがえられる。

これが、わが国の「法秩序」だと。

すると、学校教育でやっている、「日本国憲法」の教え方が、まちがっているということになってしまう。

それで、文部科学省の官僚は、そんな判決すら無視してもおとがめはないことになる。

そうやって、テストの設問にもなんら変更を加えないから、勉強優秀な子供たちは、左翼思想を自らたたき込む努力をして、偏差値エリートになっていくし、左翼思想の教師と保護者たちを黙らすことで、面倒を避けるのである。

そんなわけで、SARSのときのわが国厚生労働省のことを、「The Ministry of kill」と呼んでいた外国人エリート金融マンたちがいうように、「殺人省」となっても、シブシブ被害国民を救うという態度だけは保持しているのは、騒がれると面倒だから、という理由に過ぎない。

どうせ、役人たちが自腹をきるわけではないのである。

すると、菅直人という自己顕示欲しかない人物が、厚生労働大臣だったときに、薬害エイズの被害者に土下座したのは、なんのことだったのか?

菅直人氏は、いまこそ元大臣として、強力な苦言を武見大臣に呈しなければならないが、気配もない。

さて、問題なのは、予算(カネ)ではなく、被害状況なのである。

死亡と後遺症の両方があるけど、政府の専門家たちがいう「安全」という判断の思考停止は、こうした被害の実態をみないことにする、という「データ改竄」をやっているからではないか?と疑うのである。

ようは、審議会では、厚生官僚がつくった資料だけで判断して欲しい、とあらかじめ指示されて、勉強だけをやってきてなお研究予算が欲しいだけの「乞食学者」を選抜してできているのが、審議会だからできる技である。

残念なことに、わが国では国会と行政省庁の力関係が逆転しているので、国会の厚生労働委員会に審議会や研究会がなく、あくまでも行政側につくられて情報統制も同時に完結してしまうのである。

この意味で、国会機能として「正常」なのは、国立国会図書館だけ、という無様なのである。

諸悪の根源に、予算編成「権」が、財務省にあって、税の徴収「権」も財務省にあることで、予算の執行だけに徹するようにできていない。
加えて、立法府なのに、行政府にある内閣法制局が、事実上の立法権まで握っている。

予算の編成権は、国会になければならないし、立法権を取り戻さないといけない。

しかしながら、女性議員と外国人の不倫問題がさも重大事件だと、国民を欺く努力に余念がないマスコミは、徹底的に政府予算に依存している経営体質に変容した(国民が購買しない)ので、あまねく「お国=行政」に日和って、ちょうちん記事を垂れ流すのである。

こうして、国民に政治不信を煽れば煽るほど、近く予想される総選挙の投票率がまた落ちて、与党に有利なるという、選挙運動をはじめている。

そのために、こうした議員のひとりやふたりが落選しても、どうでもいいのが「党組織」の論理なのである。

ほんとうの被害状況は、おそらくこのまた100倍以上あるのではないか?

接種開始当初、薬害エイズ事件から参議院議員になった、川田龍平氏は、「史上最大の薬害事件にならなければいいが」と発信していたけれど、この懸念が現実になったのは、彼自身が厚生行政の被害者で、大臣が土下座したとてなにも体質が変わっていないことを熟知しているからだろう。

世界で、「超過死亡」が話題になっているなか、国民一般で「超過死亡」という言葉すらしらないのが日本という状態になっている。

アメリカ連邦最高裁のスピード判決

「スーパーチューズデー」の前日にあたる、4日、アメリカ連邦最高裁は、トランプ氏の大統領選挙出馬資格に関する判決を下した。

そもそもの発端は、昨年末(12月19日)に「コロラド州最高裁」が下した、「トランプ氏を州における大統領予備選挙での候補者名簿に記載しない」ということと、28日にメイン州の州務長官(選挙事務を取り仕切る)が行政命令として「剥奪」したことが起点だったから、トランプ氏側が年初に連邦最高裁へ上告していたことの判決である。

なおつい最近の2月28日にも、出生不明者のオバマの地元、イリノイ州地方裁が同様の判決を出している。

つまり、上告からわずか2カ月あまりのトップ・スピードで、9人の最高裁判事たちが判決文を書き上げた、ということなのである。

結果は、「9対ゼロ(「反対意見なし」)」の、トランプ側の完全勝利であった。

これで同様の反トランプ側=全体主義側が、全米45州で一斉に仕掛けた残り88件の「選挙資格剥奪裁判」が、この判断でぜんぶ雲散霧消の消滅をした。

だがその名目は、すべておなじで、「民主主義を守るため」であった。

民主主義を守るために、特定人物の選挙での立候補資格を剥奪させるようにするのは、民主主義なのか?という疑問すらもっていないのが、訴える側の「政治的立場」だ。

つまるところ、魔女狩りとおなじ「政治裁判」なのである。

ときに、アメリカの最高裁を含めた連邦判事は、大統領が指名することになっている。
それから、人事権をもつ連邦上院で過半数の承認をもって就任が決まる。
トランプ政権時代、3人もの判事を指名できたのは、本人の引退表明やら死亡が原因だった。

アメリカの最高裁判事は、「終身」職だからである。

「終身雇用」を謳っていたわが国に、じっさいの「終身職」は、使用人の立場ではほとんどなかったけれど、アメリカの一流企業も連邦上級公務員(SES)ではあんがいと「終身雇用」をやっている。

日本でサラリーマンが、「終身」になれるのは、取締役に「あがった」ときからのことでしかない。
あとは、「定年」という、特定年齢になったときに容赦なくやってくる、「解雇」であった。

こんなことが、「終身雇用」といわれたのは、寿命が短かったからである。

こんな単純な定義を忘れる間抜けが、世界一の長寿国になって、「雇用延長」という、どこからどうみても「同一労働同一賃金の原則」から外れていても、奴隷根性のままでいるから本物の「奴隷」として働き続けるのを「ふつう」だと思うのである。

そんなわけで、全体主義の民主党は、地団駄を踏んで悔しがっているようだけど、一連の「トランプ裁判」では、かえってトランプ人気が高まるという、「随伴的結果」が顕著になったので、おそらく「ホッとしている」側面もあるだろう。

これで、「トランプ裁判」は、下ネタがらみのでっち上げ民事訴訟が2本と、政治がらみの刑事訴訟が5本となった。

興味深いのは、「世界最高峰」を自負する、ハーバード大学やらの有名「法学部」が、こうした、「司法の武器化」に対して、ろくな反論をしないばかりか、むしろ後押ししていることが、着々と記録されて、将来の大禍根をつくっていることにある。

「法による支配」なんてきれい事が通るのか?それとも「人治主義」の暗黒がまかり通るのか?の、分かれ目を、トランプ氏が世界人類にみせているのである。

それにしても、まさかスーパーチューズデーの前日という、おそろしくも政治的な日程で、連邦最高裁が判決を出したのは、同様な日程を組んで、トランプ陣営への選挙妨害を画策していた民主党・検察官の上をいく。

なんだか、「ハムラビ法典」を地でいくのが、やっぱりどこか野蛮な匂いがするのである。

「むかしばなし」をつくる

現存するわが国最古の「物語」として、「竹取物語」がある。
驚くべきは、その話を日本人ならいまでもだれもがしっていることにある。

一応、この作品のジャンルは、「おとぎ話」ということになるという。

かぐや姫が、月に向かうなど、「荒唐無稽」をもっていうらしい。
残念ながら、かぐや姫をとりまく月世界のひとたちが、どうして移動できるのかとか、なぜに竹の中に乳児がいたのか?などの説明を一切してくれないなので、「SF(Science Fiction)」とは認めてもらえていない。

作者も、正確な成立年も不詳のままだが、どうやら「かな」で書かれたことは、まちがいないようである。

すると、作者はやっぱり宮廷の女性なのか?

貴族たちの生活のありさまに詳しいからであるし、なんとも貴族の男性を皮肉っている、上から目線なのも、「女尊男卑」の日本らしさにあふれている。

わが国があたかも「男尊女卑」に逆転したのは、鹿鳴館での連夜の夜会をもって諸外国と対等のように振る舞ったのと同様の浅はかがある。
けれども、「華族」すら、家政は正夫人の専権事項で、主人も口に出せない、「女尊男卑」が本音の常識だったからできたことでもあったのである。

なので、「文明国」として、男尊女卑を見せかけにやっていただけなのだった。

この意味で、ヨーロッパにおける発想の野蛮さがわかる。
彼らは、女性を「所有物」としてかんがえていた。

ただし、女性側は敬虔さと神秘をもって、女尊男卑の発想があり、女性に参政権を付与しようという男性に大反発して、パリのシャンゼリゼを100万人のデモ隊で埋めたことがあったと書いた。

子どもを産むことができる、神聖な女性を、「汚い政治の世界」に入れとは、バカにするにもほどがある、ということだったのである。

いまでは信じられないだろうが、事実、である。

しかし日本でも、衣食足りた70年代になって、突如、「ウーマンリブ」なる運動がおきたらしく、学校から帰った小学生も観ていた、午後のワイドショーには、そのリーダーたる女性たちが憤懣やるせない激烈な言葉を述べて、その上の世代の割烹着がトレードマークだった「主婦連」を圧倒していたものだった。

わたしの祖母は、「なんだいこのひとは?旦那はどんな顔をしているんだろうね」と言っていた。

「若い時は親に従い、盛りにしては夫に従い、老いては子に従う」というのも、あたかも日本オリジナルのようにするためか、日本では、女子教育のなかでいわれてきたというが、実際は、中国の「礼記」に由来する三従の教えのことで、「漢学」の分野にあたる。

これをよく読むと、「女尊男卑」がにじみ出るから、日本でも女子教育に採用したのだろう。

平安貴族の女子なら、父からの直接的な手ほどきで、文芸を学び、結婚すれば家政を仕切りつつ、子に教育をほどこして、老いたらその子に従うのは、どのように育てたかの結果確認のことなのである。

つまり、ぜんぜん従属的な意味での「三従」ということではない。
これが、日本的解釈なのだ。

その典型が、秀吉が生涯頭の上がらなかった、北政所たる「おね」さんであり、山内一豊の妻、見性院なのであった。

世の人は、「内助の功」というけれど、実態は、完全なる「女尊男卑」であったといえる。

さて、それでは、現代における「むかしばなし」の創作は、なにを子供への説話・教訓や寓話としての意味を伝えるべきなのか?

「多様性」という言い方の建前のおかげで、基準を壊すひとたちが威張っているけど、あんがいと、「いきすぎた多様性」が人々のストレスを限界にまで高めて、超新星爆発のように、自己崩壊するのではないか?

これからの作話者は、量子論やら宇宙論を基礎とした、SF神話を書く時代になったようにおもえる。

すると、基礎構造に「竹取物語」のような、「おとぎ話」がないと、はなしにならないのではないか?

子供をワクワクさせるのは、えらく困難な時代になったことだけは、確かなようである。

いいひとは「言ってはいけない」と言う

むかしのアルコール類のCMに、「いいひとって寒いですね」というセリフがあった。

だから、酒でも飲んであったまりましょう、ということなのだが、「あったまる」ということにも気をつかったのが、むかしの宣伝マンの常識だった。

スキがないのである。

これが一流のコピーライターの仕事というモノで、その仕事を評価できるひとがいた、ということである。

だから、ひとはこうしたコピーを「すごい!」といって持ち上げるけど、ほんとうにすごいのは、これを決済して世に出すことを許した上司であった。

明石家さんまが軽く、「しあわせってなんだろう、なんだろう、キッコーマン、キッコーマン」と言ったのは、いまでも傑作のひとつだろう。
家族が囲む食卓にこそ、しあわせがあって、そこにはかならず「キッコーマンの醤油がある」と、日本国民に擦り込んだのである。

だから、宣伝の部下と上司の間には、できるモノ同士の一体感があって、それが信頼関係になっていたのである。

むかしは「ポリコレ」なんて言い方はなかったけれど、もっと「上」からの命令が、「ことば狩り」になって、言っていいこととわるいことを決めるのが上司の役割になってしまったので、いよいよパワハラの時代がやってきた。

そのことのはじまりは、明治「新」政府がけっこう早い時期からやっている。

それもこれも、江戸幕府のやり方(言論統制)を真似たという話があるけれど、明治新政府がやったのは英国流の最新(プロパガンダ)を導入したことであった。

なので、古い江戸幕府の伝統的やり方に沿った、宮武外骨が反発したのであった。

ところが、そんな政府やらGHQやらの言論統制が、「ふつう」になったので、これを悪用の統合で日和った「言論業界」のひとたちがカネのために、なんだか「業界倫理」になってしまった。

それで、一般人のまじめで進歩的なひとたちには、「道徳」に変容して、とうとう言論統制を個人の会話で言うようになったのである。

それが、「それは言ってはいけない」のひとことなのだ。

たとえば、バスや電車の中で平然と大声で通話をしている外国人に、「土人」と言ってはいけないとかがある。

おなじ場所で下車して、「土人がうるさいんだよ!」と、その土人に聞こえるように言った(残念ながら聞こえていないらしかった)ら、「土人なんて言ってはいけない」と日本人の友人にとがめられた。

でも、「こいつらは土人に違いないから、土人に対して土人と言わないのは失礼だ」と言い返したら、もっとその友人はわたしに対しての怒りを露わにするのである。

とにかく、土人に向かって「土人」と言ってはいけないらしいから、だったらなんと言えばいいのかと聞いたら、彼はことばを失った。

なんと、彼自身も「土人」にかわることばをしらない。

「もしもし、そこの未開人のひと、ここでの通話は遠慮なさい!」では、やっぱりはなしが通じないことはわかっているようである。

まさかとおもって、「土人」を差別と思っているのかと聞いたら、やっぱりで、「差別と区別」が使い分けできないのである。

だから、『ちび黒サンボ』が排除されたことも、よくかんがえてはいない。

いまでは「禁句の塊」の物語ではあるけれど、わたしは、この物語の主人公、ちび黒サンボの機転にえらく感心したのである。
この物語は、けっして「ちび」であるとか「黒」であるとかは関係なく、むしろこれらを礼賛している先進性の方に重点がある。

このはなしでは、上にいう「土人」が想像もできないからである。

これをいうと、彼も同感だという。
ならば、なにが問題なのかと問えば、やっぱり答がないので、これ以上追及したら人間関係がこわれるのでやめた。

それで困った彼は、わたしの頭を、「バカ珍が」と言って軽く叩いたのである。

「言語」が詰まった結論である。

そんなわけで、「土人には土人と言ってあげる」というのは「善意」であることがわかる。
差別ではなく、あくまでも区別だ。

じつは、もっと恐ろしいのは、「黄禍論」なのだ。
白人は、黄色人種をどのように蔑視していたかがわかるし、当然だが、いまも「深く潜行している」だけで、本質的な蔑視感覚はなにもかわってなんかいない。

それが証拠に、白人主義者のはずのトランプ氏への黒人やエスニックの支持が急速に広がっていて、とっくに「人種差別はいけない」と口だけの民主党バイデンへの支持を超えてしまった。

言葉がでてこないほどかんがえが薄い脳天気な日本人のために、あの森林太郎(鴎外)が、国会図書館に『黄禍論梗概』として、明治36年の早稲田大学にての「課外」講演録がのこっている。

これをくだんの友人は、みることも拒否したのである。

さてはこの6年後に、『横浜市歌』を作詞(明治42年)した、森林太郎である。

しかして、こんなことをいまの横浜市の市長も職員も、しったことではないし、「言ってはいけない」になっているにちがいなく、まじめな市民を洗脳しているのである。

「春闘」もやめられない

昨年4月6日付けの「The Asahi Shimbun Globe+」の記事は、「春闘はもう時代遅れなのか」だった。

このブログでは、「慣性の法則」について書いてきている。
それが、「春闘」にも働いているので、残念ながら、上の朝日新聞社の主張ような立場をとらない。

人間の所業は、たいがい「よかれ」としていることが原因で、はじめから悪意でもって行えば、そう遠くない将来に必ず化けの皮がはがれることになって、自滅・終了する。

たとえ数代・数百年の時間が悪意による地獄のような社会でも、かならずどこかの時点でひっくり返るのは、歴史のしめすところなのである。

つまり、「悪意」による行動は、いつかそんなに遠くない将来に、「おわる」のだが、善意による行動は、ついに慣性の法則が働いて、わけもなく延々と続いて迷惑をまき散らすのである。

すると、元の「善意」の中身が問われるのは当然なのだ。
これを、朝日新聞社の記事は書かないから、ダラダラとした議論になる。

その原因に、「浪漫主義」の影響があるのだと、バビットの『人本主義(ヒューマニズム)』ではこき下ろしている、のだが、翻訳者は朝日新聞社のようなことを書いて、逆にバビット批判を展開しているのだった。

きっと、上の記事を書いた記者は、いまようの学業の優秀さ(偏差値の高い大学にいただけの理由)で入社したろうし、その上司たちもおなじ理由での入社だろうから、どんどんと中身の薄い記事しか出せなくなるのだが、書く記者よりもずっとエラい上司の編集者の中身が薄ければ、記事が薄くなるのは当然だし、そういった記事をはじめから書かないと活字にならない。

そんなわけで、『限りなく透明に近いブルー』のように、ついには訳の分からんことになって、読者そのものを失うのである。

さてそれで、春闘をかんがえるということは、労働組合をかんがえることに相違ない。

労働組合を、資本家との対立構造に設定したのは、天下の詐欺師、マルクス=エンゲルスの両人だった。

人間の脳は、最初にインプットされた情報をもって支配される構造になっているので、いったん「資本論の欺瞞」が入り込むと、これを排除・クリーンアップするには、かなりの自浄努力を要する。

この世に、マルクスもエンゲルスも、存在しなかった、という状況を脳内につくることが、じっさいには価値のあることなのだが、集団でこれをやるのが困難だから、慣性の法則が作動するのである。

逆に、マルクスとエンゲルスの言い分を信じると、ソ連やらの社会になって、中世の暗黒が天国に見えるほどの悲惨がやってくるのに、ひとはその現実を見ずに、理想社会の夢想に遊ぶことを選ぶのである。

なんだか、有名なテーマパークにひとが集まるのと似ている。

重要なのは、テイラー、フォレット、バーナードの「御三家」をもって、労働運動を再構築することなのだが、カウンターパートたる、経営者団体が、すっかりマルクスとエンゲルスの欺瞞を、学生時代に信じ込まされてきた、「勉強エリート」ときているから、はなしがこんがらがる。

それで、政府の役人もおなじ勉強構造にあったのだから、三つ巴のスパイラルになっているのがわが国で、「賃金が上がらない原因」を構成しているのだ。

つまるところ、「再教育」がひつようなのだが、もっとも再教育を嫌うのは、高給官僚たちで、中年以上の彼らは、「もうこれ以上勉強したくない症候群」に罹患している。

次が、「安全地帯」に無事逃げ込むことができた経営者(取締役)たちだ。

これら両者は、ともに、これ以上の努力はひつようなく、いまだけ、カネだけ、自分だけ、を謳歌したい、という自己満足の感情しかもっていない。

つまり、後のことはどうでもいいし、大企業なら「めったに潰れることはない」と高をくくっているにちがいない。

しかし、そうはいかないのが世界情勢というモノで、外国人による日本企業買いが激しくなるにちがいない。

すると、どうにもこうにも酷い目にあうのは、その他大勢の方になること必定で、これをどうするのか?が、ほんとうは労働組合の存在意義なのである。
しかしながら、上記ふたつの勢力が、団結を促すのではなくて、分断を促して成功している。

個の力では対抗できないから、結束をもって対抗するとしたはずなのに、個に分断されてこれに対抗できないから、どんどん組織率が低下している。

これはこれで、組織マネジメントの失敗なのである。

にもかかわらず、その重大な失敗を認めずに、ダラダラと春闘をやっているのは、やっている気になることによる、やっぱり自己満足だから、高給官僚たちと取締役たちと同列になっているのである。

だから、失望したひとたちがあらたに進んで労組組織に加入することすらしない。
徴収される組合費と、得られるメリットをちゃんと天秤にかけているからだ。

晩年のテイラーは、「精神革命」を叫んだけれど、どうやら頼みの綱として、労働組合の運営にも精神革命が必要になっている。

列に並んで待つことができない

いわゆる、「横入り」をすることもふくめて、列に並ぶ習慣がある民族と、できない民族とがある。

エジプトは英国の支配で影響が強く残るが、そのカイロの路線バスに乗るひとたちは、一切列をつくることなく、乗車口に群がって我先にと乗車していくさまは、わたしも毎日のようにみかけていたものだが、これを、ケン・フォレットが、『針の目』でも書いているので、妙に同感するのである。

欧州を中心とした、「史観」がふつうになってしまったのは、造船と航行技術のイノベーションで、他民族を植民地支配することでの「富」がある、という理由からである。

造船技術には、帆船(「帆」をもって風を推進力とした)の発明がふくまれる。

それでもって、丈夫な「帆布」は、ジーンズとなったりバッグになったり、あるいは、学校行事につかうテントになったりしている。

わざとだとおもうけど、古代ギリシア哲学からローマ帝国に歴史の舞台が移って、ローマ帝国が滅亡してもあたかも世界の中心がヨーロッパであったように錯覚させる努力がなされている。

ところが、イスラム世界の大発展が、じっさいはヨーロッパ文明を凌いでいた。

ユダヤ教 ⇒ キリスト教 ⇒ イスラム教 という、同根の宗教の当時の「近代化」で、最後に生まれたイスラム世界が世界の中心になるのは、当事者たちからしたら「当然だった」当然がある。

それが、大反動を起こして、イスラム教 ⇒ キリスト教 に戻って、ポルトガルとスペインが、世界制覇をあからさまにしたら、分家で飛び地のオランダと英国が、待ったをかけていまに至るヨーロッパの基礎をつくった。

人類は、この意味で、列に並べない民族と、よしんば列に並んでも暴力で横入りすることに心が痛まない野蛮人によって支配され続けているのである。

だから、上に書いた、ケン・フォレットの『針の目』における表記は、半分正解で半分はまちがっている。
彼は、紳士の英国人が教育・支配したのに、列に並べないと嘆いてエジプト人を観察しているのである。

日本人からしたら、横入りを当然として富を得たのが「紳士」だったろうに、とおもうからである。

しかし、その日本人も、明治維新で英国人を手本とするやからたちが新政府をつくって君臨したので、「退化」がはじまった。
だから、冗談ではなく、「明治維新」ではなくて、「退化の明治改新」とでもいわないと辻褄があわない。

これを、「長周新聞」が当時の風刺画を載せながらきっちり書いている。

当時の世界覇権国は、英国だったので、まだアメリカの出番はすくないが、この絵をみれば「日英同盟」の意味もとんだ欺瞞だとわかるのである。

その日英同盟を壊したのは、日本代表はなにも発言しなかった、とプロパガンダされて久しい、第一次大戦の戦後処理をやった、「ベルサイユ会議」で、あろうことか、「人種差別撤廃」という、人間としてちゃんと列に並ぶように、英国人に詰め寄ってしまったからである。

これをいわしめた日本人は、江戸時代生まれの「本物の紳士」たちだった。

それで、あくまでも他人には列に並ばせても、自分は横入りをする権利があると思いこんでいる英国とその股分のアメリカ人はこのときから、「仮想敵国」を日本に定め、第二次世界大戦を目論んだのである。

そのためのプロパガンダが、「黄禍論」であった。

あたかも中国人のことのようだが、そうではない。
日本人をもって、「黄禍」としたが、これをアメリカで推進したのは、ウイルソンのアメリカ民主党だった。

いま、この政党がいう「人種差別撤廃」のウソを見破った黒人やエスニックたちが、「民主党は人種差別政党だ」と発言し、トランプ氏支持を表明している。

ちゃんと列に並ぶことが、人類の共通になりつつあるのは、結構なことである。