「ぐみん」で『打つわ』

A.I.による自動化が、人知を超えて暴走することがある。

ふつうなら、BANされるのではないかと思えるような、「危険」をすり抜けて、どうしてか「お薦め」で登場するのである。

それとも、牧師という職業における布教活動だとして推薦されるのか?

なんであれかんであれ、HEVENESE(天国民)がまじめにパロって演奏している、テーマの「ぐみん」による『打つわ』がユーチューブに登場した。

ただし、天才的な替え歌作詞家はほかにもいて、もう1年も前にアップしていたことにようやく気がついた。
これはこれで、上の「ぐみん」のおかげでもある。

オリジナルが大ヒットすると、たいがいその替え歌も大ヒットした。
まさに、「表・裏」をなしている。

替え歌の歌詞にはかならず「毒」があって、いいにくい世相やらを皮肉っているのも共通なのである。

わたしのお気に入りは、アラブ圏に石油プラントなどを建設にやって来た日本人の悲哀を歌った、『ホルムズ海峡・砂景色』という名曲だ。
もちろん、石川さゆりのこぶしがきいたあの曲、『津軽海峡・冬景色』(1977年、作詞:阿久悠、作曲:三木たかし)がオリジナルである。

成田発の夜行便を 降りたときから
アブダビ空港は砂の中
西へ帰る人の群れは 誰も無口で
風鳴りだけをきいている
私もひとり 連絡バスに乗り
眠たそうなラクダ見つめ
泣いていました。
ああ ホルムズ海峡砂景色

ごらんあれがオマーン岬 南のはずれと
見知らぬアラブ指をさす
砂でくもる窓のガラス ふいて見たけど 
はるかにかすみ見えません
さよならあなた 私は帰れません 
砂の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ ホルムズ海峡砂景色

さよならあなた 私は帰れません
砂の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ ホルムズ海峡砂景色

これを宴会の最後に必ず泣きながら歌っていた。
まさに、当事者たちにとっては笑えない、望郷の歌、だったのである。

しかして、砂漠ばかりで無価値と評価されていた、アブダビやドバイが大発展して、いまでは世界のセレブたちが「息抜き」ばかりかビジネス談義に花を咲かせる場所になっている。

もはやニューヨークでも東京でもない。

この半世紀もない時間でのことだから、『ホルムズ海峡・砂景色』を泣きながら歌っていたひとたちの努力の成果となっているのである。

それに比べて、「ぐみん」の歌の哀しさは、ほんとうに笑えない。

演奏しているHEVENESEは、和楽器もふんだんにあるバンドだが、なにせ本業が牧師なので、プロテスタント(キリスト教原理派でもある)なのである。

カソリックが批判されたのは、その通りのヤバさがあったからではあるが、対するカルヴァン派の過激かつ厳格度がはんぱなくて、脱落者を責め立てたのもずいぶんなことだった。

そんなことから、マックス・ヴェーバーがいう、資本主義の精神が生まれたとは、わたしには思えないし、そもそも資本主義なるものはこの世に存在するのか?という疑問すらある。

中世以来、儲かればよい、だけの世界ではないのか。

これを、「ぐみん」が皮肉っていると、とりあえず解釈することにしたい。

イスラエルの国家的危機

化学の授業で、分子を習うとき、たとえば「アボガドロ定数」とかは、「モル濃度」を勉強するとかならず登場することでしられている。

水の分子一個一個に、例えば、赤い色素でわかるようにしておいた、200mLのコップ一杯を海に流して、人間の力ではできっこない撹拌力で、全世界の深海までまんべんなくかき混ぜたら、ふたたびそのコップで海水をすくい取ると、だいたい赤い水分子は200個入っている計算になる、とむかし教わった。

「200」が単位を変えて登場するので、ちょっとややこしいから覚えている。

イスラエルとハマスの戦闘が、ガザの町を破壊して、えらいことになっていることを、いろいろ説明しているひとがいるけれど、あんがいと意見はハッキリ分かれている。

テレビによくでている有名大学の有名教授とかと、無名な研究者という構図にもなっている。

もちろん、テレビは逆神なので、テレビがないわが家では、すぐさま無名な研究者の方が、おそらく正しいだろう、ということぐらいはわかる。

そうしたら、なんとわが国の超エリート大学教授(なんと「博士号」がない)が、外務省から億単位の補助金をもらって、外務省のプロパガンダをするためのグループを形成していることも発覚した。

外務省の予算をだれがどういう理由で通しているか?は、当然ながら、与党の「外交部会」である。
またまた、与党が日本をおとしめる工作をやっていて、その手先が外交官たちなのである。

そんなわけで、有名大学の有名教授たちがポリコレで、ハマスなるテロリストを応援する立場をとっていて、そうでない側が、イスラエルの側の立場をとっている。
ただし、先に手をだした側が悪い(絶対悪)、というロシア非難とは真逆の構図になっているので、念のため。

じつはイスラエルの警察当局が、ハマスがやったという最初の攻撃が、イスラエル軍による「偽旗作戦」だったと認めてしまった!ので、現地では大々的に報道されている。

どっちもどっちのような話になっているから、中東はめんどい、ということだけが日本国民の頭に刷り込まれている。
ただ、ハマスにしても、どこから大量の武器弾薬を持ち込んでいるのか?という大問題はそのままになっている。

ここにきて、似たような話で、イエメンというマイナーな国の、「フーシ派(指導者の名前がフーシ)」が、イスラエルに肩を持つ国の商船を攻撃して、わが国の日本郵船の船もヘリコプターからの攻撃で拿捕されるにいたった。

フーシ派もイランからの援助を受けているハマスとおなじで、後ろ盾はイランだということになっている。
とはいえ、アフガンにプレゼントしたし、ウクライナでも同様の横流しで、アメリカやEU製の武器が、流れているのだとかんがえるのがふつうだろう。

しかし、この一派は、サウジアラビアと犬猿の仲で、そのサウジはイランと一応の国交は回復している。
ここでも「但し」がつくのは、国交回復といっても、大使館の開設というレベルでもいうから、友好関係になった、とは一概にはいえないので注意がいる。

あたかも、有名大学の有名教授たちが、サウジアラビアとイランとが「なかよし」のようにいうのも、ぜんぜん感心しない。

むしろ、どうしてフーシ派が「親ハマス・反イスラエル」なのか?の方が、よほど唐突なのだが、イランが背景にあるという一点でつながっている。

とはいえ、スエズ運河のそのまた入口を事実上の通せんぼをして、アジアとヨーロッパは、喜望峰周りになって、ヨーロッパや日本の輸送コストが膨らんでいるけれど、最大の被害者はスエズ運河頼みの、エジプトである。

もちろん、我々もこの輸送コストを負担している。

19日、アメリカが主導した、対フーシ派有志連合軍(宣戦布告した)に、なぜかエジプトが参加していない。
参加国はアメリカを含めた10カ国、英国、バーレーン、カナダ、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェー、セーシェル、スペインなのだ。

ついでに、日本も中国も外されている。

さてそれで、イスラエルの驚くべき実態は、ユダヤ人国家であるはずのイスラエルで、すでにユダヤ人の人口比率が、47%しかないことだ。

出生率で圧倒する、アラブ系が、とうとう過半となった。

どうやら、ネタニヤフ政権は、アラブ系住民の国内一掃を狙っての「仕掛け」をしたのではないか?と疑われているが、肝心の反ネタニヤフ政権の側のユダヤ人国民たちが、国外脱出を図る事態にもなっている。

もはや、イスラエル=ユダヤ人国家ではない。

イスラエルからユダヤ人分子が薄まっている。

このことの焦りが、かえってユダヤ人の人口を減らす効果をもたらす皮肉となって、もしや、アラブ人政権の国家になったら、国名変更をするかもしれない。

けだし、国内外のシオニストたちが、徹底抗戦をするのか?が問題なのだ。
ために、有名大学の有名教授たちは、アラブ応援団をかってでることになって、世界のユダヤ資本と本気でケンカをするのだろうか?

そうなると、外務省からおカネがもらえなくなるだろうに。

イスラエル国旗の上下にある青い帯を、ユダヤ教高僧のタリート(祈祷用肩掛け)を表すなどというのは、有名大学の有名教授たちで、もう一つの説に、ナイル川とユーフラテス川(約束の地)だ、がある。

あらためて、ハンナ・アーレントのユダヤ同胞から総スカンをくらった一冊、『エルサレムのアイヒマン』でも、年末休暇に読んではいかがか?

彼女が指摘した、「悪の陳腐さ」を嗤えないのは、わが国における悪の陳腐さを嗤えないからである。

たとえイスラエルという国が滅亡しても、世界一歴史の長い日本が滅亡しないということにならない。

むしろ、日本人の、日本はあって当たり前という思い込みこそが、もっとも危険なのである。

国家を失うとはどういうことなのかを、ユダヤ人からちゃんと習わないといけない。

空しさのクリスマスソング

一言で、「商魂」といってしまえばそれまでだが、世界でもっともキリスト教が普及していないわが国で、世界でもっとも派手なクリスマス飾りをみることができる場所になっているはずだといえるのは、カソリックのフランス人が驚く様子がSNSにあるからである。

アメリカはアイオワ州(保守的としてしられる)の、州議会議事堂ロビーに毎年飾られるクリスマス・ツリーなどに、「悪魔崇拝」の象徴としての、ヤギの頭(サタン)を祀る飾りを持ち込んだグループがいて、気づいた退役軍人などの別のグループが怒って、斧などで破壊し撤去したことが話題になっている。

本物の悪魔崇拝をしているひとは、全米に1万人ほどいるらしいが、アイオワ州ではどれほどの少数派なのかは推して知るべしだけど、もしやサヨクの「ポリコレ」がやった、アンチの活動が「悪魔飾り」をやったのかもしれない。

共産主義者が宗教を否定するのは、共産主義が悪魔崇拝の宗教だからである。

このニュースで不思議なのは、誰がどうやって運び込んで悪魔を飾り付けることができたのか?について、議事堂警備当局の動きがみえないからである。
それに、撤去したひとたちが斧を議事堂にどうやって持ち込めたのか?もわからない。

20年1月6日の、連邦議事堂を襲った「暴徒たち」という名目で、数千人のひとたちが逮捕されて、いまだに拘置されている。
裁判が進まないから、という理由であるが、あえていえば捜査情報をださない検察(バイデン政府)の、あからさまなる人権侵害である。

しかしながら、共和党が多数になった連邦下院の判断で、当日の議事堂監視カメラ映像が公開されるや、唖然としたのは、どこにも「暴徒」はみあたらず、あたかも警備当局者によって案内される、見学ツアーのような様子なのである。

これを、当時の民主党ペロシ議長は、「極秘」扱いとして非公開にしていたのであるから、現代の「魔女」だといえる。

さらに、「暴徒」といわれるひとたちの中には、必ず「官憲の内通者」の映像があって、どうなっているのか?の議会の追及に、おどろくほど回答していないのも事実なのである。
都合が悪い、官憲の幹部たちが阻止しているとしかかんがえられない。

これが、DS(ディープステート)が尻尾を出した証拠となっている。

もちろん、こうした人物たちは、アメリカの高級官僚(SES)のメンバーである。
日本の官僚制を真似てなお強力に進化させた。
高給取り(初任給が20万ドル)で、ほんとうの「終身」雇用の権利をもつのである。
だから、日本のように自主退官での天下りはあっても、定年退官はない。

なお、EUも同様に日本の官僚制を真似て、こちらは政府そのものから民主主義を排除した。
EUは、「EU委員会」なる官僚独裁制を採用し、「EU議会」は、ガス抜きだけの機能としたのである。

そんなわけで、日本は、世界を官僚(独裁)制に導いた、悪魔的な国家なのである。

一般に、日本も民主主義を標榜しているので、世界からは、「日本人が」という主語になって語られるのも当然なのである。

でも、日本人の多くは、そんなことはなく、自分は「官僚制」なんて関係ない、とおもうだろう。

つまり、日本人は、民主主義の怖さをしらないで支配されているのである。
それでいて、政治家たちをバカだとおもっているから、始末が悪いのだ。

個人として都合がいい部分(おいしいところ)は、主権在民で、そうでないところには知らんぷりする。
しかし、これら全体を覆い尽くすのが民主政治というものだから、部分的なご都合ではいかないのである。

けれども、自分に都合よく、気分が良ければ深く考えるのは面倒くさいからしない。

こんな少年のような国民性は、マッカーサーがいった「12歳の子供」から、ぜんぜん進化も成長もしていない気持ち悪さだけがある。

それゆえに、クリスマスにはクリスマスソングを町や建物内に流すのは、当然でしょ、になって、通行人や客側が嫌でも耳にさせられている。

アメリカ人たちの中の、差別主義者たちが、差別をやめろ!とポリコレを大声で叫びだしてやめないのをうるさがって、キリスト教の押しつけは他宗教のひとへの差別になるとこんどは思いこまされたら、町からクリスマスの飾り付けが質素になりだした。

それに、洗煉された都会派(民主党に脳を毒されたひとたち)、中でも「ニューヨーカー」とかは、もはや、「メリークリスマス」ということさえはばかることになって、「ハッピーホリデー」に言い換えていい気になっている。

まもなく、日本でもこれが伝染するから、そうなると、信者が誰もいないのに、よくも毎年クリスマスソングを飽きもせずに流していたものだ、になるはずなのである。

それを強制的に聞かされてきた一般人は、なにもいわずに「ハッピーホリデー」っていわないといけないのよ!、とまたまたなにもかんがえずに洗脳されるのである。

ただし、ケーキとか、チキンを売りまくっている業界や、おもちゃ屋などは、あきらめずにどんな作戦をとるのか?が楽しみなのである。

まずは、メリークリスマス。

裁判所の武器化

本日(日本時間23日)の速報で、トランプ氏を貶めたいバイデン政権の連邦特別検察官が、連邦高等裁をすっ飛ばして連邦最高裁に訴えていたのは、「大統領免責特権」を1月6日事件では適用しない、ということの確認(つまり有罪にできる可能性の確認)をしたが、あっさりと却下した判決がでて、そっち方面は、最高裁批判に熱心らしい。

ただし、反対意見書もないので、全裁判官一致だった模様である。

アメリカでは、コロラド州の最高裁判所が、トランプ氏の名前を投票用紙に印刷してはならない、という判決をだして騒ぎになっている。

ただし、これは「予備選挙」の投票用紙のことである。

コロラド州の共和党は、行政がやる「予備選挙」にたとえ名前がなくとも、党内予備選挙をやるから安心しなさいと声明をだした。

日本人にはややこしい話である。

ちなみにコロラド州は、近年すっかり「ブルーステート(民主党の州)」になっているので、7人の最高裁判事もみんな民主党知事が指名したひとである。

それでも4対3のギリギリ判決だった。
反トランプの急先鋒でしられた、筆頭判事(州最高裁長官)すら、反対票を投じ、まともな反対意見書を書いている。

判決の根拠となる、反乱を起こした人物は立候補資格がない、という連邦憲法の規定に、そんな事実はない、というまともな指摘である。

じっさいに、1月6日は、トランプ氏はまだ現職の大統領だったのである。
誰に対して反乱を起こしたのか?という問題が隠されている。

そんなコロラド州なので、共和党トランプ陣営からしたら、捨て駒的な州なのであるけれど、世論調査をしたら、共和党トランプ氏への支持が圧倒的という状態になっているので、余計に強行判決をだしたらしい。

しかし、これが全米世論に火をつけてしまった。

「トランプが~」立候補できない、ではなくて、有権者の選択肢を裁判所が狭めた、という理由である。
正々堂々とした選挙で、バッサリ落選させればいいのだ、というバリバリの民主党支持者がいう反論が話題になっている。

つまるところ、民主党が割れている。

けれども、共和党も腰が定まらないところがあって、最後とはいいながら、支持率一ケタ代の候補者たちだけの形式的な討論会を開いている。
とうとうトランプ氏は、共和党の大統領候補者討論会に一回も参加しなかった。

いまの党内世論調査で、6割越の圧倒的支持があるからだ。

とうとうデサンティス・フロリダ州知事の支持率が、ニッキー・ヘイリー元国連大使に抜かれて、おそらく春までもたいない(候補者争いから離脱する)と噂されている。
この(トランプ氏への)恩を仇で返した人物の化けの皮が剥がれたのは、なんだか人間の哀しい性をみるようである。

受かるはずのない州知事選に、トランプ氏の全面バックアップを受けて当選したからだ。

共和党をおとしめる、民主党の広報を無意味にも日本でやっているマスコミは、ヘイリー氏を推しているが、インド系の実業家候補者、ビベック・ラマスワミ氏(37)が、白けた討論会でひとり気を吐いて、徹底的なヘイリー氏批判を展開し、ヘイリー氏当人もとうとう反論できない無様を披露することとなったのは、「事件」だった。

彼は、「ヘイリー=腐敗政治家」というプラカードを掲げて、国連大使退任時の100万ドルはあった彼女の借金が、ボーイング社(戦争屋)の取締役に迎えられるやいなや、あっという間に「富豪」の一員になった経緯を聴衆に説明したのである。

日本航空が、ボーイング一択だったのを、エアバス導入としたのは「まとも」な選択に見えるけど、実際のところはどうなのか?
飛行機の免許は、機種ごとだから、さぞや運転手さんたちは訓練に励まないといけないし、この莫大な訓練費用も乗客が負担するのである。

もしや第二次トランプ政権が発足したら、ラマスワミ氏が日本大使(実質的な「日本総督」)になって東京に乗り込んでくるやもしれぬ。

民主党のポチたる、自民党と外務省を、徹底的に破壊するであろうから、期待が高まるのである。

日本国民にどこまでみせるかは予想できないが、最高裁だって無傷で済むとは限らない。

わが国の司法の武器化は、目立つ最高裁判事ではなくて、事務方のトップを構成する裁判所事務官たち(事務総局)がつくるDSがあるからだ。

ちゃんと読まないといけない、選挙公報に「ふろく」でついてくる、最高裁判所判事の国民審査における、各判事の所見には、なんと新任だと「まだ判決に関わっていない」として、平気で空欄があり、「趣味は犬の散歩」とかとふざけたことが堂々と印刷されている。

国民は、犬の散歩が良いか悪いかを審査させられることになるのだけど、こうした記事を書かせているのが、事務総局にちがいないのである。

それでもって、国家行政に対する裁判で、原告に有利な判決をだそうものなら、たちまちにして降格人事をやるのも、事務総局が最高裁以外の裁判官の人事権を握っているからである。

なので、まともな裁判官は、定年退官直前にまともな判決をだすという、へんな慣例ができている。
ただし、退官後に弁護士になるのだから、後輩たちにいじめられるのを覚悟しないといけないというリスクがある。

どうして反日のTBSとかが、『大岡越前』やら『遠山の金さん』をやっていたのか?がわかるのは、国民に、ちゃんとしたお裁きがあるのだと信じ込ませるためであった。

医師としてはまことに残念至極な森鴎外だが、わたしはこのひとの文学作品は、夏目漱石よりも好感している。
その中の、『最後の一句』は、現代日本人が抱くべき、司法の武器化に対する警告なのである。

そんなわけで、共和党トランプ派が勝利することは、日本における既得権者の皆様には、まことに都合が悪い(国民には都合がいい)ことなのだとわかるのであった。

小田原にみかんを買いに行く

日本に生まれて、日本だけで育つと、日本のふつうが世界のふつうだと勘違いすることになって、それがときに島国根性だといってバカにされるものだけど、よくよくかんがえてみたら、どうしてかくも「日本だけ」があふれているのだろうか?

この意味で、SNSの発達は、日本に住む外国人の素直な驚きを伝えてくれて、なかなかに「教育的」なのである。
だから、自ら、「Eテレ」とかと抜かす、偏向テレビ局の教育を装った洗脳番組よりか、数倍も数段も有意義なこととなっている。

これを、「個人の感想でしょ?」といえば、その通りだが、外国人が外国人として個人の感想を述べる際、なぜか?とか、ちがい、をちゃんと説明してくれているので、ただの個人の感想とはいえないのである。

「論理学」を学校で習うからだとおもわれるが、これはこれで、デカルト的な「理性の絶対」というものだとすると、全面的に感心はできないのではある。

さてその「日本だけ」の中に、みかん、もある。
もちろん、豆腐屋とか和菓子屋だって、ぜったいに外国には存在しなかった。

日本茶(緑茶)のブームがヨーロッパに広がって、豆を砂糖で煮るという発想も文化もなかったところに和菓子も注目されているのは、バターやクリームでギトギトの菓子よりもヘルシーなんてことではなくて、お茶と合う、これだとおもうのである。

平等院から宇治川を挟んで向かいにある、『宇治茶道場「匠の館」』では、煎茶の淹れ方を日本茶インストラクターが教えてくれて、最後にはお茶っ葉をポン酢で食べるところまで経験できる。
高級なお茶は、出がらしを食べてもうまいのである。

ただし、飲み過ぎると、眠れなくなる。

みかんの不思議は、きれいに手でむける薄皮の柑橘類が、外国にないことに尽きる。
それに、夏みかんやら八朔やらと、やたら種類が豊富なのも、外国人には摩訶不思議にみえることだろう。

かんたんにいえば、彼らには、「オレンジ」と「グレープフルーツ」ぐらいしかないからである。
レモンやライムは、そのまま食すイメージではなく、やはり絞り汁を使うことがふつうだ。

冬至に欠かせない「柚」にいたっては、皮だけを用いるけれど、やっぱり外国だと、オレンジやレモンの皮がつかわれて、皮専門の柑橘類を別途栽培なんかしていない。

わたしは、柚の香りをかぐと、やっぱりお正月を思い出す。
真夏でも、柚七味をかけると、お正月気分になるのである。

気候が温暖なら、どこでも栽培されているのがみかんだ。

神奈川県だと県の西側が、みかんの産地になっている。
「甘いがうまい」を追及しすぎて、「甘すぎる」のをもって、「高級」とする悪い風習ができて、タダ甘いだけのシャインマスカット葡萄が人気になっている不思議がある。

甘酸っぱくて、皮にえぐみがあるのが葡萄だった。
山葡萄の蔓も、葡萄の味がする。

むかしはみかんも、甘いだけではなくて、適度な酸味があったのである。
しかして、小田原のみかんは酸っぱいと有名だったが、いまではずいぶんと余計な世話をしているらしく、甘いみかんになっている。

ご進物で、果物の缶詰が籠に詰められて売られていたが、いつも残るのはみかんの缶詰だった。
シロップに漬かっていた皮のない実はどうやって剥いたのか?
薬品処理だったことを想うと、なんだかみかんが気の毒になる。

冬至を過ぎれば、とにかくあとは春に向かって日が伸び出す。
今日がその冬至である。

それを察知して、梅の木は花をつけて、初夏の頃には実ができる。
そんな梅の里山は、一方でみかんの里でもあるのだ。

正月を越せるほどの量を買っても、千円しない。
ゆず湯用の柚は、100円でたっぷりの量を売っている。

冬は家族で、こたつでみかんを食べたのは、良い時代であった。
そういえば、みかん箱とか、りんご箱が木でできていて、これを机にしていた苦学生もいた。

わが家では、これを練炭コンロの焚きつけにして燃やしていた。
掘りこたつが練炭コンロだったのである。
電気こたつになったのは、いつの頃だったのか?

そういえば、ご近所では薪で風呂を沸かす家がチラホラあった。

手が黄色くなるまで食べたのは、それだけうまかったからでもある。
みかんには、ノスタルジーまでついている。

ポテチパンを食べてみた

昔ながらの町のパン屋さんも、とっくに絶滅危惧種になっている。

戦後日本経済史といえば、製造大企業を中心とした話ばかりだが、どうして商魂ゆたかで旺盛な職人や目利きがいる個人商店がかくも現れ、それがまたいかに商店街を形成したのか?についての話が埋まってしまっている。

ついでに、商店街の話となると、ぜったいに「復興」とかの話になるのが、ちょっとうざったいのである。
そこにまた、行政がからんできて、そうした話をするひとが、予算欲しさに行政に阿るからである。

ようは、商店街の復興なんてどうでもよくて、こんなふうに予算を使えば、なんかやっているように見えて、うまくすれば市会議員とかの政治家にも票になりますよ、という悪魔的な誘いにほかならない。

誤解をおそれずに何度も書くが、商店街の復興なんてわたしにはどうでもいいテーマなのである。
それよりもなによりも、個々の商店の魅力がなければ話にならないとかんがえているからである。

だから、商店街の入口アーチだけが、ここがその昔、商店街だった名残になっている人通りが絶えた道路に、ぽつねんと行列ができる店を見つけると、かならずチェックしたくなるのである。

たとえば、静岡県冨士市の吉原商店街は、かつての一大宿場町であったのが、商店街に発展し、いまは典型的シャッター街を形成しているのだが、ここにぽつねんとある、「フルーツ屋」さんは、全国に名を馳せた名店なのである。

八百屋さんではない。
果物専門だ。

あるいは、横浜駅から徒歩圏の、平沼橋商店街にも、常に行列ができる蕎麦屋がある。

最近になって、この蕎麦屋周辺にこじゃれた飲食店ができてきて、ほんの少しだけだが、商店街らしさを取り戻しているのはご同慶に堪えない。

蕎麦屋をあきらめた空腹需要に応えているのはコバンザメ型の出店なのだろうけど、こんどはその店を目指して来客がふえれば、もうそれは立派な飲食街になり得るのである。

つまるところ、行政の介入などぜんぜんひつようないのである。

これは、文学でいう、「古典」とおなじなのである。
名作はしぜんに読み継がれるものだし、たとえそこに意図があったとしても、読後感に共感がある本物ならば、やはり時間の風雪に耐えることができるからだ。

そうやって生き残ってこられた店には、もうそれだけで価値がある。

それが対象が、たとえコッペパンであろうが、コロッケであろうが、人間の舌の記憶になれば、「ソウルフード」となる。

横須賀市といっても、ほとんど横浜市金沢区に近い追浜の国道沿い商店街に、忽然と現れる「パン」の文字。

じつは金沢区総合庁舎の売店でも売られているのが、「ポテチパン」だ。

製造元が複数あるので、それぞれのバリエーションがある。
追浜駅から国道一六号を横浜方面に少し歩いた先に、その一軒、「北原製パン所」がある。
ここのは、御手洗団子風に独特の甘さがある。

発祥の地は、「中井パン店」で、こちらは米海軍基地よりずっと三浦半島の先にある。
どうやら、売れ残ったポテトチップスを大量に持ち込まれて、「発明」したそうな。

てっきり、アメリカ人の好みかとおもったら、ぜんぜんちがう理由だった。

「海軍カレー」とか、「横須賀バーガー」とかと、名物に美味いものなしの格言通りの名物が有名だけど、それとは一線も二線も画すのが、この「ポテチパン」なのである。

心して味わうべし。

DMOは必要なのか?

 Destination Management Organization の略語である。

もとが英語だから、すくなくとも外国からやってきた概念のことだとわかるが、その根本に、国連の専門組織、国連世界観光機関(UNWTO)が発信源だときけば、いかに邪悪で怪しいものだと自己紹介していることがわかる。

しかし、国連が美しい人類の理想だと、ウソのようにこんな「ウソ」を子供時代から擦り込まれた日本人に、その邪悪さを説くものの邪悪が非難されてしまうのである。

しかし、ここでへこんではならない。

国連というから勘違いする。
ちゃんと、UN(連合国)といえば、わが国の若者たちが死してなお憎んだ対象なのである。

知覧の「特攻平和会館」は、時の政府や軍に欺されて散った若者たちの無念の宝庫なのではない。
彼らは、真剣に、敵たる米・英を鬼畜だと論理的に結論づけていたのである。

その鬼畜の正体こそ、戦争屋(アメリカ民主党、ネオコン)のことである。

つまるところ、現代の18歳成人の知見をはるかに上回るひとたちの、みごとな世界情勢分析の記念館なのである。

おそろく、いまの後期高齢者にも理解不能な知的レベルなのである。

だからこそ、「国連がいっている」というだけでの思考停止が、驚くほどの知的劣化を伴って、公金を使うしかないDMOなるものを白昼堂々と正当化している。

驚くほど、この議論に、地域住民の声は無視されている。

観光地だから、観光業の好きなように従えという、全体主義なのである。

それを、わが国では、観光庁なる国土交通省の外局が堂々と旗を振っている。
ここに、自民党・公明党のグローバル全体主義の根本がある。

だからこそ、DMOの議論では、かならず「財源」の話題になる。

国家予算の逼迫が原因だと騙して、「観光税」を徴収したいのである。
それで、具体的には、「入湯税」と「宿泊税」のふたつがかならず対象になるのである。
しかも、共通しているのは、「法定外の税率上乗せ課税」すなわち、「法外」なのだ。

国会を通過した法にないのに、自治体が議会を通せば勝手に税率を決めて良いというのは、白昼堂々の憲法違反ではないのか?
これを、法治国家というなら、西部劇に出てくる邪悪な保安官が治める街だって、法治になる。

それに、観光客から観光税を法外に徴収すると、観光振興になるという理屈はどのような論理から結論づけられているのか?

住民が無視されるのは、住民からの徴収ではないということだけを根拠にしている。
しかし、元住民であろうが容赦なく法外な税がそこの住民ではない日本国民に課税され、さらに外国人だからいいじゃないかというのは、憲法が禁止する差別である。

それでも平然としていられることのこたえは簡単で、憲法も観光振興も、どうでもよいからである。
ほしいのは、観光業者による略奪が合法であることに尽きる。

さっそくDMOを設立した、神奈川県箱根町の観光資源のひとつに、「箱根関所跡」があるが、この町は町をあげて「みえない関所」を建てて、通過する観光客から法外な税を取ると決めた。

なるほどこれは、かつての「雲助」の子孫たちだからか?

すると、観光客は箱根で雲助からの略奪を今風に実体験ができる、というアミューズメント・エリアになっている。

このエリアを、そのうち、「国立公園」というにちがいない。

さてそれで、法外な課税を地元自治体にさせて、そのキックバックをもってDMOを運営する、という構図は、いま、自民党の派閥が捜査を受けている「政治資金の裏金問題」とどこがちがうのか?

これぞ、マッチポンプなのである。

観光業界には、まともな発展をとげてほしい。
そのためには、まともな発想がひつようで、すくなくとも国連世界観光機関(UNWTO)からの脱退とか、もっといえばパンデミック条約と本命の「規定改定」を試みているWHOも含めれば、もはやUNそのものからの脱退を率先して主張しそのための運動を開始すべきだ。

これが、まともな観光客への正しい町振興へのアピールになるのである。

「非核宣言都市」とかの意味のない看板を、「国連から脱退宣言都市」と書き改めれば、さぞや爽やかな気分で歓迎されて、それ以外の現実に戻るのが惜しまれることだろうに。

棄民か?民族保存だったのか?

横浜港の新港ふ頭あたりに、JICA(むかしは「国際協力事業団」、いまは「国際協力機構」)の「海外移住資料館」がある。

日本人は、「国際」が大好きだから、詐欺師は、「国際」を強調するのが相場だ。

それでか、外務省も、省内の最高級頭脳が集まっていて、たいていここから事務次官になった「条約局」が、いつの間にかに、「国際法局」というつまらない名称に変わっていた。

平和国家を標榜して、あんがいと頑固でもあったむかしの外務官僚で、一番骨があったのは、高島益郎氏(たかしま ますお、1919年 – 1988年)だったろう。
開戦の1941年に外務省に入省し、すぐに陸軍主計少尉となってシベリアに抑留され、足の指を凍傷で失ったひとが、後の波乱で駐ソ大使となったのは、ウソだらけ山崎豊子の『不毛地帯』より波乱万丈なのである。

こういう人物のちゃんとした評伝がない。

ちなみに、外務省は御高い貴族趣味が根強い役所だが、これは欧米列強のカウンターパートたちが皆、本物の貴族だったためである。

それでか、外局は、JICAしかないという奥ゆかしいことになっているので、あまたいる外務官僚の天下り先に苦慮しているから、ちょっとだけバカ正直なのである。

それでも、我が国の中央官庁にあって、職員数は少なくて40年前は4000人ほどであったけど、いまはしっかり肥大化して、6300人になっている。
本省が2800人、在外がその他だから、在外公館の方が肥大化したようにみえる。

バブルも含めた期間があるので、これからの縮小をどうするのか?

なお、国際法の国際とは、国をまたいだ戦争の始末のためであった。
いよいよ、「条約局」の平和から、「国際法局」の物騒に展開したのが外務省なのだが、これを指摘しない大ボケが保守論客というビジネス人種になっている。

さてそれで、どういうわけかJICAの施設に「移民資料館」があるのは、どうしてなのか?
国民の健康を阻害するためにあるような厚生省が、さっさと逃げて、おっとりしている外務省に押し付けたのかと疑うのである。

信長が切支丹・伴天連と付き合ったのは、鉄砲を刀鍛冶に作らせることに成功はしたが、火薬の原料になる硝石がわが国になかったためである。

もちろん鉄砲づくりも簡単ではなく、最大の難関は「ネジ」の作り方にあって、これを知るために堺の鍛冶屋の親方は自分の娘を香港だか澳門(マカオ)だかに嫁に出して、作り方を盗んだら離縁して帰国している。

なんだか、いまはその逆をやられていきり立っているのが保守の日本人になっている。

移民をどこまで定義するのか?という問題があって、人身売買で奴隷にされて東南アジアから果ては南米まで移動させられた人たちがいた、
南米には、そんな日本人が自由になるための裁判記録まで残っている。

なにも秀吉が切支丹大名をこらしめたのが最後ではなく、幕末から明治のはじめにも同様の日本人奴隷がいた。
この話しも、明治維新の闇の中に葬られている。

それから、日本政府は人口増大・食糧難をプロパガンダして、貧しい暮らしの日本人同胞を、さも夢の国として、南米への移民を奨励し、事実上の「棄民」をやった。

哀れなのは政府を信じた移民たちであったのは、なんと渡航費も自費で負担させたからである。

果たして、自由に土地を得られるとしたその土地は、アマゾンのジャングル・原生林であった。
これを、人々は「緑の地獄」と呼んだのである。

そこで、あきらめて死地をさ迷うかと思いきや、明治の教育、日本精神を発揮してとうとう一大農地に転換させる。

このひとたちが、南米に、いにしえの日本の記憶を刻んだのである。

そうやって、残った日本のオリジナルは、戦後にぜんぶ破壊の対象になって、とうとう日本精神のなんたるかを口にすることさえ憚れる日本になった。

ゆえに、いま、はからずも南米の「日系人」こそが、往年の日本人なのである。

NTT株とJTBのゆくえ

アメリカ民主党の子会社が自民党なので、その器の中がどうなっていようが、大勢に影響しない。

これは、吉田茂の自由党と鳩山一郎・岸信介の民主党という源流からはじまるのだけれども、この両派も揃って、GHQを水源にした流れだから、結局は、GHQ内の二派(民政局と参謀第二部)とかなんとかの事情にまで遡ることができる。

それでもって、アメリカ本国へと辿れば、民主党政権という鬼の集団に行きつくのである。

ここで、わが国にシーザーのごとく君臨した、マッカーサーの存在とはなにか?となるのは、日本人から仰ぎ見ることの因習でしかない。
彼は共和党からの候補として、大統領職を目指したとはいうが、明るいキャラクターの同僚将軍、アイゼンハワーにあっさりと敗れ去る。

しかしながら、マッカーサーがどこまで軍産複合体とベッタリだったものか?を考えたら、トルーマン民主党政権に解任されたことだけで、否定もできないのである。

「軍」とか「軍組織」について、一般の日本人は隔離病棟に入院させられたままなので、どのようになっているのかさえ、階級を提示されてもピンとこなくなった。

「徴兵」というと、骨髄反応するひとが多数になったけど、この制度がどのように社会に影響したのか?という側面を完全に無視しているから、ただの平和主義ではない、絶対的平和主義に怪しさを感じたのだった。

一般人が兵役につくと、職業軍人たちだけの組織にどのような副反応を与えるのか?

これには、二通りあって、単なる「兵卒」として消耗品だと割り切るか、朱に交わると赤くなるかということでの、後者が案外と影響するものだ。

それが、あんがいと戦後すぐに作られて人気シリーズとなった、『兵隊やくざ』である。
父は海軍の志願兵だったので、「陸軍のことはしらない」といって、あまり興味を示さなかったが、元陸軍の知り合いが訪ねてきて、嬉しそうにこの映画の話をしているひとがずいぶんといたものだ。

リアルな軍を知っているひとたちが楽しんだのだから、史実とまではいわずとも、リアルに近しいエピソードがちりばめられていたにちがいない。
そうでなければ、あの時代の日本人に受けるはずもないからだ。

しかしてこれも、WGIP(War Guilt Information Program)の一環だったのか?どうなのか?

そんなわけで、売国を基本的なビジネスモデルにしているのが自民党であるから、売国政治を保守する政治を、略して「保守派」と呼んでいる。

その自民党保守派が、いま話題の「安倍派」ということになっている。
それでもって、その重鎮が政調会長の辞表を出しても後任が決まらない状態だ。

しかして、この八王子を拠点とする人物は、NTT株売却を旨とする、「NTT法廃止」の党側提案者なのである。

つまるところ、NTT株を手にしたい外国勢力からすれば、やめさせるな!ということではないのか?

そんなこんなで、円安の内(向こう半年ぐらい)に超割安でわが国の通信インフラが外国に引き渡されようとしているのである。

一方で、JTBは、旅行会社の機能を放棄しだして、なんだか得体のしれないコンサルタント業に移行したいらしい。

だからか、外国人がJTB株を買い付けている話もきかない。

Googleマップでなにをはじめたのか?をしっているから、東大卒の集団、JTBは、敗戦を決め込んだのであろう。

すると、日本人の若者はこれらに就職しても先がない。

どうしたものかをいつからかんがえるべきなのか?

親が大変なことになるのだが、どうもそうでもないのが気にかかるのである。

2025年問題まで1年

「2025年問題」とは、わが国の人口構成の、いよいよ3分の1が65歳以上の高齢者になる年だという意味だ。

すでに女性は、50歳がひとつの境界線になっていて、ここで女性人口が半分になっている。
つまり、日本人女性の年齢中央値は50歳を超え始めている。
全体では、48歳で、すでに世界一(人類一)の高齢社会になっている。

外国と色々比較するときに、このことをついうっかり忘れて、日本が「遅れている」とかという習性が抜けないでいるけれど、いろんな人生の経験値を積み上げて、「先行しすぎている」ともいえるから、単純比較すると痛い目にあう。

たとえば、「先進国」という自負も、80年代からのバブルで世界最高峰を極めたが、その後の衰退で、もう「途上国」になったのだけど、今でも先進国だという思い込みをしているので不始末が起きる。

ちゃんと、国権の最高機関である国会(第169回:2008年)で、大田弘子大臣の歴史的「経済演説」での、もう経済でも一流ではないと記録に残してくれている。
15年も前のことなのである。

それから、日本経済が一流に戻ったことはない。
この演説内容を理解できるのが、経済学部2年生か3年生なら、いま35歳ぐらいになっている。

なので、これより若い世代は、日本が先進国だと本気で思っているはずがなく、バブル期に豪遊した後期高齢者とは、おなじ国民とは思えないほどのギャップがあるはずだ。
しかしてそれは、特攻で散ったひとたちと、戦後生まれ(団塊の世代)のギャップに等しいともいえる。

そんなわけで、人口動向(予測)は、数学的な予測がかなりの確度で計算できる。

わたしが二十歳になった頃には、40年後の高齢社会が新聞の一面を飾るほど大々的に報道されていたものだ。

それであるとき、同級生たちとの話題で、『嫌だね年寄りばかりの国になる』とかいう仲間がいたから、自分の年齢に40を足していなかったの?と聞いたら、えらく驚いたのでこちらが驚いたのを覚えている。

俺のことか!

永遠なるもの、というのは、例えばクレオパトラが「永遠の命の薬」を求めていたとか、始皇帝も言い方はちがうが同様に「不老不死の薬」を求めさせて、やってきたのが日本だったとかというのはみんな、おとぎ話かと思っていたものだ。

石でつくった遺跡が、永遠の都を思わせるのも、おそらくすさまじい技術で建造されていたからであろうけど、形あるものは皆失われるの言葉通りで、例えば、ニューヨークの摩天楼だって、千年後にどうなっているのかはわからない。

その廃墟の衝撃を映像化したのが、『猿の惑星』(1968年)だった、

企業には、ゴーイング・コンサーン(継続性の原則)があるというけど、現代世界に現存する世界最古の会社は、大阪の天王寺を聖徳太子からの発注で建てた「金剛組」が、飛鳥時代から続くのであって、それからしたら、千年続く企業は現代世界に存在しない。

ヨーロッパ人たちがだんまりを決める分野なのである。

株式会社ならよほど継続するだろうというのも、あんがい見せかけで、株式会社「だから」寿命が短いかもしれないのである。

なので、千年前のひとたちから今がどう見えるのかを想像すれば、例えば、外国人で再びあふれかえるようになった京都の「御所」(いまでは「御苑」ということも含めて)が、まさか一般開放されてしまうとはかんがえも及ばないことだし、町全体の壊滅的な状態だって、応仁の乱からの「復興」とはぜんぜん思えないにちがいない。

ならば庶民はどんな気持で生きていたのか?について、わかるものが残っていない。

あの『万葉集』だって、明治政府のプロパガンダだという説もある。
わたしは、この説は、山本七平の『現人神の創作者たち』と並べて妙に腑に落ちた。

そんなわけで、あれから40年を足した時間がとっくに過ぎて、数学的予測通りの「超高齢化社会」を迎えることになっている。

ところが、40を足すことをしなかったひとたちが大多数のようなのは、それがどんなことなのかについての覚悟も何もないからである。
これは、多くのひとを非難したいのではなくて、それがまた千年前からも同じだといういいたいのである。

美空ひばりの生前に間に合った、秋元康作詞と見岳章作曲の『川の流れように』(1989年:平成元年となったばかりの1月11日発売)が、驚くほどの時代の節目と合致して、しかもひばり自身も同年の6月24日に52歳の若さで他界したことは、宇宙の配列としか思えない。

ヨーロッパには、千年に一人といわれる歌姫、フィリッパ・ジョルダーノが、バチカンのサンピエトロ広場でクリスマスを盛り上げたけど、おそらく、それに匹敵するのは日本では間違いなく美空ひばりである。

その最後の楽曲が、まさに「川の流れように」人々の心のなかを流れていって、そのままなのである。

「歌は流れるあなたの胸に」ではあるが、ときもなにも流れていく。
まさに、浮き草のごとくゆらりゆらりと流されていくのが人生だ。

その流れが、エネルギー・レベルになると、「生命」ということになるので、なるほど福岡伸一先生のいう通り、われわれの中もエネルギーは流れているだけなのであった。

ここで、虚無主義をいいたいのではないけれど、そんなものだ、ともいえるし、それに抵抗するのもまた人生で、どうやら抵抗したい方が性に合っていることに気がついてきた。

そうすると、大河の流れにとにかく身を任せてしまおうというのが、自民党政治で、もっと早く行き着くところ(舵はないけど)にエンジン全開で行くのだ!といっているのが、おそらく河野太郎氏などなのである。

これを総じて、日本的エリートというのだから、やっぱり抵抗したくなる。

バイデン氏の子息は、議会からの召喚状(出頭命令)を無視して議会侮辱罪を適用されるのが「得」だと、損得勘定したようで、その議会は、正式にバイデン大統領弾劾調査の開始を議決した。

これで、ホワイトハウスの官僚、外国の金融機関、外国の企業なども議会が調査できる権限を得たので、上院で弾劾決議がされなくとも、その「罪状」がアメリカ人だけでなく世界中に晒されることになった。

一部マスコミが「流れ」を読んで、トランプ非難からバイデン民主党への攻撃を開始している。

選挙は来年だが、政権交代は25年1月なのだ。

高齢化して生産力が落ちると決めつけているひとたちは、政府が金を配ってやるという社会主義の甘い汁を国民にまこうとしたら、その甘い汁の源泉をじぶんたちでしゃぶっていたことがバレたのだから、25年に向けて国民の目が覚めるようになるかにかかっている。