随伴的結果のスーパーチューズデー

アメリカ大統領選挙の一つの山場が、5日の火曜日である。

候補者を選ぶための予備選挙は、大統領選挙の本選挙と似せて、「党員票」の獲得競争をやっているので、各州に割り当てられている「党員票数」が過半数を占めたら、その候補者が最終勝利者として正規候補になる、という仕組みである。

たとえば、ある州の党員票数が10だとしたら、その州予備選の勝者は、「10票(ポイント)」を獲得する、という意味だ。

5日は、15州で同時に予備選挙投票がおこなわれるが、この日の得票総数は800票以上になる。
いま、トランプ氏は200票以上を稼いでいるけど、5日に全勝しても、半数の1200票あまりには届かないので、もうしばらくは「お預け」の状態となる。

ただ、唯一の対抗馬たる、ニッキー・ヘイリー氏が、ようやく負けを認めて「撤退」を決めたから、この時点でトランプ氏が事実上の共和党候補となった。

そのニッキー・ヘイリー氏への大口選挙資金提供者たちが、先に「資金提供からの撤退」を表明してきているので、金の切れ目が縁の切れ目になったのだろう。

だが、彼女は自身が2期もつとめたサウスカロライナ州知事だったのに、同州で惨敗するという醜態を国民にみせてしまったし、とうとう「撤退表明」の場でも、予備選のルールである、敗者は勝者を支持すると表明するのが常識であるのに、トランプ氏を支持するとは言わず、ますます政治的な立場を失うという代償を払ったのである。

一方で、あくどいことをやってもトランプ氏に邪魔したい民主党は、「裁判」を武器化して、あらゆる手段で、あたかも「場外乱闘」を仕掛けているので、観衆はこれに嫌忌してかえってトランプ支持が増えるという予定外なことになっている。

なんだか、『チキチキマシン猛レース』のようなのだ。

一応、経営学では、目的や目標の達成にまつわって出てくる、予期しない別の負の結果のことを、「随伴的結果」と呼んでいる。

そんなわけで、共和党の予備選挙は続くが、撤退したヘイリー氏などへの、「トランプ批判票」がいかほどになるかも注目されている。

「あぶりだし」の効果も、予備選挙にはあるのだ。

なので、民主党の側もおなじなので、こちらをみてみると、なんとバイデン氏が、アメリカ領サモアで、無名候補に敗れるという「波乱」があった。

現職の大統領が党内予備選挙で敗れたのは、ジミー・カーター以来の椿事なのである。

この小さな島における波が、いったいどうなるのか?
それに、「候補者なし」に投じたひとの「得票数」も歴史的であるから、民主党におけるバイデン人気の衰退はめざましい。

それに、前日に出た最高裁判決で、国会が大統領職を決める権限をもつ、という判決文を根拠に、民主党は大統領選挙に負けても、同時にある上院(3分の1の改選)・下院(総選挙)で勝利し、トランプ氏の当選を認定しないという手にかけるしかない。

だが、そんなにうまくいくものか?

現政権への大きな批判に、イスラエル・ガザ支援に対して反対の党員が多数があるし、かえって独裁色を強める政権は、国務省ナンバー2だった、あの女戦争屋、ヴィクトリア・ヌーランドをとうとう国務省から追い出すこととなった。

けれども、後任が注目される当然がある。

なにしろ、引退の理由は、もっぱら「ウクライナの失敗の責任」といわれている。
これがほんとうなら、『ロシアより愛をこめて』の、クレッブ大佐 (Rosa Klebb)のような、使い捨てにされる感じがする。

この手の独善的な政権(これが独裁の典型)では、失敗するとこうなる、という、子供向けのアクションドラマのような展開になるものだ。

もちろん、成功を重ねてきた本人の方でも、自分が失敗するとはおもっていない、ので、失敗の原因を別に求めるものだ。

じつは、その原因が「組織」に行きつくのである。

そして、失敗したひとの特徴は、「部下」に原因を押しつけるが、自分が設定した、「目的や目標」のまちがいに気がつかない。
それで、随伴的結果のブーメランを喰らうけど、これすら他人のせいなのである。

さて、トランプ氏とイーロン・マスク氏が会談したけど、マスク氏は寄付を約束してはいないと「X」に投稿した。

彼らがなにを定めて、どんな随伴的結果がでるのかは、これからのことである。

100倍のコロナワクチン被害救済予算

昨年が3.6億円あまりだった、「コロナワクチン被害救済予算」が、ことしは110倍の397億円以上が計上されていることが判明し、国会で首相に問いただしたものの、武見太郎の息子がやっている厚生労働大臣が、あたかも空母を守るために身代わりで「撃沈」する駆逐艦の役を担った忠誠の場面があった。

しかも、この答弁は、「専門家が安全だといっている」という、論理のすり替えをもって押し通したから、もしもわが国がアメリカのような訴訟社会であれば、ここで大臣に指摘された専門家たちは、将来の損害賠償請求を覚悟しないといけなくなる。

しかし、そうなると政府の審議会委員にだれもなり手がなくなるので、きっとアメリカよりも腐っているわが国の司法は、「審議した結果の誤謬」は問題とせずに、審議会の存在意義を優先させた判決文を作文するのだろう。

つまるところ、裁判官も、わが国の主権者は国民ではなく、行政官僚であると認定するのだとかんがえられる。

これが、わが国の「法秩序」だと。

すると、学校教育でやっている、「日本国憲法」の教え方が、まちがっているということになってしまう。

それで、文部科学省の官僚は、そんな判決すら無視してもおとがめはないことになる。

そうやって、テストの設問にもなんら変更を加えないから、勉強優秀な子供たちは、左翼思想を自らたたき込む努力をして、偏差値エリートになっていくし、左翼思想の教師と保護者たちを黙らすことで、面倒を避けるのである。

そんなわけで、SARSのときのわが国厚生労働省のことを、「The Ministry of kill」と呼んでいた外国人エリート金融マンたちがいうように、「殺人省」となっても、シブシブ被害国民を救うという態度だけは保持しているのは、騒がれると面倒だから、という理由に過ぎない。

どうせ、役人たちが自腹をきるわけではないのである。

すると、菅直人という自己顕示欲しかない人物が、厚生労働大臣だったときに、薬害エイズの被害者に土下座したのは、なんのことだったのか?

菅直人氏は、いまこそ元大臣として、強力な苦言を武見大臣に呈しなければならないが、気配もない。

さて、問題なのは、予算(カネ)ではなく、被害状況なのである。

死亡と後遺症の両方があるけど、政府の専門家たちがいう「安全」という判断の思考停止は、こうした被害の実態をみないことにする、という「データ改竄」をやっているからではないか?と疑うのである。

ようは、審議会では、厚生官僚がつくった資料だけで判断して欲しい、とあらかじめ指示されて、勉強だけをやってきてなお研究予算が欲しいだけの「乞食学者」を選抜してできているのが、審議会だからできる技である。

残念なことに、わが国では国会と行政省庁の力関係が逆転しているので、国会の厚生労働委員会に審議会や研究会がなく、あくまでも行政側につくられて情報統制も同時に完結してしまうのである。

この意味で、国会機能として「正常」なのは、国立国会図書館だけ、という無様なのである。

諸悪の根源に、予算編成「権」が、財務省にあって、税の徴収「権」も財務省にあることで、予算の執行だけに徹するようにできていない。
加えて、立法府なのに、行政府にある内閣法制局が、事実上の立法権まで握っている。

予算の編成権は、国会になければならないし、立法権を取り戻さないといけない。

しかしながら、女性議員と外国人の不倫問題がさも重大事件だと、国民を欺く努力に余念がないマスコミは、徹底的に政府予算に依存している経営体質に変容した(国民が購買しない)ので、あまねく「お国=行政」に日和って、ちょうちん記事を垂れ流すのである。

こうして、国民に政治不信を煽れば煽るほど、近く予想される総選挙の投票率がまた落ちて、与党に有利なるという、選挙運動をはじめている。

そのために、こうした議員のひとりやふたりが落選しても、どうでもいいのが「党組織」の論理なのである。

ほんとうの被害状況は、おそらくこのまた100倍以上あるのではないか?

接種開始当初、薬害エイズ事件から参議院議員になった、川田龍平氏は、「史上最大の薬害事件にならなければいいが」と発信していたけれど、この懸念が現実になったのは、彼自身が厚生行政の被害者で、大臣が土下座したとてなにも体質が変わっていないことを熟知しているからだろう。

世界で、「超過死亡」が話題になっているなか、国民一般で「超過死亡」という言葉すらしらないのが日本という状態になっている。

アメリカ連邦最高裁のスピード判決

「スーパーチューズデー」の前日にあたる、4日、アメリカ連邦最高裁は、トランプ氏の大統領選挙出馬資格に関する判決を下した。

そもそもの発端は、昨年末(12月19日)に「コロラド州最高裁」が下した、「トランプ氏を州における大統領予備選挙での候補者名簿に記載しない」ということと、28日にメイン州の州務長官(選挙事務を取り仕切る)が行政命令として「剥奪」したことが起点だったから、トランプ氏側が年初に連邦最高裁へ上告していたことの判決である。

なおつい最近の2月28日にも、出生不明者のオバマの地元、イリノイ州地方裁が同様の判決を出している。

つまり、上告からわずか2カ月あまりのトップ・スピードで、9人の最高裁判事たちが判決文を書き上げた、ということなのである。

結果は、「9対ゼロ(「反対意見なし」)」の、トランプ側の完全勝利であった。

これで同様の反トランプ側=全体主義側が、全米45州で一斉に仕掛けた残り88件の「選挙資格剥奪裁判」が、この判断でぜんぶ雲散霧消の消滅をした。

だがその名目は、すべておなじで、「民主主義を守るため」であった。

民主主義を守るために、特定人物の選挙での立候補資格を剥奪させるようにするのは、民主主義なのか?という疑問すらもっていないのが、訴える側の「政治的立場」だ。

つまるところ、魔女狩りとおなじ「政治裁判」なのである。

ときに、アメリカの最高裁を含めた連邦判事は、大統領が指名することになっている。
それから、人事権をもつ連邦上院で過半数の承認をもって就任が決まる。
トランプ政権時代、3人もの判事を指名できたのは、本人の引退表明やら死亡が原因だった。

アメリカの最高裁判事は、「終身」職だからである。

「終身雇用」を謳っていたわが国に、じっさいの「終身職」は、使用人の立場ではほとんどなかったけれど、アメリカの一流企業も連邦上級公務員(SES)ではあんがいと「終身雇用」をやっている。

日本でサラリーマンが、「終身」になれるのは、取締役に「あがった」ときからのことでしかない。
あとは、「定年」という、特定年齢になったときに容赦なくやってくる、「解雇」であった。

こんなことが、「終身雇用」といわれたのは、寿命が短かったからである。

こんな単純な定義を忘れる間抜けが、世界一の長寿国になって、「雇用延長」という、どこからどうみても「同一労働同一賃金の原則」から外れていても、奴隷根性のままでいるから本物の「奴隷」として働き続けるのを「ふつう」だと思うのである。

そんなわけで、全体主義の民主党は、地団駄を踏んで悔しがっているようだけど、一連の「トランプ裁判」では、かえってトランプ人気が高まるという、「随伴的結果」が顕著になったので、おそらく「ホッとしている」側面もあるだろう。

これで、「トランプ裁判」は、下ネタがらみのでっち上げ民事訴訟が2本と、政治がらみの刑事訴訟が5本となった。

興味深いのは、「世界最高峰」を自負する、ハーバード大学やらの有名「法学部」が、こうした、「司法の武器化」に対して、ろくな反論をしないばかりか、むしろ後押ししていることが、着々と記録されて、将来の大禍根をつくっていることにある。

「法による支配」なんてきれい事が通るのか?それとも「人治主義」の暗黒がまかり通るのか?の、分かれ目を、トランプ氏が世界人類にみせているのである。

それにしても、まさかスーパーチューズデーの前日という、おそろしくも政治的な日程で、連邦最高裁が判決を出したのは、同様な日程を組んで、トランプ陣営への選挙妨害を画策していた民主党・検察官の上をいく。

なんだか、「ハムラビ法典」を地でいくのが、やっぱりどこか野蛮な匂いがするのである。

「むかしばなし」をつくる

現存するわが国最古の「物語」として、「竹取物語」がある。
驚くべきは、その話を日本人ならいまでもだれもがしっていることにある。

一応、この作品のジャンルは、「おとぎ話」ということになるという。

かぐや姫が、月に向かうなど、「荒唐無稽」をもっていうらしい。
残念ながら、かぐや姫をとりまく月世界のひとたちが、どうして移動できるのかとか、なぜに竹の中に乳児がいたのか?などの説明を一切してくれないなので、「SF(Science Fiction)」とは認めてもらえていない。

作者も、正確な成立年も不詳のままだが、どうやら「かな」で書かれたことは、まちがいないようである。

すると、作者はやっぱり宮廷の女性なのか?

貴族たちの生活のありさまに詳しいからであるし、なんとも貴族の男性を皮肉っている、上から目線なのも、「女尊男卑」の日本らしさにあふれている。

わが国があたかも「男尊女卑」に逆転したのは、鹿鳴館での連夜の夜会をもって諸外国と対等のように振る舞ったのと同様の浅はかがある。
けれども、「華族」すら、家政は正夫人の専権事項で、主人も口に出せない、「女尊男卑」が本音の常識だったからできたことでもあったのである。

なので、「文明国」として、男尊女卑を見せかけにやっていただけなのだった。

この意味で、ヨーロッパにおける発想の野蛮さがわかる。
彼らは、女性を「所有物」としてかんがえていた。

ただし、女性側は敬虔さと神秘をもって、女尊男卑の発想があり、女性に参政権を付与しようという男性に大反発して、パリのシャンゼリゼを100万人のデモ隊で埋めたことがあったと書いた。

子どもを産むことができる、神聖な女性を、「汚い政治の世界」に入れとは、バカにするにもほどがある、ということだったのである。

いまでは信じられないだろうが、事実、である。

しかし日本でも、衣食足りた70年代になって、突如、「ウーマンリブ」なる運動がおきたらしく、学校から帰った小学生も観ていた、午後のワイドショーには、そのリーダーたる女性たちが憤懣やるせない激烈な言葉を述べて、その上の世代の割烹着がトレードマークだった「主婦連」を圧倒していたものだった。

わたしの祖母は、「なんだいこのひとは?旦那はどんな顔をしているんだろうね」と言っていた。

「若い時は親に従い、盛りにしては夫に従い、老いては子に従う」というのも、あたかも日本オリジナルのようにするためか、日本では、女子教育のなかでいわれてきたというが、実際は、中国の「礼記」に由来する三従の教えのことで、「漢学」の分野にあたる。

これをよく読むと、「女尊男卑」がにじみ出るから、日本でも女子教育に採用したのだろう。

平安貴族の女子なら、父からの直接的な手ほどきで、文芸を学び、結婚すれば家政を仕切りつつ、子に教育をほどこして、老いたらその子に従うのは、どのように育てたかの結果確認のことなのである。

つまり、ぜんぜん従属的な意味での「三従」ということではない。
これが、日本的解釈なのだ。

その典型が、秀吉が生涯頭の上がらなかった、北政所たる「おね」さんであり、山内一豊の妻、見性院なのであった。

世の人は、「内助の功」というけれど、実態は、完全なる「女尊男卑」であったといえる。

さて、それでは、現代における「むかしばなし」の創作は、なにを子供への説話・教訓や寓話としての意味を伝えるべきなのか?

「多様性」という言い方の建前のおかげで、基準を壊すひとたちが威張っているけど、あんがいと、「いきすぎた多様性」が人々のストレスを限界にまで高めて、超新星爆発のように、自己崩壊するのではないか?

これからの作話者は、量子論やら宇宙論を基礎とした、SF神話を書く時代になったようにおもえる。

すると、基礎構造に「竹取物語」のような、「おとぎ話」がないと、はなしにならないのではないか?

子供をワクワクさせるのは、えらく困難な時代になったことだけは、確かなようである。

いいひとは「言ってはいけない」と言う

むかしのアルコール類のCMに、「いいひとって寒いですね」というセリフがあった。

だから、酒でも飲んであったまりましょう、ということなのだが、「あったまる」ということにも気をつかったのが、むかしの宣伝マンの常識だった。

スキがないのである。

これが一流のコピーライターの仕事というモノで、その仕事を評価できるひとがいた、ということである。

だから、ひとはこうしたコピーを「すごい!」といって持ち上げるけど、ほんとうにすごいのは、これを決済して世に出すことを許した上司であった。

明石家さんまが軽く、「しあわせってなんだろう、なんだろう、キッコーマン、キッコーマン」と言ったのは、いまでも傑作のひとつだろう。
家族が囲む食卓にこそ、しあわせがあって、そこにはかならず「キッコーマンの醤油がある」と、日本国民に擦り込んだのである。

だから、宣伝の部下と上司の間には、できるモノ同士の一体感があって、それが信頼関係になっていたのである。

むかしは「ポリコレ」なんて言い方はなかったけれど、もっと「上」からの命令が、「ことば狩り」になって、言っていいこととわるいことを決めるのが上司の役割になってしまったので、いよいよパワハラの時代がやってきた。

そのことのはじまりは、明治「新」政府がけっこう早い時期からやっている。

それもこれも、江戸幕府のやり方(言論統制)を真似たという話があるけれど、明治新政府がやったのは英国流の最新(プロパガンダ)を導入したことであった。

なので、古い江戸幕府の伝統的やり方に沿った、宮武外骨が反発したのであった。

ところが、そんな政府やらGHQやらの言論統制が、「ふつう」になったので、これを悪用の統合で日和った「言論業界」のひとたちがカネのために、なんだか「業界倫理」になってしまった。

それで、一般人のまじめで進歩的なひとたちには、「道徳」に変容して、とうとう言論統制を個人の会話で言うようになったのである。

それが、「それは言ってはいけない」のひとことなのだ。

たとえば、バスや電車の中で平然と大声で通話をしている外国人に、「土人」と言ってはいけないとかがある。

おなじ場所で下車して、「土人がうるさいんだよ!」と、その土人に聞こえるように言った(残念ながら聞こえていないらしかった)ら、「土人なんて言ってはいけない」と日本人の友人にとがめられた。

でも、「こいつらは土人に違いないから、土人に対して土人と言わないのは失礼だ」と言い返したら、もっとその友人はわたしに対しての怒りを露わにするのである。

とにかく、土人に向かって「土人」と言ってはいけないらしいから、だったらなんと言えばいいのかと聞いたら、彼はことばを失った。

なんと、彼自身も「土人」にかわることばをしらない。

「もしもし、そこの未開人のひと、ここでの通話は遠慮なさい!」では、やっぱりはなしが通じないことはわかっているようである。

まさかとおもって、「土人」を差別と思っているのかと聞いたら、やっぱりで、「差別と区別」が使い分けできないのである。

だから、『ちび黒サンボ』が排除されたことも、よくかんがえてはいない。

いまでは「禁句の塊」の物語ではあるけれど、わたしは、この物語の主人公、ちび黒サンボの機転にえらく感心したのである。
この物語は、けっして「ちび」であるとか「黒」であるとかは関係なく、むしろこれらを礼賛している先進性の方に重点がある。

このはなしでは、上にいう「土人」が想像もできないからである。

これをいうと、彼も同感だという。
ならば、なにが問題なのかと問えば、やっぱり答がないので、これ以上追及したら人間関係がこわれるのでやめた。

それで困った彼は、わたしの頭を、「バカ珍が」と言って軽く叩いたのである。

「言語」が詰まった結論である。

そんなわけで、「土人には土人と言ってあげる」というのは「善意」であることがわかる。
差別ではなく、あくまでも区別だ。

じつは、もっと恐ろしいのは、「黄禍論」なのだ。
白人は、黄色人種をどのように蔑視していたかがわかるし、当然だが、いまも「深く潜行している」だけで、本質的な蔑視感覚はなにもかわってなんかいない。

それが証拠に、白人主義者のはずのトランプ氏への黒人やエスニックの支持が急速に広がっていて、とっくに「人種差別はいけない」と口だけの民主党バイデンへの支持を超えてしまった。

言葉がでてこないほどかんがえが薄い脳天気な日本人のために、あの森林太郎(鴎外)が、国会図書館に『黄禍論梗概』として、明治36年の早稲田大学にての「課外」講演録がのこっている。

これをくだんの友人は、みることも拒否したのである。

さてはこの6年後に、『横浜市歌』を作詞(明治42年)した、森林太郎である。

しかして、こんなことをいまの横浜市の市長も職員も、しったことではないし、「言ってはいけない」になっているにちがいなく、まじめな市民を洗脳しているのである。

「春闘」もやめられない

昨年4月6日付けの「The Asahi Shimbun Globe+」の記事は、「春闘はもう時代遅れなのか」だった。

このブログでは、「慣性の法則」について書いてきている。
それが、「春闘」にも働いているので、残念ながら、上の朝日新聞社の主張ような立場をとらない。

人間の所業は、たいがい「よかれ」としていることが原因で、はじめから悪意でもって行えば、そう遠くない将来に必ず化けの皮がはがれることになって、自滅・終了する。

たとえ数代・数百年の時間が悪意による地獄のような社会でも、かならずどこかの時点でひっくり返るのは、歴史のしめすところなのである。

つまり、「悪意」による行動は、いつかそんなに遠くない将来に、「おわる」のだが、善意による行動は、ついに慣性の法則が働いて、わけもなく延々と続いて迷惑をまき散らすのである。

すると、元の「善意」の中身が問われるのは当然なのだ。
これを、朝日新聞社の記事は書かないから、ダラダラとした議論になる。

その原因に、「浪漫主義」の影響があるのだと、バビットの『人本主義(ヒューマニズム)』ではこき下ろしている、のだが、翻訳者は朝日新聞社のようなことを書いて、逆にバビット批判を展開しているのだった。

きっと、上の記事を書いた記者は、いまようの学業の優秀さ(偏差値の高い大学にいただけの理由)で入社したろうし、その上司たちもおなじ理由での入社だろうから、どんどんと中身の薄い記事しか出せなくなるのだが、書く記者よりもずっとエラい上司の編集者の中身が薄ければ、記事が薄くなるのは当然だし、そういった記事をはじめから書かないと活字にならない。

そんなわけで、『限りなく透明に近いブルー』のように、ついには訳の分からんことになって、読者そのものを失うのである。

さてそれで、春闘をかんがえるということは、労働組合をかんがえることに相違ない。

労働組合を、資本家との対立構造に設定したのは、天下の詐欺師、マルクス=エンゲルスの両人だった。

人間の脳は、最初にインプットされた情報をもって支配される構造になっているので、いったん「資本論の欺瞞」が入り込むと、これを排除・クリーンアップするには、かなりの自浄努力を要する。

この世に、マルクスもエンゲルスも、存在しなかった、という状況を脳内につくることが、じっさいには価値のあることなのだが、集団でこれをやるのが困難だから、慣性の法則が作動するのである。

逆に、マルクスとエンゲルスの言い分を信じると、ソ連やらの社会になって、中世の暗黒が天国に見えるほどの悲惨がやってくるのに、ひとはその現実を見ずに、理想社会の夢想に遊ぶことを選ぶのである。

なんだか、有名なテーマパークにひとが集まるのと似ている。

重要なのは、テイラー、フォレット、バーナードの「御三家」をもって、労働運動を再構築することなのだが、カウンターパートたる、経営者団体が、すっかりマルクスとエンゲルスの欺瞞を、学生時代に信じ込まされてきた、「勉強エリート」ときているから、はなしがこんがらがる。

それで、政府の役人もおなじ勉強構造にあったのだから、三つ巴のスパイラルになっているのがわが国で、「賃金が上がらない原因」を構成しているのだ。

つまるところ、「再教育」がひつようなのだが、もっとも再教育を嫌うのは、高給官僚たちで、中年以上の彼らは、「もうこれ以上勉強したくない症候群」に罹患している。

次が、「安全地帯」に無事逃げ込むことができた経営者(取締役)たちだ。

これら両者は、ともに、これ以上の努力はひつようなく、いまだけ、カネだけ、自分だけ、を謳歌したい、という自己満足の感情しかもっていない。

つまり、後のことはどうでもいいし、大企業なら「めったに潰れることはない」と高をくくっているにちがいない。

しかし、そうはいかないのが世界情勢というモノで、外国人による日本企業買いが激しくなるにちがいない。

すると、どうにもこうにも酷い目にあうのは、その他大勢の方になること必定で、これをどうするのか?が、ほんとうは労働組合の存在意義なのである。
しかしながら、上記ふたつの勢力が、団結を促すのではなくて、分断を促して成功している。

個の力では対抗できないから、結束をもって対抗するとしたはずなのに、個に分断されてこれに対抗できないから、どんどん組織率が低下している。

これはこれで、組織マネジメントの失敗なのである。

にもかかわらず、その重大な失敗を認めずに、ダラダラと春闘をやっているのは、やっている気になることによる、やっぱり自己満足だから、高給官僚たちと取締役たちと同列になっているのである。

だから、失望したひとたちがあらたに進んで労組組織に加入することすらしない。
徴収される組合費と、得られるメリットをちゃんと天秤にかけているからだ。

晩年のテイラーは、「精神革命」を叫んだけれど、どうやら頼みの綱として、労働組合の運営にも精神革命が必要になっている。

列に並んで待つことができない

いわゆる、「横入り」をすることもふくめて、列に並ぶ習慣がある民族と、できない民族とがある。

エジプトは英国の支配で影響が強く残るが、そのカイロの路線バスに乗るひとたちは、一切列をつくることなく、乗車口に群がって我先にと乗車していくさまは、わたしも毎日のようにみかけていたものだが、これを、ケン・フォレットが、『針の目』でも書いているので、妙に同感するのである。

欧州を中心とした、「史観」がふつうになってしまったのは、造船と航行技術のイノベーションで、他民族を植民地支配することでの「富」がある、という理由からである。

造船技術には、帆船(「帆」をもって風を推進力とした)の発明がふくまれる。

それでもって、丈夫な「帆布」は、ジーンズとなったりバッグになったり、あるいは、学校行事につかうテントになったりしている。

わざとだとおもうけど、古代ギリシア哲学からローマ帝国に歴史の舞台が移って、ローマ帝国が滅亡してもあたかも世界の中心がヨーロッパであったように錯覚させる努力がなされている。

ところが、イスラム世界の大発展が、じっさいはヨーロッパ文明を凌いでいた。

ユダヤ教 ⇒ キリスト教 ⇒ イスラム教 という、同根の宗教の当時の「近代化」で、最後に生まれたイスラム世界が世界の中心になるのは、当事者たちからしたら「当然だった」当然がある。

それが、大反動を起こして、イスラム教 ⇒ キリスト教 に戻って、ポルトガルとスペインが、世界制覇をあからさまにしたら、分家で飛び地のオランダと英国が、待ったをかけていまに至るヨーロッパの基礎をつくった。

人類は、この意味で、列に並べない民族と、よしんば列に並んでも暴力で横入りすることに心が痛まない野蛮人によって支配され続けているのである。

だから、上に書いた、ケン・フォレットの『針の目』における表記は、半分正解で半分はまちがっている。
彼は、紳士の英国人が教育・支配したのに、列に並べないと嘆いてエジプト人を観察しているのである。

日本人からしたら、横入りを当然として富を得たのが「紳士」だったろうに、とおもうからである。

しかし、その日本人も、明治維新で英国人を手本とするやからたちが新政府をつくって君臨したので、「退化」がはじまった。
だから、冗談ではなく、「明治維新」ではなくて、「退化の明治改新」とでもいわないと辻褄があわない。

これを、「長周新聞」が当時の風刺画を載せながらきっちり書いている。

当時の世界覇権国は、英国だったので、まだアメリカの出番はすくないが、この絵をみれば「日英同盟」の意味もとんだ欺瞞だとわかるのである。

その日英同盟を壊したのは、日本代表はなにも発言しなかった、とプロパガンダされて久しい、第一次大戦の戦後処理をやった、「ベルサイユ会議」で、あろうことか、「人種差別撤廃」という、人間としてちゃんと列に並ぶように、英国人に詰め寄ってしまったからである。

これをいわしめた日本人は、江戸時代生まれの「本物の紳士」たちだった。

それで、あくまでも他人には列に並ばせても、自分は横入りをする権利があると思いこんでいる英国とその股分のアメリカ人はこのときから、「仮想敵国」を日本に定め、第二次世界大戦を目論んだのである。

そのためのプロパガンダが、「黄禍論」であった。

あたかも中国人のことのようだが、そうではない。
日本人をもって、「黄禍」としたが、これをアメリカで推進したのは、ウイルソンのアメリカ民主党だった。

いま、この政党がいう「人種差別撤廃」のウソを見破った黒人やエスニックたちが、「民主党は人種差別政党だ」と発言し、トランプ氏支持を表明している。

ちゃんと列に並ぶことが、人類の共通になりつつあるのは、結構なことである。

フリーダム・コンボイよもう一度

北米大陸の主たる交通手段は、自動車であると誰もがしっている。
次が飛行機で、鉄道の影は薄い。

鉄道がいまいちなのは、「輸送密度」があまりにも低いために、かえってコストがかさむからである。
これは、わが国でJR北海道やJR四国が、どうやっても大赤字な理由とおなじだ。

どうして土光臨調は、こんな阿呆な「国鉄分割」をしたのか?
わたしにはぜんぜんわからない。

ちなみに、電気自動車や水素自動車が、クリーンだ、という知能がないひとが、電気で走る鉄道もエコで、ディーゼルの鉄道は遅れていると主張するけど、鉄道の場合は、線路がないと走れないので、「保線」というおそろしく手間と費用をかけないと、安全運行すらできないことも理解できない低能ぶりになっている。

こないだの上野を起点としていた新幹線が、ずっと止まって大騒ぎになったのは、線路ではなくて「架線」が切れたことによる。
電車は、架線がないと電気を得られない。

そんなわけで、人口密度が薄い大陸では、長大な距離のメンテをするのが面倒だから、アスファルトで固めるだけの「道路」を整備した方が、よほど安上がりなのである。

飛行機も同様で、飛行場さえつくれば、あとは勝手に目的地まで飛んでいくから、レーダー誘導とかの整備はいるけど、鉄道ほどきめの細かい整備が不要なので、北米の交通として利便性が高いのである。

問題は、ひとの移動ではなくて、モノの移動だ。

それで、日本ではあり得ない大きさの「大型トラック」が、物流を支えている。

弱冠25歳だったスピルバーグの低予算テレビ映画、『激突』(1971年)は、後の『ジョーズ』につながる構成でしられるけれど、NHK脳に染まっている世代では、主演の、デニス・ウィーヴァーが、『警部マクロード』だった方に記憶が傾いているにちがいない。

コロナ(風邪)に効くという触れこみの、得体のしれない注射を、アメリカとカナダを行き交うトラック運転手たちに「強制する」ことに反発して、ちょうど2年前、大陸を横断しながらオタワに集結したことは記憶にあたらしい。

カナダ・トルドー首相は、父親のピエール・トルドー首相(当時)が発動した、戒厳令を、これらトラック運転手たち(フリーダムコンボイ)弾圧の手段として、平時における初めての発動を強行し、支援者たちの銀行口座を凍結するまでの、あたかも共産党顔負けの施策を行った。

今年1月23日、「遅い」といえば遅いが、カナダ連邦最高裁は、このトルドー政権の強硬策を、「憲法違反」と認定して、政権はレームダック状態に落ち込んでいる。

さてそれで、ちょっと前に書いたけど、元アメリカ海軍情報局でユーチューバーの「MAXさん」によると、トラック運転手たちが、トランプ氏への不当な判決(ニューヨーク州)に抗議して、ニューヨーク市が受け取り地域の貨物輸送を拒否する運動を開始するという。

アメリカにおけるトラック運転手とは、基本的に個人事業主なので、こうした「抗議活動」が可能なのだ。

仕事は「選ぶ」という、ガチガチの免許制の日本ではできないことができるのである。

当然に、ニューヨーク行きの荷は、運賃が高騰するから、数倍になったら引き受ける運転手も出てくるだろうけど、このコストを負担するのは、結局は「有権者」たるニューヨーク市民なのである。

それに、物資の供給が絶える、という事態にニューヨカーたちの理解が追いつきそうにないために、目の前から消えていく光景を見てはじめて気づくことになりそうだ。

すると、この街に住める状態にならないほどのことになるかもしれず、「商都」としての機能不全が、世界経済に影響する可能性もある。


バビットの「人本主義」を読む

アーヴィング・バビットは、前に書いた「思考の三段階」で登場した、アメリカにおける数少ない賢人のひとりである。

どうして賢人がアメリカで数少ないのかといえば、アメリカ人が低脳だといいいたいからではなくて、清教徒が英国から逃れてきた歴史から、真に伝統的(古代ギリシア哲学から)な教養ある人たちの層がはじめから薄いのと、建国してから入国した移民たちが、さらにヨーロッパで食いつめた人たちだったために、より伝統的でいまでは想像もできないほどの分厚い教養を持った人が、より薄まったからだといいたいのである。

我われ日本人も、明治からの国が推進する教育制度で、賢人を育てることが困難になった。
だいたい70年でダメになるのは、御維新から敗戦まで、GHQの征服から2015年頃以降の現在と、あんがいと納得できる時間なのである。

かんたんにいえば、「金太郎飴」のように、一定のバラつきの範囲内での教育しか受けることができなくなったからである。

その一定の範囲のペーパー試験のデータから、単純に「偏差値を算出する」ことで、バラつきの中身の整理をしているにすぎない。

念のため、偏差値の計算式は、

(個人の得点ー平均点)÷ 標準偏差 × 10 + 50 

という、とてもかんたんな式なのである。

なお、「標準偏差」は、平均点からの差の合計の平均、というちょっとややこしい。
これを、ふつうに+-を足すと、「ゼロになる」から、計算方法として、平均からの差の自乗(正負を消す作業)した数字をぜんぶ足してから、平方根をとって元に戻すことで求めることができる。

読者が持っているだろう「ふつうの電卓」に、「√」キーがあれば、それは、この標準偏差を計算するためにあるものだ。
ただし、だいたい980円から手に入る「関数電卓」があれば、もっと便利だけど。

ヨーロッパでも日本でも、エリート層にはペーパー試験なんかなかった。

それで、ヨーロッパ人はこれを、「中国式」とよんでいる。
「科挙」のことで、いまではたいがいの国の公務員試験で採用されるに至ったが、それに反比例して、教養人が絶えた当然がある。

阿呆な企業は、公務員試験を真似た試験を応募した学生に課して「選んでいる」気になっているが、少子の時代にこれで済むとかんがえるのは、気が遠くなるほどわかっちゃいない証明なので、そんな企業に応募したら一生を棒に振るかもしれない。

さてそれで、『人本主義』(研究社、昭和9年)は、バビットの『What is Humanism?』の翻訳だと書いてある。
いまようなら、「ヒューマニズムってなんだ?」と無粋な訳とはせずに、なんかもっと格好をつくろった題をつけるのだろう。

訳者は、後年、英文学の大御所となる、弱冠28歳の上田勤氏である。

その「訳者の言葉」が冒頭にあって、上田氏はバベットを「ノーマルな人間の究極の理想と言ったものを、事新しく叫んで居るに過ぎない様に思われる」と、驚くほどの無教養ぶりを活字にして残してしまったのである。

それで、「こうした余りにも平々凡々な常識が、あらゆる点で極度の発達を遂げた現代に於いて、如何なる意義を有するかは、人各々その意見を異にするであろうが、ともかくも彼の人本主義の唱導が、彼地で盛んに議論されたと言う事実は、少なからず興味のあることだ」とまで書いちゃったのである。

最後に、「浪漫主義の長所美点にまでも眼を蔽うきらいのあることは、彼のために惜しむべきであろう」と、すでに世界にしられた大教養人のバビットを、28歳の日本人の若者が、上から目線で締めているのは、すでに「大御所」の貫禄如実といったところかもしれない。

ようは、残念ながら決定的に、「一周遅れ」、なのである。
ただし、上田氏を擁護すれば、上田氏の生まれは1906年(明治39年)なので、まだ江戸時代の教養(おそらくヨーロッパよりはるかに高度だった)が残存していたことからの、「なんでやねん」だとかんがえると、辻褄はあう。

わたしが気になるのは、ここで上田氏が称賛している、「浪漫主義」とは、ジャン=ジャック・ルソーに行きつく、実体は、文化破壊の全体主義のことを指している。

しかしながら、戦後、上田氏がわが国を代表する英文学者になったように、世界は、また、日本でも、教養を持っているひとを「人間」だとして重視する常識をヒューマニズムといっていたのが、浪漫主義=共産主義の蔓延によって、「人権にへばりついている人道主義あるいは博愛主義」を、ヒューマニズムに転化させたのだった。

この意味で、『巨人の星』の「星飛雄馬」も、公明党がいっていた、「ヒューマニズムの政治」も、バビットがいうヒューマニズムとはかけ離れた、ルソーがいう、「人権+人道主義」のヒューマニズムの逆転を基準にした用語になっている。

バビットのいうヒューマニズムとは、いわば、「貴族主義」のことであるが、単にカネや資産があって遊んで暮らすものを貴族といっているのではない。
「高貴」なるもの、という意味なので、現代のヨーロッパ貴族を貴族とはいわないであろう。

明治初期にわが国を訪れた本物のヨーロッパ貴族が、「日本人は総じて貧しい。だが彼らは高貴である」と、ときの日本人を評したのは、いまの日本人とは別の生命体のことを指している。

ここでいう「総じて」とは、一般庶民も含んでいるからである。
それは、当時のヨーロッパにおける「平民」とは、まるでちがう、という驚愕をいったのだ。
いまは、日本人全体が、当時の残念なヨーロッパ平民に成り果てたけど、これを、「欧米化」というのである。

人本主義は、紀律と選択の訓練をもって、個人の完成を目指す。
「禅」と似ているのである。
そうやって完成された個人の集合体があれば、なにもしなくとも「より良い社会をつくる」ので、はなから全人類の向上を目指すような嘘にまみれた大上段なことはしない。

真に教養あるものを人間として、これを中心にすれば、あまねく多数を導けるとしていた常識が、無教養でも一票の人道主義的平等主義が、あまねく多数を不幸にする現実が、バビットがいう警告の「新しさ」だったのである。

おそらく、上田氏は生涯を通じてこの訳出したバビットの真意を理解しなかったであろう。

そこに、大学組織や学会やら、彼を取り巻く人間環境が、浪漫主義であふれていたからにちがいないし、むしろ、ここで彼がいう「浪漫主義=進歩主義=社会主義=共産主義」つまり、嘘にまみれた大上段の議論をもっと礼賛したはずなのである。

こうして、上田氏だけではない、数多くの、「高貴」であるべき人々が、人権=人道主義=進歩主義」の先達になった挙句の不幸が、現代の格差社会をつくっている。

進歩主義による平等が、理屈通りの化学反応を起こして不平等をつくって止まらないのである。

なお、バビットは、人道主義を「ヒューマニテーリアニズム」と書いて、人本主義の「ヒューマニズム」と区別している。

なかなかに奥深い考察が、50ページほどのわずかなパンフレットに書かれているのである。

ウクライナ支援が日本防衛になる論理

全体でいくらになっているのか?が、わからない「経理」をやっているのが、日本政府の「会計制度」だから、ウクライナ支援がいったい全部でいくら?なのかもわからないのが実情になっている。

そんなばかな?というひとも多数だろう。
それは、一括計上されている「はず」という、思い込みである。

ご存じのとおり、わが国の国家予算は、一般会計と特別会計とに分類されていて、慣習として、「一般会計だけ」を国会審議しているから、「特別会計」は、国会議員といえども中身をしりえない。

ここで困ったことは、「慣習」が、「慣習法」になっていることだ。

「慣習法」は、もちろん明文化されていないものだが、じつは「最高度の法律」なので、これを変えることは、きわめて難しいために、国会で「特別会計」は、わが国におけるアンタッチャブルなのである。

これに切り込んだために暗殺された、といわれているのが、石井紘基衆議院議員(民主党)だった。

石井議員の後を継いで、今国会で、原口一博衆議院議員が特別会計について質問したのは、それなりの価値がある。

もちろん、原口議員も承知であるが、政府がはいそうですかと、特別会計の中身を披露するはずもないのは、前にも書いた、「裏金=萩藩における撫育資金」を、ロンドン帰りの伊藤博文がいきなり大蔵省の局長になってつくった「特別会計=裏金」だからである。

この意味で、現下における自民党の裏金問題は、ちっぽけすぎる。

一般会計予算がざっと100兆円(半分以上が国債発行による)けれど、特別会計は、400兆円ともいわれていて、その実態は、役人でも全体像を知る者はいないというのは、そういう仕組みになっているからだろう。

残念ながら、会計検査院は、なにもできないけど、いまも存在する変な組織となっている。
似たような組織に人事院があるけど、こちらはもっぱら公務員の給与やボーナスの引き上げを勧告する、おひとよしの仕事しかしないので、公務員からは「楽で良い」と評判をとって久しく、ために各省庁のやる気のない有能な職員の集合体となっている。

それでもって、一般会計も、省庁ごとに振り分ける、「縦割り」を旨としているので、各省庁でウクライナ支援予算がなんぼになっているのかを横串で足し算しないと、全体がわからないのである。

ならば財務官僚がしっているはず、というもの残念ながらそうはいかない。
役人は、いろんな方法で「隠す」ことを業務にしているし、内閣官房や内閣府(旧「総理府」)という、得体のしれない組織だってある。

もちろん、財務省の主計官(課長級)も、各担当は省庁別になっているので、予算全体を把握しているのではないし、最後は全部を足して「枠」に収めるようにしているけれど、鳩山由起夫内閣以来かいつからか、「枠(シーリング)」も外れて、なんでもありになっている。

でも省庁個別では、担当する主計官をごまかすのが困難なのは、予算執行状態(カネの使い途)も把握しているから、狐と狸の化かし合いになるのである。

その省庁側のタヌキとは、会計一筋のノンキャリア係長が仕切っているから、ほんとうの古狸に依存していて、キャリア官僚がなる会計課長は実務をしらいないままでどこかの部長だか局長に栄転することになっている。

なんにせよ、ウクライナ ⇒ イスラエル ⇒ イラン? ⇒ 東アジア(台湾)?、という順で、ネオコンの戦争屋たちや企む、武器消費ビジネスのための戦争で、いよいよ日本も巻きこまれる!というはなしから、全体主義のバイデン政権から、「ウクライナ支援と日本防衛がセット」にされて脅迫された可能性が高い。

いまウクライナ支援をしないと、日本防衛を援助しないぞ!

ちなみに、自分がネオコンの代理人であることを否定しない、図太い神経の、ビクトリア・ヌーランド国務副長官(代理?)は、「ウクライナ支援によるキックバックが、アメリカ軍事産業における高給を維持する経済効果をもたらしている」、と、その上司、ブリンケン国務長官とおなじ、アメリカ国内経済のためという発言をしている。

外国の戦争で、外国人が多数死傷することは、彼ら自身、「経済活動」だと言い切っているのである。

正直な愚か者どもだ。

前に『沈黙の艦隊』について書いたが、この「まんが」でいう、主人公が、世界政府をつくるのが目的とか、「核抑止力」についてもっともらしく語ることが、いまどきのプロパガンダだと指摘した。

世界政府は論外として、いまどきのわが国の「再軍備」とは、核運搬手段のミサイル制御を乗っ取る技術の実用化のことなのである。

それに、自衛隊の装備も、おそらく「実戦」ではぜんぜん役に立たないことが、ウクライナにおける米・欧の最新兵器が役に立たないことで、全世界が認識できたことでもある。

ポンコツを売りつける「見本市」だったはずが、とんだ恥さらしになって、ロシア製の優秀さだけが目立つこととなったから、BRICsに傾く国が、世界の多数派になったのである。

なので、そのうち「第二国連」ができるはずである。

無線操作による無人のドローン(一機70~100万円程度)が、数十億円からの戦車などを破壊しまくって人的にも兵員に大損害をもたらしたことで、戦闘のやり方にイノベーションを巻きおこしたからである。

さらに、超高価な戦闘機は、電子機器操作の複雑で訓練時間が大幅にかかるため、機材があってもパイロットが短期間では育たないことも世界に披露するはめになり、ロシア製の対空ミサイルの餌食になってしまった。

とはいえ、2年前の初戦で、ロシア軍はウクライナ国内の全部の飛行場を破壊して、制空権を喪失させている。

海戦におけるドローンの利用も、絶大な効果をもたらして、イージス艦が想定した戦闘場面が、かなり古典的になってしまった。

数百~数千機のドローンが襲えば、イージス艦といえども対処不能になるのは、素人目にもわかることである。

物量戦の「物」が、ドローン数」になったのは、戦史を書き換えさせた。

この意味で、ネオコンからの脅しは、政治的な意味にしかならないけれど、実質「丸腰」のわが国は、命をカネで買うことに徹しているのである。

この意味で、アメリカ製やEU製の武器は、実戦で役に立たないのを承知で、日本に大量購入させようと東京にオフィスを増設しているのだろう。

専守防衛の決め手は、電波操作技術の確立にかかっている。
なので、核の運搬手段になりえるH3ロケットの成功よりも、はるかに重要なのだけれども、きっと米欧の戦争屋に、開発するな、と命ぜられていることだろう。

まんが原作で、政界の黒幕・フィクサーの海原大悟がいう、秘密の計画をやるなら、上の電波操作技術にちがいないので、むかしの「八木アンテナ」の八木秀次博士のような人物がいてくれることを切に願うのである。