RFK.Jrが保険福祉省を告発した

報道だけでなく、たとえば「ブラウザ検索」においても検閲が実施されている。
センシティブな言葉だけでなく、一般的な言葉もヒットしないことがあることでわかる。

たとえば、トランプ政権2.0の「閣僚会議」について、その「日程」も検索にはあらわれない。

議院内閣制をとらない、アメリカ合衆国の「閣僚会議」は、ホワイトハウス(大統領府:行政府の頂点)で開催される。
そこでは、全閣僚から逐次活動報告が大統領にもたらされ、閣僚間の情報共有とトップである大統領からの指示がなされる。

直近の閣僚会議がいつ開催されたのかすらも、ヒットしないから、その内容も当然ながらヒットしないし、マスコミもまったく報道しない。
なので、さまざまなSNSの情報をみないと、わからない、というのが現状なのである。

それゆえにSNSの積極的活用をするトランプ政権2.0の透明度は高い。

さて、保健福祉長官(HHS: United States Department of Health and Human Services)のRFK.Jrが、この会議で重大な発言をした場面は、「TikTok」で配信されている。

トランプ政権1.0では「TikTok」を禁止・規制するといっていたのが逆転し、トランプ政権2.0では選挙中から活用をはじめたのは、若年層へのアピールだけでなく、「TikTok」を中共も禁止していることからの「無介入プラットフォーム」としての価値を認めたからであった。

それが、公開されている閣僚会議のショート動画にもされて、HHS長官自らが曝露した自省の「告発」配信なのである。

これを「Lizzy News」さんが翻訳している。
「私たちはHHSを、この国における児童人身取引の主要な要因として特定しています。そして、バイデン政権下でHHSは児童人身取引の共犯者となり、性奴隷化に協力しました。私たちはそれを終わらせました。現在、バイデン政権によって行方不明になった30万人の子供たちを探しだすために、積極的に取り組んでいます。」

じっさいに、バイデン政権時代、国境管理局が不法移民児童の「里親あっせん」をやっていて、これが「業者への合法的人身引き渡し」ではないか?という指摘はされていたし、ビル・ゲイツの自宅への強制捜査によって数十人の子供が救出されたという、「噂」もあった。

おそらく、民主党の幹部や元重鎮たちが、自身の性癖だけでなく、「ビジネス」として関与している疑惑にメスを入れることになるのだろう。
当然ながら、エプスタインとの関係もあるとかんがえられている。

しかしながら、この闇の深さは、「性奴隷」としてだけでなく、「臓器売買」との関連も指摘されている。
とくに、子供の臓器は「高額」だという。

さらに、A.I.開発における生体の「脳」をつかった実験については、もっとも悪魔的と指摘されて久しいが、マッド・サイエンティストの個人ではなく、政府ぐるみで実施しているという「噂」が絶えない国もある。

このことが他人事でないのは、わが国における児童の行方不明者数は、警察庁が公式発表しているように、毎年1000人単位もいることでわかる。
検挙率の高さ=治安の良さ、が世界的レベルにあったのは、ついぞむかしのことになりつつあるのである。

いまや「営利誘拐」とは、身代金の要求ではなくて、臓器そのものの取引における収益となっているおぞましさなのだ。
ことに「唯物論者」は、これに心理的な痛みも感じない「銭ゲバ」なのである。

今回のRFK.Jr長官の報告を受けて、トランプ大統領は、30万人の多くがすでにこの世にないことを示唆しながら、徹底的な追及を関係閣僚に指示している。

「相互関税」問題と関係して、今後、国際問題になる可能性がでてきた。

日本政府は、関税自主権がなかった明治政府のように、相互関税の撤廃を要求しているが、トランプ大統領がいう「付加価値税=消費税」の撤廃要求も含めて、ことは「関税」という分野をとっくに超越しているのである。

これを「わざと」関税問題だけに絞って交渉する「ふり」をして、国民に「反トランプ感情」を植え付けているのは、もっと深い闇が日本政府にも、政権与党にもあるのではないか?と疑わせしむ理由なのである。

それを、「一切報じない」ということが裏付けている。

「こどもの日」に。

トランプの100日とルビオ

まだ100日しか経っていない、という感慨にふけるよりも、その強烈なスピードに圧倒されて、1年以上経っているような気がする。

就任から100日目とは、4月29日のことであった。

各メディアは、トランプ氏から「フェイクニュース」と罵倒されても、USAIDからの資金が絶えてもひるむことなく、フェイクニュースを流し続けている。
それで、「歴代最低の支持率」という記事を世界配信し、わが国の全メディアも「右へならえ」した。

いまや、共和党支持層は、1割ほどしかオールドメディアを信用しないと回答しており、民主党支持者たちの5割を大きく下回っている。
つまり、共和党支持者の9割は、フェイクニュースだと認識しているから、この「大統領支持率」に関する報道も、フェイクニュースだとおもっていることだろう。

アメリカ在住の邦人たちも、自身の周辺における「トランプ人気」を素直に報告している。

5月に入って、こんどは、政権幹部の辞任や解任のニュースで、「政権崩壊」を流し始めている。
その筆頭が、マイク・ウォルツ国家安全保障問題担当大統領補佐官であるが、彼は「辞任」し、彼の副官だった人物(アレックス・ウォン)が「解任」された違いのことをいわない。

トランプ大統領は、彼の辞任を承認した上で、空席のままの国連大使に指名したのである。

大統領補佐官は大統領が自身で人事権を持つタイトルだが、国連「大使(ただしくは「特命全権大使」)」は連邦上院の承認が必要な、日本でいう「認証官:特別職国家公務員」なのである。
それで、ヴァンス副大統領は早速に、「昇格」であると「X」に投稿した。

上院で通過しない場合、のことをかんがえると、「晒し者にする」という意味もでてくるのである。
反国連の立場にあるトランプ政権2.0なので、国連(正)大使の空席状態を国務省の役人が「代理大使」でいることに痛みを感じないこともひとつある。

もちろん、大使は国務長官の配下となる。

なんにせよ、トランプ政権2.0は、これを機に、国家安全保障局(NSC)の「人員全取っ替え」を実施中なのである。

ここで、関係者ならずとも驚いたのは、国家安全保障問題担当大統領補佐官の後任人事なのである。
なんと、マルコ・ルビオ国務長官が「兼務」すると発表された。

国務長官が国家安全保障問題担当大統領補佐官を兼務するのは、あのキッシンジャーとおなじなのである。
しかも、キッシンジャーは2役だったが、ルビオ氏は、USAIDと国立公文書館の長官とで、4つの肩書きをもつ「史上初めて」となった。

トランプ政権2.0は、マルコ・ルビオ依存をしているのか?それとも「超多忙」にさせて余計なこと(元ネオコン)をさせない意思表示なのか?

そのルビオ氏は、「X」で3日、ドイツを名指しして批難した。

「ドイツは諜報機関に野党を監視する新たな権限を与えた。これは民主主義ではなく、偽装された専制政治だ。
本当に過激なのは、最近の選挙で第2位となった人気の高いAfDではなく、AfDが反対する体制側の致命的な国境開放移民政策だ。
ドイツは方針を転換すべきだ。」

さては、「ドイツ」を「日本」に書き換えたらどうなのか?

わが国の前戦では、新任のアメリカ大使が「微笑外交」を展開している。
当然ながら、わが国の各界の要人と面談して、「言質」をとってはルビオ国務省に詳細報告しているのだろう。

なにせこの「X」の二日前、1日には「ウクライナとの資源協定」が成立したのである。
いよいよロシアとの和平模索が本格化する。

徐々に、ヨーロッパ・中東から、東アジアに覇権興味の重心が移りだしているのである。

ルビオ氏は、どんな戦略を描いているのか?
キッシンジャーと比較されるプレッシャーはいかなるものか?

フル回転でかんがえていることだろう。

選挙は国民のIQテストである

IQ(知能指数:Intelligence Quotient)が高いと「頭がいい」というのは本当なのか?という議論はいったん忘れて、とにかく「頭がいいか?悪いか?」ということだと仮定する。

念のため、IQを測る方法と結果の計算式は決まっていて、「100」を平均値に、「15」を標準偏差に設計しており、正規分布することでの位置取りが「目安」になるものである。
詳しくは、ネットにいくらでも解説があるのでみておくとよい。

ちなみに、わが国における受験で一般化している「偏差値」も、テストの点数を並べてみたときの「平均」を「50」にしただけの指標であることに気づくと、その回のテストの標準偏差がどうなのか?によって、評価が変わることもしっておきたい基本知識である。
なのに、試験主宰者がその回の標準偏差を同時公表しないなら、怪しいと気づくべきなのだ。

この点でも、知能を使わせない工夫がある、と観てよい。

なお、日本の学校教育におけるテストの「出題範囲」は、教育指導要領という土俵上のことで、空間把握能力を問うIQとはまったくことなるものである。
「頭がいい」とはどういうことか?を問えば、テスト結果だけで評価するのは困難だが、ならどうすればいいのか?をかんがえないでやってきた成果が「教育の荒廃」になった。

そこで、本稿でいう、IQは選挙における投票行動=候補者選択における理解度のことをいうとするので、政治の分野(土俵)での「知能テスト」なのだという意味になるのである。

さて、一口に「政治」とはを問えば、近代国家の政府を運営すること。

これが「政治」ということになるのだが、政府ができることとは突きつめれば「予算配分」でしかないことに気づくと、ここに「集めて配る」というメカニズムがあるのだとまずは認識できるものだ。

しかし、もう一ひねり知能を用いると、「最初から集めない」という方法もあることに気づく。
集める対象が、漏らさず全国民で、配る相手も全国民なら、手間だけが余分だ。

全国民から集めて、一部に配るなら、そこに利権が発生することになる。

一般に、何を集めるのか?は、すぐさま「税」ということになるのだが、またここで一ひねり知能を用いると、「国債購入」とか、「人的なボランティア活動」とかも思いつくのである。
これが、むかしの「租・庸・調」からあまり変化していないのだ。
つまり、むかしのひとの発想がすごかったのである。

しかし、輸入した律令制自体は日本では根づかずになし崩しになって、その後の武士の世界を生み出した。
これも既得権益からの構造変化である。

政府は必ず「膨張する」のは、『パーキンソンの法則』にあるとおりだが、そこに「利権構造」があるからである。
それで、この利権にまとわりつくひとたちは、これを手放そうとしないし、より強固なものにしようと努力するのは、そのひとたちにとって、それが合理的な行動だからである。

ところが、利権は一部のひとたちの利益の根源なので、その他大勢のひとたちには害をなす。

だから、民主主義における多数決の原則が機能すれば、多数の反対で利権構造そのものが成り立たない「はず」なのにそうはいかない現状は、ようは、民主主義の多数決が機能していないことを示しているともいえる。

ここが、有権者の知能をつかう場面になるはずだが、それをさせない努力が強力に行われている。
利権構造をまもりたいひとたちが得た「濡れ手に粟」のカネから一部を割いて、マスコミが担うプロパガンダの必要がこれなのである。

「商業」として、新聞やラジオ、テレビが利用されてきたゆえんであり、「非営利団体」のはずのNHKがとくに非難される理由になっている。

たまに飲食店で観るテレビの「ニュース」が妙に新鮮なのは、とにかく本質とはことなることを放送して、視聴者の脳をなるたけ使わせない=IQを落とす方策がこれ見よがしに実行されていることがわかるからなのである。

よって、票が欲しいだけの政治家は、テレビのいう巧言令色に与して、脳を活動的に使うことに慣れないひとたちを「多数派」としている。
このひとたちは、学校から社会に出ても自分の脳を活動的に使うことをしなかったために、いざ「自分でかんがえろ」といわれても、どうかんがえてよいのかさえもわからないのである。

そして、いわれたとおり、しばらくかんがえようとすると、脳が反発して、気持ち悪くなったり、頭痛がしたりする症状がほんとうに出るのである。
それで、かんがえるのをやめて、平常の状態=思考停止に戻ることで、脳の機能低下による安寧を得るのである。

繰り返しこれを経験すると、もったくかんがえない人間ができあがる。
まさに、『マグマ大使』に出てきた「人間もどき」なので、見た目にはわからない。
さらにわが国の「国民皆保険」による保険点数表の支配によって、人間もどきの高齢者が「睡眠誘導剤」の処方を受けて、見事な痴呆症を発症させることで「廃人化」もやっている。

これは、しっかりとした「奴隷化」なのだが、奴隷は自分が奴隷であることに気づかないようにされた歴史を振り返れば、現代の奴隷化はもっと巧妙にしかも「制度」として実行されているのである。

まったくもって、『マトリックス』の世界が現実化している。

さては、赤いカプセルか青いカプセルを選択させられることもないままに、選挙は日程通り実施され、有権者の半数も投票行動をしないのである。

これが利権構造にまとわりつくひとたちに、どんなに有利なことかもかんがえることができないから、やっぱり国民のIQは選挙にあらわれるのである。

カナダ保守党の敗北と日本

28日、カナダで「庶民院(衆議院)総選挙」があった。

辞任したトルドーが率いていた与党・自由党(日本の自由民主党のように左傾化が著しい)は、議員でもないマーク・カーニーという人物を党首に立てて、過半数は割ったもののこれまでの連立先との継続提携で、従来通りの国会支配を継続することが確実となった。

つまり、カナダはよりグローバル全体主義を追及する国となることが決まったのである。

詳細は、「カナダ人ニュース」さんが伝えてくれている。

これに国内では、保守等を支持するひとが多数の州で、「分離独立の機運」が高まっている。
その典型が、アルバータ州(州都はエドモントン)で、最大の都市はカルガリーである。

すでに州知事は、分離案を議会に提出済みで、同じく保守党の議席が多数の議会(一院制)で通過する可能性が高い。
もちろん、トランプ氏の呼びかけに応じて、アメリカの「51番目の州」になるかはまだ分かっていない。

なんにせよ、あたかも「テキサス州」のように、一旦、独立する可能性もあるが、全体主義の自由党政権がどう対処するのか?はまったく不透明だ。

世界では、伝統的な思想からネーミングした政党が、「共産党」以外、ことごとく変節して、ほぼ「共産化」するというトレンドになっていて、保守や自由を標榜する政党は、より民族色や独自色を濃くしたネーミングを採用する傾向が顕著だ。

カナダの「自由党」は、完全に国民の自由を否定する政党になったし、これはわが国における「自由民主党」が、まったく自由でも民主的でもないことでそっくりなのである。

ただし、わが国の悲惨は、「都道府県」に国家から独立する権限もなにも想定されていないので、アルバータ州が自分で選択するという方策は封印されている。

これがまた、国民の間に閉塞感を生み出す正体である。

つまり、教科書通りの「中央集権国家」なのだ。
しかも平城京や平安京の政府とはちがって、強力な官僚機構による締め付けが組み込まれている。

かつての中華帝国のそれよりはまだマシ、とはいえ、たとえば、29日の「財務省解体デモ」に集合したひとたちのやるせなさは、同情に値する。

だがしかし、呼び掛け人のひとりである人物は、あろうことか勇足なのか知らないが、財務官僚に向かって辞めた官僚の話を題材にして個人に呼びかける演説をしてしまった。

要は、組織・機構を個人として裏切れ!という誘いなのである。

これはいただけない。
その財務官僚を操るのは誰か?というわかりきったことに触れないのは、まったく同感できないからである。

官僚機構の上に、与党、という機構があるのだ。

だから、「財務省解体デモ」は、本来的でなく、与党に対する「解体デモ」をするのがスジというものだし、経済政策を決定づけるもう一つの「独立機構」がスルーされていることも気になる。

それが、日本銀行だ。

政府から独立させると決めた、「新」日銀法が施行されたのは1998年(平成10年)のことである。
すると、財務省を云々するならその前に、日銀法をもとに戻す法案を与党に要求しないといけない。

すなわち、わが国の場合は、あちらこちらで「ズレ」があるのだが、それこそが、与党をして安泰させる元凶なのである。

この点、野蛮な白人国家の方が単純な構造になっている。

それを込み込まれた韓国の大統領選挙がどうなるのか?は、わが国へ大影響するが、他人事になっている。

スクラップ・アンド・ビルドの対象に、わが国もあるということなのにである。

2025年MET『フィデリオ』のこと

このブログでいくつか書いてきた、METライブビューイング『フィデリオ』(4月25日〜5月1日上映)を観た感想である。
今シーズンでは、36年ぶりの新演出『アイーダ』のことをこないだ書いた。

まず本編上映の前に、メトロポリタンオペラの総裁である、ピーター・ゲルブ氏からのメッセージがあったのも、この「政治オペラ」の特徴を表している。

ニューヨークのど真ん中「リンカーンセンター」に位置するメトロポリタン歌劇場は、現代の政治的には、民主党の牙城のはずで、2005年に「ソニー・クラシカル」の社長だったゲルブ氏も同様なのは、ある意味いたしかたないところだろう。

そのゲルブ氏は、就任時に、「年老いた芸術オペラを改革する」と述べている。

さいきんになって、あの「ディズニー」がSDGsやらからの撤退を表明し、金融機関だけでないエンタメ分野でも極左の衰退著しいかと話題になったが、どうやらMETはまだまだ「現役の極左」を続ける決意のようである。

それが、ゲルブ氏の話にあったのが、合点もいくし、「改革」の「時代遅れ」も感じたのは意外であった。
彼の妻は、フルート奏者から指揮者になって、いまは「ウクライナ支援」で活躍していると自ら語ったのも、政治的なのである。

もちろん、ベートーヴェンがこの作品を書いたのは、彼の「共和制」への強い思いがあってのことだとは、ベートーヴェン・ファンなら知らぬものはいないだろう。

それに、ベートーヴェンは、モーツァルトの後をつぐフリーメーソンのメンバーであったから、同じメンバーのシラーが書いた『歓喜の歌』における「神」とは、いわゆるキリスト教がいう「神」を指すのではないことも、ファンなら承知だろう。

当時の作曲家稼業は、王侯貴族のお抱えで、しかも、宮廷組織的には料理長配下に位置したのである。
なぜなら、食事中の音楽を作曲し演奏することが本業だったから、料理の下に位置付けられていた。

ときに、ベートーヴェンが敬愛したナポレオンがその王侯貴族を破除して「共和制」の世の中にすると思いきや、自ら「皇帝」を名乗ったために交響曲第3番のタイトルも『(ナポレオン・)ボナパルト』から、『エロイカ(英雄)』と書き換えられた。

このことから、ベートーヴェンは史上初の、「フリーランス作曲家」になったのだが、安定収入のパトロンがいなくなった、という意味でもあった。

さて、この「政治オペラ」には、現代でもドキッとする「歌詞」が囚人が歌う合唱曲にある。
「小声で話せ、我々は監視されている」がそれだ。

第3稿でようやく『フィデリオ』で出版されたのは、1810年のことである。
それまでベートーヴェンは、題目に『レオノーレ』を主張していた。

同じ時間の日本では、第11代将軍家斉の時代である。

ところで、ナチス・ドイツの時代、このオペラがなぜか好んで上映されていた。
まったくナチス思想と相容れないはずのものが、なぜか?とトーマス・マンが不思議がったというが、この曲を歌うことの難易度は「極上」なので、夫婦役が揃って「ワーグナー歌手」の出番なのである。

そのワーグナーの「楽劇」を愛してやまなかったのがヒトラーだった。

つまり、音楽性が「ドイツ的」だから、という理由から「内容を問わなかった」のだろう。
この「共和制」を賛美するオペラを、真逆の民主党支持者ゲルブ氏がこれみよがしに「今の時代だからこそ」と力を込めて上演させる意図は何か?と氏自ら上演前に観客へ問いかけてくれた。

どんな理屈から、このオペラが民主党好みの解釈となるのか?

先にリンクを張った記事にあるように、総裁として、「メトロポリタン歌劇場は、ロシア人歌手アンナ・ネトレプコさんを降板させた」と政治的な判断をしている。
ネトブレコ女史は、この劇場の看板ソプラノ歌手のひとりであったが、プーチン氏と仲がいいという理由が「舞台から去らした」理由なのである。

まさか悪の権化たる刑務所長が処刑されるまでやる「旧」演出のまま、善の権化の大臣役を際立たせる場面の単純さだけを観客に観せて、「共和制の権化」のトランプ氏を吊るせと暗示しているならば、笑止に他ならない。

もっといえば、この刑務所長がゲルブ氏の真の姿だと観客に見せたかったのか?

だが逆に、民主党の牙城のニューヨークで、「共和制(党)讃歌」をやったのならば、それこそ万雷の拍手の意味があるというものだ。

こんなことをかんがえさせられるのも、面倒な、それでいて小声で話さないと監視される社会になったことの現実が、恐ろしくも単純なこのオペラを輝かせているからなのである。

それにしても、配役に人種やらを無視する方法は、配信される「ラジオ」ならまだしも、ビジュアル的にはなかなかに違和感があるものだ。

METの『ファウスト』で、メフィストフェレス役を好演した、いまは大御所のルネ・パーぺ娘役が東洋人(上海出身)であったのは、見事なドイツ語の歌唱とあわせて大したものではあるのだけれど、ベートーヴェンが納得するかは微妙である。

その娘マルツェリーネが、男装の人妻(レオノーレことフィデリオ)に恋し正体が知れて絶望するというオリジナル設定も、いまならどこにも絶望感がないかもしれないことにベートーヴェンは驚愕するのだろうか?

だが、わたしが気になったのは、マルツェリーネに求婚する空気が読めない男、ヤッキーノが生涯独身だったベートーヴェンの姿に見えたことである。
METは、この端役の歌手にも幕間のインタビュー出演させて、そのひとりでズレている役所(重唱におけるわざと外した作曲)について語らせているのである。

かくも「時空」を超えた政治ドラマが、政治的な思惑にあふれるMETならではの政治オペラとして花咲いた『フェデリオ』であった。

しかして、日本の観客の多くが「全共闘世代」とおもわれるひとたちで、この特異な世代にどう伝わっているかがよくわからないのは、『エルサレムのアイヒマン』を書くにいたったハンナ・アーレントの姿を描いた映画『ハンナ・アーレント』の観客層とおなじであるからなのだった。

内容よりも雰囲気で判断する傾向が見て取れるのは、グローバル全体主義の妙な共通なのである。

30円で電車に乗れた時代

ゴールデンウィークがはじまって、旅にでるひともおおかろう。

日本最古の現役の「駅」は、いまの「JR桜木町」(最初の「横浜」駅)で、この駅の構内には戦後の古い写真がギャラリーとして貼ってある。
あたかも、青函連絡船時代の写真が展示されている「青森駅」のようではあるが、「現役」というアドバンテージはおおきい。

その写真のなかに、都市圏の国鉄駅にはふつうだった、ボタンなしで「30円」をいれるだけの自動乗車券売機が並んでいた光景がある。

100円玉を入れようが50円玉を入れようが、ちゃんとおつりが出てくる当時としてはすぐれものだった。

なのでお札しかないと、有人の窓口で切符を買ったものだ。

これで1969年5月10日から、1974年9月30日までなら、区間5Kmまで乗れた。

1974年10月1日から、1976年11月5日までは、3Kmまで乗れた。
なお、5Kmまでなら10円値上げ(33%増)で40円になった。

これを「安い!」というのはかんたんだが、当時の所得と比較しないと、負担感の比較にはならない。
それに、第一次石油ショックは、1974年の1月から怒濤のようにやってきて、ときの大蔵大臣だった、経済の福田(赳夫)をして、「狂乱物価」といわしめたのである。

しかして「石油ショック」とは、典型的な「コストプッシュ型インフレ」であった。

ときに「インフレ」とは、通貨価値がモノやサービスの価値よりも低くなる、逆に、モノやサービスの価値が通貨価値よりも高くなる現象をいう。
だから結果的に、物価が上がるのである。
直接的に物価が上がる現象をもって、インフレとはいわないので注意したい。

それから、トイレットペーパーが商店から消えた、あの混乱は、子供心に滑稽だった。

けれども、コロナ禍でティッシュペーパーが消えたので、日本人は世代を超えてなんら学習なんかしていない。

いまは、自動改札も「タッチ・アンド・ゴー」だし、デポジットを入金しておけば改札で自動精算されるから、いくらかかったのかの金額表示を見のがすと引かれた運賃がわからないようになった。
旅先の駅の料金表示路線図で、自宅最寄り駅までの運賃がわかるとゾッとする。

しかしながら、これは都会に暮らしているからで、人口密度が薄くなる地方では、完全に自家用車が主たる移動手段になっている。

また、地方ほどガソリン代も高いので、地方は都会と比べて物価が安いはずという神話はとっくに崩壊している。
地方のガソリン代が高いのは、製油所からタンクローリーでチマチマ運ばれることの「運賃」も負担しないといけないからである。

アメリカはトランプ政権2.0になって脱炭素なる狂気から「降りた」が、わが国の「自・公・立憲維新れいわ」政権は、その気はなく、売れればなんでもいい自動車会社は、電池を先に買わせる「ハイブリッド車」の燃費がいいと宣伝して、「元」がとれないうちに新車を売ってもっと儲けようとしている。

載せていた電池の処理を考えるのは、産廃業者の役目で、一般人は考えないように仕向けられている。

タクシーなどの営業車ならまだしも、一般人が年に1万㎞程度を走行するなら、乗り潰さないと元は取れっこないから、これに気づいたひとを黙らせるのに「走行税」なる罰金を取ろうと画策している。

日本の政党がほとんど左翼になったのに、どういうわけかJRを、労組の天国だった「国営」に戻そうという話がない。
もちろん三公社五現業ぜんぶにいえるが、林業の国営だけは残存している。

コストがバカ高い、水素自動車なんかに投資しないで、三菱電機が完成させた「超小型原子炉」をどうやってつかうのか?をかんがえたくなる。

情報がすくなすぎて、国鉄は悪の権化のように国民から憎まれたけど、「分割民営化」はほんとうに成功だったのか?をだれも評価していない。
JR東と、JR東海とJR西だけが成功していて、JR北海道、JR四国、JR九州のはなしは中途半端なのである。

そもそも、鉄道は人口密度に依存した事業だ。

電気で走る電車はエコだ、というのは、もはや崩壊したEVがエコだというエセとおなじだ。
新幹線の料金体系でロンドンまで計算したら、いったいいくらになるか?
圧倒的に飛行機の方が安いのは、かかるおカネが機体と燃料と空港維持費しかないからだ。

鉄道は、「鉄の道」を土木と電気配線を中心に、全区間を人力で維持しないと安全走行ができない。
それには、発電所から変電所の維持も含まれる。
ならば、いまの変電所に超小型原子炉を設置したらどうなるのか?

となると、やっぱり国営が有利ではないか?

都市部のJRが儲かっているようにみえるのは、不動産の有効利用も事業範囲に含まれたからで、なんのことはない、付随事業ができなかった「鉄道法」がネックだっただけではないか?

ただし、接客サービスがどうなるのか?は悪化するはずだから、これは民のままにするとか。

さすれば、「30円」で5Km乗れるようにするにはどうしたらいいのか?をシミュレートする価値はある。
ただし、ヨーロッパ式に変えて、近郊区間なら30分料金とかの時間制で乗り替え自由ではいけないのか?

こういうのを、民間の「総合研究所」なるシンクタンクがやるべきだが、どうせならクラウドファンディングでもしたらいい。

役人からもらえる「研究」に依存していると、信用もなくすだろうに、と余計なことをおもう昨今である。

葬儀に「礼服」は世界標準ではない

ローマ教皇の葬儀に参列したトランプ大統領が、例によってマスコミにたたかれている。

「黒」ではなく、「濃い青」のスーツに青いネクタイを着用していたことが、ローマ教会が定める葬儀のための「ドレスコード」に抵触することを根拠としているらしい。

が、今回のご指定は、「適切な服装」であった。

ところで、ネットでは、報道各社が出したというトランプ大統領を中心にした「全体写真」を、ズームアウトしてみると、やや後方に元職にしてカソリックのバイデンが「青い」スーツを着て立っているし、はたまた、英国のウィリアム王太子も「青い」スーツ姿でいらっしゃる。

よくみれば、「青」が目立つばかりか、「黒」が定番のはずの女性でも、インド風に青い布を肩から巻いているひともいた。

つまるところ、例によっての、フェイクニュースである。

日本にも、「冠位十二階」があって、それぞれの「位階」を「色」で表すことをしていたし、このやり方は、日本の仏教界でもいまだに健在で、江戸期には「紫衣事件」なる天皇退位に至るまでにこじれたこともある。

彼のキリスト教文化圏では、「青」は、「聖母マリア」を象徴する色とされている。

たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画『受胎告知』では、聖母マリアは青色のローブをまとっている。
意味は、「純潔」、「信仰」なのである。
このローブの下の衣服は「赤」で、「天の愛情」を表すといわれている。

ちなみに、教皇が被る帽子(「ズケット」、「カロッタ」という)は「白」だが、枢機卿は「赤」、司教は「赤紫」、大修道院長は「黒」と、日本の官位のように決まっているが、その下の、司祭や神父は帽子を被ることもない。

また、ミサで着用する「祭服」についてとか、「典礼色」については、ネットで「聖書と典礼」を調べるとある。

だから、とりようによっては「黒」よりも、教皇への敬意という点でマリアとの一体感を示すのは、非難されるようなものではない。
だからか、騒いでいるのはマスコミで、教皇庁はコメントしていない。

さてそれで、日本語になった記事の前提に、暗黙の「日本的礼服基準」があることに気づく。

いわゆる「スーツ」を販売する全国チェーン的ないいかたをすれば、「礼服」のことで、むかしならちゃんと「略式礼装」といっていたものから「礼」だけ残して「服」を付けたものだ。
これが、いわゆる簡易的な「ユニフォーム」として定着したのである。

英語辞書で「uniform」を引けば、同形の、同型の、そろいの、一様な、均一の、という意味がでてくる。
日本人がすぐさま連想する、野球やサッカーなどのチーム毎の統一されたデザインの服や、レストランやらでの制服を直接イメージするのはまちがいである。

しかして、葬儀や結婚式など、いまでは少なくなった「儀礼」を伴う、まさに「フォーマルな場」が、あまりにも特別になったので、このようなユニフォームさえ着ていれば何はともあれ失礼にはならないという安直がウケたのである。

逆にいえば、これさえ着れば恥をかかずに済む、ということである。

だから、どうして黒なのか?とかをいろいろ考えずにいたら、ついに「黒でなければならない」と自己規定することが、単純に「ただしい」に変容してしまい、こんどはそこから逸脱したものに「嫌悪感」すらいだくように誘導されても、それが誘導とは思えずに、積極的に賛同するようになるのである。

ここに、「大衆」をプロパガンダしておもうように動かす「支配」の側の狙いがある。

ときに、日本人にとっての「第一礼装」とはなにか?
こたえは、男女ともに、「黒紋付」である。

「和装」の足元は、「足袋」に決まっているが、このところベルトで止められるサンダルに足袋を履いて出かけている。
足のツボが刺激されて、気持ちよいばかりか「頭が冴える」のである。

大方の日本人が、足袋を履いていた時代に、冴えていたのはこのためか?

冴えない記事に翻弄されるのも、洋風靴下の甘い包み具合による脳への刺激が減ったことが原因かもしれない。

改革なき改革

ひとくちに「江戸時代」といってもざっと270年ある。
その中で、学校でも暗記させられる「改革」は三つしかない。
・享保の改革 (1716-1745年):八代将軍 徳川吉宗
・寛政の改革 (1787-1793年):老中 松平定信
・天保の改革 (1841-1843年):老中 水野忠邦

ときに「改革」を国語辞典で調べると、辞典によって解釈が微妙に違う。

なんにせよ対象となるのは、既存の「制度」や「機構」を変えることである。
『明鏡国語辞典』では、「よりよいものにすること」とあるが、『新明解国語辞典8版』では「新しい時代に適応するものに改めること」とある。

よりよいものにすることの、対象が「誰か」によって大きく意味がちがう改革になるし、新しい時代とは「どんな時代か」によってもちがってくる。

受験勉強の「初歩」に文科省によっておとしめられた、義務教育になったので、義務教育期間を終える「中学卒業」で一生を食べていくのが困難になった。
これを、さらに「改革」して、事実上の「高校全入」を達成したら、こんどは「無償化」という義務教育期間の延長をやって、さらに大学にまでこれを拡大する魂胆のようである。

それが証拠に、文科省はすでに「高等学校」を、「後期中等教育機関」と定義している。

だったら、小学校➡︎中学校➡︎高等学校、を「改革」して、小学校➡︎前期中等学校➡︎後期中等学校と「改称」させないとおかしいが、それだとありがたみが薄れるからかこれをやらないで放置している。

この意味では、「中高一貫」というやり方は、「(全期)中等教育機関」の合理性があるようにもみえるが、ここに重なるのが生徒たちの「思春期」という成長に伴う「心身の変化の時期」にあたるために、集団の環境を変えるという意味での学校自体に変化を持たせることの合理性を優先させていたこととの比較吟味が必要となる。

さらに、「大学教養課程」をじつは「高等教育」といいたくないからだろう。

大学進学のありがたみが半減してしまうからでもあるし、わが国の大学教育は事実上「大学院」でしか受講することができない実態がバレると困る「関係者」との利益相反になると推察する。

天然資源の加工による「科学技術立国=貿易立国」のはずが、「科学の基本」を高等学校の必修から外して、理系大学の授業に依存するようにしたから、理系大学でむかしの高等学校の「基礎」からやらないといけなくなった。
しかし、大学は4年間という制約なので、はみ出したしわ寄せで大学院がそれを引き受けている状態になった。

さらに、企業が自社の研究開発を縮小させているので、研究をしたいひとが「外国流出」するはめになっているけれども、こんな実態をしらない経産省ではないから、わざと、だと確信がもてる「政策」なのだと理解できる。

それで、「日本政府 改革の歴史」をA.I.に語らせてみたら、明治の三大改革として、「学制」、「徴兵」、「地租改正」がでてきた。
前提に、封建制の廃止と近代化の推進がある、という。

戦後は、GHQおかげの「民主化改革」があって、憲法改正、政治体制の変革を基礎に、行政改革と規制緩和を中心に、様々な課題への対処のための改革がおこなわれているという趣旨の回答を得た。

A.I.という誰かがプログラミングした人為を、あたかも無機的な電子機器が正解を出すような幻想に囚われることのヤバさの例だ。
もしも、「GHQおかげ」という前提をネガティブに変更したらどうなるか?を考えさせない、という利用方法になっていないか?

そういえば昨今では、めっきり「ファクトチェック」を人間の専門組織に問わないで、A.I.に問うて解決したような体裁にして発信しているひとがいる。
人間の専門組織の怪しさがようやく一般的になったのは是としても、その代替がA.I.とはまことに愚かしいことであるが、それで満足するやからが本当に多数なのであろうか?

ようは、「真実はなにか?」が、わかりにくい世の中になったのである。

ならばむかしはわかっていたのか?と問えば、マスコミ報道を信じていればよかった時代があったし、封建時代に遡れば、「お上」のいうことが真実であろうとなかろうと、余計なことはいわずにだまっていればよいだけであった。

その溜まった精神の避難地が、神社仏閣における「信仰」にエネルギー変換していたのだろう。
徳川幕府における「寺社奉行」の地位の高さが、思想統制としての宗教を扱っていたことがわかるし、その巧妙さで「葬式仏教」になったのだった。

いまは、そんな避難地すらなくなって、どうしたものかの挙げ句が「X」という言論空間になっている。
ゆえに、「現代のお上」はこれを制限したくなって、「改革」するのである。

すると、誰のための?という前提が、民主主義なら自動的に有権者=庶民のためになるはずのものが、ぜんぜんならないことに気がついて、一斉に、民主主義への信仰がひとびとの中から剥離・凋落しだしたのである。

だからもう、「改革疲れ」の段階は通過した。

野党がいう「改革」の言葉が、ぜんぜん響かないばかりか、まだそんなことを口にする感性のなさに呆れるのである。
この点で、与党はすっかり「日本をあきらめた」ので、なんのこころに後ろめたさも傷もなく「売国に勤しんでいる」のは一種の正直さともいえる。

つまり、改革をやり過ぎたのではなくて、目的を失ったばかりか、ちがう目的が設定されたのである。

それでもって、「改革が自己増殖」したのをだれもコントロールできなくなった。

はたして、1000年続く「末法の世」のひとつの破局がここにある。

仏フィガロ紙の特集記事「東京は新しい香港になる」

22日に公開され23日に更新された記事の見出しである。

「Le Figaro」は、「Le Monde」(夕刊紙)と共に有名なフランスの新聞である。
立ち位置は、中道右派となっているが、日本の「読売新聞」と提携していることから推測するに、DS側の仲間とも推測できる。

この記事自体は、同紙、セバスチャン・ファレッテイ東京特派員の署名記事である。
わたしは同紙の定期購読者ではないので、この特派員のことはしらない。
一般に、わが国の新聞やらとちがって、外国の新聞には「記者の署名がある」のがふつうだ。

それで、記事の小見出しを自動翻訳でみると、「習近平時代の鉛のマントから逃れてきた中国人の避難所、日本」とある。

あんがいとこの記事が「古い」のは、似たような内容で昨年の11月17日付け「COURRiER」が、「Le Monde」のSimon Leplãtre記者による「移住先に東京を選んだ中国人たちの「いま」」を掲載していることでわかる。

なお念のため本稿では、昨今のわが国における「外国人移民問題」については深掘りしない。
むしろ、いまの東アジアの情勢は、「日清・日露戦争」の状況に近いことをテーマとしたいからだ。

すでに、当時の日本帝国は、「脱亜入欧」(明治20年頃の造語)を意識的に、しかも重点的に実行していたので、「遅れた」大陸や半島からの亡命者は多数いて、これらを欧風に啓蒙して送り返す「革命分子の輸出」もやっていたのが日本人だった。

これを支えたのが、中国の戦国時代にはじまるとする「食客」の風習が、儒学を通じてわが国にもやってきたことだ。
それで、さまざまなパトロンたちが有望だと判断した人物を自家に囲って食わせていた。

今に通じる例なら、赤塚不二夫がデビュー前のタモリを食客としていたことは有名だ。
むかしは、高級官僚やら政治家、あるいは学者も、「書生」というかたちで食わせることでの人材の囲い込みをしていたのである。

それで、政治家の秘書から身を立てるルートとなって今に至る。

けれども、「食客」を多数抱えることができるほどの「お大尽」が絶えて、いまや死語に近い。
別のいい方では、「居候」である。

だから、日本にやって来ても「自力」での生活が必要かとおもえばさにあらず、なんといまでは「国家」がこれらのひとびとを「食客」として迎えているともいえるのだ。

このところわたしは、習近平氏を複雑な目線でみている。

それは、習氏が「ナショナリスト」という本質的な思想の持ち主で、毛沢東の信奉者ということの重要性に注目したいからである。

これとは逆に、「反・習近平」とは、あんがいと「反共」とは別の、「親・江沢民派」という側面があることが重要なのだ。
江沢民派=改革・開放政策=グローバル全体主義に通じるので、いわゆるDSとの相性がいい。

つまり、反・習近平とは、グローバル全体主義者をさすことと同義となるのである。

しかし、だからといって、「インターナショナル」だった共産党のトップである習氏が共産主義を棄てたわけでもない。
ここが旧来のインターナショナル全体主義、対、グローバル全体主義の対立となって、それぞれを内包する共産主義との絡みで、習氏の立ち位置が両者をまたぐわかりにくさがある。

とはいえ、その習氏の体制が嫌だから=江沢民派だから、日本にやって来たのだというのは、もっともわかりやすい、わが国がグローバル全体主義のDSによって支配されていることを示すのである。

この目線に立つと、トランプ政権2.0が、トランプ政権1.0のときに築いたという、習氏との個人的な関係がある、と主張することに矛盾はない。
反DSを政治目標とするトランプ大統領の立ち位置から、プーチン大統領とともに、習氏は「仲間内」となるからだ。

江沢民亡き後の江沢民派はどうなっているのか?

深くもぐり込んでよくわからない。
ただし、香港・浙江財閥との関係の濃さがある。

つまり、冒頭の「東京は新しい香港になる」が意味するものは、東京=日本が、江沢民派の亡命地になったことを意味するだけでなく、そのまま乗っ取られて、新しい中国になって習氏の大陸とかつての蒋介石に征服された台湾のようになることを示すのである。

少なくともフランス人のインテリはそうみている。

それゆえに、中国との貿易対立に当てつけて、トランプ政権2.0が最初にわが国をやり玉に挙げたのは、放置すれば日本が江沢民派に奪われることの、代理戦争をやっているともいえる。

この意味では、習氏の国内統制が弛むことは、江沢民派に乗っ取られたわが国の与党には有利だが、習氏の統制が強化されると困るのである。
このために、トランプ関税交渉のこの時期に、あえて自公のトップが北京詣でをするのは、親・習近平を装った江派へのヨイショの緊急テコ入れなのではないか?と疑うのである。

もちろん、江派はDSの一部だから、アメリカ民主党とも懇意である。

その民主党の活動家たるウィスコンシン州地裁のハンナ・デュガン判事を、FBIが公務妨害として逮捕・訴追したと、カッシュ・パテル長官が「X」に26日投稿した。
すさまじい攻防戦が、アメリカ国内の末端でもおきている。

次期大統領選挙に民主党の最有力は、いまのところ民主党員ではないバーニー・サンダースとアレクサンドラ・オカシオ・コルテス(A・O・C)の極左コンビのようだが、このふたりは当然だがグローバル全体主義側なのである。

これが日本の与党に関係しないわけがないのである。

そのための援助が、政権与党の政策になっているから、アメリカとちがって事件とならないのがわが国なのである。

つまるところ、トランプ政権2.0と習政権の中枢が、わが国政府を攻める理由がこれだ。

宿泊業が宿泊税に反対しないのはなぜか?

答は、私には(理解)不明である。

2日、「トランプ関税(率)」が発表されて、世界はアメリカの関税戦争に巻き込まれた、ということになっている。

しかし、トランプ氏のこれまでの行動パターンから、先にぶち上げてから交渉するという順になっていることに気づくと、骨髄反応を示したらかえって負けなのだ。
じっさいに、翌3日には、「仮に他国・地域が何か「驚くべき」ものを提示することができれば、関税引き下げにオープンであると語った」とブルーグバーグが報じている。

ほらね。

しかして、わが国にとって問題なのは、1月20日の大統領就任演説にあった、ヨーロッパを意識した付加価値税VATへの批判でわかるように、同じ構造の「消費税」が関税障壁だということをわざと報じないから、大手メディアは悪質なのである。

これも日本政府からの要請があってのことなのか?

つまり、わが国に課すとした「24%」には、「10%」の消費税分が含まれているので、実質的に「14%」だが、いまが「2%」程度なので、真水の増分は「12%」なのである。

国民を騙したい日本政府は、「24%」が多いのなんだと文句をいっているように見せかけているが、輸出企業の組合団体たる財界(経団連)と損得の協議中なのだろう。

さて、「輸出」とはなにか?を問えば、自国製品やらサービスを外国に販売することだ。

だから、いわゆる「インバンド」で来日する外国人観光客が日本国内で消費する分は「輸出」と見なすことができる。
外国人は、かならず自国通貨を「円」に交換して消費するからである。

すると、トランプ大統領が、アメリカ連邦税制にない付加価値税や消費税を関税障壁だと認定したごとく、おなじ「宿泊税」はどう見えるのか?という問題に突き当たる。

ここで、重要なのは、「憲法」なのだ。

アメリカは、世界ではじめて「成文の自主憲法」を制定して建国した。
日本人は、「アメリカ独立宣言」をしっているが、なぜか「アメリカ合衆国憲法」をしらないようにされている。

高らかに理想を語る「独立宣言」とちがって、より具体的な合衆国憲法との間には意外なほどの断絶がある。
これを埋めるために、「修正条項」が付加されているので、「社会派ドラマ」に頻出する、「修正◯条」というセリフも、日本人にはググらないとすぐに理解できないのである。

その日本人には、「明治憲法(大日本国憲法)」を改正したことにした「日本国憲法」も自分たちで制定したという「想い」も「感覚」もないので、一般法とおなじだが「最高法規」として格がちがうだけとかんがえている。

それが、自民党の憲法改正案に如実に表れていて、「基本的人権の削除」がその最たる例になっている。
国の最高法規だから、最高に国民を支配する道具としているのが自民党の発想なのである。

しかし、近代民主国家の憲法とは、「主権在民」が基本だから、国民から国家・政府への命令書が憲法なのであって、だから、主権在民なのである。
よって、国民の諸権利の中にある「財産権」を侵蝕する「税制」も、基本的には「憲法違反」と解釈されるのが、アメリカ共和党トランプ派の主張にあるのだ。

それで、外国からの関税を中心に置き換えて、内国からの所得税を廃止しようとしている。

すると、外国人からあまねく徴収する「宿泊税」は、外国人からの徴収とするだけなら、トランプ関税とおなじ趣旨といえるけれど、日本国民からもあまねく徴収するとなると、国民の財産権への侵害となる。

とにかく、「税は罰金」なのだ、という観点が、「租・庸・調」の時代から馴らされている日本人には希薄だという、奴隷に近い感覚がある。
小学生のときから疑問なのだが、中央に兵力がない律令制度の時代に、日本人はどれほどの脱税をしていたのだろうか?がわからないのである。

従順な羊のように、ほんとうに「租・庸・調」のどれにも抵抗なく応じたのか?
「防人の歌」はあっても、抵抗した形跡をだれからも教えてもらってはいないので、やっぱり無抵抗だったのか?

なんにせよ、とかく「税」の話は、なぜか「徴収する側=官」の理屈が優先的に解説されて、「徴収される側=民」を説得するばかりで、取られる側の財布についての議論はいつも二の次なのだ。

消費税も宿泊税も、なんなのか?といえば、それぞれに「目的税」としての意味づけはされているが、その通りになっていないのは受領したら「官が勝手に使う」だけだからである。
このことを、トランプ政権2.0がDOGEを用いて証明してみせたし、アルゼンチンのミレイ大統領が先行的に実績をだしている。

これには、「決算」が証拠になるが、国であろうが地方であろうが議会の「決算委員会」なるものが機能していると信じる日本国民はいないだろう。
そもそも、行政が「のり弁」のように真っ黒けの消し込みをした書類をもって、「情報公開条例に基づく情報公開文書」とうそぶいても首長や役人に処罰も何もない国なのである。

この点で、地方検察庁も死んでいる。

宿泊税の話に絞ると、料金=価格の「外にある」のが宿泊税だというのも、徴収する側=官の論理だ。
もちろん、宿泊税は消費税とかぶらない設計になっているので、かぶるのに何もしないガソリン税とはちがうから、ガソリン税の二重課税は余計に意図的なのだとわかる。

徴収される側=民からしたら、「宿泊料金」とは、宿泊料(日本だと「サービス料」含む)+消費税(国と地方)+宿泊税(課税を決議した特定の地方での定額)の合計なのだ。
なお、宿泊先が温泉宿ならば、これに「定額の入湯税」も加算される。

つまり、宿泊予定者は、実質負担する宿泊予算をかんがえるときに、「総額」で計算するものだ。
なんだか特殊浴場と似ているが、「料金」とはそういうものである。

すると、総額予算にある「税」は、宿泊施設が本来設定できる「価格増分」とイコールになるので、宿泊施設経営者からしたらこの「増分」が利益の圧迫になるのである。
これは、従業員にも由々しき問題で、人件費が利益分配だとかんがえたら、徴収する側=官に、自身のあるべき所得を横取りされたこととなる。

このことは、付加価値税としての消費税の論議にならない不思議もある。
従業員の人件費は、「付加価値」に含まれるので、なんと消費税の対象なのであるにもかかわらず、なのだ。
これが、正規社員が非正規よりも企業に負担が重いことの原因のひとつになっている。

ちなみに、野党第一党がいいだした、「食料品への消費減税」は、飲食業への消費税負担が「増える」のだが、こんなことも飲食店経営者に認識されていないという「悲劇」も、消費税とは、消費者が負担する税であるとのプロパガンダに成功している証拠となっている。

何度も書くが、消費税とは付加価値税なのである。

現状、インボイス制での仕入れで、飲食店は食品原価分の消費税は課税されないが、これが付加価値「扱い」に転じる仕組みとなっている。
だから飲食店にとっては、「増税」になるのである。

よって、飲食店の従業員への賃金にも下げ圧力として影響する。
これを、労組が支える野党の主張なのだから、いったいどういうことなのか?

さらに日本では、「サービス料」も売り上げる慣習があるので、戦前には欧米同様にあった習慣のチップ収入をなくした従業員には、二重の意味であるべき所得を失っているともいえる。

大手は「別」だとあえていいたいが、宿泊業の産業的目線からの分類は、「労働集約的」でありながら「資本集約的」であるという、いがいと他産業にはない特徴がある。
似た分野に、医療・介護業界があるのは、「Hospice」を同一語源とすることによる。

ここで、問題になるのが「減価償却」なのである。

損益計算(書)が役に立たないのは、何度か書いてきているが、「減価償却」を「積立金」としている中小宿泊業の経営者は皆無ではないか?
ために、温泉宿なら、商品の要である「大浴場」の給湯設備に対する、壊れたら対処、という習慣で、とうとう対処できないままの状態になることでわかる。

もちろん、建物の建て替えともなると、お手上げ、なのは、減価償却分を積み立てることをしないで「儲けとして」食ってしまったからである。

「資本集約的」なのに、資本の源泉にあたる減価償却を「現金の利益」として扱うので、全国に廃墟の宿を量産したのが業界標準の経営なのである。

こうした点から、徴収する側=官に利益をかすめ取られることにも気づかない。

これが、不明の中でわたしがかんがえる、宿泊業が宿泊税に反対しない理由のひとつの仮説である。