天台宗の自浄

わが家は山門派天台宗の檀家である。

「山門派」とは、ふつうわざわざいわないのは、あの比叡山のことだからである。
それで、分派した「寺門派」の三井寺とあえて別だというときにいう。

わが国に「仏教」が伝わったのは、欽明天皇の御代で、時代区分では「古墳時代」ということになっている。

「仏教」は、紀元前500年ぐらいにゴータマ・シッダールタ(釈迦)が悟りを開いたことによる。
問題は、そこからの長い年月と、「伝来」による、「伝言ゲーム」によって、釈迦のオリジナルと「その後の解釈」が混じってしまったことによる。

それゆえに、いわゆる「経典宗教」の側から、仏教は経典宗教としては認知されていない。

古墳時代から欽明天皇の娘である推古天皇の皇太子、聖徳太子の法隆寺・四天王寺が建立された飛鳥時代を経て、「奈良の都=平城京」になって、いわゆる「南都六宗」が形成された。
これらが強すぎるとして、遷都したのが平安京で、その鬼門にあたる比叡山にあるのが最初の「大師」となった最澄の延暦寺である。

ここで注目したいのが、「戒律・戒壇」の制度で、わが国におけるはじめは鑑真によったが時間とともに「なぁなぁ」となり、ついに伝教大師最澄による「菩薩戒」が画期をなす。
あまりのことに、南都仏教界はこれをみとめず、「最澄没後」にようやくにして「大乗戒壇」が許されたという経緯がある。

これは、「なぁなぁの認可」とも解釈できるもので、釈迦が提唱した「仏教」の本質的な意味での「別物化」なのである。
なにせ、自己申告による「自誓受戒」も認めていたのだ。

どういうことかといえば、それまで戒律による「受戒」なくして僧侶=比丘にはなれないものを、とにかく公式に「なぁなぁ」にしたからである。
なので、大陸の中国仏教ではこれを認めないため、日本からの留学僧は僧として受け入れられないという国際問題にもなったのである。

それで、鎌倉時代になると、天台宗から派生した宗派(浄土宗、一向宗、日蓮宗)は、どれもこれも「ユルユル」なために、僧籍とはなんぞや?という身分形成上の大問題となったのである。

これがひとつの頂点に達したのが、信長による叡山焼き討ちだったし、その後の一向宗徒の一揆に対する厳しい対応となる。

これらの事情をわきまえたうえで、16日の報道による天台宗での性被害に関する処分の記事が読める、というものだ。

まず、「宗門内の裁判」結果が出たのである。

弁護士は今後のことは本人と相談して決める、としているので、世俗世界の裁判とするのか?が注目される。

日本における宗教の立ち位置は、啓典宗教の代表たるキリスト教世界や、イスラム教世界、はたまたユダヤ教世界とはまったく異なるのが特徴だ。

徳川幕府の巧妙な「檀家制度」への宗教の押し込めで、信仰自体がえらく形骸化したのだが、これをまた巧妙に、「日本教」として落とし込んだのが幕末から明治にかけてのことだった。

そんなわけで、宗門の内と外という概念が、わが国の場合いったいどこまで通用するものか?が問われることとしてみれば、その壁の薄くて低いことの方が意外なほどなのである。

さらに、仏教における「救済」とは、個人の救済であった。
そのために、個人は生きながら修行を積んで悟りを得ることが必要と説く。
それで、極楽浄土へ向かうのか地獄に落ちるのかは、自分で自分を裁くこととなるために、清浄な精神をもっているかそうでないかが問われるものなのである。

ところが、「大乗仏教」の発明で、集団処罰=救済の要素を加えたのである。

集団を救済するのは、儒教の影響だろう。
儒教では、「よい政治」でもって集団を救済するからである。
しかし、天台宗が「鎮護国家」を唱えたのは、「よい政治」という意味ではなく、「祈祷」によったのである。

この点で、むしろ集団処罰=救済のユダヤ教に寄っている。

また、祈祷には「密教」の要素を用い、これは弘法大師が開いた真言宗に分があるとして、最澄は空海に「教えを請う」が断られるエピソードが残っている。

密教で「護摩を焚く」のは、ゾロアスター教の影響だとかんがえられるし、「密教」と書くこともおおくの「教典」も、漢字には意味はなくサンスクリット語の発音の書きかえにすぎない。

これは、イギリスを「英吉利」と書いたことから、「英」と「国」をつけて「英国」としたとか、アメリカを「亜米利加」と書いて、「米」と「国」で「米国」としたようなものなのである。

ときに、今回は「千日回峰行」を達成した「大阿闍梨」まで関与が疑われたのだったが、この達成に超人的な体力と精神力を要する「修行」をもってするのは、行者個人の救済だけでなく、本人が「生き仏」として参拝の対象になることも重要な特徴なのである。

さては、「末法の世」が平安時代から1000年ほど続いているのが、現在だと前に書いたが、信長による叡山焼き討ちからほとんど進化がないことを示したのが、今回の事象なのである。

日本仏教は、あたらしい「末法対策」を、そろそろ発明してもよさそうだがいかに?

教育委員会は持ちこたえるのか?

GHQが構築した、「戦後レジーム」のなかでも、日本人劣化目標にひときわ効果を挙げているのが教育委員会という、役人たちによる役所のDS化である。

この組織は、設立当初には市民から選ばれた委員たちが互選によって「委員長」を決めたいたが、その後の「形骸化」によって、委員長を設置せず、事務局長だった役人が「教育長」として君臨することになったのである。

しかも、政治家からの政治的な介入を教育にさせないための「防止策」として、選挙で選ばれる「首長」からの独立が与えられている。
かんたんにいえば、文部科学省の出先機関になったのである。
この構造は、厚生労働省の「保健所」と似ている。

国家運営には、「三権分立」があるが、地方自治体運営には、「二元制」として、行政の責任者たる首長を選挙で選び、なお、首長(行政)への牽制・チェック機能として「議会」の議員も選挙で選ぶことでの「緊張感ある状態」を制度設計上のポイントに置いたのだが、教育委員会は、その独立性を強化して独自の世界を作り出している、危険な組織になっている。

その危険度とは、
・文部科学行政=文部科学大臣の存在と、文部科学官僚の支配が全国に及ぶこと
・日常の組織運営には、教育長のパーソナリティに依存すること
である。

なお、地方議会は、国会とちがって、その職員の身分が一般行政職と区分されていないので、議会事務局も役所(行政=首長)の役人に牛耳られるという「乗っ取り」の可能性を多分に占めている。

ちなみに、国会の職員は、「特別職国家公務員」の扱いなのだ。

これが、「本国」アメリカ合衆国では、完全に分離していて、国会職員と行政府の職員は別物扱いになる「当然」があるが、「属領」のわが国では、「出向」という不明瞭な公務員人事制度によって、行政府⇔国会⇔裁判所、が三角形の形態でそれぞれで「人事交流」している。

ようは、三権の権力機構がそれぞれ「なぁなぁ」な状態にあるのがわが国のグダグダとなっているばかりか、「内閣人事局」が権限を行使して、「独裁」体制を完成させている。
「気骨ある官僚」が絶滅したのは、本来の行政職のあるべき姿ではないが、「完全イエスマン体制」になったのはこのためだ。

15日、和歌山県の「県立紀伊風土記の丘」という博物館で、漏電事故があり周辺の50世帯あまりが停電したというニュースがあった。

2023年12月の法定点検で動作不良による今回の事態を予測する指摘がされていたにもかかわらず、「担当職員の判断」で予算請求せずにいたという。
27年には新施設の建設があることから、ガマンして他の修繕を優先させていたと報道にはある。

しかし、この事故から、この担当者が「文書訓告」の処分を受けたというものだ。

わたしは和歌山県には過去一回だけしか行ったことがないので、「コタツ記事」となるけれど、なかなかに「シビれる」組織であることがわかる。

民間でも起きそうな話だが、ここで重要なのに記事にないのは、「減価償却」の概念が、いまだに教育委員会=役所にないことが指摘できる。
もっといえば、資産管理のための「帳簿(複式簿記)」もないのだろうと予想できるのである。

一般に、減価償却=積立金として、大きな設備更新の原資に充てるのは、「発生主義」の組織体であれば常識だが、原始的な「現金主義」だと、民間なら「節税」だけで認識されて積み立てしての「更新準備金」にするという発想がないのが古い旅館などでみられるものだ。

こうした設備投資の管理欠如という構造問題を、担当者の責任としたことが、「事件」なのであり、それが教育委員会だからなおさらなのだ。

法定点検における不備の指摘についての「組織」での受けとめ体制として、せめて経理担当からの牽制はなかったのか?あるいは、設備投資予算の管理をする組織における管理不在が、トップの責任になってしかるべきなのである。

こんな軽い個人責任だけの処分で済んだのも、電力会社からや、被害があった住民たちからの「損害賠償請求訴訟」もないことの平穏があってこそである。
「心ある」のならば、訴訟を起こしてちゃんと組織としての責任を追及すべきではある。

さて、同日、教育委員会の本質的な問題提起があったのは、杉並区である。

同区議会議員が、「大阪関西万博」への区立中学校修学旅行が追加された経緯について情報公開請求をしたところ、「特定した情報の公開・非公開の判断等に相当の期間を要するため」という意味不明な理由で、区条例に定める期間内ではなく、延長する旨の「通知書」が、11日付けで請求区議へ出ていたという話題がある。

自分で判断しておいて、その経緯説明を公開できない理由はなにか?という疑問がわく話であるが、いざ公開となった場合に、いつもの「のり弁」状態での誤魔化しになるのではないかと想像できる。

しかし、区議とは選挙で選ばれた者だし、この請求は二元制における直球の議員の業務である。

つまり、教育委員会は、区の条例さえも超越するのだといっているようなもので、立ち位置として「首長=区長」も他人事として装えるから厄介なのである。

そもそも「情報公開」が定められているのは、何のためか?をかんがえると、まことに不味い独裁が教育委員会の名の下に実施されている。

それでも教育委員会が足元から崩壊しないのは、構造的に文部科学省が存在するからである。

行政論として、どこまで役所は業務をやめることができるのか?というシミュレーションをやらないといけない時期になった。

その実験を、本国のアメリカでやっている。

睡眠の謎

何のために眠るのか?と質問されたらば、脳や身体を休めて、リフレッシュするためとこたえるのがふつうだろう。

ところが、近年の研究で、意外な「眠りの謎」が明らかになって、はたして何のために眠るのか?の謎は深まるばかりなのである。

人間のばあい、だいたい8時間の睡眠時間をとっている、とはむかしからいわれている。

一日の3分の1、もっといえば人生の3分の1は、眠っているのである。
これがまた、寝具メーカーの宣伝文句になっている。
どんな敷蒲団がいいのか?どんな枕がいいのか?毛布は?掛け布団は?シーツは?

西洋だと、藁(むぎわら)のベッド。
日本だと、筵(むしろ)や茣蓙(ござ)から畳(たたみ)が生まれた。
「たためる」から「畳」なのだという。
板の間しかなかった時代に、こうしたものを敷いて眠ったので、ずいぶんと固かっただろう。

「枕を高くして寝る」というのも、「髷((まげ)」に絡めている言葉である。
富裕層がその富を示すためにしっかり結った日本髪に特有の「髷」が崩れないようにするのが「枕」の優先機能だったので、はたしてそれで「安眠」できたのか?
現代人なら頸が痛くなったのではないか?

当時のひとだって骨格は現代人とおなじだから、ふつうに慢性の肩こりになっていたそうで、見栄のため、とはいえ、「もののあはれ」を感じるのである。
美人画の物憂げな風情は、肩こりと睡眠不足からなのか?

「散切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする」という歌のあたらしさは、髷を気にせずに枕を低くしたら、なんだか寝起きがスッキリした感があるように聞こえる。

旅に出たときに「枕があわない」のでよく眠れないということがいわれていた。

もしや、むかしの宿は、「髷用」の陶器枕やら、最新の洋髪用そば殻枕やらが施設によって混在していたのか?と想像した。
わたしの祖父は、籐で編んだ枕を愛用していた。
タオルではなくて、日本手ぬぐいを畳んで置いてクッションにしていた。

一泊ずつの旅先ごとに、かくほど枕が変わったら、たしかに熟睡はできないだろう。

若いときには気づかないが、齢を重ねた昨今は、現代の宿における寝具が気にくわないことが多々あって、いまでは自動車に「旅先用枕」を積んだままでいる。

20年前に「オーダー」した枕のメンテナンスで、ほころびがみつかって新たにオーダーした折に、もったいないので古い方を廃棄せずに、「旅用」としたまでのことである。
それが、たいへん重宝しているのは、やっぱり「枕があう」からである。
何種類か材質や大きさを選べる宿もあるが、寝てみないとわからないのが、枕というものだ。

とある宿では、ベッドの「へたり」がひどくて、床に寝たこともある。
なんのために宿泊料を払ったのかわからない宿は、いまでもある、というのも困ったものだ。
雨露がしのげるだけで有り難いと思えということか?

ときに、すべての生物が睡眠していることがわかった。

動物しかり、昆虫しかり、なんと「脳がない」原生生物も眠っている。
「怪談」の枕には、「草木も眠る丑三つ時」という常用句があるが、なんと「草木」も眠っていることがわかっている。

これらの事実から、ひとつの仮説が提唱されて、それがまた「謎」を生んだのである。

生命体の「通常」が、「睡眠」時であって、たまに「覚醒」して意識がある時とは、じつは「異常」なのではないか?
こんなことをかんがえついたのも「異常」な覚醒時だろうから、なんだか不思議なのである。

それにしても、眠れない、という悩みは深い不安を引き出して、ついうっかり「睡眠導入剤」なる薬に手を出すと、こんどは「認知症」の発症を促してしまうかもしれないという。
かんがえようによっては、認知症とは半分眠っているようなものだとすれば、「通常状態」に薬物の効果で近づいているのだともいえる。

そうやって、ついに「永眠する」ことになるのである。

眠るということが、生きるということと、死ぬることとに直結しているのだ。
これが、量子論でいう「現実とは幻の世界」なのだすれば、やはり「覚醒時」という異常は、ほんとうは夢の中で、睡眠時にみる「夢」こそが「現実の世界」なのかもしれない。

夢と現実が相対化する時代になった。

それにしても、旅先の寝具はなんとかならないものか?

トランプのFRB議長解任のための請願

11日のブルームバーグ報告によると、トランプ大統領は、FRB(連邦準備制度理事会)のパウエル議長解任について許可を求めるために、連邦最高裁へ請願を行ったという。

連日の「関税問題」は、この大問題を隠すための戦略なのか?

FRBは、悪名高きウィルソン大統領時代に、議会の夏期休暇中を狙って成立させた「連邦準備法」に基づく、完全民間企業、である。
アメリカ政府は、この企業へ1セントの出資もしていないばかりか、大統領は議長を任命できるが、「正当な理由」がないかぎり解任できない「特別職」なのである。

このブログでなんども書いてきた、トランプ政権2.0の戦略目標は、「アメリカを再び偉大にする:MAGA:Make America Great Again」のスローガンに集約されている通りで、この戦略目標達成に全政府組織を従わせているのである。

もちろん、行政府だけでなく、連邦上・下両院を共和党が多数をおさえる中でのことだから、「法案成立」という最強手段も、この戦略達成のために行使するように図られている。

いまや「DS:ディープステート」は、アメリカでは陰謀論ではなく、「実体」として広く国民に認識されるようになった。
このDSは、グローバル全体主義という思想背景を持つので、国内ばかりにあるのではない。

それが、「国際金融資本(家)」という実体とつながっている。

FRBを所有するこられの者たちは、上位機関である「IMF」や「世界銀行」、さらに上位にある「BIS」も所有しているのである。
かんたんにいえば、ウィルソン大統領は、アメリカ合衆国を彼らに「売り渡し」てしまった。

ようは、これらから「国民政府に取り戻す」のが、トランプ政権2.0の戦略目標である。
よって、歴史的な「解体」作業に入っているのである。
対する、元IMFトップで、いまのECB総裁の、ラガルド氏は、「EUの米ドルからの脱却」を具体化するための「ユーロ電子通貨」の実現を発表した。

EUは完全にDSの配下にあるし、わが国「自・公・立憲共産」政権もまた配下にあるので、アメリカ=トランプ政権2.0とあからさまな敵対的な行動を取っている。
逆に、主体性のない「自・公・立憲」政権は、DSの命令に従っている、とかんがえれば理解はかんたんなのである。

それが、国内ローカルでいう反DSとしての「財務省解体論」になっている。

しかしながら、上の構図をみれば明らかなように、わが国のDSの司令塔は「日銀」なのである。
その日銀を、FRBのごとく日本政府から「分離独立」させた、「新日銀法」ができたのは、平成9年(1997年)橋本龍太郎内閣でのことである。

しかしながら、日本政府の持ち分は55%のままだから、橋本龍太郎の「抵抗」だったのか?どうなのか?まことに不可思議な「独立」なのだ。

さて、アメリカ連邦最高裁もいまは、共和党系が多数を占めているので、今回の「請願」が通る可能性はある。
だが、トランプ政権1.0で任命された、エイミー・コニー・バレット判事は、あのRINOの重鎮、ミッチ・マコーネルが推した人物で反トランプ一味なのである。

よって、この歴史的請願が通るかどうかは不明だ。

ロシアの中央銀行も、DSが抑えていると、「ロシア在住です」さんが、FRB解体と含めて鳥瞰した秀逸な解説をしている。

おそらく、最高裁で「不発」でも、トランプ政権2.0はあきらめず、議会による「法案成立」へのトリガーとして利用する順に設定しているはずなのだ。

間もなくその歴史的大転換の瞬間がやってくる。

これを、世界のマスコミは「反感」をもって伝えるはずなのは、本稿冒頭のブルームバーグも同様だからである。

孟子の湯武放伐論の対象となった自・公

「四書五経」の四書の最後にあるのが『孟子』である。

残りはちなみに「読む順番」として、『論語』、『大学』、『中庸』であり、五教は、『易経』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』の順をいう。

教科書では、孟子は「性善説」に立つとして暗記させられるが、むかしの大陸の諸家は、日本人が「孟子」をしらないのは、伝えるために船に乗せても嵐(神風)で日本に伝播しないと評されていたとか。

この理由に、日本で決して「易姓革命」が起きないからとされていたという。

彼の大陸における王朝の変更は、必ず「易姓革命」であって、その正統性を論理で示したのが孟子の「湯武(とうぶ)放伐(ほうばつ)論」であった。
しかしてこの話は、大陸側が古来わが国の動静についてレポートして残していることが面白い。

あの『魏志倭人伝』も、そうして見ると、「気になる存在」だったのか?

さて、ここで出てくる「湯」とは、殷王朝の「湯王」のことで、「武」とは、周王朝の「武王」のことである。
湯王は、殷の前の「夏」王朝の桀王を、武王は、周の前の「殷」王朝の紂王をそれぞれ放逐して新王朝を建てた。

ようは「下剋上」であるし、もっといえば「主君殺し」である。

孟子はときの王に、この痛いところを突かれる質問を受けて答えて曰く、
「仁の徳を破壊する人を賊といいますし、正義を破壊する人を残と申します。残・賊の罪を犯した人はもはや君主ではなく、一夫つまりたんなるひとりの民となってしまいます。私は、武王が一夫の紂を討ち殺したと聞いていますが、君主である紂を殺したてまつったとは聞いておりません」(山本七平『日本的革命の哲学』)

孟子をどのように読むか?は、あんがいと変転がある。

徳川家康は孟子好きだったらしいが、それは、豊臣(王朝)を滅亡させたことの正当化でもあったはずで、幕藩体制が安定化すると孟子の扱いは低調になる。

それがまた、幕末には復活するのだが、幕府を滅亡させた薩長は、これを「易姓革命」とせず、「維新」と表現した政治センスは、日本人の特性を熟知していたからだとかんがえることができる。

そこに、松下村塾の吉田松陰の影響があるのは確かだろう。

孟子は、支配者における「仁」「義」特に、「仁」の喪失はどのような形に表れてくるのかについても語っている。

これぞ、現代の自公政権そのもので、まったく道徳がない者どもは滅ぼしてよい「湯武放伐論」が正当化される時代に堕ちている。

アメリカ合衆国憲法の修正第2条には、「武装権」が明記されているし、各州にも同じ定めがある。
政府が人民に「仁政」をなさなくなったとき、アメリカ人は武器をとってそんな政府なら倒してもよい。

なので、規律ある民兵の必要性が担保されていて、個人は武器を所持することが許されているのである。

ときに、民主国家の「憲法」とは、国民から国家・政府への命令書だから、このような条項があっても不思議ではない。

「仁政」を忘れた自公政権の憲法案にあるのは、彼らが支配者としての憲法を定めたい一心の内容だから、まったく話にならないのである。

それに、いまある憲法すら遵守する気がないのだ。

トランプ政権と「関税交渉」をするという愚かさに邁進するのは、戦前の比ではない。
この政権の戦略目標を無視した「交渉」はありえない。

自公のトップがそれぞれ、解体対象の中共と一蓮托生であることを示す訪中行動をとるのは、一体どんな了見なのか?

お仕置きしてください、という祈りにも似たことが、トランプ政権に向かっている。


日本政府の集団処罰の論理

集団を処罰するということを論理として成立させているのは、ユダヤ教(『旧約聖書』)にある、神に従わないイスラエルの民を神が滅ぼすことによって絶対化されている論理である。

ユダヤ教の神の激烈さは、「唯一絶対神、創造主、全知全能」ということの、本気の理解を要することにある。

これを、キリスト教とイスラム教がまたそれぞれの論理で引き継いでいる。

実は、宗教とは論理的でかつ哲学の要素を多分に内包しており、これらがしっかりとあってこその「世界宗教」になり得る要素となっている。
もちろん、神秘性も欠くことはないが。

日本人は、縄文からいままで、何世代もずっと日本列島に住んでいることに疑問を持つことがない。
このことは、案外と世界宗教的に珍しいのだが、それもまず意識することなく生活してきた。

外国人の目線からすると、ユダヤ人と同じで日本人は神からの約束の地に歴代、絶えること無く住んでいるのだ、と言われたら「はてな?」と思うかもしれない。
しかし、ちゃんと「古事記」や「日本書紀」に天照大神の「天孫降臨」としての神話「神勅」が残っている。

なんと、古代ユダヤ人たちがあらゆる艱難と神との契約を経て、ついにカナンの地にたどり着いたのとはぜんぜん違って、最初から日本列島にいる、ことになっている。

これは、完全なる「予定説」であって、「因果律」ではない、と解説したのは、小室直樹『天皇の原理』(1993年)だった。

聖書は神の予定=決定に基づく論理で一貫して記載されている。

しかし、天孫たる天皇は、古代までの「神勅=絶対的=予定説」が、承久の乱(1221年:承久 3年)で「因果律」へと変換されて、明治になって再び「現人神=予定説」へと復活をとげ、昭和の敗戦で再度「因果律」とされていまに至っている。

さて、ユダヤ教とここから生まれたキリスト教徒の決定的なちがいは、救済の対象が「集団」か「個人」かで分離することにある。
ユダヤ教は集団を、キリスト教は個人(しかも「内面」)を対象とする。
そして、ユダヤ教のばあいは、神が集団を処罰するのである。

平安時代の日本人は、「末法思想」にはまりこんでいた。
末法とは、仏教における「逆神化論」で、釈迦入滅後から世の中の人間はどんどん悪くなって、「仏法が滅亡する」ために、救済のための修行をする者すらも絶える時代をさす。

鎌倉仏教とは、この「末法の時代」における、あたらしい「救済」の提案であった。

それが、法然の「浄土宗」だし、親鸞の「一向宗:浄土真宗」あるいは、激烈な日蓮で、まったくもって、彼らの論理は、「パウロ」のそれ、つまり、救済は神(阿弥陀如来)の「念仏」か「法華経」を唱えれば向こうの方からやって来る、というキリスト教徒が驚愕する結論に至ったのである。

そんなわけで、フランス政府の宗教研究所は、浄土宗系の「仏教」を、仏教ではないと定義している。
仏教の本質は、修行による自己の救済にあるから、修行を否定することはあり得ないのだ。

つまるところ、わが国は、「末法の世」になって、1000年余りが経過した。

だが驚くにあたらないのは、釈迦の「次期仏」となるべく、弥勒菩薩がとっくに修行中で、56億7千万年後に世に下降するとの「予言」が仏典にあるからだ。

あと、56億6千999万9千年後にあらたな「正法の世」が来ることになっている。

しかして、わが国の仏教は仏教でもなくなったために、「法の不在」という事態となってとっくに1000年が経過したともいえるのである。

これを、川島武宣博士は、『日本人の法意識』(岩波新書、1967年)で、「明治政府は、ドイツとフランスの法典を模倣して、六つの基礎的法典を作った」けれども、「不平等条約を撤廃するという政治的な目的のために、これらの法典を日本の飾りにするという一面があったことは否定できない」と書いている。

つまり、「六法全書」とは、「鹿鳴館」での連夜の舞踏会とおなじことだった。

そんなわけで、日本人に、基本的な「リーガルマインド」がないのは、根に末法どころか仏教の放棄というすでにして1000年の伝統があるからなのである。

そこで、「末法の世」がさらに逆進化している現在、日本政府が日本国民を集団処罰するという段階に踏み込んだ。

もはや「民主主義」なる方便すら通用しない。

天皇に替わって「神」となった日本政府は、神への冒涜を許さないイスラエルの神とおなじく、政府への冒涜を許さない「集団処罰」をするまでになったのである。

わが国の政府は、古代イスラエルへと遷移した。

似た論理は、英国のスターマー政権である。
この政権も、古代イスラエル化を果たしたが、一方で、イスラム教をおおいに容認している。
しかし、イスラム教は「個人救済」の宗教ゆえに、「集団処罰」とは相容れない。
これが、英国国教会との絡みもあっての、大混乱の元なのである。

つまり、英国は、三大宗教の「るつぼ」に自らすすんでなるという「破滅」となったのである。

では、わが国はどうなるのか?

古来、わが国に取り入れられてきたのは、仏教以外では、儒教とキリスト教(ネストリウス派「景教」)で、イスラム教はない。
しかし、「神勅」の天皇が存在しているのである。

ちなみに、儒教も、救済の対象は個人ではなく集団であり、その方法が「よき政治」なのである。
儒教国家のはずの中国・韓国、ましてや「小中華」を自慢する韓国の政治混乱とは、一体何か?

さて天皇は、幕末・明治に国内では「現人神」への復活を遂げ、敗戦でまた影響力を削がれたが、英国陸軍元帥という序列(「ガーター勲章」が5代連続)に押し込められて150年となる。

わが国の正常化には、仏教の「正法の時代」を待つよりもなによりも「国学」の復活が最重要なのである。

実生活ではまったく「ひとでなし」だった島崎藤村の実父の生涯を赤裸々に描いた、『夜明け前』で、その青山半蔵は平田篤胤の国学に傾倒し、開国とともについに発狂して座敷牢のひととなる。
この悲劇は、まったく現代的なのである。

平田篤胤の国学が何だったのか?やら、水戸学、崎門の学を予備知識に持たないと、この小説の意味が理解できない。
逆に、「当時」の日本人の武士たちはこれらの「学」に精通していたので、現代はまったく退化したといえる。

それが、廃頽の大衆社会=末法の世、なのである。

姪との不適切な事態からフランスに逃げてヨーロッパ文明に冒された藤村は、あたかも暗い日本を「夜明け前」としたが、ほんとうはずっと長い末法の「真っ暗闇の中」のことであった。
混沌の『羅生門』が、いかに現代的であるかを観ればよい。

じつは、日本は、まだ夜は明けていない。

市場の多くが阿呆だと証明された

2日にトランプ関税2.0が発表されてからの「株価などの暴落」が、世界で喧伝された。

しかし、トランプ政権1.0でも、「関税政策」は実施されていたし、2024大統領選挙では、選挙戦ラリー会場でリアルに何度も聴衆に向かって「関税」について「公約」していたのである。

だから、政権発足後の「光速スタート」の実行力をみれば、トランプ政権が絶対に関税策を実行する政権であると普通に認識できるから、何も驚くには値しないのがふつうだろう。
それを、あたかも「寝耳に水」のごとき反応を示す日本政府やマスコミは、「演技している」としか思えない。

ところが、「(株式)市場」やら「(債券)市場」が大きく反応して相場が大幅に動いたので、あたかも連鎖反応のようになったのが印象的である。

とくに、一般人が取引相手ではない、つまり機関投資家というプロ相手の「(日本)国債の長期市場=30年もの」までもが反応して、大幅な価格下落(金利上昇)があった。

まさかの「入札」日と、関税率の発表が重なって、低調なはずの入札に拍車がかかって、落札するはずの安い価格水準の札までもが自動落札し、一部がこれをまた売却して「損」を確定したから、ほかの証券会社は「やめて!」と叫びたくなるほどの評価損を抱えることとなった。

これに、あの農林中金が別に作った損失の補填のために、なんとアメリカ国債を売却するという「暴挙」をやって、アメリカ側が震撼したのである。
すわ、日本政府による関税策への反発の強さよ!と。

ふつうに、わが国はアメリカの属国として、過去からの貿易黒字分を大量に保持させられているアメリカ国債を、所有権の行使として自由に売却することが許されていないことになっていたはずだ。

これを一度口にすれば、橋本龍太郎首相や、中川昭一財務大臣のように、「抹殺される」のが通例であった。

だから、今回の農林中金の売却を、農林省や財務省、それに日銀やらが知らないはずはない。
やれるものならやってみな!と突き放されてやってみたら売却できちゃった!というのが本当のところか?

じつは農林中金は、世界最大のヘッジファンドだと市場から認識されているのだが、それは、ソ連型の政府が仕切る民間ファンドなのだ。

ところで、トランプ政権2.0の「大戦略」は、中共解体とDS:Deep Stateの解体であることも、選挙公約から微塵も変化がない。
そのDSの解体プログラム中に、FRB解体=廃止があると、これまた公言しているのがトランプ氏なのだ。

わが国の場合、今国会で、原口一博議員が歴史的質問をして、「日銀の政府持分は55%」だという答弁を引き出した。
だが、残りの45%の所有者については誰なのか?答弁拒否の憲法違反が通った。

ここでも、憲法が解釈=慣習改憲されたのである。

「党」という組織内での常識に囚われる必然がある組織論の常識が、中共という巨大組織にも作用して、あろうことか「報復関税」で対抗してしまった。
その中共に、この時期に首相親書を持参する敵対行為も、アメリカ側はしらないはずもないが、これができるのも、与党の組織が組織内の都合に支配されているからである。

トランプ政権の見立ては、中共がWTOに加盟した2001年の「完全なる間違い」をもって前提としているのである。
この時のアメリカ大統領は、クリントンから引き継いだRINO=ネオコンの代表、ブッシュ息子であった。

今となっては屁理屈にもならない当時の論理は、「経済的な豊さを得れば共産国も自由化する」という、希望にもならない欺瞞だったのである。
それで、WTO自体が中共によって乗っ取られ、自由貿易体制そのものが歪んだのである。

しかるに、わが国政府は、ことここに至っても、自由貿易体制としてのWTOを堅持するというのは、中共の支配下に入り続ける、という意味に捉えられても仕方がないし、実際にそうなのだろう。

詳細なシナリオを書いているトランプ政権は、株価の一時的暴落も視野に入れていたろうから、なんの驚きもなく、ただ暴落後の「ここからが買いだ!」と思わず言ったトランプ氏の一言の方が、一歩間違うとインサイダーだと認定されかねない失言であった。

そんなわけで、数日で元に戻った相場であるが、数兆円がすっ飛んだことは間違いない。

株投資とは、いつでもどこでも「ゼロサム」なのである。

損をした者の後ろには、必ず得をした者がいる。
それが果たして誰なのか?
トランプ政権は、ちゃっかりウォール街とディールしているとみるべきだろう。

これが、ヘッジファンド創業者のベッセント氏が財務長官をやっている意味で、法学部をでた財務官僚が仕切るわが国が理屈でかなうはずも無い「必敗」の構図なのである。

残念だが、わが国は軍事官僚が仕組んだ大東亜戦争よりもひどい、経済官僚による経済戦争に負ける様相を呈している。

なぜなら、トランプ政権2.0の大戦略をみない振りをしているからである。

発展中止国

むかし、「発展途上国」といういい方がふつうだったが、これでは失礼だといういうことになって、「開発途上国」に変更された。

しかし、言葉には意味があるので、「開発」をドンドンやるために、資金をドンドン入れようということが「善」となったのだが、それがDOGEによって、「巨大マネロン」の仕掛けだったことが判明した。

もっとも、それ以前から、「アフリカ連合」は先進国やらからの資金が汚れていて、ぜんぜんアフリカ人のためになっていないことを主張していた。
とうとう堪忍袋の緒が切れて行動にでたのが、たとえば、西アフリカ・ブルキナファソ(Burkina Faso)の若き(暫定)大統領イブラヒム・トラオレ大尉である。

フランスのアフリカ利権が崩れだして、EU内での独・仏の支配が弛むことをおそれたマクロン政権がヨーロッパでの戦争を欲するのは、まさに第一次大戦前夜と似ているのである。

そのフランスは、10歳で人生が決まる『レ・ミゼラブル』よりもひどい苛酷な選別がある。

この点で、わが国はややマイルドで、中学・高校・大学のおよそ3段階の「選別」があるし、そもそも大学に進学するのに(貴族)身分はいらない。
とはいえ、難関校という人為に合格できるのは(準)貴族的な収入のある家庭に限られてきているので、「身分社会化」しているのが実態だ。

それでも、「四民平等」がほとんど完全実施されているという信仰に篤いわが国の常識が、まずヨーロッパで通じないのは、日本人にヨーロッパがいまでもむかしからの身分社会であることが理解できないからである。

その欧米によって開国させられたとき、領事裁判権と関税自主権がない、「不平等条約」に約半世紀も苦しんだのはわが国の重要な歴史だ。
なのに、アフリカのようにはならなかったのは、日本人の優秀さだということになっているけれど、ほんとうか?

むしろ、腹黒い英国の対露政策の中で、発展させられた、とはいえないか?

それが、戦後には、英・米の対ソ戦略から、ふたたび日本を発展させられたのだとかんがえれば、ソ連崩壊後の「発展中止」も含めて、辻褄があうのである。

ソ連の崩壊は、わが国のバブル崩壊と同時期であったために、日本人は「冷戦の終結」についてピンとこないままに生きている。
むかし活躍した評論家、竹村健一の人気は、いまなら絶対に放送されないことを直言していたことにあった。

そのひとつ、芸能界のスキャンダルをマスコミが大々的にキャンペーンしている裏で、かならず、国民にとって不都合なことが決定されている、というひと言が記憶に残る。

わたしにとっては世代がちがう、広末某の拘留にいたる事件の原因がなんだかに興味もないが、ドンピシャのタイミングにあるのは偶然なのか?

ときに、いまは、「トランプ関税」による、株安と債券安(金利上昇)に、マーケットが(過剰)反応し、それが世界同時の乱高下状態になっている。
トランプ関税の裏に、なにが隠されているのか?を、須田慎一郎氏がYouTubeで解説している。

それによれば、さいきん、影が薄い、「WTO」がWHO同様にC国に乗っ取られていることを前提として、各国がアメリカとの二国間交渉をはじめたのだというのは、説得力がある。
ふつうなら、WTOに提訴すべき話だからだ。

日本政府も、特使をワシントンに派遣すると決めたし、アメリカのベッセント財務長官もこれを認めている。
ただし、日本側の「論法」が相手を論破するはずもないのは、「関税自主権」があるためである。

はっきりと、トランプ大統領は、就任演説以来何度も発言しているとおり、ヨーロッパには「付加価値税」、日本には「消費税」が貿易障壁なのだと指摘しているのだ。

ただし、この就任演説の重要性はもっと巨大な「大戦略」を語っていることにあるし、それがゆえの関税だのといった各種政策と人事になっていることを忘れると、「トランプの異常性」という噴飯論になるから注意がいる。

時間をはるか以前に遡れば、アベノミクスについても、理屈に合わないばかりか、民主党野田氏の消費税増税に加えて、安倍氏も増税したのはトランプ政権1.0には文句のタネだったはずだが、積極財政という点で当時のトランプ大統領は評価していた。

これを方向転換させたのが、菅義偉政権以降なのである。

なんにせよ、30年以上経済成長しない世界的に珍奇な国になってなお、経済官僚は超が付く優秀だというには無理がある。

むしろその無能が、無能として評価されるべきである。

わが国は、「発展中止国」という、世にも珍しい国に成り果てたからである。

スポーツから人型ロボットを作る

むかし、「他流試合」というものがどこかに胡散臭さがあって、「道場破り」が商売になったことを蔑んでいた。

これには、幕府の「藩お取り潰し」による武士の失業の深刻さと、御家人やら大藩の江戸留守居役やらの自身の身分が安全な故の特権意識も関係しているのだろう。

いまようにいえば、正社員が派遣やパート・アルバイトをみる目がそれだ。

停滞した組織では、そんな正社員たちの歪んだ特権気分がはびこると、パート・アルバイトには、「言われたことしかしない」という了解が蔓延して、組織全体のパフォーマンスが見事に低下するものだが、原因の最深部たる奥に、そんな正社員を放置するような経営者がいるので、知らず知らずのうちに企業文化に変容するために誰も気づかないで沈んでいくものだ。

たとえば、スーパーを例にすれば、残念な職場環境の店は、パートさんが自店で毎日の夕飯の買い物をしなくなる。
だから、店長は、買い物客のポイントカードデータによる売り上げ分析よりも、店員たちの買い物実態を調べた方がよほど参考になるものなのだ。

歴史的失敗が予想される「大阪・関西万博」では、未来と称して中国製の「自動運転バス」が営業走行するらしいが、詳しい人によると、とっくに本物の自動走行バスが営業運転をしている中国からすると、地面にガイドを貼り付けるタイプの「古さ」が話題になっているという。

どうしてこうなるのか?はあんがいと簡単に想像できる。
文系の役人が仕切ると、成功している既存の実績のあるものしか採用しないからである。

これを「万博」でもやるのが、お役人様の習性というもので、「何かあったらどうする?」という言い分での「責任放棄」こそが、万国共通だから、「万博」に「出品」される意味があると考えればよい。

万博を主催する「協会」に、大量の役人が幹部として出向してくるのは、予算というカネを出すことの「見返り」だからで、実質「国営」の公共事業なのである。

一方、インフラ整備のための公共事業は、80年代半ばからの「構造改革」で、大幅に削減されたのは90年代のバブルを経て平成不況になってから本格化した。
また、人口減少からの「人手不足経済」という慢性病に陥ることが確実だという恐怖の刷り込みに成功して、外国からの「安い」労働力の輸入を図っているのが令和の日本政府のミッションになった。

要求しているのは、上に書いた正社員の堕落を放置する経営者たちである。

先月、テレビは東大の卒業式に突撃取材して、晴れやかだがどこかノータリンぶりをみせる東大生に、4月からの初任給を質問し「50万円」という回答を全国に放送している。

今どき、それを維持・継続・さらに昇給を得る困難を横にしての話に、全国の親世代を、「これぞ勝ち組」だとして脅迫しているのである。
果たして、先輩たちは今もその会社に在籍しているのだろうか?あるいは、その業界や企業にゴーイングコンサーンの思想はあるのか?に一切触れない怪しさに気づかい視聴者がいつものように洗脳されるのである。

ところで、人手不足を言うときの「人手」とは、一般に単純労働・未熟練労働を指すから、かような東大生が就く職はさぞや複雑で熟練を要するのか?といえばそうではなく、むしろ今後は、「A.I.と競合」する可能性が高いのだ。

それだから、単純労働のために外国人を輸入することになるのだが、困った経営者には、ロボットのことが頭に浮かばない。

今は、伝統武道でも多流派との交流によって、いいとこ取りを研究するのが当然となっている。
その典型が、大正から昭和に完成した「合気道」だ。

人間形ロボットの開発に、人体の動きを細かく分析するための「スポーツ」が深く研究されている。
そのひとつの商品が、テスラの「テスラ・ボット」だ。
価格は、ざっと300万円。

ここで、日本人が考えないといけないのは、テスラにできてなぜ日本のメーカーにはできないのか?なのである。
一方で、テスラ・ボットに対抗する中国製も大量生産の可能性があるのは、アメリカへの留学生やらの「仕事」だという評価から、「留学ビザ」の厳格化をトランプ政権2.0がはじめた。

人間型ロボットの動きが武道の極意から人間とおなじか凌駕することになれば、次が職業における動作解析という段階になって、あらゆる単純労働・未熟練労働への応用が可能なばかりか、熟練労働にも利用できるようになるのだろう。

そもそも、テスラ・ボットは、家事労働を補助するために開発されている。

しかして、日本の税制は家事労働を生産価値なしとしているが、この発想の「古さ」は、時代錯誤というレベルではない。

家事労働が無価値のはずがないからである。

産業立国や貿易立国の国是を捨てている日本政府とその指導者たる「自・公・立憲共産」政権の悪辣さがどこから生じるのかが不明だが、かつての日本だったらこんなロボットを発売するのは、まかしておけ、という気概があった。

それを懐かしむ時代になったのである。

端末普及したのに生産性があがらない

わが国でインターネットが一般に普及をはじめたのは、だいたい1995年(平成7年)頃からだった。
辞書的には、1984年(昭和59年)だとされているけど。

つまり、「昭和時代」に、インターネットは事実上ないも同然だった。

1985年にエジプトから帰国して、大学に4年生で復学し、早々に「卒論」に取り組んだけど、「(爆発的に)普及している」という経済新聞やらの記事に騙されたわたしは、秋葉原で「型落ち」のワープロをなけなしの30万円で買ったのを覚えている。

フロッピーはまだ「5インチ・ディスク」で、付属で「専用」のプリンターはインクがテープ転写式だったために、原稿用紙に印字を合わせる作業だけで、ずいぶんな印刷コストがかかった。
カートリッジ式の印字テープは、一回コッキリの使い捨て方式だったからである。

しかも、このワープロ「端末」には、通信機能がなかった。

逆に、「通信機能」があったところで、それがどんなものか?さえしらない時代だった。
それから翌年、ホテルに入社して、客室勤務になったときに目撃した外国人客は、客室の電話から「音声カプラー」で本国と通信していた時代である。

生まれて初めて買ったパソコンは、モノクロの墓石型、「Macintosh SE30」だった。
それでもまだ、自宅の電話回線(ダイヤル式)に接続することはなかった。

90年代後半にISDN回線が一般家庭に普及してから、ようやく回線接続して、なんとか頑張ったのが「パソコン通信」だったのである。
しかし、アマチュア無線の有線版のような、見知らぬひとと文字でやり取りすることがなんとなく不気味で、熱心さには欠けていた。

「インターネット」で、ブラウザ検索ができてはじめてその便利さを実感した。

そんなわけで、わたしが最初に手にした携帯端末は、10円だった「PHS」で、いわゆる「ガラケー」という言葉さえまだなかった時代のことで、小さくて軽くいのが重宝した。
ちなみに、女子高生の必需品だった「ポケベル」での文字通信は、わたしが高校を卒業してからのことで、就職したホテルでは業務用のローカル端末として使われていた。

ここで素朴な疑問として、昭和時代の生産性の方が今よりも高かったのはなぜか?が気になるのである。

人間の基本的な知識ベースが低下しているからではないのか?という勝手な解釈をしている。

それが「認知能力」につながるとすれば、当然に生産性は低下する。
もちろん、この認知能力を「読解力」と言い換えることもできるだろう。
もっと言えば、日本人間でも日本語が通じない、というコミュニケーションに関わる重大事だ。

細かくいえば、「語彙力」となるのだが、もしや動物のレベルに近づくようなことになっていないか?
普段の会話が、「ゲームプレイ」の状態に落ちているので、長文が理解できない。

受験勉強的になった学校の授業や塾での、「国語」の授業がいまどんな状況なのかしらないが、長文読解の訓練としてなにをやっているのか?
むかしは、難解な「超・悪文」が教科書に載っていた。
暗誦に値する「名文(章)」に、教科書で触れることは滅多になかった。

ハンナ・アーレントがゲーテの『ファウスト』を暗誦していたことは、前に書いた。

日本の武士の子なら、「四書五経」の暗誦は当然だったし、町人だって「論語」の暗誦をしていたのが、完全に退化したのである。
ユダヤ人(「ユダヤ教徒」のこと)が、いまでも子供に「トーラー(『旧約聖書』の「モーゼ五書」のこと)」を暗誦させているし、アラブ人なら「コーラン」を暗誦させている。

これが、どれほどの効果をもたらすか?は、強すぎて紛争の種になっているほどなのだ。

すると、日本の衰退ばかりか、ヨーロッパの衰退は、キリスト教における『新約聖書』のたとえば「黙示録」や「詩篇」の暗誦すら途絶えたことにあるのではないか?
アメリカ共和党トランプ派という、清教徒の流れをくむひとたちの篤い「信仰」は、この意味で興味深い。

トランプ政権2.0が目指す、教育改革は、教育省の廃止が目的なのではなく、各州の権限に教育行政を引き渡す事での、教育水準の底上げにあるという。
アメリカ人の認知レベルの低下に、トランプ政権2.0は危機感を抱いていると説明されるが、ことの根幹にキリスト教(プロテスタント)信仰への回帰があるとかんがえるべきだろう。

一方、わが国は、アメリカ民主党が仕切ったGHQの呪縛から抜ける努力ではなく、文科省の権益と日教組の権益維持とが一致するために、国民の認知力という視点からすれば、「悪化」しかない方策を推進している有様なのである。

いかも、学校はもはや自由設置ができず、文科省の認可を要することは、「加計学園問題」であからさまになったのに、マスコミはこれを別のスキャンダルにすり替えた。

黒柳徹子原作の『窓際のトットちゃん』が、昨年、国際映画賞を受賞して話題になったが、彼女が通った「自由学園」を、いま設立しようとしても認可が降りるはずもないことを、現代日本人はどう考えるのか?が抜け落ちている。

つまり、この物語の舞台である学校は、完全に「ファンタジー」となったのである。

それもこれも、通信端末は普及したが、「考える必要がない」までに飼い慣らされていることを感じもしないことが、重大な事態だと認知が行きつかないし、そんな風に考えることすら「させない工夫」に満ちているのである。

これを、奴隷化という。

そうやって意識を少しだけでも働かせれば、奴隷になるための教育のゴールが「受験」制度であって、「偏差値教育」がそれ、なのである。
「偏差値の高い学校=優秀な生徒が集まる」という仮説を、本当に信じるものがどれほどいるのかしらないが、いまや「信じるもが救われる」とはいえ「邪教」の状態になっている。

その信じ込ませるためのツール(道具)が、スマホなのである。

なるほど、生産性が上がらないばかりか落ちているから、賃金も上がらばかりか落ちているのである。