社会調査のウソを信じると

新聞や雑誌によくある「社会調査」は、ほとんどが「統計調査」とはいえない「エセ」情報だった。
いまでは、ネットで拡散するから、ずっと始末が悪い。

ちゃんとした調査には、ちゃんとした厳密ともいえるルールがある。
このルールにしたがって行った調査で、結果の分析にもルールを適用していることを明記しないといけない。
調査日や調査対象、サンプル数、有効回答数、それに無作為抽出などの「条件」の明記が必要なのだ。

こうした調査条件を表記しないで、いきなり数字やグラフを示すものは、ぜんぶ「エセ」だとみてよい。
すると、内容をみてはいけない、という判断が瞬時にできる。
「脳に有害」だからである。

残念ながら、人間の脳にある記憶は、覚えたいものと覚えたくないものを区別しない。
有害な情報も、記憶してしまうのだ。
しかも、人間の記憶は時間の経過とともにあいまいになる。

それで、当初は「有害だけど」とおもって記憶したものから、「有害」がはずれてしまうと、無害の記憶との混乱がおきて、わからなくなるのである。
だから、有害と結論づけた情報は、記憶の対象から外すべくみてはいけないのである。

昨今は、放送を観ながら手元のリモコンで質問にこたえられる、「双方向」な方法で、質問と回答を瞬時に出すこともできるようになった。
この方法の「いかさま」な点は、その放送を視聴しているひとだけという限定がはじめからあるのに、あたかも「全国民の回答」のように「演出する」ことにある。

それは、そうした「回答数」や「比率」をもって、番組内の話題を展開することにある。
これを何分も続けると、この放送の視聴者限定という条件が、視聴者の感覚から消し去ることができるのだ。

こうやって、テレビ脳という視聴者の脳(記憶)を操作することができる。
わが国の「放送法」は、とっくに「ザル法」になっているけど、悪質な情報操作であるから、「双方向」のやり方については、法律で規制をすべきだ。
国民の「脳」の「安全」を守るための規制はひつようだ。

一方で、学習指導要領という教育内容の介入についていえば、すぐさま廃止が望ましいけれど、できそうにないのでせめて、「情報操作される」ことの危険性と、その典型的方法については、「統計」の授業で教えるべきである。
むしろ、統計の授業における「主題」はここにある。

ゆとり教育で批判の象徴になった、「円周率=3」は、世間にショックが走った。
それは、「3.14に決まっている」ことへの反発でもあった。
しかし、武田邦彦氏はこうした批判に批判的だ。

そもそも、円周率とは、円の直径に対しての円周の長さの比をいう。
式にすれば、円周率=円周の長さ ÷ 円の直径の長さ である。
これが人生で、「役に立つ」のはどういうことか?
半円状の道路があったとき、直径を歩くのと半円を行くのとで1.5倍の距離が違うことをしっていればいい、と。

これには、教育の目的、という根本思想がないといけない。

上記の例は、経営にも重要な示唆をあたえる。
組織の目的や目標の達成がトップやマネジャーの仕事なので、これらのひとは、目的や目標の達成のための「筋道」をつけないといけない。
そのときに、さまざまな「経路=やり方」が描けるのである。

そして、それぞれの経路ごとに、リスク評価をしないといけない。
もちろん、リスクの低い経路=やり方を選択することになる。
それが、直径のような最短の直線なのか?それとも円周にあたるのか?というイメージができるかどうか?

これが、「経営センス」というものである。

そんなわけで、社会調査を発表した機関や会社が、どんなに有名であろうが、また、無名であろうが、その調査についての信頼性は、あくまでも中身であって、会社名の有名・無名のちがいではない。

有名な調査会社が発表した調査だから、そのまま「正しい」にはならない。
むしろ、あんがいと「話題性」を重視して「売っている」ことがあるので、有名な調査会社の調査ほど、ある意味、意地悪な目線でながめるひつようがある。

しかし、「うそ」とまでいわずとも、「あやしい」調査はたくさんあるから、これに飛びついて火傷を負うことがある。
すると、飛びついた側が「安易だ」という批判を浴びるので、やっぱり簡単に飛びついてはいけない。

わが国を代表する、といわれている大手高級旅館チェーンが販売した、「息子に胸キュン宿泊プラン」が、ここ数日、大炎上した。
「気持ち悪い」という意見が、突如爆発的に発信されたのだ。
それで、この会社は、HPにあった企画商品の案内を削除した。

どういう決済経路で正式な商品化とされたのか?

これが、経営センスのあるひとの見方になる。
元ネタになった調査は、大手広告代理店の発表を参考にしたものだ、とも商品解説の表示があった。

典型的な社会調査のウソで火傷した事例になった。

万能調味料発酵タマネギ

むかし、「米どころ」で有名な県にある旅館の再生で、調理場提案の「発酵玄米」をやったことがある。

毎日提供するために、炊飯器が何台も必要になるけれど、使わなくなってお蔵入りしているのが利用できるから、新規購入の必要もない。
そこで、従業員みんなで「試食」をしたら、「米どころ」のひとたちが皆「旨い」と納得した。

発酵玄米だけでは過激なので、従来通り白米も提供した。
お客さんを観察していると、「赤飯」と間違えているひとが続出した。
それで、「発酵玄米」の健康効果をポップにして掲示したら、ジワジワと人気があがった。

日本のふつうの家には、炊飯器は普及しているけれど、それが複数台ある家はふつうではない。
一台だと、発酵玄米が保温状態で完成するのに数日かかるので、ご飯を食べられない日がでてくるのである。

ここが、やや安易だけど「ふつうじゃないサービス」になった。

別のことを「傾向」として「確信」をしたのが、従業員がお客様に声かけして勧められない、という現実である。
せっかく手間をかけて、ふつうの家ではできないことをしているのに、掲示してあるポップに気がつかない「客が悪い」になるのだ。

そこで、どんなふうに教えてもらうと嬉しいのか?ということをテーマにミーティングを開いた。
パートさんたちは始めいぶかったけど、そのうち盛り上がって、最後は「セリフ」を決めた。

すると、こんどは掲示しているポップが邪魔になるという。
説明がおなじだからだ。
でも、波状攻撃が効くからと続けたら、だんだんと消費量が増えた。
これに気を良くしたのは調理場だ。

こうして、手間はかかるけど、嬉しい料理がさらに出るようになった。

世の中は、とにかく健康ブームが終わらない。
「ブーム」というのは「一時のこと」なので、もう健康ブームというレベルではなくなった。

この原因に、中途半端な科学知識がある。
さらにその原因に、「高校全入」があるとおもわれる。
義務教育を終えたら、次は「高等学校」へ進学することが常識となった。

じつは、日本の高等教育は、大学の専門課程からはじまって、ついには大学院でとなるようにできている。
「高等学校」と「大学教養課程」いう足せば5年間にもわたる看板に「疑義」がある。

なぜなら、高等学校は、「学習指導要領」に従っているから、「均質的な知識の伝達」に重きがある。
これが、「大学入試」の根拠なのである。

「均質的な知識の伝達を受け入れているか?」
受け入れた子どもは「合格」し、拒否した子どもは「不合格」となる。
その受け入れた子に、さらなる均質的な知識の伝達をするのが「教養課程」なのだ。

そんなわけで、科学の均質的な知識しかない、あるいはこのレベルにもないひとたちが、健康とは科学によると信じている。
人間は、摂取したものを消化して、栄養を得るのは正しいけれど、その「範囲だけ」ではない。

むしろ、いまだに「わからないこと」のうえに生きているのだ。

この「わからないこと」と、均質的な知識かあるいはそれ以下による「わからないこと」が混ぜこぜになって、なんだか「わかったような」気がしているのだ。

その典型的分野は、微生物による「発酵」である。
この真逆に、「腐敗」があるから、発酵と腐敗は表裏をなす。

へんてこりんなナショナリズムで、発酵食品の文化で日本は世界一だと自慢するむきがある。
あたかも、世界には日本「しか」発酵食品がないかのごとくの言い分には違和感しかしない。

たまたまだろうが意図したものであろうが、ながい時間の流れの中で、ひとは発酵と腐敗を見分けてきた。
それが、なぜか「臭覚」や「味覚」になって、発酵したものは「旨い」けど、腐敗したものは「吐き出す」という反応になっている。

一般的に、酵母菌、麹菌や乳酸菌、納豆菌とかの「菌」をつけていうけれど、別の分類では、カビ、細菌、酵母という分け方がある。
「酵母」は、酵母で、「麹」は、カビ、乳酸菌や納豆菌は細菌にあたる。

さてそれで、麹は、特殊な菌である。
地球上に、わが国を含めて東南アジア地域に「しか」自然界にいないのだ。
それでもって、麹をつかった食品は日本独特なので、「国菌」という栄誉をあたえている。

どうしてかたまたま「麹」が日本にいて、それを先人たちがたまたま利用した。
この麹こそが、「旨味」をつくる原因物質なのだ。

旨味をつくるには、さまざまな「酵素」をもちいる。
これが、味の「深み」となるのである。
さいきんになって、ようやくヨーロッパ人が気がついた「味覚」でもある。
「UMAMI」がそのままあたらしい単語にもなったのは、自国語で表現できないからである。

彼らは、肉の腐敗とたたかってきた。
そのための、胡椒を得るのに、何人のアジア人を殺してきたか。
胡椒がなかった時代のフランス料理を食べたいひとはいないだろう。
人類の歴史で、ヨーロッパが胡椒をしったのは、つい最近なのだ。

そんなわけで、発酵タマネギには、麹をつかう。
タマネギはおろし金でおろすか、フードプロセッサーでペースト状にする。
皮をむいておろす前に重量を計って、1/3の重さの麹を用意する。

麹には、麹の分量も加えた全量の1割ほどの塩を混ぜ込んでおき、これにペースト状のタマネギを加えてよくかき混ぜる。
煮沸消毒した瓶などに詰めて、毎日かき混ぜること5日で完成。
なお、ふたにはペーパータオルを挟んで、すこしだけ空気を通す。

納得の「調味料」ができあがる。

「大赤字」でも従順でいる神経

昨年度の「決算」がぞくぞくと発表される季節になった。

わが国では、役所の「会計年度」とおなじに、企業の会計年度もあわせているからである。
しかし、企業は「決算が重要」で、日本の役所は「予算が重要」という真逆がある。

外国のばあいは、やっぱり「決算が重要」で、議会の決算委員会は厳しい目をあてている。
もちろん、議員の目は「予算と対比」させてのチェックに集中する。
だから、予算委員になるよりも決算委員になる方が、優秀でベテランでないといけない。

わが国では、会計検査院という役所に丸投げしている感がある、と前に書いた。
とにかく影がうすいのが「決算委員会」なのである。

そもそも、わが国における「予算」も、初めは「明治政府」がつくった。
これを、「民間企業」が真似たのである。
むかしは、「均衡予算(論)」が常識だったので、政府も税収の範囲でつかいみちをかんがえた。

国内の税収ではぜんぜん足りない日露戦争の戦費調達は、高橋是清が奴隷としてアメリカに渡航して、脱走してから勉強した大学の学友やらの「人脈」で、なんとか「外債発行」して賄った。

でも、借りたものは返さないといけない、という日本人の律儀さ(決して踏み倒さない)が国民にもあるので、ポーツマス条約の理不尽に「焼き討ち」事件となったのである。
腹黒い外国だったら、「踏み倒す」ことを政府に求める暴動になるちがいがある。

それでも、いまからすれば、「暴動」がふつうにわが国で起きていた、ということだ。
大正期には、米騒動という暴動も全国で起きたのだし、大震災による朝鮮人虐殺も、暴動である。
海軍の5.15事件も、陸軍の2.26事件も、暴動だった。

つまるところ、「戦後」とはちがう日本人たちが日本には住んでいた。

ちなみに、米騒動によってできたのが「中央卸売市場法」なのである。
これで、食べものの流通を政府が制御した。
しかし、「慣性の法則」がはたらいて、「やめられない」ということになっていて、豊洲問題とかになっている。

政府は国民の代表がコントロールする仕組みになって、選挙がこれを支えている。
わが国に「(男子)普通選挙」ができたのは、1925年(大正14年)のことだから、しっかり国民が暴動を起こす時代の賜なのである。

フェミのひとは絶対にいわないけれど、女性参政権についての100万人デモがパリであったという歴史事実がある。
なんと、このデモは「参政権反対」を掲げていたのだ。

政治のような「穢いこと」は男がやれ、子ども産む神聖なる女性に関わらせるな、という主張であった。
なんだか、説得力があるのである。
それで、やっぱり全部が男には任せられない、に進化したのか。

そんなわけで、「攻撃的」ということについては、人類共通がある。
欧米人の耐性は低いけど、日本人は、ガマンの挙げ句に爆発する傾向が強いという特徴は否定できないのだ。

そこで、ガマン比べになる。

かつて「日本交通公社」という「公社」だった「JTB」だが、公社としての研究組織と、旅行会社としての事業組織に分割されたのは1963年(昭和38年)のことだ。
以来、わが国最大手の旅行会社として業界に君臨してきた。

旅行会社の定義は、かつての旅行業法で「旅行代理店(予約代行や切符手配)」とされていたけど、業務が「拡大」したのでいまはちがう。
なお、「第二種」という「業種」もつくって、宿泊業も参入壁が低くなった。

「ネット」との関係が、新聞業界と似ていて、ネットの旅行会社にJTBをはじめとした従来型の会社が、「負けまくっている」といわれている。

新聞が、オリジナルの記事(スクープ)を書けないように、記者クラブ(取材の談合)制度の「充実」に努力してきて、自滅したように、旅行分野も「情報産業」であることを忘れて、似たような商品群しか扱わないことで、本来のオリジナル提案業務を縮小したから、店舗を訪れる客が減った。

パッケージ旅行だけなら、ネットで十分だ。
そこへ来てのコロナである。

空前の「赤字1000億円」が決算発表された。
それと時をおかずに、政府はさらなる「緊急事態宣言の延長」を決めた。
飲食も飲酒もできなくして、不要不急の外出はするなと「要請」している。

「旅をするな」という意味だ。

飲食業界で反旗を翻したのは、グローバルダイニング社、一社のみ。
他の追随がないという、腰砕けが「業界」なのであった。

では、JTBはどうするのか?
いま旅行業界は、ドル箱の「海外旅行復活」を視野に、ワクチン・パスポートの導入に期待を寄せている感がある。

しかしながら、ワクチンに関するリスクもある中、消費者全員に受け入れられることではない。
むしろ、グローバルダイニング社の、「主張」にある、コロナという病の元についての検証を会社としてするべきだ。

しかし、ネットではすでに強烈な「証拠」があがってきた。
新型コロナウィルスの「存在」を認めている衛生機関は「ない」のだ。
ならば、社と業界をあげて「暴動」を起こしてこそ、国民が納得する。

これぞ、企業の社会的責任であり、信頼強化なのである。
コロナ禍でだれが社長をやっても業績は変わらない、というのも「うそ」である。

「旨い飯」は観光になるけれど

前に「なんにも用事がないけれど」と、とぼけた書き出しの、内田百閒『阿房列車』のことを書いた。

蒸気機関車時代の東海道本線を、「特別急行列車」の「一等車」で東京から大阪に行きたくなったという話である。
目的は、一等車に乗ること「だけ」なので、大阪に着いても何もせず、引き返してくるのである。

  

ある意味、「ご当地自慢」のひとたちには、この上なく失礼な話なのである。
せっかいおいでになったのに、なんにもしないで帰るとは。
しかも、本人は、真面目に「観光を忌避する」のだ。

名所旧跡から、ご当地グルメまで、一切、興味がない。

しかしだからといって、「観光を否定はしていない」のは、とにかく「列車に乗ること」が当人には十分に「観光」なのである。
その意味で、「乗り鉄」という分野限定の「禁欲的な観光」を好んだということになる。

いまだって、「乗り鉄」はたくさんいる。
にもかかわらず、「乗り鉄」さんたちが満足できる「鉄道」や「列車」が減った。

これも前に書いたが、ウィスキー会社のCMで、地方を走る機関車がけん引する客車の「夜行列車」の昔の堅い木の座席に揺られながら、ズボンの後ろからポケット瓶を取りだして、ほとんど誰もいない社内で、そっとキャップに注いだら、一気に飲み干すシーンがあった。

おとなになったら絶対にやってみたい、そう思っておとなになったら、こんどは「夜行列車」が絶滅した。
絶滅した歌謡曲にだって、フォークソングにも、「夜汽車」は定番中の定番だったけど、「感傷にひたる」風情も絶滅してしまった。

なにしろ、窓が開かない車両がふつうになったから、駅弁さえもホームの売店で買う物になった。
窓まで届けてくれた昔の方が、よほど便利だったのだ。
お釣りのやりとりにドキドキしたのも、旅の風情であった。

いまや、社内販売さえ、「中止」に追い込まれて、これを「世界標準」だといって、変な比較の仕方をして正当化する。
そんなわけで、「速いがいちばん」というリニアな価値観も、どうも子どもっぽいのだけれど、「遅いのが困難」なのが、「システム最先端」の本当なのである。

じつは、「遅いけど安価」が、25年以上前から、とっくに困難な研究テーマになっている。
たとえば、宅配便。
一週間かかってもいいから安くしろという要求に、いまだ対応できないのは、ものの滞留には場所(土地)を必要とするからである。

『阿房列車』のように、移動方法自体が目的になったり、目的地までの移動が目的になったりと、変わるのは人間の「目的」で手段ではないばかりか、おなじひとがこれを使い分けている。
もちろん、だれにだってこの「使い分け」はある。

たとえば「100均」での買い物。
高級車で買いに来るひとがいるのは、おカネがないからではなくて、さまざまな目的があるからで、物欲だけではないだろう。
もちろん、おカネがないひとだって、高級ブランドバッグを愛用していたりする。

そんなこんなをかんがえながら、「旨いご飯」を食べたくなった「だけ」で、自宅から250㎞を往復してみた。
地元在住の皆様には申し訳ないけれど、この店の他に目的地はないのは、他に情報を知らないからでもあるのだけど、「事前期待値」が度を抜けて高いから仕方がないともいえる。

それでどうだったか。
「期待」を「裏切る」、驚くほどのレベルの高さは、まさに「突き抜けて」いた。

食したのは夫婦ふたりで、豚汁、ご飯、に小皿はシェアして、多種のなかから、マグロブツ、鯖醤油煮、とろろ、玉子焼き、というチョイスをした。
お題は、全部で2300円ほど。
街道筋の「定食屋」にしては、やや値は張るか?

しかし、人生で過去にない「旨さ」を経験したのである。
大満足の満腹で帰路についた。

目的は達したから「当然」である。
けれども、ご当地に興味はないことにも変化はない。
つまり、わが家にとっては十分な「観光旅行」なのであるけれど、ご当地の観光業の皆さんには「なんにも」ならない。

ただただ、帰路の自家用車の車中は、「盛り上がった」のである。
これが、利用客における「フォロー」の態度である。
そして、ひとは、「いいこと」を他人に語りたくなる、という習性をもっている。

その数、ざっと15人と計算しているひとがいる。
このブログの読者はもうちょっといるので、平均値のもっと上をいくことになる?

店名などは、是非コメント欄からお問い合わせください。

さてそれで、この「突き抜け感」である。
尋常ならざる「旨さ」を毎日のように提供しつづけることができる「仕事」は、「プロフェッショナル」のそれであると確信する。

こんな「旨いご飯」は、麻薬と同じ効果を持つ。
絶対に再訪したい。
すなわち、習慣性に近い、一種の「中毒性」をいう。
人生であと何回このご飯を食することができるのか?

すると、ちょっと意地悪な気分もしてきて、地元民が恨めしい。
けれども、地元民には「ふつうの味」にちがいない。
それがまた、嫉妬心をくすぐるのである。
われわれ夫婦には、往復500㎞の試練を乗り越えなければならないのだ。

地元民の「灯台下暗し」とはこのことである。

さては、「超うまの朝ごはん」を気合いを入れて毎日提供できるのか?
「旅館の要」はここにある。

問題は「撃てる」のか?

人類史上最大の詐欺とその「人為」による被害が「コロナ」であることがだんだんわかってきた。

この詐欺を仕掛けたひとたちの「次」を阻むのは、アジアの大国の「横暴」になりそうな様相である。

「クアッド」の枠組みに、どんどん「参加」する国が増えてきて、「連合軍」を形成しつつある。

「産軍複合体」と歴史的に「癒着」をしてきた、アメリカ民主党と共和党主流派は、戦争の仕掛け人であるから、アジアの大国の横暴を暴虐に格上げしつつ、武器消費の算段を立てているはずである。

ちなみに、共和党は、トランプ氏(共和党保守派)の巻き返しによって、主流派がいまでは主流でなくなってきている。
その証拠が、今月12日、反トランプの急先鋒、リズ・チェイニー(Liz Cheney)議員を、連邦下院の同党ナンバー3の座から解任したことだ。

彼女は、ブッシュ政権(息子)の副大統領で、父ブッシュ政権の国防長官だった、リチャード・ブルース・チェイニーの長女である。
いわゆる、「ネオコン」なのだ。
「解任」されても、「共和党はやめない」というけれど、来年の中間選挙で「共和党候補」になるための地元予備選挙で勝てる可能性は少ない。

とはいえ、清教徒の流れをくんで「信教の自由」に敏感な共和党保守派も、アジアの大国内で起きている「人権侵害」を許すことはできないから、「きな臭さ」を消す勢力がアメリカに存在しない。

また、18日には民主党のペロシ下院議長が、北京オリンピックへの政府関係者の不参加を世界に呼びかけた。
選手のことではなく、随行する外交官のことを指す。
ある意味、巧妙な「ボイコット」の呼びかけとなった。

はたして、トランプ氏が政権をさった後のアメリカは、誰が運営しているのか?という「うわさ」をいえば、退任直前に「限定的戒厳令」を発令したという「お話し」がある。
つまり、「軍政」である。

この件では別の「うわさ」があって、4月14日に、国防総省内で「将軍たちの反乱があった」という。

それは、バイデン・ハリス政権を「正統」とする、統合参謀本部議長のマーク.A.ミリー(Mark Alexander Milley)と、州兵局長官(陸軍)ダニエル・R・ホカンソン(Daniel R. Hokanson)の二人の4つ星将軍(大将)を、米海兵隊司令官デビッド・H・バーガー以下の大将たちが「逮捕」した、という「お話し」である。

軍内のことだから、即座に二人の将軍は、キューバにあるグアンタナモ基地(収容所・軍事法廷)に送致されたという。
よって、現在の米軍および政権は、バーガー海兵隊司令官が主宰しているとかんがえられている。

ここから派生して、ヒラリー・クリントン女史の処刑(4月26日)も「うわさ」されている。

そんなわけで、ペロシ氏もいつ逮捕されるのかわからない身だと「うわさ」されているし、すでに「別人」の女優が役回りを演じているという「うわさ」まである。

こんな「うわさ」が根拠をもつのは、アジアの大国とズブズブのはずのバイデン氏が、どういうわけか「対中強硬」なことである。
ここに、軍の操り人形ではないか?ということの「希望」をふくめた「お話し」が成りたつのである。

さてそれで、現代日本人がもっている「平和ぼけ」という点をいうと、戦争をやりたがるのは「軍人だ」という勘違いがある。
じつは、軍人は基本的に戦争を嫌う習性があることをしらない。
なぜなら、軍人の立場になってかんがえればすぐにわかる。

兵卒なら、命がけの危険にさらされる。
将校や指揮官なら、作戦の失敗はゆるされない。
ましてや、直接敵と対峙しない「大将」ともなれば、自軍の損害や勝敗に直接的な責任を負わされるばかりか、それが「歴史」になって死後も永遠に語られることになるのだ。

つまり、やるからには絶対に勝たなければならないのは当然で、現代では「圧勝」という状況も要求されている。
臆病なまでに「用意周到」になるのが、現代における本来の軍人の姿なのである。

しかし、それは、「軍」であることの発想である。

わが国に「軍」は存在しない。
だから、「防衛費」をいかに増額しても、敵に向かって「撃てない」という問題が突き刺さる。
「張り子の虎」とは、わが国をいう。

軍人であれ自衛隊員であれ、国民である。
職務として敵に対峙したとき、殲滅しないといけない、という状況になって、撃てない、というのは、「見殺し」を想定しているという意味となる。
日本国民は、自国同胞を見殺しすることを「正義」としている。

水面下で、すでに第三次大戦は、はじまっている。
その準備が、できないままに「開戦」となれば、あとは「超法規的措置」しか方法がない。

憲法によって殺される。

これを痛いほど味わうことになるのは、拉致被害者を放置したと同様の痛みの報いである。

日野市議コロナ質問の核心

東京都日野市議会議員、池田利恵というひとである。
プロフィールに、「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会・事務局長」と「新型コロナウイルスを考える会・事務局長」とあって合点がいった。

発端は、さかうえひとし(坂上仁志)というひとが、ネット動画で説明しているコロナの「事実」が、話題になっていることからの「発見」である。

わたしが驚いたのは、池田氏の「主張」でもある、市議会での「質問」内容が、これまでわたしがこのブログで書いてきたことと、ほとんどおなじ、ということなのだ。
「仲間がいた」というのが、ほんとうの「発見」である。

わが国には、国家の立法機関である国会に、地方の立法機関である地方議会がある。
地方の立法機関では、憲法に従って、あるいは国の定めた法に従って、「条例」を定める権能を有している。

この「条例」には、罰則だってあるのだから、地方議会をバカにしてはいけない。
なので、都道府県警察は、組織内の管轄地域自治体が定めた「条例」の取締も職務範囲にあって、警察署長がこれを管轄することになっている。

もちろん、地方議会といえども議事に「虚偽」があってはいけない。
質問する側、答弁する側それぞれに、「真実」が求められるのは、当然のことである。
これを、「公人の責任」というのである。

ときに、昨年6月8日の定例市会において、「コッホの原則を考えてみると新型コロナウイルスの存在は証明されていると思いますか?」と核心をついた質問をした。

市当局の答弁は、「この件に関しては短期間にいろいろな変遷があり、社会的に影響が大きくなっております。今後も国や都の動向に注視しながら情報収集してまいります。」と、国家中枢の官僚と同様の「意味不明」な答弁をした。

これに議員は、「担当としてはその回答しかできないことも一定の理解ができます。」とおとなの対応をしている。

この質問にあたって、議員は、上海公衆衛生臨床センター張永振教授の研究チーム提出の「A new coronavirus associated with human respiratory disease in China(中国のヒト呼吸器疾患に関連する新しいコロナウイルス)」という論文を資料として議会に提示している。

さらに、なんと、発信の根源である、この上海公衆衛生臨床センターは、1月11日にウイルス情報サイトに掲載し、その「翌日に閉鎖」になっていることを曝露している。

この質問は、まさに「核心」なのである。
もしや「ありもしないウィルスに翻弄されてはいないか?」

それは、この「論文」という「情報ウィルス」という意味だ。

日野市議会での4日後、12日(金)では、第2回大阪府新型コロナウィルス対策本部専門家会議が開かれた。
吉村大阪府知事の質問:(第一回目の)緊急事態宣言も営業自粛も全く効果がなかったということですか?
専門家(大阪大学核物理研究センター長中野貴志教授)の回答:なかったとおもいます。

やっぱり「ありもしないウィルス」か?

その後、「12月定例日野市議会」において、11月30日に同議員はまた質問に立って、「以前よりお伺いしておりましたが、PCR検査が新型コロナウイルスを検出している科学論文はあるのか?新型コロナウイルスの存在を証明する科学論文があるのか?二つのエビデンスを出して下さい。」と質問した。

なんだか日野市職員がちょっと気の毒になるけれど、議会で正当な質問には回答の義務がある。

答弁は、「議員より予てから調べるよう要請がありましたPCR検査が新型コロナウイルスを検出する論文、及び、新型コロナウイルスの存在を証明する論文は、国や関係機関にも問い合わせておりますが、探すことが出来ておりません。引き続き、調べてまいります。」

うそでしょ?
論文がない。

これを議員は、自ら事務局長の「新型コロナウィルスを考える会」として、「10月22日の段階で厚労大臣宛てに行政文書開示請求をしておりまして、同様の質問「新型コロナウイルスが存在するという事を証明するエビデンスの要求」を提出しました。これに対する回答が 11月20日に「開示決定等の期限の延長について」と云う通知で再度、回答を本年12月21日に60日間延長する、と云う文書で受け取った」、という。

「不開示情報該当性の審査に時間を要するという事ですが、情報公開法は原則開示だが、例外として不開示にすることが認められる場合があり、その例外に該当するか?という事だと存じます。これはワクチンを接種する国民にとって大変重要な問題です」。

開示延長された「その後」について調べてみたが、ネット上で検索できなかった。
「例外」とされたかの確認もできていないので、念のため。

つまり、もっとも重要な「ウィルスの存在」が、わからないままになっている、ことだけは、「事実」なのである。

さて、地方議員による場外ホームランどころの話ではない。

国会はなにをやっているのか?

素晴らしき「きたなシュラン」

見た目は汚いけれど、料理は美味しいレストラン、というアイデアを「お笑い番組」でやったことが見事だった。
世界的レストランガイドに引っかけた、「ネーミング」も見事で、フランス人には意味がわかるまい。

じつは、一種の「ドキュメンタリー」なのである。

これを真似て、自分の個人的人生経験から、勝手に「きたなシュラン」を見つけて、勝手に認定する、ということもできる応用が効くことも、あんがいとうれしいことになる。
これは自分の「秘め事」にすることだから、SNSで紹介したりはしない。

前にも書いたけど、わたしはネットのレストラン・ガイドをみない。
みても、もっぱら場所と営業日・時間の確認であって、本来の「書き込み」は「みない」ということだ。
「参考にならない」というのが、結論になっている。

なので、自分で「書き込み」もしない。

たとえば、「ものすごく美味い」とたくさん書かれているからといって、「ものすごく美味い」とはおもえなかったり、その逆に感じることがある。
また、インスタントラーメンの方がよほど美味い、という書き込みがあるのに、ぜんぜんちがうこともある。

書き込むひとの正直さがわからないけど、最初に疑うのは「味覚」である。
それでもって、書き込んだひとの正直さも疑うことになるから、最後は日本人の劣化を嘆くことになって、なんだか大袈裟になるのが嫌なのである。

まぁ、どうしょうもない日本と日本人を「これでもか」とこき下ろしながら、だからこそ「伸びしろ」がある、という希望的観測を書いているひともいらっしゃるから、やっぱりひとそれぞれなのである。
むしろ、フランスのように何度も革命で世の中がひっくり返るような、グダグダを経験しないといけないとした、小室直樹の方がわたしの性に合うのも、「好み」なのだ。

それでもって、前から気になっていた店に行ってみた。
何度も前を通過しているのだけれど、コンサバなわたしは遠くの行き慣れた店に入ってしまっていたのである。
しかし、今日はちがう。

腹が減って、いてもたってもいられない。

まるで、『孤独のグルメ』の主人公になったようだ。
いまいる場所から、最も近いのが、「あの店」である。
駐車場は幸いにも1台分だけ空いていた。
それにしても、「近接」して気づいたのは、入口の窓に貼ってあるメニューの「値段」だった。

あまりの「安さ」に、気が引けるだけでなく腰が引けた。
300円台からある。
しかし、もうどうでもよくなって、ままよっと入店した。
なるほど、常連とおぼしきひとたちの店であった。

そこに、妙に人懐っこい親父さんがやってきて、自分ひとりで切り盛りしているから時間がかかる、なので、無料だからコーヒーでも飲んで待っていてくれという。
ちゃんとしたコーヒー・マシンが、きたない店内の奥にあった。

セルフなのでとりあえず、アイスコーヒーを選んだけど、それが「ふつう」のアイスコーヒーなのに、すこしだけ驚いた。
ふつうの喫茶店のように「うまい」のである。
なんだか、異空間である。

壁には、緑のメッシュのジャケットが掛けてある。
「◯◯小学校」と背中にあるから、登下校時の「緑のおじさん」をやっているのだろう。

メニューから「最高額」の「トマト・ラーメン650円」が目に飛びこんだ。
「ソース焼きそば400円」、ぜんぶ税込みである。

両方とも注文した。

先に出てきたソース焼きそばは、意外なボリュームで、しかも、意外な美味さだった。
またまた、ふつうのソース焼きそばなのだ。
具材もちゃんと入っている。

すると、おもむろにトマト・ラーメンができた。
自分でとりにいくと、匂いが「イタリアン」なのである。
スープは、バジルが効いた、およそラーメンどんぶりに入っているとはおもえない、濃厚なトマト・ソースである。

そこに、ラーメンが沈んでいる。
しかしながら、この麺に腰があって、けれどもパスタではない、不思議な感覚だ。

気がつけば、親父さんが横にいて、「トマト・ラーメン初めて?」という。
いやいや、この店が初めてでしょうと内心おもったけれど、構わずに出てきた言葉が、「セットの半チャーハン」だった。
この味にチャーハンはないとおもったら、案の定、ご飯と粉チーズの「スペシャル・セット」があるよ、という。

この際だから、一通り経験しておこう。
たしかに、このスープというかソースにご飯をからめたら美味そうである。
それで出てきたのが、小皿に山盛りの粉チーズとご飯だった。
「リゾットみたいでしょう?」

おっしゃる通りである。
壁の写真にある、特製ピザは昼でもできるかときいたら、うれしそうに、大丈夫、パリパリで美味いよという。
どうやら、親父さん本人がイタリアン好きのようである。

ならば、どうして中華食堂なのか?

「井之頭五郎」のごとく、おおいに食べ過ぎたけれど、美味かった。
しかし、パルメザンチーズをあんなに出して、原価と見合うのかが心配になる。
こんなに食べて、これだけの価格。

だれにも教えたくない、「きたなシュラン」を発見した。

グローバルダイニングは勝てるか?

東京都を損害賠償で訴えてから、もうすぐ2ヶ月になる。
果たして、原告は勝てるのか?

ところで、この裁判、ロックオンされたのはなにも「東京都(知事)」だけとは限らない。
周到な「仕掛け」がこめられているのである。

このことをしるには、本件で2月1日衆議院内閣委員会で足立康史議員の質問に立った近藤正春内閣法制局長官の「カミソリ」のような、キレのある答弁である。
これを、倉山満氏と弁護士の横山賢司氏が指摘、解説している。

要は、「新型コロナ特措法案」にある、「過料などの強硬措置」に対して、「国家賠償」を問われ、「敗訴」することはないのか?という、たいへん「よい質問」への、これまた「よくできた答弁」なのである。
その全文は以下のとおり。

「過料を科するということで、特に今回、わたしの方からお願いしましたのは、これまでの措置の、都道府県知事が行われる前に、特に専門家の方の意見を再度聞くようにということを法律で義務づけていただきまして、より科学的知見で、不用意に広がらないように、本当に疫学的な見地からここはどうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただくというところで、より過料との見合いで、厳重、慎重な発令というものをお願いするように今回の条文ではなっております」

本題にはいる前に指摘しておきたいのは、これが、「わが国法治だ」というおそろしい「現実」のことである。
つまり、「内閣法制局」という、法律製造所がある、ということの「問題」である。

それが、「わたしの方からお願いしました」、つまり「加筆した」ことなのだ。

国会が「唯一」の「立法府」なのだから、国会が法律製造所でなければならないのに、本当は、内閣法制局にその機能を奪われているというのが現実なのである。
しかも、ここは、各役所から出向した「官僚の巣窟」なのである。

現・長官職の近藤正春氏も、元は「通産官僚」(昭和53年入省)であった。

だから、この「質疑」がおかしいのは、質問者の足立議員も、元通産官僚(平成2年入省)だから、後輩が先輩に質問して、先輩が後輩を諭すような答弁をした、という、まことに「内輪話」ともとれるところが滑稽でもあることだ。

さらに、コロナ担当大臣の西村康稔氏も、元通産官僚(昭和60年入省)だということを覚えておきたい。
じつは、「防疫」担当の厚労省の影がうすく、なんだかコロナ対策が経済政策になることの原因がここにあるのだ。

本題に戻る。
近藤長官がかんがえて構築した本法の、「コンセプト」は、倉山・横山両人が指摘しているように、「4つの基準」をもって「過料」の正統性を確保する建て付けになっている。

1.専門家の意見を再度聞く
2.科学的知見、疫学的な見地
3.必要最小限(どうしてもやらなきゃいけないというところにある程度絞っていただく)
4.量刑比例の原則(より、過料との見合いで、厳重、慎重な発令)

そして、重要なのは、この4つをすべて充たさないといけない、ということだ。
もし、ひとつでも欠けると、「違憲」もしくは「違法」となる、と「説明した」のである。

さて、国会が立法府である、ということに戻ると、「国会答弁」自体が「法解釈」となることにも注目したい。
つまり、議員からの質問に、国会で答えた内閣法制局長官の言質とは、べつに内閣法制局長官でなくとも「法解釈」として「正式」なものとなるのだ。

これが、「2月1日」であった。
グローバルダイニング社が訴えたのが、「措置命令書」が発出(3月18日)されたあとの「3月22日」なのである。

ここに、原告弁護団の「用意周到」を感じるのはわたしだけではあるまい。
権力の行使にだけ邁進する、東京都の「脇の甘さ」もあるけれど、原告がロックオンしているのは、東京都の担当部署の役人ではなく、「都知事」そのひとにある。

また、内閣法制局が「可」とした法律である、とした「形式上」の正統性「しか」いわない、西村大臣もロックオンしている。
彼の脳内は、官僚のままであって、国会議員・政治家脳に進化していない。

もし、このひとに議員・政治家としての「読解力」があれば、法制局長官というよりも、通産省の大先輩が諭してくれたことの意味を重く受けとめるはずだからだ。
都知事とおなじく、権力行使に陶酔しているから気づかないのだろう。

そんなわけで、内閣法制局がからむ「行政訴訟」における、裁判所の「忌避行動」(原告が負ける)は、今回、いつもとはちがうことになる可能性がある。
いつもなら、地裁勝訴 ⇒ 高裁逆転敗訴(被告勝訴) ⇒ 最高裁棄却(高裁確定)なんだけど。

つまり、かなわないと裁判官が内心おもう、内閣法制局の論理が、その長によって「解説され」て、大ヒントになっているのである。
しかも、原告弁護団は、かならず「4つの基準」を突いてくるはずだ。
なにしろ、専門家の代表が「エビデンスはない」と、公共放送で公言してしまったのだから。

業界人は、よくよくこの「論理」を研究すべきである。
目が離せない裁判なのである。

境界のない「自然」

「自然」がだいすきだ。

ところが、「自然」とはむずかしい言葉で、なにをあらわすのかよくわからない。
その都度ちがう場面で、「自然」をいう。

たとえば、明治期の「自然主義文学」。
フランスのエミール・ゾラを源流にするけれど、日本人はこれをすっかり「日本化」させて、ゾラの魂胆とはちがう方向へといって、それをまた「自然主義」だと言い張った。

「わたしは自然が大好きだから、自然のなかで馬に乗る」ということを、「自然派」をうたう企業の宣伝で流している。
あたかも、出演している女優の「素顔」のような表現をしている。この女優にはなんのうらみもないけれど、言葉をよくかみしめれば「意味不明」だ。

「自然」という言葉が、なんとなく「自然」に耳に入る。
でも、馬術クラブらしき背景映像と合致しない。
整備された馬場で馬に乗ることが、自然が大好きだから、といわれても、ちょっと意味がわからない。

もちろん、「自然」といえば、「自然科学」がある。
人間の手が及ばない世界の生きものたちやら、現象を「科学」する。
典型的「理科系」の世界でもある。

日本庭園の「自然」は、おそるべき「設計」と「作庭技術」とによって、人工的につくられているのに、鑑賞者はこれを決して「すばらしい技術」とはいわず、かならず「理想的自然美」といって礼賛する。
それが、「盆栽」や「箱庭」としてヨーロッパが輸入した。

世界帝国をつくったイギリス人は、その豊かさをもって真似たのが「ガーデニング」で、オリジナルの日本庭園とは似ても似つかぬものとしたのは、「自然主義文学」の逆パターンである。
それで、「英国式ガーデニング」が輸入されて、日本家屋の庭を飾っている。

日本の「盆栽」や「箱庭」の専門家からしたら、「逆輸入」なのだけど、趣味の世界に目くじらを立てる気はない。
それよりも、日本庭園の「人工」に驚くのである。
アスファルトの道路から、塀一枚を隔てるだけで別世界がある。

これを、意図して作っている。

自然に放置して、日本庭園ができるわけではない。
たとえば、「棚田(千枚田)」をみると、ひとは農業で暮らしてきたDNAが感情を湧き起こして、感涙にむせぶほどに感動する。

そこには、何年もかけて作り上げた作業の重みと、これを維持する作業の重みがかさなって、「米を得る」ための執念を読みとるからだろう。
すると、「水」はどうやって確保したのか?とか、畑じゃダメなのか?とか、さまざまな憶測が浮かんでは「粉砕」される。

人の手による「立体的造形美」がパノラマとなって、圧倒的な迫力となるからである。
10や20世代ではない時間の継続性も、追い打ちをかける。

だからいま、機械を入れられない、上部の小さな面積の「棚」ほど、耕作放棄されていると聞けば、農作業の辛さをしらない都会人は、「傷つけている」と残念がるのである。
しかし、おそらくその「棚」からの収穫は、「これだけー」なのである。

すると、農家の経済として、投下する労働力と収穫の見合いから、「放棄」という結論が出たものに、外部の「景色」を楽しむひとから文句をいわれても、対処の方法がないとしていた。
しかし、それならと、外部のひとに「耕作募集」をかけている。

水は高いところから低いところに流れるのは、「自然」である。
すべての「棚」に引く水をコントロールするには、最上部が重要なのだ。

いま、人類は聖書で懲らしめられた驕り高ぶった人々のように、「科学万能」に酔っている。
ところが、肝心の科学のレベルを、一般人はしらない。
それで、専門家のいうことを鵜呑みにすることになった。

専門家は嘘を言わない、ということが「信仰」になったからである。
ところが、あらゆる分野・業界の専門家は、研究予算というおカネがないと生きていけない。
それでもって、とうとう「魂を売って」しまった

はてさて、水が高いところから低いところに流れるのは、「重力」がはたらくからである。
しかしながら、人類はいまだに「重力」がなんだかわかっていないのだ。
りんごが木から落ちるのは、「万有引力(重力)だ」まではいい。

それがどうして「力」になっているのかがわからないから、重力をコントロールすることができない。
「自然」まかせなのである。

あと何年したら、重力をしることができるのか?
1000年ぐらいだろうか?

その前に、耕作放棄地の雑然を、「自然」だとおもわないことの反省がいる。

あんがいと、「自然」は「醜い」ものなのだ。
「美」と「醜」の境界はなにか?
それは、人間側の事情できまることであって、「自然」はお構いなしなのである。

だったら、いまでは死語になったように使わないけど、「天然」という概念が前面にでてきていい。

天然ガスの天然だし、天然ボケの天然である。
自然は「愛でる」ものだけど、天然は?

重曹水健康法で重曹生活

世の中には、さまざまな「健康法」があるし、それにともなう高価なグッズもさまざまある。
しかも、むかし習った、古代エジプト最期の女王クレオパトラ(7世)のように、あるいは、おなじく「不老不死の仙薬」を求めつづけて、水銀中毒で亡くなったという伝説がある秦の始皇帝のように、世は健康ブーム真っ盛りになって久しい。

健康のためなら死んでもいい。

これをまじめに追求すると、神経が衰弱しそうになるのは、世の中の「もの」への「安全性」が疑われるようになったからである。
食品はもちろん、住宅建材にまで「疑い」が生じて、「ホーム・シック」が「シック・ハウス症候群」にまでなった。

それと同時に、もとからあった日本人の潔癖性がより病的な心情となって、商業主義のマスコミがこれを煽ったからなおさらである。
すなわち、どれと特定できない「複合的」なことが原因になって、とにかく・なんとなく、信じるものが救われる社会になった。

これを、「宗教」といわないでなんというのかしらないけれど、日本人は「無宗教」だと、これもまた根拠なく「信じている」から、はなしがこんがらがるのである。

「重曹(じゅうそう)」は、むかしからある薬品で、「ふくらし粉」ともいっていた。
洋風にいえば、「ベーキングパウダー」だ。
料理番組が真っ盛りだったころ、「なんだふくらし粉か」と母がつぶやいたのを覚えている。

カナダの公共放送(CBC)が制作し、世界37ヵ国で放送された『世界の料理ショー』(1974年4月から79年9月まで、東京12チャンネル)は、確か土曜の夕方に放送されていて、みたこともない調理器具やら、きいたこともない「香辛料」に、最後に紹介されるレシピをみても、さっぱり味の想像すらできなかったことをおもいだす。

  

さて、重曹とは、重炭酸曹達(NaHCO3:炭酸水素ナトリウム:ナトリウムの炭酸水素塩)のこという。
水に溶かすと微アルカリ性を示し、加熱すると二酸化炭素と水を放出して炭酸ナトリウムとなる。

重曹水健康法は、重曹の水溶液を「飲む」だけという「健康法」だ。
コップ一杯、200ccの水で1gの重曹を溶かして飲む。
このとき、重曹は「食用」、「食品添加物」のをつかうこと。
洗濯用とか、清掃用だと、重曹だけでなく洗剤が混じっていることがある。

人間のからだは弱アルカリ性であるのが「平常」なのだが、からだに悪い物質を食べたりすると、「酸性に傾く」のである。
重曹は、体内にもあるふつうの成分だから、酸性になったからだを中性にもどすのではでなく、アルカリ性にまでする「効果」を期待する「健康法」なのである。

化学式にナトリウム(Na)があることからわかるように、この水溶液は「しょっぱさ」を感じるし、塩としての換算をすれば約274mg、また食塩1g中のナトリウムは393mgだから、ナトリウム量で換算(274/393)すると、1gの重曹は食塩0.7gに相当する。

もちろん、「原子量」から計算する方法がもっとも正確ではある。
100%純度の重曹の「中身」がわかる。
これは、天然温泉の脱衣所などに掲示されている「温泉成分表」から、入浴剤をつくろうとしたときの方法とおなじになる。

気に入った温泉の「温泉成分表」を撮影して、休憩所なりでその成分を計算してみると、なかなかに楽しいのである。
スマホがあれば、原子量も「モル質量」換算もすぐに検索できる。

重曹が水に溶けるのは、20度の水100gで9.6gまでだから、これを超えると熔けないという特徴もある。
それでもって、ペースト状にして、これを顔のしみ抜きにつかう。
10分もパックすればよい。

入浴剤にするなら、コップ一杯ほどの粉末量で人工アルカリ温泉になる。

微アルカリといっても、アルカリ独特のぬめりがあるから、飲むとなるとやや飲みにくいかもしれない。
それで、なぜか「クエン酸」を投入して、柑橘系炭酸水のようにして「愛飲」しているひとがいる。

どうして「炭酸水」になるかといえば、それは、「化学反応」がおきたからだ。
クエン酸の「酸」と反応して「二酸化炭素」がでてくる。
もとが、CO3なので「重」をつけて表現している。

HOOCC(OH)(CH2COOH)2 + 3NaHCO3 → C3H4(OH)(COONa)3 + 3H2CO3
クエン酸+炭酸水素ナトリウム→クエン酸ナトリウム+炭酸
炭酸 H2CO3 は不安定な物質なので、すぐに水 H2O と二酸化炭素 CO2 に分解され、このときジュワーッと「泡」がでる。

そんなわけで、からだをアルカリ性にもどすために飲むものを、飲みやすいからと中和して炭酸水にしたら、なんのための「健康法」なのかわからなくなる。
けれども、これを奨めるひとがいるのは、化学反応の意味がわからなくなっているからだろう。

またまた、中学生や高校生にバカにされることを、大のおとながやっている。

学習塾の信頼をえたいという経営者なら、おとなのための化学とか、おとなのための物理とかも、特別授業としてネットにアップさせれば、子どもに勧めてくれるかもしれない。
なにせ、おとなが月謝を払うのだから、親の攻略こそが経営に重要な要素となる。

そうやって動画を観ていくと、なるほどなぁ、をみつけることができる。

それでもって、こんなものを飲むもっとも重要なことは、健康を害する物質がふつうにあふれているからで、重曹水健康法は対処法にすぎないことだ。

「食と健康」は、現代の巨大な問題だけど、それは「化学知識」の問題なのである。