国家総動員法とカジノ法

斉藤隆夫名演説の続きである。

わが国、そして国民の、運命の「分水嶺」となったのは、昭和13年、第73帝国議会における、第一次近衛内閣によって提出された「国家総動員法」の「可否」であった。

もちろん、後世に生きるわれわれは、この法律が議会を通過してから、どんなことになってしまったのかをしっている。

その意味で、国家総動員法成立「前」のわが国と、成立「後」のわが国とに「時代区分すべき」ではないかとかんがえるほど、あまりにも重要なことが埋もれてしまっている。

齋藤演説のクライマックスは、以下のとおり。

「政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである」
※「盲判」とはいまはいわないが、当時の発言のままとした。

日本における「国家総動員法」の手本が、ナチスの「全権委任法」だとされている。
しかし、それよりも強くソ連の計画経済の影響をうけていたので、シナ事変という、どさくさまぎれの「社会主義経済」の実現が目的だったといえる。

国会が自殺するのは「反軍演説」による斉藤隆夫の除名決議ともいわれているが、ほんとうは、この「国家総動員法」によって、国会も民主主義も死んだのである。
わが国には、こんな無茶な法律が「あった」と強調しても、強調しすぎることはないほど、重要で、わすれてはいけないことだ。

戦後の昭和20年に、「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」ができて、昭和21年4月1日から廃止されたが、あまりにもたくさんの「盲判」としての「勅令」があって、すぐさま全部を廃止するとかえって経済に混乱を帰すという理由をGHQさえみとめたから、戦後の経済官僚による支配体制の基礎にもなっている。

これを『1940年体制』ともいって、おそるべきは、現在にもつづいているのである。

斉藤隆夫の名演説にもかかわらず、この法律が議会を賛成多数で通過できたのは、近衛の「修正案」で、貴族院・衆議院両院の議員を含む「国家総動員審議会の設置」を名分としたことにある。

歴史は、この「審議会」がいっさい機能しなかったことをみとめている。
むしろ、機能しないことを、戦争をもとめた国民が「もとめた」ともいえる。

これは、たとえ翼賛選挙であろうとも、当選しなければならない議員にとって、国民の熱狂を無視できないポピュリズムが、民主主義として機能していたからなのである。

つまり、民主主義がただしく運用されるには、「賢い国民が多数いる」ことを前提としているから、すきなように国民を支配したい為政者は、「愚民を多数とする」ことに腐心する。
それが、ヒトラー・ユーゲントを手本にした、昭和16年の「国民学校令」だった。

ときあたかも、国家総動員法の制定後、同年の8月から11月にかけて、ヒトラー・ユーゲント代表団が来日した。
これにあたって、朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント』が作られ、10月には日本ビクターからレコードが販売された。

この新聞社には、「右」や「左」という批判は無意味で、戦前も戦後もただ一貫して「全体主義」がすきなのである。

まさに、政府にじぶんたちの生殺与奪を全権委任したことの重大性をわすれ、かえってこれを喜ぶことの興奮とは、いったいどんな心理状態なのだろうか?

しかし、このときの「日本人」をいまのわれわれが嗤えることもなく、むしろ、やっぱりおまえたちもかと、草葉の陰で泣いていることだろう。

来年予定されている「東京オリンピック」の準備にあたって、開催決定の瞬間からはじまったのは、「オリンピック国家総動員法」と揶揄されるほどの「なんでもあり」だということだ。

たとえば、この夏に開催された、マラソンの予行演習で都内の交通は遮断されたが、なんとそのあと、あんまり暑くて記録が伸びないし選手の体調にもよろしくないとして、北海道開催になってしまった。

それでまた、「なんでもあり」が、こんどは北海道ではじまったのは記憶にあたらしい。
都知事がえらく怒ったのは、「なんでもあり」の一部をうしなうことへの「怒り」だけだったであろうから、オリンピックそのものも「どうでもいい」のだと、わかりやすくおしえてくれた。

しかし、本物の「国家総動員法」にそっくりな法律が、もうできている。
通称「カジノ法」が成立したのは2016年のことだった。
この「法律」には、「国家総動員法」の「審議会」とおなじ、「カジノ管理委員会」を設置するようになっていて、今年、この「管理委員会」が発足した。

斉藤隆夫は、国家総動員法を「盲判」とよんでその本質を衝いたが、「カジノ法」も構造がおなじになっている。
国会に報告せずに、「管理委員会」がきめることになるのが「311項目」もあるのだ。

国家総動員法は、「勅令」を連発したが、管理委員会は「勅令」をだすこともないから、もっとすきなように支配できるようになっている。
まさに、内容をよく確かめもせずに「承認」のはんこつき書類(命令)を量産することになるはずだ。

たかが「カジノ」というなかれ。
されど「カジノ」でもなくて、おそるべき「国家総動員法」のコピーが21世紀のわが国に蘇っていることが大問題なのだ。

いまは対象がカジノに限定されているようにみえるが、かならずこれを「拡大」するのが「国家」というものだ。
つぎはどんな対象で、「国家総動員法」の「部分実施」をするのだろう?

そんなことをしていたら、たちまちにして本当に、「国家総動員法」ができてしまう。

カジノ法の構造にこそ、仕組まれた罠が存在している。
そして、この法律を可決した国会は、戦前とおなじく、とうに自殺してしまい、この国の民主主義もうしなわれた。
いまさら、野党がなにをいっても与党はどうじまい。

民主主義の遂行には、面倒だけれど「民主的」な「手続き」が不可欠なのである。
民主主義をきらうものは、この「手続き」をじぶんたちの仕事にして、ひたすら「効率がいい」と甘言をいう。

おそるべきことが来年もおきるだろう。

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