厚木アルカリ七沢温泉

神奈川県の有名温泉地といえば、「箱根」だ。
けれども、どういうわけか個人的に箱根が好きになれない。
「混雑」というイメージが先行してしまうのと、なんだかそのむかしの「雲助」たちの血が混じっているのか、いまだに「略奪的」な感じが払拭できないでいる。

それなりの年齢になって気がついたのは、箱根の温泉は火山性だけということではない「多様な性格」があることだ。
これが、ひとつの温泉地としての箱根の魅力なのだが、なんだかあんまり語られないのも違和感の源泉なのである。

火山性の温泉は、全国各地にある。
日本列島が火山列島だから、当たり前ではあるけれど、ところかわって豪州オーストラリア大陸や中国大陸にだって温泉は珍しい。
日本人のふつうが、あんがい世界のふつうではないことの例にもなる。

富士山を中心にした国立公園は、「富士箱根伊豆国立公園」という広大な地域で、1936年(昭和11年)に、十和田国立公園、吉野熊野国立公園、大山国立公園とともに指定された、わが国初である。

伊豆諸島が入っているのは、伊豆半島が「伊豆島」だったからだろう。
伊豆島が本州に衝突するのが、およそ100万年前だという。
その衝撃でできた地表の「皺」が、南・中央・北のそれぞれの「日本アルプス」である。

この衝突点に、三嶋大社が建立されているというから不思議である。
だれが、いつ、どうやって、この地だと特定するほどに気がついたのだろうか?
小田原から箱根越えをすれば、たどり着くのが三島である。

もっとも、全国に400あまりある「三島神社」の大本である三嶋大社の主神は、伊予の国「大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)」からやってきたというから、はなしは簡単ではない。
それに、なぜか「伊豆」と「伊予」の双方が、相手を「本社」といっているのだ。

伊豆諸島の「造島」の神様には、なんだか複雑な経緯があるのである。

そんなわけで、伊豆(半)島は、いまだに「止まっていない」ため、年間4センチという結構なスピードで、本州を北西方向に押し続けている。
この方向に、箱根山、富士山、甲府盆地、そして南アルプスがある。
その、南アルプスに掘ろうという長大なトンネルが、中央リニアなのであって、静岡県知事が文句をいっている原因もこれだ。

地球のためにレジ袋を有料化するという、「人為」がどれほど地球によいかはしらないが、かなりの「利権」になることは確実なので、来月からの不便を強いられる我々の哀れは、無知と無気力ということの結果でもある。

そんな人間界のことなど関係なしに、火山の熱がふきだす酸性温泉と、本州の基盤はるか地下にもぐり込んだ伊豆島の織りなすみえない地質構造の複雑性が、箱根にもアルカリ性の温泉を噴出させているのだ。

伊豆島が本州に衝突するはるか前、丹沢島が本州に衝突して、丹沢山系となり、ひずみの「皺」は秩父となった。
秩父の山々の西側は、山梨県の笛吹川温熱帯で、こちらも強アルカリ性の温泉が噴き出ている。

昭和の大歓楽街、「石和温泉」はその南端付近にあたる。

人間の移動における時間距離という感覚からすれば、自動車交通が発達した現在でも、神奈川県中央の表丹沢を超える道路は存在しないから、厚木を出発しても、相模湖からかなりの迂回をしてようやく笛吹川にたどり着く。
こうして、表丹沢の厚木からおなじ泉質の笛吹川温熱帯まで、いまでも半日を要するような旅程である。

ましてや、自動車も道路も整備されていない、ついこの間をかんがえても、とてもおなじ地層から涌き出る「兄弟温泉」とはおもえなかっただろう。
そんな「つましさ」が、人間の営みであった。
逆にいえば、とてつもないエネルギーを内包しているのが地球なのである。

そういう意味で、とてつもない傲慢な態度をしているのが、現在の人間なのである。
自然環境を、いま生きている人間がコントロールできると信じ込むことが、すでにどうかしていると反省すべきなのだ。

すくなくても、「エネルギー保存の法則」や「質量保存の法則」を思いだせば、植物が二酸化炭素を蓄えるということはないし、地球の生物はすべて二酸化炭素を食べて生きていることに気がつかないといけない。
人間が食べる食糧のほとんどが、「炭水化物」という名の「炭素」なのであって、それは「二酸化炭素」を化学的に蓄えたものからできている。

だから、「低炭素社会」というのは、悪辣な「イデオロギー」でしかない。

そんな地球を感じるのが天然温泉だ。
神奈川県と山梨県に湧出する、強アルカリ性の温泉こそ、フィリピン・プレートが千葉県側の北米プレートと静岡県側のユーラシアプレートのはざまに沈み込むことでうまれる「恩恵」なのだ。

地球の壮大な営みのほんの一部に体を沈めることで、痛んだ神経と精神を癒やすことができる。
新宿から電車で一本、バスに乗ろうがタクシーにしようが、とんでもない場所がすぐそこにある。

厚木七沢温泉、おそるべし。

一向に進まない「あなただけ」

自動販売機にできて、人間ができない不思議。
「コンピュータリゼーション」が、進んでいないからだ。

しかし、コンピュータがつかえればいいというわけでもない。
最大の問題は、「どうしたいのか?」という「自問」をもっているのかということにいきつくのだ。
この「問い」がなければ、かんがえることもない。

すなわち、過去からのやり方を、ただ継続するだけということが、それも「汲々として」おこなわれている。
つまり、いつの間にかできない原因が「汲々としている」ことになってしまって、結果と原因の悪循環になっているのである。

すると、まず気がつくのは、「どうしたいのか?」をかんがえるときにつかうのは「紙」であることだ。
なにも、この段階から電子機器をつかわなくてもよいのは、別段それで決定的なちがいになるわけではないからだ。

ようは、思考の試行錯誤をして、結果としてまとまればよい。

接客業の重大ポイントは、「あなただけ」になっている。
だから、ここでかんがえるのは、どうしたらあなただけが自分の事業で「できるようにするのか?」である。
いつでも、ムラなく、だれにでも、できるようにするのか?

このときの「だれにでも」とは、対象となるお客様でもあるし、プレイヤーである従業員でもである。
ある従業員にはできて、ある従業員にはできない、ということではいけない。

コロナ禍で、国民に10万円を配るのが「遅い」ことが問題になっている。
これは、「あなただけ」という思想ではなく、「全員に」という思想である。
ところが、政府はこれに乗じて、「あなただけ」を実行しようとたくらんでいる。

かつてない給付金の、申込方法と支払方法との両方がネックになっている。
申込用紙を印刷して郵送し、記入後の返送を受けてから、希望口座へ振り込む、という作業の全工程で「手間がかかる」ようになっているからである。

戸籍がないアメリカで迅速にできたのは、住民登録があるひとたちに、政府振り出しの小切手を直接送付したからである。
一発の作業ですませているのだ。

ところが、わが国では、「マイナンバー」に登録しているひとも小数で、なおかつ、マイナンバー登録者のうち「電子証明」までできるように手続きしているひとは、もっとすくない。
さらに、今回の「申請」において、「電子証明」ができるひとでも、最新のスマホがないと、マイナンバーカードの電子証明を読みとることができない。

よって、ふるいが何回もあって、電子証明機能さえ「機種依存」というふるいがあるのだ。

ところが、おもしろいことを政府が言いだした。
「マイナンバーカード」に、「銀行口座番号」を紐付けることを「義務化」する、というのだ。
こうすれば、迅速な給付ができる、と。

今後、いつまた、全国民を対象に「特別給付」が行われるのか?
人生で一回あるかないかしらないが、そんなことに「便利だから」という理由は、ナンセンスのきわみだ。

つまり、国民の銀行口座を政府がしりたい、という欲望をむき出しにしている「だけ」なのだ。
これを、国民から選挙で選ばれたはずの、国会議員が「大臣」になると、国民の立場からではなく、行政当局の代弁者に変貌する。

国会議員で大臣を拝命するようなひとは、二重人格でないと職務をまっとうできないということになっている。
われわれは、「サイコ」は誰か?を選ばされているのだ。

そんなわけで、「あなただけ」ということも、一歩まちがうと変なことになる。
あくまでも、「顧客」としての「あなただけ」の追求のことなのだ。

店舗ごとの「ポイントカード」が流行っていたが、客に持たせて財布をえらく厚くするのはいかがなものか?
なるべくポイントカードはもらわないことにしているけど、なんだか「特典」を得るチャンスの放棄にもなって、「損」した気分になる。

だから、ふくらんだ財布を持ち歩くことと、メリットの比較をするのである。
この、ふくらんだ財布を持ち歩くときの「不快感」が、顧客にとっての「コスト」で、メリットが「利益」だから、その差が「持つか持たないか」の分岐点になるのである。

けれども、このやり方だって決して「あなただけ」の追求ではない。
単なる「ポイント付与」とか、「ポイント消費」をおこなうだけだからだ。
あなただけの「好み」とか、あなただけの「サービス」が、他のひとにはわからないままに実行してほしい。

そのための「手段」として、どんな方法を使うのか?

それをかんがえるのが、重要な価値を生むことになるだろう。

「千年の味」を食べている

醤油が切れた。

スーパーに行けば、いまならずいぶんとおおくの種類の醤油が並んでいる。
そのなかには、地方の無名だが、えらくいいお値段のものもある。
特売なら有名メーカー品が100円程度で買えることもあるから、数倍もちがう。

ならば、数倍も味が違うのか?
とはいかないのが、味覚の世界である。
ただし、当たると「感動的」な逸品に出会うこともある。
値段じゃほんとうの価値がわからない商品もあるのだ。

原材料がおなじ「味噌」も、やっぱり100円程度から、ときに千円をゆうに超えるものまであるのは、醤油とかわらない。

発酵を利用した食品の「宝庫」といわれるのがわが国である。

一歩まちがえると「腐敗」する。
だから、「発酵」させてこれを喰らうというのは、けっこう「人工的」な技を必要とする。
その発見のきっかけが「偶然」であったとしてもだ。

動物の肉や骨から「出汁」をとるのが、洋風文化だとすれば、海藻の昆布や、魚の鰹をわざわざ加工してカツオ節から出汁をとるのは、和食の基本である。
世界広しといえども、こんな「出汁」をつかう民族はいないから、不思議なのである。

もちろん、昆布だって、ただ海からとってくればよいのではなくて、ちゃんと浜で乾燥させる。
浜に転がって白く粉をふいた昆布を、だれかが食べて美味かったのがはじまりだろうが、よくもそれを口に入れたとおもう。

「ナマコ」で出る話題とおなじだ。

「ユーモア小説」というジャンルで一世を風靡し、文化勲章も授章した獅子文六は、いまどきの「グルメ作家」のはしりでもあった。
横浜の裕福な家に育ったから、その食いしん坊ぶりは、ときにいまのようなチマチマしたものではなく、もっと「豪快」=「ゴージャス」なのである。

けれども、失敗談もある。
たしか、疎開かなにかで四国に長期滞在したとき、近所の海岸で生きている「ナマコ」が大量にいるのを「発見」した。
不思議にも、だれもこれを採るものがいないので、さてはこの周辺の田舎者は、「ナマコ」が高級食材だからしらないにちがいないと、ひとり合点して、ナマコ採りに夢中になった。

東京に持ちこめば、大金が手に入ると思うと、何時間でもやっていられる。しかし、これを干して食べてみたら、ただの「ウミウシ」だった、という話を読んだことがある。
地元民は、そんな「わたし」を哀れんで、声も掛けなかったというオチまであったから、まるで落語である。

海の恩恵で生きている地元民が、なにが「食える」ものか、そうでないかをしらないはずがない。
「骨折り損のくたびれ儲け」になることは、なまけ者といわれようが絶対にしないのである。

昆布のグルタミン酸に、カツオ節のイノシン酸、それに、干し椎茸のグアニル酸は、これを三大「うまみ」成分という。

ようやくにして日本人の味覚の代表である「うまみ」が、ヨーロッパでもしられるようになったから、「UMAMI」と書いた案内表示を、大きめのスーパーなら必ずみかける。
看板の両端に、日の丸を描いていることもあるのは、そのまま「日本食材コーナー」という意味でもある。

さらに気が利いた店だと、ローマ字の横に「旨味」と漢字で書いているのは、雰囲気の演出でもあろう。
わが国のスーパーに、英語やフランス語で案内表示をしているのも、それらを母国語にしているお客のため、ではなくて「デザイン」なのであるからおなじだ。

感覚重視の日本人とちがって、理屈がさきに立つのが彼らの文化なので、「UMAMI」コーナーに立ち寄るひとたちは、ひとかどの知識をもっている。
ただし、例によって、どこか勘違いされていることがあるのは、洋の東西をとわない。

細かいことをいわないでも、おいしいものはおいしい。
しかも、どれもが彼らからすれば「低カロリー」なので、直線的に「体によい」というコーナーなのである。

棚に並んだ商品には、「食べ方」や「作り方」があるわけではない。
ふつうに価格表札の奥に並んでいるだけである。
ネット検索という手段が、見なれぬ和食材の理解を促進させ、SNSが具体的な調理法を伝えているのだろう。

日本人はこれを「千年も前から」食べているんですよね?
まぁそうですね。
目をクルクルさせて、「スゴイデス」、「オイシイデス」。
あちらのスーパーで声を掛けられたときのパターンである。

なるほど、いわれてみればまちがいない。

たまには、理屈から食べてみるのもいいかもしれない。
ふだんの日常に、なんだか価値がみえてくるからである。

成立しない「漁港飯」というジャンル

2016年(平成28年)4月1日現在、日本国内には2,866の漁港がある、とウィキペディアには書いてある。
このブログでは何度か漁港漁業について書いてきた。
「漁港」はあっても「漁師」がいない。
「漁師」がいても「魚」が獲れないのである。

それで、この順番がひっくり返って、魚が獲れないから漁師という職業に夢がなくなって、水産高校も減っている。少子化だけが原因ではない。
若いあらたな人材がこない産業になったので、漁師がいない漁港が立派な公共事業の遺産として残っている。

わが国は、どれほどの鉄筋とコンクリートを海に沈めたものか?
たいした港らしい港でもなかったものに、税金という他人の金を投下して、ピカピカの漁港を大量生産したのは、漁協という組織が投下したカネではなく「票」というものを確実に回収するからである。

漁港の工事には、大量の資材をはこぶ必要があるから、とうぜんに道路もよくなる。
でこぼこ道のままでは、砂煙があがるだけでなく、燃費も悪くする。
そんなわけで、海岸沿いの国道や県道がきっちり整備された。

これが、地域外からの「観光客」も呼び込むから、漁協の直売所や食堂は、いつのまにか「観光地」になるのである。
ほんらいなら、これはこれで結構なことなのだが、農協とおなじで「コルホーズ」の日本版の経営体からつくったので、なんだかなぁになるのである。

しかし、これは「食べる側の事前期待」にも問題があって、そもそもこの地域の海で、どんな季節になにが獲れるのか?という事前知識もなにもないから、ただ「安くてうまい魚を食べられる」だけになってしまう。

農協がつくる「季節の作物一覧表」のような発信もないから、情報のミスマッチが発生するのである。
その「穴」を埋めるのが、たいがい「マグロ」や「サバ」なのだ。

これらを出しておけば、文句はこない。
けれども、外部から買ってくる魚だから、これ見よがしの演出ができない。
それで、本来の「地魚=でも獲れない」との「ショボいセット」になるのである。

だったら、わざわざ漁港にいかなくても、その街にある個人経営の食堂に行った方が、よほど事後満足が得られるのである。

さてそこで、「店探し」という「観光」がある。
ネットでいろいろ調べるのが「常識」となったけど、わたしは「店案内のサイト」はあまりつかわない。
「評価の基準」がわからないことがあるからである。

ではどうするか?
「歩く」のである。
飲食店には「面構え」というものがある。
これを、「観察する」ことで、「名店らしき店」の候補をチェックするのだ。

交通手段が自家用車のときは、なるべく駐車場にとめてから「探訪」を開始する。
いかに徐行しても車内からの眺めと、徒歩目線からの眺めはちがうからであるし、徐行をずっと続けるのも通行の迷惑になる。

ここで、中途半端な営業形態をしている店をみつけることもある。
それが、「民宿」だ。
「民泊」という、規制だらけの業態をつくったが、当初の目的からどんどん遠くに離れていくのは、「カジノ」もおなじだ。

年に180日しか営業できない「民泊」も、各種規制でがんじがらめにしたら外国の大手事業者が逃げ出した「カジノ」も、「自由」という概念を忘れた結果の結果である。

「民宿」は、むかしからある業態だけど、漁港のちかくなら漁師の一家で経営し、じぶんで獲った魚を提供していた。
その意味で、「原価」がちがう。
これが、「安くてうまい魚を食べられる」という事前期待とマッチしていたのである。

しかし、残念なことに、肝心の魚が獲れない、ということになって、親父さんの漁だけでは提供できないから、やっぱり外から買わないといけなくなった。
こうして、「食堂」としての機能も失われたのである。

海で囲われた日本の沿岸に、どうして魚がいなくなったのか?
理由は、「自由」に「早い者勝ち」で「獲った」からといわれ、「資源管理」を科学的におこなわなず、行政(水産庁)が日和った数値をだすこととがセットになっている。

「いない」のに「いることにする」という裁量のことである。

そうやって、資源が回復するための「再生産数」を下回っても、「自由」に「早い者勝ち」で「獲る」ことを続けていたら、どうにもならないほどに「獲りつくし」てしまったのである。
いま、「沿岸漁業」で確実に獲れるのは「海藻だけ」になった。

おやおや、流行病のコントロールとおなじ「再生産数」がでてくるのである。
「増やすため」か「減らすため」のちがいはあるが、共通しているのは、科学を無視して行政機構やそのトップの知事たちが社会に日和った数字をいうことである。

「自由と規制」に、「科学=エビデンス(根拠)の重視」をくわえ、これらを決定的に勘違いして、自滅する政策を打ち出しても恥ともおもわない。

これらの「勘違い」を正すことが、将来への「夢」をつくるのである。

『大地』のバッタがやってくる

「一難去ってまた一難」どころの騒ぎではない。


   

パール・バックの名作、親子三代にわたる大河小説『大地』の映画は、1937年(昭和12年)作の一本だけで、初代の物語が描かれている。アカデミー主演女優賞受賞作品でもある。
バック自身も、生活のために書いたというこの大長編一作しか残していないのが「驚異」でもある。

清朝末期から辛亥革命時の農民一家を描いた作品だ。
印象的に登場するのが、まったくもって理不尽としかいいようのない「バッタの大群」(蝗害:こうがい)である。
歴史上、中国を何度もおそった蝗害の主役は、すべて「トノサマバッタ」であった。

今年、東アフリカで発生したのは、「サバクトビバッタ」という種類で、紅海を渡り、アラビア半島を横断し、いまインドで猛威をふるっている。
アラビア半島からインドへは、サイクロンの風に乗って飛んで移動するというから驚く。

陸上での移動距離は150キロ/日という。
地上のあらゆる植物を食い尽くしながら移動する。
その数、4000億匹と推定されている。
ひろがった面積は神奈川県に匹敵し、総重量は80万トンになる。

一匹はちいさくても、大集団をつくると集団がひとつの生命のようにみえる。

かれらの生態では、湿度と温度がたかまる「雨期」に、さらなる繁殖をして、ざっといまの500倍になるおそれがあるという。
すなわち、200兆匹で総重量は4億トンという予測だ。
むろん殺虫剤は現時点でも役に立たない。

すでに、アフリカで発生してから3世代目から4世代目になっている。

つい最近まで、WHO(世界保健機関)がさんざん話題になってきたが、これからは FAO(国連食糧農業機関)が主役になりそうである。
すでに、警告を発するレベルにあるのは、コロナのせいで調査が遅れ、初動措置ができなかったことも原因だと説明している。

蝗害が自国領土では発生していなくても、エジプトなどではすでに小麦不足が深刻になってきているのは、蝗害のある国からの輸入がとまったからである。
さらに通常なら、東欧の穀倉地帯ルーマニアからの輸入でまかなうものが、EUが先手を打って「域外輸出禁止」にしてしまった。

つまり、食糧生産国(地域)の防衛措置が発せられているのである。

インドでどのくらいの被害になるかは不明だが、すでに世界の穀物相場のなかでもトウモロコシは上昇に転じている。
これから、追って小麦や大麦などが上昇すると予測されている。

今回の蝗害とは地理的に関係のない、ブラジルなどでのコロナ禍が、農業従事者の不足をまねいて、例年よりも収穫が見込めないことも原因だ。
対象はことなるが、わが国でも「梅」が天候不順で発育しないまま、シーズンを迎えてしまった。
今年は、梅干しも梅酒も例年通りとはいかない。

バッタはヒマラヤを越えての移動ができない。
よって、インド亜大陸をどのように移動するのか?が注目される。
集団からはなれて、アフリカに帰る一団もあり、こちらもアフリカで増殖しているから複数の方面作戦が強いられている。

伝染病と似ているのは、バッタ自身の活動による移動にくわえて、人間の移動がこれを助けることがある。
つまり、かつての「ペスト菌」がそうだったように、荷物や貨物と一緒に移動するのである。

パキスタンの港を出て、上海に着いたコンテナ船のコンテナのなかから、サバクトビバッタが発見されている。
日本における「ヒアリ」のようである。
たかが数匹、とはいえないのだ。

もしも、中国に飛び火して「蝗害発生」となったら、日本も含む東アジアでとんでもないことになってしまう。
もちろん、直接被害はなくても、国際穀物相場が他人事をゆるさないし、生産国の輸出禁止という、食糧防衛措置をともなったらただではすまない。

西村寿行『蒼茫の大地 滅ぶ』は、政治サスペンスだが「蝗害」をテーマにした希書である。

 

すなわち、前から懸念されていた、食糧危機がいきなり起きるかもしれない。
いったんパニックとなると、あたりまえの日常が一変し、現代版の「一揆」が出現し中央政府と対峙する。

荒唐無稽、とはいかない。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーの不足、ようやく見かけるようになった紙マスクの不足が証拠だ。
これが「食糧」となったら、どうなるものか?
「配給制」が頭に浮かぶ。

それに、コロナ禍でだれかがいいはじめた「新しい日常」とか「新しい生活様式」なるものとはなにか?
中央であれ地方自治体であれ、政府という役所が個々人の「生活」のなかに忍び込んできて命じることを、命じられるままに過ごすこと、なのである。

まだやっている「営業自粛要請」とは、解除後のいまとなっては「営業妨害」にほかならない。
営業時間の短縮だって、はたしてなんの意味があるものか?
無症状のひとにも着用せよという、ペラペラのマスクの効能は無意味としっていても、社会的同調圧力がそうさせる。

しかし、その同調圧力を利用しているのが、中央であれ地方であれ「役所」なのである。
責任をとりたくないから、である。
「無責任」こそが、わが国全土・全国民に伝染した「病気」である。

禁煙条例からはじまって、まもなくレジ袋の有料化もはじまる。
ちょっとずつ、しかし確実に「政府の命令」が生活のなかに侵入してくる。

受動喫煙なる反科学・反医学が、医師会という人為が推進する訳は、「諮問委員会・専門家会議」の議事録が最初から書かれていないようないかがわしさとおなじ闇のなかにある。

こんどはバッタが、人間社会のいかがわしさを暴くのだろうか?

東京オリンピックができないとすれば、もしやバッタの方が問題かもしれない。

ナラティブ情報もない

「ナラティブ」とは、「語り」のことである。
これを、医学用語として通用させると、「病気の経験を語る」という意味になる。

その病気になると、どんな症状になるのか?
じつは、本人ならわかるが、他人にはわからないのだ。

たとえば、「痛み」。
本人の「痛み」は、他人にはそれが伝わらないので、本当はわからないものだ。
では、どうしたらその痛みを理解するかといえば、自分のこれまでの人生から似たような経験をもって「他人の痛みを追体験」する、つまり「思いだして」その痛みをやっと感じることができるのである。

すると、たとえば末期がんなどのばあい、専門医だって自分でその病状を経験したことはないから、患者本人にどういう状況なのかを語ってもらうことで、疑似体験するのである。

こうした、本人の体験をあつめて「データベース化」すると、患者の病状の進行度合いによって、これからどんなことが起きるのか?を、先輩患者の経験集から、いまの患者自身もしることができる。
事前に知識があることで、患者の心が落ち着くという効果まであるのだ。

なにを慌てているのかしらないが、今回の流行病(はやりやまい)について、こうしたナラティブ情報がほとんど公表されていない。

「予防対策」ではなくて、感染してからの「重篤化させないための対策」として、たいへん重要な情報なのに。
「感染した瞬間」は、だれにもわからない。
しかし、「症状」がでてきたら確かに自覚できる。

ならば、どんな「初期症状」なのか?
それからどうなるのか?
であれば、どんなことをすれば「軽症」で済むのか?
医療機関へはどういう状態になったら行くべきで、どんな状態なら自宅療養でよいのか?

素人判断してはいけないことはなにか?
自宅での、効果的な過ごし方はどんなことか?
もちろん、家族や同居人がいれば、そのひとたちの安全をどうやって防いだのか?

上記のような情報は、基本情報のはずなのに、果たしてどのくらいの国民がしっているのか?あるいは、しらないのか?
これは、中央政府や地方自治体の怠慢なのか?報道機関の怠慢なのか?それとも医師会の怠慢か?

ただ「自粛せよ」といって、今日はなんにんが「感染した」というだけの繰り返しでは、社会になんの役にも立たない。

感染したひとが発症して、これはまずいとおもったら医師のもとに行く。
そこで「診断」されて、はじめて「患者」になるのだが、それがふつうのコロナウィルスによるふつうの風邪なのか?それとも、うわさの新型なのか?も、「患者」になってはじめて「診断」されるのだ。

ましてや、医師の「診断」によって、「体調不良ですね」といわれれば、「患者」にもならない。

なんども書くが、「PCR検査」は、コロナウィルスを反応させるが、それが新型かどうかは「特定できない」のだ。
「陽性」だからといって、「新型だけ」に陽性なのではない。
だから、「感染者数」しか報道しないのは、あきらかになんらかの意図をもった報道だといえる。

活字媒体には「規制」はないが、電波放送媒体では、放送法第四条に違反する。
政府はこれを放置するのか?
ならば、あおられて被害をうけた国民は、どうすればよいのか?

活字媒体を代表する「新聞」と、電波放送媒体である「テレビ局」との「経営統合」を推進したのは、田中角栄郵政大臣であった。
全国紙と東京キー局のみならず、国家総動員法で各県に一社と規制されたままの、地方新聞社と地方テレビ局とを一緒にさせたのだ。

とっくに「戦後」ということばすら忘れかけている現在の「令和」時代に、国家総動員法が継続されたままの体制が残っている。

田中角栄の亡霊が、わが国をいまだに蝕んでいる。
マスコミは、田中角栄を「金権政治」と批判するが、本気で批判しないのは、自分に火の粉がかぶるからである。

なんだかわからないが、感染したことで病気を発症する。
このとき、まずは「怠い」という症状がでるのが、新型の特徴で、その後に、味覚や臭覚がわからなくなって、発熱するという。
よくある、風邪の諸症状なのだ。

ふつうの「風邪」に特効薬がないのも周知の通り。
なので、発症したらすぐにかかりつけ医に相談するとよい。

自粛が解除されるなか、ナラティブ情報もない。

住民のためになる情報提供をしない、という、この一貫性のなさこそが、いつまでもダラダラと続く理由なのである。

ウナギ稚魚の4倍豊漁

うなぎといえば「高い」になって久しいけれど、近年の高騰ぶりで、めったに食べられない贅沢品になってしまった。
その原因は、なんといっても「稚魚」の不漁だ。生態がはっきりしないうなぎは完全養殖にほど遠い。
「稚魚」をとってきて「養殖」するしかないのである。

「ニホンウナギ」の一生は、はるか南の太平洋で産卵されて、それから黒潮に乗って数千キロを泳ぎ抜き、今度は川に遡上して生活し、おとなになったらふたたび数千キロを、黒潮に逆らって産卵場へとむかうものだ。

こんなことをしらなくたって、ウナギを食べれば翌日には肌がしっとりする。
子どものときには気がつかなかったけど、「ウナギって効く」のがわかったときは、なんだか哀しかった。

キロ100万円もする「稚魚」の値段が報道されて、とにかく「採れない」ものは仕方がないとおもうしかなかったが、今度は豊漁だというから、結構なおはなしである。

けれども、どうして「稚魚」がいなくなったのか?もわからないままに、今度は豊漁だと聞いても、やっぱり「理由」がわからない。
ここが、問題なのだ。
ニシン大漁のニュースとかさなる。

前にも書いたが、わが国は、漁業における「資源管理」の後進国である。
発展途上国でもない。
ほとんどなにもしない、という現実が「後進国」で止まらせている。

目のまえにあるだけ獲る。
とりつくすまで獲るから、略奪的漁業といわれ、それを「日本式」と表現するのが、漁業先進国の北欧人の常識である。
70年代まで、かれらも「日本式」をやっていた。

とるだけとったらどうなるか?
魚が減る。
産まれる数より多く獲れば、まさかの「絶滅危惧種」になって、消費者が魚を食えなくなる前に、漁師の生活がたちいかない。

それで、「資源管理」と「割当制限」をやったのである。
わが国の資源管理とちがうのは、わが国が「国営」なのに対して、かれらは「民営」なのだ。
国の研究所ではなく、消費者も負担する仕組みの民間研究所が魚介資源の管理をすることで、「公平」ではなく「科学」を優先させた。

国の研究所がいけないのは、研究結果が「行政」にふくまれるから、漁港の公平さも考慮されて、結果的に「恣意的」になる。
消費者も負担する民間方式が選ばれたのは、「科学」からの事実と予測を優先させないと、消費者も漁師も食べられなくなるからである。

そんなわけで、わが国の略奪的漁業をやめさせるために、世界各国が協調してできたのが、「二百海里排他的経済水域」をさだめた「国連海洋法条約」(1974年)である。
12海里までの領海の外なら、日本漁船がごっそり漁をしても文句はいえなかったのが理不尽にみえたからである。

いつでもどこでも、日本はつねに「正義の国」である、とはぜんぜんいえないのだ。
当時の報道は、魚が食えなくなるという「自己中」の議論ばかりだったけど、これはいまだに進化していない。

飴と鞭の典型で、この条約によってわが国は、世界の漁場からしめだされるかわりに、広大な水域を含めることになって、世界8番目の面積をほこる「大国」となった。

おなじ基準でみれば、広大な大陸国家のはずの中国は、なんとニュージーランドより狭い、「10位」となるから、アジアの海をめぐる争いになるのである。

だから、「日本は極東の小さな島国」という概念はもう半世紀も前に「なくなった」のであって、むしろ「世界8位の広大な国」という事実をもって常識としないといけないのだ。

これだけの海域利権を独占できるかわりに、資源管理せよという義務が付随しているのに、これをしない日本政府は、かなり「腹黒い」と諸外国からみられていることも、国民はしっていていい。
海底の鉱物資源にいたっては、その「防衛問題」すら放置されている。

そんなわけで、ウナギの稚魚が安くなったからといって、すぐにぷっくりした成魚の「うな丼」の値段が下がるわけもなく、街から鰻屋の廃業がとまらない。
仕入れ値と調理技術をくわえた販売価格が、割に合わないからである。

外食や中食で食べているのは、食材だけではない。
スーパーの惣菜も、ファストフードであれ、伝統の鰻屋であれ、調理技術がないと提供できないことを、消費者がわすれる社会はほんとうの「消費社会」ではない。

そんな程度なのに「成熟社会」というのなら、北欧の消費者が半世紀前に決心したことはなんなのか?

後戻りできないことがある。
妙な「自粛」ではなく、ちゃんとした「自粛」、科学をもちいたことをする北欧人に学ぶべきである。

10年も前に流行った韓国ドラマ、『チャングムの誓い』の前半、疫病で宮中が大騒ぎになるシーンがある。
「風邪」とおぼしき疫病の過剰反応が、時代劇とあいまって仕立てられている。

いまの日本社会が、みごとなファンタジー・ドラマのチャングムの時代とおなじだとおもえば、もう一度観る価値もあるというものだ。

自分でかんがえる冷静さを失うと、こういうことになると教えてくれる。

米国カジノ事業者撤退の衝撃

一兆円以上を投資する景気のいい話だった。

ラスベガスを本拠に置く世界最大のカジノ事業者、サンズが13日、突如日本への進出計画を撤回した。
「新型コロナウイルス禍」は「関係ない」とだけ発表し、「理由」の詳細は明らかにしていないと報道されている。

しかし、理由は容易に予想できる。
「投資額」に見合った「回収が困難」だと、判断したにちがいないからだ。
それは、日本政府が突きつけた「ライセンス期間」が10年では、不可能ということだ。

一般に、欧米投資家がかんがえる「投資期間」とは、長くて5年である。
しかし、一兆円の投資を計画する「IR」の建設期間は、はやくて5年かかる。
この間、収益は発生しないから、かれらにとっては「マイナス5年」という投資回収計算における設定をせざるを得ない。

すると、10年というライセンス設定では、「実質5年で回収」という条件に見えるのだろう。

日本政府との水面下での交渉において、ライセンス期間の「見直しもある」という政府側の発言が、より一層の「不信」を招いたともいわれているのは、「長くなる」ということよりも、恣意的に政府が介入することを「リスク」とみなしたにちがいないからである。

だったら、最初から「期限を見直す」として、契約上の期限を設定し直すべきだと主張するのが当然だからである。
しかし、日本政府はこれができない。
こういう「恣意的なやり方」が、役人支配の「セオリー」だからである。

すると、ここからわかるのは、「政府の計画」における、「事業者の利益」についての設定が、事実上なかった、ということである。
これぞ、「武士の商法」。
優秀な役人は、優秀なビジネスマンになりえないという法則そのものの証明である。

もちろん、撤退の理由はこれだけではないはずで、もっとも大きなリスクとは、上述の「政府の恣意的なやり方」だろう。
すなわち、事前に決めたことが決めたことにならない、ということだ。
これでは、「契約」にならない。

わが国における「契約」は、世界標準の「契約」とはちがうのだ。
その端的な例は、日本におけるたいがいの契約書の最終条項にいれる「双方が誠意をもって話し合うこととする」に象徴される。
つまり、この「条文だけ」しか、決めごとがないのである。

べつのいい方をすれば、この「条文」が、契約書全部の「エッセンス」になっている。
だから、さまざまな条文に書いた決めごとを、たとえ契約者のどちらかが破っても「誠意をもって話し合う」ことになる。

この話し合いの結果が「不調」になったとき「だけ」、裁判になるのだ。
「誠意がない」からである。
クレーマーがいう「誠意を見せろ」につながる概念で、わが国が「契約社会」ではないことを示す例になるのである。

欧米人との契約書には、「誠意をもって話し合う」という概念そのものが「ない」から、事細かく双方の権利義務が記述される。
どちらかが、この権利義務を怠る事実があれば、即裁判になるのはこのためだ。

もちろん、裁判所だって、日本のばあいは「よく話し合った結果ですか?」を前提とするのに対して、あちらは、条文の記述と事実の判断をする「だけ」だ。

この「文化の差」が、カジノで出た。

元気に手を挙げていた横浜市は、市長が「驚きはない」と、ポーカーフェースを決め込んだから、なかなかの「ギャンブラー」である。
それに、今回のことが、他の候補となる事業者にも影響をあたえるか?との質問に「想像もできない」とこたえている。

この市長は、大手民間事業会社の役員経験者との触れこみだったが、「女性枠」という性別における「優遇」でなっちゃったのではないか?とおもわざるをえない。
女性管理職比率とかを「目標値」にする不思議が優先される国ゆえの「利得者」のひとりなのかもしれない。

そして、国の「ポチ」として、あくまでもお国が目指すIRをやる、というのも、「やめられない」という先の大戦の状態に近似している。

今後、活発化が予想されるのは中国の業者の動向だ。
こちらの文化は、わが国の契約の概念よりも欧米から遠い。
アフリカなどの国々を、借金漬けにしてコントロールするように、より「やくざ」に近いのは、近代ではなく近代以前の中世社会だからである。

世界最大の中華街といわれた横浜中華街も、この三十年で大変貌し、あたらしく大陸からやってきたひとたちの店が過半になった。
その意味で、あちらからのIR事業者こそ、地元中華街と連携する地域メリットがある、とかなんとかいって、横浜市民や日本人の資産を吸い上げるマシンを、自虐的に誘致することになるのだろう。

役人栄えて国滅ぶ。

コロナ禍による日本経済の打撃は、フローだけでなくストックにも及ぶこと確実で、アメリカのカジノ事業者は、わが国に吸い上げるべき資産がない、と判断した。
つまり、貧乏国だというレッテルを貼られたことが「衝撃」なのだ。

さては、横浜市議会議員のみなさんは、どんな活動をするものか?
市民にわかりやすい状況になってきてはいる。

なまけ方がちがう

日本人の本質は、「なまけ者」である。
こういうと、そんなことはない、世界で一番の働き者が日本人だというひとがたくさんいるだろう。

けれども、日本むかしばなしを思いだせば、たいがい「なまけ者」がでてくる。
これを戒めるはなしがたくさんある、ということは、やっぱり「なまけ者」がたくさんいたのである。

コンサルタントで唯一人、本物の神社の「神様」になったのは、小田原城内にある二宮神社の二宮尊徳(金次郎)である。

戦国の雄の一角をなした、小田原の北条家は早雲を初代にして、わずか五代で滅亡したが、関八州240万石の大大名だったことは確かである。

秀吉の小田原征伐のあと、江戸に本拠をおいた徳川家にとって、箱根をおさえる役割と旧北条の後始末もあって、大久保忠世(徳川16神将のひとりで、弟にはあの「大久保彦左衛門」がいる)が、小田原城主となった。

その後、転封国替えとなったが、ふたたび初代城主の忠世から老中職にある大久保家が下総佐倉藩から小田原城主となり明治までつづく。
老中をはじめとした幕府の重職を歴代が務めた家格のため、藩財政は窮乏し、そこに金次郎活躍の土台があった。

幕末から明治の「すごいひとたち」は、下級武士とはいえ、あんがい上司に認められて活躍の舞台を与えられるパターンがある。
二宮金次郎は、身分制があるなかでの「農民」であって、下級どころか武士ではない。

かれは、縁あって小田原藩家老の家事手伝いとして奉公にあがる。
藩財政が傾いているから、家老の家も経済的に傾いているのは当然だった。

あろうことか、金次郎は、この家の家計を再建してしまい、これが家老の目をひいて、なんと、この家老がみずから金次郎を殿様に紹介し、殿様が藩財政の再建を金次郎に依頼することにまでになったのだ。

いかに藩主からの依頼といっても、納得しないのは藩士たちだ。
もちろん、わたしたちは、この「コンサルタント案件」を見事に成し遂げたことをしっているが、「当時」の時代背景から、それがいかほどの困難を伴ったかは、並ではないことぐらいは理解できる。

それで、信頼を得た金次郎は、藩主の親戚筋まで紹介されて、千葉県佐倉市の陣屋における開墾の逸話が「なまけ」を見ぬく例になっている。
やる気のないひとは、たくさんいたのである。

この時代の主たる産業は、いうまでもなく「農業」だった。
幕末=明治初期のわが国は、農業従事者が人口の8割以上だった。
だから、金次郎が時代の「先端技術」を農業に投入して成功させ、これをもって彼を、「篤農家」というのは間違ってはいないが、不満が残る。

もし、いまの時代だったら、果たして金次郎はどうしたのか?

その合理的な発想から、IT企業の先駆者になっていたのではないか?と思うからだ。

おなじ結果を出すなら、楽な方法がよい。

このときの「楽な方法」とは、なまけ者の農民を見ぬき、叱りつけたこととはぜんぜんちがう「なまけ方」の追求であって、それは、「合理」からしかうまれないものだ。

たとえば、料理。
プロの料理人としての「腕」とはなにか?
大きなフライパンを振って、いちどに大量のチャーハンが作れることが特殊な技だとすれば、いまでもそのとおりである。

ところが、コンクリート・ミキサーのような形をした、チャーハン専用釜が開発されたら、できあがりがおなじようで、誰にでもつくれるものになったとすれば、さてどう評価すべきか?

これは、日本蕎麦の世界で一回あった。
大正期、機械製麺が普及する前、珍しさもあって、「手打ち」ではない「機械打ち」がハイカラで「うまい」とされたのである。
その後、「手打ち」が「うまい」の時代が続いているから、果たしてどっちなのか?

結局は、「粉」の品質ということで落ち着いている。

そんなわけで、世界の工場になった大国の報道で、「日本製スマホが世界から相手にされないワケ」という記事がでた。
かれらの分析は適確で、日本の技術はいまだに世界最先端なのに、「利用者の利便性追求」ではなくて、「作り手の都合を優先させた」からだという。

まったくそのとおりである。

利用者の不便を便利にさせるから、ほしくなる。
それが、自分たちの売りたいものを作るから、売れない。
金次郎とて、おなじことを指摘している。

「コロナウィルス」しか分析できない「検査」でふえた「感染者」のうち、何人が「新型」で、何人が「旧型」だったかの区別のはなしがないなか、「コロナ倒産」がいわれだした。

このうち何件が「あるべき倒産」で、何件が「本当のコロナ禍」だったのか?の区別がつかない。
倒産は気の毒なことながら、「区別できない」状態で騒いだら、なにがなんだかわからない。

二宮金次郎なら、きっちり区分して、その対策を練るにちがいない。
200年前の日本人ができたことが、できなくなっている。

営業妨害がだいすきです

終わりよければすべてよし。

とはぜんぜんならない。
終わってみれば、ただの空騒ぎだった、のだ。
しかし、みんなで浮かれて踊ったのではなくて、家にこもって「自粛」したいた、というおそまつだった。

今回の「流行病(はやりやまい)」は、つまるところ、「ふつうの風邪」だった。
わが国における「患者数」の割合は、1万人にひとりで、重症者は40万人にひとりだった。
重症にならなかった、ほとんどの患者のひとたちは、「よくある風邪の症状」で回復したのだ。

それで、なんの罪もない店舗の経営が行き詰まったのだから、まったく「やるせない」ことになっている。
山梨の女性の件だって、ヨーロッパ中世の「魔女狩り」そのもので、常軌を逸しているのは騒いでる側の方である。
『ペスト』は確かに恐るべき感染症だが、今回のはふつうの「風邪」だったからだ。

ところが、振り上げた拳を下ろすことができなくなった「政府」と、「政治家」は、謝るタイミングも失したから、さらに余計なことをやらせて、責任回避を図っている。

たとえば、スーパーマーケットを経済再生担当大臣が視察して、混雑を「密」だといって脅し、入店制限なりのさらなる嫌がらせを推進させる。
このひとは、今回の「感染メカニズム」を、いまだに理解できないのではなくて、あやまった理解を「強引にでも継続する」しかもう責任回避の方法がないのである。

ならば、さっさと辞任すべきだ。

しかし、おとぼけがたくさんいて、大阪府知事が自粛延長について政府依存の発言をしたら、頭脳がクリアなこの大臣は、「仕組みがわかっていないのではないか?」とのたまった。

首相の「緊急事態宣言」は、都道府県知事に権限を委譲するものだから、大臣の意見がただしい。
それで、府知事が「謝罪」することになるというハプニングまで起きた。

つまり、複雑な「法の趣旨」が理解できる大臣が、どうしたら「感染するのか?」を知らんぷりしているのである。

空気感染しないから、「密」なんて関係ないし、自分が咳をしていないならマスクの着用も必要ない。
レジの「膜」も意味不明だし、並ばせ方も「待ち行列理論」に合致しない。

重要なのは、買い物客には商品に触ったらそのままカゴに入れ、棚に戻さないことを「買い物マナー」にすべきだし、店外に消毒液を置いて使用を促すことが対処法として推奨すべきなのだ。
視察した大臣が、こうしたアドバイスをするのではなく、利用客という国民にこれまで以上の不便を強いるとは、お門違いもはなはだしい。

スーパーマーケット業界は、こぞって「抗議文」を突きつけるべきであるし、もっと強い「警告文」でもいいのではないか?
大臣のこれ以上の非合理的介入は、営業妨害に相当する、と。
そして、この警告を無視するなら、訴訟もありうるとすればなおよい。

送付先は、大臣本人と所属政党がのぞましい。

さてそれで、権限が委譲された知事たちの対応が乱れた。
温泉旅館などの自粛要請を解いても、特定の業界の自粛要請は解かない、という理不尽もおこなわれている。
その理由の、合理的説明がないのは、やはり「営業妨害」である。

これは、解かれた側にも営業妨害にあたるのは、どうしてこの業界だけが解かれたのか?についての合理的説明がないからで、利用客からすれば、自粛が解除になろうが「不信感」だけがつのるからである。

すると、わが国では、国も地方も行政が、「営業妨害」をすることが「トレンド」になっているのである。

もはや「自粛」ではなく「自虐」なのだ。

発生源の国がつく「うそ」は、自分たちに都合がよいようにするため、という原則から決してはずれない。
しかし、わが国は、自分たちを痛めつけるために「うそ」をつくのである。

そうすれば、痛いめにあったひとたちが、政府に尻尾を振って近づくからである。
もちろん、「犬」相手でもこうした方法でなつかせる手法はあるが、推奨されないのは「心の絆形成」ではないからである。

しかし、政府にとって、心の絆ではないことは、かえって都合がよい。
これを「絆し(ほだし)」というのだ。

「絆」という「字」には、「きずな」と「ほだし」の二面をあつかう意味がある。
「家族の絆」はなんだか温かいが、「DV一家から逃げられないのを絆し」ともいう。首輪でつながれた状態をいう。

政府と対峙してきた財界は、とっくに「絆されて」しまって、だれも政府にたてつかない。
しかし、今回の政府による「対策」は、あきらかに「失政」だし「圧政」のはじまりである。

伝統的な経済官庁も、営業妨害がだいすきなのだ。

そういう意味で、自粛がまだらに「崩壊」しているのは、結構なことである。
けれども、民間企業がこぞって政府に対峙しないと、やられてしまう恐怖が教訓となった。

なんと、わが国の経済活動で、最大の敵は、ライバル企業でもなんでもなく、「甘いことしかいわない」政府なのであった。

これがわかったことが、自粛をやった唯一の効果なのである。