人間が「犬」になった

人間とのつき合いが長い、「犬」という動物には、「豊かな感情」があるゆえに、人間と共存してきた。
犬が飼い主の感情を読み解く力は、ある意味人間の想像以上であって、人間の生体エネルギーまでもキャッチすることができるからだと「専門家」は断言している。

これはどういうことか?といえば、飼い主である人間が落ち着いてリラックスしていれば、犬もリラックスするし、人間が不安を感じれば、犬も不安になって挙動が変化することをさすのだ。

群れをつくる習性がある犬は、群れの順位を絶えず確認する行動をする。
家庭の愛玩犬(ペット)でも、家庭内の人間集団における序列と、犬自身の序列を、犬が確認行動をとってかってに決めている。

だから、なさけない人間集団なら、犬がかってに自分が「ボス」だと思い込んだり、ちゃんとしている一家なら、犬がかってに自分が「ビリ」だと思い込む。

このときの「なさけない」とか「ちゃんとしている」のを決めるのは、犬の価値観でのことだから、人間がこれを応用して「しつけ」をすることが「コツ」になるのである。

犬の脳は、思考を司る前頭葉が発達していない。
したがって、犬は「思考できない」のだが、感情は人間以上にゆたかなので、感情によって行動するというのが習性である。
これに、条件反射ができるので、これら「習性」を応用して犬をあつかうと、人間を幸せにしてくれる動物になるのである。

前頭葉が発達していないことから、犬は当然だが言語をもたないし、文字もしらない。
記憶力も、感情という習性からのものになるので、「うれしかったこと」、「嫌だったこと」は覚えるが、人間的なストーリーをもった「記憶」ではないから、トラウマのごとく断片的なのだ。

それで、行動については数分前までのことしか記憶できない。
このことをもって、犬のことを「いまを生きる動物」というのである。

あたかも、このことは重要な示唆をあたえてくれる。
感染症と人類がよぶ病気は、億年単位でつちかわれた病原菌やウィルスによるものだから、われわれ人類よりもはやくから存在するものだ。

そもそも、生物の細胞の中にあって、きわめて重要な役割をはたしている「ミトコンドリア」も、バクテリア起源といわれている。
つまり、細胞の中に「後から」進入したバクテリアが、そのまま細胞内で「共存」しているのである。

もちろん、わたしたちをつくっている細胞に、「ミトコンドリア」は不可欠で、「体重の10%」はミトコンドリアの重量である。
人間もそのほかの生物も、細胞に「ミトコンドリア」があるから、他者と共存して自分ができているとかんがえると、まったく不思議なことである。

いまさら、「コロナウィルス」とのつき合いは「長くなる」なんて、高校生が授業でならうレベルであって、何をか言わんやなのだ。

2000年代だけでも、「コロナウィルス禍」は三度もあった。
SARSは、2002年。
MERSは、2015年。
そして今回(「COVID-19」という)。

「新型」で「治療法がない」のは、みなおなじだった。
SARSもMERSも、新型コロナウィルスだったといわない「怪」がある。

SARSのときは、わが国では、東南アジアからおおくのひとが「疎開」にやってきた。
宿泊客として受け入れる側は、緊張しながら対応した記憶があって、専門家から対応策を聞き取って、社内の対策とした。

さいわい、なにも起きなくて済んだし、いまのような国家の「緊急事態」になんてなっていない。
しかも、SARSの致死率は9%で、いま(5%:5月2日厚生労働省発表の死者数/患者数で計算)よりもほぼ倍も高かった。

ちなみにMERSの致死率は36%もあったが、WHOの発表では、感染者数は世界累計で1357人このうち少なくとも486人が死亡という「少なさ」で、国内では感染者すら「ゼロ」だった。

すなわち、いま、いったいなにを慌ててやっているのか?となる。

まさに、犬のごとく、記憶力を失っているのである。
さらに、SARSを教訓とした、対策の準備がまったくなく、まさに場あたりと、欧米等の外国に無条件で「横並び」して安心するのは、どういう精神構造なのか?

「STAY HOME」とは、「都知事英語」を政府も採用しているが、「犬への命令」とおなじではないか?
「HOME」を「HOUSE」に換えれば、「まま」である。
せめて、「Let’s 」をつけたらどうかと、だれもいわなかったのは、知事に忖度したからだろう。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」をそのままに、やりっぱなし、反省も総括もなしで、ただただ、その時々に「対処するのみ」では、いまどきの企業経営すらままならぬことは、中小零細の経営者ほどしっている。

わが国の為政者の、マネジメント能力は、この程度。
いや、犬にも失礼ながら「犬になった」人間が、選挙で選ばれていて、自分が「ボス」だと主張するのは、もはや「マウント行為」そのものなのである。

犬になった人間たちから、犬のように命令されている国民は、なにものなのか?

飲食業界や宿泊業界が、業界を挙げて損害賠償請求を政府にしないで、ひたすら「餌」を待っている姿も、「無惨」なのである。

酒屋アルコールの「酒税免除」

めずらしく、結構なニュースがあった。

消毒用エタノールが不足して、各地の地酒メーカーが社会のために高濃度アルコールの生産をはじめたが、「酒税」がかかるため高額になっている。
それで、なんとかならないのか?というメーカーからの要請に、国税庁が1日、「特別に期間限定で免除」を決めた、という内容である。

先月書いた「酒税」の問題が、クリアされたわけだ。

しかし、壁はもうひとつあって、それが「消防法」なのである。
高濃度アルコールは、「危険物」に該当するから、そもそもの生産量が消防法で規制されるということだ。
なので、生産能力があっても一定以上はつくれない。

さらに、「転売屋対策」が必要なのではないか?という議論があるのは、高額転売されて、ほんらい必要とすべき医療機関をはじめとした需要先に届かないことを懸念してのはなしになっている。
それで、転売を罰則付きで禁止してほしい、という製造元からの要望がある。

「法」にかかわる問題を整理すると、
既存法として、
・酒税法
・消防法
新法として、
・罰則付き転売禁止法
ということだ。

あえて「そもそも論」をいえば、5月1日以降の出荷分について、「不可飲処置」が承認されれば酒税課税がなくなるという、
(1) ルールをつくって、
(2) 決めたのが、
「国税庁」だというのは、「税」の原則からしたら「大」がつくほどの問題がある。

国民から徴収するのが「税」であるから、民主主義国家なら、ほんらいは「国会」で決めないといけない。
「徴税」こそが、国家権力の権力行使そのものであるからだ。
よって、「立法府」における最重要な決めごとが「税」にまつわる「法」を決めることなのだ。

「国税庁」とは、そのHPでも明記しているように、
使命:納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する。
任務:財務省設置法第19条に定められた任務を、透明性と効率性に配意しつつ、遂行する。
とある。

その財務省設置法第19条は、
(任務)
第十九条 国税庁は、内国税の適正かつ公平な賦課及び徴収の実現、酒類業の健全な発達及び税理士業務の適正な運営の確保を図ることを任務とする。

である。
さらっと書いてあるが、じっくり読めばたいへんな「任務」となっていて、「使命」から逸脱した権限をもっている。
「徴収」だけでなく、「賦課」(税をかけること)もし、「税理士」を「岡っ引き」にする。

このたびの、酒類製造業者である「酒類業」がはじめた、「飲用としない」消毒用アルコールの製造は、「法」で想定していなかったことなのだ。造り酒屋が酒ではないものを作ったときにどうするか?になるからだ。
となれば、「法」をどうするのか?を緊急に定めないといけない。

これをしないで、国税庁が「なんとかした」ということは、結果が良くても手続きに問題がある。
いまさら面倒だが、民主主義とは「手続き」が重要なのだ。
ようは、越権行為ではないのか?

もうひとつの、消防法は、放置されたまま、という点で、越権はしていないが、国民の利益を高める、という点において役に立っていないということだ。
そういえば、ガソリンスタンドが「セルフ」になるとき、「かならず火災が起きる」といっていたひとたちはどなただったか?

政府は、経済停滞を招く方策を熱心に推進しているが、国民生活や医療現場の「緊急事態」について、じつに無頓着である。
しかし、このばあい、政府ばかりを責められないのは、政治、とくに立法府の無能が犯罪的レベルであるということだ。

すると、衆議院の議員数で圧倒的(絶対)多数をもっている、与党の無能とイコールの関係になるのは必然で、統治能力がないばかりか、存在意義すら疑問である。
与野党ともに、議員が衆参両院に「ある」法制局を使いこなせないのは、「政党内に独自の」シンクタンクがないからである。

つまり、役に立たない議員が、たまたま与党の看板のしたに集まっているだけの状態で、そこにはなんら共通の目的や目標さえも存在しない。
これは、「組織ではない」ということであって、ふつう「集団」というのだ。

とうとうわが国に、「近代政党が存在しない」ことの大問題が、コロナ禍という非常時に顕在化したのである。
国民は、いま待機中の自宅で、このことの重大性を認識しつつある。

にもかかわらず、当事者たちである与党の国会議員に、いったいどんな危機感があるのだろう?
おそらく、自分たちの存在意義が問われているなぞという危機感など微塵もないだろう。

これこそが、当事者能力のなさを証明している。

いま、国民に「自粛」を強要している政治家は、かならず国民からの「粛正」の対象になる。
お気軽でいられるのは、落選しないという根拠不明の安心感からだろう。

しかし、「安心」のために「自粛」を容認した国民も、ネット情報をつうじて、「ウィルスの事情」がだんだん理解できてきた。
教育水準が高いわが国の国民は、国会議員と遜色ない知的能力を持っているからだ。

「安心」が「裏切られた」と気がつきだしている。
すくなくても、全国一律の必要性や、全世代一律だっていかがなものか?しかも、補助金額だけが対策でいいのか?と。

それに、「諮問委員会」の「専門家」に、どうして弁護士がはいっているのか?だれが、いつ、どうやって選んだのか?
感染症や医学、科学の専門家会議ではないだけでなく、ここにきて、あろうことか「経済の専門家」まで加えろという「専門家」とは、いったいどんな集団なのか?

得体の知れないこれらのひとが「諮問委員会」として、首相の命にしたがうのか首相をしたがえているのかさえもわからないのに、よくも「与党」は平然としていられるものだ。
組織ではなく単なる集団だからとしか説明できない。

この後始末は、経済混乱というレベルでは済まない。

だから、ますます新法として、罰則付き転売禁止法なんて、やってはいけないものを、中央も地方の政治家も「やりたがる」のは、なんだか「目立たないといけない」という感覚からでしかないだろう。
これを、私利私欲というのである。

転売を阻止したい、まじめな酒造メーカーさんの気持はわかるが、これは「経済警察」を発足させる「猛毒」になる。
自由経済下では、「規制」ではない「市場メカニズム」における「退場」を促すことが肝要なのだ。

まずは、クールダウン。

ビジネス・モデルを変えられるか?

残念ながら、会社をだれも助けてはくれない。

これが、受け入れざるをえない事実である。
もはや、政府や自治体に依存したところで、なにもしてはくれないことが明らかになってきている。
あるとすれば、「倒産」の報道に「弔辞」を述べるコメントをだすくらいでしかない。

創業時の原点にもどったのである。

すでに資金繰りがひっ迫しているかもしれない。
倒産を防ぐには、資金調達に奔走するしかないから、このばあいは「余計なこと」に聞こえるかもしれない。

しかし、めったにない社会からの「突き放し」が起きたのだから、「収束後」の社会ニーズについて、深いところからかんがえることが、もっとも重要なのである。
つまり、これからどんな社会になるのか?ということの「予測」をしないといけないのである。

もちろん、「予測」だから、当たるともはずれるとも、だれにもわからない。
このことも、「原点のうち」なのだ。
そして、「最悪」を想定することも必要なので、いくつかのシナリオを「予測」しないといけない。

すると、「最善」とはなにか?
それは、ウィルス禍がはじまる「前の状態」に戻ることだ。
もっといえば、ウィルス禍がはじまる前の状態よりもよくなる、ということではない。これは、「最善」ではなくて、「希望」にすぎない。

なぜなら、経済活動全体が二ヶ月(一年の6分の1にあたる)も停止するという、前代未聞が発生したのだから、前の状態に戻ることすら、かなり困難だと予測できるからである。
ビデオゲームなら、保存した場面からの再スタートは可能だが、リアル社会はそうはいかない。

1980年の大ベストセラーだった、ミルトン・フリードマン夫妻の『選択の自由』には、『えんぴつの話』が長文引用されている。
だれでも手にしたことがある、「えんぴつ」が、どうやってつくられているかを知るものはだれもいない、という、「虚」をつくはなしだ。

読めばそれが「虚」ではなく、「実」であることに気づく。
21世のIT社会になっても、だれにもえんぴつがどうやってつくられているかを知るものはいないことに変わりはない。

これは、オーストリア(ウィーン)学派を代表する、ミーゼスの主張をわかりやすくしたもので、正確にいえばフリードマンは「新自由主義」ではけっしてなく、むしろ「自由放任主義」に重心がある。

日本には、「新自由主義」の本筋がどういうものかをしらずに批判しているひとがおおすぎるので、ほんとうは1000ページの大著だが、ミーゼス渾身の『ヒューマンアクション』を読むとよい。

かいつまんでいえば、「経済の複雑にからみあった実態」はだれにもわからないということなのだ。
だから、政府という、経済活動の外部に存在するものが、経済活動に「介入」しても、うまくいくためしがないのである。

政府が経済政策として介入して、あたかも成功したようにみえるのは、「そうみえる」だけなのである。
なぜなら、政府が介入しなくてもうまく行っているなら、政府の介入が足を引っぱるものでも、見かけ上うまく行くことがあるからである。

政府の積極的な財政支出による介入を主張する、ケインズ理論とて、ケインズ自身が、「不況のときだけに限定する」というのに、政府はいつ何時でも介入することで、経済を「歪める役割」しかしなくなったのは、政府の都合にある「継続性」がそうさせるからである。

このことを誤解して、官僚の「無謬性(ぜったいに間違えない)」まで「昇華」してしまったのが、わが国の「経済官僚」依存である。
終戦後の「傾斜生産方式」がさんざん褒められてきたが、昨今の研究では、「かえって成長の足を引っぱった」ともいわれだしている。

そんなわけで、わが国だけでなく、世界中で発生した厄災であるから、世界史的視点でこの厄災の後始末をかんがえないとまちがえることになるのは必定だ。

そして、それが「えんぴつの話」のように、どう自社に関連するのかがわからないけど、かんがんえなければならないのは「経営者」だからである。
ふだんできない、自社とはなにか?まで追求するときがきたということだ。

それが、創業時の原点にもどったという意味なのだ。

すると、本来、企業と雇用契約を結んでいる労働者の立場からすれば、経営者と同様に「自分の労働力」のことをかんがえないとまちがえることになる。
このときの「まいちがえ」とは、年収どころか人生にもなる。

欧米の厳しいシステムは、「失業」という事態がやってきて、嫌がおうにも労働者がじぶんで「なんとかせねば」をかんがえないと生きていけない。
それが、とうとう、わが国にも及ぶという事態になったのである。

そして、このことこそが「グローバル化」の本質なのだ。

これから、鬱を発症するおとなたちが増加することも予測できるのは、過去の危機であったことだからで、その反省もないままに問題を放置してきた。

中学生なら、噛んで含めれば理解できるかもしれない。
社会に出るまでの、残りの準備期間(10年もない)に、なにを習得しておくかを、おとなが反省をこめて教えるときでもある。

パチンコで感染者はいるのか?

自粛要請をうけて「休業」をする店と、これをしない店とがあるが、なかでも一部の知事は、休業しない店名を公表する、とした。
しかし、この対象が、なぜか「パチンコ」だけ、なのである。
カジノ誘致には、熱心のようだが。

皮肉にも、公表された店には開店前からおおくのひとが行列して待っていた。
このひとたちは「馬」とか「鹿」なのだろうか?
それとも、いいだした知事や、知事を支持するマスコミが「馬」とか「鹿」なのだろうか?

まず、相手がパチンコだということをいったん忘れないといけない。
これは、事前に「フィルター」がかかって、冷静なかんがえにならなくなるからである。

不思議なことに、クラスタ感染していると発表される場所に、パチンコがない。
逆に、衛生管理が徹底している「はず」の、医療機関がおおくのクラスタ感染の発生場所になっている。

これはいったいどうしたことか?

横浜でいまやっているパチンコ屋をのぞいてみると、すでに「禁煙」が実施されていることもあって、なんだかむかしのような「空気の悪さ」がないし、かなり窓を開放しているから、特別な閉鎖空間にいる感じがしない。

店員さんたちは、それぞれ消毒剤スプレーを持っていて、よくみれば手袋もしている。
それで、お客が席を替わると、すぐさまハンドルと周辺を消毒しているのだ。

「接触感染」という医学用語が、日本語的混乱をもたらしたのは、「濃密接触」といういいかたで、ヒトとヒトが近くで会話することと混同してしまったから、転じてありえない「空気感染」までうたがうことになった。

「接触感染」の本意は、「なにかに触ること」の「接触」なのだ。つまり、英語でいえば「on」の状態だ。
「上に」と訳してはいけない。「なにかにくっついている状態」をいう。

だから、専門家がこの用語をつかって一般人に説明するときには、誤解がないように「手で触る」ことを強調しなければいけない。
けれども、専門家同士の会話とおなじ言葉遣いを貫いたのは、「不親切」どころか、「専門」「馬」とか「鹿」というのである。

もちろん、医学用語だから、「接触感染」はまちがった表現ではないが、誤解をまねくおそれがあると気遣うのも専門家の役割なのだ。
マスコミの「聞き手」が、これをわかりやすく解説するということをしないで、おなじ言葉遣いをオーム返しするのは、どういう了見なのか?もあるのは、伝え手としての業務も怠っているからである。

すると、よくわからないのが、専門家集団の「はず」の医療機関で、「接触感染」がどのように扱われているのか?ということだ。
不名誉で有名になった、慶應義塾大学病院での研修医の集団感染だって、「飲み会」が「けしからん」になっているけど、「接触感染」をどのように認識していたのか?の疑問にこたえてはいない。

「研修医」とは、「研修」がついてはいるが、みな「医者」である。
医師免許国家試験にパスしたから、研修を受けていた。
ならば、医師免許国家試験には、「接触感染」の対処方法が「出題されない」から、勉強しなくてよい、ということになっているのだろうか?

病院長が、「(この時期に飲み会なんて)医者としてあるまじき」と弁明したのは、教授職にある病院長も「接触感染」の対処方法をしらないからで、滋賀県の医師たちや、都立であろうがなんであろうが病院内でクラスタ感染する理由に納得できるこたえとなる。

ということは?
「営業自粛」に意味はないし、「三密」はデマである。
店内で、お客や従業員が「触った場所」を、その都度、徹底的に消毒し、手指の消毒も欠かさないようにするだけでよい。

なんだ、それならパチンコ屋さんがもうやっている。
この業界は、貸玉と出玉の状況を、リアルタイムで統計処理して利益計算をしているから、意外なほどに科学的経営をしているのだ。

なるほど、それでパチンコからクラスタ感染者がいないのだ。
だったら、知事職にあるひとは、パチンコ屋を閉店せよというのではなく、パチンコ屋のやり方に学べ、といった方がよほど「生産的」である。

もちろん、パチンコという遊技場をどうかんがえるべきかの議論をしているのではない。

たとえ自覚症状がない感染者が利用客でも、だれかが触った場所を消毒することで、他人に感染させない、ということを地道にやっていること自体は、対策の効果的事例として役に立つといいたいのである。
しかも、「理にかなっている」。

それが、あろうことか難関医学部教授職よりも、はるかに合理的な方法を実践しているという意味でも、「理にかなっている」のだ。

政府は自粛を延長するというが、並行して、パチンコ屋さんの対応を応用する店舗の営業再開を促すような誘導をすべきである。
もちろん、その「自信がない」という店舗は、営業自粛を継続することになるけど、接客業なら利用客に消毒にたいする積極的協力を仰ぐことは、効果を高めるのだから推進すべきである。

でないと、政府が「理にかなっている」ことを潰しながら、責任すらとらないお気軽な存在だと認めることになってしまう。

少なくとも、強権的な知事の猛省をもとめたい。

正論の女王の正論

内科医の仲田洋美氏が立ち上がった。
「馬」と「鹿」を連発するから、最初は「毒舌の女王」だったけれど、もはや「正論の女王」といっていい。
彼女をしらない方は、ぜひユーチューブの『女王降臨ひろみちゃんねる』で検索して、初回から視聴してほしい。

新型コロナウイルスの医学的見地からの情報なら、このひとの解説をじっくり観ることが、「常識」なのではあるまいか?
地上波に登場している、「専門家」の主張を、論理的かつ専門的かつわかりやすく「粉砕」しているからである。

これは、「福島」のときの武田邦彦教授とおなじような登場のしかたである。
歴史は繰り返す。
相手が医師であっても容赦ないのは、「私見」ではなくて「事実」からの発言だからである。

ところが、マスコミ報道にでてくる「常連」になった「専門家」への指摘など「まだまだ」なのは、医学界の「闇」にまで深く切り込むからである。

第一に、日本国憲法から論がはじまる。
あるべき医師のすがたを、その第25条にもとめているのだ。条文は以下のとおり。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

これを実現するための一角をなすのが「医師」である。

だから、医師会や医学会は、つねに憲法の精神に立ち戻って、自らの姿勢を正さなければならない、と主張している。

それは、ひろみ先生が医師としてスタートしたばかりのころの、二度までもの苦い経験(不届きな教授の所業を批判して、医局から閉め出されたこと)が、いったん医療の世界から遠ざけられて、法律の世界に身を投じたことが、たいへん影響しているのだともおもう。

そして、法律の世界とは基本、もっぱら起きたことに対する対処であることに気づき、これが「後ろ向き」に感じ、自分には向かないとして、再び医師の世界に戻ったというから、芯がとおっている。

「どうしても商法・会社法が合わなかった」といって、六法のうち五法を勉強したが、司法試験は断念したという。
ちなみに、六法は、憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法のことをさす。

人間という動物は、ストレスの対処のために、「逃げ方」をかんがえて実行し、それで最初のストレスを忘れることをする。
自分を良い方向に向かわせる典型が、猛勉強であったり激しいスポーツ練習だったりする。

社会人だって、職場への不満や怒りが、エネルギーとなって「勉強してやる」と発憤することはある。
後からすると、そんな酷い職場やそんな職場を放置していた上司たちに、ひそかに感謝もするから、人生とはわからない。

「ブラック企業」は、いけないが、これをはね除けるエネルギーが湧いてこないのもいかがなものか?
学校で、ストレスとのつき合い方を教えてくれない。
教師も、それをコントロールする、教育委員会の役人も、きっとストレスがない環境に育っているから、わからないにちがいない。

わが国の教育界も、旅館やホテルなどとおなじで、「心理学」を深く学んでこれを「応用」し、「顧客」である生徒に対処しないのは、「しらない」では済まされない「怠慢」なのである。
この意味でも、教育「行政」という意味不明なものをつかさどる「文部科学省」という役所は、とっくに不要だし邪魔なのだ。

しかし、先生は上述した医局から閉め出されたとき、文科省の担当官が助けてくれて、専門医として復活を遂げたときには、泣いて喜んでくれたというから、あんがい文科省には優しい目をもっている。

さて、先生は、今回のパニックできまった「初診時のオンライン診療解禁」は、厚労省が認める前に、医師会が認めたことを批判している。
なぜなら、どんな病気なのかを診断する「初診」こそが重要で、これが医師の「腕」であるから、オンラインという方法でそれを満足させることができっこないからだとの主張なのだ。

たとえば、聴診器もあててくれなかった、という患者の声にも、先生はひるまない。
症状によっては会話やふつうの呼吸音だけで、聴診器をあてるまでもない「診断」はできるし、できない医者がいたらそれこそ問題だ。

だから、なにがなんでも聴診器をあてないことが問題とはならない。
むしろ、プロとして、「初診」の重要性が主張できない医師会の重鎮たちを批難するのは、かれらは大学教授とか大病院の院長とかという「重い肩書き」があるぶん、実際の診療現場から遠いのだ、と。

まさに、『逆さまのピラミッド』を読むべき上層のひとたちがたくさんいるのだ。
この本がアメリカででたのは80年代の終わりで、わが国では90年に日本語版がでた。

この本によって、アメリカで「サービス革命」が起きたといわれたが、日本では「起きなかった」。
おそらく当事者たちに「読書習慣」がそもそもないからではないかとうたがっている。

いま、ひろみ先生は、医師会に対して、医師がSNSで発信するときは、ホンモノの医師であることを表明する「倫理規定」をつくるように要請する準備をしていると明言している。
たいがいの組織は、自ら定めた「倫理規定」に反すると、「懲罰」という段階も用意されているから、なかなか「強力」な要請なのである。

混乱しているがゆえに、これまで以上に「倫理」が必要な社会になっている。

自粛しているのに減らないの?

初めて緊急事態宣言が出たのは、今月7日で、大都市を含めた7都府県だった。10日が経っても感染者が増えているのはどうしてなのか?

このウィルスによる発症の潜伏期間は、グラフをイメージすれば、長くて2週間程度とはいうけれど、もっとも多いのは5日ほどだったはずだから、とっくに「自粛」の「効果」がありそうなのに、なぜなのか?の説明がない。
それで、こんどは緊急事態宣言を全国に拡大するというのは、どういった因果関係があるのだろうか?

10万円を国民に配るはなしが、まるで連立与党の片方のおかげで成立しそうになっているのを、自民党の一部議員が「主張を無視された」と憤慨しているのは、中小企業には「融資」というだけでなにもしない冷たさが、説明なく繰り返されるのと大変にている。

つまるところ、行き詰まったのである。

わが国は、政治家や政党による「統治」が、完全に行き詰まってしまった。
それは、役人の代弁しかできないひとたちが、寄ってたかって大臣をやっているだけになったからである。
しかも、野党の存在価値がほとんどない。

代議士の「代」は、役人の「代」だった。

昨日は、ネット配信されている『虎ノ門ニュース』に出演した、武田邦彦先生が、科学者のデータの見方を講義していた。
それも、これまでのインフルエンザについてのデータをつかっているので、気がつかない事実も説明していた。

ウィルスは、強いものとそうでないものが勢力争いをする。

そもそも「コロナウィルス」というのは、あまたの種類があるもので、いまでも「風邪」の原因であることがしられている。
人類が、延々とつき合ってきているウィルスの一種である。
これに対抗するのが、インフルエンザウィルスで、100年前には、やっぱり「風邪」だとおもわれていた。

有名な「スペイン風邪(H1N1亜型インフルエンザ)」は、1918年~20年にはやって、全世界の死者数は、少なく見積もって1700万人、多くて1億人といわれている。
こうしてみると、いまはやっているのは、驚くことに「たいしたことない」のだ。

さらに驚くことに、重要なデータは、今回のウィルスが「頑張っている」ので、通常ならはやるはずの、インフルエンザがぜんぜんはやらないことが起きている。
昨年の秋から年末は、いつも通りのインフルエンザ発症があったのに、だ。

これは、「のどの奥の狭い面積」における「陣取り合戦」で、ことしはやるはずのインフルエンザウィルスが、新型コロナウイルスに負けたことが原因だと指摘する学者がいるのだ。
シャーレにおける細菌やカビの培養実験で、特定のものが他を圧倒する現象とおなじだ。

いつもなら、1万人以上がインフルエンザで亡くなるのだけれど、今年はその5分の1ほどで収束してしまった。
たとえば、愛知県は3月20日の報道で、昨年12月に発令した「インフルエンザ警報」を解除している。

かわって、「新型」で亡くなってしまうのは気の毒だけど、全体数では、いつもよりぜんぜん少ないのだから、「風邪」というおおきなくくりでみると、被害の実態は意外にも「軽い」ということになる。

さてそれで、自粛しているのに患者数が減らないのはなぜか?
先日も書いたが、感染者は検査自体の件数と確度によるから、これで一喜一憂しても意味がない。
ただしく、「診断」された、「患者数」でみるべきだろう。

10日間かけても「新規患者数」が減らない?
すると、「自粛」という方法の「効果」をうたがうのが「科学」の発想になる。

憶測をふくめてさまざまな感染原因がいわれているが、改めて確認したいのが、「飛沫感染」と「接触感染」だということなのである。

おおくのひとがマスクを着用していて、咳やクシャミを素でするひとがみられないなか、いちばん疑うべきは、「接触感染」である。

これは、ウィルスが付着しているなにかに、「手」で触ることが第一の原因で、その汚染された手で、自分の「目」や「口」などの「粘膜」に触ることで感染するのである。

公共の場における不特定多数が触るものを触って、その手で自分の「目」や「口」を触ってはいけないのである。

では、公共の場における不特定多数が触るもので、もっとも危険なのはなにか?
武田邦彦先生は、「トイレ」をあげた。
せっかく石けんで手洗いしても、蛇口の水栓にまた触らないといけないし、ドアも開けないと出られない。

しかも、トイレは「飛沫感染」の可能性もあるという。
大便後の排水で、飛沫が9メートルも飛ぶというから深刻である。前に使った感染者が、便器に蓋をしてから排水するとよいのだが、蓋がないのが公共のトイレにたくさんある。

もしや、これまで感染したひとは、公共の、あるいは店舗内のトイレで飛沫感染と接触感染のダブルで感染していた可能性がある。
なるほど、自粛の効果は、公共のトイレを使わないことにあるかもしれない。

個人でもわかりやすいのが、「東京都感染症週報」がある。この中の「患者および死亡後診断」の数に注目すればよい。
あおるだけあおる、マスコミ報道に惑わされないための「予防」になるので、チェックするとよいだろう。

医師養成にMTP必修を

前にも書いた、MTPとは、Management Training Program の略で、わが国には、戦後すぐに米空軍立川基地の日本人従業員への管理職養成に導入された手法である。

改めていえば、組織をあずかるひとなら誰にでも有効なメソッドである。
じっさいに、企業ならわが国を代表する自動車会社や、その系列、あるいは世界的化学メーカーなどだけでなく、おおくの中小企業にも導入されている。

MTPと共に立川基地から伝わった手法に、TWIもあると何度か書いた。
こちらは、現場作業の「教え方を訓練」する方法である。

TWIのモットーは、「相手ができないのは自分が教えていないからだ」にある。「相手」とは部下や教えられるひとのことで、「自分」とは上司や教える立場のひとを指す。

だから、部下ができないのは上司である自分が教えていないからだ、という思想は、まったくそのとおりのことをそのとおりに書いているのである。
なんだか、わが国伝統の、「背中を見て覚えろ」とか「師匠の技を見て盗め」という思想では、「緩い」のである。

こうしてみると、わが国の伝統的な教え方は、「パッシブ」で、米軍のやり方は、「アクティブ」である。
もちろん、時間はかかるが「パッシブ」なやり方がまったくダメだということではない。

「その道」を徹底的にきわめるという「覚悟」までに追いこむことで、教える側と一体になることを理想とするからである。
そこにひそむ「精神性」までもが引き継がれる、という意味での「凄み」さえある。

しかし、一方で、そこまで付き合えない、というのも現代感覚である。
西洋の合理性が輸入された結果ではあるけれど、それはそれで一理ある。

それが、当時の、「少品種大量生産」にマッチした。
「効率的なやり方」を追求するのは、開発した「軍」はもちろん、納品する製造業にも有用だったからである。
それで、軍需品の物量戦における「大量生産」に応用された。

しかし、戦勝国のアメリカで戦後は廃れ、敗戦国のわが国に導入されたのは、わが国のやり方が、「合理的」とはかけ離れているように米軍将校の目に写ったからである。

それで、わが国を代表する電器メーカーの人事部に配属されたアメリカ人によって、この手法が逆輸入され、いまではアメリカの産業界におおきく貢献しているという皮肉がある。

さて、昨今の「間抜けな事件」の代表が、医師たちの夜遊びによる「集団感染」だ。
大学名や病院名が出るので、その入学や勤務のための難易度をかんがえると、世間のイメージと、しでかしたことのギャップが大きすぎるので、なんとも締まりがわるい話題になっている。

慶應義塾大学は、このところ「下ネタ」事件がいろいろ続いていて、なんだかなぁ、なのだが、むろんほんの一部の暴走が校名を背負って発信されるだけである。
それは、ふだんから「校名」で「ブランド化」をはかっていることの裏返しにすぎないので、経営陣にも責任がある。

今回の、慶應義塾大学病院における研修医たちの「打ち上げ飲み会」は、慶應病院という大病院ひとつの問題ではなくて、「ケイレツ」が100もある「白い巨塔」における、医局の崩壊になってしまった。
濃厚接触した医師や看護師などが、続々と「二週間の隔離」対象になるからである。

これを、院長たち幹部が、いつものように「頭をさげる」ことでの「謝罪会見」をするが、わるいのは「やっちまった本人たち」であるとして、「教える側」の責任を放棄するのである。
「医師としてあるまじき」と。

草葉の陰で福沢諭吉が泣いている。

企業において、「試用期間」にあたるのが、「研修医」だとすれば、「あるまじき」ことをやったら、「解雇」だってありうるから、「医師免許」が「無効」になっても文句はいえない。
こうした、「罰則」がないなら、どんな「制度」なのか?の疑問がのこるが、これを決めるのは「誰なのか?」。

そんなわけで、上司にあたる院長たち幹部には、「TWIの精神」をたたき込む必要がある。
わが国で、TWIを積極的に導入しているのは、「筑波大病院」であるから、慶應義塾大学病院の幹部は筑波大病院に「見習い」にいくとよい。このとき、白衣には「見習中」と書いた名札をつけよ。

それに、医師は全員、MTPを「必修」とすべきである。

開業しようが、勤務医になろうが、「医師」ひとりだけでは業務は困難である。医療事務担当者だって必要なのだ。
すると、医師は、新米だろうが、かならず「職場リーダー」になる。

組織は、おなじ目的・目標をもった、二人以上の人間からなる。
「医師免許」の重みは、医療という分野では、周辺の専門家を束ねる職務も含んでいるのだ。
まさに、マネジメントができなくて、どうして「医療」ができるものか。

医師国家試験の「受験資格」に、MTP受講修了証の提示を義務づけるべきである。
その前に、期間をもうけて、既存の医師全員にも修了証の取得を義務づける必要がある。

MTPの威力をしらないひとが、先輩や上司として存在すると、悪影響を及ぼすからである。

「先ず隗より始めよ」を率先垂範すべきは、いつでも、「えらいひと」からなのである。

医師会は、このくらいの責任感を国民に見せるときは、いま、なのであるということをしるべきである。

桃が満開の山梨に疎開した

桜と桃が満開の山梨とは、例年のことなのか?
先月の3月26日が、旧暦の3月3日の「桃の節句」であった。

さいきんの遠出は、もっぱら「自動車」になった。
時間に追われていないから、あんまり高速道路をつかわなくなったのは、昨年の島根県足立美術館への旅で覚えた「地元の情緒」も味わえるからである。

「タイムマシン」をテーマにしたSF小説はあまたあるけど、現代社会のホンモノのタイムマシンは、第一に飛行機、第二に高速鉄道、そして第三に高速道路での移動だろう。
たかが三世代や二世代ほどの時間経過で、その時代ならありえない距離をありえない速さで移動してしまう。しかも、安全に、安価で。

距離あたりのコストで、遠距離ほど安いのは飛行機だ。
つぎに、高速道路。
あんがい、高速鉄道は高くつく。
総エネルギー・コストと比例しているのである。

鉄道が安全に走れるのは、線路があるからで、その線路の敷設や保線に必要な総エネルギーが他の手段にくらべて、膨大だからである。
走っているとき「だけ」でみてはいけないのは、電気自動車も水素自動車もおなじである。

そんなわけで、高速道路すら利用しないで、一般国道や生活道路をつかうと、自動車の移動はあんがい安くかんじる。
走っているとき「だけ」でみると、ガソリン代しかかからないからである。

「経済」をかんがえるとき、やっぱりすこし前なら単純な「効率」しか考慮しなかった。
だから、高速道路をつかうコストと時間コストを比較して、そのひとの「時給」をあてれば、目的地まで高速代を負担しても「合理的」であるという「解答」がえられた。

しかし、じっさいに事故が発生したり、自然渋滞があったら、高速道路の意味がなくなることもある。
一般道と「どっちが得か」をかんがえるのは、けっこうな難題だった。

これに、「ゆっくり旅」でその土地の雰囲気を味わいたいという価値観がくわわると、「経済」として答えもぜんぜんちがってしまう。
そんなわけで、経済のかんがえ方は、いまでも数式が重視されてはいるものの、じつは「人間行動」を「心理」からみないとわからなくなったのである。

わが国の、経済学部への入学試験にやっとこさ「数学」をくわえる学校が出てきたが、現実は数式から「人文学」の世界に重心がうつっている。
もちろん、数学的な考察を全否定したいのではないけれど、だ。

人混みにわざわざ行くのはいけないのは、自分のためなので、疎開といっても集団ではなく、家内と二人でである。
他人と濃厚接触しないためには、やっぱり自動車での移動がのぞましい。

ふだんから山梨のお気に入りの温泉に行くものの、この温泉には宿泊施設がない。
それで、いわゆる「温泉旅館」に、久しぶりに夫婦で泊まることになったのである。

「疎開」といっても三・四泊しかしない短期だが、これまではおなじ宿に連泊するのはたいがいが二泊までだったから、今回は「長め」である。
それで、「素泊まり」というプランにした。

場所は、石和温泉である。
いつもは温泉街を避けていたから、よくかんがえると、石和温泉の旅館に泊まるのも温泉に入るのもはじめてであった。

昭和36年に一面田んぼのこの地に温泉が出た。
高度成長期にあいまって、一大発展したのが「石和」である。
バブル期には、東京の奥座敷ともいわれたし、そのお色気路線で、社内旅行で石和といえば、留守にする奥方がいぶかったものである。

いまはすっかり住宅街に囲まれて、駅前には全国的大型ショッピングセンターが横たわっているから、東京の郊外にやってきた感じがする。
温泉ホテルは、マンションや住宅地域のなかにあるという感じだ。

石和温泉は、丹沢島が500万年前に本州と衝突してできた、丹沢山地と、これにつらなる「シワ」にあたる秩父の裏側に流れる笛吹川の地下にある熱水帯の最南端だ。
よって、表丹沢の神奈川県厚木市にある飯山温泉と七沢温泉とは、本州最深部でつながっている。

それが証拠に、どちらも、わが国では希少な「アルカリ性単純泉」が湧出しているのである。
わが国で大多数の火山を熱源とする温泉なら、「酸性」を示すことになるからである。

気の毒なことに、宿はガラガラで、閑散としているのは駐車場をみればわかる。
日が落ちる前に温泉に浸かり、颯爽と街に出たものの、こちらも閑散としていて、ようやく一軒の居酒屋をみつけた。

戸を開けるなり、「お食事ですか?」というので「呑みです」とこたえたが、店内に客はいなかった。
主人は「もう閉めようかとおもった」というが、せっかく遠くから来なさったならと、あんがい気さくなのである。

はなせば、ご親戚はみな横浜で、しかもわが実家の近所であった。
奇遇とはこのことで、桃の花の見所は今週まで、それから花の間引き作業がはじまると説明をうけた。
桃の実がほしい人間の生活がある。

なんだ、石和温泉、いいじゃないか。
そうこうしていたら、家内が会社から出勤の要請をうけた。
ただの一泊での帰宅になった。
宿は気持ちよく残りのキャンセルに応じてくれた。

これで、次回の山梨も、石和になること確実なのである。

「押し売り」を役所がする

「なんでもあり」のようなふりをして、じつは肝心の「特効薬」を使わせず「備蓄」したり、外国に無償でくばるという「愚挙」ばかりをかさねる日本政府という「ならず者集団」が、こんどはありあまる予算をつかって、「押し売り」をはじめる。

いま、「観光需要の喚起」とはなにか?
この新型コロナウイルス禍という「事態」が、収束したら観光需要の喚起を盛り込んだ1兆円の補正予算を組むという。

ということは?

年度内に「収束する」と、「決めた」のだ。
誰が?
官僚たちである。
その根拠は?
「治験」がおわるからである。

すなわち、「治験」なぞ、どうでもいいのだ。
いわば、「安全」なふりができれば、あとは「解禁」するだけだ。
その間に、不運にも亡くなってしまう国民がいるのは「仕方がない」ことにする。
どうせ、自分たちのことではない。

それで、製薬会社に命令して、製造を開始させ、できたら「在庫」を全国の医療機関にくばれるように準備させておけば、だれからも文句はいわれない。

アメリカだったら、死亡したひとの遺族や、感染者から訴えられるところだが、日本人はそんなことをしないように教育しているから大丈夫だし、もしもの訴訟があっても裁判所だっておさえてあるから、めったに政府敗訴の判決などでやしない。

一審でとち狂った判決がでたところで、最高裁までやればいい。
それで、損をするのは原告だということがわかればそれでいい。
この間、役所の担当者は異動で替わって、だれもが他人事になるように人事する。

そんなわけで、収束「したら」半年間、「国内」旅行の代金を半額政府が面倒をみるという。
これに、土産物とかのクーポンもつけるというから、念がはいっている。

これぞ「観光立国」というのだろう。

これが、「政策」か?

前提になるのは「収束」であるから、だれかが「収束宣言」をださないといけない。
「緊急事態宣言」がでることを前提としているのである。
これで急いでインフルエンザ対策法を改正した意味がある。

つまり、総理は、こんな補正予算通過のために「宣言」をださないといけない立場に追いこまれたのだ。
「雪隠詰め」である。
行政権が立法権を支配する。自民党が阿呆の集団にみえる。

こんな状況下だから、観光関連の各企業は暇である。
それで、政府に頼むと給料を保障してくれるから、従業員を強制的に休ませることにした。

通常なら、このときばかりの「研修」など、ふだんの忙しさでできない教育を実施するチャンスなのだが、なにしろひとが集まってはいけない。

ふえる感染者を、宿泊産業に振ることを厚生労働省が都道府県にお達しした。
宿泊産業には、事業免許が二種類ある。
ひとつは、「旅館業法」により、ひとつは、「風営法」による。

いまは、風営法の宿泊事業は、新規に免許をださないから、もっぱら旅館業法の宿泊事業者が大多数となっている。
旅館業法の管轄は、厚生労働省で、窓口は地元の保健所だ。
風営法の管轄は、公安委員会で、窓口は地元の警察署である。

その旅館業法には、宿泊事業者がお客を拒否できる少ない例に「伝染病の感染者」がある。
宿のフロントで、宿泊者名簿に住所と名前を書かされるのは、もしもの「感染源追跡」の意味がある。

この規定はそのままだから、はたして通達の意味は何か?

宿泊事業者に、法を管轄する役所が、暗に命じているのである。
「拒否するなよ」と。

クラクラする事態である。

そして、研修といえば、復活のための準備期間として、激減している外国人旅行者を再び呼び込めるよう、宿泊施設などに「通訳案内士」を講師として派遣して、外国人旅行者の接客方法などをアドバイスするのだと。

いわくつきの「通訳案内士」資格だと前に書いた。
国家資格でありながら、無資格であろうがだれでも料金をとれるようにしたからだ。

ここで、資格保持者にわびを入れるのかなんなのか?
借りを返すような施策をやる。
どんな「需要」が宿泊産業にあるのか?ではないことが重要なのだ。
役人の都合が先だからだ。

こういうのをふつう、「押し売り」といった。
「需要」があろうがなかろうが関係ない。
それでも「予算」がつけばそれでいい。
「ただ」なんだから、講師を受け入れろといえば、なんだか「拒否」できない。

感染者は拒否できても、役所の意向は拒否できない。
それで、どちらも受け入れるしかないとかんがえる「常識」がある。

むしろ、一回見捨てられた、「通訳案内士」が、これを「拒否」したらどうなのか?
また、宿泊産業の経営者たちも、こんなアドバイスではなくて、経営にまつわるアドバイスがほしいといわないのか?

もしや、経営にまつわるアドバイスはどんなものか?をしらないかもしれない、という「まさか」まで、コロナウィルスがあぶり出している。

正義の密告サイト

新型コロナウイルスの感染で世間が意気消沈するなか、4月1日に施行された「改正健康増進法」もその怪しさを「ひそめて」いる。

「公益社団法人」という姿で活動している、「禁煙ファシズム団体」がある。
かつてわたしは、喫煙者であったことは何度か表明している。
いまはすっかり「愛煙家」から卒業したが、なんであれ「ファシズム」はいただけない。

そんなわけで、「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」という組織の存在が、気持ち悪くて仕方がない。
これは、「正義」をかんがえさせる問題なので、別の意見があるのを承知で書いておこうかとおもう。

そもそも、公益社団法人という法人格をもった団体である。
「公益」というのは、不特定かつ多数者(=一般人)の利益をさす。
「社団」というのは、非営利団体という意味で、もし活動から利益が出たばあいには、活動の継続資金か内部留保にしかできないので、ふつうの会社のように、給料とは別に利益を従業員に分配してもいけないというしばりがある。

設立には、二段階あって、まずは「一般社団法人」をつくり、その後に「公益認定」を申請し、これが通らないとなれない。
申請先は二つあって、内閣総理大臣または都道府県である。

このあたり、不動産業や建設業の許可申請に似ている。
つまり、複数の都道府県にまたがって事務所があったり活動をするばあいや、国の事務などに関係して政令で定めるならば、大臣への申請となり、それ以外は都道府県という構造になっているからだ。

法的な根拠としては、2008年施行の「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」である。
なので、この法律施行前までは、「一般」と「公益」の区別はなかった。

ならばなぜ区別するようにしたのか?
それは、役人の「天下り問題」として、「公益法人制度改革」という「改革」がおこなわれて、「主務官庁」とか、「許可主義」が廃止されて、「設立」と「認定」をわけることにしたという名分があるからである。

なんだか「姑息」な「改革」なのである。

それでも認定をうけて「公益」になりたいのは、税務上優遇されるからである。

だれかれにでも税務上の優遇をしたくない官庁である財務省がなにかいったのかはしらないが、上の「認定等の法律」には、対象となる事業を23分野として定めている。(「別表」第二条関係を参照)
つまり、わが国における「公益の定義」が「法律」できまっているということだ。

ということで、懸案の「公益社団法人 受動喫煙撲滅機構」は、きっとこの中の、22にある「一般消費者の利益の擁護又は増進を目的とする事業」にあたるのだろう。

そこで、この機構のHPをみてみると、理事長は税理士だった。
やっぱり、優遇を受けるから、税務会計が面倒くさくなるような設計をしていじめる財務省のいやがらせには、優秀な税理士でないと数字がわからなくなるのだろう。

ふたりいる理事には、元神奈川県知事にして当時全国初の受動喫煙防止条例を任期中につくって辞めた、松沢成文参議院議員がいる。
もうひとりは、一日100本を吸っていたというヘビースモーカーだったひとが、環境保護運動家として活動するのに「禁煙」し、すっかり禁煙ファシストに変身したとおもわれる渡辺文学氏である。

HP上では、「事業内容・計画」のトップが、「事業活動方針」となっている。
なかなか「過激」なので、下に冒頭から一部を抜粋する。

『受動喫煙は、誰かが「禁煙」と定めた場所以外は「喫煙は自由」という社会的共通認識を踏まえ、人にタバコを拒否する権利を与えない場の中で日々営まれている。
本社団はこうした現実を直視し、敢えて一切の受動喫煙を撲滅するという強い決意で活動を進める。(以下略)』

「敢えて一切の、、、、、を撲滅する」とは、なかなか勇ましい表現だ。
しかし、気になるのは、前提としての現状認識から「意図的」であることだ。

いまは、「喫煙所」と定めた場所以外は「禁煙」なのである。

中学校の数学でならう「集合」における、「部分集合」のいいかたがまちがっている。
優秀な税理士のはずの理事長が、これをしらないはずがないから「意図的」だといえる。

このHPのユニークな点は、「ニュース・コラム」というタグがたっていて、これをみると、さまざまな記事が紹介されている。
そこで、たとえば東京都なら、「飲食店ステッカー」を表示していない店舗をみつけたら、「通報しましょう」という。

そして、「コメント欄」には、電話による通報ではなくSNSによる通報を求める意見が書き込まれている。

つまり、みんなで「密告」しよう、というのだ。

いったい、どんな社会にしたいのか?
このひとたちは、「受動喫煙」をいいながら、たんに強制的な「禁煙」を要求しているのだ。

なんども紹介するが、下記の『健康帝国ナチス』すら、一部でナチスを肯定している記述がある。それが「禁煙」だ。
はたしてそうか?

「全体主義」は、かならず社会主義者がおこなう。
自由主義者は、これを拒否するのが当然だからだ。

「たかがタバコ」ではないのである。蟻の一穴になりかねない。

改正法ができたから、嫌煙者は喫煙所に近づかなければよい。
それが「潔癖症」を発症すると、全体主義に変換されて、おそろしい社会になってしまうのは、100年前のドイツで経験済みだ。

いま、新型コロナウイルスで、その「潔癖症」を発症していないか?と、冷静な自己チェックがひつようだ。
「社会的『同調圧力』」というのが、全体主義のおそろしさの原動力だからだ。

それがいま、「マスク着用」になって社会現象化していないか?
「敢えて一切の、マスクを着用しない者を撲滅する」と。
ウィルスになんの役にも立たない材質のものはかえって危険だと承知でも、着用しないと会議に出席すらできない。

さては、かくも「危険」な団体が「公益」とは笑止である。
表層の安逸な「制度改革」がなす、失敗のひとつである。
改正法が施行されたので、もうこの組織の存在理由はなくなった。
しかし、「解散」させる仕組みがない。

一直線に「肥大化」するようになっている。