『大地』のバッタがやってくる

「一難去ってまた一難」どころの騒ぎではない。


   

パール・バックの名作、親子三代にわたる大河小説『大地』の映画は、1937年(昭和12年)作の一本だけで、初代の物語が描かれている。アカデミー主演女優賞受賞作品でもある。
バック自身も、生活のために書いたというこの大長編一作しか残していないのが「驚異」でもある。

清朝末期から辛亥革命時の農民一家を描いた作品だ。
印象的に登場するのが、まったくもって理不尽としかいいようのない「バッタの大群」(蝗害:こうがい)である。
歴史上、中国を何度もおそった蝗害の主役は、すべて「トノサマバッタ」であった。

今年、東アフリカで発生したのは、「サバクトビバッタ」という種類で、紅海を渡り、アラビア半島を横断し、いまインドで猛威をふるっている。
アラビア半島からインドへは、サイクロンの風に乗って飛んで移動するというから驚く。

陸上での移動距離は150キロ/日という。
地上のあらゆる植物を食い尽くしながら移動する。
その数、4000億匹と推定されている。
ひろがった面積は神奈川県に匹敵し、総重量は80万トンになる。

一匹はちいさくても、大集団をつくると集団がひとつの生命のようにみえる。

かれらの生態では、湿度と温度がたかまる「雨期」に、さらなる繁殖をして、ざっといまの500倍になるおそれがあるという。
すなわち、200兆匹で総重量は4億トンという予測だ。
むろん殺虫剤は現時点でも役に立たない。

すでに、アフリカで発生してから3世代目から4世代目になっている。

つい最近まで、WHO(世界保健機関)がさんざん話題になってきたが、これからは FAO(国連食糧農業機関)が主役になりそうである。
すでに、警告を発するレベルにあるのは、コロナのせいで調査が遅れ、初動措置ができなかったことも原因だと説明している。

蝗害が自国領土では発生していなくても、エジプトなどではすでに小麦不足が深刻になってきているのは、蝗害のある国からの輸入がとまったからである。
さらに通常なら、東欧の穀倉地帯ルーマニアからの輸入でまかなうものが、EUが先手を打って「域外輸出禁止」にしてしまった。

つまり、食糧生産国(地域)の防衛措置が発せられているのである。

インドでどのくらいの被害になるかは不明だが、すでに世界の穀物相場のなかでもトウモロコシは上昇に転じている。
これから、追って小麦や大麦などが上昇すると予測されている。

今回の蝗害とは地理的に関係のない、ブラジルなどでのコロナ禍が、農業従事者の不足をまねいて、例年よりも収穫が見込めないことも原因だ。
対象はことなるが、わが国でも「梅」が天候不順で発育しないまま、シーズンを迎えてしまった。
今年は、梅干しも梅酒も例年通りとはいかない。

バッタはヒマラヤを越えての移動ができない。
よって、インド亜大陸をどのように移動するのか?が注目される。
集団からはなれて、アフリカに帰る一団もあり、こちらもアフリカで増殖しているから複数の方面作戦が強いられている。

伝染病と似ているのは、バッタ自身の活動による移動にくわえて、人間の移動がこれを助けることがある。
つまり、かつての「ペスト菌」がそうだったように、荷物や貨物と一緒に移動するのである。

パキスタンの港を出て、上海に着いたコンテナ船のコンテナのなかから、サバクトビバッタが発見されている。
日本における「ヒアリ」のようである。
たかが数匹、とはいえないのだ。

もしも、中国に飛び火して「蝗害発生」となったら、日本も含む東アジアでとんでもないことになってしまう。
もちろん、直接被害はなくても、国際穀物相場が他人事をゆるさないし、生産国の輸出禁止という、食糧防衛措置をともなったらただではすまない。

西村寿行『蒼茫の大地 滅ぶ』は、政治サスペンスだが「蝗害」をテーマにした希書である。

 

すなわち、前から懸念されていた、食糧危機がいきなり起きるかもしれない。
いったんパニックとなると、あたりまえの日常が一変し、現代版の「一揆」が出現し中央政府と対峙する。

荒唐無稽、とはいかない。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーの不足、ようやく見かけるようになった紙マスクの不足が証拠だ。
これが「食糧」となったら、どうなるものか?
「配給制」が頭に浮かぶ。

それに、コロナ禍でだれかがいいはじめた「新しい日常」とか「新しい生活様式」なるものとはなにか?
中央であれ地方自治体であれ、政府という役所が個々人の「生活」のなかに忍び込んできて命じることを、命じられるままに過ごすこと、なのである。

まだやっている「営業自粛要請」とは、解除後のいまとなっては「営業妨害」にほかならない。
営業時間の短縮だって、はたしてなんの意味があるものか?
無症状のひとにも着用せよという、ペラペラのマスクの効能は無意味としっていても、社会的同調圧力がそうさせる。

しかし、その同調圧力を利用しているのが、中央であれ地方であれ「役所」なのである。
責任をとりたくないから、である。
「無責任」こそが、わが国全土・全国民に伝染した「病気」である。

禁煙条例からはじまって、まもなくレジ袋の有料化もはじまる。
ちょっとずつ、しかし確実に「政府の命令」が生活のなかに侵入してくる。

受動喫煙なる反科学・反医学が、医師会という人為が推進する訳は、「諮問委員会・専門家会議」の議事録が最初から書かれていないようないかがわしさとおなじ闇のなかにある。

こんどはバッタが、人間社会のいかがわしさを暴くのだろうか?

東京オリンピックができないとすれば、もしやバッタの方が問題かもしれない。

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