やられたら「やられっぱなし」

人気ドラマ『半沢直樹』の決めゼリフが、「やられたらやり返す。倍返しだ!」だった。

この「幼稚園児」が言いそうな言葉に、当初違和感があったけど、何度も見聞きしていくうちに、「無感覚」になるばかりか、水戸黄門の「印籠」のごとく、どのタイミングで「言うのか」に興味が移った。

つまるところ、視聴者の「幼児化」という策に「まんま」とはまっているわけである。

やられたらやり返す、というのは、難しい言葉にすれば、「意趣返し」である。
これの究極が、「仇討ち」ということになる。

世の中が「単純」で「素朴」であったけど発展していた江戸時代には、「仇討ち」も高度化して、「許可証」の有無が、犯罪と正義の境界線になっていた。
つまり、「私怨」は「法」として許されず、「公(おおやけ)」の仇討ちこそが「名誉」となったのである。

もちろん、「公・私」に関係なく、相手によって「返り討ち」されることだってある。
それでも、「仇討ち」を実行して死んだということの「名誉」は残った。

この「名誉」の価値が、「家(名)」の価値だったのである。
個人は連綿と続く組織としての「家」に属するので、「家名を穢す」ことは許されない、という「制約」がもっとも身近なものであった。
なお、「けがす」が、「汚す」でなくて「穢す」なのは、「神仏に対して」も含むからである。

封建制の世の中が「単純」だったことの理由のひとつに、「身分社会」という常識があった。
人々は、自分が属する「身分」の中で生きていたので、他の身分の出来事はある程度無視できた。

これが「単純」な社会を作ったのである。
だから、身分が取り払われると、社会は必然的に複雑化する。

そして、身分社会では「ない」のに、持てる者と持たざる者の「差」ができて、持てる者が持たざる者を支配するということが「暗然と」行われれば、その複雑性が内向きにもっと増すのである。

この意味で、共産主義は、持たざる者の政府になるという「複雑」が、一方で「かつての」持てる者を「排除」しながら、持たざる者の内輪における「複雑」も増させるのである。

メカニズムとして、共産主義は思想「だけ」ではないからである。
一般的に、「マルクス・レーニン主義」と言われる理由がこのことを指すのだけれど、一般人は用語としてだけを聞いていて中身をしらないものだ。

思想は、「マルクス主義」のことをいう。
そして、重要なのが「組織化して革命を実行する」方法を「レーニン主義」というのだ。
この「方法」が、「まずい」のである。

レーニンは、「革命のため」という理由があれば、「なにをしても正当化できる」という無茶苦茶を「理論立てた」のだ。
この「なにをしてもいい」には、殺人も含まれる。
「生きている人」も「物」として考えるのが、「唯物論」なのである。

そんなわけだから、政治権力「すら」持たざる者は、完全に支配される身分に「固定される」のは、その世代だけのことではない。
政治権力を持つものは、必ず自分の一族を優先させて「固定化させる」から、ポストを独占するのも必然なのである。

こうして、支配される者は、やられたらやられっぱなし、という身分に永遠にとどまる。
全員が平等の共産社会に、「格差」がないとは、支配される者の階層のこと「だけ」をいうのである。

無論、支配する側には、権力闘争という別次元がある。

これに比べたら、民主主義の方は、ずっと「流動的」だ。
このことが、たとえ表向きであっても身分制がない社会の場合に、民主主義に代わる「ベター」な制度が見つからない理由であるし、旧東側諸国のひとたちが、「反共」で一致する理由でもある。

やっぱり、やられたらやり返す、という可能性を排除していないことに「魅力がある」からだろう。

さて、スエーデンという小国で、この国を代表する大手新聞社が、「反省」の大見出しを掲げた記事を出して話題になっている。

この2年間、自社の「コロナ報道」について、政府発表の数字や対策「しか」書いてこず、新聞として「政府に批判的な情報」を読者に提供しなかった、ことへの「反省」だという。

それは、政府が発表する「感染者数」の「根拠」とか、「対応策」の第三者的立場(たとえば「科学」)からの「妥当性」とかという、生活密着の「重要情報」であるから、これを読者に提供しなかった、ことの「反省」に読者が驚いているという。

もちろん、もっと驚いているのは「政府」であるけれど、「プロパガンダ機関ではない」という新聞社としての歴史的宣言となっている。

さては、「なにを今更」という「国内読者」からの意見に対して、各国からのコメントが寄せられていて、それぞれの国の「ダメさ加減」大会になりつつも、「ニューヨークタイムズよりはマシ」という意見で締め括られている。

きっとニューヨークタイムズの読者が投稿した、「意趣返し」に違いないけど、世界中に「いいね!」という輪が広がっているのに、ニューヨークタイムズは「沈黙」するしかないという体たらくを、これまた世界に示しているのであった。

日本語の特異性から、日本の新聞社が「やり玉に挙がらない」のは、「ローカル」の証拠で、それだけでも「意趣返し」にはなるかもしれない。

果たして、ニューヨークタイムズの発行部数の「倍返し」になっている。

プラスチック文明を破壊する

大不評の「レジ袋有料化」は、国民に負担を「強いる」ものなのに、「法律」がないままで行なわれていた。

役人が勝手に決める、「省令」を変える「だけ」で実施されたのだ。

もちろん、「省」のトップは「大臣」で、その下には「副大臣」とか、「政務官」とかいう「国会議員」がいるけれど、首相の意向で大臣を民間から呼ぶこともある。
ましてや、「国会議員」が就く役職だからといって、それ「だけ」で、国会の承認を得る、ということにはならない。

つまるところ、「省令」でレジ袋有料化ができるのは、「国会」が機能していない証拠なのである。
国会が決めるべき事を、役人に強奪された、と考えるのが民主主義のルールとして「ふつう」だからだ。

そんなわけで、昨年6月4日に、「プラスチック資源循環促進法」が成立した。
一種の「追認法」であるから、「追認」と後ろ指をさされることがないように、「屋上屋を架す」がごとく、「対象範囲を拡大」した。

そもそもが、2020年(延期になった21年ではない)の「東京オリンピック」に、外国人が「大挙して」やってくると勝手に考えたことでの先進国としての「見栄」が、レジ袋有料化の話の発端だった。
発想が「韓国風」な貧弱があるのは、こうした発想を、ほんとうは日本が大好きな韓国が真似るからである。

嫌い嫌いも好きのうち。

それにこの考えが、最初からヘンなのは、コロナでなくとも、外国人観戦者が大挙してやってくる訳がない、ということだ。

オリンピック「観戦チケット」の外国人販売「枠」が、そんなにあるはずがないからである。

もちろん、「地球環境のため」とかという世迷い言に欺されてはいけないのだけれども、知能が低い「保守派」は、あんがいとコロッと欺される。
要は、「お人好し」ということなのだ。

このことを、「利用されている」ことにも気づかない。

地球環境が人間によって破壊されている、と言っている人間がいる。
このひとたちの、人間性を疑うのは、「正義を押しつけるのに容赦がない」ことだ。
これは、「フランス革命」時の、一般人をギロチン台へ送り込んだ論理とおなじことに気づかないといけない。

そしてそれが、「恐怖」を生んで、社会全体を支配することを目論む独裁者に利用された。
ヒトラーしかり、スターリンしかり、毛沢東しかりで、カンボジアの「クメールルージュ(ポルポト派)」になったのである。

「プラスチック」のことを、日本語で「樹脂」というのは、石油から作られるからである。資源としての石油の重要性は、「原材料」になることで、ただの「燃料エネルギー」ではないことにある。
石油や石炭などの天然エネルギー資源は、太古のむかしの「植物」だったから、その「樹」の「脂」ということだ。

最近になって、エネルギー危機が逼迫したという「苦し紛れ」で、ヨーロッパは「原子力」も再生可能エネルギーに「加え」て、これも「SDGs」だと真顔で定義して決めた。

要は、どうでもいい、のである。

それで当然ながら、放射性物質の危険(ウラン濃縮、発電中、廃棄物処理とえらく長い期間:10万年を要する保管)という方向からの「環境問題」をいうひとたちが「納得しない」ということになって、「分断」を深めている。

「天然ウラン」も、そのままでは「燃料」にならないので「濃縮」するし、発電中の危険はフクシマで明らかになった。
廃棄物については、これから10万年もして人類が科学技術を「進歩」させたら、「うまい方法」をみつけるだろうという可能性に依存している。

なんでそんなに時間がかかるのか?といえば、放射能の半減期間を「人為」で速めるなり、放射線を無害化する「原理」が、当分の間(おそらく向こう10万年ぐらい)みつからないだろう、という「予測」があるからだ。

『宇宙戦艦ヤマト』の、イスカンダルなる惑星に、「ワープ航法」を繰り返しながら、放射能除去装置を受け取りに行くことの方が「現実的」かもしれない、という程の、「厄介」なのである。

はたして「それに比べたら」、プラスチック問題とは、ちゃんと「ゴミ箱に捨てる」ということと、しっかり「燃やす」ことで解決する。
「無害」が証明された、ダイオキシンを気にするのは、マスコミ「洗脳」されている証拠なので気をつけたい。

横浜市資源循環局(むかしは「清掃局」といった)は、「燃やすゴミ」と「プラごみ」を、市民にしっかり分けさせていて、燃やすゴミの主たる「生ゴミ」を燃やすために、A重油や都市ガスなどの「資源」を使って燃やしていて、決して「プラごみ」を一緒にして燃やさないことを「自慢」するから、工場見学の小学生が「?」になって、おとなを信じるとロクなことにならないという教育効果をあげる、「世代間分断」の促進に貢献している。

「ダイオキシン問題」がかまびすしいときに、市内のゴミ焼却炉を億円単位で改修して、プラスチックからの有害ガスを発生させない高温燃焼に対応したという説明もしている、のに、であるから、ちゃんと係の話を聞いている小学生ほど、「?」になるのである。

しかしながら、そうはいっても、「法律」ができて、14日、岸田内閣は対象品目などを閣議決定した。
まさに、国民生活を痛めつける、国会と内閣の共同作業が4月1日からはじまる。

レジ袋の関連からか、「コンビニ」のストローやスプーン・フォークの話が多いけど、ホテルの「アメニティ」や、クリーニング店のハンガーとか、引き渡し時のビニールカバーといった、生活密着への「嫌がらせ」がスタートする。

ホテルなどの「アメニティ」に注目すると、「世界標準」は、せいぜい「シャンプー」と「リンス」ぐらいしか部屋にない。
これは、「エイズ」が流行したことでできた「業界標準」だ。
歯ブラシやカミソリは、「自分のもの」を持ち歩く、というのが「世界標準」の旅行者の常識になったことを「受けて」のことだ。

この常識が「ない」のが、わが国の「業界」である。
それは、日本人「客」にエイズ対策の常識がない、という「幸せな」意味であった。

だが、歯ぐきから出血する歯ブラシや肌が切れるカミソリであっても、「無料」を魅力として、それが競争力に変化する、「貧困な思想」がこれを支えていることが「なくならない」ことが大きな理由だ。

提供側は、とにかくコストを削減したいから、どんどんシャビーになるのだけれど、「手ぶら」同様で旅行ができることに「便利さ」を感じるひともいる。

そんなわけで、日本の宿泊施設からアメニティが消える、という世界標準は、30年遅れの「別次元」が理由となって達成されることになりそうだ。

なにせ、「有料ならいらない」という客のこたえが、これまでの「貧困な品質」を証明するからである。
とすれば、どうやっていまの「在庫」を3月末までに消化するか?が、直近の経営課題になるのであった。

まさか、従業員に配ってしまって「プラゴミ」削減をするかもしれない。

持続不可能なサスティナブル旅行

世の中に「ダブル・スタンダード(二重思考)」がはびこってきた。

これは、『1984年』を書いた、ジョージ・オーウェルが、全体主義の典型的思考方法として、作品内でたくさんの「事例」でもって説明してくれている。

たとえば、「戦争は平和だ」とか、「うそ」しか国民に伝えない役所(放送局)を「真理省」というとか。

しかし、いつの間にか「政府そのもの」(その集合体である「国連」も)が、「真理省」になったので、ほぼすべての「政府発表」(国際機関)が「うそ」だという世の中になってしまったのである。

つい先頃では、コロナに関する受験生の差別的決定をした文部科学省に、「苦情が殺到した」ことを根拠として、「首相」が再検討を命じる、というどちらに転んでもガッカリするような体たらくを演じた。
これぞ「ポピュリズム」ではないか。

ぜんぜん民主主義ではない。

むかしの自民党なら、文科大臣をすぐさま更迭して、ついでに事務次官が責任をとって辞任するという「けじめ」をしたはずだ。
日米首脳共同声明の「同盟関係」という言葉に「軍事的意味はない」と言った鈴木善幸首相を護るために、伊東正義外務大臣が辞任表明したら、高島益郎次官も辞表を出したのだった。

それでもって、ふつうは駐米大使になるものを、責任があるからと「駐ソ大使」になったのである。
おそらく、ソ連側がドキッとするほど「嫌」だったにちがいない。
このひとは、日中国交正常化交渉において、周恩来から名指しで「法匪(法の虫)」と罵られたことを、外交官の「勲章」に解した英傑である。

最後の「職業外交官」といわれたのは、本人には名誉ではなくて後続がいない、という意味では心が折れんばかりの苦悩もあったろう。
いまは、ただの「外務官僚」に墜ちて、復活のきざしもないのは「平均化」の悪い面がでているからだ。

彼の赴任で、当時のソ連駐在は「ツートップ」という、わが国には偶然にも国益に合致する人事となった。
ナンバー2の、特命全権公使は、将来の皇后陛下の御尊父で、「二枚刃」といわれた小和田恆氏であった。

ちなみに、この時期にモスクワの日本大使館は、「建て替え」という一大事をやっている。
これが、「一大事」なのは、盗聴装置の設置についての「覚悟」ということである。

「文科行政」という範疇でいえば、まったくこの「事例」にあてはまるほどの「不祥事」であるのに、けじめもとれない政府を運営している自民党の腐り方が半端じゃないのだ。
首相ひとりが単独で腐っているのではない。

その「腐敗」の原因と結果が、「社会主義」なのである。

社会主義とは、国家(地方も含む)が集めた国富(税以外の国民負担も:たとえば公的年金とか公的健康保険、あるいは赤い羽根募金なども)を、国家が「再配分」する制度を、ほとんどすべての分野で行う「主義」のことをいう。

放送や出版物で、わが国の体制を「社会主義」と断定すると、さまざまな軋轢を生むので、これを回避するために、「社会主義的」といって「的」をつけておとなはごまかすけれど、要は「社会主義」といいたいだけなのだ。

それで、「観光」という分野にも「業界」があるから、「すべての業界を支配する」社会主義政府は、かならず「業界向けの予算」をつくって、集めた「国富」を分配するのである。

だから、受け取りに徹する「業界企業」は、その予算の意図に応じた事業をしないと「お貰い」ができないので、自社事業の位置づけさえも変更して、とにかく「乞食」になることを率先して目指すようになるのである。

貨幣経済が発展すると、カネの亡者になるひとが出てくるけれど、こうしたひととの付き合いは、かならず「カネの切れ目が縁の切れ目」になるものだ。

だから、予算が尽きない限り「絶対安心」の「カネ蔓」となる。
社会主義のもっともまずいことは、「絶対安心」だから、事実上「国家と心中」するという覚悟がいるのだけれども、国家の存在はあたかも「永遠」に見えるので、「絶対安心」だけが先行する。

そうやって、民間企業の経営が「腐る」のである。
だれが社長をやっても、「絶対安心」なので、独自に考えることをやめる。
むしろ、余計なことはしない方が「得」だから、社員にも考えることを「禁止」するのだ。

この「行動原理」が作動すると、その企業は「ゾンビ化した」といえる。

しかし、ゾンビは自己評価として、自分がゾンビだと認識できないから、どんどん「増殖」して、とうとう国富を食い尽くすのである。
それが、「ソ連崩壊」という歴史事実の隠しきれないストーリーなのである。

そんなわけで、「観光庁」の来年度予算が決まった。

1本だと誰にでもわかってしまうので、わからないように「複雑」な建て付けにするのが、「撫育資金」をはじまりとする「萩藩」伝統のやり口で、国会に報告義務がないという、摩訶不思議な「特別会計」はもとより、とうとう「一般会計」にもこの手法を導入した。

「一般財源」は、141億円、「観光旅客税財源」は、81億円。
あわせても、たったの222億円だけど、「コロナ対策新・GoTo予算」は、1兆3240億円で、さらに経済対策関連予算で1200億円がくっつく。

これに加えて、「観光産業の付加価値向上支援」なる怪奇なバラマキで、5.5億円、「ポストコロナのコンテンツ形成支援」で5億円、「持続可能な観光モデル事業」に1.5億円があるのだ。

カネの切れ目が縁の切れ目を、「持続可能」というのは、日本語としてもいただけない。

安くなるからと喜々として自分が払った税金の「戻り」を期待する、乞食のようにされた国民が、シロアリのごとくに日本国を食い始めたのである。
都会人の自分が居住している「ふるさと」の税収を破壊する、「ふるさと納税」も同じだ。

これも、邪悪な日本政府が仕向けて、国民の奴隷化を図っていることだ。

ドン・キホーテの快挙

「安売りの殿堂」を自称する「ドン・キホーテ」が、かねてから「期待」されていた、チューナーのないテレビを発売して話題になっている。
フルHD42型で、税込み32,780円、同24型で21,780円だ。

この商品は、「テレビ」とはいうけれど、「チューナーがない」から、いわゆる「テレビ放送」を視聴することはできない。
つまり、放送法による「受信設備」にあたらない。
したがって、受信料を支払う義務がない。

この件については、最高裁判所の「判決内容」を含めて、おおいに議論すべきところだけれど、相変わらず「国会」が寝たふりをしていたら、そのまま「死んでいた」という、爆笑王のひとり、三波伸介氏の最期状態なので、手に負えない。

もちろん、かつてはテレビ製造で世界を席巻したわが国電器業界も、相変わらず「大赤字」をたれ流しながら、テレビを製造していて、決して「チューナー」を外さない。
これは、いまだに止まらない惰性で、「テレビ事業部」のひとが社内昇格して役員を輩出しているからであろう。

これを、わたしは、「慣性の法則」と呼んでいる。

ところが、すっかり「パネル」すら国産は衰退し、外国製のものが主流となったし、国内電器メーカー製だといっても、「MEDE IN ◯◯」と書いてあって、どこにも「JAPAN」の文字はない。

アメリカ人が、どこの国製のものであろうが、「いいものはいい」といって、日本製のテレビを買って品質に劣るアメリカ製のテレビを買わなかったけど、日本の「慣性の法則」は、アメリカ人のような「割り切り」ができないから、表看板の「日本メーカー製」にだけ拘っている。

なんだか、頭隠して尻隠さず、の状態なのである。

そこで登場した、販売店側がメーカーに製造依頼してものづくりをはじめる、という、「流通革命」をやった70年代の「ダイエー」のようなことを、ドン・キホーテがやったのだ。

しかしてダイエーがやったのは、とにかく「安く」て「そこそこ」の品質のものだったから、製造企業に「新しい価格競争」をもたらして、それがまた、ブランドがある製造企業に「多機能化」という方向をもって「高単価」とする対抗策をもたらした。

今回は、日本国内の工場だったら、いろんな「しがらみ」があってできないものを、外国のメーカーに依頼して実現した。
すると、「第二次流通革命」といえないか?

「チューナーなしテレビ」は、「安く」て「そこそこ」の品質だから「同じ」だということではない。
放送局やらとの「利権」という「しがらみ」を、「突破」してしまったのだ。

つまり、日本「社会の仕組み」に対する、正面からの「提案」となっているところが「新しい」のである。

これが、「デジタル」による破壊力なのである。

さてそれで、この「テレビ」を視聴するには、「ネット接続」という絶対条件が必要だ。
すなわち、ネット回線がない家庭には無用の「家具」となる。
逆に、ネット環境がある家庭なら、「買い替え需要」はあるにちがいない。

ちなみに、受信料契約を解約するには、受像機の「廃棄」を証する、家電リサイクル法に則った、廃棄券購入(郵便局で販売という「郵政行政利権」もある)の領収書を添付する。

その前に、地元放送局に解約書の送付を依頼するのだけれど、あっさりと、ワンセグ放送を受信できる携帯電話やカーナビを持っているかを質問される。

これに、「ある」と答えると、「解約できない旨」の丁寧な説明をしてもらえる。

このことに気づいたかどうかは知らないけれど、かなり流行して「多機能」の「余計な機能」にあった、ワンセグ放送を受信できる携帯電話とかカーナビが、もはや「見あたらない」ほどに販売されていない。
欲しくても売っていないのだ。

「大数の法則」というのは、「確率論」の話になるけど、きっと「欲しくない」というひとが多数になって、メーカーも「機能削除」しないと売れないということに気づいたのだろう。
この意味で、「多機能化」一直線だった話が、「曲がった」のだった。

10代の若者がテレビ放送をほとんど観ない、という現象が定着してニュースにもならなくなった。
テレビを視聴しているのは、「団塊の世代」(1947年~49年生まれ)とこれに近い高齢者層になった。

すると、あと10年もすれば「平均寿命」に達するから、テレビ放送は視聴者の「最大層」を失うことが確実となっている。
これは同時に、「選挙に行く層」でもあるから、テレビによる「洗脳」という手法も、いよいよ「終わり」が近づいていることを意味している。

その「焦り」が、むきだしの「偏向報道」なのだとすれば、これがテレビ離れのスパイラルを形成するので、「自滅の道」一直線となっている。
そこに、ドン・キホーテが着目して、「新発売」を決定しただろうから、なかなかの「マーケティング巧者」だといえるのである。

次のステージは、どんな業者が「追随」するのか?という興味に移る。
妥当なところでは、家電量販店になるのだろうけど、既存テレビ販売との「葛藤」が社内で激論を呼んでいることだろう。

それはそれで、テレビ販売の専門家(プロ)達の抵抗という、メーカー内と同じ構造の再現になっているのかもしれない。

結局、消費者が、「買う」か「買わない」かを決めることになっている。
そこに、宿泊業や賃貸住宅のオーナーサイドが「参戦」することもあるだろう。

ホテル・旅館の客室にテレビを設置する価値がどれほどあるのか?
独居世帯の賃貸住宅で、若い世代はパソコンを所持しないけど、ネット動画は観たいものだ。
ならば、オーナーが設置するエアコンのように、新規入居時にチューナーなしテレビのオーナー設置(あるいは寄贈)もあっていい。

攻防戦は、はじまったばかりなのである。

文科省にいる閑人の迷惑行為

受験生や受験生を持つ親にはショックだろうけど、命じられた大学当局も教授陣もショックだろう。

25日、オミクロン株感染者の「濃厚接触者」たる受験生は、大学受験を認めず、別途「追試」をしろと文科省が「命じた」と報道された。

この役所の名前から、即刻「科学」を取り上げて、二度と名乗ってはならないという「法律」を、新年早々の通常国会で可決するのが、絶対安定多数を単独で勝ち得た自民党の「初仕事」にしないといけない。
ついでに、「設置法」も改正して、省ごと「廃止」が望ましい。

言語道断とはこのことだ。

いったいどこにこんな権限があるものか?
法の拡大解釈を通り越したら、そのまま「憲法違反」に直行である。

受験の「厳密性」が病的な「潔癖主義」にまでなったので、大学側も出題・採点にかかわる教師を「缶詰」にする。
それは、ほんとうに「軟禁状態」におくので、関係者は自宅に帰ることも出来ないばかりか、勝手に外出できないように「施錠」されてしまうのである。

その関係者の多くは、「教授」なのだ。

そして、採点は「学科」ごとに行われるので、「学科長」になりたくない症候群という病もとっくに発病している。
これは企業における、管理職になりたくない症候群とおなじだ。

まさに、「弱いものイジメ」を、国家公務員がやっている。
ならば「大臣」はどうするのか?といえば、国家公務員の言いなりなのである。

どうしてそうなるのか?というと、「党」のトップである幹事長が、役所を優先にして、国会を後回しにすることに「正義」があると信じている御仁だからである。

たとえば、「党」の、総務会長や政調会長、それに外交部会長や外交調査会長が、こぞって進言した「国会決議案」の「決議」を、政府が決めるまでしてはならない、という「タイミング」を指示したことでわかる。

前外務大臣だったこのひとは、むかしアメリカ留学していて、その先がハーバード大学のケネディ・スクールだと、経歴に書いてある。
本当なのか?
にわかに信じがたいのは、三権分立の意味をとうてい解していない発言と行動にある。

まさかさいきん流行の「経歴詐称」ではあるまいかと疑いたくなる。
そんなはずはないから、「忘れた」か「元々知らなかった」かのどちらかで、元々知らなかったならば、留学前の東京大学法学部で教えてもらわなかったからか?

いや、そのもっと前の中学と高校で習ったことを「忘れた」か?
「三権分立」なんて当たり前すぎて、受験にでない、ということが原因なのかもしれない。
だとすると、ものすごく「要領のいい」ひとにちがいない。

なんだか、ご尊顔を拝すると、要領のいい感じがするのである。
でも、うっかり外相会談後の記者会見で、相手のわが国領土を自国領だという問題についての失言に「無反応」で、会見終了後に「謝謝」と言ってしまったのは、要領がいいゆえに、相手の発言を上の空で聞いていなかったからだろう。

すると、「ここ一番」で集中できない性格なのかもしれないし、自分が「偉くなった」ことに、自己陶酔するナルシストなのかもしれない。

そんなわけで、もしも、文部科学大臣が、「撤回せよ」と事務方に命じたら、選挙を司る(=資金を振り分ける)幹事長から、どんな嫌がらせをうけるかしれない。
なにしろ、現職の大臣は、5年前に3回目の当選をした参議院議員なのだ。

つまり、来年の「改選」が待っている。

失敗した「加藤の乱」で知られる、加藤紘一氏が幹事長だったとき、参院のドンは、村上正邦議員会長であったが、意見対立したとき、加藤は幹事長権限にない「会長交代」ではなく、次回選挙での「公認」に難色を示唆してこれ以上の異論を封鎖した。
そして、村上氏の凋落はここからはじまって、最後は「汚職」で収監されるにまでなったのである。

「幹事長」とは、そういう権力をもっている。

だから、オリンピックにまつわる「態度表明の決議」を推進する高市氏やらが、幹事長に一蹴されて、「悔しい」と表明したのは、まったくの「愚策」であり、むしろ「公」の話を「私情」に変えた、彼女の無能を曝露したも同然だ。

相手は、「謝謝」なのである。

まともに正面切って提案したところでどうなるかも予想できずに、あたかも被害者づらするところに、この女性の、正義は我に在りという「狡猾さ」こそ感じるのである。

そんなわけで、組織は有機的結合体だと言われるように、自民党政治の「オワコン」ぶりは深刻で、ありとあらゆる方面で断末魔の「痙攣」が発生している。
参院から鞍替えして、すぐさま新任外務大臣になったひとの選挙区における「不正問題」も同様だ。

そこで、「参政党」が出てきた。
こちらは、トランプ氏落選のゴタゴタが影響して、結党メンバーの分裂があったけど、むしろ発想を「近代政党」に基盤を置くから、ずっと「準備段階」で深く潜行していたものが、ようやく「浮上」したようだ。

来年の参院選に、ずいぶんな候補者を立てると表明した。
全国区に10名、地方区には全区で擁立を目指すというが、資金次第。
その中に、科学者の武田邦彦氏の名前があって驚いた。
レギュラーだった、「虎の門ニュース」も降板となったようだ。

「参議」としてふさわしいし、「上院」とすれば期待がふくらむ。
年末に、明るい希望を表明したのはいいことだ。

さて、受験生は風邪をひいたらいけないのはむかしからだが、PCR検査を受けないことが、閑人達の陰謀を粉砕するもっとも望ましいやり方である。
これに、「受験生プラン」で宿泊させるホテル(厚生労働省管轄)が「加担」しないように祈るばかりである。

キリスト教国化のクリスマス

戦勝国は敗戦国に対して、どこまでの権限が許されるのか?という問題は、敗戦国は「拒否できない」という状況から、「無限大」にエスカレートすることがある。

「国」同士という対等の関係でいえば、「一線を越える」ことは互いのメリットにならないので、やってはならない、という伝統的なヨーロッパでのルールにも抵触する。

なぜならば、狭い地域に多くの国や民族がいるヨーロッパの歴史が、血にまみれたもので、今日の勝者が明日の敗者になりかねない、という切実があったからだった。
それが、「ラグビー」における「ノーサイド」という概念にもなった。

時の権力者が、自分の権力を誇示するために作曲依頼したので、「祝典」としての意味をもつ、ベルディのオペラ『アイーダ』でも、アイーダの父で敗戦し捕虜となったエチオピア王が、自軍兵士達の命乞いに同様の「論」を訴えて熱唱するシーンがある。

ちなみに、この時の権力者とは、オスマン帝国のエジプト総督にして、国内ではムハンマド・アリー朝の5代目君主、イスマーイール・パシャのことである。

そんなわけだから、軍人同士は「明日は我が身」という立場を心得ていたものだけれど、GHQという存在は、これを無視して、敗戦国に対する「過去にない報復」を実行した。
それが、「占領時代」の出来事で、いまに続いているのだった。

だから、わが国は、明治維新で歪んで、敗戦で歪んだのだけれども、「通奏低音」的な伝統もあるから、三重構造で別々の音楽を奏でる「変な」国になっている。
もう偶然でしか「和音」もできない、それが今の状態だ。

アメリカ軍にはない「階級」の元帥を称号としていたマッカーサーは、米軍では「大将」だけど、フィリピン軍からもらった元帥を自称した。
民主主義のアメリカは、軍人をコントロールしないはずはないので、本当の「最高司令官」は、大統領である。

それに、「連合軍」なので、「連合国対日理事会」(米英ソ中の4ヵ国、ただし、「英」には、オーストラリア、ニュージーランド、インドを含むし、「中」とは中華民国で、中華人民共和国はまだ成立していない)があって、マッカーサーの意向から「諮問機関」に降格されたとはいえ、うるさい存在だったのである。

つまるところ、GHQは一枚岩ではぜんぜんなかったけど、内部での「抗争」をマッカーサーが抑えたのを、あたかも「日本のため」という欺瞞で覆い隠すという巧妙さも日本人なら意識しないといけない。
彼の本音は、アメリカの独り占めのためであって、それは大統領を目指す自分のためだった。

上述のように、武人としての「お互い様」を振り捨てて、あらゆる分野で「日本解体」を画策したから、端的にいえばおぞましいほどの国際法違反を実施した、いわば「不法集団」がGHQの真の姿である。

猫が瀕死のネズミをいたぶり殺すようなことを正当化するために、「屁」がつこうが何がつこうが、徹底的に「宣伝」しまくったので、「12歳児」の日本人は、コロッと欺されるひとが続出した。

さまざまな「解体」のなかでの、「宗教」を本稿では扱う。

日本人の宗教観で、もっともいわれている欺瞞は、「無宗教」というナンセンス話である。
じつは、日本人は世界に類をみない「カルト好き」の民族なのだ。

すなわち、自分の役に立つ「神」を信じる、という本質を持っている。
だから、自分に禍をもたらすかもしれない「唯一絶対神」を信仰しない。
この見事な「ご都合主義」は、「先祖崇拝」からやってくる。
いわゆる「背後霊」というやつだ。

両親や祖父母を中心とした、ご先祖様の霊が、自分を護ってくれている。

ここから、全ての「神仏からイエス様」まで、ぜんぶが「自分のため」にあると考えているのが、日本人なのである。
だから、その都度、「効きそうな」場所に行って「祈願」する。
受験なら天神様、安産なら水天宮、葬式仏教もこの延長だ。

こんな日本人をキリスト教徒に改造しようと、まじめに取り組んだのもGHQだ。
その手順の最初に「神道指令」をだした。
これが日本人には「廃仏毀釈」の逆に見えたのである。

それでもって、神棚がある「道場」がある稽古場(アメリカ人には「ジム」)をやめさせようと、剣道などの武道を禁止した。
武道は戦争のためだから、という理由は、GHQの「屁」がつく理屈で、本音は「神道の解体」だったのである。

次の手は、宣教師を大量移入(3000人超)させたし、「物量戦」として、聖書をホテルに無料配布したのである。
このときの「屁」がつく理屈は、自殺を考える宿泊客が聖書を読んで思いとどまるかもしれない、であった。

客室での自殺を迷惑として、この理屈を「真に受けた」ホテル経営者は、積極的に聖書を客室に設置したのである。
それでもって、客室備品のなかでも「自由に持ち去る」ことができるようにもなったのは、十分な在庫を無料で貰えるからである。

アメリカ人は、聖書を読めば、キリスト教に改宗すると信じて疑わず、今日もホテルに聖書があるのだ。
日本人は、論語を1000年読んでも「儒教徒」にはならなかったものを。

そんなわけで、最後の手が、クリスマスだった。
「本場」以上に飾り付けて、街中に聖歌が流れ、ケーキとプレゼントで浮かれるけれど、「何のお祝いか?」を気にする日本人がいないのである。

すべては、自分のため、という原則がなんら変化しない。
それは、マッカーサーが言うとおり、「12歳児」の知能だからか?
いや、それが日本人なのである。

メリークリスマス。

昔の音韻復元の威力

「比較言語学」の成果のことである。
これまで、「文字情報」として「古典」を見ていたものが、「音韻」として耳からの情報になって再現されて、それが一般人のもとにもネットでわかる時代がきている。

とりあえず、「minerva scientia」さんが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年~1814年)の会話部分を「音読」している。
当時の「江戸庶民」の会話が、見事に再現されているのだ。

これをまた、専門家として、「はちあ Hachia」さんが取り上げて、どうして当時の発音がわかるのか?について、言語学的に解説してくれているから、より深くしることができる。

視聴者からの多くのコメントに、「聞いたことがある」、「懐かしい」という書き込みがあるのは、たかが「二か三、多くて四世代前」のひとが実際に話していた「音」の記憶である。

幸か不幸か、こうした「記憶」があるのは、もう還暦近くの世代以上でないといけなくなった。
すなわち、「高度経済成長の最中」が、絶滅の最後にあたると考えられる。
この時点で子供なら、祖父母は明治中期の生まれとなるはずだ。

すると、この時点での子供の親にとっての祖父母は、明治初期の生まれになって、幕末以前の生活を引き摺っていたと容易に想像がつく。
「激動の時代」ではあるけれど、電話もテレビもインターネットもない時代の激動は、いまとはぜんぜん意味がちがう。

少なくとも、こうした片鱗は「現代物」の映画に記録されている。

小津安二郎を代表に、数々の「名作」にある登場人物たちの会話に、ふつうのひとたちの「話し言葉」がそのまま残されている。
映画だから、その会話が、「所作」とともに記録されていて、現代生活の「退化」、「荒廃」がわかるのである。

ついこの間まで言われていた、「はしたない」という注意喚起の言い方だって、すっかりなくなった。
それこそ、「所作」と「言語」が一致していたことの証拠であった。

これらのことをよく考えれば、「滑落」というイメージが湧いてくる。
これを「物理運動」とすると、高いところから低いところへと「墜ちていく」という意味なので、対象が物体ではなくて「文化」であっても、通じるところが注目点になる。

つまり、「高い文化」から墜ちて、「低い文化」になった、ということだ。

すると、幕末から明治初期にわが国を訪れた、「白人」が書き残した数々の「日本絶賛・礼賛」の文章とは、「欧米」という低い文化から見たわが国の高い文化を言っていることがわかる。

ところが、「科学」と「技術」で、だいぶ「遅れ」をとっているということ「だけ」で、わが国の文化全てが「低い文化」だと思いこんだことが、160年の経過と「努力」によって、自ら進んでほんとうに「低い文化」におとしめたのであった。

   

上左は、トロイの遺跡を発見する前のシュリーマンが、幕末の日本を訪れたことを書いていて、「我々(ヨーロッパ人)の知らない文明国」と言っている。
中の上下巻は、英国夫人にして旅行家のイザベラ・バードの旅行記で、右は大森貝塚を発見した米国人モース博士の日本滞在記である。

これらに共通するモチーフは、物質的な話ではない、「日本文化の高さ」なのである。

しかし、我々は努力して、物質的な「豊かさ」を追及するあまり、「拝金主義」という欧米文明の野蛮さを「先進的」と思いこんでしまった。
それでもって、「自己破壊」を続けていたら、とうとう「自分が何者なのか?」が分からなくなってしまったのである。

これぞ、開国以来一貫した、日本人の精神病理となった。

さては時間を巻き戻すことは不可能なので、いかなる手法でこの精神病理を克服するのか?という問題が、将来の日本人の「幸福」あるいは「不幸」を決定的に決めてしまうことになる、と理解できる。

江戸言葉に話を戻すと、幕藩体制という「分散型体制」で、「地方」も独立した国だったから、「お国言葉」という文化遺産もある。
すでに、小学生をして、「お国言葉」の理解が困難になっているから、自分が「遣い手」になるのは、最後のチャンス状態になっている。

しかも、現代の10代は、ほとんどテレビも観ない、ということなので、いまさら地方局は、お国言葉での放送をせよと命じたところで効果は薄い。
ならば、都道府県につくった国立大学の入試における「国語」には、「お国言葉」で出題するようにしたらいかがかとも思うのである。

人間は言葉によって制御される動物だから、「初めに言葉ありき」は正しい。

しかして、バベルの塔建設で神の怒りを買って、言語を乱されたという人類にあって、日本語だけが世界で別系統という不思議もあれば、古代シュメール語との共通をいう説もある。

日本文明発祥の不思議は尽きないけれど、日本文明が尽きようとしている。

当世経営一代女

小嶋(岡田)千鶴子の話である。

「岡田屋呉服店」から「ジャスコ」そして、「イオングループ」を創った伝説のひとは、創業一家六代目の長男、卓也ではなくて、その姉、千鶴子なくしては語れない。

その千鶴子には、『あしあと』、『あしあとⅡ』という著作があるが、どちらもグループ内と取引先など関係者に配布された「非売品」のため、彼女の「評伝」は、『イオンを創った女』を読むしかない。

ただし、中古品サイトやオークションサイトに、ときたま「出品」されている。
売ってしまう、という行動は、この本の価値を理解しないからか、理解してコピーを撮ってから、高額の現金を手にしようという「二度おいしい」を思いついたかのどちらかだろう。

けっこう、いいお値段をつけている。

こないだ「会社は学校なんだよ」を書いたけど、女史はこれを本気で実施した。
そのために、自身が「驚くほどの勉強をした」というのだから、並みの学者では歯が立たないだろう。
なにせ、「実務」として「理論」を活用したのだ。

イオンが驚異的な成長を遂げたのは、「社長」との「棲み分け」をしていたからだという「説明」には、説得力というよりも「納得力」がある。
これぞ、「ナンバー2」の鏡だ。

 

通産官僚から作家になった堺屋太一の出世作は、『油断』(1975年)で、「本物」との関係でいえば実にタイムリーだったけど、これを執筆して発表した時点では、現役の通産官僚だった。
余談だが、大阪万博の担当官でもあった。

それから10年、1985年に出たのが『豊臣秀長-ある補佐役の生涯』である。
第二次オイルショック(1979年)の影響から抜け出せない、「日本以外」の先進国(特に英米)は、スタグフレーションに悩んでいて、「プラザ合意」で円高になった年である。

円高=ドル・ポンド安という意味だ。
それは、円から見てドルの価値が「半減」するという破壊力で、後の「バブル」の遠因となった。

その「変化」の大きさゆえに、当時は、「リストラクチャリング:事業の再構築」がブームになりかけていたから、用語としてもちゃんと「リストラクチャリング」とか、「事業再構築」とかと書いていた。

もちろん、本来の言葉の意味通りの用法なので、日本人に「まじめ」さがまだ残っていたのだが、空前の好景気(あとで「バブル」とわかる)で、すっかり浮かれた「脳」では、もう面倒くさくて、「リストラクチャリング」を正面から取り組む企業経営者が絶えたのだった。

バブル崩壊という宴(うたげ)のあとに残った「無惨」で、無責任を貫くための「窮余の策」が、「人員削減」なのであるが、これに「リストラ」という、「新語」を発明して、すっかり定着してしまった。

このあたり、言語能力として「悪知恵」だけは働いた。

そんなわけで、わが国は、これ以来ずっと、止まらない衰退が続いているのである。
要は、「リストラクチャリング」をしないといけないのに、社名やらの看板をつけかえる程度の「痛み」を「改革」と呼んできた。

だから、『豊臣秀長』の話は、「リストラクチャリング」思考で読まないといけないのである。
織田家という「コングロマリット」における、子会社社長が「秀吉」で、社長の才覚を磨いて実行指揮するのが「ナンバー2」の役割なのである。

それゆえに、「ナンバー2」を失うと、組織が弛む。
わかりやすい企業の例では、「本田技研工業」の、本田宗一郎と藤沢武夫の関係もしかり、なのである。
世界のホンダは、本田宗一郎のワンマン・独裁ではぜんぜんなかった。

すると、この30年間で、わが国企業に「ナンバー2」がいなかった、ということがわかるのである。
もっといえば、ナンバー3にもなれないような人物が、トップになり続けた悲劇だ。

これは、会社が「学校をやめた」から、ともいえるのだ。

ひとは勝手に成長なんてしない。
むしろ、放置すれば退化してしまうものだ。

こういう目から、女史の履歴を確認すれば、60歳で一線から身を引いて、今年105歳になったのだから、45年前のことである。
つまり、「1976年」になるから、『油断』が出た翌年だ。

いま、イオングループがあるのは、女史による社員教育の成果としかいいようがない。
そして、いまは、最後の世代が引退する時期を迎えている。

だから、これからが、「正念場」だということがわかるのである。

拙著シリーズ「新刊」のご案内

本ブログのテーマに付けている、『「おもてなし」依存が会社をダメにする(観光、ホテル、旅館業のための情報産業論)』(文眞堂、2015年)を皮切りに、昨年の『ケースで読み解く デジタル変革時代のツーリズム』(ミネルヴァ書房、2020年)に続いて、本作『人が活躍するツーリズム産業の価値共創』(成山堂書店)が発刊された。

  

「おもてなし」以外は、共著で、その共著者も、日本国際観光学会会長の島川崇神奈川大学教授、一般社団法人サービス連合総研事務局長の神田達哉氏のお二人は共通で、ゲストに「専門家」の「トリ」を依頼するという構成で、本作は、日本旅行から日本大学国際関係学部の矢嶋敏朗准教授にご参加頂いた。

自画自賛すれば、「よくできている」と思うので、ほんの少しでも「社会貢献」ができたと自負している。
それは、「本作」自体のことであるのは当然としても、執筆者としては、自身の中にある「想い」があるものだから、「一連のシリーズ」というイメージで書いている。

だから、やや大仰にいえば、わたしの今のところの「三部作」なのである。

これが、「四部作」とか「五部作」になるかどうかは、今・現在ではわからないけど、とある「実験」を試みる算段をしていて、それが成就すれば、少なくとも「四部作」になる可能性はゼロではない。

このブログの読者なら、もう察しがつくだろうけど、これら「シリーズ」でわたしの一貫しているテーマは、「ひと」と「組織」のことである。
だから、「何部作」になっても、このテーマから外れることはないし、もし外れたら、「違うジャンル」を書いた、という意味になって、このシリーズから離れたということになる。

さてそれで、「新刊」のことである。
執筆陣は、上述した4人で、わたし以外?は皆信頼できる人物だ。
この四人には、とある「共通」があるのは、本作を一読すれば明らかだけど、先にいえば、「業界衰退」の危機感なのである。

宿泊業や旅行業、それに物販をひっくるめた、観光産業のことである。

この「現象」の原因を、わたしは「ひと」と「組織」にあると考えているから、「シリーズ」なのである。
それだから、解決法も、「ひと」と「組織」に注力しないと効果はあがらないと主張する「シリーズ」になっている。

これには重大な「新規条件」が加わってきたので、過去よりも一層のこと「解決困難」になると予想できる。
それが、「人口減少社会の到来」という「条件」なのである。
何度も書くが、平和時に人口が減少するのは、天変地異以外、人類史上で初めてだ、ということを忘れてはならない。

さらに、わたしの「危機感」は、無責任なマスコミがつくりだす「世論」が、あたかも本当の「正解」をいっているように見せて、組織運営をつかさどる幹部の脳を冒す活動が、従来とはちがって「躊躇しない」ことがふつうになったことである。

そして、それが、「学者」にも多大な影響を与えて、「学問の追及」から、「利益の追求」へと、静かにシフトしていることの「恐怖」すら感じざるをえなくなってきた。

これは、「権威の失墜」を意味する。
すると、誰の意見が正しいかを図る、もっとも手軽だった「大先生」の存在が霞むことになるので、いよいよもって「価値相対化」が進行する。
個々人が自分で判断するという、文字どおりをしないといけなくなったのだ。

これは大変面倒なことで、社会的コストがあり得ないほどに高まっている。
こうした状況に疲れたひとたちは、「わかりやすい=安易」に流れる。
そして、それが、「民主主義社会」で「多数」になれば、恐るべき「全体主義」を生みだすのである。

 

これが、「コロナ」という「架空の実験」で、現実になった。
マスクの強要しかり、検温しかり、さらに、ワクチン接種の義務化しかり、だ。

どれもこれも、「効果」なんてない。
病原体としての新型コロナウィルスの存在が確認できていないのだから、このイリュージョンは、PCR検査という「タネ」でコントロールされているだけだ。

しかしながら、「専門家」が、ありもしない専門知識の披露という詐欺行為をやっても、おとがめすらなくなった。
たとえば、無症状のひとが他人に感染させる、ということを証明した学術論文だって、世界で1本もないのに、という事実をどうするのか?

100%の確実を求める一般人とは、リスク管理ではなくて「リスクの完全回避」を要求しているのである。
このことが、「産業」に与える影響は計り知れない「コスト」を要求することになるのである。

たとえば、ホテル建築の安全ばかりか、提供される「食の安全」だって、過去に定めた「基準」だけで議論されない、ということを示唆している。
もっといえば、それが、「SDGs」や「脱炭素」という、驚くべきコスト増を「正義」に転換させる「PCR検査」と同義になるということだ。

では、このコストは誰が負担するのか?
全ての製品は、必ず末端の個人が購入する商品になるのだから、全人類が負担することになる。

実は「新しい搾取」がはじまったのだと、暗に書いたので、本稿は「ネタバレ」ならぬ「ネタばらし」であった。

加工用トマトの闇

2018年4月をもって廃止された法律に「種子法」があった。
農産物とは、わたしたちが口にするものを意味し、農産物のすべては、「タネ」から育てるものなので、食料の根源的な法、という意味がこの法律にはあった。

つまるところ、一般家庭であれ、プロの料理人が調理する食堂やレストランであれ、あるいは、高級ホテルであれ、元をたどって行き着く先には、かならず畑だけでなく、タネがある。

しかしながら、あんがいと話題になるのは「栽培方法」であって、なかなかタネまではいかない。
有機であろうがなんであろうが、「タネ」こそが根源なのである。

日本人が伝統的食べ物だと思ってきた食品には、「遺伝子組み換えではない」ということでの「こだわり」があったけど、2023年の4月1日からは、事実上の表記がなくなることが決まっている。

「消費者庁」が決めたことだ。

もう40年前にもなるベストセラー『選択の自由』(ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン、1980年)には、「消費者を守るものは誰か」と「労働者を守るものは誰か」という章が続いていた。
どちらも、消費者団体でも労働組合でもない、という結論だった。

だから、フリードマン的論理でいえば、消費者庁が消費者を守るものではない、というのは至極当然な結論となる。
これが、「産業優先」という、明治以来の「国是」と重なり、「戦時体制」としての「総動員」が終わらない理由である。

どうして遺伝子組み換え表記が「なくなる」のかといえば、「基準が厳格化される」からである。
現在の基準では、許容範囲を5%以下としているが、これを0%とせよ、ということになった。

なお、対象となるのは、小麦とトウモロコシと大豆「だけ」である。

これらの「穀物」栽培では、遺伝子組換えをした種子を栽培する畑と、そうでないものとの区分が厳密にできていない。
隣接した畑からの花粉が、風とかで交わるからである。
そこで、許容範囲が設定されている。

ちなみに、この手の話ではたいがいが厳密なヨーロッパ基準では、9%と日本より「緩い」ことが意外だ。
さほどに、区分が「困難」ともいえる。
それを、ゼロにせよとは、「無理難題」を消費者庁は言っているのだから、事実上「表示不可能」になるのである。

「コロナ撲滅」という潔癖主義の無理難題と、自然としての「コロナとの共存」という正反対が、「タネ」でもある、ということだ。
病的な潔癖主義が優勢なのは、ふだん「自然は大切」というひとも含まれるご都合主義があるからである。

もちろん、「遺伝子組換え」の方がはるかに原価が安くなるので、今度は一斉に「コスパ」を優先すると役人は予想している。
消費者庁は、暗にそうしろ、と誘導しているのだ。
豆腐も納豆も、遺伝子組み換え大豆が当たり前になる?

買い物の現場での、買い物行動で「所得格差」がわかるようになれば、見栄でも遺伝子組換え原料の食品を買わない、とするのか?
それともみんなが買っているからと、遺伝子型ワクチン接種と同じで、「感覚麻痺」させるのか?の攻防があるのだろう。

「安いが一番」の勝利となるかが、注目される。

さてトマトである。
こちらは、「生食用」と「加工用」に大別される。
加工用トマトは、長細くて皮が固く、水分が少ないから「生」で食べてもおいしくない。ハッキリ書けば「まずい」のだ。

一方で、日本人がイメージする生食用の丸いトマトは、料理用にしたら水っぽくておいしいトマトソースにはならない。
そこで、「缶詰」が重宝される。
この缶詰の中身は、加工用トマトなのだ。

トマトジュースも、トマトピューレも、もちろんトマトケチャップも、缶などの容器にパッケージされているものは、みな加工用トマトの「製品」なのである。
そして、これら加工用トマトは、ほぼ全部が遺伝子組み換えされたタネから育ったものだ。

そのタネは、ケチャップの世界最大手、ハインツの研究者によって作られた。
「濃縮」するために水分のない品種で、煮詰めるための燃料費を節約し、なによりも収穫しやすい、ポロリと取れる「額」の形状にしたのだった。

いまや加工用トマトの産地として、新疆ウイグル自治区は世界第二位となっていて、三倍濃縮された「原料」がヨーロッパ(ほぼイタリア)に輸出されている。

不思議なことにEUは、ヨーロッパ域内で再加工された製品の「原産地表記」を曖昧なままに放置している。
それで、新疆ウイグル自治区からの「輸入品」を、EU域内(ほぼイタリア)で再加工(二倍濃縮:三倍から希釈)したら、これを「イタリア製」としても合法なのである。

ご当地で「合法」だから、これをそのまま日本に持ち込んで「イタリア製」と表記しても文句をいう筋はない。
トマトの缶詰がスーパーで「100円しない」ことの大きな理由がここにある。

いま、新疆ウイグル自治区といえば、話題がありすぎる。
「ナイキ」や「アディダス」がやり玉にあげられて、ユニクロや無印良品にシフトした。

でも実は、「トマト缶」がもっと「やばい」のだ。

「一帯一路」で、ヨーロッパ側の終点になっているイタリアの事情も、トマトでつながる。
二次加工には、東ヨーロッパやアフリカからの(不法)移民が奴隷的労働に従事させられていて、これをマフィアが囲っている。

数百円でおいしいピザ(トマトソース)を食べられるのも、こうした人たちの血と汗の賜なのだった。

さて、「業界」として、スニーカーやアパレルメーカーの他人ごとでは済まない話が出てきたのである。
コロナでは政府に隷従したけれど、トマト缶を使っているなら、どうするのかをいまから考えて、対策をとっておいた方がいい。

トマトが南米からヨーロッパに運ばれたのが16世紀。
地中海地方では「伝統的食材」と思われているけれど、当初は「観賞用」で、「食用」として普及したのは19世紀だ。
たった200年ほどの歴史しかない。

日本では、戦後の「食の洋風化」の時期とおなじに普及したのでせいぜいここ半世紀のことだ。

さりげなく存在するトマトなのではあるけれど。